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桜華、戦場に舞う のすべてのチャプター: チャプター 721 - チャプター 730

893 チャプター

第721話

影森玄武は宮城を出ると、まず自邸に立ち寄り、つい先ほど床についた有田先生に事の次第を伝え、上原さくらが目覚めた際に報告するよう命じた。有田先生は話を聞くや否や、睡意が一気に吹き飛んだ。本来なら王妃様が目を覚ましたら、白花に会いに連れて行ってもらうつもりだったのに。陛下のこの思し召しは一体何を意味するのか、頭を抱えて考え込まざるを得なかった。もはや眠れる状況ではなかった。さくらが起床し、装いを整えて部屋を出てくると、有田先生は自ら足を運んで報告した。「親王様がお立ち寄りになり、陛下が玄甲軍大将への御抜擢をお考えとのこと。禁衛、御城番、衛士、そして御前侍衛までをも統括なさるとか。ですが、この陛下のご意向の真意が、私にはまだ計りかねます」さくらは半信半疑の面持ちで問うた。「実権のある職なの?」「はい、紛れもない実職でございます」上原さくらは明らかに動揺を隠せなかった。「この国じゃ、今まで女が朝廷に仕えた例なんてないわ。あの葉月琴音だって、功を立てたのに衛所止まりだったじゃない。私だって副将の位はもらってるけど、玄甲軍の政務に口出しするのは許されなくて、ただの名誉職で俸禄をもらってるだけよ」女性が戦場に立つことと、朝廷に仕えることとでは、まったく性質が異なる。玄甲軍のみならず、禁衛、衛士、御前侍衛までをも統括するとなれば......御前侍衛は陛下の側近であり、表向きは従いながらも内心では反発するかもしれないが、それでも自分の管轄下に置かれることになる。この権限は余りにも大きすぎるのではないか。有田先生は言った。「陛下の真意は定かではありませんが、朝議が終わればきっと任命文書が下りてくるでしょう。そうです、親王様は陛下が親御自ら御沙汰を下るとされ申しておられました」さくらは少し不思議に感じたが、もし任命が下りれば受け入れるつもりだった。女性が朝廷に仕えることは、前の王朝には先例があり、ただ今の王朝にはまだないだけのことだ。この王朝における女性の地位は極めて低く、太后さえもいつもその現状を嘆いていた。そのため、かつて葉月琴音が女将として活躍した際には、太后は心から喜び、公然と称賛されたのだった。さくらは言った。「有田先生、実のところ、親王様はずっと身を引き、耐え忍び、譲り続けてこられた。陛下はそれをしっかりと見ておられるわ。陛下は
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第722話

紫乃は目を覚ますと、さくらが朝廷に仕えることになり、本当に玄甲軍の大将として禁衛や御城番、衛士までを統括すると聞かされた。まるで夢でも見ているかのように、何度も「えっ」と声を上げた後、目をこすりながら尋ねた。「マジで役人になっちゃうの?」さくらは吹き出した。「なんだよ、その言い方。いい役人になれないわけ?」「じゃあ、清廉潔白なお奉行様ってことね」紫乃は肘をついて顎に指を当てながら、さくらの周りをぐるりと回った。「よし、うちのさくらなら立派なお奉行様になれそう」さくらは二人で世間を渡り歩いていた日々を思い出していた。あの頃は他の武芸者たちと同じように、地方官僚を軽蔑していた。特に汚職にまみれた連中のことを、侮蔑を込めて役人と呼んでいたっけ。もちろん、清廉潔白で民のために尽くす、本当の意味での慈悲深い役人にも出会った。そういう人たちには心から敬意を抱いていた。ただ残念なことに、二人の放浪生活は長く続かなかった。捕まって連れ戻され、さくらは師叔に半月も幽閉されてしまった。梅月山での思い出が蘇り、さくらの笑顔は一層明るくなった。「役人になるってんで、随分嬉しそうじゃない」紫乃の目が突然潤んできた。さくらがこんなに輝くような笑顔を見せるのは、随分久しぶりだった。「役人になれるからじゃないの」さくらは目を細めて言った。「もう女の慎みだの、女の言葉遣いだのって窮屈な決まり事に縛られなくていいの。外に出られる。ずっと自由になれる。できることもたくさん増えるわ」紫乃は頷いた。「そうよ。以前、あなたが奥方たちと付き合うとき、笑っても歯を見せないでしょう。見てるこっちが息苦しくなるわ。あなたの口を無理やり開きたくなったくらいよ」「でも」と紫乃は首を傾げた。「どうして陛下が突然、あなたを役人にしようとしているの? あなたが功績を立てて帰還したとき、民衆からの支持も最も高かったはず。そのときこそ実職を与えるべきだったのに、今さら。きっと反対する大臣がたくさんいるわ。女を朝廷に入れたくないって、みんな思ってるもの」さくらは言った。「大臣の反対は、陛下が頭を悩ませることよ。なぜ私を起用するのかなんて、考えるつもりはない。近づいて、向き合えば、彼も私たち北冥王邸のことがはっきり分かるはず。こんなに気を遣う必要なんてないって」有田先生は本来、紫乃に
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第723話

