「大丈夫よ! 噂は、あくまでも噂。真実ではない以上は、すぐに皆忘れるわよ?」「……そうかな?」「噓なのは分かっているし。もっと堂々としていた方がいいわよ」 美奈子は、すでにさっきのことは知っていたみたいだ。 しかも変わらずに温かい言葉をくれた。それが亜季にとっては嬉しかった。 亜季は美奈子に寄り添ってもらって、自分のデスクに着く。 その後。櫻井課長が出勤した頃には何も無かったかのように通常に戻っていた。 亜季も気を取り直して、仕事に打ち込む。 美奈子は、そんな亜季に気遣ってか、お茶を代わりに淹れてくれた。「はい。亜季の分」「ありがとう……」 お茶が入ったマグカップを受け取り、一口飲む。 やっと少し気持ちが落ち着いてきた。こんなことで、動揺するなんて情けない。 もっと毅然とした態度でいないと、逆に疑われてしまう。 亜季はそう思い直すのだが、噂を信じている社員は、思ったよりも多かった。 仕事をしていると、ドサッと大量の資料を亜季のデスクに置かれる。「……えっ?」「これだけの資料を全部まとめといてくれる? 松井さん」「あの……これ全部。私1人で、ですか?」 いくら何でも一人でできる量ではない。 それに自分のやっている仕事もあるし、担当の仕事ではない。「できるでしょ? あちらこちらの男性を口説いている暇があるのなら。お願いしますね? こっちは、そんなことができないぐらいに忙しいので」 断ろうとしても一方的に言われて、そのまま行ってしまった。 どう考えても嫌がらだろう。これは……。 亜季は、ただ唖然とした。「何よ……あれ? 感じ悪い上に無茶苦茶よねぇ~亜季。私も手伝うから」「美奈子……ありがとう」 一体、何が起きているのか。亜季は恐怖で体が震える。 だが嫌がらせは、それだけでは終わらなかった。 しばらくしてから亜季がコピーをするためにコピー機を使っていると、「ねぇ、いつまで使っているのよ? 人の迷惑も少しは、考えてよ」「あ、すみません。 すぐに終わらせますので」 慌ててコピーを中断させて、残りを後でやることに。 コピー機から書類を取り出した。すると呆れたようにブツブツと文句を言ってくる。「本当……年だけ、とっているくせに。無駄にトロいんだから」 酷い。そこまで言うことないではないだろう。 お手洗いに行っ
自分が所属している部署にイジメがあるなんて、きっと不愉快な思いをさせるだろう。 それが自分のことだなんて恥ずかしい。むしろ噂が櫻井課長の耳に入っていないかが心配だった。「亜季。言った方がいいわよ? 櫻井課長なら嫌がらせを止められるかも知れないし」「……うん」「あと、その噂を広げたのって、同じ部の澤村さんだから」 実は亜季も美奈子と同意見だった。。あの時も噂を、さらに広げるように発言をしたのは彼女以外は考えにくい。 澤村さんは、あれだけ騒いで噓を言ったからだ。しかし控え室以外は決定的な証拠がある訳ではない。 下手に言えば、自分がさらに悪者にされるだろう。「……多分そうかも」「何で、そんな噂をするのか知っているの? あれは絶対に八神さん関係よ! ほら、なんかあの子。八神さん狙っていたじゃない? あんたと付き合っていると勘違いして嫉妬しているのよ……きっと。まったく。嫉妬で、こんな噂を広めるなんて小学生じではあるまいし。大人気ないわよねぇ~」 美奈子は呆れながら、そう言ってきた。 原因が、それなら確かに大人気ない。 八神は人気の高いイケメンだ。好意を持つ女性社員は、たくさん居るだろう。 そんな中で、亜季みたいな地味系の女性が恋の噂になっていたら、面白くないと思う人も多いだろう。「とりあえず櫻井課長に言った方がいいわ。 それと八神さんにも迷惑だと、もう一度やんと伝えたら?」 亜季は小さく頷く。だけど櫻井課長には、やっぱり言えなかった。 社内でイジメられているなんて、情けない姿を見せたくない。。自分でも惨めだと思うのに。 八神に言うのも気が引ける。色々と頭の中で考えていると、気分が沈んでしまった。 気持ちは沈んだままだった。 翌朝は、会社に行くことも憂鬱になる。「今日……日曜だったら良かったのに」 渋々会社に行くが、やはり周りの女性社員の冷たい目線が痛かった。 ただの噂なのに……。 落ち込みながらもロッカーにカバンとコートを置いて、部署に向かった。 その現状に絶句する。亜季ののデスクが荒らされていたからだ。「嘘……何で!?」 慌てて駆け寄り、何か紛失していないかチェックする。資料も置いてある。 貴重品などは持って帰るため問題ないが、やりかけの企画書に使うファイルなどが失くなっていた。 どうしよう、これだと仕事がで
