夕月の容姿に、視聴者たちは度肝を抜かれた。あれこれ批判しようと構えていた配信者たちは、思わず言葉を失い、顎に手を当てたまま固まる者も。眼鏡を掛け直して画面に食い入る者もいれば、夕月の姿を目にして思わずニヤけてしまう配信者まで現れた。五台のカメラに映し出されたのは、無垢材のテーブルに向かう夕月の姿。雨に濡れた上着は着替える暇もなく、湿った髪が額に張り付いていた。凍えた手を擦り合わせ、息を吹きかけて温めてから、やっとキーボードに触れる。まるで凍りついた雪だるまのような佇まいだったが、その瞳の奥には燃えるような決意の炎が宿っていた。視聴者たちは、夕月がALI実行委員会に状況を報告する声に耳を傾けた。「ブルー・オーシャン住宅での停電のため、急遽、桐嶋幸雄教授宅で受験させていただいております」夕月は桐嶋教授宅での受験を、実行委員会に対して隠すことはしなかった。「藤宮さん、不可抗力による特殊事情と判断し、委員会での協議の結果、試験継続を認めます。ただし、B問題用紙を改めて配布します」「既に試験開始から三時間が経過しています。追加の試験時間はありません。他の受験者と同様、残り五時間で提出していただきます」「承知いたしました」夕月は毅然とした態度で応じた。そして、すぐに解答に取り掛かった。彼女の視線は、パソコンと計算用紙の間を行き来するだけ。途中、ALI実行委員会のスタッフが桐嶋教授宅を訪れ、試験環境の確認を行った。一度だけトイレに立った以外、夕月は監視カメラの視界から離れることはなかった。パソコン画面の右下を一瞥した夕月。残り時間を気にする様子が窺えた。不正の証拠を探そうとしていた配信者たちは、夕月の微細な表情の変化を一つ一つ分析し始めた。「普通に考えて、この時間じゃ全問回答は無理なはずだ」「予選は八時間。つまり、決勝進出に必要な得点が取れる得意分野だけに集中すれば良いわけだ」「調べた限り、藤宮さんはALIコンテスト初参加。試験のストラテジーには慣れてないはず」配信者が冷静な分析を続ける一方で、多くの視聴者はもはや不正探しなど忘れ去っていた。「ウェブカメラ越しでもこんなに美しいなんて……!自分を殴りたい!あんな失言して後悔してる!」「時間との戦いなのに、一秒も無駄にしていない……!
目を覚ますと、彼女たちのSNSアカウントは怒り狂うネットユーザーたちのコメントで埋め尽くされていた。「だから謝罪の投稿を慌てて消すなって言ったのに!これからどうするの?」名門の奥様たちは、グループチャットで緊急の対策会議を始めた。「不正がなかったとしても、決勝で上位に入れるとは限らないわ。配信者たちも言ってたでしょう?他の参加者は予選で得点を調整していただけ。だから藤宮が一位を取れたのよ」「しばらく大人しくしていましょう。決勝で大学院生たちに負けて、今度は彼女が叩かれる番よ」昨日までメディアは競って夕月のインタビューを報じようとしていたが、世論の急転換を察知すると、各社は一斉に配信を控えた。そんな中、桜国放送局が真っ先に夕月の特集レポートを公開。編集部は春川記者が夕月と交わした昨夜の電話録音まで放送した。夕月が桐嶋教授宅で受験せざるを得なかった真相を知り、視聴者たちは激怒した。さらに、予選当日にブルー・オーシャンで実際に停電が起きていたことも判明。「あんな最低な元旦那、のたうち回って苦しむ姿が見たいわ!地を這いずり回る虫ケラのくせに!」「クズって言葉がぴったりね」「藤宮さんが若すぎて、人を見る目がなかっただけよ」たちまち「#藤宮夕月の元夫」がトレンド入り。元夫が誰なのか特定できなかったものの、ネットユーザーたちは彼の先祖代々まで遡って罵倒の限りを尽くした。橘グループ本社。「ハックション!」冬真が社長専用エレベーターに乗り込むと、清水秘書が携帯を握りしめながら後に続いた。エレベーターが下降するにつれ、秘書の顔は青ざめていく。「#藤宮夕月の元夫」という文字がトレンドの上位に躍り出ているのを見て、秘書は目を疑った。大変なことになった!思わず冬真の後頭部を何度も見つめる。社長はまだ、自分がネットで笑い者にされていることに気付いていないはずだ。だが、この件をどう切り出せばいいのか……一階に到着し、冬真がエレベーターを出る。ロビーは人で溢れ、社員たちの熱い議論が冬真の耳に届く。「藤宮さんの元旦那、最低すぎる!」冬真の足が急に止まった。後ろの清水秘書も慌てて止まり、額から冷や汗が噴き出す。「まさに美女と野獣ね。いえ、野獣以下かも。野獣の方がまだマシよ」「ハックシ