この日、都で騒ぎが起きたことを、買い物に出ていた下人から聞いた有田老先生が、下人たちに厳しく言い渡した。「余計なことには首を突っ込むな。孫は北冥親王家の家司を務めているのだ。政に関わることには一切かかわるな。噂話一つするのも許さんぞ」もちろん、有田老先生は今日の出来事が自分の家と何か関係があるとは思ってもいなかった。都に住む以上、ただ一つの原則を守ってきた。それは慎重に言動を慎み、孫に迷惑をかけないことだった。朝餉を済ませると、老人は小さな中庭で日向ぼっこをしていた。寒さが増してきて、冬に入れば、こうして陽の光を浴びる機会も貴重になるのだ。「お父様、お梅が朝のお召し上がりが少なかったと申しておりましたが、お体の具合でも?」有田先生の母である有田直美が、義父に向かって丁寧にお辞儀をしながら尋ねた。「食が進まぬだけじゃ。心配には及ばぬ」有田老先生が目を開け、疲れの色の濃い嫁の顔を見て、眉をひそめた。「また悪夢か?」有田直美の表情には深い悲しみが滲んでいた。「最近、白花のことばかり夢に見るのです。どうしてなのか......」有田老先生は溜息をついた。嫁の見る夢が単なる夢ではないことを、よく知っていた。それは悪夢だった。白花が様々な拷問を受ける夢――手足を切られ、水に沈められ、火あぶりにされる......そんな悪夢だった。「昼に思うことが夜の夢となる。お前があまりに心配しすぎるのじゃ。良い方に考えてみよ。もしかしたら、白花は誰かと結婚して、子どもにも恵まれ、穏やかな暮らしを送っているかもしれぬ」直美は唇を震わせた。義父の目に宿る暗い影を見て、これが単なる慰めの言葉に過ぎないことを悟った。義父自身も本心からそう信じているわけではないのだ。彼女は頷いた。「はい......良い方に考えます。ただ......神様が慈悲をお与えくださって、もう一度白花に会えるのなら、どんな代償でも払う覚悟はございます」有田老先生は嫁を慰めた。「あまり考えすぎるでない。世の中、強いて求めぬ方が、思わぬ喜びに巡り会えるものじゃ」実際には、皆それぞれに執着を抱えていた。ただ、こうして互いを慰め合いながら日々を過ごすしかなかったのだ。「それより、現八の縁談じゃ。そろそろ真剣に考えねばならん。もう何年も先延ばしにしてきた。あれも三十になろうというのに」直美は諦め
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第724話

