「シャワー浴びたいなら、リビングを出て右側の突き当たりにあるから」 櫻井課長は、目線を逸らしながら頬を赤く染めていた。 それでも、何とか教えてくれた。 「わ、分かりました。ありがとうございます。なら、お先に失礼します」 「バスタオルは、好きなの使っていいから」 お互い恥ずかしくて目が合わせられない。 亜季は頭を下げながら返事をすると、そのままリビングから出て、脱衣場まで向かった。 脱衣所のドアを開けて入ると、そのまま閉めて蹲る。 (緊張した~) 心臓が張り裂けそうになるぐらいにバクバクと鳴っていた。 シャワーを浴びなくてはいけないのに。 そう思うのだが、緊張し過ぎてなかなか動けないでいた。 重い腰を上げて、何とか服を脱いだ。 もっと可愛い下着をつけてこれば良かったと、思いながら何とかシャワーを浴びた。 しかし、よく考えてみたら、この後は同じ服に着替えないといけない。 ここは、バスタオルだけの方がいいのだろうか? (いやいや……それだとやる気満々みたいだし) どっちが正解なのだろうか? 櫻井課長どっちの方が嬉しいのだろう。 シャワーを浴び終わるが、どちらにするか悩んで、なかなか出れないでいた。 するとドア越しから櫻井課長の声が聞こえてきた。 「松井。大丈夫か? やっぱり気分が悪いいのではないか?」 「あ、いえ……大丈夫です。すぐに出ますから」 亜季は、あわあわと着替えようとする。 どうやら長風呂になってしまって、気分が悪いと思われたようだ。 「あのさ…松井。やはり、お前はそのまま帰れ。今は勢いで来たのだろうけど、無理をするものじゃない。それに気持ちは、嬉しいがゴムも無いし。その……やめておいた方がいいと思うんだ」 と、課長は徐に言ってきた。何を言い出すのだろうか? 驚いた亜季はバスタオルだけの格好も構わずに、ドアを開ける。 (何よ……それ? それでは、櫻井課長は私と関係を持ちたくないみたいじゃない!?) それは、あまりにもショックだった。 「課長は嫌なんですか? 私は……勇気を出して言ったのに」 「松井。いや……そういう意味では……とにかく服を着ろ」 「だったら、ちゃんと私を見て下さい」 櫻井課長は慌てて目線を逸らしてきたが、私はそう言った。 自分だって恥ずかしい。凄く……。 でも課長に想いを伝えるには、これしかなくて。 「松井。そうやって無理をさ
翌朝。亜季はカーテンの隙間から太陽の光りで目を覚ました。 隣を見たら、一緒に眠ったはずの櫻井課長の姿がなかった。「……どこに行ったのかしら?」 眠い目を擦りながら起き上がろうとする。 しかし下半部の鈍い痛みに、思わず顔が引きつる。 そのせいもあって、昨日のことが鮮明に思い出してしまった。(そうだった……私、櫻課長と) 昨晩、亜季は櫻井課長と愛し合うことができたのだ。 ちゃんとお互いに想いが通じ合えてと思ったら嬉しさがこみ上げてくる。 これは、幸せの痛みだ。 徐にベッドから降りると、痛みに耐えながら脱ぎ散らかした服に着替える。 そして寝室から出て、リビングの方に向かった。(課長……どこに居るのかしら?) リビングにも居ない。 ズキズキする痛いを我慢しながら、あちらこちらを探してみたが、何処にも居なかった。 外に出て行ったのだろうか? 疑問に思ったシャワーを浴びたくなったので、勝手に使わせてもらうことにする。 しかし、シャワーを浴び終わっても、まだ帰って来る気配はない。 仕方がないので、また勝手ながらキッチンを借りて朝食の作ることにした。。 櫻井課長が戻って来たのは、朝食が丁度できあがった頃だった。 ガチャッとリビングのドアが開くと、ランニングに行ってきたのか、ジャージ姿の櫻井課長が入ってきた。汗だくだ。「松井……起きたのか?」「あ、櫻井課長。おはようございます。すみません。勝手にキッチンを使わせて頂きました」 亜季はフライパンで焼いた目玉焼きを、お皿に乗せながら謝罪をする。 お腹を空いていると思って、作ったのだが良くなかっただろうか?「いや……別に構わない。すまない。本来なら俺が作らないといけないところだったのだが、どうも習慣にしているランニングをサボると調子が出なくて」「さっきまで走って来たんですか?」「あぁ起きて、すぐに走ってきた。悪かったな……松井」「いえ、とんでもありません。それよりも朝食前にシャワーを浴びて来たら、どうですか? 凄い汗ですよ」 汗でジャージがベタベタになっている。五キロも走ってきたのだろうか? 朝から凄いと亜季は心の中で感心する。「そうだな。先にシャワー浴びてくるか。 先に食べていてもいいからな?」 櫻井課長は、そう言うとタオルで汗を拭きながらリビングから出て行ってしまった。
