All Chapters of 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

西也が口を開いた。 「食事はお口に合ったか?」 美咲はうなずきながら答えた。 「とても美味しいです。ごちそうさまでした」 「お前は若子の友人だ。つまり俺の友人でもあるからな。もちろん、ちゃんと招待するのが筋だ。ただ......」 西也が「ただ」と言いながら言葉を切った。 美咲は少し首を傾げて尋ねる。 「ただ、何ですか?」 西也は箸を置き、真剣な表情で続けた。 「高橋さん、率直に言うけど、どうもお前がここに来た時から、若子が俺たちを二人きりにしようとしている気がするんだ。まるで、俺たちが以前から親しい間柄だったみたいに......俺たちって、以前会ったことがあるのか?」 その言葉に戸惑った美咲は、一瞬、本当のことを伝えるべきか迷った。けれども、若子のことを考えると、どうにも言葉が出なかった。 西也は、記憶を失っていながらも持ち前の鋭さで何かを感じ取ったのか、さらに問いかけた。 「高橋さん、何か言いたいことがあるなら、隠さずに教えてほしい。お前も分かるだろ、今の俺の状況を。俺は本当にすべてを知りたいんだ」 「松本さんは全部教えてないんですか?」美咲は驚いたように聞き返した。 西也は苦笑いを浮かべながら答える。 「少しは話してくれたけど、完全じゃない。きっと俺を気遣ってくれてるんだろうけど、それが逆に俺を過保護にしてる気がするんだ。正直、過保護にされるのは好きじゃないんだ。だから、高橋さん、もし知ってることがあれば教えてくれないか?」 美咲はちらりとドアの方を見やった。若子がまだ近くにいるかもしれないと思ったからだ。 美咲のためらいに気づいた西也は立ち上がり、 「ちょっと待って」と言うと、ダイニングを出ていった。 わずか一分も経たないうちに戻ってきた西也は、笑いながら言った。 「高橋さん、確認したけど、若子は裏庭に行ったよ。お前も分かるだろ、彼女はまた俺たちを二人きりにしようとしてるんだ。俺には本当に分からない。俺の妻である彼女が、どうしてこんなにも俺たちを安心して放っておけるのか......」 西也は苦笑いを浮かべたが、その胸中では自分が何を知っているのかを確信していた。若子との結婚が偽物だということ―あの日、彼女と成之の会話を盗み聞きしてしまったのだ。それは西也にとって晴天の霹靂だった
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第612話

西也の頭には何も記憶がなかった。記憶を失っているとはいえ、美咲に対しては一切の感情が湧かない。 若子に関する記憶もなくなっていたが、彼女への「想い」だけは鮮明に残っていた。もし本当に美咲を好きだったなら、記憶がなくなったとしても感情まで消えてしまうものだろうか? いや、たとえその感情が薄れていたとしても、実際に彼女に会ったときに何も感じないなんてことがあり得るだろうか? 西也が困惑した表情を浮かべているのを見て、美咲が口を開いた。 「あなたは彼女を騙しているんです。本当は私のことなんて好きじゃない。本当は彼女が好きなのに、それを言えなくて、代わりに『高橋美咲が好き』って言いましたよ。そして偶然、私の名前が高橋美咲です」 美咲は続ける。 「以前、松本さんはあなたの好きな人に会いたいと言っていたんだと思います。それであなたの妹さんが私を代役として連れて行ったのでしょう。私もあの時は本当に何が起きているのか分からず、ただ困惑していました。