馬車が親王家へと向かう中、直美は二段重ねの木製の食籠を抱きしめていた。全身の力を振り絞って耐えようとしても、涙は糸の切れた数珠のように、止めどなく零れ落ちた。十八年。幾日幾夜もの時が流れ、それと同じだけの苦悩の日々が過ぎた。一日たりとも忘れることはできなかった。毎日毎日、後悔していた。なぜもっと優しくしてやれなかったのかと。家では舅姑も、夫も、息子までもが白花を可愛がっていた。厳しかったのは自分だけ。竹刀で手を打ち、部屋に閉じ込め、食事を抜きにしたこともあった......年月と共に多くの記憶は薄れていったが、白花の悲しげな顔だけは鮮明に残っていた。涙に濡れた顔、叱られた後おずおずと近寄ってくる表情。それらの光景が一つ一つ、大河となって日々、心の最も痛む場所を浸し続けていた。自分を許すことができなかった。あの子はそれほど手に負えない子ではなかったのに。なぜ叱ったのか?なぜ叩いたのか?なぜ泣かせたのか?他の人たちのように可愛がってやれば良かったのに。馬車の中で、有田先生は有田白花が誘拐された後の経緯を詳細に語り始めた。直美の目から熱い涙が大粒となって流れ落ちた。白花は死にかけていた。高熱に冒され、森中に捨て去のられたのだ。それでも幸運だった。誰かが彼女を拾い上げ、命を繋いでくれたのだから。芸人の日々は余りにも過酷だった。幼い頃から好奇心旺盛で、高いところや低いところに登るのが好きだったが、一つの芸を身につけるには何度転び、何度痛みに耐えなければならなかったことか。美しい容姿のため、いじめられ、仕方なく牟婁郡へと逃れることになった。哀れな団長。彼は白花を救い出しながら、恩返しを受けることなく命を奪われてしまった。哀れな白花は、団長の死さえ知らず、大長公主と共に京に入れば、団長が良い暮らしができ、医者の治療も受けられ、誰かの世話も受けられると信じていた。人間の悪意も善意も、彼女はこの旅の中で目の当たりにしてきた。そして今、白花は、ついに母のもとへ帰ってくるのだ。紫乃が東海林侯爵邸に到着すると、ちょうど大長公主邸へ向かおうとしていた有田白花と出くわした。白花は東海林侯爵家の者から大長公主に何事か起きたと聞き、様子を見に行こうとしていた。「沢村お嬢様、ちょうどいらっしゃいました。公主邸で何か事が起きたのでしょうか?
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第725話

沢村紫乃は大団円を最も好みながら、生き別れや死に別れの痛哭を最も恐れていた。どう慰めればいいのか分からず、ただ白花の背中を叩きながら言った。「そんなに泣かないで。生死は定められているもの。団長はずっと病の苦しみに苦しんできたのよ......死は良い解脱ではないかもしれないけれど、少なくとも苦しまずに逝けたのだから」この瞬間、紫乃は心の中で、団長が眠りの中で一刀で首を切られて死んだことを願っていた。実際、最初は有田先生が、団長が病死だったと伝えることを提案していた。しかし、親王様とさくらは反対した。白花には、誰が団長を殺したのか知る権利があると。紫乃自身もそう考えていた。もし誰かが自分の師匠を殺したら......まさか、と思いながらも、彼女も必ず仇を知りたいはずだ。ただぼんやりと知らされるままではない。白花はまだ激しく泣いていたので、紫乃は言った。「泣かないで。今すぐあなたを有田先生のもとへ連れて行くわ。祖父や母上にも会える。父上も京に向かう途中よ。きっと団長も天国から、あなたが家族と再会するのを喜んでいるはずよ」家族に会えると聞いて、有田白花の悲しみは和らがなかった。ただ、沢村紫乃が兄が京にいると告げた日から、兄との再会を心待ちにしていた。彼女は七歳以前の記憶を必死に思い出そうとしていた。家族の面々――祖父母、父、母、兄――を、少しずつ記憶の中でその姿を思い浮かべていた。最も鮮明な記憶は、母が竹定規で手のひらを打った時のことだった。一打ち、また一打ちと、手のひらに食い込むような痛みがあった。しかし、叩くたびに母も涙を流していた。そんな時、彼女は図々しく母の元へ寄り、おどけた表情で母を笑わせようとしたものだった。心の痛みを押し殺しながら、手帕で涙を拭った。家族が十八年も自分を探し続け、その歳月を辛く過ごしてきたことを知っている。もう彼らを泣かせるわけにはいかない。だが、団長のことを思うと胸が締め付けられた。目に憎しみを宿しながら尋ねた。「大長公主は死罪になるのですか?」「謀反は、死なないまでも、死んだも同然よ。むしろ死んだ方がましかもしれないわね」紫乃は言った。紫乃は彼女の髷を直しながら言った。「安心なさい。悪事には報いがある。団長の仇は必ず誰かが討ってくれるわ。あなたが幸せになることが、団長の喜びになるのよ」
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第726話

