All Chapters of 秘めた過去は甘酸っぱくて、誰にも言えない: Chapter 11 - Chapter 20

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第一章 過去と現在が交差する10

「え? ファンなのか?」「違います」「大丈夫だから。俺が上手くやるから。初瀬は隣で笑顔を作っていればいい。そして、学ぶ。いいか? これは成長するチャンスだ」顔を覗きこんでくる杉野マネージャーと至近距離で目が合う。そしてにっこりと笑ってきた。「案外、可愛いな。お前」「え?」「メイクはバッチリなのにピュアっていうか。まぁ不安がるなって。相手は芸能人だけど同じ人間だからさ」仕事だということをすっかり忘れていた。しっかりしなきゃ。広報に来てまだまだ未経験の私は断るなんてことはできないのだ。「俺が丁寧に教えるから安心してついて来い」「は、はい」杉野マネージャーがもう一度『開』ボタンを押すと、エレベーターの扉が開いた。促されて中に乗った。彼は振り返り私に微笑みかけてくれる。「テレビを見てくれる人が印象に残るようなコマーシャルができるといいな」「そうですね」「気合を入れて頑張るぞ」グイグイ引っ張ってくれるタイプで頼りになる。今の私は仕事に生きるしかないのだ。いきなりすごい展開になってしまったけれど気を引き締めて前進していこうと決意をした。             *それからというもの目まぐるしい日々だった。撮影を行っている会社へ依頼をかけて、スケジュール調整を重ねてバタバタと一日が過ぎていく。仕事が定時の六時で終わることなんてほとんどない。隣の席の千奈津も忙しそうにしている。「完熟バナナのコマーシャルを作るんだけど、アイディアが浮かばない!」んーっと唸って、頭を抱え込んでいる。そんな私と千奈津に杉野マネージャーが缶コーヒーの差し入れをしてくれた。「糖分補給しろー。いいアイディアが浮かぶぞ。来週の会議までに案を搾り出せよ」「はーい」辛そうに返事をしている千奈津。杉野マネージャーって優しい。厳しい部分もあるけど、上司として尊敬できる。私もいずれまた役職が上がる日が来るかもしれない。その時は部下に頼りにしてもらえるような上司になりたいと新たな夢を持つようになった。杉野マネージャーは席に戻る。私も視線をパソコンの液晶に戻した。仕事は大変なのは当たり前だ。あるだけありがたい。恋人はいないけれど充実した社会人生活を過ごせているし、このまま、平和であればいいと願う。大くんに会ってしまったら、人生が狂ってしまうのではないか? い
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する11

仕事を終えると、杉野マネージャーは呑みに誘ってくれた。「腹減ったし、どっか行かないか?」「はい。行きましょうか」千奈津は先に帰っていて二人きりだった。上司の誘いだし警戒する必要もないだろうと、二つ返事をしてしまった。連れてきてくれたのはホテルのバーだ。落ち着いた雰囲気で大人が来るところという感じだ。私はもういい年齢だけど精神年齢はまだまだ子供なのかもしれない。カウンターに並んで座ると、とりあえずビールで乾杯しサンドイッチを摘む。「うわ、これ美味しいですね」「だろう? ここのサンドイッチは絶品で大好きなんだよね。可愛いなって思った子しか連れてこない隠れ家的な場所なんだ」「そうなんですか」モグモグと食べていると、プッて噴出される。何が面白かったのか理解できない私はキョトンとしていると、杉野マネージャーはじっと私を見つめる。「あのさ、一応、口説いてんだけどなぁ」「どなたを?」またプッて笑って口元を抑えている。ゴツゴツした大人な男性の手が目に入って、セクシーだと思い顔が熱くなった。「初瀬美羽を」「は……い? わ……私……ですか?」「しっかりしてそうなのに、ピュアで、男性経験が少なそうで。いいなーって思いはじめてるというか」まさかのまさか。こんなに素敵な上司に口説かれるなんてありえない!からかっているのだと思って私はケラケラと笑い出した。「冗談はよしてください」杉野マネージャーは真剣な眼差しを向けてくる。「実は付き合っている人がいるとか?」「いえ」「じゃあ、過去に何かあったとか?」質問を重ねてくるなとは思ったけれど、アルコールも入っていたので私はスラスラと答えてしまう。「過去に……ちょっと辛い恋愛をしてしまってから、恋ができない体質といいますか……」言葉に詰まっていると杉野マネージャーが鋭い視線を送ってくる。「まだ、そいつのこと好きだとか?」まだ、大くんを好き――……?好きという気持ちは冷凍したのだ。だけど、何かのきっかけで溶けてしまったらどうしようと、ずっとずっと不安だった。だからこそ、大くんの映っている番組や、雑誌から目を背けていたし、過去に愛していた人を応援しようなんて大きな心を私は持ち合わせていない。記憶から消すことばかり考えて生きてきた。「おーい、初瀬。大丈夫か? 意識が飛んでるぞ」ぼんやりと考えてし
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する12