亜季は謝罪をすると、荷物を持って部署から出る。 美奈子と別れると1人でトボトボと電車に乗った。こんな時間に帰宅する自分が情けなくて仕方がない。 これから、どうしたらいいのだろうか? 噂になっている自分が否定したところで誰も信じてくれない。言い訳をしているとしか思われないなんて理不尽だと思う。 電車に乗りながらスマホをずっと眺めていた。そうしたらスマホが光り出した。 メッセージが届く。誰からだろうと? 見ると美奈子からだった。『大丈夫? あの後で課長に出勤してきて。悪いと思ったのだけど、事情を全部話したの。そうしたら課長ったら、凄い剣幕で部署全員を叱り飛ばしたわよ!』「えぇっ!?」 あまりにも驚いて声が出てしまった。 電車の乗客は、こちらを見る。ハッと気づくと恥ずかしくなった。「……すみません」 恥ずかしそうに俯いた。しばらくすると、もう1件メッセージが届いた。『今、こっそりメッセージ中。これ以上やるなら警察沙汰にするって。で、亜季と付き合っているのは、俺だと正直に話していたわよ! だから嫌がらせをして、傷つける奴は俺が許さないってさ。あんたの課長。ちょっと……見直しちゃった。私』 美奈子からそう送られてきた。 櫻井課長が、私のためにわざわざ皆の前で話してくれたらしい。付き合っているって……。 メールを何度も確認する。同じことしか書いていないけど……何度も泣きたくなるぐらいに嬉しかった。 櫻井課長の優しさが亜季の心の中に染み渡る。 きっと言うのに抵抗があったかも知れない。周りに交際宣言をするなんて男性にとったら恥ずかしことだろう。 でも、自分のために言ってくれたんだ。涙がスマホに付いてしまった。 自宅のアパートに着いた頃には櫻井課長からメッセージが二件届いていた。『具合は、どうだ? 多分、玉田からの連絡で聞いているかも知れないが、今回の揉め事は、俺が全て叱り飛ばして解決させておいたから。余計なことをしたかも知れないが許してくれ。今日来れそうなら家に来てくれるか? 何か美味しい物でも作って待っている』 そう書いてあった。余計なことだなんて思わない。 だって、櫻井課長の優しさをちゃんと知っているから。 亜季は自宅のアパートに着くと、疲れた精神を癒やすためにベッドに向かった。 精神的にボロボロだけど櫻井課長と美奈子のお陰で
亜季自身、このままではダメだと思わせてくれた。 すると櫻井課長は、照れたのを隠すように慌てて鍵を開けてくれた。「と、とにかく中に入れ。寒いだろう」「……はい」 亜季もつられて頬が熱くなっていた。自宅に入らせてもらうと、櫻井課長はキッチンで買ってきたエコバッグを置いた。 そして中身を出すと、そこには野菜と豆腐などが入っていた。。「あの……何を作る気ですか?」「あぁ、鍋を作ろうと思って。寒いし、体も心も温まるだろ?」「いいですねぇ~私も手伝います」 確かに体も心も温まりそうだ。 亜季は急いで、お手伝いするためにキッチンに向かった。 一緒に食材を切ったりしていく。 出来上がったのは、テーブルに運んで食べた。櫻井課長が作る鍋は、野菜や具材がたくさん入っていて美味しい。「どうだ? 男料理だから、豪快な感じになってしまうが……味付けは?」「凄く美味しいです。温まる~」 ホクホクした気分になる。 確かに体も心も温まった。だけど、それだけではない。櫻井課長の気遣いや優しさが鍋にも現れているように感じた。(あ、いけない……) そう思ったら自然と涙が溢れてきた。 年をとると、涙もろくなってしまうから困る。「松井? どうした? 嫌なことでも思い出したのか? それとも不味かったか?」「いえ……ただの嬉し涙です」 亜季は涙を拭きながら苦笑いする。 辛かったからこそ、櫻井課長の優しさが目に染みてしまったようだ。 その時だった。櫻井課長は席を立つと亜季を抱き締めてくれた。ギュッとされると、そこから優しくて温かいぬくもりが伝わってくる。 もう、涙が止まらなかった。 今まで我慢してきたことが、一気に溢れてくる。心が解放されたような切ない気持ちになった。「お前は、我慢し過ぎだ。泣きたい時には泣けばいい。今は、俺しか居ないから甘えろ」「……っ」 櫻井課長は、泣き止むまでずっと抱き締めてくれた。言葉は無くても、気持ちが伝わってくる。 たくさん泣いたせいか、泣き止む頃には随分と気分が楽になった。「もう……大丈夫です。ありがとうございます」「そうか? それなら良かった。鍋が冷めてしまったな。温め直すから、ちょっと待っていろ」「あの……櫻井課長」「何だ?」「今日……泊まってもいいですか?」 残りの鍋をキッチンに持って行こうとする櫻井課長