白花は言いようのない悲しみと辛さで胸が詰まった。今、この痩せ細った女性を抱きしめながら、これまで受けてきた辛さが、堰を切った川のように一気に溢れ出した。これが自分の母なのだ。母を抱きしめることなど、今まで夢にも思わなかった。その後、有田先生が祖父を連れて前に出て、挨拶を交わすと、老人も有田先生も涙を流した。正庁に入っても、有田直美は娘の手を離そうとしなかった。記憶の中の七歳の白花は、今や二十五歳になっていた。白花の記憶も徐々に鮮明になってきた。だが、記憶の中の母はまだ若く、声も張りがあり、叱る声は隣家まで響いていたのに、今では話す声さえ力がない。紫乃とさくらは外で様子を窺いながら、涙を拭っていた。家族たちが泣きながら昔話をするのを聞きながら、二人も涙を流し、感動と切なさが胸に込み上げた。有田先生が幼い頃から、こんなに優しく妹を可愛がっていたこと。今は弱々しい有田直美が、かつてはあんなに気丈だったこと。有田白花が、さくらと紫乃が梅月山で過ごした時のように、同じくらい腕白で人懐っこい少女だったこと。さくらは合間を縫って、任命書を受け取りに行った。吉田内侍が直々に宣旨を伝えに来たが、ろくに目を通す暇もなく謝恩を述べた。まだ朝会は終わっていないはずなのに、これは即ち、陛下が群臣の反対を押し切って、彼女を玄甲軍の大将の地位に据えたということだった。吉田内侍が私的な話があると言ったが、さくらは茶菓子を用意させただけで、もう少しこの場面を見届けてから行くつもりだった。紫乃の言う通りだった。家族の再会は見ていて心温まるし、涙を誘うものだった。胸が熱くなる。涙を拭いながら、直美が白花を抱き続ける様子を見つめた。本当に羨ましかった。自分はもう二度と母に抱かれることはないのだから。振り返ると、恵子皇太妃が後ろに立っているのが見えた。皇太妃は涙に暮れ、高松ばあやが傍らで涙を拭いながら、自身も泣いていた。恵子皇太妃はさくらの頬に伝う涙を見て、急に心が和らいだ。手を差し伸べて呼びかけた。「おいで、こちらへ」さくらが涙を拭って近寄ると、皇太妃は彼女をぎゅっと抱きしめた。「これからは、私があなたの母よ」さくらは感動したが、身動きができなかった。皇太妃より半頭分背が高いのに、頭を強く押さえられて髪を撫でられている。少し屈んで、素直に愛情表現
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第727話

脇の間で、吉田内侍は茶菓子を済ませ、お茶も一杯いただいていた。王妃が入ってくるのを見て、笑顔で立ち上がり礼をした。さくらは急いで吉田内侍の手を支え上げ、「吉田殿、どうぞご遠慮なく、お座りください」彼女は吉田内侍が表立っても陰でも多くの助力をしてくれていたことを知っていた。これまで直接お礼を言う機会がなかったが、今日がちょうど良い時だった。吉田内侍が座ると、さくらは深々と礼をした。「吉田殿、この数年、私の母や私のために多大なご助力を賜り、また私が親王家に嫁いでからも、陛下の前で親王様のためにお取り計らいいただいたことと存じます。心より感謝申し上げます」吉田内侍は慈愛に満ちた笑みを浮かべながら彼女を見つめた。「王妃様からそのようなお言葉を頂戴するのは恐縮でございます。どうぞお座りください。少々お話がございます」さくらは穏やかな表情で座った。「どうぞ、お聞かせください」「この任務についてですが」吉田内侍は彼女を見つめ、次第に表情を引き締めた。「全力を尽くしていただきたい。陛下があなたを信頼し、重用なさるからには、必ずや最大限の信頼を寄せてくださるでしょう。ただし、王妃様、一つだけ心に留めておいていただきたい。夫婦の心が離れてはなりません。どのような事があろうとも、背信行為でない限り、互いを信頼し、相談し合うべきです。利益や権力のために溝を作ってはなりません。お二人は夫婦一体なのですから、それをお忘れなく」さくらは彼の言葉の意味を慎重に吟味した。陛下の最大限の信頼とは、どの程度なのだろう。もちろん、絶対的な信頼などありえない。人と人との間では、共通の利害関係があっても、完全な信頼関係など築けないものだ。そもそも陛下は多疑な御性格。ある程度の信頼を得られるだけでも上出来というものだろう。夫婦一体について、利益や権力による対立という点も理解できた。自分と玄武は夫婦であり、二人とも朝廷に仕える身。大きな方向性は同じでも、物事の捉え方に違いが生じるのは当然で、矛盾や衝突は避けられないだろう。さらに、玄甲軍大将として、陛下の意志に従わねばならない。つまり、何が起ころうとも、陛下への忠誠が最優先される。対立が避けられないからこそ、夫婦間の信頼関係が一層重要になってくる。だが、気のせいかもしれないが、吉田内侍の言葉には別の意味が込められ
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第728話

