All Chapters of 目黒様に囚われた新婚妻: Chapter 171 - Chapter 180

瑠璃は道端でタクシーを拾い、迷いなくその場を離れた。車窓から見える道路標識に書かれた「四月山」という三文字が、まるで針のように彼女の心を刺した。彼女は突然、自分の心の中に残っていた唯一の清らかな場所までもが汚されてしまったように感じた。なんて穢らわしい。隼人が外に追い出てきた時には、瑠璃の姿はもうどこにもなく、ただ一台の車が四月山の道を遠く走り去るのが見えるだけだった。彼の胸の奥が、また沈んでいくような感覚に襲われた。まるで四月山の海の底深くへと引き込まれるように。彼女は行ってしまった。3年前に、彼女はすでに自分の前から消え去っていたのだ。彼は何度も自分にそう言い聞かせたが、この現実をどうしても受け入れることができなかった。「隼人、どうしたの？」蛍が慌てて追いかけてきて、隼人の不可解な行動や表情に困惑していた。しかし、隼人はただ彼女を一瞥しただけで、淡々とした声で「車に乗れ」とだけ言った。蛍は慌てて車に乗り込んだ。どうせ自分の芝居はすでに終わったのだし、本当に海に飛び込むつもりなどさらさらなかったのだから。「隼人、明後日は私の誕生日よ。ただあなたのそばにいられるだけで満足だけど……でも君ちゃんももう大きくなったし、いろいろ分かる年齢になったの。周りから隠し子なんて呼ばれるんじゃないかって、とても心配なの。だから……私たち、結婚しましょう」隼人はアクセルを踏みかけた足を一瞬止めた。彼の深い瞳が蛍の涙を浮かべた目と交わり、彼は静かに問いかけた。「正直にひとつ、答えてほしいことがある」隼人の視線を受け、蛍の心臓は一瞬早鐘を打ったようになったが、表向きは無邪気で無垢な様子を装った。「隼人、何でも聞いて。全部答えるわ」「瑠璃が妊娠していたこと、お前は俺よりも先に知っていたんじゃないか？」まさかそんな質問をされるとは思っていなかった蛍は、一瞬だけ動揺したが、すぐに首を必死に横に振った。「瑠璃が妊娠していたなんて、彼女は私に一言も言わなかったわ」「そうか」隼人は意味ありげにそう反問すると、アクセルを踏み込んだ。その時の彼の目が、蛍を心底怯えさせた。蛍はこっそり拳を握りしめ、突然現れた千ヴィオラを心の中で罵倒した。千ヴィオラの存在が、隼人に自分への疑念と瑠璃への思いを呼び起こしたに違いないと確信して

蛍は隼人の返事を待ちながら、恥じらいを浮かべた表情で心の中では舞い上がるほどの幸福感に浸っていた。しかし、周りの人々が一斉に「プロポーズしろ！」と隼人に声を上げている中で、突如として場違いな一言が響き渡った。その瞬間、蛍の笑顔は凍りつき、強い不満のあまり歯を食いしばった。「どうして彼女がここに来るのよ！」隼人は真っ先に声のする方向に振り返った。そして、毎晩夢の中で現れるあの顔が突然、現実の中に飛び込んできた。次いで周囲の人々も視線を向けると、そこにはしなやかで優雅な姿が見え、その顔がはっきりと見えた瞬間、夏美と賢の瞳孔が大きく見開かれ、言葉を失った。「これは……瑠璃？！そんな、そんな馬鹿な！」夏美の顔は真っ青になり、まるで恐怖に押しつぶされるように足を引いた。もし隣に賢が支えていなければ、気を失い倒れていたかもしれない。死んだはずの人間が突然目の前に現れるのだから、恐ろしくないはずがなかった。賢もまた驚きに目を見張っていたが、彼は男としてそこまで怯えることはなかった。なにしろ、自分には特に後ろめたいことはないと思っていたからだ。彼の目には、目の前に現れたのは人間であり、幽霊などではあり得なかった。ただ、明らかに死んだはずの瑠璃がどうして生きているのか、それが疑問だった。死んでいなかったことはまだしも、どうしてまた戻ってきて混乱を引き起こすのか？ 彼はこの女が再び自分の愛娘である蛍を傷つけることを決して許さないと心に誓った。蛍は今日という日は自分が全ての注目を浴びる中心人物になるはずだと信じていた。だが、目の前にゆったりと歩いてくる千ヴィオラを見た瞬間、自分がまるで踏みつぶされるような劣等感を覚えた。彼女は手を伸ばして隼人の袖を掴もうとしたが、隼人が彼女を無視して千ヴィオラの方へ足を進めるのを目にした。「隼人……」蛍は傷ついた表情で呼びかけたが、隼人は振り返ることなく進み続けた。瑠璃は軽やかにワンピースを纏い、優雅な歩みでその場に現れた。精巧な小顔には穏やかな微笑みが浮かび、その美しさは誰の目にも明らかだった。その気品と清らかなオーラは群を抜いていた。そんな千ヴィオラの姿を見て、隼人の心と頭の中に浮かんでいたのは瑠璃だった。彼女たちは驚くほどよく似ている。ということは、かつての瑠璃もこんなに美しかったのだろう