そしてシャワーから出ると朝食の準備をした。 しばらくして櫻井課長が帰ってきた。 ガチャッとドアが開くと、汗をかいている。息も切らしていた。「松井……もう起きていたのか? 体調は、どうだ?」「おはようございます。はい。なんとか……」「そうか。汗をかいたからシャワーを浴びてくる」 亜季は恥ずかしくなりながらも返事をすると、櫻井課長は、シャワーを浴びに行ってしまった。お互いに照れてしまう。 シャワーを浴びている間に、朝食を作り終わらせ一緒に食べた。「それで今日は、どうする? 昨日の今日だ。無理して会社に行く事ことはない。有給休暇を使うか?」 確かに昨日の今日で会社に行くのは辛い。辛さを思い出すと、悲しくて仕方がない。 でも……このままではダメだろう。 自分は何もやましい事していないのだから堂々としていないと。 支えてくれた櫻井課長や美奈子に悪い。亜季は真っ直ぐと前を見る。「もう大丈夫です。会社に行きます」「無理しなくてもいいんだぞ?」「いいえ。櫻井課長が庇ってくれたので、もう大丈夫です!」 亜季はニコッと微笑む。会社で一人ではない。美奈子も居る。 それに櫻井課長の隣に並んでも恥じない女になりたい。 だから、ちゃんと会社で実績を上げて、認められる存在になりたい。「……そうか。お前は、強いな」「はい。櫻井課長の彼女ですから」 だから負けたくない。亜季は前向きに思うようになった。 先に出勤をして自分の部署に向かった。 美奈子には、お礼のメッセージと今日は会社に行くことは伝えておいた。 部署に入ると周りの女性社員は、一瞬驚いたような顔をしてきて、よそよそしくなる。嫌がらせはピタリと止まっていた。 澤村は気まずいのか、目線を逸らされてしまったが。 その後も陰口を言っている人は、まだ居るけど直接には被害がないので無視した。 これも櫻井課長が、ビシッと叱り飛ばしてくれたお陰だろう。 櫻井課長と美奈子には、本当に感謝してもしきれないぐらいだ! そんな中。私は変わらずに給湯室で、お茶の準備をしていた。 すると八神さんに声をかけてきた。「松井さん」「八神さん」 亜季は一瞬動揺する。また、こんなところを見られたら、勘違いをされるかもしれないと思ったからだ。 つい周りをキョロキョロと確認をしてしまう。「つい最近まで出張で会
「あぁ、前に企画書を見た取引社が気に入ってな。今度、計画されている遊園地の広告をぜひ松井にやってもらいたいと申し込んできた」 なんと大型の遊園地の広告を亜季が担当としてやらせてもらえることになった。 小さな広告をいくつか担当させてもらったことはあったが、こんな大きいのは初めてのことだ! いつか大きな広告を……そう思って、今まで必死にやってきたので大抜擢だった。 亜季は嬉しくて思う。「は、はい。頑張ります」 こんなチャンスは二度と来ないかもしれない。 そのためにも、ぜひ成功させて次のステップアップにしたいと思った。 亜季は意気込み、仕事にも力が入ってくる。 全て順調そのはずだった。あの噂を聞くまでは……。 それは、あれから一週間後のことだった。「亜季~大変、大変」「どうしたの? 美奈子。そんなに慌てて?」「いいから、ちょっと来て」 頼まれた資料を届けに行ったはずの美奈子が慌てて戻ってきた。 そして強引に給湯室に連れて行かれてしまう。 給湯室まで連れて行かれると、亜季と向かい合わせにさせられる。「いい? 落ち着いて聞いてね? 櫻井課長……海外の会社に飛ばされるらしいわよ!?」 美奈子は興奮気味に、そう言ってきた。「えぇっ!?」 亜季は驚きを隠せなかった。だって、どうして櫻井課長が海外の会社に飛ばされるのだろう?? しかしハッとする。もしかして、社内恋愛が知られたから? だけど、この会社は社内恋愛は禁止ではないはずだが?「それって……私が原因なの?」「分からないわ。私も男性社員が噂をしているところをたまたま聞いただけだから」 亜季は頭の中が真っ白になった。 もしその噂が本当なら櫻井課長は、上司ではなくなってしまう。 我が社にも居なくなってしまう。そんなの……嫌だ。 原因は、やっぱり自分あるのだろうか? 櫻井課長は実績も高いし、他の上司からの信頼もある。大きなミスや小さなミスもしない。 几帳面な性格の櫻井課長が失態をするとなると、自分のこと以外は考えられないだろう。(どうしよう……私のせいだ) まだ自分のせいだと分かったわけではないが、責任を感じてしまう。 櫻井課長の人生を壊してしまった。亜季の頭の中は混乱する。「ちょっと亜季。しっかりして!? あくまでも噂で、それが真実だと決まったわけではないから」「
亜季にとったら、こんなにも櫻井課長の前でムキになったのは、初めてのことだ。 彼は咳払いをすると、少し言いにくそうに説明をしてくれた。「実は今年の夏頃から、そう言う話は来てたんだ。言っておくが、飛ばされるのではないぞ? 海外……アメリカの姉妹会社から部長としての就任命令だ」「えっ……?」 亜季は混乱する頭を必死に整理させた。 つまり課長は、アメリカの会社に呼ばれたということだろう? 部長として出世するために。「決断を早くしろと前から言われていたのだが、まだあの時は迷っていてな。部長になれるのは、大変名誉でありがたいことだ。しかしあの時は、まだ君とお見合いをしていなかったし。どうしても踏みとどまってしまって」 櫻井課長は恥ずかしそうにしながらも話してくれた。 本来なら喜んで、お祝いのコメントを言うところなのだろう。 