「ありがとう、高橋さん。お前は本当にいい人だと思う。俺の嘘のせいで巻き込んでしまったことを謝りたい」 西也は礼儀正しくも誠実で、全く偉そうな態度を見せない。 「気にしないでください。別にわざとじゃないですし」 美咲も柔らかい笑みを浮かべながら答える。彼女の中で西也への印象は悪くない。それどころか、失われた記憶の前でも今でも、彼の品の良さや魅力が自然と女性を惹きつけるのだと感じていた。 「とはいえ、やっぱり迷惑をかけたのは事実だ。今日お前がこうして話してくれて、俺の疑問もいくつか解けたよ。だから、何か俺にできることがあれば教えてくれ。お礼をしたいんだ」 その誠実な態度を前に、美咲はふと頭に浮かぶことがあった。 彼女が少し考え込む様子を見て、西也が尋ねる。 「どうした?何か言いたいことがあるなら、遠慮なく話してくれ」 「実は......一つだけ気になったことがあります。今日の昼、レストランで食事していた時のことですが......あなたたち四人の間、なんだか変な雰囲気でした。それに、あの桜井という女性―最初、あなたのことを普通の人と見ているようで、少し見下している感じがありました」 西也は頷きながら言う。 「ああ、俺も感じた。あいつには妙な優越感があった。俺を下に見ているような態度だったな。でも、お前がそう言うなら、ますます確信が持てた」 美咲は話を続けた。 「でも、私が『遠藤総裁』って言った後、彼女が私のところに来て、あなたがどういう人なのか尋ねてきました。それで、あなたが雲天グループの総裁だと伝えたら、すごく驚いていました」 西也は薄く笑みを浮かべる。 「あの女、見るからに俗っぽい奴だな。お前に何か嫌がらせとかされなかったか?」 美咲は少し気まずそうに笑いながら答えた。 「直接的に何かされたわけじゃないです。ただ、たぶん彼女が店長に頼んで、私を解雇させたんだと思います。昼食が終わった後、店長から急に辞めてくれと言われましたから」 西也の表情が険しくなる。 「それ、桜井がやったんだな?」 「多分、他に思い当たる人はいません。私は普段から真面目に仕事をしてきましたし、店長もお客さんのせいだとは明言しなかったけど、状況的にそうだと思います」 西也は冷たい目で呟く。 「陰湿な女だな......
遠くからその様子を見ていた若子は、ほっと息をつくと、ゆっくりと二人の元へ歩み寄りながら言った。 「ごめんなさい、友達から電話があって、久しぶりに話し込んじゃったの。すごく楽しそうに話してたみたいね」 「そうだよ。高橋さんって、本当に話してて面白い人だ。彼女と話してると、気持ちがすごく楽になるんだ」 西也がそう言いながら柔らかな笑みを浮かべると、それを見た若子も自然と微笑んだ。 若子は西也の隣に腰を下ろし、その明るい表情を見て、今日は高橋さんと西也を二人きりにして正解だったと感じた。 やっぱり好きな女性の前だと違うんだな、と彼女は心の中で思った。西也は美咲と一緒にいると、本当にリラックスしている。二人は案外お似合いかもしれない。 夕食の間、若子は頻繁に席を外した。トイレに行ったり、ちょっと用事があると言ったりして、ほとんどの時間を二人だけで過ごさせた。その結果、この夕食はずいぶんと長引いた。 食事が終わっても、若子は美咲をすぐには帰そうとせず、彼女を引き止めて会話を続けた。 そして時折、話題を二人に振り、自分はそっと会話の輪から外れて静かにしていた。 西也が美咲と話している様子は、若子にとってはとても微笑ましく映った。西也が美咲に本当に心を開いているのか、それとも若子の気持ちを気遣って、あえて美咲と話を合わせているのかは分からなかった。それでも、二人の会話が弾んでいるのは確かだった。 そんな様子を見て、若子は思った。もしかして高橋さんも西也を気に入っているのではないか?高橋さんが彼をきっぱり拒絶したなんて、本当だろうか?どこかに誤解があるのでは......? 気づけば、夜はすっかり更けていた。美咲ははっと我に返り、驚いた。気づけば西也とこんなにも長い時間話し込んでしまっていた。しかも、彼の妻である若子がすぐそばにいる状況で― それどころか、この状況そのものが若子によって意図的に作られたものだと考えると、改めて妙に滑稽に思えてしまう。 美咲はちらりと時計を確認し、口を開いた。 「もう遅いので、そろそろ失礼します」 「もう帰りますか?」若子は少し残念そうに尋ねた。 「ええ、さすがにもう遅いので、そろそろ失礼します」 若子も時計を見てうなずいた。 「確かに遅いですね。本当にごめんなさい、こんなに引き止め