蛍は内心では瑠璃の存在に強い拒絶感を抱いていたが、周囲に優しく可憐な印象を与えるため、笑顔で瑠璃から渡されたプレゼントの箱を受け取った。「ありがとう」そう言いながら、彼女は隼人の袖をそっと引き、「隼人、行きましょう。お客さんたちをこれ以上待たせるのはよくないわ」「そうだな、早く中に入っておいで」夏美と賢も笑顔で促しながら言った。「今日は良い日だから、婚期をさっさと決めてしまいましょう」蛍は恥じらいながら微笑み、隼人を見つめた。「隼人、やっとあなたのお嫁さんになれるのね」瑠璃は蛍の満面の笑みを見ながら、気づかれないように小さく笑みをこぼした。一行が庭へ戻ると、多くの招待客たちの視線が瑠璃に集中し、彼女の正体や来歴をひそひそと話し合う声が聞こえてきた。その光景に、蛍の不機嫌さがますます膨らんだ。さらに、隼人がプロポーズの話題に反応を示さないことに不安を覚えた。もし今日、隼人が自分にプロポーズしなければ、彼女の体面は丸つぶれになってしまう。少し考えた末、蛍は夏美と賢に向かって、「パパ、ママ、ちょっと具合が悪くなったみたいだから、部屋で少し休みたいわ」と言った。夏美と賢はすぐさま心配そうに駆け寄り、「どうしたんだ？大丈夫か？」と声をかけた。「大丈夫よ。パパとママはお客様のおもてなしをお願いね」蛍は優しい微笑みを浮かべて続けた。「隼人、部屋まで一緒に来てくれる？」しかし、隼人はすぐには答えず、まず瑠璃に目を向けた。「ヴィオラさん、どうぞご自由に。後で少しお話がある」瑠璃は穏やかに微笑みながらうなずいた。その光景を目にした蛍は、怒りを抑えきれない顔で踵を返し、屋内へと足早に入っていった。二人の後ろ姿を見送った後、瑠璃は平然とした様子で庭を歩き始めた。誰も彼女に関心を示さず、実の両親でさえ一瞥もくれなかった。瑠璃は豪奢な庭園をゆっくりと歩きながら、石畳を踏みしめ、別荘の風景を目に収めていった。それは絢爛豪華とまではいかないものの、十分に威厳と豪華さを備えた造りだった。20年以上前の離別がなければ、ここが自分が育つはずだった家だったのだろう。しかし、もしその離別がなければ、海岸で隼人と出会うこともなかっただろう。瑠璃には、自分がどのようにして幼い頃に家族から離れることになったのか、その理由はわからな