でも亜季は、頭が真っ白になって言葉が出てこなかった。「智和さん……その話は、今後は受け入れるのですか?」 もし、そのつもりだったら櫻井課長は海外に行ってしまう。 離れ離れになってしまう。亜季の脳内は、そう考えてしまっていた。。「いや。本来なら社員である以上は、余程の理由がない限りは断われない。それでも何とか言って断わるつもりだ」「な、何故ですか? せっかく部長として出世ができるのに」「だが……海外に行ったら、君にも会えなくなる」 亜季は思わず、そう言ってしまったが、櫻井課長が迷っているとすぐに分かった。 自分も動揺をしていた。本当は櫻井課長に行ってほしくない。ずっと自分のそばに居てほしい。 しかしそれだと、せっかくの出世を潰してしまうことになる。それで本当にいいのだろうか? 自分のせいで。 考えれば考えるほど頭の中は混乱してしまう。「心配をかけてすまない。まぁ、断わるつもりだったから安心しろ。別に出世しなくても課長の仕事で十分に満足しているし」 そう言って、心配させないようにしてくれている。 いいのだろうか? 本当にそれで満足しているの?「と、智和さん。海外に行って下さい」「えっ? 亜季?」「せっかくのチャンスではないですか!? 部長になれるチャンスを自分から潰さないで下さい」 本当は分かっていた。満足してるわけではないと。だって、せっかくのチャンスだ。 出世したいと思うのは当然のことだろう。櫻井課
その頃。亜季は、そんなやり取りをしているとは知らない。 耐えられなくなって、お店から飛び出してしまった。涙が溢れてくる。 まさか、衝撃的な言葉を聞くなんて。噂だけであってほしかった。「……智和さん」 本当は、行ってほしくない。せっかく櫻井課長も行かないって言ってくれたのに。 自ら棒に振っているのは自分だった。やっと、両思いになれて一緒に歩いて行けると思っていたのに。 一人でトボトボと泣きながら歩いた。寒い……心も凍えそうだ。「あれ? 亜季……?」 この声は……。 振り向くと八神だった。あぁ、また泣いているところを見られてしまったようだ。 どうしてこの人には情けない姿ばかり見られるのだろうか。「泣いているの? また、どうして?」「泣いていませんよ……全然」 八神さんは心配そうな表情をしてきた。亜季は、それに気づいて慌てて涙を拭いた。 平気な顔をして笑顔を見せる。かなり無理な作り笑いだったが。「……亜季」「偶然ですね? ここで会うなんて。じゃあ私は……急ぎますので」 そのまま亜季は立ち去ろうとした。だが咄嗟に腕を掴む八神。「亜季。待てよ!? 絶対何かあっただろ?」 そして、反転させられると抱き締められてしまう。急に抱き締められたので亜季は動揺してしまった。「や、八神さん!?」「どうしても俺ではダメなんだ!? 課長ではないと涙の理由すら話してくれないのか?」 悲しそうな声と表情で言われる。そんなことを言わないでほしい。 涙が出てしまうから。 ダメだと思うのに、亜季の心はボロボロで涙が溢れてしまう。泣くはずではなかったのに。 結局、落ち着いてきたら八神に理由を話した。 近くにあった喫茶店に入って、コーヒーを飲みながら。「……そうか。櫻井課長。俺が前に行っていた会社に行くことになったのか」「は、はい」 そういえば、その会社は八神が以前に行っていた会社だった。 何という偶然だろうか……。「あそこの会社から部長として行くなんて凄いよ! かなりの出世コースだ」「……そうですよね」 やっぱり櫻井課長にとったら願ったり叶ったりなのだろう。 それもそうだろう……大出生なのだから。胸が余計に痛んでくる。「本当は、どうしたい? 嫌なら、きちんと断わらせるべきだと思うけど」「ですが、私には……言えません。行かないでなん
ガーンと、どうしようもないショックを受ける亜季。 いや自分でも最初から上手くやれるなんて、思ってはいない。それでも、もう少しはマシだと思っていた。(私ってこんなに下手なの?) 改めて認識すると、余計に落ち込んでしまう。そうしたら、「まあ、初めてなんだし。上手くやれなくて当然だ! 少しずつ教えていくから覚えて行こう」と、言って励ましてくれた。 優しい言葉をかけてもらい亜季は嬉しくなる。 今日の講習は、これで終わった。帰る身支度をしてから、青柳にお礼を言うために頭を下げた。「今日は、ありがとうございました。明日もよろしくお願い致します」「あぁ、こちらこそ。じゃあ、また明日」「あ、待って下さい」 立ち去ろうとする青柳を何故だか慌てて止めてしまう亜季。(あぁ、またやってしまった……) どうしても青柳を見ると引き留めてしまう。止めた理由は思いつかないのに。「……何?」「あ、えっと~今度改めてお礼をさせて下さい。色々とお世話になったので」「……いいよ。別に。それより明日も頑張って」 素っ気なく、それだけ言うと行ってしまった。 あっさりと断られてしまった。 でも彼らしいと思う。 