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第3話

著者: 氷菓子
last update 最終更新日: 2024-10-28 13:43:03
私は廊下の雑貨の山で一夜を明かした。翌朝、誰かに蹴飛ばされて目が覚めた。

「起きろ、俺は雑貨を売りに行くんだ」

私は涙でかすんだ目をこすりながら階段の入り口へと向かった。

二階から人影が現れ、健の姿が目に飛び込んできた。

「息子、いや、上野さん。大丈夫か?お前の父親、何かしてこなかったか?」

健は目の下に濃いクマを浮かべ、疲れた様子でまぶたを持ち上げ、私を見つめた。

「お前か、木村さん。俺の親父がさ、また一晩中化学の問題集をやらせやがった。天才少年だなんてただの幻想だよ。努力家に過ぎない」

健は、昨日の私の異常さなどすっかり忘れてしまったかのように、あの父親を愚痴り始めた。私は言った。

「彼のもとから離れろ。逃げるんだ。あいつらは悪い」

健と並んで日差しの中を歩くと、二階はまだ陽の光が当たっておらず、暗い影が広がっていた。男がカーテンを引き開け、冷たい目でこちらをじっと見つめていた。私はそれに負けじと睨み返したが、 健に腕を引かれてその場を離れた。

「気にするな。あいつは頭がおかしい」

私は 健の後ろで呟いた。 「そうだ、頭がおかしいだ。離れろ、俺だけが 上野さんにとって本当に大事な存在なんだ」

私はこの木村多也という人間を知らないが、彼は息子と仲が良いようだ。 健は自転車で私を乗せながら、県内の化学コンテストのことを延々と話していた。

「父は俺に市の化学コンテストに出ろって言うんだ。俺が一位を取れば、新聞の一面に載せてやるってさ」

私は息子の制服の裾を触り、その痩せこけた背中に手を当て、肩にかかる重たいリュックを支えた。

「化学の成績が特に良いわけじゃないのに、なんでお父さんがそのコンテストに出させるんだ?」

息子の成績はずっと平均的で、絶対天才少年なんて言えない。

「父が、俺に期待してるんだろうな」

胸が締めつけられる思いがした。新聞の一面なんて、そんな簡単に載れるものじゃない。あの時、息子が自分を犠牲にして助けた恩知らずが巻き起こしたような社会的騒動でなければ、まず無理だ。

