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第4話

時計はもうすぐ10時になろうとしていた。

息子が教科書を閉じ、眠っていた私を揺り起こした。

「木村くん、帰ろう」

私は寝ぼけたまま机の上を片付け、息子はカバンから牛乳を取り出し、私の手に押し付けた。

「牛乳アレルギーだから、これあげる」

その瞬間、私は完全に目が覚めた。寝る前にはいつも、息子の栄養補給のために温かい牛乳を用意していた。

息子は何度か飲みたくないと言っていたが、私はそれをただのわがままで、私の気を引こうとしているだけだと思っていた。

私は罪悪感を感じながら息子の手から牛乳を受け取った。健は口を開き、ためらいながらゆっくりと言った。

「木村くん、今回の化学コンテスト、出なくてもいいか?」

私はほとんど迷わず、「分かった」と答えた。

健の目がまた赤くなりかけたので、私は急いで立ち上がり、彼の肩を軽く叩いてなだめた。「コンテストなんて、そんなに大事か?」

健は唇を噛みしめ、手を握りしめて言った。「一度でいいから、父さんを喜ばせたいんだ。父さんは俺に一度も優しい顔を見せたことがないんだ。父さんは俺にとって唯一の家族なんだ」

では、家にいるあの見知らぬ女性は誰なのだろう?健はもうニュースを見ているのだろうか?

「俺の母さんは、祖母に殺されたんだ。祖母は今でも精神病院にいる。今の母さんが父を騙していることは、とっくに知ってる。でも、父さんが幸せそうにしてるのを見て、俺はその真実を打ち明けることができないんだ」

健の静かな顔を見て、私の胸は痛かった。

「考えたことあるか?上野くんの父さんはとっくに今の母親が彼を騙していることを知っていたかもしれないって。彼女を暴くためにずっと証拠を集めていて、そのためなら、どんな犠牲もいとわない。上野くんも...」