心配されるほど大げさなものではないが。 多分、大丈夫だろう。会社に行けるはずだ。 そのことに話をふれてきたので照れてしまっただけだ。「無理しない方がいい。お前は有給休暇が、たくさんあるのだから休め」「ですが……」「そうなったのは俺が原因だ! 気を使わなくてもいい。今日は一日、体をゆっくりと休めていろ」 櫻井課長から意外なことを言われて、亜季は驚いてしまう。 上司から、そう言われたら休まないといけなくなる。 申し訳ない気持ちもあるけど……正直助かった。たしかに有給休暇を消費するのも大切だ。「あの……ありがとうございます」「いや、お礼を言われるようなことは、何もしていない」 少し困った様子で言ってくる櫻井課長に亜季はフフッと苦笑いする。 そして朝食が終わると、櫻井課長は食べたお皿を洗った後、仕事に行く身支度をしていた。 いつもの姿だ。スーツ姿の彼は、よく似合うと思った。「あ、そうだ。これをお前に渡しておく」「これは……?」「家の合い鍵だ。そのまま持っていてくれ。俺は行くけど……自由に出入りしていいから」 まさか櫻井課長自ら、自宅の合い鍵を貰うことができた。 合い鍵を持っていると、まるで本当に恋人同士になれたのだと、実感して嬉しさがこみ上げてくる。(嬉しい) 亜季は、その鍵を大切そうに受け取った。「じゃあ、行ってくる」「行ってらっしゃい」 まるで新婚夫婦みたいな会話だ。 櫻井課課長を見送ると、鼻歌を歌いながらソファーに座った。 まだ体はダルいけど……幸せの痛み。平気だ。 帰るには、まだ辛いため、しばらく横になった後に自宅に帰った。もちろん合い鍵で玄関のドアを使って閉めた後に。 しばらく自宅のベッドで眠ると、スマホからメッセージが届いた。 一件は、美奈子からの心配のメッセージ。もう一件は、櫻井課長からのメッセージだった。『体調は、どうだ? 松井の仕事分は、他に代わってもらったから安心しろ。朝食は、美味しかった。また作ってくれると嬉しい』 嬉しくなるようなメッセージだった。 亜季は布団の中で笑みが止まらない。ゴロゴロと寝返りを打ちながら、ずっとそのメッセージを読んでいた。 せっかく合い鍵も貰ったのだ。今度は夕食でも作りに行こう。 そのためには母親から、もう少し料理を教えてもらわなくては。 でもその前に、明
それを知ったのは翌朝のことだった。 亜季が荷物を置くために、会社の更衣室に行くと周りの視線に気づいた。 八神とのことで噂になっているのだろうか? 彼とは付き合っていることになっているみたいだし。 誤解だと言わないと、余計にややこしいことになりそうな気がする。 しかし、それが現実となる。同僚の澤村梨香が亜季に声をかけてきた。「松井先輩。あの噂って、本当なんですか?」「澤村さん。それは違うの」「八神さんだけではなく、多数の男性と何股もかけているって、本当なんですか!?」「えっ? 何股……私が!?」 彼女の発言は、衝撃的なものだった。 何故、そこで自分が何股をしている話になるのだろうか? そもそも何処から、そんな噂が出たのだろうか?「社内で噂になっていますよ? 何人かの男性と関係を持っているとか。八神さんとは遊びの関係とか」「えぇっ? そんな噂が出ているの!?」 どうして、そんなことになったのだろうか? 櫻井課長と付き合うことになったが、それだけだ。 八神とは何もないし、噂になるような特別な関係でもない。そもそも、その噂が流れるほどの男性経験は持っていないのに。「あ、他にも過去に不良と付き合っていたこともあるとか……色々言われていますよ? どれが信じられないような話ですけど、どれが真実なんですか?」 澤村は不思議そうに尋ねてくる。 どれもなにも、根も葉もない噂ばかりで一つも真実味がない。 どうして、こんな噂が広まってしまったのだろうか?「澤村さん。その噂は違うの。このことは……」「でも~私、見ちゃったんですよね? 八神さんや複数の人と会っているところを」 澤村が被せるように、とんでもない発言をしてきた。 急に何を言い出すだろうか!?「えっ?」「澤村さん……その話って、本当なの!?」「うん。私も驚いちゃって~。まさか松井先輩が、そういうことをするなんて思ってもみなかったし。だから、もう一度、確認したくて」 まるで、彼女の言うことが真実のように言ってくる。 どうして澤村は、そんな噓をつくのだろうか?「ちょっと何を言っているの!?」 昨日、確かに八神とは会ったけど、交際を断るためだ。 それに複数の男性に会ってはいない。どう考えても冤罪だ。 早く誤解を解かないといけなくなった。 「あの~確かに、八神さんとは話
