さくらは眉を寄せた。「どうして伊織屋に?」伊織屋は、離縁され、行き場を失い、すぐには生計が立てられない女性たちのための施設として知られている。儀姫は確かに離縁されたとはいえ、生活に困ることはないはず。さくらの知る限り、儀姫は複数の屋敷や店を所有しており、離縁後も裕福な暮らしを続けられるはずだった。「どこにも行くところがないと申しまして」清家夫人の侍女が困惑した様子で説明した。「無理やり住み着こうとされ、夫人様までお叱りになられました。『工房は離縁された女性を受け入れると言っているのだから、私も条件に合う。もし私を入れないのなら、この工房は偽善者で、ただの見せかけだ』と……夫人様は相当お怒りで、それで私めに王妃様と沢村お嬢様にお知らせするようにと」「清家夫人が侮辱されたって?」紫乃の声が険しくなった。「すぐに行くわ」清家大臣は清家夫人を鬼嫁と呼ぶが、道理をわきまえた人だ。儀姫のような理不尽な輩には対処が難しい。特に今は離縁されて開き直っているのだろう。工房の評判を守らねばならない清家夫人は、むやみに追い払うこともできず、そのために心を痛めているに違いない。「私も行くわ」さくらも立ち上がった。「そうね」紫乃は頷いた。「じゃあ、平安京の件は有田先生から親王様にお伝えいただきましょう。私から概要は伝えてあるし、有田先生の方でも色々と情報を掴んでいるはずだわ」「行ってください」有田先生は静かに頷いた。二人は侍女を伴って伊織屋へ向かった。工房の大門は固く閉ざされていたが、侍女が身分を告げて叩くと、内側からゆっくりと開かれた。伊織屋の表座敷は決して広くはなかった。来客もほとんどなく、二列の椅子が並ぶだけの質素な造りだった。中庭は比較的広く、機織り機が数台置かれていた。左手には屏風で仕切られた一画があり、刺繍台や絹糸が所狭しと並んでいる。清家夫人は、苦労を共にする者同士が一つ屋根の下で語らい、家族のように寄り添える場所にしたいと考えていた。奥には居住棟が連なっていた。独立した棟ではなく続き部屋式だが、それぞれに寝台と箪笥、机や椅子を置くには十分な広さがあった。さらに奥には広めの中庭があった。本来は晒し布を干す場所だったが、工房では染め物はしないため、今は野菜作りと養鶏に使われていた。まだ入居者のいない工房に、清家夫人はよく様子を見
先程まで高圧的だった儀姫は、さくらと紫乃の姿を見るや、急に言葉を失った。着物の襟を握り締めながら、わずかに顎を上げる。落ちぶれてなお、その気位は高く。耳には小さな鍍金の蝶の耳飾りが揺れ、粗末な身なりと不釣り合いな、最後の誇りのようだった。付き添いの侍女一人もなく、独りぼっちだった。「王妃様、沢村お嬢様、よくいらしてくださいました」清家夫人の顔は怒りで青ざめている。「理不尽な方は数多見てまいりましたが、これほどの乱暴者は初めてです。工房に入りたいと言いながら、名前まで変えろと。離縁の理由を尋ねても、はぐらかすばかり」清家夫人の怒りはもっともだった。工房設立時、さくらと清家夫人たちは規則を定めた。邪悪な行いや非道な振る舞いで離縁された者は、受け入れないと。だからこそ儀姫に理由を問うたのだ。確認の上で調査するつもりだった。それなのに何も語らず、ただ横柄な態度を取る。清家夫人が立腹するのも無理はない。さくらと紫乃が席に着くと、儀姫は二人の姿に目を留めた。絹織物の着物に、上品な装身具。かつての自分と同じような華やかさ。今の自分は粗末な木簪に木綿の着物。老いと貧困に喘ぎ、白粉一つ付けられない。その対比があまりにも痛ましく、儀姫の胸は悔しさと恥ずかしさで焼けるようだった。だが、ここに来るしかなかった。さくらの前であの横柄な態度は取れない。朝廷の重臣である上、母の案件は影森玄武が担当しているのだから。