里香のまつげが微かに震えた。「どういう意味?」雅之は彼女の顔をそっと撫でると、そのまま振り返りもせず立ち去った。「雅之!どういう意味なの?ちゃんと説明してよ!」里香は思わず立ち上がり叫んだ。だが、雅之はすでに階段を上がっていて、まるで話すつもりはなさそうだった。彼の意図がまったく分からず、里香の胸の奥がずしんと沈んだ。雅之は一体何を考えてるの?もう離婚の話はしてないのに、彼はまだ何を望んでいるの?里香は箸をぎゅっと握りしめ、力が入りすぎて指先が微かに震えていた。しばらくして、やっと気持ちを落ち着かせると、また箸を持って食べ始めた。食べることだけはしなきゃ。誰も自分を大事にしてくれないなら、自分で自分を大事にしないと。ご飯を一杯食べ終えた里香は、立ち上がって外に出ようとしたが、執事がそっと声をかけてきた。「奥様、旦那様のご指示で、今日からこちらにお住まいくださいとのことです」里香は一瞬唇を引き締めた。確かに、雅之の妻である以上、彼のそばに住むのは当然だ。「荷物を取りに行きます」と彼女は淡々と答えた。執事は軽く頷き、それ以上何も言わなかった。里香はかおるの家に戻り、荷物をまとめた後、家の掃除を始めた。特にソファーは新調し、古いものは処分した。すべてが終わった頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。再び雅之の邸宅に戻ると、執事が手配した使用人たちが手際よく荷物を運び入れてくれた。荷物は数箱しかなく、すぐに2階の寝室に運ばれた。寝室は冷たい色調で統一され、シーツや掛け布団はダークグレー。どこか圧迫感があった。里香は視線を少し落とし、バスルームに入りシャワーを浴びた。ベッドに横になっても、ここに住むことになった現実がまだ信じられなかった。まさかこんなに簡単にこの家に住むことになるとは思わなかった。雅之が以前言った言葉を思い出すと、胸に不安が広がった。でも、すぐにその言葉の意味を知ることになるなんて、まだ思いもしなかった。翌朝、スマホの着信音で目が覚めた。「もしもし、里香ちゃん、まだ寝てるの?ニュース見てないの?雅之、最低な男だよ!女優とホテルに泊まってたんだって!」かおるの声に、里香は一気に目が覚めた。「え?何のこと?」「今日のホットトピックの一位見てみな!」かおるは怒りを抑えきれ
里香がふっと言った。「かおる、もう彼のこと好きじゃないの」かおるはさらに雅之を批判しようとしたが、その言葉を聞いて動きを止めた。「えっ、里香ちゃん?」里香は少し笑いながら肩をすくめた。「もう好きじゃないから、彼が何してようが、誰と一緒にいようが、私には関係ないのよ」かおるは慎重に声を落として言った。「本当に?本当にもう雅之のこと好きじゃないの?」かおるは、初めて雅之を見たときの里香の目を思い出していた。あの時、彼女の目は愛情で輝いていた。それが、雅之が記憶を取り戻してからは、もう二度とその輝きは戻らなかった。里香は軽く頷いて、「とりあえず、起きて準備するね」と言った。かおるも「うん」と応えたが、どこか乾いた声だった。電話を切った。しばらくベッドに横たわっていた里香は、突然スマホを手に取って祐介に電話をかけた。「もしもし、里香?」すぐに繋がり、祐介の穏やかな笑い声が聞こえた。里香は尋ねた。「祐介兄ちゃん、信頼できる探偵知らない?」祐介は雅之のホテル騒動を知っていたので、里香の問いに少し眉を上げた。「知ってるよ。すぐに連絡させる」里香は「ありがとう」と感謝した。祐介は軽く笑って、「気にすんな。里香が頼ってくれるのが嬉しいよ」と言った。里香は微笑んで、「いつ帰ってくるの?」と聞いた。「まだ分かんないな。今は忙しくてさ。でも、ほとんど大丈夫だから心配しないで」「そっか、それなら良かった」軽く会話を交わし、里香は電話を切った。起き上がり身支度をして、階下に降りた。ちょうど執事がキッチンから出てきて、「奥様、朝食の準備ができました」と告げた。「うん」淡々とうなずき、食堂に向かい、食事を始めた。そのとき、外から何か物音が聞こえてきた。使用人が挨拶している。「旦那様、お帰りなさいませ」「うん」雅之は冷たく返事をし、そのまま食堂に入ってきた。里香がゆっくりとお粥をすすっている姿を見て、彼の目つきが鋭く暗くなった。無造作に椅子を引いて座り、彼女をじっと睨んだ。「何か言うことは?」里香は無視しようとしたが、彼の冷たい視線が背筋を凍らせた。雅之は低く冷たい声で言った。「僕に何か言いたいことがあるんじゃないか?」里香は少し首をかしげ、無表情で「別にないわよ」と応えた。雅