「大丈夫よ! 噂は、あくまでも噂。真実ではない以上は、すぐに皆忘れるわよ?」「……そうかな?」「噓なのは分かっているし。もっと堂々としていた方がいいわよ」 美奈子は、すでにさっきのことは知っていたみたいだ。 しかも変わらずに温かい言葉をくれた。それが亜季にとっては嬉しかった。 亜季は美奈子に寄り添ってもらって、自分のデスクに着く。 その後。櫻井課長が出勤した頃には何も無かったかのように通常に戻っていた。 亜季も気を取り直して、仕事に打ち込む。 美奈子は、そんな亜季に気遣ってか、お茶を代わりに淹れてくれた。「はい。亜季の分」「ありがとう……」 お茶が入ったマグカップを受け取り、一口飲む。 やっと少し気持ちが落ち着いてきた。こんなことで、動揺するなんて情けない。 もっと毅然とした態度でいないと、逆に疑われてしまう。 亜季はそう思い直すのだが、噂を信じている社員は、思ったよりも多かった。 仕事をしていると、ドサッと大量の資料を亜季のデスクに置かれる。「……えっ?」「これだけの資料を全部まとめといてくれる? 松井さん」「あの……これ全部。私1人で、ですか?」 いくら何でも一人でできる量ではない。 それに自分のやっている仕事もあるし、担当の仕事ではない。「できるでしょ? あちらこちらの男性を口説いている暇があるのなら。お願いしますね? こっちは、そんなことができないぐらいに忙しいので」 断ろうとしても一方的に言われて、そのまま行ってしまった。 どう考えても嫌がらだろう。これは……。 亜季は、ただ唖然とした。「何よ……あれ? 感じ悪い上に無茶苦茶よねぇ~亜季。私も手伝うから」「美奈子……ありがとう」 一体、何が起きているのか。亜季は恐怖で体が震える。 だが嫌がらせは、それだけでは終わらなかった。 しばらくしてから亜季がコピーをするためにコピー機を使っていると、「ねぇ、いつまで使っているのよ? 人の迷惑も少しは、考えてよ」「あ、すみません。 すぐに終わらせますので」 慌ててコピーを中断させて、残りを後でやることに。 コピー機から書類を取り出した。すると呆れたようにブツブツと文句を言ってくる。「本当……年だけ、とっているくせに。無駄にトロいんだから」 酷い。そこまで言うことないではないだろう。 お手洗いに行っ
自分が所属している部署にイジメがあるなんて、きっと不愉快な思いをさせるだろう。 それが自分のことだなんて恥ずかしい。むしろ噂が櫻井課長の耳に入っていないかが心配だった。「亜季。言った方がいいわよ? 櫻井課長なら嫌がらせを止められるかも知れないし」「……うん」「あと、その噂を広げたのって、同じ部の澤村さんだから」 実は亜季も美奈子と同意見だった。。あの時も噂を、さらに広げるように発言をしたのは彼女以外は考えにくい。 澤村さんは、あれだけ騒いで噓を言ったからだ。しかし控え室以外は決定的な証拠がある訳ではない。 下手に言えば、自分がさらに悪者にされるだろう。「……多分そうかも」「何で、そんな噂をするのか知っているの? あれは絶対に八神さん関係よ! ほら、なんかあの子。八神さん狙っていたじゃない? あんたと付き合っていると勘違いして嫉妬しているのよ……きっと。まったく。嫉妬で、こんな噂を広めるなんて小学生じではあるまいし。大人気ないわよねぇ~」 美奈子は呆れながら、そう言ってきた。 原因が、それなら確かに大人気ない。 八神は人気の高いイケメンだ。好意を持つ女性社員は、たくさん居るだろう。 そんな中で、亜季みたいな地味系の女性が恋の噂になっていたら、面白くないと思う人も多いだろう。「とりあえず櫻井課長に言った方がいいわ。 それと八神さんにも迷惑だと、もう一度やんと伝えたら?」 亜季は小さく頷く。だけど櫻井課長には、やっぱり言えなかった。 社内でイジメられているなんて、情けない姿を見せたくない。。自分でも惨めだと思うのに。 八神に言うのも気が引ける。色々と頭の中で考えていると、気分が沈んでしまった。 気持ちは沈んだままだった。 翌朝は、会社に行くことも憂鬱になる。「今日……日曜だったら良かったのに」 渋々会社に行くが、やはり周りの女性社員の冷たい目線が痛かった。 ただの噂なのに……。 落ち込みながらもロッカーにカバンとコートを置いて、部署に向かった。 その現状に絶句する。亜季ののデスクが荒らされていたからだ。「嘘……何で!?」 慌てて駆け寄り、何か紛失していないかチェックする。資料も置いてある。 貴重品などは持って帰るため問題ないが、やりかけの企画書に使うファイルなどが失くなっていた。 どうしよう、これだと仕事がで
亜季は謝罪をすると、荷物を持って部署から出る。 美奈子と別れると1人でトボトボと電車に乗った。こんな時間に帰宅する自分が情けなくて仕方がない。 これから、どうしたらいいのだろうか? 噂になっている自分が否定したところで誰も信じてくれない。言い訳をしているとしか思われないなんて理不尽だと思う。 電車に乗りながらスマホをずっと眺めていた。そうしたらスマホが光り出した。 メッセージが届く。誰からだろうと? 見ると美奈子からだった。『大丈夫? あの後で課長に出勤してきて。悪いと思ったのだけど、事情を全部話したの。そうしたら課長ったら、凄い剣幕で部署全員を叱り飛ばしたわよ!』「えぇっ!?」 あまりにも驚いて声が出てしまった。 電車の乗客は、こちらを見る。ハッと気づくと恥ずかしくなった。「……すみません」 恥ずかしそうに俯いた。