「儀姫、本当に工房に来たいの?」さくらは儀姫の姿を見定めながら問いかけた。「ここは贅沢な暮らしができる場所じゃないわ。仕事をしなければならないのよ」儀姫の態度は明らかに弱まったものの、なおも威厳を保とうとした。「本来なら年齢と身分からして、あなたたち夫婦には『お姉さん』と呼ばれる立場よ。でもそんなことは言わないわ。好きに呼べばいい。私は物乞いに来たんじゃない。ここは離縁された女性を……」一瞬言葉を詰まらせ、目に怨みと諦めきれない思いが浮かんだ。「離縁された女性を受け入れる場所でしょう?私が離縁されたことは、きっと調べ上げて、陰で笑い物にしているんでしょうけど。でも、受け入れると言ったからには、私を追い返すことはできないはず」「確かに離縁されたことは聞いています」さくらは冷静に応じた。「でも理由は知りません。それに、陰で笑い話にするような暇
さくらたちが目配せをするのを見た儀姫は、さくらが今や自分の手の届かない存在だということも忘れ、突然激高した。「もう、見え見えじゃないの!」甲高い声が部屋中に響き渡る。「虐げられた女たちを助けるなんて嘘!偽善者!私、今すぐにでも皆に暴いてやるわ!」だが、彼女は立ち上がろうともせず、ただ清家夫人を恨めしげに見据えたまま座り続けていた。さくらは眉を寄せた。最初、清家夫人の侍女から話を聞いた時は、単なる騒動を起こしに来たのだと思っていた。しかし、目の前の儀姫の様子は違う。大声を張り上げているものの、実際の行動は伴わない。腰一つ動かそうとしない。まさか……本当に困窮しているというのか。「確か、伊織屋の名前も変えろとおっしゃったそうね?」紫乃も何か違和感を覚え、語気を和らげた。今や高慢な態度すら取れない儀姫の姿に、何とも言えない気持ちが湧いてきた。「死んだ人の名前なんて、縁起が悪いでしょう」儀姫は唇を歪めた。「縁起が悪いと思うなら、来なければいいじゃない」紫乃の声が再び高くなった。やはり、どれだけ落ちぶれていようと、人を苛立たせる性質は変わっていないようだ。「まあ、誰が来たがってるって……」儀姫は鼻を鳴らし、何か皮肉めいた言葉を投げかけようとしたが、さくらの厳しい表情に出くわすと、慌てて言葉を飲み込んだ。「そう?望んでもいないなら出て行けばいいでしょう」紫乃は冷笑を浮かべた。「おかしな人ね。来ておきながら文句ばかり。ここが贅沢な暮らしができる場所だとでも思ったの?自分の力で生きていかなきゃならないのよ」「帰るものですか。あなたたちが本当に偽善者かどうか、とことん見届けてやるわ」清家夫人の顔が青ざめているのを見て、さくらは彼女を気遣った。「夫人様、お戻りになられては?」「では、王妃様にお任せいたします」清家夫人は儀姫と向き合うのも嫌になっていた。儀姫の真意が掴めない。ただの意地悪なのか、それとも……王妃様たちが来る前の横柄な態度といったら、思わず平手打ちでも食らわせたい気分だった。ここが工房でなければ、とっくに使用人に追い払わせていただろう。清家夫人が去ると、さくらは静かに告げた。「一度お帰りなさい。あなたのことはしっかり調べさせていただきます。本当に子がないという理由だけで離縁されたのなら、伊織屋でお世話することも