雅之は冷たい声で言った。「彼女が僕を愛さない?じゃあ誰を愛するんだ?」月宮:「......」なんて自信だ。でも、これ以上兄弟の自尊心を傷つけるわけにはいかない。もし自分まで巻き込まれたら困るしな。そこで月宮はこう言った。「お前の言う通りだ。里香が愛したのはお前だけだ。でも、気をつけろよ。愛するかどうかは彼女が決めるんだ。お前じゃない」雅之の顔色はさらに悪くなり、月宮の迷走トークを聞くのをやめて、電話を無言で切った。ふん!里香が自分を愛さないなんてありえない。あの思い出が常に里香が自分を愛していたことを証明しているじゃないか!里香は朝食を終えて家を出た。服を着替えて階段を下りてくると、ダイニングには里香の姿はなかった。雅之は執事を見て、冷たい声で「彼女はどこに行った?」と問いかけた。執事が「奥様は朝食を済ませてすぐに出かけられました」と答えると、雅之の美しい顔はさらに冷たくなった。ちょうどその時、彼のスマホが鳴った。画面を見ると、由紀子からの電話だった。雅之の目が冷たくなるが、それでも電話を取った。「もしもし、由紀子さん?」由紀子の優しい声が聞こえてきた。「雅之、もうすぐおばあ様のお誕生日だけど、お祝いの準備はどうするつもり?」雅之は答えた。「例年通りでいいです。今年もそのままやってください」由紀子は「それでいいわね。ただ、その時は里香を連れて戻ってきてね。おばあ様は彼女が一番好きなんだから」と言った。「分かりました」雅之は淡々と答え、すぐに電話を切った。おばあちゃんの誕生日はあと半月後。雅之はしばらく考え込んでから、スマホを置き、家を出た。里香は聡のオフィスに来て、ドアをノックした。ちょうど誰かと話していた聡は、振り返ると里香を見て、驚きながら笑顔を見せた。「里香!」里香は微笑んで言った。「決めたわ。広くて明るい大きなオフィスが欲しいの」聡は喜び、「ちゃんと取っておいたよ。さあ、案内するから見に行こう!」と言った。里香は頷き、聡に続いてオフィス内に入っていった。その道すがら、聡はここで働くときの給料や待遇について話してくれた。建築デザイナーとして働く彼女にとって、稼げるかどうかは全て自分の実力次第だということも。里香はそれを聞いて理解し、「よろしくお願いします」と即座に答えた
聡:「嫌ですよ......」すぐにスマホを置いて、顎を支えながら里香の仕事ぶりを見始めた。さすが美人、ほんとに綺麗だな!聡は舌打ちしながら首を横に振り、しばらくしてからまたスマホを手に取り、デリバリーを注文し始めた。里香はもともと昼ご飯に何を食べるか考えていたが、休憩時間になると、すぐにデリバリーが届いた。聡はオフィスから出てきて、にこにことしながら言った。「ご馳走するよ。新人は入社してから3日間、社長のおごりっていうのがうちのスタジオの伝統なんだ」里香は少し困惑しながら、「でも、将来もしスタジオが大きくなって上場したら、おごりだけでかなりの額になるんじゃない?」聡は肩をすくめ、「その時考えるさ。今はこういう伝統なんだよ!」「そうだよ、社長は特に親切なんだ」「この伝統はずっと続けてほしいね!」他に3人の同僚もここ数日間でこのスタジオで働き始めた。1人は里香と同じ建築デザイナーで、もう1人は業務連携担当、そしてもう1人は建築デザイン専攻で大学を卒業したばかりのインターン生だ。彼女はまだ何をするかはっきり決めていない。聡は彼女をしばらくスタジオに置いて、3ヶ月のインターン期間が終わったら、彼女自身でどのポジションに就きたいかを決めさせるつもりだった。聡はまるで素人のように、スタジオを遊びでやっているかのように軽々しく話した。里香は特に何も言わず、聡に軽くうなずいて、「ありがとう、社長」聡は腰をくねらせながら、「ゆっくり食べて、食べ終わったら少し休んでね。私は先に帰るから」「はい」みんなが声を揃えて応えた。里香はデリバリーの箱を開け、食べ始めた。その時、もう1人の建築デザイナーである横山羽奈がやってきた。彼女もデリバリーの箱を抱えながら、「ここでの仕事に慣れた?」と聞いてきた。里香は軽くうなずいて、「まあ、いい感じかな」羽奈は言った。「スタジオができたばかりだからか、全然案件が入ってこないんだよね。もう2日間も暇だよ」里香は彼女を一瞥し、「自分で案件を探すこともできるよ。スタジオの立ち上げ時はそんなもんだよ」羽奈はうなずきながら、「うん、探してみるよ。ところで、あなたはどう?何か考えはあるの?」少し間を置いてから羽奈は尋ねた。「どうしてDKを辞めたの?」里香は淡々とした表情