しばらくすると、もう1件メッセージが届いた。『今、こっそりメッセージ中。これ以上やるなら警察沙汰にするって。で、亜季と付き合っているのは、俺だと正直に話していたわよ! だから嫌がらせをして、傷つける奴は俺が許さないってさ。あんたの課長。ちょっと……見直しちゃった。私』 美奈子からそう送られてきた。 櫻井課長が、私のためにわざわざ皆の前で話してくれたらしい。付き合っているって……。 メールを何度も確認する。同じことしか書いていないけど……何度も泣きたくなるぐらいに嬉しかった。 櫻井課長の優しさが亜季の心の中に染み渡る。 きっと言うのに抵抗があったかも知れない。周りに交際宣言をするなんて男性にとったら恥ずかしことだろう。 でも、自分のために言ってくれたんだ。涙がスマホに付いてしまった。 自宅のアパートに着いた頃には櫻井課長からメッセージが二件届いていた。『具合は、どうだ? 多分、玉田からの連絡で聞いているかも知れないが、今回の揉め事は、俺が全て叱り飛ばして解決させておいたから。余計なことをしたかも知れないが許してくれ。今日来れそうなら家に来てくれるか? 何か美味しい物でも作って待っている』 そう書いてあった。余計なことだなんて思わない。 だって、櫻井課長の優しさをちゃんと知っているから。 亜季は自宅のアパートに着くと、疲れた精神を癒やすためにベッドに向かった。 精神的にボロボロだけど櫻井課長と美奈子のお陰で
亜季自身、このままではダメだと思わせてくれた。 すると櫻井課長は、照れたのを隠すように慌てて鍵を開けてくれた。「と、とにかく中に入れ。寒いだろう」「……はい」 亜季もつられて頬が熱くなっていた。自宅に入らせてもらうと、櫻井課長はキッチンで買ってきたエコバッグを置いた。 そして中身を出すと、そこには野菜と豆腐などが入っていた。。「あの……何を作る気ですか?」「あぁ、鍋を作ろうと思って。寒いし、体も心も温まるだろ?」「いいですねぇ~私も手伝います」 確かに体も心も温まりそうだ。 亜季は急いで、お手伝いするためにキッチンに向かった。 一緒に食材を切ったりしていく。 出来上がったのは、テーブルに運んで食べた。櫻井課長が作る鍋は、野菜や具材がたくさん入っていて美味しい。「どうだ? 男料理だから、豪快な感じになってしまうが……味付けは?」「凄く美味しいです。温まる~」 ホクホクした気分になる。 確かに体も心も温まった。だけど、それだけではない。櫻井課長の気遣いや優しさが鍋にも現れているように感じた。(あ、いけない……) そう思ったら自然と涙が溢れてきた。 年をとると、涙もろくなってしまうから困る。「松井? どうした? 嫌なことでも思い出したのか? それとも不味かったか?」「いえ……ただの嬉し涙です」 亜季は涙を拭きながら苦笑いする。 辛かったからこそ、櫻井課長の優しさが目に染みてしまったようだ。 その時だった。櫻井課長は席を立つと亜季を抱き締めてくれた。ギュッとされると、そこから優しくて温かいぬくもりが伝わってくる。 もう、涙が止まらなかった。 今まで我慢してきたことが、一気に溢れてくる。心が解放されたような切ない気持ちになった。「お前は、我慢し過ぎだ。泣きたい時には泣けばいい。今は、俺しか居ないから甘えろ」「……っ」 櫻井課長は、泣き止むまでずっと抱き締めてくれた。言葉は無くても、気持ちが伝わってくる。 たくさん泣いたせいか、泣き止む頃には随分と気分が楽になった。「もう……大丈夫です。ありがとうございます」「そうか? それなら良かった。鍋が冷めてしまったな。温め直すから、ちょっと待っていろ」「あの……櫻井課長」「何だ?」「今日……泊まってもいいですか?」 残りの鍋をキッチンに持って行こうとする櫻井課長
美奈子は「ただ」の意味が分からなかった。好みはあるから可愛いとだけなら分かるけど。八神はフフッと笑う。「泣いている姿を見ていた時は守ってあげたいと思ったし、相手のことを悪く言わないところとか、好印象を抱いた。それを含めて可愛いなって。人って、何かのきっけで好きになったりするから。分からないものだよね。今だって、友人思いの君のことを純粋で可愛いと思っているしさ」「はっ? 意味分からない!?」 亜季のいいところは、美奈子は十分理解しているつもりだ。八神が彼女に惹かれる部分があっても仕方がないと思っている。 しかし、どうして。そこで自分が可愛いと思うのだろうか? 美奈子は顔を耳まで真っ赤にして動揺してしまう。可愛げのない発言をしてしまった。言われ慣れていないので心臓がドキドキと高鳴ってしまう。 そうしたら八神はハハッと大笑いする。「耳まで真っ赤だよ? なんてね……驚いた?」「はっ? もしかして、からかったの!? 信じられない」 せっかく少し同情したのに、台無しだ。 やっぱりチャラい。あと性格が悪い気がする。美奈子はムスッとしてしまう。 八神はハハッと笑いながら、涙を拭った。