社員たちと冬真の間で、気まずい視線が行き交う。「社長、風邪でも?」「大丈夫ですか?お顔色が悪くて……額の相まで暗くなってますよ……」社員たちの心配そうな声に、冬真の表情は一層険しくなっていく。清水秘書が社員たちを叱責しようと前に出ようとした時、冬真は既に正面玄関へ向かって歩き出していた。慌てて追いつき、車のドアを開ける秘書。「ロビーで無駄話をしていた社員は全員特定し、給与から減額させていただきます」車内に座った冬真の周りには、まるで冷気が漂っているかのよう。彼が顔を上げると、鋭い眼差しが秘書を貫く。「ほう、私が藤宮夕月の見る目のない元夫だということを、大々的に宣伝したいのか?」秘書の額から大粒の汗が零れ落ちる。その場に凍りつき、唇は震えが止まらない。「い、いえ……そんなつもりは!ただ……ネット上であなたに不利な書き込みが急増していまして……」震える手でスマートフォンを差し出す。画面には、トレンド一位の「#藤宮夕月の元夫」の文字。冬真は侮蔑的な冷笑を浮かべた。まさか自分が藤宮夕月によって有名になる日が来るとは。冬真はトレンドの下のコメントなど見向きもしなかった。足元で蠢く大衆など、一瞥の価値もない。もし夕月が決勝でいい成績を収めたら……冬真は思案する。寛大な心で彼女を会社に迎え入れ、年収2千万の職位を与えて、自分の下で働かせてやるのも悪くない。そんな思考に耽っていると、携帯が鳴った。楓からの着信を確認し、通話ボタンを押す。「冬真、今夜、鐘山でレース大会があるんだ。悠斗を連れて行きたいんだけど」「悠斗には相応しくない」冬真の声音は冷たかった。「夜の山道だから心配?なら、あなたも来れば?……それに、今日が何の日か覚えてる?」楓の言葉が、冬真の心の琴線に触れた。今日は汐の命日。かつて妹の汐がモータースポーツを愛していたからこそ、冬真は鐘山オフロードレースに投資したのだ。「私たちが地上を疾走すれば、空の汐にも見えるはずさ」楓の瞳には、確信に満ちた微笑みが宿る。彼女は知っていた。汐の死は冬真の癒えぬ傷。汐の名を出せば、万年氷河も溶けるということを。 胸に淀んだ鬱憤を、冬真は吐き出す場所を必要としていた。そして今日は、妹の命日。「分かった。悠斗を連れて行く。三十
前席に座る悠斗は興奮を抑えきれない様子で、「楓兄貴!君こそ僕の唯一の兄貴だよ!パパがレース観戦に連れて行ってくれるなんて、夢にも思わなかった!」小さな唇を尖らせ、「あの田舎者とは大違い!楓兄貴の方が全然いいよ!」楓は声を立てて笑う。眉尻の上がりを抑えられない。「知ってる?お母さん、ネットですごく叩かれてるんだって」「あの人はもう母さんじゃない!」悠斗は即座に訂正した。楓の目に宿る笑みが、一層深くなった。「なんで叩かれてるの?」悠斗は首を傾げた。「夕月さんが数学コンテストで不正して一位取ったんだって。みんなネットで暴いてるわ。あの人に一位なんて取れるはずないもの!」楓がSNSを開こうとした時、トレンド一位に「#藤宮夕月の元夫」の文字が躍る。タグを開いた楓の動きが止まった。夕月に関する投稿を次々と確認していく。不正を断言していた有名配信者たちが、次々と謝罪文を投稿。夕月への誤解を認めている。夕月関連の人気コメントを漁ると、半数は彼女の美貌を絶賛し、残りはろくでもない元旦那に振り回された彼女を気の毒がっている。楓の呼吸が止まり、スマートフォンを握る手が震え始めた。「楓兄貴……?」悠斗は怯えた声を出す。初めて見る楓の恐ろしい表情に。まるでスマートフォンの向こうの誰かを殴り殺したいかのような凶暴な眼差し。我に返った楓は、にっこりと笑顔を作る。「ねぇ、悠斗くん。お母さんと私、どっちが綺麗だと思う?」悠斗が2秒ほど黙り込むと、楓の表情が一瞬で曇った。「楓兄貴が一番綺麗!」満足のいく返事に、楓の心はやや落ち着きを取り戻す。スマートフォンを置くと、悠斗に向かって「もうあの人の話はやめましょ。ね、バイク運転してみたい?」悠斗の目が丸く見開かれ、瞳孔が広がる。興奮が爆発しそうだ。「本当に運転していいの!?でも、ハンドル重そうだなぁ……」「楓兄貴がついてるから大丈夫だって!一緒に乗って、バイクが安定したら、ハンドル任せるからさ。そしたら、まるで空を飛んでるみたいな気分が味わえるよ!」「やったー!」悠斗は待ちきれない様子で飛び跳ねる。この世で唯一、自分のことを本当に理解してくれるのは楓だけだ。なんでもやらせてくれる。なんでも挑戦させてくれる。あの田舎者みたいに、いちいち制限なんかしない。