まさか、あの人が担当教官として再会するなんて思わなかったから。不思議な気分だ。 そのことは、夜に自宅で櫻井課長にも話した。「えっ?担当教官だった? 青柳さんって……確か、君が背中を押してくれたと言っていた人か?」「そうそう、その人。もう驚いちゃって、やっと、ちゃんとお礼が言えたの」 亜季は嬉しそうに話した。 櫻井課長は、ふーんと曖昧な返事をしながら、和季に離乳食を食べさせていた。 (どうしたのかしら? 何だか興味なさそう) 不思議そうに首を傾げた。せっかく恩人の話をしているのに。 すると櫻井課長は、ため息交じり「まだ肉食系ではなくて良かったかもな」と、小さな声でボソッと呟いた。「えっ? 今なんて?」「いや、何も。それよりご飯にするか? 和季も離乳食を食べ終わったし」「あ、今すぐ準備するわね」 亜季は慌ててキッチンに戻って行く。一体、何を言いたかったのか分からないままだったが。 出来上がった料理をよそって持っていく。 今日は、カレーライスとツナとトマトのサラダにした。 ダイニングテーブルに置くと、櫻井課長が亜季に聞いてきた。「それよ
そして見事に学科試験を突破した。落ちるかと思っていたから嬉しい……。「良かったわね。櫻井さん」「うん。ありがとう」 一緒に教習所に通っている木田がお祝いの言葉をくれた。木田とは、一緒に通っていて、年も近い。そのせいか、どんどんと仲良くなった。 後は……技能講習と試験のみ。もっとも難しくて、これで落とされる人も多いらしい。「やっぱり、実際に運転してみると難しいものなの?」「えぇ、もう大変。見ているのと、やってみるのでは全然違うから、覚悟した方がいいわよ」 そう言われてしまう。覚悟か……。 何だか余計にプレッシャーになってしまう。上手くできるだろうか? ココから担当の教官(教習指導員)の元で合格が決まる。 (怖い人が当たりませんように) そう祈りながら名前を呼ばれるまで待合室で待つこと数十分。「櫻井さん。櫻井亜季さん」「あ、はい」 亜季は慌てて呼ばれた方を見る。そうしたら意外な人物に遭遇してしまった。 その人物は青柳だったのだ。「えっ? 松井さん?」 目の前に立っているのは間違いなく青柳だった。「えっ? 何で……こんなところで!?」 意味が分からずに亜季は困惑してしまう。するとハッとする。 そういえば自動車関係の仕事をしているって、前に言っていたような気がする。 あの時は櫻井課長のことで頭がいっぱいだったから。 改めてお礼を言うために、慌てて頭を下げた。「あの時は、本当にありがとうございました」「上手くいったようだな。苗字が変わっていたから気づかなかった」 物静かな言い方をする青柳。 あぁやっぱり。相変わらず雰囲気や口調が櫻井課長に似ていると亜季は思った。「はい、お陰様で。無事に結婚して、現在一歳になる息子も居ます」 少し照れたように亜季は報告をする。青柳には本当に感謝しないといけない。 この人が背中を押してくれなかったら自分は、ずっと後悔していただろう。 海外まで追いかける勇気なんて持てなかった。「お礼を言われる必要なんてない。俺は、あくまで自分の意見を言ったまでだ!」 青柳は目線を逸らしながら。そう言ってきた。(フフッ……相変わらず無愛想な人ね) 照れると目線を逸らす癖なんて本当に櫻井課長に似ている。 親戚や兄弟だと言われても亜季は信じてしまうだろう。「フフッ…お仕事は教習所の教官だったん
しばらくすると「ふぇぇ~ん」と和季の泣き声が聞こえてきた。 どうやら起きてしまったらしい。「……まったく。また、寝かせに行ってくるか」 櫻井課長は、ため息混じりに頭をかくとリビングから出て行った。 亜季は体が火照って、残念な気はした。それでも息子に振り回される櫻井課長も可愛く思ってしまう。思わず笑ってしまった。 しばらく経っても、なかなか戻って来ないため、覗きに行くとベッドで一緒に眠っていた。 どうやら疲れていたらしく、釣られて寝てしまったらしい。スヤスヤと同じ顔が隣で並ぶ。 和季はギュッと櫻井課長の服を掴んで離さない。仲のいい親子だなぁ~と思った。 亜季は微笑むと、そのまま静かにドアを閉めた。 それから数日後。いつものように櫻井課長は、和季とバトルをしていた。 朝は相変わらず賑やかだ! 櫻井課長が会社に行くと、家事を手早く済ませて亜季と出かける準備をした。 今日は、木田と一緒に教習所に行くことになっていた。 教習所に向かう前に和季を託児所に預けに行く。小さな託児所だったが保育士も数人居て、設備はしっかりしているようだ。 安全なようにドアは二重に鍵がついているし、ベビーサークルが設置されていた。 聞いた話だと評判もいいらしい。「じゃあ、しばらくの間、よろしくお願いします。和季。じゃあ、いい子で待っていてね」「ふぇ~ん。まんま~」 女性保育士に和季を預けた。しかし和季は嫌がり、亜季に抱っこを要求してくる。 