「ごめん、ごめん。からかい過ぎた。でも……君に純粋なのは本当だよ。友人のことで、そこまで怒れる人はなかなか居ないと思う。上辺ばかりの女性と違って、純粋で優しいと思うよ」「えっ……そんなことは」 やはり言われ慣れていない。だからか、余計に体が熱く火照ってしまう。 例え冗談だとしても心臓に悪い。「だからと言って、からかわないで下さい。私は恋愛でも、手を抜きたくないんです」「いやだなぁ~俺だって、手を抜くつもりはないよ。いつだって本気だし」「どうだか!」 あー言えば、こう言う。なんだかお互いに言いたいことをぶつけているような気がする。まるで喧嘩友達のように。 おかしいと美奈子は思っていた。 イケメンを見ると、キャーキャー言う方だ。どちらかと言えばミーハー。それなのに、イケメンのはずの八神には素になってしまっている。 すると、八神はハハッと笑う。「なんだか、いいね。こういうの。俺に媚びとか売ってこないし。素で話せる人って、なかなか居なかったんだよね」「……確かに、友人とか居なさそう」「うわ~酷いな」 そう言い合いながらも、いつの間にか、お酒の席が賑やかにな
(落ち着け……自分。相手は軽い男よ。彼の好きなタイプは亜季みたいな子だし) 自分を落ち着かせるために、心で言い聞かす。 八神の好きなタイプは亜季みたいな素直な子みたいだ。真面目で一途な。「もしかして、俺のこと……警戒しています?」「えっ!? そ、そんなことないけど……」 そうしたら八神は美奈子にそんなことを聞いてきた。心の声が聞こえてしまったのかと思って、美奈子は焦る。警戒しない方が無理もないが。すると八神はハハッと笑ってきた。「ハハッ……警戒しているのがバレバレですよ? でも、仕方がない。俺、亜季にしつこく迫っていたから」 どうやら自覚はあるらしい。 余計なことを言うから、亜季は気にして櫻井課長を別れを切り出してしまったのだ。 結局のところは、合コンで会った、青柳って人に助言をしてもらったお陰で、上手くいっただけで。その間は落ち込み過ぎて美奈子は相当心配していた。 だから八神のしたことは、余計なおせっかいだと思っている。「……そうですよ。しかも余計なことまで言うし。そのお陰で亜季は、凄く泣いて落ち込んでいたんですよ」 美奈子は、彼の発言に少しムッとする。簡単に言っているからだ。 八神は、美奈子の発言に苦笑いをしていた。「そうだね……ごめん。でも、俺も真剣だったんだよ。別に彼女を傷つけるつもりはんかった。でも、苦しんでいる彼女を見ていたら……言うしかなかった。落ち込ませるような奴より俺にしたらいいのにって」「それが、余計なおせっかいなんです!」 美奈子は、ドンッとカウンター席のテーブルを思いっきり叩いた。周りは驚いた顔をしていたが。 彼は何も分かっていない。亜季は本当はそんなことは望んでいなかった。亜季が言っていた青柳っていう人の方が理解をしている。 そうしたら八神は、とても悲しそうな表情をする。「……そうだね。俺は……彼女を傷つけた。確かに、おせっかいだったかもしれないね」 今にも泣きそうだ。「あ、あの……ごめんなさい。言い過ぎました」 思わず言い過ぎてしまった。彼だって本気だったかもしれないのに。 自分も人のことが言えないだろう。そうしたら八神は苦笑いする。「気にしないで。俺は……昔から誤解されやすいから。女遊びが激しいとか、性格がチャラいとかさ。ただ一途なだけなのにね」 美奈子は言葉を失う。 彼は、本当に亜
玉田美奈子(たまだ みなこ)は昼下がりに会社の窓から見える景色を見ながら、ため息を吐いていた。 真夏の日差しは眩しくて、とにかく暑い。(今頃、亜季は何をしているのかしら?) 同期で友人の松井亜季(まつい あき)が櫻井課長を追いかけて、海外に行ってから半年が経った。 色々あった二人だったが、結ばれて結婚した。今では彼女のお腹には子供が宿しているとか。 最初は心配していた美奈子だったが、上手くやっていると聞いてホッと胸を撫で下ろしていた。しかし同時に羨ましく思う自分も居た。 彼氏が欲しい。そう思っていても、なかなか気になる相手が現れなかった。 合コンに積極的に行ったり、友人に紹介してもらってこともあったが、どれもピンッとこない。結局、すぐに別れてしまう。 多分そこまで好きではなかったか、恋愛に向いていないのかもしれない。 明るいが気が強い。そして、はっきりとした性格。飛びぬけて美人でもない。 そのせいか、友人止まりになってしまうこともしばしば。 亜季みたいにちょっと危なっかしいが、大人しく。真面目な性格だったり、後輩の澤村梨香みたいな少しぶりっ子な可愛い女性だったら、また違ったのかもしれないが。(あ~どこかに居ないかしら? カッコ良くて、エリートの一途な男性は) 高望みだと分かっていても、フッとそんなことを考えてしまう。 美奈子も28歳になる。そろそろ結婚しろと両親がうるさい。