この件を探るのに、さくらと紫乃が直接動く必要はなかった。道枝執事は平陽侯爵家の執事と長年の付き合いがあり、翌日二人が会食を共にした際、事の真相が明らかになった。去年、新たに側室を迎えたという。紹田という姓の女性で、父は文章得業生であり、本人も学識豊かな教養人だった。すでに婚約も決まっていたのだが、二年前に婚約者が不慮の事故で亡くなり、それ以来、縁起の悪い女として世間の噂に苦しめられていたという。どういう経緯があったのかは定かではないが、平陽侯爵の目に留まり、妾として迎え入れられることになった。有馬執事の話によると、紹田夫人を迎えた理由の一つは家政の補佐だった。側室が長らく病に伏せっており、去年の冬にはもう危ないと思われたほどだったが、ようやく暖かな季節になって少し持ち直してきたところだった。紹田夫人は家政に長けており、入門以来、老夫人を補佐して内側の采配を取り仕切っていた。老夫人もその働きぶりを大変気に入っていた。儀姫が紹田夫人を快く思わないのは明らかで、あからさまに、また陰に隠れては嫌がらせを繰り返していた。老夫人が何度も叱責し、また大長公主の一件もあって、ようやく収まりを見せたものの。三ヶ月前、紹田夫人に身重の兆しが現れた。つわりが激しく、何も喉を通らない中、実家の母の作る質素な料理だけを口にすることができた。老夫人も子を宿した経験があり、妊婦の心情を理解していたため、実家恋しい紹田夫人のために、その母を呼び寄せることにした。儀姫が紹田夫人を苛める件で老夫人から叱責を受けた後は、その鬱憤を北條涼子に向けるようになった。ここまで話して、道枝執事は深いため息をつきながら呟いた。「北條涼子さんは、平陽侯爵家に入って以来、本当に散々な目に遭わされておりますな」「北條家の話はいいわ、聞きたくないの」紫乃が急かすように言った。「それより、どうやって離縁されたのか、早く話してください。まさか、紹田夫人の胎児に手を出したんじゃ……」道枝執事は首を振った。「紹田夫人の子どもを害そうとしたわけではなく、実は紹田夫人の母上を狙ったようです。事の始まりは、紹田夫人が安胎薬を日々服用していた時のこと。折しも母上が咳を患っておられ、老夫人が侍医に薬を処方させたのです。ところがその日、どういうわけか二つの薬が取り違えられ、紹田夫人が母上の咳止め薬を
さくらは、夫が今日は早く戻ってきたことに気付き、甘い笑みを浮かべ、目尻を下げた。「案件、片付いたの?」「いや、今夜は徹夜する気分じゃなくてさ」玄武はさくらと目が合うと、自然と表情が柔らかくなり、微笑みながら彼女の側に腰を下ろした。「お茶を用意させましょう」有田先生は振り返って召使いに声をかけた。「喉がカラカラでして」「有田先生、今日は何かお忙しかったの?お声が随分お疲れのようですけど」紫乃が笑みを浮かべながら尋ねた。「店舗の取引と価格交渉でございまして」有田先生はさくらに一礼してから席に着いた。店舗の話には興味を示さなかった紫乃は、すぐに玄武に話を向けた。「親王様、先ほど儀姫のことをご存知だとおっしゃいましたが、一体どういうことなんですか?」玄武は説明を始めた。「実は彼女の手元にそれほどの金はなかったのだ。影森茨子の謀反事件の際、儀姫の店舗からの利益は全て茨子に流れていたことが発覚した。さらに、彼女が斎藤貴太妃や淑徳貴太妃たちと共同経営していた店も事件に関与していたため、調査の対象となった。関係する店舗は全て差し押さえられてな。彼女の個人店舗が二軒あったが、それも東海林椎名の名義だった。東海林が処刑された後、当然のように没収された。だが、彼女はこの事実を平陽侯爵に隠していた。軽んじられることを恐れてな。収入源を失った彼女は、手持ちの金を高利貸しに回し始めた。そして燕良親王妃の沢村氏から一万両を借り、共同で高利貸しを始め、利益を折半する約束だったらしい」紫乃は、沢村氏が絡んでいると聞いた途端、顔色を変えた。「最近、朝廷が高利貸しの取り締まりを厳しくしてな。彼女のところも摘発され、莫大な罰金を科せられた。離縁時に持ち出した金を全て支払っても足りず、屋敷や装飾品まで売り払わねばならなくなった。でなければ投獄は免れなかった。今でも燕良親王妃に一万両と利子を借りたままだ。離縁後、燕良親王妃妃が取り立てを始めると、逃げ場を失って……結局、工房に助けを求めることになったというわけだ」「自業自得ね」紫乃は唾を吐くように言った。「こんな状況でまだ高利貸しなんて……陛下が最初に罪を問わなかっただけでも良かったのに。大人しくしていられなかったのね」「罰金はいくらだったの?」さくらが純粋な好奇心から尋ねた。「十万両だ」玄武は淡々と答えた。「十
