この件を探るのに、さくらと紫乃が直接動く必要はなかった。道枝執事は平陽侯爵家の執事と長年の付き合いがあり、翌日二人が会食を共にした際、事の真相が明らかになった。去年、新たに側室を迎えたという。紹田という姓の女性で、父は文章得業生であり、本人も学識豊かな教養人だった。すでに婚約も決まっていたのだが、二年前に婚約者が不慮の事故で亡くなり、それ以来、縁起の悪い女として世間の噂に苦しめられていたという。どういう経緯があったのかは定かではないが、平陽侯爵の目に留まり、妾として迎え入れられることになった。有馬執事の話によると、紹田夫人を迎えた理由の一つは家政の補佐だった。側室が長らく病に伏せっており、去年の冬にはもう危ないと思われたほどだったが、ようやく暖かな季節になって少し持ち直してきたところだった。紹田夫人は家政に長けており、入門以来、老夫人を補佐して内側の采配を取り仕切っていた。老夫人もその働きぶりを大変気に入っていた。儀姫が紹田夫人を快く思わないのは明らかで、あからさまに、また陰に隠れては嫌がらせを繰り返していた。老夫人が何度も叱責し、また大長公主の一件もあって、ようやく収まりを見せたものの。三ヶ月前、紹田夫人に身重の兆しが現れた。つわりが激しく、何も喉を通らない中、実家の母の作る質素な料理だけを口にすることができた。老夫人も子を宿した経験があり、妊婦の心情を理解していたため、実家恋しい紹田夫人のために、その母を呼び寄せることにした。儀姫が紹田夫人を苛める件で老夫人から叱責を受けた後は、その鬱憤を北條涼子に向けるようになった。ここまで話して、道枝執事は深いため息をつきながら呟いた。「北條涼子さんは、平陽侯爵家に入って以来、本当に散々な目に遭わされておりますな」「北條家の話はいいわ、聞きたくないの」紫乃が急かすように言った。「それより、どうやって離縁されたのか、早く話してください。まさか、紹田夫人の胎児に手を出したんじゃ……」道枝執事は首を振った。「紹田夫人の子どもを害そうとしたわけではなく、実は紹田夫人の母上を狙ったようです。事の始まりは、紹田夫人が安胎薬を日々服用していた時のこと。折しも母上が咳を患っておられ、老夫人が侍医に薬を処方させたのです。ところがその日、どういうわけか二つの薬が取り違えられ、紹田夫人が母上の咳止め薬を
さくらは、夫が今日は早く戻ってきたことに気付き、甘い笑みを浮かべ、目尻を下げた。「案件、片付いたの?」「いや、今夜は徹夜する気分じゃなくてさ」玄武はさくらと目が合うと、自然と表情が柔らかくなり、微笑みながら彼女の側に腰を下ろした。「お茶を用意させましょう」有田先生は振り返って召使いに声をかけた。「喉がカラカラでして」「有田先生、今日は何かお忙しかったの?お声が随分お疲れのようですけど」紫乃が笑みを浮かべながら尋ねた。「店舗の取引と価格交渉でございまして」有田先生はさくらに一礼してから席に着いた。店舗の話には興味を示さなかった紫乃は、すぐに玄武に話を向けた。「親王様、先ほど儀姫のことをご存知だとおっしゃいましたが、一体どういうことなんですか?」玄武は説明を始めた。「実は彼女の手元にそれほどの金はなかったのだ。影森茨子の謀反事件の際、儀姫の店舗からの利益は全て茨子に流れていたことが発覚した。さらに、彼女が斎藤貴太妃や淑徳貴太妃たちと共同経営していた店も事件に関与していたため、調査の対象となった。関係する店舗は全て差し押さえられてな。彼女の個人店舗が二軒あったが、それも東海林椎名の名義だった。東海林が処刑された後、当然のように没収された。だが、彼女はこの事実を平陽侯爵に隠していた。