この頃、楓はTikTokに自分と悠斗がバイクに乗る姿を撮った動画を次々とアップしていた。アカウント開設から五年、わずか二千人ほどのフォロワー数で、バイクの格好良い動画を投稿しても、いつもの仲間内でイイねを押し合うだけだった。ところが、悠斗と一緒にバイクに乗る動画を初めて投稿した日の夜、楓は自分の動画が急に注目を集め始めていることに気付いた。それからというもの、楓は頻繁に悠斗とバイクに乗り、二人の動画は毎回百万回再生を突破するようになった。インフルエンサーを目指す楓は、この一ヶ月で投稿頻度を上げ、フォロワー数は一気に百万人を超えた。批判的な声も増えてきたが、楓にはまったく響かなかった。ただの嫉妬だと思っていた。五歳児を大型バイクに乗せられる度胸があるのは、自分だけなのだから。しかし、ここ一週間、悠斗とのバイク動画の再生回数が二十万回程度まで落ち込んでいた。視聴者がこの手の動画に飽きてきたのだ。そこで楓は仲間と相談し、衝撃的な企画を思いついた。猛スピードで走行中のバイクの上で、腕を組んだまま、五歳の子供にハンドルを任せることにした。そして、どこからともなくワインボトルとワイングラスを取り出した。バイクに跨がったまま、グラスにワインを注ぎ、高速で走りながらグラスを優雅に揺らし、完璧な余裕を見せつけた。仲間がその様子を撮影しながら、イヤホンマイクで囁いた。「パーフェクト!」「楓さん、賭けてもいいよ。これ、十万イイね超えは堅いって!」夕月の日常は変わらなかった。瑛優を学校に送り届けた後は家に戻り、様々な数学の問題に取り組む。大学時代と同じカリキュラムを自分に課し、この五年間で取り残された知識を必死に取り戻そうとしていた。夜になると、瑛優と夕食を済ませてから、二人で桐嶋家を訪ねるのが習慣となっていた。昼間に遭遇した難問をまとめ、桐嶋教授に直接指導を仰ぐつもりだった。リビングに入ると、桜都大学の学生たちが居座っていた。普段なら夕月に対して親しげな態度を見せる彼らだったが、ネット上で桐嶋教授による不正疑惑が持ち上がって以来、明らかに視線が変わっていた。彼らも今日、他のネットユーザーと同様、夕月の予選試験の様子を映した動画を何度も繰り返し見直していた。不正の証拠は見つからなかったものの。だ
「この生意気な小僧め!目の付け所が違うぞ!」桐嶋教授が突然怒鳴り声を上げた。「桐嶋教授!」安人は眉をひそめた。「この腹の中から毒を垂らす蛇のような奴め!」安人は言葉を失った。「その厚顔無恥な面を防弾チョッキの研究に使わないなんて、国も損してるな!はっ!人に辞退しろだと?腹の中が丸見えで頭が痛くなるぞ!言っておくが、夕月は絶対に辞退なんかしない!彼女の実力なら、間違いなく金賞を取れる!」安人は嘲るように笑った。「教授はまだご存知ないようですね。参加者たちの要望で、今回の決勝には新しい項目が追加されました。決勝戦で上位20位に入った参加者同士で、チャレンジマッチができるんです」他の学生たちは、まるで面白いものでも見つけたかのように、夕月の失敗を待ち望む目で見つめていた。「あなたの愛弟子が、そのチャレンジマッチで勝ち抜けるとは思えませんね。主婦が金賞?笑わせないでください」「安人さん」夕月の声は凛として響いた。「もし私が金賞を獲得したら、あなたと、桐嶋教授の生活を脅かした全ての人間は、教授に公開で謝罪してもらいます」安人は腕を組んで鼻で笑った。「大きく出たな!もし君がチャレンジマッチで全員を打ち負かして金賞を取れたら、俺の首をもぎ取ってサッカーボールにでもしてやるよ」「もう少し現実的な罰ゲームにしませんか?」夕月は微笑んで返した。安人の後ろにいた男子学生が軽蔑した様子で言い放った。「藤宮さんが金賞を取れたら、安人が逆立ちしながら回転して糞でもするってのはどうだ?」夕月は言葉を失った。あまりにも壮絶な光景は想像するだけでも恐ろしい。安人は火中の栗を拾わされた気分で、振り返って低い声で怒鳴った。「何を言い出すんだ!」その学生は小声で続けた。「ストリートダンス部の部長なんだから、逆立ち回転くらい朝飯前だろ?」安人の顔が真っ赤になった。これは技術の問題じゃない!そんなことをしたら通報されかねないだろう!「それ、いいね」桐嶋涼が応接室の入り口に立っていた。しばらくそこで様子を見ていたらしく、父親の側まで歩み寄った。「父さん、逆立ち回転排泄なんて見たことないでしょう?興味ない?」桐嶋教授は鼻を掻きながら、少し迷った様子で「その場で見ることになるのか?」想像するだけでも恐ろしい光景だ。「私も
なんて丸くて、白いんだろう……そんな言葉が夕月の心をよぎった瞬間。涼が振り返り、視線が絡み合う。まるで夕月の心の中を見透かしたような眼差し。見られていた!という気まずさに、夕月は顔を赤らめた。「お手伝いしましょうか」慌てて部屋に入りながら、自然な声を装って言った。涼は内心で笑みを浮かべていた。実は夕月がトイレに入った時から、わざと背中に薬を塗る仕草を繰り返し、夕月が気付いた瞬間を見計らって薬液をズボンに垂らしたのだ。夕月は薬瓶を受け取り、綿棒に薬液を含ませ、優しく傷口に塗っていく。背中を縫合した医師の腕は確かだった。傷跡の周りが赤く腫れていなければ、怪我をしていたことすら分からないほどだ。「ごめんなさい」夕月は心からの言葉を紡いだ。「瑛優を助けてくれたのに、きちんとお礼も言えなくて」そう言いながら、笑顔で続けた。