でも、よく考えると、多分そういうことだったんだろうと今になって思います」 美咲の話を聞き終えた西也は、しばらく黙り込んだ。腕を組み、椅子の背もたれに寄りかかると、じっと美咲を見つめる。眉間には深い皺が刻まれ、その顔は真剣そのものだった。 美咲はその沈黙に不安を覚え、慌てて言い足した。 「これはあくまで私の推測です。絶対に正しいとは言い切れません。だから、あまり真に受けないでください。あなたが記憶を取り戻せば、自然とすべて分かるはずですから」 西也は少し考え込み、ようやく口を開いた。 「お前の推測、当たってると思う。そういうことなんだろうな。ようやく分かったよ―どうして今日、若子が俺たちを二人きりにしたがっていたのか。きっとお前が俺の記憶を取り戻す手助けをしてくれると思ったからだろう。彼女は俺が本当にお前を好きだと信じているから」 西也は苦い笑みを浮かべ、首を振った。 「若子ったら、全然分かってない。確かに彼女のことを覚えてないけど、彼女に対する気持ちだけは忘れてないのに」 そして彼はうつむき、力なく呟いた。 「いや......分かっているんだ、きっと。だけど逃げてるんだろうな。ちょうど俺が『好きな人がいる』なんて嘘をついたから、彼女もそれを都合良く受け入れて、俺から距離を取る口実
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第613話

「ありがとう、高橋さん。お前は本当にいい人だと思う。俺の嘘のせいで巻き込んでしまったことを謝りたい」 西也は礼儀正しくも誠実で、全く偉そうな態度を見せない。 「気にしないでください。別にわざとじゃないですし」 美咲も柔らかい笑みを浮かべながら答える。彼女の中で西也への印象は悪くない。それどころか、失われた記憶の前でも今でも、彼の品の良さや魅力が自然と女性を惹きつけるのだと感じていた。 「とはいえ、やっぱり迷惑をかけたのは事実だ。今日お前がこうして話してくれて、俺の疑問もいくつか解けたよ。だから、何か俺にできることがあれば教えてくれ。お礼をしたいんだ」 その誠実な態度を前に、美咲はふと頭に浮かぶことがあった。 彼女が少し考え込む様子を見て、西也が尋ねる。 「どうした?何か言いたいことがあるなら、遠慮なく話してくれ」 「実は......一つだけ気になったことがあります。今日の昼、レストランで食事していた時のことですが......あなたたち四人の間、なんだか変な雰囲気でした。それに、あの桜井という女性―最初、あなたのことを普通の人と見ているようで、少し見下している感じがありました」 西也は頷きながら言う。 「ああ、俺も感じた。あいつには妙な優越感があった。俺を下に見ているような態度だったな。でも、お前がそう言うなら、ますます確信が持てた」 美咲は話を続けた。 「でも、私が『遠藤総裁』って言った後、彼女が私のところに来て、あなたがどういう人なのか尋ねてきました。それで、あなたが雲天グループの総裁だと伝えたら、すごく驚いていました」 西也は薄く笑みを浮かべる。 「あの女、見るからに俗っぽい奴だな。お前に何か嫌がらせとかされなかったか?」 美咲は少し気まずそうに笑いながら答えた。 「直接的に何かされたわけじゃないです。ただ、たぶん彼女が店長に頼んで、私を解雇させたんだと思います。昼食が終わった後、店長から急に辞めてくれと言われましたから」 西也の表情が険しくなる。 「それ、桜井がやったんだな?」 「多分、他に思い当たる人はいません。私は普段から真面目に仕事をしてきましたし、店長もお客さんのせいだとは明言しなかったけど、状況的にそうだと思います」 西也は冷たい目で呟く。 「陰湿な女だな......