軽んじられることを恐れてな。収入源を失った彼女は、手持ちの金を高利貸しに回し始めた。そして燕良親王妃の沢村氏から一万両を借り、共同で高利貸しを始め、利益を折半する約束だったらしい」紫乃は、沢村氏が絡んでいると聞いた途端、顔色を変えた。「最近、朝廷が高利貸しの取り締まりを厳しくしてな。彼女のところも摘発され、莫大な罰金を科せられた。離縁時に持ち出した金を全て支払っても足りず、屋敷や装飾品まで売り払わねばならなくなった。でなければ投獄は免れなかった。今でも燕良親王妃に一万両と利子を借りたままだ。離縁後、燕良親王妃妃が取り立てを始めると、逃げ場を失って……結局、工房に助けを求めることになったというわけだ」「自業自得ね」紫乃は唾を吐くように言った。「こんな状況でまだ高利貸しなんて……陛下が最初に罪を問わなかっただけでも良かったのに。大人しくしていられなかったのね」「罰金はいくらだったの?」さくらが純粋な好奇心から尋ねた。「十万両だ」玄武は淡々と答えた。「十
さくらは、儀姫が数文の銭を拾い集めていた姿を思い出し、本当に行き詰まっているのだと実感した。だが、この一件は厄介な問題をはらんでいた。確かに最初は紹田夫人の母を困らせるだけのつもりだったのかもしれない。しかし結果的には紹田夫人の流産を引き起こし、その後には北條涼子を池に突き落とすまでに至った。しかも北條涼子が泳げないことは、儀姫も承知していたはずだ。つまりは、命を狙う意図があったとしか考えられない。「良くないことは分かってるわ」紫乃は真面目な表情を作りながら言った。「でも、北條涼子が池に落とされたって聞いて、少し笑いそうになってしまって……」そう言うと、「南無阿弥陀仏、お慈悲を」と唱えて、失った功徳を取り戻そうとした。原さくらは眉を寄せた。「理解できないのは、どうしてこんなに愚かなの?もう姫君の身分じゃないし、平陽侯爵家でも疎まれているのに。母上は幽閉され、父上は処刑されたというのに、なぜこんな無茶を……本当に生きる気があるのかしら」「もし生きる気がないのなら、工房に助けを求めたりはしませんよ」有田先生が指摘した。さくらは横目で玄武を見た。「あなたはどう思う?」「まだ知られていない事情があるのかもしれんな」玄武は静かに答えた。「有馬執事も全てを把握しているわけではあるまい。大きな屋敷での醜聞は、普通なら徹底的に隠されるものだ。ただ、少なくとも平陽侯爵老夫人は、儀姫との離縁は避けられないと判断した。おそらく、高利貸しの件も知っていたのだろう」さくらは頷いた。「色々な問題が重なって、老夫人も我慢の限界に達したのね。平陽侯爵様自身は決断力に欠けるし、屋敷を支えているのは老夫人だもの。それに……平陽侯爵様には儀姫への夫婦らしい愛情なんて、最初から無かったのでしょう」「互いに嫌悪し合う夫婦というのは、本当に悲しいものだな」玄武は深い溜息をついた。さくらは軽く相槌を打ったが、その心は夫婦の情愛という方向には向いていなかった。愛情のない夫婦のことを、部外者が論じても意味がない。「工房を開いてから今まで、誰も来てくれなかったわ。儀姫は元姫君だった。もし彼女を受け入れることができれば、良い前例になるかもしれない。ただし……」さくらは慎重に言葉を選んだ。「それは彼女が本当に紹田夫人の子を害そうとしていなかったという前提でね。この件を整理してみまし