「お食事でもご馳走させてください。お店が嫌でしたら、私が作りますよ。何が食べたいか言ってください。新しい料理もすぐ覚えられますから」「じゃあ、一つ条件がある……」涼の心には既に考えがあった。「え?」彼は白いシャツを手に取り、ゆっくりとした仕草で羽織り始めた。夕月の視線を引き付けながら、言葉を途中で止める。ボタンを留めていく指の動きに、夕月の息が詰まる。まるで部屋の空気が凝固したかのよう。涼の動作が、いつもより遅いような気がした。横向きの姿勢で、逞しい胸板の起伏が夕月の目に映る。腹筋は整然と刻まれ、ズボンの中へと消えていく鋭い腰の線が際立っていた。夕月は思わず息を止めた。男性の放つ強烈なフェロモンが押し寄せてくる!これは絶対意図的だ!彼はボタンを留めながら、夕月の視線を下腹部へと誘導するように仕向けている。夕月が我を忘れかけた瞬間、涼は無邪気な眼差しで彼女を見つめた。まるで先程までの誘惑的な仕草など、夕月の思い過ごしだとでも言うように。ビクッと体が震える夕月に、涼は告げた。「今夜、鐘山でレースがある。前から優勝賞金の掛け金を出してたんだが、怪我で出場できなくなった。代わりのドライバーが必要なんだ。優勝賞金は山分けってことで、どうだ?」狭苦しい台所でコンロの熱気に晒される彼女より、荒野を駆け抜ける姿の方が似合っている——涼はそう確信していた。夕月は一瞬
「怪我をしてね。プロのドライバーに頼んでる」涼が答えた。涼の姿を認めた悠斗は、まるでネコを見たネズミのように、冬真の背後に身を隠した。鐘山でのレースは、アマチュア大会とはいえ、桜都の上流階級が主催する以上、コース設営から賞金、スタッフに至るまで、全てが最高級の仕様だった。参加する御曹司たちは、一年かけて数億万円を投じてマシンをチューンナップし、プロドライバーまで雇い入れている。それだけの布陣を整えて、ようやく表彰台を狙えるというわけだ。彼らにとって、レースの順位は面子に関わる問題だった。もっとも、全くの蚊帳の外に置かれるのも癪に障るため、御曹司たちは助手席でコ・ドライバーを務めるのが通例となっていた。鐘山に集まった面々は、藤宮夕月にとって見知った顔ばかりだった。だが、橘冬真と七年間連れ添った夕月でさえ、彼がオフロードレースに参加していたことは知らなかった。集まった者たちの視線は、コロナのドライバーに釘付けになっていた。「桐嶋さん、ドライバーを紹介してくれない?」楓が真っ先に声を上げた。しかし、夕月は車内に留まったまま、降りる気配すら見せない。「おいおい、桐嶋さんのドライバー、随分と偉そうじゃないか。俺たちを見下してるのか?」ある御曹司が声を荒げた。「ふん、Lunaにとっては、お前らなんて烏合の衆も同然だからな」涼は嘲笑うように言い放った。Lunaという名前が飛び出した途端、何人もの目が丸くなった。耳を疑う者さえいた。それまで熱心に会話を交わしていた参加者、観客、スタッフたちが、一斉に静寂に包まれた。信じられない表情で、彼らの視線は桐嶋涼とコロナを交互に見つめていた。「マジかよ!桐嶋さん、プロのドライバーって、まさか……!」涼は切れ長の目を細め、まつげの濃い影が頬に落ちる。「Luna――レース界に月の女神は一人しかいない」ローマ神話の月を象徴するLuna。オフロードレース界では、その名は伝説と化していた。御曹司たちは興奮を抑えきれない様子だった。「すげえな!コロナを手に入れただけじゃなく、元のオーナーまで連れてきやがった!」「マジかよ、あの車に座ってるのが本当にLunaなのか?俺たち、Lunaと同じレースに出られるなんて!」悠斗は周りの騒ぎに首を傾げ、「Lunaってすご
冬真がドアに手をかけ、夕月を引きずり出そうとした瞬間。スタッフ数人が駆け寄り、彼とコロナの間に割って入った。「橘社長!レースが始まります!」「橘社長、Lunaの集中の妨げになります」「あれは藤宮夕月だ!」冬真は声を荒らげた。「彼女がLunaのはずがない!」その言葉は、まるで自分に言い聞かせるかのようだった。コロナのドアが閉まり、夕月はコースへと向かった。「邪魔するな!」冬真の身のこなしは素早かった。スタッフを押しのけ、コースの端まで走り寄った。ウォームアップを終えても、夕月はコロナから降りる気配を見せなかった。コロナがみんなの視界に入った瞬間、観客席から歓声が沸き起がった。「Luna!Luna!」ファンたちは最も忠実な信者のように、コロナがスタートラインに向かう姿を見つめ、思わず涙を流す者も数多くいた。なぜまだ夕月はコロナから降りてこない?冬真は周囲を見回した。本物のLunaはどこにいる?レース開始が迫っているのに、なぜLunaは姿を現さない?一方、マシンの中の楓は、コース脇に立つ冬真の姿を見つけ、思わずウィンドウを下ろそうとした。