美咲はわずかに口元を引きつらせながら、静かに尋ねた。 「本当にそう思うんですか?」 若子はすぐに頷いて答えた。 「ええ、本当にそう思います」 「......嫉妬とかしないんですか?あなたは彼の奥さんなんでしょう?たとえ、お二人が......」 若子は軽く笑いながら言った。 「私が何を嫉妬するんですか?心配しないでください。嫉妬なんてしませんよ。だって私と彼は本当の夫婦じゃありませんし、むしろ彼が自分にぴったりの女性を見つけてくれることを願っています。高橋さん、あなたは本当に彼にふさわしいと思いますよ。彼があなたをそんなに好きなのも分かる気がします。以前、彼が私にあなたの話をしたとき、本当に嬉しそうで、それと同時に少し悲しそうでもあって......きっと彼にとって、あなたの存在は特別なんでしょうね。誰かを好きになるって、そういうものなんだと思います」 その言葉を聞いて、美咲は心の中で少し気まずさを覚えた。どう答えていいか分からず、視線をそらす。 ―本当にこの子は、どうしてこんなに鈍いのだろう。遠藤さんが好きなのはあなただというのに、どうして気づかない?もし彼が本当に私を好きだったなら、私は絶対に彼を拒まない。それだけ魅力的な人だもの。拒絶できるのは、あなただけよ、この鈍感さん...... 若子が少し首を傾げて尋ねた。 「高橋さん、どうしましたか?何か気になることがあれば教えてください。私で力になれることなら何でもします。それとも、どこか具合が悪いとか?」 「いえ、そうではなくて......」美咲は言葉を選びながら答えた。 「ただ、私はお二人がすごくお似合いだと思うんです。もしかして......彼はあなたが思っているほど私のことを好きじゃないのかもしれませんよ。むしろ、あなたと一緒にいる方が幸せなんじゃないですか?」 その言葉に若子は一瞬動揺したようで、微笑みが少し引きつった。 「高橋さん、誤解しないでください。私と西也はただの―」 美咲は少し真剣な声で遮るように言った。 「松本さん、正直に答えてほしいんです。彼があなたと一緒にいるのを好きだと思いませんか?」 若子は小さく息をついて答えた。 「確かに彼は私にとても優しいです。でも、西也は記憶を失っていますから......それで、私に対して依存してい
「私......」 美咲は言葉を詰まらせた。自分の気持ちがよく分からない。もし「好きだ」と言えば、それはあまりに急すぎる。西也とは数回しか会ったことがないのだから。だが「好きじゃない」と言うのも正直違う気がした。 西也は確かに魅力的な男性だ。その品格や洗練された仕草は、たとえ記憶を失っていても彼の持つ自然な優雅さを損なわない。そんな彼に惹かれない女性などいるだろうか? 美咲が答えをためらっているのを見て、若子は微笑んだ。 「少なくとも、少しは気になるってことですよね?」 美咲は少し気まずそうに視線をそらしながら答えた。 「松本さん、私は―」 「若子でいいよ」若子は穏やかに微笑みながら言った。 「美咲って呼んでもいい?私たち、もっと気楽に話そう」 「うん、分かった」美咲も小さく頷く。 「若子、ただ......あなたたちは今、夫婦でしょう?たとえどんな理由で結婚しているにせよ、私が遠藤さんに気持ちを持ったら、それはよくない気がする。なんだか罪悪感を覚えちゃう」 美咲の言葉に、若子は少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。 「ごめんなさいね。私が軽率だったわ。あなたがそう感じるのも無理ないと思う。でも、本当に気にしないで」 若子は声を落として、そっと言った。 「西也とは、そのうち離婚するつもりだから」 「でも......彼の方は本当に離婚したがってるの?」 美咲はそう尋ねながら、心の中で西也が若子を本当に愛していることを思い出していた。彼自身が口に出していないのだから、美咲が代わりにそれを言うべきではないだろう。 若子は一瞬言葉を詰まらせたが、返事をしようとした時、スマホの通知音が鳴った。彼女は画面をちらっと確認すると、再びポケットにしまい、静かに答えた。 「美咲と西也がどうなるか分からないけど、少なくとも私と彼の未来は見えている。私たちは必ず別れるわ。だから、もしあなたが彼のことを好きなら、思い切って追いかけて。私のことなんか気にしないで。私は......ただの通りすがりに過ぎないから」 美咲は若子を真っ直ぐ見つめ、真剣に言った。 「でも、若子は彼にとって特別な存在だと思う。たとえいつか離婚して、彼が別の誰かと一緒になったとしても、それは変わらないんじゃない?」 若子は少し寂しげに笑いながら
西也の姿を見た美咲は驚いて、思わず立ち上がった。 「遠藤さん、どうして......?」 西也はドアを閉めて彼女に近づきながら言った。 「もう寝るところか?」 美咲は首を横に振った。 「まだですけど......何かご用ですか?」 「ちょっと様子を見に来ただけだよ。さっき若子がお前の部屋から出ていくのを見たけど、何か話したのか?」 「ええ、特に大したことは言われてないです。必要なものを準備してくれて......」 美咲は少し口ごもる。もし、若子が話した内容を西也に伝えたら、彼はきっと傷つくに違いない。 そのためらいに気づいたのか、西也は穏やかな声で続けた。 「実は、俺もだいたい察しがついているんだ」 「......?」 「記憶がないけど、それでも分かるんだよ。俺と若子の結婚は、普通の形じゃないって。だから彼女が俺とお前をくっつけようとしているんだろう?彼女はきっと、俺と離婚したいと思ってる」 美咲は一瞬言葉を失い、何も言えなくなった。 