聡は彼女が去るのを見て、ほっと息をついた。ボスの奥さんに残業させるたんて、そんなことしたらボスに殺されちゃうじゃないか!里香が二宮家に戻ると、意外にも雅之がそこにいた。彼は今、ソファに座っていて、その美しい顔には冷淡で無関心な表情が浮かんでいた。里香は少し目を伏せ、無表情のまま直接階段を上がった。背後から、足音が聞こえた。里香が寝室のドアを開けた瞬間、腰を男に抱きしめられ、そのまま引き寄せられた。男の熱い息が唇に落ちてきた。里香は驚いて目を見開き、思わず雅之を押しのけた。「何してるの!」雅之の表情が少し冷たくなった。「妻とイチャイチャしてるのが分からないのか?」里香は冷たく言い放った。「その気分じゃないの」しかし雅之は前に進み、里香を強く掴んだ。「そんなの、僕がその気分なら十分だ」雅之は彼女の首元を押さえ、強引にキスをした。里香は必死に避けようとしたが、彼にキスさせまいとした。雅之は苛立ち、里香の首元を掴む手に力を入れた。里香は身動きが取れなくなり、抵抗できず、彼のキスを受け入れるしかなかった。里香は激しく震えながら、必死に彼を押し返し、叩いた。二人の感情は激しくぶつかり合っていた。雅之の暗い瞳に薄い赤い色が浮かび、里香をソファに押し倒しながら言った。「なぜ逃げるんだ?」里香の唇は赤く腫れ、息が乱れていた。「気分じゃないって言ったのよ。無理強いしないで」雅之は彼女の顔を撫でながら、彼女の体を弄んだ。「本当に気分じゃないのか?それとも汚いと思ってるのか?」里香の瞳が激しく震えた。雅之は彼女の感情を全て見透かし、軽く笑った。「何を否定するんだ?嫉妬してるんじゃないのか?」里香は彼をじっと見つめ、一瞬考えた後、突然問いかけた。「あなたは一体何が欲しいの?」雅之が望むものは、すでに全て与えているはずだった。それでもまだ満足できないのだろうか?なぜこんな形で自分を辱めるのか?雅之の表情はさらに冷たくなり、里香をじっと見つめた。「僕が欲しいのは、以前のお前のような態度だ」「それは無理だ」里香はほとんど迷うことなく答えた。「そうか?」雅之は軽い調子で言い、すぐに里香の顔に軽いキスをした。「じゃあ抵抗しないで、普通の夫婦みたいになろう。誰もお互いに期待しないように」里香の長いまつげが微かに震
雅之は里香の顔、唇を熱くキスし、その息が里香の体にかかり、まるで溶かしてしまいそうなほど熱かった。体は止めどなく震え、突然、里香は彼の肩に強く噛みついた。彼の筋肉がピクリと緊張するのを感じたほどだ。「気持ち良いなら声出していいよ、僕たちは夫婦なんだから、恥ずかしがることはない」雅之は里香の気持ちを見透かしたように、低く抑えた声で耳元に囁いた。里香はその感覚が消えるのを待ってから、ようやく彼を離し、少し乱れた呼吸を整えながら、冷ややかな目で彼を見つめた。雅之はそんな里香を見て、微かに眉を上げた。「どうした?自分だけ気持ち良ければいいっていうのか?」そう言って雅之は里香を抱き上げ、そのままベッドへと向かった。里香に力が残っていないことを彼はよく分かっていた。だからこそ、抵抗もできず、簡単に押さえつけられてしまった。雅之の体が里香を覆い、漆黒の鋭い目がまるで底なしの闇のように、里香を飲み込もうとしていた。里香は必死に抵抗し、彼を押し返そうとしながら言った。「欲しいなら、女優でもネットの有名人でもモデルでも、好きな女を探せばいい!とにかく私に近づかないで!」雅之はその瞬間、動きを止め、じっと里香を見つめた。「嫉妬してるのか?」里香はすぐさま答えた。「してない!」何に嫉妬するっていうの?こんな男に嫉妬なんて、マゾか何かだろう?雅之はなおもじっと里香を見つめ、里香が動けないようにそのまま押さえ込んで言った。「いや、お前は嫉妬してる。否定しても無駄だ」里香は少し落ち着きを取り戻し、「私はもうあなたが好きじゃない。なんで嫉妬する必要があるの?」少し間を置き、里香は何かを思い出したかのように、不意に微笑んだ。「まさか、私の体の反応を見て、まだ私があなたを好きだと思ったんじゃないでしょうね?あなたのテクニックが上手いだけよ。どんな女でもあなたの手にかかれば溺れてしまうわ。でも、それは"好き"とは違うわ」それはただの体の本能にすぎない。雅之の顔色が一気に暗くなり、里香が息をつく間もなく、彼は一気に攻め込んできた。里香の体が硬直した。すでに極限まで緩んでいた里香の体は、今や彼の前では無防備で、彼に抵抗する力など全くなかった。「ちょ、あなた......」里香の目は大きく見開かれ、文句を言おうとしたが、雅之はすか