VIPルームで観戦できるはずなのに、わざわざコースまで来てくれた。これは自分に関心を持ってくれている証拠だわ。楓は内心で得意げに思った。窓を下ろし、楓は興奮した様子で冬真に手を振った。「冬真!」ヘルメット越しの声は籠もって聞こえた。だが冬真は、楓のマシンには一瞥もくれなかった。「何してるんだ藤宮楓!窓を開けるな!レースが始まるぞ!」管制台に立つヴィンセントは、楓が突然窓を開けるのを見て、血圧が急上昇した。無線を握りしめ、M国語で罵声を浴びせかける。M国語の分からない楓は、逆に不満気な声を上げた。「何よ、そんな怒鳴って!」通訳が慌てて無線を取り、息を切らしながら叫んだ。「窓を閉めてください!集中してください!」楓の通訳を担当している若い男性も、酸素マスクが必要なほどの疲労感を覚えていた。エキシビションとはいえ、楓のこの態度は到底理解できなかった。そのとき、レース開始を告げるホーンが鳴り響いた。三度目のホーンと共に、スタートラインに並ぶマシンたちが、弦を放たれた矢のように飛び出した。最も出遅れた楓の姿を見て、
小さな丸みを帯びた顎に、整った卵型の顔立ち。その唇は誘うような桜色を湛え、筋の通った鼻筋と柔らかな目元が印象的だった。漆黒の髪を後ろで纏め上げ、耳元には繊細な毛束が風に揺れていた。冬真にとって、あまりにも見覚えのある顔立ちだった。その場に凍りついたように、冬真は目を見開いたまま夕月を凝視していた。頭の中が真っ白になった。なぜLunaが夕月の顔を持っているのか?これは笑い話としか思えない。まるで、あの荒唐無稽な夢の中にいるかのようだった。観客席からの歓声が押し寄せる波のように、冬真を包み込んだ。彼は震えながら我に返った。夕月は彼の存在など無いかのように、そのまま横を通り過ぎようとした。冬真は咄嗟に振り返り、夕月の腕を掴んだ。「なぜここにいる?」男の眼差しには疑惑と困惑が入り混じっていた。「なぜそんな格好を?」彼は夕月の手にしたヘルメットを見下ろした。確かにそれはLuna専用のものだ。何か言おうとして言葉に詰まり、喉に紙を詰め込まれたような感覚に襲われた。「Lunaのボランティアスタッフか?」自分でも信じられないような声が漏れた。きっとそうに違いない!彼はその考えに必死にしがみついた。Lunaの出場が発表された途端、国際レースのボランティア募集は熱狂的なファンで埋め尽くされた。仕事を投げ出し、給料カットも厭わず、ボランティアに志願する者も少なくなかった。ただLunaのレースを間近で見たい一心で。憧れの女神の素顔を一目見られる機会を求めて。冬真の問いに、夕月は笑みを浮かべた。「こんな馬鹿げた質問をするなんて、どれだけ頭が悪いの?」レーシングスーツを着て、ヘルメットを手に持って目の前に立っているのに、この男は未だに彼女をLunaと結びつけようとしない。バカなの?心の底から彼女を見下しているのね。若く血気盛んだった頃、夕月は純粋に冬真を愛していた。なのに結局、この男には「本当の藤宮夕月」と向き合う勇気すらないというわけ。「Lunaの車のウォームアップでもするつもりか?そもそもレースライセンスは持ってるのか?」高圧的な目線で夕月を見下ろしながら冷たく言い放った。「コロナを壊すなよ」もし壊したら、Lunaへの弁償なんて絶対にしてやらないと言わんばかり
足音を聞いて振り返った冬真の目に、レーシングスーツ姿の女性が歩み寄る姿が映った。冬真の背後から差し込む澄んだ日差しが、その肩の輪郭を縫うように流れていく。彼女が手にしているヘルメットは見覚えがあった。濃紺の地に金色の月が星々に囲まれた模様が描かれた、あのLuna専用のものだ。女性の上半身は、深い影に覆われていた。彼女が暗がりから一歩踏み出した瞬間、冬真は思わず息を呑んだ。Lunaはヘルメットを被っていない――つまり、ついに素顔のLunaと向き合うことになる。夕月も意外だった。冬真がわざわざ自分を待っていたとは。彼女は影の中で足を止めた。男は彼女に向き直り、スラックスのポケットに片手を入れたまま立っていた。オーダーメイドのスーツに包まれた背筋の伸びた佇まい、幅の広い肩から腰にかけての優美なラインは、まるで彫刻のように完璧だった。「Lunaともあろう人が約束を破るとは思わなかったぞ。指定の時間にガレージに来なかったから、お前が気に入っていたスポーツカーたちは、もう新しいオーナーの手に渡ってしまった」二度目の対面だというのに、冬真は自分の中に湧き上がる悪意に気付いていた。彼女を壊してしまいたい衝動。からかって、恥じらわせて、赤面させて、自分の前で膝を屈させたい――そんな欲望が抑えきれなかった。男はさりげない立ち姿ながらも、その佇まいから放たれるオーラは鋭く冷たかった。その冷徹な眼差しは矢のように彼女に向けられ、Lunaを包む影を打ち払おうとするかのようだった。