さくらは、儀姫が数文の銭を拾い集めていた姿を思い出し、本当に行き詰まっているのだと実感した。だが、この一件は厄介な問題をはらんでいた。確かに最初は紹田夫人の母を困らせるだけのつもりだったのかもしれない。しかし結果的には紹田夫人の流産を引き起こし、その後には北條涼子を池に突き落とすまでに至った。しかも北條涼子が泳げないことは、儀姫も承知していたはずだ。つまりは、命を狙う意図があったとしか考えられない。「良くないことは分かってるわ」紫乃は真面目な表情を作りながら言った。「でも、北條涼子が池に落とされたって聞いて、少し笑いそうになってしまって……」そう言うと、「南無阿弥陀仏、お慈悲を」と唱えて、失った功徳を取り戻そうとした。原さくらは眉を寄せた。「理解できないのは、どうしてこんなに愚かなの?もう姫君の身分じゃないし、平陽侯爵家でも疎まれているのに。母上は幽閉され、父上は処刑されたというのに、なぜこんな無茶を……本当に生きる気があるのかしら」「もし生きる気がないのなら、工房に助けを求めたりはしませんよ」有田先生が指摘した。さくらは横目で玄武を見た。「あなたはどう思う?」「まだ知られていない事情があるのかもしれんな」玄武は静かに答えた。「有馬執事も全てを把握しているわけではあるまい。大きな屋敷での醜聞は、普通なら徹底的に隠されるものだ。ただ、少なくとも平陽侯爵老夫人は、儀姫との離縁は避けられないと判断した。おそらく、高利貸しの件も知っていたのだろう」さくらは頷いた。「色々な問題が重なって、老夫人も我慢の限界に達したのね。平陽侯爵様自身は決断力に欠けるし、屋敷を支えているのは老夫人だもの。それに……平陽侯爵様には儀姫への夫婦らしい愛情なんて、最初から無かったのでしょう」「互いに嫌悪し合う夫婦というのは、本当に悲しいものだな」玄武は深い溜息をついた。さくらは軽く相槌を打ったが、その心は夫婦の情愛という方向には向いていなかった。愛情のない夫婦のことを、部外者が論じても意味がない。「工房を開いてから今まで、誰も来てくれなかったわ。儀姫は元姫君だった。もし彼女を受け入れることができれば、良い前例になるかもしれない。ただし……」さくらは慎重に言葉を選んだ。「それは彼女が本当に紹田夫人の子を害そうとしていなかったという前提でね。この件を整理してみまし
しかし、さくらが平陽侯爵老夫人を訪ねる前に、翌日には工房についての噂が街中に広まっていた。「北冥親王妃も清家夫人も偽善者だ」「困窮した離縁の女が助けを求めたというのに、門前払いどころか、散々な仕打ちをしたそうだ」もともと工房に対して敵意を抱いていた人々は少なくなかった。離縁された女性たちを受け入れるなど礼教に反すると非難の声を上げ、離縁された者には相応の理由があるはずだと言い張った。子を産めぬことすら、罪とされた。この噂は瞬く間に広がり、まるで崩れ落ちる壁に群がるように、民衆の批判の声は日に日に大きくなっていった。「偽善の極み」「何か裏があるに違いない」「金儲けが目的なのだろう」……様々な憶測が飛び交った。その夜、紫乃は机を激しく叩きながら怒りを爆発させた。「儀姫一人でこれほどの騒ぎを起こせるはずがない!」言い終わるや否や、紫乃は風のように部屋を飛び出した。「どこへ行くの?」さくらが後ろから声をかけた。「都景楼よ。誰かに調べてもらうわ」振り返りもせずに答えた。