西也は俯きながら、自嘲気味に笑って言った。 「きっと俺がどこか至らないんだろうな。だから―」 「違います、遠藤さん!」 美咲は慌てて声を上げた。 「あなたは本当に素晴らしい人です。もしかしたら、若子に気持ちを伝えなかったことが原因なんじゃないですか?それに......あなたが『好きな人がいる』なんて言ったから、余計に誤解を生んでしまったんだと思います」 「......つまり、若子に告白しろってことか?」 美咲は真剣な表情で頷いた。 「ええ、そうすべきだったと思います。わざわざ好きな女性の話を作り出して、若子を遠ざけるようなことをしたら、彼女があなたの気持ちを分かるわけないでしょう?彼女の立場で考えたら、あなたが別の人を好きだと思い込むのは当然です」 西也は小さくため息をつきながら言った。 「でも、俺は彼女に負担をかけたくなかったんだ。彼女がここ最近、俺の世話で疲れているのも分かるし、それに前夫からひどい傷を負わされて、心に深い痛みを抱えている。そんな彼女に、俺がさらにプレッシャーを与えるなんてできない。若子が一番恐れているのは、誰かに愛されることだろう。彼女は愛情に傷つきすぎたんだ」 西也が慎重な声で語るのを聞いて、美咲は心の奥がちくりと痛んだ
若子が自室に戻ると、スマホを手に取った。 少し前、美咲の部屋にいた時、成之から届いたメールに気づいたのだ。彼が送ってきたのは、海外の医療機関に関する資料だった。 ちょうどそれを確認しようとした時、部屋のドアがノックされた。 「若子、俺だ。入ってもいいか?」 若子はスマホを横に置いてから答えた。 「ええ、どうぞ」 西也が部屋に入ってくると、彼女をじっと見ながら尋ねた。 「若子、今日の夜どうしたんだ?何か調子でも悪いのか?なんだか、あんまり話してなかった気がする」 「体調は悪くないわ」若子は淡々と答えた。 「ただ、あなたと美咲が楽しそうに話してたから、邪魔しないように黙っていただけ」 その答えに、西也は少し慌てたような表情を浮かべた。 「もしかして、不機嫌になったのか?もしそうなら......もう二度と彼女と話さない」 そんなに焦った様子の西也を見て、若子は思わず笑いそうになった。彼のそんな姿が少し可愛く感じたからだ。 「西也、私は不機嫌になんてなってないよ。むしろ嬉しいくらい。あなたが美咲と話が合うのは良いことだと思ってるわ。二人がまた話す機会があったら、ぜひそうしてちょうだい」 若子がそんなにも寛大な態度を取ったことで、西也の顔は一気に曇った。不機嫌そうに彼女をじっと見つめながら言った。 「若子......俺たちは夫婦だろう?お前は俺の嫁なんだぞ。それなのに、どうして俺が他の女と話すのをそんなに気にしないんだ?嫉妬くらいしてくれよ!」 その言葉に、若子は自分が少し大らかすぎたことを悟った。彼女は立ち上がり、西也の前に歩み寄ると、真剣な目で話し始めた。 「西也、あなたが誰かと話せるのはいいことだと思うわ。自分の気持ちに従えばいいの。私はあなたに、何でも口出しするような妻になりたくないの。美咲もとても良い人だし、彼女と話すことであなたがリラックスできるなら、それはきっと記憶を取り戻す助けにもなると思う。だから、私が嫉妬するなんて気にしないで。大丈夫よ」 西也は苦笑しながら、どこか呆れたように言った。 「お前って、本当に大らかな嫁だな」 彼はそう言いながら若子の手をそっと握った。 「でも、安心しろ。俺はお前を傷つけるようなことは絶対にしない」 若子は手を引こうとしたが、一瞬考えてから、
若子が視線をそらしたのに気づいた西也は、彼女を追い詰めるようなことはしなかった。ただ軽く頷いて言った。 「分かった。それじゃあ、早く休めよ」 若子も小さく「うん」と返事をした。 「あなたもね」 その「ね」という言葉が口から落ちた瞬間、突然、熱い感触が彼女の唇に押し寄せた。 若子は驚いて目を大きく見開き、呆然としたまま、腕をだらりと垂らして硬直してしまった。まるで石になったかのように。 西也は、彼女が反応する前に、ふっと唇を離した。 若子はまだ目を見開いたまま呆然としている。そんな彼女を見て、西也は微笑みながら手を伸ばし、そっと彼女の鼻を軽く突いた。 「どうした?まるで俺がお前から何か奪ったみたいな顔だな。俺はお前の夫だぞ。まさか殴るつもりじゃないだろうな?」 若子はぎこちなく口元を引きつらせて答えた。 「そんなことないわ。ただ......急だったから、びっくりしただけ」 「まるで今までキスしたことがないみたいな言い方だな。俺が以前お前にキスする時は、いちいち断ってからしてたのか?」 若子はうなずきながら返す。 「ええ、そうよ」 彼女はどう答えていいか分からず、とりあえずそう言うしかなかった。 「じゃあ次からは、ちゃんと事前に教えてやるよ。ただ、時々はサプライズも悪くないだろ?」 そう言いながら、西也は彼女の腰にそっと手を回した。その瞬間、彼女の体が緊張して硬直するのを感じたが、西也はそのことに触れず、穏やかな声で続けた。 「若子、俺たちは一緒に寝られないとしても、俺はお前の気持ちを尊重するよ。でも、俺たちは夫婦だ。全く触れ合わないのはおかしいだろう?キスくらいなら、拒まなくてもいいんじゃないか?」 彼の声は穏やかで忍耐強く、眼差しには哀しみと戸惑いが滲んでいた。 若子はどう答えればいいか分からなかった。西也にとって、二人は夫婦なのだから。 「西也......たぶん妊娠してるせいだと思うの。体のホルモンバランスが変わって、そういう接触が少し不快に感じるの。ごめんなさい」 彼女はどうにか理由を絞り出した。 西也は軽くため息をつき、彼女の手を放した。 「その話、聞いたことがあるよ。妊娠中の女性は大変なんだよな。感情が不安定になるって聞くし......ごめん、俺が悪かった。次はこんな