里香はほっと息をついた。在宅勤務でよかった。じゃないと、出社2日目にして遅刻だなんて、さすがにちょっとやりすぎだ。いや、やりすぎなのは自分じゃない、雅之のあのクズ男だ!昨晩のあの感じ、まるで一生に一度も女性に触れたことがないみたいに。でも、そんなことありえる?前の晩、女優と一緒に過ごしてたじゃないか......里香がそれを思い出した瞬間、急に吐き気がこみ上げてきた。彼ベッドから飛び起き、ふらふらとバスルームに駆け込み、嘔吐し始めた。そのとき、雅之が部屋に入ってきて、ふらふらしている里香の姿を目にした。その嘔吐音を聞いて、彼の表情が一気に曇り、すぐに彼女に近づいて、背中をさすりながら低い声で尋ねた。「どうした?」「触らないで!」里香は突然彼を押しのけた。吐き気のせいで、目には涙がにじんでいた。涙が目の中にたまり、今にもこぼれ落ちそうだ。その表情はとても嫌悪感に満ちていた。まるで雅之が何か汚いもののように。雅之の顔色はさらに暗くなり、「僕が汚いって思ってるのか?」里香は何も言わず、また吐き気が襲ってきた。何も出なくなるまで嘔吐して、ようやく少し楽になった。うがいをした後、彼女は大きくため息をついた。「離婚しましょう」自分を説得するのができなかった。他の女性と男を共有するなんて、無理だった!汚れている男なんて、もう要らない!雅之は里香をじっと見つめた。彼女の顔は青ざめ、痩せた体がかすかに震えていて、明らかに極限まで苦しんでいる様子だった。「僕が他の女と泊まったからか?」「そうよ!」里香は彼を見つめ、頷きながら言った。「このままだと、私たちはどちらも幸せになれないわ。離婚しましょう」雅之は彼女を見つめ、突然こう言った。「嫉妬してないって言ってたよな」里香は唇を引き締めた。雅之は言った。「僕は他の女と泊まったわけじゃない」彼の声は低く、磁性のあるトーンで、ゆっくりと説明した。「あの晩はたまたま同じホテルに泊まっただけだ。僕はプレジデンシャルスイートにいたんだぞ。僕の許可なしには誰も入れない、妻のお前以外はな」雅之は里香に歩み寄り、彼女の体を抱きしめた。「僕は他の女には触れてない」里香の体が一瞬で緊張し、その後すぐに背を向けた。「だから何?私はもうあなたが好きじゃない。私たちの結婚を続ける
里香は急いでご飯を二口だけ食べると、立ち上がり、かおるの家へ向かった。階段を上がると、すでにかおるの部屋のドアが開いていて、警察官が二人、入り口に立っていた。かおるは警察と何やら話していた。「かおる!」里香は近づいて声をかけた。かおるは彼女を見て、すぐに言った。「里香ちゃん、ここに住んでた時、誰かが入ってきたことってあった?ケガとかしてない?」二人の警察官も里香に視線を向けた。「私が住んでた時は、誰も入ってきたことなんてなかったわ」と里香は答えた。かおるは眉をひそめながら、「じゃあ、あんたが引っ越してから入ってきたってことね」と言った。里香は頷いて、「多分、昨夜のことだと思う。一昨日は戻って片付けてたし」と答えた。警察は家の周りの監視カメラの映像を確認したが、怪しい人物は一切映っていなかった。結局、この件はうやむやのまま終わりそうだった。かおるは里香を部屋に引き入れ、「運が悪いわね、引っ越さなきゃダメかも」と言った。里香は「前に借りてた部屋があるんだけど、今はもう住んでないから、かおるが使っていいわよ」と提案した。「どうしてそんな部屋借りたの?」と、かおるは疑問を口にした。そこで里香は一連の経緯を話し始めた。それを聞いたかおるは、顎に手を当てながら、美しい顔に思案の色を浮かべた。「あなたが言ってた通り、誰かがわざと山本のおじさんに息子が虐待されてる写真を送ったけど、その人は息子を刑務所に入れてないんでしょ?」「そうなの、それがずっと不思議で。どうしてそうしたのか、全然わからないのよ」と里香は頷いた。「ほんと、変な話だよね。おじさんの息子をどうするつもりもないのに、わざわざそんな写真を送るなんて」と、かおるも首を傾げた。「まあ、深く考えなくてもいいわよ。この話はもう過去のことだし、おじさんも諦めたしね。私は部外者だし、もう口を出すのはやめるわ」と里香は肩をすくめて答えた。「ふぅ......」かおるはため息をついた。そしてすぐに、「それで、里香ちゃんはどうなの?」と聞いたが、里香は答えず、逆に「そっちは?ケガの方はもう大丈夫?」と尋ねた。「もう平気よ、ほら、これ見て」と、かおるは笑顔で小さなお守りを取り出して見せた。「これ、里香ちゃんのために持ってきたの。カバンに入れておけば、これから嫌なこ
英里子は取り繕うように微笑んで言った。「雅之くんが来たわね」雅之は返事をしながら、蘭の顔を見つめた。その顔色の悪さに気づき、少し疑うような口調で尋ねた。「蘭、どうしたんだ?」その瞬間、蘭の目元がうっすら赤くなり、唇をぎゅっと結んでから言った。「大丈夫です」雅之はさらに言葉を続けた。「誰かに嫌なことされたのか?俺かお祖父さんに言ってくれれば、きっと力になってくれる」蘭は小さく「うん」とだけ答え、静かに部屋へ戻っていった。雅之も英里子に一言挨拶して、その場を後にした。車に乗り込むと、シートに身を預けたまま、その表情は氷のように冷え切っていた。桜井が口を開いた。「北村のおじいさんが祐介の目的に気づいたら、もう味方にはならないでしょうね。あんな態度をとった以上、北村家は本気で離婚させるつもりかもしれません」もし離婚となれば、祐介がこれまで積み上げてきた努力は全て水の泡になる。雅之は目を開けた。