私は健の肩を掴み、言葉を絞り出すように続けた。「上野くんの母さんも」

健の瞳孔が一瞬で大きく開き、彼は頭を振りながら、かろうじて笑みを浮かべた。

「そんなことないよ。父さんはただ仕事が好きなだけで、そんなことをするはずがない」

私はため息をついた。「本当は俺が父さんなんだ」という言葉が言えなかった。

「上野くんの家にいるあの男は上野くんの父親じゃない。とにかく、彼の言うことを聞いちゃいけない。僕を信じて」

私はスマホを取り出し、「これ、僕の番号だ。何かあったらすぐに連絡して」

息子は信じられない様子で頷き、すぐに教室を飛び出して行った。

教室のドアを見つめながら、昼間感じたあの鋭い視線が私の心にこびりついていた。誰であろうと、健を傷つける者は絶対に許さない。

窓の外では風が吹き始め、壁に貼られた紙がパタパタと音を立て、白いコピー用紙が教室中に散らばった。

私は床に落ちていたクラス名簿を拾い、ざっと目を通したが、45人の名前の中に「木村多也」という名前はなかった。

そうだ、私は元々この時代に存在しない人間なのだ、とため息をついた。

床に散らばった白い紙を片付けて講義台に戻すと、成績表がまだそのまま置かれていた。

私は無意識にその薄い紙をめくったが、そこに健が言っていた「二枚目」はどこにもなかった。

化学コンテストの日、私は息子を試験会場まで送り出した。健は穏やかな表情で私を抱きしめ、私は心配そうに彼の頭を撫でた。

「上野くんは最高だ!」

健はぎこちない笑みを浮かべ、「木村くん、ありがとう」と言った。

その笑顔に私は胸が痛み、説明のつかない不安に駆られたが、どうしたらいいのか分からなかった。

息子が試験会場に入っていくのを見届け、私は日陰に座り、焦りながら待っていた。

試験は2時間で終わるはずだったが、4時を過ぎても息子は出てこなかった。6時になっても姿はなく、私は会場に飛び込んで息子を探したが、試験はすでに終わっていた。

私は急いで息子の家に向かい、201号室のドアを叩いた。

「お前、俺の息子はどこ?」

偽の直規は視線を逸らし、悠然とした口調で言った。「お前の息子?俺が知るわけないだろう」

私は防犯扉を乱暴に開け、男の顔に拳を振り下ろした。

「とぼけるな。俺の息子を、お前の成功の踏み台にするつもりだろうが、そんなことさせるもんか」

男の鼻から血が噴き出したが、彼は狂ったように笑い始めた。

「息子だって?お前に息子なんかいるか?あれは俺の息子だ」

大雨が降りしきる中、私はその階段に3日間座り込み続けたが、息子の姿を見ることはできなかった。

化学コンテストの結果が出た日、息子から電話がかかってきた。

「木村くん、知ってる?俺、1位を取ったよ」

電話越しに、息子の声は震えており、必死に涙をこらえているのが聞き取れた。

「今どこだ?すぐ迎えに行く」

私は慌てて新聞売り場に向かった。今日の新聞の一面には、大きく「天才少年、1位でカンニング」と書かれていた。

「木村多也、誰かからメッセージが届いて、川に呼び出してるんだ。僕、父さんに大きなニュースをプレゼントしようと思ってる。そしたら、父さんは喜んでくれるだろう」

「川には行くな。死んでしまう。聞け、あの男は父親じゃない。俺が本当の父親だ。あの男は上野 くんを愛していない。愛しているのは私なんだよ。ばかなことをするな」

私は息子の名前を引き裂かれるような思いで叫び続けたが、直規が急いで階段を駆け下り、タクシーを捕まえるのを目にした。

慌てて追いかけて彼の腕を掴もうとしたが、手が彼の体をすり抜けてしまった。心臓が早鐘のように打ち始めた。

まさか、もうすぐ私は消えてしまうのだろうか?でも、まだ息子を助けていない。

「上野くん、馬鹿なことはするな!」

電話は一度「ツー」と鳴っただけで切れてしまった。私は急いで直規のタクシーに乗り込み、彼を追って川沿いへ向かった。

直規の口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。彼のスマホ画面を覗き込むと、それは健からのメッセージだった。

「パパ、川沿いに迎えに来て」

「もっと大きなニュースをプレゼントするよ」

「パパ、本当に僕のこと愛してる?」

息子よ、もちろん愛している。私には息子しかいない。息子のために働いて昇進して、もっと良い暮らしをさせてあげたいんだ。

私は直規の代わりに息子へ返信しようとしたが、直規はそのメッセージを見て嘲笑を浮かべ、すぐにアプリを閉じて電話をかけ始めた。

「もしもし、山口さん、大ニュースがあるんだ。川に行って。カメラを忘れるなよ。」

自分の顔を持ったこの男の嫌らしい表情を見て、私は彼を殺したいほどの怒りに駆られた。

息子は、こんな男の愛を得られると思っているなんて。

私は次第に透明になっていく。不吉な予感が心に広がっていった。車が川に到着し、ドアが完全に開く前に直規は飛び出して行った。

「誰か!溺れている人がいる!」

私は直規の後を追いかけた。山口さんはすでにそこにいて、直規はカメラを奪い取り、側の通行人に向けてこう尋ねた。

「すみません、ここで何があったんですか?」

私は焦りから直規を押そうとしたが、再び彼の体をすり抜けてしまい、そのまま川に転落した。

冷たい水が体に染み渡り、川の中央で誰かがもがいているのが見えた。

「健!」

私は健のもとへ向かった。彼の目は冷たく、岸でカメラを持って通行人をインタビューしている直規を見つめながら、かすかな声で呟いた。

「パパ、僕を助けて」

パトカーの音が響き、健はもがくのをやめ、手の動きが止まった。

「息子!息子!」

私は必死に健の袖を掴んだが、彼は動かず、ゆっくりと川底へ沈んでいった。

川沿いでは直規が奈緒に向けてカメラを構えている。私は絶望の中、両手を広げ、息子と一緒に沈んでいった。

その時、奈緒は静かな川を見つめ、目からは一筋の涙が流れ落ちた。

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