若子は膨大な資料をじっくり読み進めていた。 一語一句、曖昧な箇所を見逃さないようにと慎重に目を通していたが、中には翻訳しても意味がよく分からない文があった。それはあまりにも専門的な医学用語が並ぶためだった。 彼女はそれらを調べるためにネットで検索を繰り返し、そうしているうちに時間はどんどん過ぎていった。気づけば、資料をすべて読み終えた頃には空が白み始めていた。 深い疲労を感じながら、若子はあくびを一つ漏らし、浴室に向かって顔を洗った。 ―この資料によれば、あの医療機関の治療法は確かに効果が期待できそうだ。西也にも大きな助けになるだろう。それに、彼の叔父が紹介してくれたものなら、信頼できるはず。慎重な人だから、しっかり調査した上でのことだろう。 若子はそう確信しつつも、心の中で溜息をつく。その医療機関はアメリカにあり、しかも治療には長い期間が必要だ。 彼女はぼんやりとした頭でベッドに戻り、そのまま横になった。そして、深い眠りに落ちた。 翌朝、若子は夜更かしの影響で目を覚ますことができなかった。西也と美咲は朝食の席で彼女を待っていたが、いくら待っても現れない。 心配になった西也が若子の部屋を訪れると、彼女がまだぐっすり眠っているのを見つけた。彼はそっと部屋を出て、美咲に向かって言った。 「悪い、若子は昨日夜更かししたみたいで、まだ寝てるんだ」 美咲は優しく微笑みながら答えた。 「気にしないでください。ゆっくり寝かせてあげましょう。少し待ちますか?」 西也は首を振って提案した。 「いや、待たなくていい。先に朝食を食べてしまおう。食べ終わったら、俺が車で送って行くよ」 「分かりました」 美咲は少し急ぎの用事があったため、その提案を受け入れた。 朝食を終えると、西也はすぐに運転手を呼び、彼女を送るよう手配した。 車中。 美咲が移動中に電話を受けた。それは以前働いていたレストランからで、突然彼女に「マネージャーとして戻ってほしい」という内容だった。 美咲は驚きながら理由を尋ねると、信じられない話を聞いた。どうやら西也がそのレストランを丸ごと買い取ったらしいのだ。 最初、美咲は西也が元の職を取り戻す手伝いをしてくれるだけだと思っていた。しかし、まさかここまで大きな行動を起こしてくれるとは思いもしなかっ
花が病院を出て行った後、西也も結局ほとんど食事をとらなかった。 軽く片付けた後、彼は再び若子の病室へ向かうことにした。 その途中― ブルブル...... ポケットの中のスマホが振動する。 彼は取り出し、画面を確認した。 ―知らない番号。 一瞬、眉をひそめたが、そのまま通話ボタンを押す。 「......もしもし」 「遠藤さん、ごきげんよう」 その声を聞いた瞬間― 西也の目が鋭く光った。 ―この声......! 「......お前か!」 間違いない。 若子を誘拐した、あの男の声だ。 「おやおや、覚えていてくださったんですね。感動しますよ」 「貴様......!!」 西也は、スマホを握る手に力を込める。 「よくもノコノコ電話をかけてきたな......!!」 「ええ、もちろんですよ。だって、警察の皆さんが全然僕を捕まえてくれないんですもの。待ちくたびれて、いっそ自首しようかと考えたくらいですよ」 ―ふざけるな。 男のふざけた口調に、怒りが込み上げる。 「......で、何の用だ?言っとくけど、若子には、もう指一本触れさせない。もし近づいたら―殺すぞ」 西也の声が低く響く。 だが、男はそれを楽しむように笑った。 「僕が彼女を傷つける?随分とひどいことを言いますね」 「......何?」 「前回、僕が彼女を助けたんですよ?忘れたんですか?」 男は楽しげに言葉を続ける。 「もし僕があの時、あの連中の手から彼女を奪わなかったら―あなたの大切な若子さんは、もっとひどい目に遭っていましたよ」 西也の顔色が、一瞬で変わる。 「......ふざけるな」 「事実ですよ?彼女を無事に返したのは、僕です。それとも、あなたはまさか自分が助けたとでも思っていたんですか?」 「......っ!!」 拳を強く握りしめる。 「それで、何が言いたい?」 「ふふ、落ち着いてくださいよ。単なる世間話です」 男は楽しげに笑うと、少し声を低くした。 「ところで、遠藤さん。あなたはどう思いましたか?あの時、藤沢修の胸に矢が突き刺さった瞬間」 西也の目が、冷たく光る。 「......何が言いたい?」 「あなたはあの光景を見て......嬉しかったですか?