漆黒の瞳には血のような赤みが差し、低く沈んだ声で言い放った。「自業自得だ」里香が再び目を覚ましたのは、翌日の午後だった。鼻先には強い消毒液の匂いが漂い、視界には再び光が差していた。思わず笑みがこぼれる。見えるようになったのだ。「起きた?ちょうどいいタイミングで来たよ。消化にいいお粥を買ってきたんだ。少しでも食べておきな」みなみの声がそばから聞こえてきた。顔を向けると、みなみは立ち上がってこちらへ歩いてきて、にこやかな笑顔を浮かべていた。里香は身を起こし、感謝の気持ちを込めて彼を見つめた。「ありがとう」どうやら、手術は成功したようだ。みなみは軽く肩をすくめながら言った。「礼なんていらないよ。お互い様だろ?君がいなかったら、俺も道端で倒れたままだったかもしれないし」里香はそれ以上は何も言わなかった。たとえ自分がいなくても、きっと誰かが彼を助けただろう。命を落とすようなことにはならなかったはずだ。みなみは小さなテーブル板をベッドにセットし、里香はお粥を食べた。胃の中がじんわり温まり、体が生き返るような心地だった。みなみが聞いた。「これからどうするつもり?」里香は少し考えてから答えた。「家に帰るわ。それに、私を監禁してたのが誰なのか、はっきりさせたい」みなみは力強くう
薬を打たれると、里香は短い時間昏睡状態に陥り、再び目を覚ましたときには視力が戻っているはずだという。里香は小さくうなずいて、それを受け入れた。今の自分には、他に選択肢なんてなかった。このまま何も見えずにいるわけにはいかない。あまりにも不便すぎる。だから賭けるしかなかった。もしうまくいかなかったとしても、受け入れるしかない。でも、もしうまくいけば?みなみは黙ってそばで見守っていた。医者が注射を終えると、二人で診察室を後にした。廊下の突き当たりでは、窓の隙間から冷たい風が静かに吹き込んでいる。医者は恭しく頭を下げながら言った。「ご指示の件、すでに完了しております。彼女の目はすぐに回復するでしょう」「うん」みなみは短く返事をし、すぐに言葉を継いだ。「できるだけ長く眠らせておいてくれ」「承知しました」そのころ、警察もすぐに捜査を開始していた。桜井は車内で疲れきった様子の雅之を見て、低く静かな声で言った。「社長、もう何日もろくに眠っておられないでしょう。一度お休みになったほうが……奥様はきっと無事ですよ」だが、雅之は掠れた声で答えた。「彼女の居場所が分からない限り、眠れるわけがない」桜井は心の中で重いため息をついた。これは一体どういうことだ?祐介のやつ、胆が据わりすぎている。まさか本当に里香に手を出すなんて!雅之を敵に回したら、ただじゃ済まされないだろうに!雅之は眉間を指で押さえながら言った。「贈り物を用意してくれ。喜多野のおじいさんに会いに行く」「かしこまりました」一方そのころ、蘭は病院のベッドで目を覚ました。顔色はひどく青白く、無意識に手が自分の下腹部へと伸びた。「赤ちゃん……私の赤ちゃん……」そのそばでは、母の英里子が涙にくれていた。「蘭、赤ちゃんはまた授かれるわ」その言葉を聞いた瞬間、蘭の目からぽろぽろと涙がこぼれた。「どういう意味?私の赤ちゃんは?どこにいるの!?ねぇ、私の赤ちゃんは!?」英里子は娘の手を優しく握りしめた。「そんなこと言わないで、蘭。今は身体がとても弱ってるの。そんなに感情を乱したらだめよ」蘭は嗚咽しながら、深い悲しみに沈んでいった。「私の赤ちゃん……もういないんだね……」しばらく泣き続けたあと、ふいに英里子の手をぎゅっと強く握った
里香は少し首をかしげ、声を頼りにたずねた。「……みっくん?」驚いたようなみなみの声が返ってきた。「君の目、どうしたの?」「私を監禁してた人に、目に薬を打たれたの……今は、何も見えないの」その言葉を聞いたみなみは、そっと手を伸ばし、彼女の手首を握った。「じゃあ、俺が連れて行くよ。まずは病院で診てもらおう」少し迷いはあったけど、今は他に選択肢がなかった。ここに留まっているわけにはいかない。もし監禁してた相手が戻ってきたら……里香はみなみに従い、その場を離れる決心をした。けれど、どうして彼が自分を見つけられたのか、その疑問だけは拭えなかった。「ねぇ、みっくん。どうやって私のこと見つけたの?」みなみは、彼女を気遣いながら外へと連れ出しつつ、答えた。「近くの工事現場で働いてたんだ。そしたら、君がベランダに立ってるのを見かけて、すぐ駆けつけようとしたんだけど、警備員に追い出されてさ。それでしばらく様子をうかがってたら、君が閉じ込められてるっぽいのに気づいて……なんとかして奴らを引き離したんだよ」その説明に、どこか引っかかるものを感じた。でも今は何も見えない。信じるしかない。「ありがとう……」そう言うと、みなみはふっと笑ってこう言った。「前に君が俺を助けてくれたでしょ?