「着いたよ、木村くん。ちょっと自転車を停めてくるから、ここで待ってて」

息子の背中はまるで一片の葉のようで、ちょっとした風でも吹き飛ばされそうだった。

私は心臓がぎゅっと縮むのを感じ、急いで息子の後を追った。

その時、 健の近くに二人が寄ってきた。

「天才、放課後に数学を教えてくれよ。俺、試験に落ちたら父に殺されちまうよ」

「そうだよ、お金も払うからさ」

短いスカートの下から白い太ももがちらっと見えた。

こいつらか――あの時、息子の命を奪った連中だ。

私は歯を食いしばり、怒りで胸が熱くなった。「消えろ、このクソ女が」

「木村多也?そんな言い方していいと思ってんの?」

奈緒は気まずそうな顔をしていたが、私は冷たく言い放った。

「俺に近寄るな。さもないと、本当に殺すぞ」

「行こう、行こう、学年トップが怒ってる」背の低い女の子が奈緒の袖を引っ張りながら、目をそらした。

私は眉を上げ、頭から足元までその子を見下ろしながら言った。 「おい、お前もか?どうやってその金を払うんだ?宣伝してやろうか?客でも集めてやるよ?」

その子は私に平手打ちを食らわせようと手を挙げた。 「多也、お前、調子に乗るなよ」

目の前のこの二人が息子の死後に配信で金を稼いでいたことを思い出すと、体中が虫に這われたような不快感に襲われ、耐えられないほど気持ち悪くなった。

私はその子の手を二本の指でつまみ、笑った。

「ビッチが、偽善者ぶるな」

そう言って、私は彼女たちの背後を見た。 健が自転車置き場で冷たい目をしてこちらを見ていた。

二人の女の子は彼に背を向けていたので、彼女たちの顔は見えなかったが、 健には私の笑顔だけが見えていた。

私は背の低い女の子の手を離し、二人を押しのけて 健の方に歩いていった。 健は車置き場の下に立ち、気持ちが良くなかった。

「木村多也、あいつらに近づくな。あいつらはろくでもない連中だ」

「わかってるさ」

俺の息子を死に追いやった奴らだ。あの時の彼女たちの悪党じみた顔を、俺が忘れるはずがない。

私は息子の肩に大きな手を回し、一緒に教室へと向かった。昔、新聞社に飛び込み、あれこれと大小様々なニュースを追いかけるあまり、息子とこうして親しく過ごす時間を全く取れなかったことを思い出し、後悔の念が胸に迫ってきた。