花は話題を変えるように言った。 「そうだ、お兄ちゃん。お父さん、お母さんと離婚したの、知ってる?」 西也は一瞬動きを止め、顔を上げた。 「......離婚?」 花はため息をつく。 「やっぱり、まだ聞いてなかったんだね」 西也は箸を置いた。 「......今日、お父さんが来たのは、その話をするためだったのかもしれないな」 「お兄ちゃんは......お父さんとお母さんの離婚、どう思う?」 「......さあな」 西也の声は淡々としていた。 「二人とも、もう半生を生きてきた。その上で出した決断なら、もう一緒にやっていけなかったんだろう」 彼は昔から、両親の関係が冷え切っているのを知っていた。 花はうつむき、寂しそうに呟く。 「......でも、お母さん、とても悲しんでたよ。お父さんのこと、本当に愛してたんだと思う。でも、お父さんはずっと冷たくて......それが、どんどん関係を悪くしていった」 「......お母さんのこと、心配?」 西也が静かに尋ねると、花はこくりと頷いた。 「うん。昨夜もずっとそばにいたんだけど......お酒をいっぱい飲んで、何か言いたそうにしてた。でも、最後まで何も言わなかった。たぶん......お父さんの悪口を言いたくなかったんだと思う」 しばらく沈黙が流れた後、花がぽつりと呟いた。 「ねえ、お兄ちゃん......お父さん、浮気してるんじゃない?」 「......」 西也は、無言のまま箸を握りしめた。 彼は知っていた。 父が昔から外で女遊びをしていたことを。 だが、それを花に言うわけにはいかない。 「......まあ、お兄ちゃんは記憶を失くしてるから、昔のことは分からないよね」 そう言いながら、少し寂しげに微笑む。 「お兄ちゃん、ずっと大変だったよね。お父さんには厳しくされて、ちょっとしたことで怒られて......お母さんも、そんなお兄ちゃんを気にかけることはなかった。まるで......他人みたいに扱われてた」 花は、ふと遠くを見るように言った。 「それに比べると、私はずっと甘やかされてたな......お母さんは私をかわいがってくれたし、お父さんも私にはあまり厳しくなかった。でも、お兄ちゃんは全部背負わされて......だから、記憶
花はそっと近づき、西也を見上げながら言った。 「お兄ちゃん、若子はまだ眠ってるよ。だから、先にご飯を食べてきて。それから戻ってきても遅くないでしょ?もし彼女が目を覚まして、お兄ちゃんが何も食べてないって知ったら......きっと心配するよ」 西也は小さく息を吐いた。 「......わかった」 ドアの前に立つ護衛たちに若子のことを頼んでから、西也は病室を後にし、食堂へ向かった。 席につくと、花が持ってきた弁当を開き、箸を渡してくる。 「お兄ちゃん、ちゃんと食べて」 西也は箸を手に取ったものの、口に運ぶ気になれなかった。 食べ物の味なんて、今はどうでもいい。 そんな彼の様子をじっと見つめていた花は、不意に眉をひそめた。 「お兄ちゃん......顔、腫れてるよ。痛くない?医者に診てもらった方がいいんじゃない?」 「......大丈夫。そのうち治る」 花は深くため息をつく。 「こんなことになるなんてね......お父さん、伊藤さんのこと、怒るかな?」 西也は淡々と答えた。 「さあ......でも、あの二人、どうやら知り合いみたいだった」 「えっ?」 花が目を丸くする。 「どうしてそう思うの?」 「......なんというか、あの時のお父さんの目......普通じゃなかった」 西也は考え込むように言った。 ―あれは、ただの視線じゃない。 そこには、何かを「所有したい」という執着が滲んでいた。 「......まあ、いいや。お兄ちゃん、早く食べて。冷めちゃうよ」 花は気を取り直すように微笑んだ。 西也は弁当に視線を落としたまま、低く呟いた。 「......俺、若子を殺しかけた」 握りしめた箸が震えている。 「妊娠を諦めれば、若子の命は確実に助かった......なのに俺は、子供を守るために......若子を危険に晒した」 手術は成功した。 結果だけ見れば、彼は「正しい選択」をしたのかもしれない。 でも、もしあと一歩間違えていたら― その考えが頭を離れない。 「お兄ちゃん......」 花は静かに彼の手を握った。 「そんなふうに自分を責めないで。彼女は真実を知らないから、お兄ちゃんを責めてるけど。お兄ちゃんは、若子と約束したんでしょ?だから、これで