少しでも恩返しできて、ほんとに嬉しいよ」「段差、気をつけてね」彼は耳元でそっと注意を促し、里香は慎重に階段を下りていった。車に乗り、エンジンがかかって走り出すと、ようやく心が少しだけ落ち着いた。やっとこの地獄みたいな場所から抜け出せた!自分を監禁していたのが誰なのか――いずれ分かったときには、絶対に許さない!みなみの車が走り去った直後、数台の車が敷地に入ってきた。景司の秘書が車を降り、その後に続いて降りてきた人物に気づいた。「雅之様」秘書は丁寧に頭を下げた。だが雅之はそれを無視し、そのまま早足で別荘の中へと入っていった。敷地の中を隈なく探しても、里香の姿はどこにもなかった。そこへ桜井が近づき、報告した。「別荘内には監視カメラが設置されていません。道路のカメラも破壊されています」誰かが明らかに仕組んだものだった。雅之の顔が険しくなる。そのまま景司の秘書の前へ歩み寄り、冷たい声で問いただした。「お
耳をつんざくようなブレーキ音が鳴り響いた。「バンッ!」祐介がハンドルを拳で叩いた。その先、ヘッドライトに照らされた別荘には、煌々と灯りがともっている。里香は、あそこにいる。けれど、あと一歩、届かなかった。もし今回の契約を諦めたら、喜多野家でこれまで積み重ねてきた努力が全部水の泡になる。祐介は両手でハンドルをギュッと握り締め、手の甲には浮き出た血管が交差している。顔はうっすらとした暗がりに隠れ、緊張からか顎のラインがきりっと引き締まっていた。別荘に鋭い視線を投げると、祐介は再びエンジンをかけ、ハンドルを切って空港に向けて猛スピードで走り出した。「早くドア開けてよ!本当に来ちゃったんだから!」陽子の焦った声が洗面所のドア越しに響く。二人のボディーガードも、全力でドアを押し始めた。だが、内側にはキャビネットが立てかけられ、里香も必死になって押し返していた。絶対に開けさせない。その一心で。でも、女ひとりの力で大の男二人に対抗するのは無理がある。顔は真っ青で、額にはじんわりと汗が滲んでいる。「だ、だめだ……あいつら、もう着いたみたい……もう私、関係ないから!逃げる!」すでに息も絶え絶えの中、陽子の慌てた声が響いた。彼女はボディーガードと里香を置き去りにして、別のドアから逃げていった。「ちっ、逃げんのかよ?あんた、旦那様に怒られても知らねぇぞ?」一人のボディーガードが舌打ちして低く呟いた。もう一人の声が響いた。「俺たちも逃げようぜ。どうせこの仕事、辞めちまってもいいし。もし来たのが雅之だったら……捕まったら、生きて帰れねぇぞ」「だな、逃げろ!」そう言って、ふたりともすぐにその場から立ち去った。彼らはただの雇われガードマンに過ぎず、祐介に特別な忠誠心があるわけでもない。外のやり取りを耳にして、張り詰めていた里香の身体から一気に力が抜けた。その場にへたり込み、大きく肩で息をしながら呟いた。助かった……数人相手に抵抗したせいで、全身がクタクタでもう動けない。しばらくすると、洗面所の外から誰かの声が聞こえてきた。「ここにはいないな、こっちにもいない!」「この部屋も空っぽだ。どこに行った?」聞き覚えのない声ばかり。里香はその声を聞いて、思わず眉をひそめた。雅之の人じゃない?
その言葉を聞いた瞬間、里香の顔色がサッと変わった。無理やり連れていくつもり?ダメ、絶対に行けない!誰かがもう助けに来てるはず。時間を稼がなきゃ!後ずさりしながら、里香は頭の中で寝室の家具の配置を必死に思い出していた。左手がテーブルに触れた瞬間、目がパッと光った。足音が近づいてくる気配を感じたその刹那、机の上にあった帆船のオブジェをつかみ、ためらいもなく相手に向かって投げつけた。帆船のオブジェは大きくてずっしり重く、持ち上げるのもやっとだったが、それでも何とか投げられた。二人のボディーガードは咄嗟に身を引き、帆船は床に落ちて鈍い音を立てた。もし直撃してたら、頭が割れて血まみれになってたかもしれない。盲目なのに、こんな反撃ができるなんて!陽子は焦りながら叫んだ。「早くしなさいよ、もうすぐ来ちゃうわよ!」その隙に、里香はさらに後ろへ下がりながら、手探りでトイレの方向を探る。たしか右側のはず……!進む途中、手に触れたものを片っ端から後ろに投げ飛ばし、ようやくドアノブに触れた瞬間、すぐさま中に飛び込み、内側から鍵をかけた。それを見た保鏢たちは舌打ちし、「合鍵を持ってこい!」と陽子に怒鳴った。「わ、わかった、ちょっと待って!」陽子は里香の思いがけない動きに驚きつつ、ボディーガードたちの怒声に我に返り、慌てて合鍵を取りに走った。外でのやり取りを耳にして、里香は向こうが合鍵を持っていることに気づいた。ドアを開けられるのは時間の問題。このままじっとしてはいられない。手探りで再び動き出し、キャビネットにぶつかると、それを全力で押してトイレのドアの前に移動させた。トイレは広いが、動かせそうなものはほとんどなく、頼れるのはこのキャビネットだけ。幸い、トイレのドアは内開き。そう簡単には開かないはず。今の彼女にできるのは、雅之の人間が一秒でも早く到着してくれるよう祈ることだけだった。一方その頃、桜井は一本の電話を受け、険しい表情で雅之に報告した。「社長、奥様が祐介に連れ去られました。現在、郊外の別荘に監禁されているようです」その言葉に、雅之は勢いよく立ち上がった。「人を連れて行くぞ!」「はい!」三手に分かれて、すぐに出発!車の中でも、雅之の表情は険しいままだった。まさか、本当に祐介だ