しかし相手が居ないと始まらない。また合コンで行くしかないかと思った。 そう思いながら、パソコンのキーボードを打って仕事を再開させる。 (今日は一人で飲みに行こっと) 仕事を定時に終わらせて、最近見つけたバーに向かった。駅から少し歩いたところにある。 ビルの地下にあるバーなのだが薄暗い店内だが、ジャズの曲が流れていてお洒落だ。 物腰の柔らかい年配のバーテンダーがいろんなカクテルを作ってくれる。 美奈子は、カウンター席に座って、お任せでカクテルを頼む。少し、その年配のバーテンダーと話していると、カラッと音を立ててドアが開いた。 誰が来たのかと振り向くと、その人物に驚いた。入ってきたのは、八神冬哉(やがみ とうや)だったからだ。 彼は、我が社の海外営業部で働いているエリート社員。顔立ちもいいのでモテる。 しかし彼は、亜季の猛アプローチしていた過去を持つ。
どうやら彼女の両親は離婚していたようだ。 青柳のところは両親が忙しかったので、祖父母が代わりに面倒を見てくれることが多かった。そのせいか、考え方が少し年寄りみたいだと言われることはあったが。「俺は両親が共働きだったせいか、祖父母に育てられた。だから夫婦のことは分からない。だが……あの夫婦は、確かに暖かかった」 俺にはないものを持っている。そう青柳は感じていた。 もしかしたら、どこか羨ましかったのかもしれない。「私は、そういう夫婦になりたかったんです。だから、基紀……元カレに言われ時に、違うなと思ったのだと思います。別れが言えたのも……それが影響したのかも。自分に自信がないのもありますが」 モジモジしながらも話す彩美。それを聞いて青柳は彼女なりの信念があるのだろうと感じた。 どうしても譲れないもの。それは自分にもあるように。 店長がビールが入ったジョッキーを持ってきたので一口飲んだ。「いいのではないか? それが君の信念だ。譲りたくないものがあれが、譲らなくてもいい。俺は……いいと思うぞ」「あ。ありがとうございます」 彩美は頬を赤く染めながらもビールを飲んでいた。 そういうところが真っ直ぐなのかもしれない。青柳は彼女に好印象を持つ。 その後。食事を済ませて、お店を出る。お礼だからと、彩美が奢る形で。「ご馳走様。本当に良かったのか? 奢ってもらって」「はい、お礼のつもりで誘ったので、大丈夫です。あ、あの……それよりもメッセージアプリのⅠDを聞いてもいいですか?」「えっ?」 青柳は彩美の言葉に驚いてしまった。まさかメッセージアプリのⅠDを聞いてくるとは思わなかったからだ。「あ、あの……ダメでしょうか?」「あ、いや……別に、いいけど」「本当ですか!?」 嬉しそうな顔をする彩美。その表情を見た時、青柳は嫌な気持ちにはならなかった。 それよりもドクッと確かに心臓の鼓動が速くなったのを感じた。 その後。青柳と彩美の交流は続いていた。 もちろん教習所の生徒と教官の関係制としてもだが。それ以外でもメッセージを送り合ったり、会う回数が増えていく。「青柳さ~ん」「ああ、おはよう」 日曜日に彩美と会う約束をする。彼女が観たがっていた映画を観に行く予定だ。 隣で歩く彼女が当たり前になっていくのを感じる青柳。自然と手をつなぐことも慣れて
「人の価値は相手に決めてもらうものではない。俺も無口で不愛想とか言われることもあるが、それが自分だから変える気はない。君も、そのくだらない相手の意見ばかり聞いて、どうする。教習所でミスをしても、めげずに通ってくる勇気と一生懸命な君のほうが、何よりも価値があると思うぞ」 青柳は自分は間違ったことは言っていないと思っている。言葉はキツいが、それが本心だった。 彩美は大人しい性格ではあるが、真面目で一生懸命だ。失敗しても、必ず予習をしてくるし、嫌なことは嫌だと言える勇気はある。 ちょっと危なっかしいところも、人の見方によっては守りたくなる分類だろう。 そう考えると、青柳は少しずつだが彼女の存在が大きくなっていくのが分かった。 それは……あの亜季に似ているからかもしれないが。 すると彩美は何か考え事をしていた。そして青柳を見るとモジモジとしている。「……私、変われるでしょうか? もっと価値のある人間に」「……さあな。それも俺が決めることではない。しかし、俺は……あんたみたいな性格の人間は嫌いじゃない」 これも本心だった。 彩美はそれを聞いて。モジモジとしながら、ほんのりと頬を赤く染めていた。その意味は分からなかったが。 コーヒーを飲んで、その帰り際。「それでは」と言って、帰ろうとする。すると彩美が声をかけてきた。「あ、あの……お礼をさせて下さい。い、一緒にご飯とかどうですか?」 途中で嚙んではいたが彼女の方から食事のお誘いがくる。まさか誘われるとは思わなかったので青柳は驚いてしまった。「あの……ダメですか?」「あ、いや。構わないけど……」 彼女とは教官と生徒としての関係だ。あまりプライベートでは会うべきではないのだが、どうしてか断わる理由が見つからなかった。 そうこうしているうちに一緒に食事をすることになってしまった。 向かった先は駅から少し離れた場所にある小料理屋。落ち着いた雰囲気のある、お店だ。ここに入るのは初めてだが。 中には入ると店長らしき人が出迎えてくれた。しかし青柳の顔を見ると驚いた顔をされる。どうしたのだろう? と思っていたら「あ、すまない。知り合いの顔に似ていたから」「えっ?」 知り合いの顔に似ていると聞かれたのは初めてではない。まさか?「その方って、櫻井さんですか?」「おや、知っているのかい?」 青柳が
