だが冬真にとって、この勝負に執着はなかった。プロのドライバーでもない自分が「ブラックホール」を走らせるのは、ただ天国の汐への手向けだった。コロナの助手席に腰を下ろした涼は、夕月が「ブラックホール」を見つめて物思いに沈んでいるのに気付いた。「どうした?」夕月は長いまつげを瞬かせた。ヘルメット越しには、その表情を読み取ることはできない。「あの車……好きじゃないの」「へぇ」涼は投げやりな口調で言った。「一位を取れば、橘さんのガレージから三台も選べるんだ。ブラックホールを選んで、スクラップ工場送りにしてやればいい」夕月は思わず笑みを漏らし、覆っていた暗い影が晴れていくようだった。あの日、橘家のガレージで「ブラックホール」に魅了された彼女は、施錠されていない運転席に座ってみた。内装に触れた瞬間、冬真に強く引きずり出された。双子を身籠っていた夕月は、大きなお腹を抱えたまま、尻もちをついてしまった。彼は車のドアの傍らに立ち、見下ろすような冷たい眼差しを向けた。まるで鉄壁のように、冬真の周りには近寄りがたい雰囲気が漂っていた。「車を汚すな」「冬真、私はあなたの妻よ……」彼女は言いかけた。レースのことは自分にも分かる。まさか橘家のガレージにこんな改造スーパーカーがあるなんて。同じ趣味を持つ人に出会えた喜びが込み上げていた。この車を見たとき、思わずコロナと並走する姿を想像してしまった。夫の妻である自分が、家のガレージで夫の車に座るぐらい、何が悪いというの?「ブラックホールはお前より価値がある。二度と触るな」妻に対する非情な警告だった。冬真は車に鍵をかけ、夕月の横を通り過ぎた。彼女を助け起こそうとする素振りすら見せない。地面から体を起こそうと車に手をかけようとした瞬間、凍てつくような冷気が矢のように彼女を貫いた。振り返ると、エレベーターの前に彼の姿があった。高圧的な態度で立ちつくす夫からの威圧感は、まだ夕月を包み込んでいた。夕月の指先が震え、触れようとした手を引っ込めた。大きなお腹を抱えながら、もう片方の手で地面を押し、やっとの思いで立ち上がった。「コースマップを見てたんだけど、かなり難しいコースで、私……」夕月は我に返り、不安を口にした。丸六年、オフロードレースから遠ざかっていた。
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