蛍の声はどんどん大きくなり、隼人の前で初めてこれほど感情を爆発させた。彼女は隼人にしっかりと抱き留められた瑠璃を力任せに引っ張りながら、鋭い声で叫んだ。「千！やっぱりあんたなんて信用できない！誕生日プレゼントなんて口実で、最初から隼人を誘惑するつもりだったんでしょ！」瑠璃は内心、蛍の騒々しい声にうんざりしていた。もし相手を怒らせる必要がなければ、本気で一発平手打ちを見舞いたいところだった。しかし、彼女はそんなことをせず、あえて頭を軽く傾け、ふらふらとした様子で眉を寄せた。「四宮さん、誤解です」「誤解なんかじゃないわ！私は自分の目で見たのよ！このクズ女め！」怒り狂った蛍は、手を振り上げて瑠璃の顔に平手打ちを食らわせようとした。「パシッ！」しかし、その手が瑠璃の顔に触れることはなかった。隼人が素早く手を伸ばし、彼女の手首をがっちりと掴んだのだ。隼人の暗く冷たい瞳が蛍をじっと見つめ、その表情に彼女は完全に動揺していた。「ただ彼女を支えただけだ。それを理由に、ここまで人を侮辱する必要があるのか？」隼人の声は冷たく、言葉には一切の感情が感じられなかった。その冷淡さに、蛍は胸が締め付けられるような悲しみを覚え、思わず涙をこぼした。「隼人、私、こんな風に話されたことなんて一度もなかったのに……」彼女が泣き言を漏らすと同時に、隼人は掴んでいた手を放しながら、冷たい表情を保ったまま言った。「俺はいつもこういう話し方だ。お前が深読みする必要はない。でも、お前のさっきの言動は行き過ぎだ。ヴィオラさんに謝りなさい」「え？」蛍は信じられないという顔で目を見開いた。「私に彼女に謝れって言うの？」彼女は隼人の隣に立つ瑠璃を睨みつけ、歯を食いしばりながら怒りを押し殺した。「私は絶対に彼女になんか謝らない！」「気にしないでください、謝罪なんて必要ありません」瑠璃は穏やかで柔らかな声で言った。そして、蛍に目を向けると、控えめに微笑みながら続けた。「四宮さん、不快にさせてしまったなら、申し訳ありません」「千、そんな芝居はやめなさい！あんたが隼人を狙ってるのはお見通しよ！どうして私が、あんたみたいな人間に謝らなきゃならないの？」「もういい！」隼人が冷たい声で彼女の言葉を遮った。その鋭い眼差しは、まるで彼女の心を見透かすかのようだった。

蛍は震える声で隼人を引き止めようとした。「隼人、行かないで！どこに行くの？私たちの結婚のことは……」「今日はそんな気分じゃない」隼人は冷淡に一言だけ返し、蛍がしがみついている腕を振り払った。「隼人！」蛍はさらに呼びかけたが、隼人は迷いなくその場を立ち去った。碓氷夫妻や招待客たちは、隼人の態度に困惑していた。彼が何を考えているのかは分からなくても、彼が少なくともプロポーズする気がないことだけは明らかだった。むしろ、どこか苛立っているようにさえ見えたのだ。その場にいる全員が思わず疑問を抱いた――隼人は本当に蛍のことを愛しているのだろうか？愛しているのであれば、なぜこれほどまで結婚を引き延ばし、しかもこんな公の場で蛍を置き去りにするのだろうか？蛍はドレスの裾を持ち上げ、必死で隼人を追いかけた。すると彼女は、少し先を歩いている瑠璃の姿を見つけた。ちょうどその時、隼人の車が瑠璃のそばに停まり、彼は紳士的に車のドアを開けて彼女を乗せ、そのまま車を発進させた。この光景を目にした蛍は、ドレスの裾を掴む手に力を込め、怒りに燃える目で車の後ろ姿を見つめた。「千ヴィオラ！」彼女は歯ぎしりしながらその名前を叫び、唇が震えていた。瑠璃は完全に確信していたわけではなかった――隼人が自分について来るかどうか。だが彼は予想を超え、蛍を置き去りにしただけでなく、自分を車に乗せた。車はしばらく走り続け、最終的に四月山の海岸に停まった。瑠璃は少し驚いたが、以前ここで隼人と蛍が抱き合っていたのを目撃して以来、この場所に対して嫌悪感を覚えるようになっていた。隼人が車のドアを開けたため、彼女は仕方なく降り立った。夏の終わりの海風が吹き抜け、その香りが彼女の記憶を若い頃へと引き戻した。突然、タバコの火をつける音が聞こえ、振り返ると隼人の長い指の間にタバコが挟まれていた。彼はスポーツカーに無造作に寄りかかり、薄い唇から煙をゆっくりと吐き出した。その白い煙が彼の端正で力強い顔を包み込み、どこか儚げな表情を浮かべていた。記憶の中の彼はタバコを吸わなかった。いつから吸い始めたのだろうか。「目黒さん、婚約者を置き去りにして、私をここに連れてきた理由は何ですか？」と瑠璃は彼を見つめながら困惑した表情を作った。「私、これから予定があるので、長居は