こうも泣かれると行きづらい。 可哀相に思えてしまい、後ろ髪を引かれそうだ。「ごめんね。すぐに迎えに来るからね」「小さい子って、泣いて離れるのを嫌がるから、可哀相になってくるわよね」「はい。もう何だか、胸が痛いです」 一緒行く木田の言葉に苦笑いする。早く済ませて迎えに行こう……そう決心した。 教習所は確かに託児所から、十分ぐらい歩いた場所にあった。 手続きを済ませると、まずは講習を受ける。 その後、学科講習と技能講習などに進んでいく。どちらも試験があるから、これに合格をしないと免許が貰えない。 まずは、学科講習で合格をしなくては。 講習を受けた帰り道に、亜季は本屋に寄ると免許用の参考書を買った。 和季には新しい絵本を買ってあげた。 午後は和季が昼寝をしている間に、亜季は参考書で勉強する。「えっと…
その後、亜季は夕食作りに取りかかる。 櫻井課長の「出るぞ」の声に合わせて脱衣場に向かった。 すると和季は、お風呂で温まりポカポカになったせいかボーとしていた。今の内に素早く受け取ると、体を拭いて着替えさせた。 水分補給をさせていると、しばらくして櫻井課長も着替えて出てきた。 亜季は和季を幼児イスに座らせると、手早くビールとおつまみの用意をする。 そうそう。櫻井課長に免許のことを話すのも忘れてはいけない。 おつまみとビールをテーブルに置くと、思い切ってパンフレットを見せながら事情を話した。「えっ? 教習所に通いたい!?」 やっぱり驚いていた。 櫻井課長は、お酒を飲みながら和季に離乳食を食べさせてくれていた。「えぇ、近所のママさん達に誘われたの。大きくなると、送り迎えとか必要になるから一緒に通わないかって」「だが……和季も居るだろ? 大丈夫なのか?」 櫻井課長は離乳食を食べさせるのをやめて、パンフレットを手に取った。 そう……そこが重要なのだ。託児所のことも話さないといけない。「聞いた話だと、一時的に預かってくれる託児所が近くにあるの。申し込めば、その間だけでも預けてくれるって」 やっぱりダメだろうか……? 櫻井課長は悩んでいる様子だった。眉間にシワが寄って、渋い顔をしていた。「お願いします! ちゃんと取れるように努力しますし。できるだけ迷惑をかけないようにしますから」 亜季は必死に頼み込んだ。そうしたら、ハァ~ッとため息を吐いてきた。「まぁ、何事も経験だ。やれるだけやってみろ。だが、やるからには真剣にやるんだぞ?」「もちろんです。ありがとうございます!」 嬉しさのあまり頭を下げた。(やった~明日にでも手続きに行こう。あ、参考書とか買わなくては……それから) 亜季は機嫌よく夕食の用意をした。気持ちは既に取る気満々だった。 そして夕食を食べ終わると、櫻井課長は和季を寝かせるために寝室に向かった。 その間に食器を洗うと、お茶の準備をする。ここからは大人の時間だ。 数時間後。櫻井課長がリビングに戻ってきた。「ふぅ~やっと寝てくれた」「あ、お疲れ様です。お茶をどうぞ」 ソファーの方のテーブルにお茶を置いた。 櫻井課長はソファーに腰を下ろすと、一息ついた。 和季は櫻井課長に絵本を読んでもらうのが大好きだ。そのために寝
(免許……? どうして、そんなことを聞くの?) 亜季は不思議そうに首を傾げた。「いいえ。免許は主人しか持っていませんが?」「あら、そうなの? これから大きくなると、塾や習い事とか送り迎えで必要になるわよ~」「私も普段は自転車なのだけど。上の子の習い事の送り迎えに必要だったから最近、教習所に通い始めたばかりなの。あ、そうだ。良かったら櫻井さんも一緒に行かない?」 亜季は思わない誘いを受けることに。車の免許か……。今まで課長が運転していたので考えてもみなかったことだ。「あ、でも……和季が居るし」「丁度近くに一時的に預かってくれる託児所があるわよ? 私は、その間だけ預かってもらっているの。えっと~確か教習所と託児所のパンフレットを持っているから、あげるわ。良かったら考えてみたら?」「ありがとうございます」 カバンからパンフレットを取り出して渡してくれた。 亜季はお礼を言うと、そのパンフレットを受け取る。 ペラッと見てみると、詳しく書いてあった。 本当に申し込めば一時的に預かってくれるようだ。 その後も免許の便利さや育児のことで話は尽きない。意見を聞いている内に、免許というものに興味を持ち始める亜季。 確かに和季が大きくなると、車が必要になるかもしれない。 習い事や塾……もしかしたら何かスポーツをやるかもしれないだろう。 そうなれば、送り迎えが必要になってくる。櫻井課長は仕事で忙しいだろうし……。 もちろん自分が免許を取れるかなんて分からない。 自分は器用な方ではない。でも櫻井課長に頼むだけ頼んでみてもいいかもしれないと思った。(もしダメなら諦めたらいいし。よし。帰って来たら、ダメもとで聞いてみよっと) 私は軽い気持ちで決断する。 その夜。夕食の下ごしらえをした後に、櫻井課長が帰ってくるのを待つ。 しばらくするとドアが開く音がした。今日は早く帰れるとメッセージがあった。「ただいま~」 櫻井課長が帰宅したようだ。亜季は慌てて、和季を抱き上げてから玄関まで出迎えに行く。「お帰りなさい。どうだったの? 久しぶりの会社は?」「あぁ、皆元気そうだったぞ。もう結婚のことや、お前のことやらで説明責めにあったが。はぁ~疲れた」 櫻井課長は、ため息を吐きながらネクタイを緩める。 (それは……また) 櫻井課長は、また営業部に戻る