目頭が熱くなり、涙が滲んだ。それは、奈緒が持っていたスマホのカメラにしっかりと収められていた。

私は突然、警察署で奈緒が言っていたことを思い出した。

彼女は息子の恋愛を写真に収めていたのだ。

健はそのことに全く気づかず、地面を見ながら化学の公式をつぶやいていた。

息子は単純で、そんな複雑なことを考えられるような子ではなかった。

私は足を止め、奈緒のカメラに向かって中指を立てた。奈緒は慌ててスマホを引っ込めた。

私は前を歩く健を呼び止めた。

「もし誰かがメッセージを送ってきて、お前を川辺に呼び出したら、必ず俺に教えろ、絶対にだ!」

健はきょとんとしながらも、うなずいた。

私は息子に追いつき、彼が水に浸かって青白くなった顔を思い出し、急いで言った。

「俺たち、泳ぎを習いに行こう」

健はその言葉に足を止め、にっこり笑って私を見つめた。

「木村くん、俺たち、こんなに長い付き合いだろ?俺、ずっと泳げるの知ってるだろ?」

息子の成績は驚くほど良く、校内の栄誉掲示板には彼の名前が飾られていた。

しかし、私は驚いた。

息子は決して頭が良いわけではなかった。あの父親が、昼夜問わず勉強させて、こんなにいい成績を取った。

私は自ら志願して息子の隣の席に座り、彼に水を汲み、お菓子も買って、休み時間には肩を揉んでやったりした。

試験の結果が発表され、健の名前は堂々の一位に輝き、二位とは20点も差があった。

赤く充血した息子の目を見て、私は胸が張り裂けそうだった。

「お父さんが見たらきっと喜ぶ。そうだ。木村くんの成績はどこにもないな」

健は細く痩せた指を成績表の名前から滑らせ、最後に表の2ページ目を指差した。

「そうだったな。試験を受けてなかったんだ」

健ががっかりして、苦笑いを浮かべて成績表を講義台に戻した。

「もし試験に出ていたら、一位は俺じゃなかったかもな」

私は 健の手を掴み、彼の中指にできたペンだこを一つずつ優しくさすりながら、思わず口走った。「息子はいつだって私の心の中の一位だよ」

健は意外にも怒らず、それを冗談のように聞き流し、口元を歪めた。

「本当に俺を息子だと思うなら、化学を教えてくれ。俺、コンテストで良い成績を取りたいんだ」

その成績は多也のものだし、私は卒業してからもう30年以上経っているから、化学なんてすっかり忘れてしまった。

私はペンを回しながら困っていると、健はまた机に向かい、分厚い教科書をめくり始めた。その本の端はすっかり反り返り、彼の唇はわずかに白みがかっていた。

私は手に持っていたペンを置き、水筒を持って水汲み場に向かった。

休み時間の水汲み場は人でいっぱいで、水を汲んでいる学生たちは噂話に興じていた。

「最新のニュース見た?あの女すごいよな、50代で整形手術を受け、同時に5人と付き合って、しかも3回も金を騙し取ったんだってさ」

「マジで?そんなヤバい話ある?」

私は興味もなくその雑談を聞き流していたが、ふと知っている名前が耳に入ってきた瞬間、持っていた熱いお湯が手にこぼれた。

「直規だろ?そのニュースを報道した記者。彼も被害者の一人だったらしいよ」

「でもさ、あのニュース、嘘じゃないの?」

「バカ言えよ…」

私はカップの蓋をしっかりと締め、真っ赤になった手を水道で洗い流しながら、混乱した頭の中を整理しようとしていた。

10年前、健の母親は金を騙し取り、金額の大きさゆえに夫の家族に殺された。このニュースは当時、私が最初に報道した。

この報道によって、私はインターン記者から正式にオフィスに座れるようになったが、当時、私もまたそのニュースの被害者の一人だったことを誰も知らなかった。

一つのニュースは偶然だが、二つの類似したニュースは再現だ。

「嘘だ、全部 直規が作り上げた虚構だ。彼は嘘ついている!」

私は声を張り上げたが、顔を上げた時には、周りにはもう誰もいなかった。聞こえるのは水道の滴る音だけだった。

私は教室に戻ると、健は化学コンテストの申込書を提出していた。私が戻ったのを見ると、彼は微笑みながら言った。

「木村くん、どうしてこんなに水汲みが遅いんだ?僕、木村くんの分もコンテストに申し込んでおいたよ。これで一緒に実験室で実験できるな」

私は青ざめ、震える手で 健の手を掴んだ。「健、化学コンテストには出ないで。悪いことが起こるかも」

天才がコンテストに出て一位を取る。それは、至って普通のことだ。

しかし、もし天才がコンテストでカンニングをしたとしたら、それこそが一番のドラマだろう。

偽物の健の父親は、自分のキャリアのために、息子を犠牲にすることも厭わなかったのだ。

「誰のこと?多也、何を馬鹿なこと言ってるんだ」

息子は笑みを浮かべ、私の手からカップを受け取って飲み干し、再び席に戻って勉強を始めた。

彼のメガネは鼻の上にずれ落ち、急いでそれを直してから、また分厚い本を開いた。

その様子は機械的で、無感情で、まるで生気がない。

本来なら最も輝くはずの年頃なのに、息子はまるで枯れた造花のようだった。

私は息子の手からペンを奪い、度の強いメガネを外して言った。

「休憩が必要だ」

時計は6時を指していて、健は顔色を失い、目を赤くしながら小さく微笑んでいた。

「木村くんみたいに頭が良くないんだ。必死に頑張らないと一位になれない。一位になれなければ、父さんは喜ばない」

私は健に伝えたかった。たとえ一位じゃなくても、私は十分喜ぶと。いつでも私の誇りだ、と。

しかし、今の私の立場では、そんな言葉を口にするのが難しかった。そして、息子をここまで追い詰めたあの男への憎しみが膨らんでいった。

彼は一体誰で、なぜ私の身分を奪ったのだろうか?

私は健の隣に座り、両手で彼の顔を包み込み、彼を自分の胸に抱き寄せた。

涙がこぼれ落ち、私の胸を濡らした。

「もう十分疲れている。少し休もう。あとのことは私に任せなさい」

私は教科書に丁寧に書かれた「木村多也」という名前を見つめ、喉の奥に言いようのない感情が込み上げてきた。

私は若い頃の姿に変わり、木村多也という名前を背負って生きている。しかし、本物の木村多也はどこにいるのだろうか?

多也と息子の関係は、私が思っていた以上に深く、息子はほとんど無条件に彼を信頼していた。

ふと、背後から強い視線を感じたが、振り返るとそこには誰もいなかった。

息子は私の腕の中で眠ってしまい、私は彼の背中を優しく撫でていた。すると、スマホの画面が光り、「パパからのメッセージ」が表示された。

「市の化学コンテスト、申し込んだか?」

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