今日の大長公主邸は混乱の渦中にあった。大長公主を含め、家令たちは全員連行され、屋敷の使用人たちは一時的に公主邸に留め置かれ、刑部の役人が監視に当たっていた。後日、尋問の必要がある者は呼び出されることになっている。禁衛と御城番が撤収し、事件は刑部の管轄となった。刑部大輔の今中具藤は配下を率いて女性たちの処遇を取り決め、それぞれの家に連絡を取らせた。後日、もし財産没収となった場合は、大長公主邸の資産から解雇手当と補償金を支払うことになっていた。小林鳳子は京の人間だったため、先に帰宅を許された。椎名紗月が自ら迎えに来たが、彼女には夢のようだった。行動が十月十五日ではなく、初日に行われたことに驚き、王妃が自分にまで秘密にしていたことに信じられなかった。彼女の心には怒りがあった。王妃が自分を信用しなかったのだ。自分は全てを王妃に打ち明け、父までも引き合わせたというのに、王妃は計画を隠し通した。帰路の馬車の中で、母の小林鳳子が告げた。「あなたの父は最初から王妃と協力するつもりなどなかったのよ。十月十五日の計画まで公主に漏らしていた。もし予定を早めていなければ、成功などありえなかったわ」椎名紗月はその言葉に愕然とした。「父が私を裏切ったの?私が死ぬかもしれないと分かっていたのに?」小林鳳子は娘の肩に虚ろに寄りかかり、涙を流しながら言った。「あの人は全ての娘を利用したのよ。大長公主と同じようにね」「でも父上は......母上を一番愛していたはずでは?」椎名紗月は母の頬の涙を拭いながら、自身の涙も溢れ出した。「母上が牢から出られるなら何でもすると、そう仰っていたのに」「男の言葉なんて、一割信じれば十分。十割信じれば、身を滅ぼすことになるのよ」小林鳳子の心には言い表せないほどの恨みがあった。「最初は私の美貌に惹かれて、多少は気にかけてくれたわ。でも愛情なんて微塵もなかった。ただ大長公主に見せるための芝居よ。大長公主に自分の弱みを握られたと思わせるため。彼の本当の弱みは永遠に東海林侯爵家なの。何度も牢に私を訪ねてきたのも、大長公主に見せるためだけ。私たち母娘を利用して、自分が大長公主に支配されているように見せかけ、それであなたと青舞を思いのままに操ろうとしたのよ」小林鳳子は数回咳き込み、蒼白な顔に怒りの紅潮が浮かんだ。「もしあの人があなたたち姉
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第729話