病院― 若子が受ける予定だったのは、ただの小手術だった。 だが、彼女の体調が原因で手術は想定以上に難航し、合併症まで引き起こしてしまった。 結果、手術はなんと六時間にも及んだ。 病院の廊下で待ち続けていた西也の顔には、疲労がにじみ出ていた。 時間が経つほどに焦燥感は増し、彼の心は痛みに締めつけられるようだった。 そして― ようやく、手術室の扉が開かれる。 西也は反射的に立ち上がり、駆け寄った。 「先生!若子は......!」 担当医はマスクを外し、大きく息を吐くと、ゆっくりとうなずいた。 「手術は成功しました。母子ともに無事です」 その言葉を聞いた瞬間― 西也の思考が、真っ白になった。 ......無事......?本当に......? 「遠藤さん、大丈夫ですか?」 医者が目の前で手を振る。 だが、西也はその場に立ち尽くしたまま、何も反応できなかった。 次の瞬間― ドサッ......! 彼の膝が床に落ちる。 「遠藤さん!?」 医者が慌てて手を差し出すが、西也はかぶりを振った。 「......大丈夫」 そう言いながら、ふっと笑みをこぼす。 いや、笑った―かと思えば、次の瞬間には涙が溢れていた。 「......無事だ......若子は......!」 声を震わせながら、顔を両手で覆う。 医者の目には、それが狂喜と安堵が入り混じった男の姿に映った。 ―母子ともに無事。 その言葉が、どれほど彼を救ったか。 「......よかった......本当に......よかった......!」 ちょうどその時、看護師たちが手術室から若子をベッドごと運び出した。 「若子......!」 西也は急いで立ち上がり、駆け寄る。 「彼女はいつ目を覚ますのか?」 若子の顔はまだ青白く、眠るように静かだった。 全身に残る手術の余韻―彼女がどれほどの苦しみを耐えたのかが、ありありと伝わる。 医者は疲れた様子で答えた。 「麻酔が切れるまで、まだ時間がかかります。おそらく、明日の午前中には目を覚ますでしょう」 「......そっか......」 「ただし、彼女には絶対に無理をさせないこと。ストレスや刺激は厳禁です。静かに休ませてください」
「修......?」 その名前を聞いた瞬間―高峯の目に、怒りの炎が燃え上がった。 「今になっても、まだあいつの息子のことを気にしてるのか!?お前にとって、西也は息子じゃないのか!?あんなにも酷い言葉を浴びせたあの子が......お前の本当の息子だっていうのに、少しも罪悪感を感じないのか!?」 「全部、あんたのせいよ!!もしあんたがもっと早く教えてくれていたら......こんなことにはならなかったのに!!」 光莉は怒りに震えながら叫んだ。 「見なさいよ、西也がどんな風に育ったか......!あの子、あんたそっくりよ!自分勝手で、冷酷で......!!」 「当然だろ!俺の息子なんだからな!」 高峯は嘲笑しながら言った。 「少なくとも、俺はあの子を手元に置いて育てた。遠藤家の跡取りとしてな。それに、紀子も一度だって手を出すことはなかった......!それに比べて、あいつはどうだった?自分の息子のことをちゃんと面倒見てやったか?別の女と浮気して、息子のことなんて放り出してただろ!!」 「......自分のしたことを、誇らしげに語るつもり?」 光莉は冷たい目で睨みつけた。 「笑わせないで。あんたがやったのは、子供を奪ったこと。それなのに、さも『俺が育ててやった』みたいな顔して......!あんたに、そんなことを言う資格なんてないわ!!私から子供を奪ったくせに!!」 高峯は沈黙した。 「......なら、お前は俺と一緒に育てる気はあったのか?」 低く、押し殺した声が響く。 「お前はあのとき、俺を憎んでた。俺のことを拒絶した。だから俺には、こうするしかなかったんだ......!」 「だからって、私から息子を奪っていい理由にはならない!!」 「俺が間違ってたのは認める!でも、お前だって間違ってたんだ!」 高峯は光莉の肩を力強く掴んだ。 「お前は意地を張りすぎた......!だからこそ、母子でこんなに長く引き裂かれたんだ!もう遅いかもしれないが、お前は西也に謝るべきだ。あの子を傷つけたんだからな!何年もの間、お前は彼を罵り、拒絶し、突き放してきた......それなのに、未だに修のことばかり......!どっちもお前の息子だろ!?なんで、そんなに差をつけるんだよ!!」 光莉の頭は混乱し、くらくらと揺れる。