紫乃は怒りで全身を震わせていた。工房には心血を注いできた。その想いは純粋なものだった。同じ境遇の女性たちの運命に心を寄せ、工房が彼女たちの終生の支えとなることを願っていたのだ。このような中傷は、決して許せなかった。さくらも心中穏やかではなかったが、紫乃ほど取り乱してはいなかった。このような事業が順風満帆にいくはずがないと、彼女は理解していた。世の中には善意ある裕福な人々も多いはず。もし容易なことなら、とうの昔に誰かが始めていただろう。さくらはまず使いを出し、平陽侯爵老夫人に明日の訪問を告げる手紙を送った。しかし返事は意外なものだった。老夫人は病床に伏しており、体調が回復次第、自ら北冥親王邸を訪れるとのことだった。本当に病気なのか、それともこのような時期に関わりたくないだけなのか。さくらには判断がつかなかった。とにかく、老夫人が病を理由に面会を断った以上、紫乃の調査に期待するしかなかった。さくらにも今、やるべきことがあった。御城番からの一部の者たちを追い出す計画を進めていた。数日のうちに実行されるだろう。その時は、陛下の怒りも避けられまい。紫乃の調査は速やかに結果を出した。燕良親王妃の沢村氏が金を使って、伊織屋への攻撃を煽っていたのだ。沢村氏が都に来て以
都に来てから、燕良親王は沢村氏に沢村紫乃との接触を促していた。血のつながりがある以上、頻繁に往来すれば、おのずと血縁の情は上原さくらとの友情を超えるはずだと考えていたのだ。だが、無能で気まぐれな沢村氏は、一、二度の失敗で諦めてしまった。「あの紫乃ときたら、身分相応の態度もとれないのよ」と不平を漏らし、「今や私は親王妃なのだから、こんな屈辱は受けられません。それに、姉妹の付き合いをするなら、紫乃の方から私を訪ねてくるべきでしょう」と強情を張った。この態度に燕良親王は腹を立てると同時に困惑もした。特別に両者の関係を調査させたほどだ。姉妹の間に何か確執でもあったのかと思いきや、むしろ幼い頃は仲が良かったという。ただ、紫乃が梅月山の赤炎宗で武芸の修行を始めてから、自然と疎遠になっただけのことだった。親王からすれば、これは十分に修復可能な関係に思えた。今回の紫乃の来訪が何を目的としているにせよ、姉妹の絆を取り戻すには絶好の機会だった。すぐさま沈氏を呼び寄せる指示を出した。まもなく、沢村氏は侍女の春杏を従えて書斎に現れた。眉には喜色を湛えながら、粗雑な礼を行う。「親王様、お呼びとは何用でしょうか?」燕良親王は沢村氏の不作法な礼儀作法を目にして、内心で溜息をついた。皇族の妻となって久しいというのに、礼儀作法を学ぼうという意思すら見せず、日々側室との諍いに明け暮れている。不快感を押し殺しながら、親王は言った。「お前の従妹の沢村紫乃が来ている。すでに正庁に案内させた。これから私も同席するが、この機会に夕食でもてなすがよい。姉妹らしく腹を割って話をするのだ。大切な客人をないがしろにするなよ、分かったか?」書斎に呼ばれた時、沢村氏は最初、心を躍らせていた。普段は金森側妃以外、立ち入ることすら許されない場所なのだから。だが、それが紫乃の来訪のためと分かると、途端に表情が曇った。あの従妹のことを思い出すと、心中穏やかではいられなかった。傲慢この上ない態度で、自分が親王妃となった今でさえ、まるで眼中にないかのような振る舞い……「聞いているのか?」親王の声が少し強まった。「はい、かしこまりました」沢村氏は慌てて心を取り直した。親王は立ち上がると、思いがけず沢村氏の手を取った。「参ろう。私は挨拶だけして退くから、姉妹水入らずで昔話でもするがよい」
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一