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第614話

遠くからその様子を見ていた若子は、ほっと息をつくと、ゆっくりと二人の元へ歩み寄りながら言った。 「ごめんなさい、友達から電話があって、久しぶりに話し込んじゃったの。すごく楽しそうに話してたみたいね」 「そうだよ。高橋さんって、本当に話してて面白い人だ。彼女と話してると、気持ちがすごく楽になるんだ」 西也がそう言いながら柔らかな笑みを浮かべると、それを見た若子も自然と微笑んだ。 若子は西也の隣に腰を下ろし、その明るい表情を見て、今日は高橋さんと西也を二人きりにして正解だったと感じた。 やっぱり好きな女性の前だと違うんだな、と彼女は心の中で思った。西也は美咲と一緒にいると、本当にリラックスしている。二人は案外お似合いかもしれない。 夕食の間、若子は頻繁に席を外した。トイレに行ったり、ちょっと用事があると言ったりして、ほとんどの時間を二人だけで過ごさせた。その結果、この夕食はずいぶんと長引いた。 食事が終わっても、若子は美咲をすぐには帰そうとせず、彼女を引き止めて会話を続けた。 そして時折、話題を二人に振り、自分はそっと会話の輪から外れて静かにしていた。 西也が美咲と話している様子は、若子にとってはとても微笑ましく映った。西也が美咲に本当に心を開いているのか、それとも若子の気持ちを気遣って、あえて美咲と話を合わせているのかは分からなかった。それでも、二人の会話が弾んでいるのは確かだった。 そんな様子を見て、若子は思った。もしかして高橋さんも西也を気に入っているのではないか?高橋さんが彼をきっぱり拒絶したなんて、本当だろうか?どこかに誤解があるのでは......? 気づけば、夜はすっかり更けていた。美咲ははっと我に返り、驚いた。気づけば西也とこんなにも長い時間話し込んでしまっていた。しかも、彼の妻である若子がすぐそばにいる状況で― それどころか、この状況そのものが若子によって意図的に作られたものだと考えると、改めて妙に滑稽に思えてしまう。 美咲はちらりと時計を確認し、口を開いた。 「もう遅いので、そろそろ失礼します」 「もう帰りますか?」若子は少し残念そうに尋ねた。 「ええ、さすがにもう遅いので、そろそろ失礼します」 若子も時計を見てうなずいた。 「確かに遅いですね。本当にごめんなさい、こんなに引き止め
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第615話

美咲はわずかに口元を引きつらせながら、静かに尋ねた。 「本当にそう思うんですか?」 若子はすぐに頷いて答えた。 「ええ、本当にそう思います」 「......嫉妬とかしないんですか?あなたは彼の奥さんなんでしょう?たとえ、お二人が......」 若子は軽く笑いながら言った。 「私が何を嫉妬するんですか?心配しないでください。嫉妬なんてしませんよ。だって私と彼は本当の夫婦じゃありませんし、むしろ彼が自分にぴったりの女性を見つけてくれることを願っています。高橋さん、あなたは本当に彼にふさわしいと思いますよ。彼があなたをそんなに好きなのも分かる気がします。以前、彼が私にあなたの話をしたとき、本当に嬉しそうで、それと同時に少し悲しそうでもあって......きっと彼にとって、あなたの存在は特別なんでしょうね。誰かを好きになるって、そういうものなんだと思います」 その言葉を聞いて、美咲は心の中で少し気まずさを覚えた。どう答えていいか分からず、視線をそらす。 ―本当にこの子は、どうしてこんなに鈍いのだろう。遠藤さんが好きなのはあなただというのに、どうして気づかない?もし彼が本当に私を好きだったなら、私は絶対に彼を拒まない。それだけ魅力的な人だもの。拒絶できるのは、あなただけよ、この鈍感さん...... 若子が少し首を傾げて尋ねた。 「高橋さん、どうしましたか?何か気になることがあれば教えてください。私で力になれることなら何でもします。それとも、どこか具合が悪いとか?」 「いえ、そうではなくて......」美咲は言葉を選びながら答えた。 「ただ、私はお二人がすごくお似合いだと思うんです。もしかして......彼はあなたが思っているほど私のことを好きじゃないのかもしれませんよ。むしろ、あなたと一緒にいる方が幸せなんじゃないですか?」 その言葉に若子は一瞬動揺したようで、微笑みが少し引きつった。 「高橋さん、誤解しないでください。私と西也はただの―」 美咲は少し真剣な声で遮るように言った。 「松本さん、正直に答えてほしいんです。彼があなたと一緒にいるのを好きだと思いませんか?」 若子は小さく息をついて答えた。 「確かに彼は私にとても優しいです。でも、西也は記憶を失っていますから......それで、私に対して依存してい