  *   *   *十年前―――――土曜日の夜になると、私はそわそわしていた。彼は土曜日の夜にふらっと来ることが多かったのだ。そういえば、真里奈と大学の食堂でランチしていた時、こんなことを言われた。『はぁ? お兄ちゃん的な存在? ないない。それって、美羽の初恋なんじゃないの?』真里奈とは入学してから意気投合して、仲良くなった。ぼうっとしているタイプの私とは逆のタイプだけど、一緒にいて心地がいい。『どうして男性だからって恋愛に結びつけちゃうの? 真里奈を好きなように、紫藤さんのことも好きなの。お弁当作ってくれたり、一緒にDVD観たり』『……それ、おうちデートじゃん。で、手を出してこないの?』『まったく。だって、妹だと思っていると思うけど』『妹だなんてありえないよ』そんな会話を思い出しながら、テレビを見ているとチャイムが鳴った。心臓が大きく跳ねて待ち構えていたかのように急いで玄関まで行くと、紫藤さんが立っていた。「ただいま」「お帰りなさい」一緒に住んでいるわけでもないのに、紫藤さんはうちに来ると「ただいま」って言うのだ。ニッコリ笑って中へ入ってくると、鼻をくんくんさせる。「あの、ね。ホットケーキ作ったの。紫藤さんが来るかなって思って」料理ができない私のチャレンジだった。彼の喜ぶ顔が見たかったのだ。でもやっぱり少し焦げてしまったし私は料理が不得意だと実感していた。紫藤さんは私の目の前に立って優しい視線を向けてくる。手がゆっくりと伸びてきた。キス? ど、どうしよう……。心の準備ができてないと思って瞳を思いっきり瞑る。すると紫藤さんの手が頬にそっと触れた。「粉、ついてんぞ」「えっ?」一瞬でもキスをされてしまうかもしれないと思った私は恥ずかしくてたまらない。「随分急いで玄関に出てきてくれたみたいだけど、そんなにお兄ちゃんが来るのが楽しみだったか?」顔がくしゃりとするほど笑顔になって、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくる。「楽しみだったよ。だって、一緒にいると楽しいから……」「そっか。じゃあ、なるべく会いに来てやんないとな」「でも、仕事忙しいんでしょ?」「イベントとか、レコーディングとかね。でも、可愛い妹に会えないと元気でないし」ほら、やっぱり。紫藤さんは私を妹としか思ってない。男女の友情って成立するもんよ。「どれ、うわ、
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する13