青柳が亜季と合コンの後に再開した時に、何故か泣かしてしまった。 もちろん、そんなつもりはない。だから動揺してしまう。「す、すまない、泣かせるつもりはなかったのだが」「あ、いいえ。違うんです。安心したら涙が……すみません。すぐに涙を引っ込ませますので」「いや……別に、無理に引っ込めなくても」 青柳は慌ててカバンからハンカチを取り出して、差し出した。「これを」「あ、ありがとうございます」 彩美は申し訳なさそうにハンカチを受け取った。それでも、なかなか泣き止まないので、仕方がなく近くの喫茶店に入ることに。 ここも光景も同じ経験していた。 彼女はオレンジジュースを頼み、青柳はコーヒーを注文する。しばらくしたら彩美は落ち着いてきたようだった。「……落ち着いたか?」「はい。お見苦しいところをお見せして、すみませんでした」「……こういうところも似ているかもな」「えっ?」「いや……こちらの話だ。それよりも、あの男性は彼氏だったのか? 別れを切り出していたが」 青柳は亜季を重ねつつも、彩美にさっきのことを尋ねた。そうしたらビクッと肩を震わした。「……悪い。聞いたら、まずかったか?」「あ、いいえ。そんなことはありません。あの人は……元カレです。以前付き合っていたのですが……お恥ずかしながら浮気をされてしまって。別れても、しつこくやり直そうと言われています」 どうやら元カレで間違いなさそうだ。浮気をしておいて、関係を続けたいとは勝手な話だ。「なるほどな。で? 君は、あの男に本当に未練はないのか?」「えっ……?」 さっきの態度だと、別れたそうにしていたが。 しかし以前のことがある。ちゃんと割り切れるかが問題だろう。 そうしたら言葉に詰まらせる彩美。 青柳は店員が持ってきたコーヒーに口をつける。「実際に別れたと思っているなら、それでいい。だが、まだ未練があって、やり直したいと思っているなら話は別だ。相手に分かってほしいは、通用する相手はないと思うが?」 恋愛とはよく分からない青柳だったが、これだけは分かる。あの男は自分勝手だと。 人より観察眼はある方だ。だから余計に思ってしまう。 亜季と櫻井課長みたいに純粋に相手を想い合っているとは思えなかった。あえて聞いたのは、確かめたかった。 彩美はスカートの裾をギュッと握り締める。「…
(ここにも居た……運転の下手なやつが) まさか、亜季みたいなタイプを担当するとは思わなかった青柳。これでは彼女の二の舞だ。 ため息を吐いている姿を見て、彩美はしゅんと落ち込んでしまう。「……すみません」「謝らなくても大丈夫。初めてなんだから仕方がないことだ」 そう言ってみせるが、どうやら彼女は謝る癖があるようだ。そういうところは、どこか亜季に似ていると思う青柳。 その後も通ってきて運転の講習を受ける彩美。 細かいミスを連発するが、他の生徒と比べて真面目だった。一生懸命で、どこか危なっかしい。少しずつではあるが、上手くなっていく。「出来ました」「ああ、良くなったと思う」「本当ですか!?」 そして上手くやれると、嬉しそうに笑顔を見せてくれた。やはりどこか似ている。 諦めたはずの彼女に……。 青柳は彩美に亜季の面影を重ねるようになっていく。(俺も……どうにかしている。彼女は松井さんではないのに) 本来なら距離を置きたいところだった、これ以上重ねないためにも。 しかし担当教官な以上は、責任を持って最後まで指導しないといけない。 青柳はギュッと胸の辺りが苦しくなっていく。 そんなある日。仕事が終わって帰る途中だった、。青柳は駅の辺で揉めている男女を発見する。その女性は彩美だった。(あれは……真中さん!? 彼氏と喧嘩でもしているのか?) 本来なら他人の揉め事に関わることはない。興味はないし。 しかし、彩美は恐怖でガタガタと震えているようだった。すると男性の方が声を上げる。「お前、いい加減にしろよ。せっかく俺がやり直してやるって言っているのに」「だから……無理なの」「何でだよ? 別に、ちょっと他の子と遊んだだけじゃないか? あれぐらいは男なら当たり前だし」 どうやら別れ話で揉めている様子だった。聞いたところだと、彼氏が浮気をしたのだろう。 そして彼女が別れを切り出したら、ここまで待ち伏せさせられた感じだろうか。 彩美は恐怖で目尻に涙を溜めていた。「基紀(もとき)が平気でも……私は辛い。だから別れて」「くっ……お前、生意気なんだよ。地味で冴えないから、付き合ってやっているのに」 そう言うと、キレたその男性は手をあげようしてきた。このままだとぶたれてしまう。 そう思ったら、自然と青柳の足は動いてしまった。ガシッと、基紀と