椎名紗月は背筋が寒くなった。「そんなはず......もし本当に権力者の庇護を求めるなら、梁田孝浩が良かったはずです。梁田孝浩はあれほど姉上を愛していたのに」梁田孝浩は苦々しい表情を浮かべた。「梁田孝浩は承恩伯爵家の世子で三位及第者。永平姫君を正妻に迎えたわ。あの子には上に立つ望みなどなかった。梁田孝浩は愛していると口では言いながら、実際には何もしてくれなかった。あれほど可愛がっていながら、平妻にすら上げる勇気もなかったのよ」椎名紗月は我が耳を疑った。「平妻、ですって?」馬車がゆっくりと進む中、小林鳳子は物憂げな眼差しで語った。「そう。平妻になれば、正室が死んだ後に正室になれる可能性があるけれど、ただの妾では、たとえ奥方が亡くなっても正室にはなれない。妾になることは構わないけれど、一生妾のままでは我慢できないって言うのよ」椎名紗月は心が乱れ、呟くように言った。「姉上が妾になりたくないのは当然です。誰だって、追い詰められない限り妾になんてなりたくない。それに姉上は母上のために利用され続けてきたのです。姉上も可哀想です」小林鳳子は娘に寄りかかり、息を切らせて咳き込み始めた。咳は止まらず、血まで吐き出した。椎名紗月は母の背中をさすりながら、心配そうに尋ねた。「お母様、どうしてこんなに酷い咳が?医者には診てもらったのではないのですか?」「診てもらったわ」小林鳳子は汚れた袖で口元の血を拭い、か細く笑った。「心配しないで。母さんは良くなるから。母さんの言葉を覚えておきなさい。これからお姉さんが何を頼んできても、絶対に承知してはいけない。どんなことでも......どんなことも断るのよ」椎名紗月は首を傾げた。「大長公主邸はもう倒れたのに、姉上が私に何を頼むというのです?私たちは京を離れて、誰も知らない場所で暮らせるはずです」小林鳳子は娘の手首をきつく掴み、荒い息を何度か繰り返してから、厳しい声で言った。「母さんの言葉を忘れないで。あの子とはあまり付き合わないように。できれば二度と会わない方がいい。分かった?」その言葉を言い終えるや否や、小林鳳子はより激しく咳き込み、体を折り曲げたまましばらく経って、やっと落ち着いた。それでも椎名紗月の手を握ったまま、かすれた声で「分かった?」と言った。「はい、分かりました」椎名紗月は母の激しい咳に涙ながらに
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第730話

刑部は今日、本当に忙しかった。刑部卿の一声で、役所全体の休暇が取り消された。刑部丞の小倉千代丸は本来、親の喪に服して休職中で、この休職明けに官位が保てるかどうか心配していたところだったが、この謀反の大事件が起きたため、親王様の復職要請を受けて、すぐさま官服を着て刑部に戻ってきた。大長公主と東海林椎名は刑部に連行された。影森玄武が直々に大長公主を、大輔の今中具藤が東海林椎名の尋問を担当することになった。残りの家令や使用人、御殿医、下僕などは、刑部丞の小倉千代丸と大判事の九条正義が取り調べることになった。玄武は大長公主の尋問を急がず、まず部下を率いて公主邸から武器類を全て刑部に運び込み、証拠品として保管した。その他の者たちの取り調べはすでに始まっていた。日が暮れるまで働いても、わずか数人しか取り調べられなかった。玄武は交代制で休みなく尋問を続けるよう命じ、今中具藤はまず取り調べた分の供述をまとめて、玄武に報告した。玄武は供述書に目を通したが、内容は乏しかった。東海林椎名の供述書を取り出すと、質問は多いものの、回答は少なく、多くが「知らない」で誤魔化されていた。今中具藤は困り果てた様子で言った。「東海林は何を聞いても知らないの一点張りです。地下牢の女性たちと後庭で監禁されていた女性たちが自分の側室だということは認めましたが、武器のことや大長公主の謀反については、一切知らないと言うばかりです」「まだ本題に入ってないのに、白状するわけがない」影森玄武は東海林の供述書を脇に置き、四貴ばあやと土方勤の供述書を取り出した。「四貴ばあやは大長公主の側近で、長年仕えてきた腹心だ。土方勤は公主邸の警備長。彼らは何か吐いたか?」今中具藤は答えた。「四貴ばあやはあまりの恐怖に、ただひたすら『まさか』『まさか』と繰り返すばかりで、何も聞き出せませんでした。土方勤の方は幾つか話しましたが、どれも取るに足らない些細なことばかり。大長公主が誰と頻繁に付き合っていたかとか、内輪で側室たちをどのように虐待していたかとか。側室が生んだ男子は溺死させたり、絞め殺したり、投げ落として殺したり、様々な方法で殺害されたようです。側室たちもそれぞれ悲惨な最期を遂げています。武器のことについては何も語らず、ただ知らないと繰り返していました」「その土方勤はいつから公主邸に仕えてい
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