「最後のチャンスだ。年俸2億円で藤宮楓のコーチを引き受けてもらいたい。正直、彼女の実力は並以下だ。トップに立つ必要もない。ただ三年以内に国内で名の知れた選手になってくれれば、それでいい」これは橘汐が叶えられなかった夢。冬真は楓にその夢を託そうとしていた。「引退して五年、突然復帰を決めたのは金のためだろう」嘲笑うように冬真は言った。「だが、もうお前は全盛期を過ぎている。月光レーシングのように高額な契約を結んでくれるクラブはもうない。これは今のLunaが市場で得られる最高の条件だぞ」言葉が途切れぬうちに、夕月は影から一歩前に出た。まるで映画のスローモーションのように。影が彼女の首筋から肩へと、ゆっくりと剥がれていく。冬真の瞳が大き
夕月は眉間に皺を寄せ、一瞬だけ憂いの色が浮かんだ。この五年間、必死に悠斗の性格を正そうとしてきた。でも橘家の面々は、長男で跡取りである悠斗の言動は全て正しいと言い聞かせ続けてきた。一度母親への偏見が芽生えてしまえば、二人の間には越えられない壁が築かれてしまう。夕月は棚に向かい、ヘルメットを手に取ると、「スマホのライトを点けてくれる?」と鹿谷に声をかけた。「どうしたの?」鹿谷はライトを点けながら近寄った。夕月が鹿谷のスマホの光をヘルメットの中に当てると、砂粒よりも小さな虫が数匹、パッと飛び出した。明るいLEDの光に照らされて、やっとその姿が確認できる。「なんで中に虫が?」鹿谷は困惑気味に呟いた。桜都の乾燥した寒い気候では、虫なんて発生しないはず。しかも、このスペアヘルメットは新品で、たった30分前に出してきたばかり。どうして虫が入り込むことができたのか?「唯一ヘルメットに触れたのは、あの照明スタッフね」夕月は静かに言った。「まさか、細工でもしたのか!?」鹿谷は思わず声を上げた。そして、急に閃いたように、「楓の差し金に決まってる!」と断定的な口調で告げた。夕月は冷静な面持ちで携帯を取り出し、涼に電話をかけた。「桐嶋さん、申し訳ないけど、全出場者のヘルメットに細工がされていないか、至急確認していただけない?」続けて付け加えた。「できるだけ人目を避けてお願いします」今回の国際レースで、高い権限を持つのは涼だった。月光レーシングクラブは解散したものの、彼は依然として国際レースの主催者側のオーナーだった。「分かった、すぐに調べさせる」低く渋い声が受話器から響いた。なぜそんな調査が必要なのか、彼は問わなかった。夕月の判断を完全に信頼していた。「お願いします」夕月が電話を切ろうとした時、彼の声が再び聞こえた。「ちょうどいい。面白い映像が見つかったんだ。共有したいことがある」すぐに監視カメラの映像が送られてきた。鹿谷は夕月の隣に寄り、二人で映像を見つめた。整備室で撮影された映像だった。メカニックの一人が、コロナのボンネット内側で何かをいじっている。明らかに人目を避けようとしている様子で、ボンネットの留め具をいじりながら、周囲を警戒するように目を光らせていた。映像は3分前に撮
「私が誰だか分かってるの?」楓は参加者証を作業員たちに突きつけた。よく見るようにと迫るその態度に、作業員たちは参加者証を確認すると、何とも言えない表情を浮かべた。今大会で楓の名前は、確かに話題を呼んでいた。「ええ、存じ上げてますとも。レーシングライセンスすら持っていないアマチュアドライバーの藤宮楓様。初めての国際レース参加とのことで、基本的なマナーをご説明させていただきましょうか」作業員は言葉に力を込める。「他のレーサーの控室に無断で入るのは厳禁です!」周囲を見回してから、「誰の許可で入室したんです?」照明スタッフやカメラマンたちは、思わず楓の顔を見た。「私の部下よ!」楓は威勢よく叫んだ。「レース開始直前にこれだけの人数を連れて来るなんて、Lunaの邪魔をする気でしょう!」作業員は怒りを含んだ声で言い放った。その瞬間、「ガチャン!」という音と共に、棚に置かれていたヘルメットが床に転がり落ちた。照明スタッフの一人が真っ赤な顔で慌ててヘルメットを拾い上げ、元の位置に戻す。夕月の目が、そのスタッフの手にある細い管状の物に釘付けになる。パッと見は撮影用の道具にも見えるが。スタッフは慌てて、その細い管をズボンのポケットに押し込んだ。もし本当に撮影用の道具なら、なぜ急いで隠す必要があったのか。楓のスタッフがヘルメットを落としたことで、作業員の怒りは頂点に達した。「これはLunaのヘルメットですよ!さあ、全員出て行ってください!さもないと警察を呼びますからね!」作業員たちは鳥を追い払うように手を振りながら、楓たちを外へ追い出そうとする。「僕、Lunaを待つんだ!」悠斗が抵抗すると、作業員は彼の腕を掴んで小さな体を持ち上げた。悠斗は必死に足をバタつかせ、作業員の太腿を蹴ろうとする。「僕は橘グループの御曹司だぞ!」悠斗は怒りに任せて叫び、ムチムチした頬を膨らませた。「たとえ橘社長でも、Lunaの控室に無断で入って、試合前の邪魔をする権利はありません!」「離せよ!下ろせ!!」作業員は悠斗を控室の外まで運び出してから、やっと地面に降ろした。暴れる間に帽子とサングラスが床に落ちる。悠斗は不機嫌な顔で、わざとサングラスを踏みつけた。「フン!パパに全員クビにしてもらうからな!」