「美味しい?」「あぁ、うまい。美羽が一生懸命作ってくれたんだからうまいに決まってるよ」キラキラと輝く笑顔を向けられると私の胃のあたりが熱くなった。この感情が何なのかわからない。一週間お互いに何をしていたか会話を重ねていた。あっという間にホットケーキは食べ終わった。「大学の友達に彼氏ができたんだって。今度紹介してくれるみたい。私にも男の子を紹介するって言われたんだけど、恋愛とかよくわからないんだ」紫藤さんは、あぐらをかいてつまらなさそうに話を聞いている。「あ、ごめんなさい。つまらない?」「んー。恋愛する気ないなら、男を紹介してもらうことないだろう。いいんじゃないの。好きだって思える人ができるまで恋だの、愛だの」「だよね……」「焦ることはないさ」大くんの言葉に妙に納得した。いつか私が本当に好きだと思える人ができたらその人と恋をすればいいのだ。「紫藤さんは、今日はどんな一日だった?」「結構忙しく過ごさせてもらっていたよ。新曲の準備やダンスレッスンを受けてたよ」「へぇー。新曲かぁ。芸能人みたいだね」「一応売れない芸能人。だけど、三人組で仲間がいるから頑張らないといけないんだ。俺らが、歌ったり踊ったりして、それを見た人が元気になってくれたら……最高に幸せじゃん」夢を語る人のキラキラした笑顔は大好き。夢を叶えてほしい。「きっと、紫藤さんなら夢、叶うよ。私、信じているから」「美羽が信じてくれるなら頑張れそうだわ、俺」ニッコリ笑ってうなずいた。私は紫藤さんの夢を応援しようと思う。今までにシングルCDが二枚出ていたけど購入した。残念ながらあまり売れてないみたい。申し訳ないけれどCOLORというグループの存在は知らなかった。「もし俺が売れたら、美羽の欲しい物をなんでも買ってやるよ。何がいい?」「んー。特に欲しい物はないかな」「欲がないのね、お前」気だるそうに笑った。テレビを見て同じツボで笑って、すごく楽しい。この時間が永遠に続けばいいと思ってしまう。「今日は泊まるわ」「うん!」紫藤さんは特別な存在だから泊まることが当たり前になってもまったく抵抗がない。女友達と同じような感覚なのだ。「あ、DVD借りてきたから一緒に見て?」今はレンタル屋さんに行かなくてもすぐにスマホで見られる時代だが、当時は借りてくることが当たり前だった。紫藤
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する14

   *真里奈が彼氏を紹介してくれるとのことで大学が終わってから一緒にカフェに行くことになった。真里奈の恋人に会えるのが楽しみだったのもあるけど、ティラミスが美味しいと噂の店だったのでそれも楽しみだった。カフェに到着して注文して待っていると彼氏が到着する。「彼氏のコーくん。三歳年上なの。コーくん、友達の美羽」「はじめまして。真里奈の彼氏です」「はじめまして。美羽と申します」勝手にもっとチャラチャラした人とお付き合いしているのかと思ったけど、好青年でびっくり。爽やかなスマイルが眩しい。オレンジジュースをくるくるストローで回しながら、真里奈の話を聞いている。「出会いはどこだったの?」私が質問すると真里奈は笑顔で答えてくれる。「バイト先の先輩なんだけど、偶然高校が一緒だったの」「そうなんですね」二人の親密さが伝わってくる。いいな、恋とか愛とかって素敵に見える。憧れはあるけど私にはものすごく遠くにあるように感じていた「デートとかって、どんなことするの?」「えーっと。カラオケとか映画とか行くこともあるし、二人で家でゴロゴロしている時もあるしね」「うん」視線が絡み合う二人を見ると、胸がトクトクと音を立てた。甘い恋とかよく小説で見たりするけど、まさにこんな感じだろう。お互いを大事にして、痛みも喜びも共有して、愛を深めていく。二人で愛というものを育てていくものなのかもしれない「ね、コーくん。美羽の家に謎の男子が週一くらいで遊びに来るらしいんだけど、男としてどう思う?」「謎の男子? 美羽ちゃん、気をつけるんだぞ。いきなり襲われるってこともあるんだからな?」「男性ってそんなものなのでしょうか?」「もしかしたら美羽ちゃんのことが好きなのかもしれないけど……。告白とかされた?」「いえ、友達のようなお兄ちゃんのようなそんな感じです」コーくんは腕を組んで頭を捻っている。なかなか人には理解ができない関係なのかもしれない。「美羽は、初心過ぎんの。もう大学生なんだし、いろいろ経験しとかなきゃ。あ、コーくん。男の子紹介してあげて」「い、いいっ……。大丈夫だから」「知り合いで真面目でいいやつもいるし本当に誰かと付き合ってみたいなとか、まずは男お友達を作ってみたいっていうのがあったら気軽に言ってね」「ありがとうございます」その後、恋愛のことや
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する15