祐介は確認のためにスマホを取り出して画面を見たが、すぐに眉をひそめた。とはいえ、しぶしぶ通話に出た。「もしもし?」電話の向こうから蘭の声がした。「今どこにいるの?どうしてまだ帰ってこないの?」祐介は冷たく答える。「今夜は戻らない」「ダメよ!」蘭の声は一気に数段高くなった。「どうしても帰ってきてもらうから!祐介、最初に私に何て言ったか覚えてる?私たち、結婚してどれくらい経ったと思ってるの?全部忘れたの?」祐介の表情はすでに冷え切っていて、口調にも一切の温度がなかった。「今、忙しいんだ。無理を言うな」「私が無理を言ってるって言うの!?」蘭の声はさらにヒートアップした。「ただ帰ってきてって言ってるだけじゃない!それのどこが無理なの?祐介、まさか私に隠れて、何かやましいことしてるんじゃないでしょうね?だから家に帰れないの?今すぐ帰ってきて!今すぐ!」すでに蘭の声にはヒステリックな響きが混じっていた。以前の祐介は、少なくとも多少は彼女に対しての忍耐もあって、優しさを見せることもあった。けれど、両家の結婚が決まってからは、彼の態度は日を追うごとに冷たくなっていった。結婚後は、家に顔を出すことすら減り、次第に蘭も気づきはじめる。祐介が結婚したのは、愛していたからじゃない。彼の目的は、蘭の家が持つ権力だったのだと。その事実に気づいた瞬間、蘭の心は音を立てて崩れそうになった。自分はただの駒だったなんて。都合よく使われるだけの存在だったなんて……そんなの、受け入れられるわけがない。私は、モノじゃない。もし祐介にとって私は必要ない存在なら、いっそ離婚してしまったほうがマシ。こんな人、もういらない。しかし祐介は、蘭のヒステリックな声にも耳を貸さず、淡々と通話を切った。蘭は怒りに任せて、別荘の中のものを手当たり次第に壊し始めた。その拍子に胎動が激しくなり、そのまま救急で病院に運ばれることに。使用人からその報せを受けた祐介。車の中、蘭はお腹を押さえながら苦しげな表情を浮かべていたが、その目の奥には、どこか期待の光も宿っていた。私は祐介の子を身ごもってる。きっと、彼もこの子のことは大切に思ってるはず。祐介が病院に来てくれさえすれば、それだけでいい。冷たい態度だって、我慢できるから。でも
「はい」秘書はそう返事をし、そのまま背を向けて部屋を出ていった。ゆかりの部屋は景司の向かい側にある。秘書の足音が遠ざかるのを確認してから、ようやくドアを静かに閉め、スマホを取り出してとある番号に発信した。「里香がどこにいるか、わかったわ」その目には鋭い光が宿っていた。「でも、その代わりに、ちょっと協力してほしいの」相手はくすっと笑って、「どう協力すればいいの?」と問い返してきた。「今の私じゃ、雅之に近づくことすらできない。だから、手伝って。できれば既成事実を作ってほしいの。彼と関係を持てば、もう逃げられないわ!」相手はまた鼻で笑い、「いいよ、問題ない」とあっさり承諾した。ゆかりの目には、何がなんでも手に入れてやるという強い決意が宿っていた。そして、里香の現在の居場所を口にした。「兄さんはもう向かわせてるわ。急いだほうがいいわよ」そう言い残し、通話を切った。夜の帳が静かに降りる。真冬の冷気が骨の芯まで染み渡る中でも、街の喧騒は止むことがない。郊外の別荘。その一角だけが異様なほどの静けさに包まれていた。陽子は作り直した夕食を持って里香の部屋へと入ったが、里香はその料理に手をつけようとしなかった。もしも、この中に中絶薬なんかが混ざっていたら……?そんな考えが頭をよぎると、怖くてどうしても箸を持つ気になれない。顔には明らかな拒否の色が浮かんでいた。陽子はそんな彼女の様子を見て、できる限り誠意を込めた声で言った。「本当に、何も入っていません。どうか、信じてください」しかし、里香は首を横に振る。「信じられません」「でも、何も食べなかったら、お腹の赤ちゃんが持ちませんよ。産みたいって思ってるんでしょう?だったら、ちゃんと食べなきゃ」その言葉に、一瞬だけ迷いが生まれた。けれど、不安はどうしても拭えない。沈黙を破るように、陽子はさらに言葉を重ねた。「旦那様は、お腹の赤ちゃんには絶対に手を出さないって、ちゃんと約束されました。その方はそういう約束を破るような方じゃありません。安心して、大丈夫ですよ」それでも里香は箸を取ろうとはせず、瞬きをしながらぽつりと訊ねた。「じゃあ、教えてください。彼は、いったい誰なんですか?」相手の素性も名前も分からないままで、どうやって信じろとい