どこか危なっかしい。 本人は悪気がないというより、少し抜けているところがある。天然とういうのだろうか? 結局、自宅に招かれることになってしまった。 その時に青柳が驚いたことは、亜季の言っていた櫻井課長だ。似ているとは言っていたが、まさかここまで似ているとは思わなかった。亜季の息子である和季が勘違いするほどに。 お互いに気まずくなる。だから、自分を重ねるわけだと納得してしまう。 それなのにニコニコしている亜季を見て青柳は、ため息を吐いた。(これは……彼女の旦那も大変だな)と……。 どうも放っておけない。だからこそ、気になってしまったのだろう。 そして、これほど積極的で真っ直ぐに感情を向けてくるのだから、意識しない方が無理である。 亜季は深々と頭を下げると、櫻井課長も同じく頭を下げてくれた。「俺の方からもお礼を申し上げます」「2人共…頭を上げて下さい。それに俺、そんな立派なものではないです。ただの卑怯な奴ですから」「どうしてですか?」 亜季は不思議そうに尋ねるが、少し寂しそうな表情を見せる青柳だった。 自分は、それを言ってもらえるような人間ではない。「それは、秘密です。墓まで持って行くつもりなので」 青柳は、自分ことを卑怯な人間だと思っていた。 本当は、その先を期待していた。亜季が振られて帰ってきた際は、慰めたいと思っていたからだ。 上手くいったら諦めるはずだった。だが……もし。 彼女はダメだった時は、吹っ切れてほしい。そうしたら改めて交際を申し込める。 それは振られることを期待すること。それが……自分が持っている感情だった。(俺って……最低だな。彼女に笑ってほしいと思いながら、こんなことを望むなんて。だから、これは墓まで持っていくつもりだ) そう青柳は心に誓った。 自分の恋は、こうしてあっけなく終わってしまった。でも、それで良かったのかもしれないしれない。笑ってくれるのなら。 それから何ヶ月が経った頃。青柳は、いつもの日常を過ごしていた。 今回から、また新しい生徒を担当すること。青柳は資料を見る。 名前は真中彩美(まなか あやみ)大学2年生らしい。 学生のうちに免許を取得する人は多い。(真面目な子だといいのだが) 青柳は、そんな風に思っていた。そして実際に会ってみると、小柄で大人しい雰囲気の女性だった。
それが会ってハッキリすると、無性に腹が立ってきた。 ウジウジしていないで、ちゃんと向き合ってほしい。その櫻井課長にも。 「まぁ……簡単に忘れられるものではないだろう。焦らずに居ることだな。いずれは時間が解決してくれる」「青柳さん……」「……そう言って欲しいのか? 俺に」「えっ?」 そう思ったら、自分でも驚くぐらいに亜季に説教をする青柳。 そこまで言うつもりはなかったが、口が動いたら止まらなかった。そこで、ようやく気づいた……自分の気持ちに。(俺は、吹っ切ってほしかったんだ)と……。 ずっと櫻井課長のことを考えないでほしい。そのためにも、ハッキリさせてほしかったのだろう。 上手くいけば仕方がないが、もしダメだったら。踏ん切りがつくはずだ。本気でぶつかった相手なら、言わないよりも言った方がスッキリする。 なんより、彼女に笑ってほしかった。沈んだ姿は似合わないと思った。「やり直したいと思うなら動け。君が動かない限りは何も変わらない」「……まだ……やり直せるでしょうか?」「さあな。そんなの俺に聞いても分からない。で、どうするんだ?」 青柳の言葉に、亜季は静かに前を見る。 動かないと何も変わらない。それは自分自身にも言っていることだ。「私……追いかけます。課長とやり直したいから」「……そうか」 青柳は、これ以上は何も言わなかった。彼女が決めたことだからだ。 食事を済ませてお店を出ると、亜季は頭を深く下げて、お礼を伝えてきた。「ご指摘ありがとうございました。私……目が覚めました!」「どうやら、ちゃんと前を向く気になれたようだな」「青柳さん……」 青柳は静かに微笑んでみせる。 亜季の顔を見ると、どこかスッキリしていた。きっと、自分のやるべきことを見つかったのだろう。(ああ、彼女は笑うと魅力的な人だな) やっと彼女の微笑む姿を見ることができたのに、気持ちは切なかった。 でも……これで良かったのかもしれない。そう青柳は思った。「もし、ぶつかってみてダメなら、また俺に連絡して来い。相談でも愚痴でも聞いてやる」「ありがとうございます!」 青柳はそう言ったが、そこに本音が隠れていた。でも、それは言わないつもりだ。 彼女が、ちゃんと向き合って、会いに向かうまでは。 そして亜季は頭を下げると、青柳とそのまま別れた。