「......償い?はっ、ははは......」 光莉は嘲笑しながら、高峯を睨みつけた。 「あんた、何を償うつもり?この世のすべてが償えるとでも思ってるの?ふざけないで......!あんたが奪ったのは、ただの子供じゃない。あんたが壊したのは、私の人生そのものなのよ!!」 叫ぶと同時に、光莉は勢いよくドアへ向かって駆け出した。 しかし― 「行かせるわけないだろ......!」 背後から強く抱きしめられる。 「放して!放しなさいよ!!」 「もし俺が息子を連れて行かなかったら、それこそお前の人生を滅茶苦茶にしてたんだぞ!」 「黙れ!あんたの言い訳なんか聞きたくない!!」 「俺は言い訳なんかしてない!当時、お前はまだ十九歳だった。大学に通っていて、しかも子供を抱えてた......それなのに俺とは一緒にいるつもりもなかった。そんな状況で、お前の人生がめちゃくちゃにならないはずがない!」 「......だからって、私に嘘をついていい理由にはならない!!」 「悪かった......それは認める。でも、もし俺が別の子供を拾ってきて、紀子の子供だって偽ってたら?それだってできたはずだ。でも俺はしなかった。お前のことを思ってたからこそ、あえて本当の息子を連れて行ったんだ!お前にとっても、そのほうが良かったんだ!光莉......あのとき俺は、お前が何の迷いもなく、自分の人生を追えるようにしてやりたかったんだ。子供が足かせになるなんて、俺は耐えられなかった......!」 「そんな戯言、聞きたくない!!もう十分よ!さっさと放しなさいよ!」 光莉の頭の中は、もうただひとつ― ここから逃げ出すことだけだった。 「どこへ行くつもりだ?」 高峯は必死に光莉を引き止める。 「俺が最低なのは認める。でもな、藤沢曜だって同じだろ!奴は結婚してるのに、堂々と浮気して、お前を捨てたんだぞ!そんな男とまだ一緒にいる理由があるのか!?どうして離婚しないんだ!!?」 「関係ないでしょ!私の人生にあんたが口を出す権利なんかない!!それに、私は彼と離婚しないわ。たとえ彼がクズだろうと、あんたの元には戻らない。世の中、男なんていくらでもいるのよ!なんであんたか彼しか選択肢がないと思ってるわけ?」 高峯は悔しげに目を閉じ、低く唸るように言った
まるで雷が直撃したかのような衝撃が、光莉の頭を打ち抜いた。 「......何ですって?」 呆然としたまま、彼女は目の前の男を見つめた。 高峯の目は赤く滲んでいた。 彼は彼女の肩を強く握りしめ、必死に訴える。 「光莉......西也は、俺たちの息子だ。 あの時、彼は死ななかった。俺はずっと、彼を手元に置いて育ててきたんだ」 「......」 光莉の目が、信じられないというように大きく見開かれる。 「......ありえない。そんなこと、絶対にありえない!」 「本当だ!」 「違う......放して、放してよ!」 光莉は本能的に逃げようとした。 これは嘘だ。 高峯がまた、自分を騙そうとしている。 彼の言葉なんて信じない。 西也が、自分の息子だなんてありえない! 彼女は必死に抵抗するが、高峯はしっかりと彼女を抱きしめ、離さなかった。 「落ち着け、光莉!俺の話を聞いてくれ!」 「聞かない!聞きたくない!」 光莉は泣き叫びながら、必死に彼を振りほどこうとする。 「西也は、お前と村崎紀子の子供よ!私の子じゃない!」 「違う!」 高峯は必死に否定した。 「俺と彼女の間にいるのは娘だけだ! 花だけなんだ! 西也は、お前の息子だ!俺は嘘をついていない!」 「そんなの、信じられるわけないでしょ!」 光莉は狂ったように笑い出した。 「あんたみたいな奴が誓ったところで何になるの? 誓いで嘘が消えるなら、この世に嘘なんていないわ!」 彼女の目には、絶望が渦巻いていた。 「西也はあの女の息子よ!私とは関係ない!」 「......」 「私の目で見たのよ。彼女は、大きなお腹を抱えてた! あの子があんたの子供じゃないなら、どうやって花を産んだの!? まさか何年も妊娠してたって言うつもり!?」 「違う......!」 高峯は苦しげな表情で説明した。 「あの時、紀子は妊娠してなかった。あれは偽装妊娠だったんだ」 「......何ですって?」 光莉は驚愕し、高峯をまっすぐ見つめた。「偽装妊娠......?」 「そうだ。もともと彼女の両親は俺との結婚に反対だった。だから、彼女は結婚するために妊娠したフリをした。彼女は俺に、昔付き合ってた女が子供を