「ダメ!」ちょうどその時、ゆかりが慌ただしく部屋に飛び込んできた。景司は顔をしかめ、鋭い視線を向けた。「ゆかり、俺たちの話を盗み聞きしてたのか?」ゆかりは一瞬目を泳がせたが、すぐに開き直ったように言った。「夕食に誘おうと思って来ただけよ。別に盗み聞きするつもりはなかったわ。でも、お兄ちゃん、このことは絶対に雅之に教えちゃダメ!彼が知ったら、絶対に里香を助けに行くわ。そうなったら、二人の縁はますます切れなくなる……それじゃ、私はどうしたらいいのよ!」甘えた笑顔を浮かべるゆかりを、景司はじっと見つめた。以前は、この妹を本当に大切に思っていた。ゆかりの無茶な頼みを聞いて、何度も雅之に掛け合い、里香に離婚を促したことさえある。だが今、この執着じみた言動に、心の奥底で言いようのない嫌悪感がこみ上げてくる。「つまり、雅之が里香を見つけられないようにしろってことか?」ゆかりの心の中で、もちろんよ!と叫びたくなる衝動が湧き上がった。もし里香がこの世から完全に消えてくれれば、それが一番いい。だが、そんな本音を口に出せるはずもなく、表情を作り直すと、甘えた声で言った。「お兄ちゃん、私は本当に雅之のことが好きなの。今、彼は離婚して、私たち二人とも独り身になったわ。だから、私は全力で彼を追いかけて、彼に私を好きになってもらうの。もし彼と結ばれたら、二宮家と瀬名家が結びついて、両家はもっと強くなる。それってメリットしかないでしょう?でも、もし雅之が里香の居場所を知ったら、彼女を助けに行くわ。そうなったら、里香はまた弱いふりをしたり、甘えたりして、雅之の心を揺さぶるに決まってる。そんなの、絶対に嫌。私の未来の夫が、元妻といつまでもそんな関係を続けるなんて耐えられないわ。お兄ちゃん、だからもうこの件には関わらないでくれる?」そう言いながら、景司の腕にしがみつき、甘えるように左右に揺さぶった。この方法は、いつも効果的だった。こうやってお願いすれば、お兄ちゃんたちは結局、私の無理な頼みでも聞いてくれるのだから。「ダメだ」だが、今回は違った。景司は腕を引き抜き、その甘えた仕草をきっぱりと拒絶した。ゆかりの顔が驚きに染まった。「どうして?」景司は険しい表情で言った。「今回の件は、いつものワガママとは違う。人の命が
陽子はすぐに戻ってきて、いくつかの妊娠検査薬を手にしていた。 「旦那様、いろんなブランドのものを買ってきました。全部試してみてください」 「うん」 その時、外から電子音が鳴り響き、それとほぼ同時にノックの音がした。 里香の体が、一瞬にして緊張でこわばる。それでも、今は検査をしなければならない。自分が本当に妊娠しているのか、確かめる必要がある。 ドアを開けると、陽子がそっと支えながら洗面所へと連れて行ってくれた。 「出て行って」 人が近くにいるのが、どうしても落ち着かなかった。 陽子は無言で頷くと、そのまま部屋を後にした。 洗面所に残った里香は、手探りでまわりを確認し、陽子が本当にいないことを確かめると、言われたとおり検査を始めた。しかし、慣れないせいか上手くできず、結局もう一度陽子を呼び入れることにした。 陽子がいくつかの妊娠検査薬を試し、結果を待つ間、洗面所には静寂が満ちる。 5分後。 陽子が検査薬を見つめ、息をのむように言った。 「小松さん、本当に妊娠されていますよ」 その瞬間、里香の唇にかすかな微笑みが浮かび、無意識にお腹へと手を当てた。 このお腹の中に、新しい命がいる。 自分と血を分けた、最も近しい存在が、ここにいる。 胸が熱くなり、喜びが込み上げる一方で、警戒心もより一層強まっていく。 陽子は検査薬を手に洗面所を出ると、外にいる誰かと何か話している様子だった。 その直後、再び電子音が静寂を破った。 「里香、この子を堕ろすことをおすすめする。君にとっても、俺にとっても、それが一番いい」 一瞬にして、里香の表情が凍りついた。 そして、低く、しかしはっきりとした声で言い放った。 「私の子に何かしようとしたら、たとえ一生この目の前から消え去ることになっても、絶対に許さない。殺してやる!」 ぴんと張り詰めた空気の中で、誰かの視線が自分に向けられているのを感じる。 どれほどの時間が流れただろうか、再び、男の声が響いた。 「……分かった。君の子には手を出さない」 その言葉に、里香はわずかに胸を撫で下ろした。 でも、それでもまだ安心できない。 自分の目が見えないことを利用され、もし知らないうちに流産さ