ファミレスでバイトを終えた夜、バイト仲間の小桃〈こもも〉さんに誘われて、カラオケに行くことになった。小桃さんはお金持ちらしくて、バイトなんかしなくてもいいのに、社会勉強をしたいから働いているらしい。いつもカラフルな服を着ていて独特なファッションセンスを持っている。「会員専用のカラオケなのよ」「ほう……すごい所に連れてきてくれてありがとうございます」連れてきてくれたのは見るからに高級そうなお店なので中に入るのを躊躇した。「いいえ。パパが接待とかで使うところなの。カラオケはここ以外知らないんだけど……いい?」「あ、でも……」「お金は気にしないで。おごるから、歌聞くの付き合って」「……はい。ではお言葉に甘えて」押しに弱い私。ちょっと遅い時間だったけど、付き合うことにした。可愛いけれどこの性格でちょっと金銭感覚がずれているから友達が少ないみたいだ。受付をしている時、ふっと横を見ると紫藤さんが綺麗な女性とCOLORのメンバーと一緒にいた。うちに来ている時よりもキリッとしたような印象だった。私の存在には気がついていないようだ。声をかけたいけれど、周りの人に変な目で見られたら嫌だし迷惑をかけるわけにもいかない。彼は芸能人なのだ。だから気づかないふりをしようと心に決めた。すると、紫藤さんは綺麗な女性の肩に手を回した。慌てて目をそらした。今のこのシーンを見ただけで心臓が切り裂かれたような痛みが胸を走る。紫藤さんにも恋人がいたんだ。いつからいたのだろう。あんな姿見たくない。今まで体験したことがない気持ちが沸き上がってきて気分が悪くなる。紺色の液体が血液を流れて、冷やっとして、体温が奪われていくような感覚だった。「どうしたの? 美羽ちゃーん?」「は、え、いえ……」小桃さんの声で紫藤さんがこちらを見た。遠くからだったけど、目が合った気がする。紫藤さんは、私の存在に気がついても美人な女性から手を離さない。私の目線を追った小桃さんが「あれ、どっかで見たことある……誰だっけ?」と抜けた声で聞いてくる。「ここ、芸能人とかもお忍びで来るんだよー。プライベートで来ているわけだし、恥ずかしいからサインくださいとか言っちゃ駄目よ。これが、セレブの世界なのよ。さ、歌おう」背中を押されて歩き出す。どんどんと紫藤さんの近くに向かっている。嫌だ、近く
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する16

部屋に入るとふたりではあまりにも広すぎる空間だった。パーティーでもできるのではないか。「じゃあ歌うから聞いててね」楽しそうに歌っている小桃さんを、ぼんやりと眺める。歌なんて耳に入ってこない。頭の中には紫藤さんの姿ばかり浮かんでいた。どうして、こんなに悲しい気持ちなのだろう。あんな綺麗な女性に勝てるわけはないし、落ち込んだって仕方がないのだ。そもそも私は紫藤さんのことを恋愛感情として見ていないはず。それなのになんでこんなに重たい気持ちになるのだろう。「ねぇ! ねぇってば! 美羽ちゃん、どうしちゃったのよ」「あ、ごめんなさい」小桃さんはつまらなさそうにソファーに深く座った。そして最新式の携帯電話で何か検索しているようだ。「思い出した! さっきのCOLORじゃない? 紫藤大樹、赤坂成人<あかさかなるひと>、黒柳<くろやなぎ>リュウジ。三人とも苗字に色が入ってるからってグループ名がCOLORなんだって。夜中の番組でやってた!」「はい、知ってます」「あら、もしかしてファンなの? そっかーじゃあサイン欲しいよねー。ごめん、ごめんっ。声をかけさせてあげればよかったね。でも暗黙の了解でここでそういうことをしちゃいけないってことになってるのよ」少しずつ少しずつ、COLORは知名度を上げてきている。「きっと売れるだろうね。イケメンだしダンスは上手い。それだけじゃないわ。特に紫藤って人は売れる素質を生まれ持った感じがある。けっこう、当たるのよ、私の勘」小桃さんはふたたび機嫌をよくした。本当に彼女の予想は当たりそうだ。わからないけれどそんな気がする。「あとは、楽曲に恵まれたらグーンと売れそう。ファンクラブの会長にでもなっておけば?」「ハハ、面白いね……それ」なんとか話を合わせて、頑張って笑顔を作る。小桃さんは曲を入れて歌いはじめた。その歌声を聞きながら、どうしてこんなに胸が苦しくなるのだろうかと考えていた。風邪でもひいたのかな。体の調子がおかしい。さっきまで元気でファミレスでバイトをしていたのに、何かが引き金になってこんな状態になったのかもしれない。
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する17