「......はははっ!」 突然、光莉は笑い出した。 「よくそんなことが言えたわね......!私が妊娠していた時、あんたは村崎を妊娠させた。私の子が生まれた時、私は一度も抱くことすらできなかったのよ!生まれた瞬間に死んだの!あんたが殺したんだろう?村崎家に気を遣って、私の子供を殺したんでしょ!」 「違う!!俺が殺すわけがない!あの子は、俺の子供だったんだぞ!?」 光莉がずっと自分が子供を殺したと思っている― そう考えるだけで、高峯の胸は切り裂かれるように痛んだ。 だが、彼女は信じない。 何を言っても無駄だった。 それに、あの時の真実を話すことなど、できるはずがなかった。 「......ははっ」 光莉は、まるで狂ったように笑い出した。 「違うですって?じゃあ、どうして私の子供は死んだの!? 検診では健康だったのに、どうして生まれてすぐ死んだのよ!」 彼女の目には怒りと絶望が渦巻いていた。 「遠藤高峯!」 彼の名を呼ぶ声が震える。 「あんたは、あの女と結婚するために私を捨てた! それだけなら、まだいいわ! でも、自分の出世のために、私の子供まで殺した!」 涙を拭いながら、彼を睨みつける。 「......あんたなんか、人間じゃない!」 彼女の言葉が、刃のように突き刺さる。 「もうイヤ!こんな車の中にいたくない!」 「子供は死んでいない」 低く、はっきりとした声が響いた。 「......何?」 光莉の全身が凍りつく。 彼の言葉が信じられず、震える手で彼の腕を掴む。 「......もう一度言って!」 「すべて話す。だが、ここでは言わない。知りたいなら、落ち着け。このまま事故でも起こせば、お前は一生、真実を知らないままだ」 光莉は涙を拭い、震える声で言った。 「嘘よ......子供は死んだわ」 「死んでいない」 「じゃあ、どこにいるの!?」 高峯は答えなかった。 代わりに― アクセルを踏み込み、車を加速させた。 車が止まったのは、高峯の別荘だった。 光莉が抵抗する間もなく、高峯は彼女の腕を掴み、そのまま別荘の中へ引きずり込んだ。 寝室に着くなり、彼は彼女の体をベッドに投げ落とす。 光莉はすぐに起き上がり、高峯の胸ぐらを
高峯は、息を呑んで西也を見つめた。 「お前......正気か?彼女と一緒に死ぬつもりなのか?」 「そうだ。若子が死んだら、俺も一緒に逝く」 若子は、彼のすべてだった。 「お前......」 高峯は怒りに震えながら息子を指差す。 「世の中には、女なんていくらでもいる。なぜ、そこまで―」 その瞬間― 冷たい視線が突き刺さるように感じた。 高峯が言葉を止め、振り向くと、光莉が真っ赤に腫れた目で彼を睨みつけていた。 ―パァン!! 鋭い音が響き渡る。 光莉の手が振り抜かれ、高峯の頬を強く打った。 彼女の瞳には、怒りと憎しみが渦巻いていた。 その光景を目にして、西也は驚愕した。 「俺に手を出すのはまだしも、お父さんにまで手を上げるなんて、正気か!?」 怒りを抑えきれず、彼は叫ぶ。 「いい気になるなよ!お前が藤沢家の後ろ盾を持ってるからって、遠藤家が怯むとでも思ってるのか?」 「......やっぱりね」 光莉は涙を拭いながら、吐き捨てるように言う。 「親子揃って同じクズね。口では綺麗事を言うくせに、女なんて使い捨ての道具くらいにしか思ってない。死んでもどうでもいいんでしょ?でも覚えておきなさい。もし若子が死んだら、遠藤家の誰一人として無事では済まないわ」 そう言い残し、光莉は背を向ける。 この父子と一緒にいると、息が詰まる。 これ以上ここにいれば、本当に理性を失ってしまいそうだった。 西也は、ゆっくりと高峯の方を振り返った。 ―お父さんが、殴られた? 信じられなかった。 あの光莉が、お父さんに手を上げるなんて― しかし、高峯は怒っている様子はなかった。 むしろ、彼の瞳には― 失望と、罪悪感が滲んでいた。 「......お父さん、大丈夫ですか?」 高峯は、ぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。 「......お父さん」 西也は、眉をひそめる。 「彼女と知り合いですか?」 どうしても、腑に落ちなかった。 二人の間には、何か説明できない感情のやり取りがあった。 「西也......」 高峯は、低く言った。 「彼女を責めるな。彼女は、何も知らない」 「......は?」 西也の眉間に、深い皺が刻まれる。 「なんであんな女