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第616話

「私......」 美咲は言葉を詰まらせた。自分の気持ちがよく分からない。もし「好きだ」と言えば、それはあまりに急すぎる。西也とは数回しか会ったことがないのだから。だが「好きじゃない」と言うのも正直違う気がした。 西也は確かに魅力的な男性だ。その品格や洗練された仕草は、たとえ記憶を失っていても彼の持つ自然な優雅さを損なわない。そんな彼に惹かれない女性などいるだろうか? 美咲が答えをためらっているのを見て、若子は微笑んだ。 「少なくとも、少しは気になるってことですよね?」 美咲は少し気まずそうに視線をそらしながら答えた。 「松本さん、私は―」 「若子でいいよ」若子は穏やかに微笑みながら言った。 「美咲って呼んでもいい?私たち、もっと気楽に話そう」 「うん、分かった」美咲も小さく頷く。 「若子、ただ......あなたたちは今、夫婦でしょう?たとえどんな理由で結婚しているにせよ、私が遠藤さんに気持ちを持ったら、それはよくない気がする。なんだか罪悪感を覚えちゃう」 美咲の言葉に、若子は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「ごめんなさいね。私が軽率だったわ。あなたがそう感じるのも無理ないと思う。でも、本当に気にしないで」 若子は声を落として、そっと言った。 「西也とは、そのうち離婚するつもりだから」 「でも......彼の方は本当に離婚したがってるの?」 美咲はそう尋ねながら、心の中で西也が若子を本当に愛していることを思い出していた。彼自身が口に出していないのだから、美咲が代わりにそれを言うべきではないだろう。 若子は一瞬言葉を詰まらせたが、返事をしようとした時、スマホの通知音が鳴った。彼女は画面をちらっと確認すると、再びポケットにしまい、静かに答えた。 「美咲と西也がどうなるか分からないけど、少なくとも私と彼の未来は見えている。私たちは必ず別れるわ。だから、もしあなたが彼のことを好きなら、思い切って追いかけて。私のことなんか気にしないで。私は......ただの通りすがりに過ぎないから」 美咲は若子を真っ直ぐ見つめ、真剣に言った。 「でも、若子は彼にとって特別な存在だと思う。たとえいつか離婚して、彼が別の誰かと一緒になったとしても、それは変わらないんじゃない?」 若子は少し寂しげに笑いながら
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第617話

西也の姿を見た美咲は驚いて、思わず立ち上がった。 「遠藤さん、どうして......?」 西也はドアを閉めて彼女に近づきながら言った。 「もう寝るところか?」 美咲は首を横に振った。 「まだですけど......何かご用ですか?」 「ちょっと様子を見に来ただけだよ。さっき若子がお前の部屋から出ていくのを見たけど、何か話したのか?」 「ええ、特に大したことは言われてないです。必要なものを準備してくれて......」 美咲は少し口ごもる。もし、若子が話した内容を西也に伝えたら、彼はきっと傷つくに違いない。 そのためらいに気づいたのか、西也は穏やかな声で続けた。 「実は、俺もだいたい察しがついているんだ」 「......?」 「記憶がないけど、それでも分かるんだよ。俺と若子の結婚は、普通の形じゃないって。だから彼女が俺とお前をくっつけようとしているんだろう?彼女はきっと、俺と離婚したいと思ってる」 美咲は一瞬言葉を失い、何も言えなくなった。 西也は俯きながら、自嘲気味に笑って言った。 