その言葉が夕月の心を刺すことを、悠斗は分かっていた。その棘で、夕月を傷つけてやりたかったのだ。悠斗は勝ち誇ったような目で夕月を見つめ、彼女が苦痛に歪む表情を見せるのを待った。最も近しい存在だからこそ、最も深い傷を与えることができる。田舎育ちで、レースのことなんて何も分からないような女が、橘家の御曹司のママなんて務まるはずがない!「悠斗くん、もし私が一位を取ったらどうする?」楓は目を細め、冷たい笑みを隠しきれない。悠斗の言葉が明らかに楓の癇に障った。これまで悠斗に尽くしてきた心遣いが、全て無駄になったような気がした。Lunaの名前を聞いた途端、楓を新しいママにすると約束したことなど、すっかり忘れてしまったようだ。雲上牧場の斜面での一件以来、悠斗の目には、楓の強くて何でもできるイメージは完全に崩れ去っていた。強い人が親に尻を叩かれるなんてありえない!自分だって手のひらを十回叩かれただけなのに。楓があんなに泣き叫んで、よだれを垂らしながら謝る姿なんて、見ているのも辛かった。しかも翌朝、楓は気を失ってしまった。蚊に刺されて豚のような顔になり、提灯のように目が腫れ上がった楓が、冬真の部下に斜面から引きずり上げられる姿を見て、悠斗は楓との知り合いだということすら認めたくなくなった。早く、強くて凄いママを見つけなければ。楓の視線を避けながら、悠斗の声は小さくなっていく。「楓兄貴が一位取れたら……考えないこともない……」最後の言葉は、はっきりとしない呟きになっていった。楓の表情が途端に得意げになる。「夕月姉さん、早く出てった方がいいわよ。関係者以外がLunaの控室に入ってたって知れたら、追い出されるわ。みっともないことになるんじゃない?」夕月の視線が楓の太腿に注がれる。「感心するわ。厚顔無恥な人間は、皮も分厚いのね」その言葉に、楓の太腿と尻がズキズキと疼きだす。厚く塗ったファンデーションの下には、蚊に刺された跡がまだ赤く残っている。スモーキーなアイメイクも、まだ腫れぼったい目を隠すためのものだった。先週、夕月の通報で警察に連行され、拘留時間を減らすため、冬真を通じて夕月に連絡を取った。ところが夕月は警察に意地の悪い提案をし、SNSで謝罪動画を投稿して999いいねを集めなけ
「Luna!会えて嬉しい!」悠斗の澄んだ声が響いたが、控室に座る人物を見た途端、その場に凍りついた。更衣室に向かおうとしていた夕月と悠斗の視線が絡む。悠斗の弾けるような表情が一瞬にして固まり、眉を寄せたまま夕月を見つめていた。「なんでここにいるの!?」楓と悠斗の後ろには黒山のような人だかりができていた。カメラマンのレンズが夕月と鹿谷に向けられる。ドア前に群がる人々を見て、鹿谷は思わず身を縮めた。夕月の傍らにそっと寄り添う。「夕月、なぜLunaの控室に!?」楓の声が驚きのあまり裏返った。悠斗は目を丸くして鹿谷を見つめ、「君がLunaなの?」そう言って首を傾げる。ガンメタルのルーズなジャージ姿の鹿谷は、すらりとした体格に凛とした顔立ち、さらにベリーショートの髪型で、誰もが一目で性別を見誤るほどだった。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。周囲からは、あどけない少年にしか見えない。鹿谷は夕月の袖をつかみながら、首を振った。「僕はLunaじゃないよ」楓は夕月にぴったりと寄り添う鹿谷を眦を吊り上げながら観察した。どこかで見た顔だと思ったら、七年前のあの「男」だった!夕月が実の姉だと分かってから、楓は何度も尾行し、私立探偵まで雇って調べ上げた。その時、夕月には幼馴染がいて、その「男」は間もなくLunaのコ・ドライバーという大役を掴んだのだ。鹿谷が有名になるや否や、夕月を置き去りにして海外に飛び立った。楓はその事実を内心で喜んでいた。後に冬真から鹿谷を自分の教官として迎えると聞いた時も、夕月のこの身分の低い「幼馴染」に対して、軽蔑と好奇心が入り混じった感情を抱いていた。腕を組んで、夕月と鹿谷の間を意地の悪い視線で行き来させる。「夕月姉さん、酷くない?ここはLunaの控室よ!Lunaのコ・ドライバーと密会なんて、レースの邪魔になるでしょう?」その言葉に、後ろのカメラクルーは名家の醜聞の匂いを嗅ぎ取った。橘家の奥様で、つい先日社長と離婚騒動を起こした夕月が、レーサーの控室でコ・ドライバーと密会。しかも実の息子に見つかるとは!楓の後ろに控える男たちの顔に、冷ややかな笑みが浮かんだ。悠斗は部屋を見回し、Lunaの姿が見当たらないことに気づくと、夕月の存在がますます目障りにな