「今日は楽しかったね。ありがと」カラオケを終えて外に出ると、蒸し暑い夜だ。汗がじんわりと滲んでくる。もう深夜に近い。こんなに夜中まで遊んでいることを母に知られたら大激怒されるだろう。「またねー」小桃さんは、タクシーで帰っていく。そんなにお金がない私は、家までここから二駅だから歩いて行くことにした。携帯が鳴りバッグから取り出すと『紫藤大樹』の文字が浮かび上がっている。外灯があって明るいとはいえ夜だから、携帯の明かりはすごく光って見えた。……いや、紫藤さんの名前だから特別に見えたのかもしれない。なんとなく通話ボタンを押すのに躊躇する。先ほどの綺麗な女の人と一緒に居る光景を思い出して呼吸が苦しくなったのだ。動揺しているのを隠して話せるだろうか……。だけど、電話に出ないのもおかしいので冷静を装って通話を開始する。「もしもし」『美羽。今どこ?』「あーえっと……○○駅の近くです」『一人?』「はい」『こんな時間に危ないだろう。さっきの友達は帰ったのか?』「……だ、大丈夫ですよ。大人だし」まるで子供扱いされているようですごく嫌な気持ちになった。『まだまだ子供だろうが。迎えに行く。待ってろ』カラオケで私の存在に気がついていてくれたことは嬉しかったけど、一人の女性として見てほしい。たしかに、さっき紫藤さんの隣にいた女性は美しくて大人なオーラ全開だったけど。私だって大人だ。どうして紫藤さんの発する一言一言に、心がこんなに揺れるのだろう。「一人で帰れます。……一人で、帰りたい……」蚊が鳴くようなか細い声で言った。けれど、夜中に一人で歩くのは心細いし誰かにそばに居てほしいって思っているのが本心。だけど、素直になれなかった。『は? 何言ってんだよ。すぐ行けるから、○○駅の北口で待ってろ』電話が切れてしまった。その場から立ち去ってしまおうかと思ったけど、そんな勇気はなくて駅の北口の外で佇んでいた。最終電車がなくなった駅の周りは閑散としている。怖そうなお兄さんが歩いていたり、酔っ払ったおじさんがフラフラしていたり。昼間と違って夜は治安が悪くなっている気がした。こんなところを小娘が一人で歩いていたら危ないに決まっている。「美羽」すぐに目の前に現れてくれた紫藤さんの姿を見ると泣きそうになる。でも弱みを見せたくないのでなるべく平常心のような表情
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する18