「きっと俺がどこか至らないんだろうな。だから―」 「違います、遠藤さん!」 美咲は慌てて声を上げた。 「あなたは本当に素晴らしい人です。もしかしたら、若子に気持ちを伝えなかったことが原因なんじゃないですか?それに......あなたが『好きな人がいる』なんて言ったから、余計に誤解を生んでしまったんだと思います」 「......つまり、若子に告白しろってことか?」 美咲は真剣な表情で頷いた。 「ええ、そうすべきだったと思います。わざわざ好きな女性の話を作り出して、若子を遠ざけるようなことをしたら、彼女があなたの気持ちを分かるわけないでしょう?彼女の立場で考えたら、あなたが別の人を好きだと思い込むのは当然です」 西也は小さくため息をつきながら言った。 「でも、俺は彼女に負担をかけたくなかったんだ。彼女がここ最近、俺の世話で疲れているのも分かるし、それに前夫からひどい傷を負わされて、心に深い痛みを抱えている。そんな彼女に、俺がさらにプレッシャーを与えるなんてできない。若子が一番恐れているのは、誰かに愛されることだろう。彼女は愛情に傷つきすぎたんだ」 西也が慎重な声で語るのを聞いて、美咲は心の奥がちくりと痛んだ
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第618話

若子が自室に戻ると、スマホを手に取った。 少し前、美咲の部屋にいた時、成之から届いたメールに気づいたのだ。彼が送ってきたのは、海外の医療機関に関する資料だった。 ちょうどそれを確認しようとした時、部屋のドアがノックされた。 「若子、俺だ。入ってもいいか?」 若子はスマホを横に置いてから答えた。 「ええ、どうぞ」 西也が部屋に入ってくると、彼女をじっと見ながら尋ねた。 「若子、今日の夜どうしたんだ?何か調子でも悪いのか?なんだか、あんまり話してなかった気がする」 「体調は悪くないわ」若子は淡々と答えた。 「ただ、あなたと美咲が楽しそうに話してたから、邪魔しないように黙っていただけ」 その答えに、西也は少し慌てたような表情を浮かべた。 「もしかして、不機嫌になったのか?もしそうなら......もう二度と彼女と話さない」 そんなに焦った様子の西也を見て、若子は思わず笑いそうになった。彼のそんな姿が少し可愛く感じたからだ。 「西也、私は不機嫌になんてなってないよ。むしろ嬉しいくらい。あなたが美咲と話が合うのは良いことだと思ってるわ。二人がまた話す機会があったら、ぜひそうしてちょうだい」 若子がそんなにも寛大な態度を取ったことで、西也の顔は一気に曇った。不機嫌そうに彼女をじっと見つめながら言った。 「若子......俺たちは夫婦だろう?お前は俺の嫁なんだぞ。それなのに、どうして俺が他の女と話すのをそんなに気にしないんだ?嫉妬くらいしてくれよ!」 その言葉に、若子は自分が少し大らかすぎたことを悟った。彼女は立ち上がり、西也の前に歩み寄ると、真剣な目で話し始めた。 「西也、あなたが誰かと話せるのはいいことだと思うわ。自分の気持ちに従えばいいの。私はあなたに、何でも口出しするような妻になりたくないの。美咲もとても良い人だし、彼女と話すことであなたがリラックスできるなら、それはきっと記憶を取り戻す助けにもなると思う。だから、私が嫉妬するなんて気にしないで。大丈夫よ」 西也は苦笑しながら、どこか呆れたように言った。 「お前って、本当に大らかな嫁だな」 彼はそう言いながら若子の手をそっと握った。 「でも、安心しろ。俺はお前を傷つけるようなことは絶対にしない」 若子は手を引こうとしたが、一瞬考えてから、
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第619話