楓の派手な演出に、通りかかるスタッフたちが首を傾げている。「誰だよあれ?芸能人にも見えないのに、随分大掛かりだな」首を伸ばして楓の顔を確認したスタッフは、がっかりしたような困惑した表情を浮かべた。「スポンサーのコネで潜り込んできたアマチュアレーサーよ。確か藤宮楓って言うんだったかしら」腕を組んだ別のスタッフが嫌味な口調で言った。国際レースのエキシビションとはいえ、開会式に出場できるのは、現役の有名レーサーか、輝かしい実績を持つ引退選手、もしくはモータースポーツ界に多大な貢献をした経営者や重鎮に限られる。そういった実力者たちが集うショーレースに花を添えるのが通例だ。実績も知名度もゼロの楓の名前がエントリーリストに載った時、他のレーサーたちは眉をひそめ「誰だ、この素人は」と囁き合った。真相を知って驚愕する者も多かった。要するに彼女はSNSで少し話題になった程度のインフルエンサーで、しかも5歳児とバイクに乗る危険な動画で注目を集めただけの存在だった。視聴者から非難の声が上がり、通報も相次いだ。だが橘グループ傘下の芸能事務所に所属し、社長の義理の妹という立場を利用して、批判の声はすべて闇に葬られていった。先週、レース界を揺るがす衝撃的なニュースが流れた。橘グループ社長が莫大な資金を投じ、月光レーシングクラブの精鋭エンジニアとメカニックを一斉に引き抜いた。彼らは楓一人のために海を渡ってきたのだ。この前代未聞の采配に、レース界全体が騒然となった。楓はプロのカメラクルーやヘアメイクチームを雇い入れ、自身のイメージ作りに余念がなかった。国際レースの舞台裏を収めたVlogを配信すれば、一気にトレンド入り間違いなしだと確信していた。SNSで大きな反響を呼ぶのは目に見えていた。身の出場に物議を醸していることは重々承知していたが、それも所詮は嫉妬だと考えると、むしろ心地よささえ感じていた。「悠斗お坊ちゃま、こちらを向いて」カメラマンが楓の傍らにいる悠斗に声をかけた。黒と白のストライプ模様のキッズ用レーシングスーツを着た悠斗は、キャップを被り、その上からサングラスを乗せていた。だが、その表情には明らかな苛立ちが浮かんでいる。「楓兄貴、いつLunaに会えるの?」朝、Lunaに会わせてあげると言われ、
投稿を終えた弁護士は、安堵の溜息をつく。「橘社長、楓様の謝罪動画、アップ完了いたしました」更新された投稿を確認すると、最初のいいねは冬真からだった。冬真は楓の投稿画面を夕月に見せる。夕月はスマホのストップウォッチを停止し、何も言われずとも示談書に署名を済ませた。警察に書類を手渡しながら、夕月は冬真に微笑みかける。「早く999いいねが集まるといいわね」冬真が何か言いかけたその時、夕月が続けた。「ヴィンセントたちが楓を引き連れてエキシビションに現れる時、あなたと楓がどれだけ恥をかくか、楽しみですわ」冬真は上から夕月を見下ろし、冷笑を漏らす。「ヴィンセントの名前を知っているとはね」彼は鹿谷に視線を向けた。その目には明確な敵意が宿っている。楓のために月光レーシングクラブのエンジニアチームを高額で引き抜いた件を、きっと鹿谷が夕月に話したのだろう。レースなど素人の夕月が、どうしてそんなことを知っているはずがない。夕月は二人の警官に向かって言った。「申し訳ありませんが、元夫には速やかに退出していただきたいのです。私の生活圏内への立ち入りは、できればご遠慮願いたくて」警官たちも冬真の存在が更なる騒動を引き起こすことを懸念していた。「橘さん、そろそろ」「藤宮さん、示談書の件、ご協力ありがとうございました。これで失礼いたします」夕月は静かに告げた。「示談書を書いたからといって、許したわけではありません。楓が二度謝罪したように見えても、本心から反省しているとは思えない」そして冬真に向かって、微笑みを浮かべながら「レース会場でお会いしましょう〜」その表情には、どこか軽やかな風のような優しさが漂っていた。冬真は一瞬、目を奪われた。まるで、かつて彼のためにサプライズを用意していた頃の、あの表情そのものだった。離婚した今となって、この女は一体どんなサプライズを仕掛けようというのだろう?レース当日:国際レース開会式エキシビションまで残り一時間。すでにスタンドは観客で埋め尽くされていた。普段から楓と付き合いのある御曹司たちが、次々とVIP席に姿を現す。周囲を見回した一人が溜め息交じりに呟いた。「なんか今日、女性客多くないか?」「単なるブームだろ。レースなんて分かりゃしない。金持ちの金使って写真撮って、SN