「ハァッ……デキの悪い部下を叱り飛ばすより、精神と体力を使うのは何故だ?」 櫻井課長は、ため息混じりに味噌汁を飲み始めた。叱り飛ばすより疲れるらしい。 確かに、櫻井課長をココまで、ぐったりさせて疲れさせる人物を見たことがない。逆ならあったが。 会社の部下や上司たちが、この姿を見たら、きっと驚くだろう。 亜季でも驚いているぐらいだ。 亜季は苦笑いをした。チラッと和季を見ると、まだ半べそになりながら大人しくなっていた。よほど泣いて暴れたのだろう。「和季~ほら。機嫌直して離乳食を食べようか? お腹空いたでしょ?」 そう言いながらスプーンを口元に持っていく。ぐずりながらも口を開けて食べ始めた。「あ~ん」 亜季は、もう一口食べさせる。どうやらお腹が空いたらしく、あっという間に完食をしてしまった。 それを見ながら櫻井課長が「コイツ。ある意味、大物になるかもな」と呟いていた。「フフッ……そうですね。どうなるのかしら」 どんな風に成長するか楽しみだ。 その後。櫻井課長は朝食を食べ終わると、そのまま会社に出かけてしまった。 亜季は食器を洗った後に洗濯物を干していた チラッと庭から家の中を見ると、お腹が膨れて機嫌が直ったようだ。和季はオモチャを使って1人遊びを始めていた。 これなら、しばらくは大人しく遊んでてくれそうだ。 亜季はクスッと微笑むと洗濯物を干すのを再開させる。赤ちゃんだから汚したり、汗をかくので量も多い。干すだけでも一苦労する。今日はポカポカ陽気で天気がいい。(そうだ。せっかくだから和季を連れて、近くの公園に行ってみよう。ママ友ができるかもしれないわ) 洗濯物が干し終わると、和季をベビーカーに乗せて近くの公園に向かった。 公園は歩いて5分近くの場所にある。幼児用の遊具とかあるし、広い遊び場になっている。 幼稚園も近くにあるし、少し歩けばスーパーもある。帰りに買い物ができるから便利だ。 公園の中に入ると、数人の赤ちゃん連れや小さな子供を連れの母親たちを見かける。 亜季は緊張しながらも思い切って声をかけてみた。「あの……おはようございます。昨日から引っ越してきました、櫻井と言います。よろしくお願いします」「まぁ昨日から? はじめまして。私は木田(きだ)です」「私は、樋口(ひぐち)です。 よろしくお願いします」 次から次へと
慣れないことばかりだった海外とは違い、住み慣れた日本での生活。 亜季は不安より期待の方が大きかった。 すると一通りの指示が終わったのか櫻井課長がリビングに入ってきた。「和季の泣き声が聞こえたが。また悪さしたのか?」「あ、ごめんさない。 テーブルに乗り出すから注意したら、そのまま段ボールに頭ぶつかってしまって」「またか……相変わらず、そそっかしい奴だな」 亜季は苦笑いしながら報告すると、櫻井課長は呆れながら和季を抱き上げた。 ため息を吐くながらも、まだぐずっている和季をあやしてくれた。「後で近所に挨拶回りに行くぞ! これから色々と付き合いになるからな」「はい。そうですね」 仲良くなれるだろうか? 新米の母親だし、仲の良かったママ友とは離れ離れになってしまった。 アメリカでは特に仲良くしてくれた友達が1人居た。日本語も話せる人だったから、代わりに通訳もしてくれた。 その人のお陰で、他のママ友たちとも交流ができるようになれたが日本でも、そんな人ができるだろうか? そして夕方頃には無事に片付けが終了する。軽い夕食を済ませると、美奈子が帰ることに。 亜季と櫻井課長は車まで見送ることにした。「今日は、本当に助かったわ。ありがとう……美奈子」「遅くまで付き合わせて悪かったな。今日は、ありがとう」「いえいえ、どういたしまして。また何かあったら、遠慮なく呼んで下さい。またねぇ~」 美奈子は、そう言うと笑顔で手を振りながら帰って行った。 本当に頼りになるし、信頼ができる親友を持ったと思う亜季。 美奈子には本当に感謝ばかりだと。「帰ったな。亜季は素敵な友人を持ったな?」「ええ、自慢の親友なので」 亜季は笑顔でそう答えた。クスッと微笑む櫻井課長を見て嬉しくなる。 これからもずっと変わらない関係だろう。「さて、挨拶回りをしないとな。この日のために買ったヤツを出してくれ」「はい。分かりました!」 亜季は元気良くそう言うと、自宅に入り挨拶回りに必要な物を取りに行く。 そして一軒一軒、挨拶回りをする。これからの近所付き合いに必要なことだ。 子供が居るので特に気をつけないとならない。よく泣く子なので。 終わった頃には辺りも暗くなってしまった。周りの方々は、どの方も親切そうな人が多くて安心する。「ふぅ……やっと挨拶回りが終わったな」「そ