若子が視線をそらしたのに気づいた西也は、彼女を追い詰めるようなことはしなかった。ただ軽く頷いて言った。 「分かった。それじゃあ、早く休めよ」 若子も小さく「うん」と返事をした。 「あなたもね」 その「ね」という言葉が口から落ちた瞬間、突然、熱い感触が彼女の唇に押し寄せた。 若子は驚いて目を大きく見開き、呆然としたまま、腕をだらりと垂らして硬直してしまった。まるで石になったかのように。 西也は、彼女が反応する前に、ふっと唇を離した。 若子はまだ目を見開いたまま呆然としている。そんな彼女を見て、西也は微笑みながら手を伸ばし、そっと彼女の鼻を軽く突いた。 「どうした?まるで俺がお前から何か奪ったみたいな顔だな。俺はお前の夫だぞ。まさか殴るつもりじゃないだろうな?」 若子はぎこちなく口元を引きつらせて答えた。 「そんなことないわ。ただ......急だったから、びっくりしただけ」 「まるで今までキスしたことがないみたいな言い方だな。俺が以前お前にキスする時は、いちいち断ってからしてたのか?」 若子はうなずきながら返す。 「ええ、そうよ」 彼女はどう答えていいか分からず、とりあえずそう言うしかなかった。 「じゃあ次からは、ちゃんと事前に教えてやるよ。ただ、時々はサプライズも悪くないだろ?」 そう言いながら、西也は彼女の腰にそっと手を回した。その瞬間、彼女の体が緊張して硬直するのを感じたが、西也はそのことに触れず、穏やかな声で続けた。 「若子、俺たちは一緒に寝られないとしても、俺はお前の気持ちを尊重するよ。でも、俺たちは夫婦だ。全く触れ合わないのはおかしいだろう?キスくらいなら、拒まなくてもいいんじゃないか?」 彼の声は穏やかで忍耐強く、眼差しには哀しみと戸惑いが滲んでいた。 若子はどう答えればいいか分からなかった。西也にとって、二人は夫婦なのだから。 「西也......たぶん妊娠してるせいだと思うの。体のホルモンバランスが変わって、そういう接触が少し不快に感じるの。ごめんなさい」 彼女はどうにか理由を絞り出した。 西也は軽くため息をつき、彼女の手を放した。 「その話、聞いたことがあるよ。妊娠中の女性は大変なんだよな。感情が不安定になるって聞くし......ごめん、俺が悪かった。次はこんな
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第620話

若子は膨大な資料をじっくり読み進めていた。 一語一句、曖昧な箇所を見逃さないようにと慎重に目を通していたが、中には翻訳しても意味がよく分からない文があった。それはあまりにも専門的な医学用語が並ぶためだった。 彼女はそれらを調べるためにネットで検索を繰り返し、そうしているうちに時間はどんどん過ぎていった。気づけば、資料をすべて読み終えた頃には空が白み始めていた。 深い疲労を感じながら、若子はあくびを一つ漏らし、浴室に向かって顔を洗った。 ―この資料によれば、あの医療機関の治療法は確かに効果が期待できそうだ。西也にも大きな助けになるだろう。それに、彼の叔父が紹介してくれたものなら、信頼できるはず。慎重な人だから、しっかり調査した上でのことだろう。 若子はそう確信しつつも、心の中で溜息をつく。その医療機関はアメリカにあり、しかも治療には長い期間が必要だ。 彼女はぼんやりとした頭でベッドに戻り、そのまま横になった。そして、深い眠りに落ちた。 翌朝、若子は夜更かしの影響で目を覚ますことができなかった。西也と美咲は朝食の席で彼女を待っていたが、いくら待っても現れない。 心配になった西也が若子の部屋を訪れると、彼女がまだぐっすり眠っているのを見つけた。彼はそっと部屋を出て、美咲に向かって言った。 「悪い、若子は昨日夜更かししたみたいで、まだ寝てるんだ」 美咲は優しく微笑みながら答えた。 「気にしないでください。ゆっくり寝かせてあげましょう。少し待ちますか?」 西也は首を振って提案した。 「いや、待たなくていい。先に朝食を食べてしまおう。食べ終わったら、俺が車で送って行くよ」 「分かりました」 美咲は少し急ぎの用事があったため、その提案を受け入れた。 朝食を終えると、西也はすぐに運転手を呼び、彼女を送るよう手配した。 車中。 美咲が移動中に電話を受けた。それは以前働いていたレストランからで、突然彼女に「マネージャーとして戻ってほしい」という内容だった。 美咲は驚きながら理由を尋ねると、信じられない話を聞いた。どうやら西也がそのレストランを丸ごと買い取ったらしいのだ。 最初、美咲は西也が元の職を取り戻す手伝いをしてくれるだけだと思っていた。しかし、まさかここまで大きな行動を起こしてくれるとは思いもしなかっ
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