「カラオケ、誰と行ってたの? あそこ、VIPばっかり来るところじゃん」振り返らずに話しかけてくる。「バイト先の知り合いと」「……ふーん。男も……、居たのか?」「いいえ」「そう」ポツリポツリと会話をするだけ。気まずい空気を作ったのは私なのだけど、いたたまれない気持ちになってくる。しばらく無言で私たちは歩いていた。「美羽は俺に質問しないのか?」「……特に質問は無いですけど、芸能人なんだなって思いました」「あっそう」だって、自分でもまだ心の中で整理できていないんだもの。このモヤモヤはどこからやってきて、何が原因で、どうすれば解決するのかわからない。また私たちは会話をせずに歩いていた。家の近くの路地に入ったら、ポツポツと外灯があるが暗い。やはりこの暗い中を一人で歩いてくるのは怖かったので一緒に帰ってきてくれてとてもありがたかった。でも綺麗な彼女がいる人に対して依存してはいけないと自分の心に蓋をする。「早く大人になれ、美羽」「大人です」俯いて歩いていた私は紫藤さんの胸に頭をコツンとぶつけて顔を上げる。至近距離で笑っている顔が外灯に照らされて見えて、ドキッと胸が鳴った。「ドジ」「……っ」「俺は、美羽が大人になるところを見届けるよ。それまで一緒にいる」「大人って何が大人なんですか?」紫藤さんは大人の男の人のような色っぽい笑顔を浮かべた。今までに私には見せてくれなかった瞳の色だ。「恋愛したら……かな」「そ、そんなの安易な考えだと思いますけど!」「シー。夜中だから小声でね、美羽」頭をポンポン撫でて笑っている。「恋ってさ、たぶん、すっげぇいいんじゃないか?」「だって……好きな人、できたことないって言ってましたよ、紫藤さん」「うーん。それが最近、できたっぽい」ピンときた。さっきの女の人だ。紫藤さんは、あの美人女性に恋をしてしまったのだろうか。「美羽は? まだ恋愛とかできそうじゃないのか? お兄ちゃんに言ってみろ」「……わからない……です」私は、紫藤さんにとっては妹のような存在だ。そんなの最初からわかっているのに、なんだか嫌な気持ちになる。「大人になるところを見届けるって。それって、いつかお別れしちゃうってことですか?」「美羽に好きな人ができたとする。で、彼氏ができたとする。そうしたら、彼氏は俺の存在が邪魔になる
last updateLast Updated : 2025-01-09
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第一章 過去と現在が交差する19

紫藤さんは素敵な人だ。紫藤さんが恋をした相手もきっと素敵な女性なのだろう。先ほどカラオケでしか見てないけどとてもお似合いだった。二人が恋人になるのにそんなに時間はかからないはず。そうなれば私とはもう会ってもらえなくなってしまうのだ。想像するとあまりにも悲しくて寂しくて。今日はもう帰らないでと思ってしまった。「泊まりますか?」「……うん。もう、疲れちゃったし。寝たい」会えなくなる人なのに、家に泊めちゃうのは私の意志が弱いからなのだろうか。部屋に一緒に入ると、紫藤さんは欠伸をしてソファーに横になってしまった。そんな姿を私はただ見つめる。目を閉じるとまつ毛の長さがハッキリわかって、鼻は高くて唇は形がいい。お化粧したら女の子よりも、可愛いかもしれない。「シャワー借りようかな。汗でベトベト」本当に疲れた様子だが紫藤さんは起き上がる。「美羽も一緒に入ろうか?」「はい?」「嫌なの? 俺のことお兄ちゃんだと思っていたら、意識しないで普通に入れるんじゃない?」茶色の瞳でちょっと見つめてきて私の心を覗かれているような気がした。からかっているのだろう。クククと喉を震わせて笑っている。紫藤さんは異性なのだと、はじめて意識した気がする。目の前にいる人は男。もしかしたら急変して襲われてしまうかもしれない。はじめては痛いらしい。何を考えているの、私ったら。話が飛躍しすぎた。「どうしたの、美羽。怯えている?」紫藤さんが目の前にしゃがんで視線を合わせてくる。私は少し後ずさった。「怯えてなんか、ないです」「それでいいんだよ。男を警戒することも大事。ちょっと大人になったんじゃない?」「……っ」「だから、俺以外の男をここに入れちゃ駄目だぞ。危ないから」シャワー借りるねと言って、バスルームに消えてしまった。しばらくして、シャワーの流れる音が聞こえてくる。はじめては痛い。だから嫌なんじゃなくて……。恋の延長線上にそれがあってほしい。私……恋人が欲しいんだ。だからと言って誰でもいいわけじゃない。ちゃんと好きになった人と結ばれたい。胸に手を当てて大きく息を吸う。うまく、呼吸ができない。心と体の細胞が噛み合っていないような。苦しい――。ガチャっと音がして振り返ると上半身裸の紫藤さんが頭を拭きながら出てきた。引き締まった見事なボディーだ。腹筋が割
last updateLast Updated : 2025-01-09
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