「あの時は、つい怒ってしまったが、確かに亜季は、そそっかしいところがあるな」「あ、智和さんまで酷い。私はそこまで、そそっかしくないわよ」 櫻井課長まで納得してくるので、亜季はショックを受ける。 確かに少しは、そうかも知れないとは思っていたが。それを改めて指摘されると複雑な気持ちだ。「あの時は、たまたま浮かれていただけよ! それは、それで情けないけど」「それよりさ~亜季は、もう会社に戻る気とかないの? 辞めてしまったけど、頼んだら、また一緒に働けない?」 亜季が言い訳をしていると、美奈子がそう言ってきた。 再就職ができたら素敵なことだが。「ごめんなさい。勝手に辞めた手前もあるし。それに和季が、まだ小さいし……」 さすがに幼い息子を残して仕事に行くわけにはいかない。いくら託児所や保育園があるとしても難しいだろう。 和季は、まだまだ手がかかるし、目が離せない状態。 それに亜季は、そこまで両立ができるほど器用ではない。「それもそうか……残念だわ。また、一緒に働きたかったのに」「ごめんね。私も一緒に働けたら嬉しいのだけど」 美奈子の気持ちに亜季は嬉しくなっていると、櫻井課長が声を上げる。「あ、見えてきたぞ。あそこの2階建ての一軒家が、新しく住む住宅だ!」 櫻井課長が言った方向を見ると、確かに2階建ての一軒家が見えた。「うわぁ~いいじゃない。素敵な家だわ」 美奈子が驚きながらそう言ってくれた。亜季も、その住宅に驚いた。 子供が居るなら広い方がいいと思って購入した。 自分だと、よく分からないため櫻井課長に全て任せてある。 少し古いが、木造で落ち着いた造りになっている。ベランダもあるし、庭も子供と遊べるぐらいの広さがあった。「中古だけど構造もしっかりしてあって、中もなかなか広い。庭もあるから和季を育てるのに、いい環境だと思ってココに決めたんだ。亜季もガーデニングができるだろう? まぁ、俺も気に入ったって言うのもあるが……」 少し照れくさそうに、そう言ってきた。古風な家を選ぶところは櫻井課長らしい。「私も気に入ったわ。日本らしくて素敵」 さすがセンスがあると亜季は感心する。 そして美奈子が車を駐車場に停めると降りた。間近で見ても立派だ。 鍵を開けて中に入って行くと、言っていた通りに広々としていた。「荷物の受け取りは、午後からだ
櫻井課長は困ったように、子供をあやしていた。 フフッ……何だか、不思議な光景だ。いつ見ても。亜季はクスクスと笑った。 あれから亜季と櫻井課長は結婚した。 亜季は慣れない環境に戸惑いながらも英会話スクールに通い、必死に英語を覚えた。 そして、二人の間に新しい家族が誕生する。息子の|和季(かずき)だ。 顔は、どうやら櫻井課長に似たらしく、最近の彼の悩みは、この子の将来のことらしい。 顔で怖がられないか、心配だとか。昔の亜季たちでは考えられない悩みだ。 お見合いで始まった亜季と櫻井課長だったが、今は、とても幸せだ。「お~い。亜季。櫻井課長~」「あ、久しぶり~美奈子」 私は嬉しくて、同期で親友の美奈子に抱き付いた。美奈子とはアメリカに行ってからも、こまめに連絡を取り合っていた。 今でも信頼ができる大切な親友だ!「わざわざ来てくれてありがとう。ごめんねぇ~迎えに来てもらって」「いいわよ~私も久しぶりに会いたかったもん。櫻井課長もお久しぶりです!」 美奈子は櫻井課長を見て、頭を下げた。「こちらこそ。本当に悪かったな、玉田」「いえいえ。せっかくですから……さあさあ、向こうに車を停めてありますので」 美奈子は、ニコッと笑顔なると案内してくれた。 櫻井課長が仕事の都合で、また日本に戻ることに。部長として……。 そのため家族で日本に帰国することにした。 そのまま美奈子の車に乗り込み、新しい自宅まで送ってもらう。「しかし、写メとかで見て知っていたけど、和季君って、本当に櫻井課長に似ていますよねぇ~?」「まあな。ある意味、それが心配の原因だが……」 後部座席で櫻井課長は、和季を抱っこしながら心配そうに言っていた。 亜季はクスクスと思わず笑ってしまう。 和季は、それを気にすることもなく、外の景色に興味津々。窓を見ながら、お気に入りのガラガラをブンブンと振り回していた。 しかし、ブレーキの弾みで和季のおでこが、ガラガラとぶつかってしまう。 ゴンッと、もの凄い音が車内に響き渡った。「あっ……!?」 一同、驚くと和季は大泣きをする。車内だから破壊力が凄い。「お前がガラガラを振り回しているから悪い。よしよし……泣くな」 櫻井課長は和季をあやしてあげる。和季は目尻に涙を溜めていた。 亜季は助手席に座りながら和季の様子を見ている。美奈子は