しかし、さくらが平陽侯爵老夫人を訪ねる前に、翌日には工房についての噂が街中に広まっていた。「北冥親王妃も清家夫人も偽善者だ」「困窮した離縁の女が助けを求めたというのに、門前払いどころか、散々な仕打ちをしたそうだ」もともと工房に対して敵意を抱いていた人々は少なくなかった。離縁された女性たちを受け入れるなど礼教に反すると非難の声を上げ、離縁された者には相応の理由があるはずだと言い張った。子を産めぬことすら、罪とされた。この噂は瞬く間に広がり、まるで崩れ落ちる壁に群がるように、民衆の批判の声は日に日に大きくなっていった。「偽善の極み」「何か裏があるに違いない」「金儲けが目的なのだろう」……様々な憶測が飛び交った。その夜、紫乃は机を激しく叩きながら怒りを爆発させた。「儀姫一人でこれほどの騒ぎを起こせるはずがない!」言い終わるや否や、紫乃は風のように部屋を飛び出した。「どこへ行くの?」さくらが後ろから声をかけた。「都景楼よ。誰かに調べてもらうわ」振り返りもせずに答えた。紫乃は怒りで全身を震わせていた。工房には心血を注いできた。その想いは純粋なものだった。同じ境遇の女性たちの運命に心を寄せ、工房が彼女たちの終生の支えとなることを願っていたのだ。このような中傷は、決して許せなかった。さくらも心中穏やかではなかったが、紫乃ほど取り乱してはいなかった。このような事業が順風満帆にいくはずがないと、彼女は理解していた。世の中には善意ある裕福な人々も多いはず。もし容易なことなら、とうの昔に誰かが始めていただろう。さくらはまず使いを出し、平陽侯爵老夫人に明日の訪問を告げる手紙を送った。しかし返事は意外なものだった。老夫人は病床に伏しており、体調が回復次第、自ら北冥親王邸を訪れるとのことだった。本当に病気なのか、それともこのような時期に関わりたくないだけなのか。さくらには判断がつかなかった。とにかく、老夫人が病を理由に面会を断った以上、紫乃の調査に期待するしかなかった。さくらにも今、やるべきことがあった。御城番からの一部の者たちを追い出す計画を進めていた。数日のうちに実行されるだろう。その時は、陛下の怒りも避けられまい。紫乃の調査は速やかに結果を出した。燕良親王妃の沢村氏が金を使って、伊織屋への攻撃を煽っていたのだ。沢村氏が都に来て以
都に来てから、燕良親王は沢村氏に沢村紫乃との接触を促していた。血のつながりがある以上、頻繁に往来すれば、おのずと血縁の情は上原さくらとの友情を超えるはずだと考えていたのだ。だが、無能で気まぐれな沢村氏は、一、二度の失敗で諦めてしまった。「あの紫乃ときたら、身分相応の態度もとれないのよ」と不平を漏らし、「今や私は親王妃なのだから、こんな屈辱は受けられません。それに、姉妹の付き合いをするなら、紫乃の方から私を訪ねてくるべきでしょう」と強情を張った。この態度に燕良親王は腹を立てると同時に困惑もした。特別に両者の関係を調査させたほどだ。姉妹の間に何か確執でもあったのかと思いきや、むしろ幼い頃は仲が良かったという。ただ、紫乃が梅月山の赤炎宗で武芸の修行を始めてから、自然と疎遠になっただけのことだった。親王からすれば、これは十分に修復可能な関係に思えた。今回の紫乃の来訪が何を目的としているにせよ、姉妹の絆を取り戻すには絶好の機会だった。すぐさま沈氏を呼び寄せる指示を出した。まもなく、沢村氏は侍女の春杏を従えて書斎に現れた。眉には喜色を湛えながら、粗雑な礼を行う。「親王様、お呼びとは何用でしょうか?」燕良親王は沢村氏の不作法な礼儀作法を目にして、内心で溜息をついた。皇族の妻となって久しいというのに、礼儀作法を学ぼうという意思すら見せず、日々側室との諍いに明け暮れている。不快感を押し殺しながら、親王は言った。「お前の従妹の沢村紫乃が来ている。すでに正庁に案内させた。これから私も同席するが、この機会に夕食でもてなすがよい。姉妹らしく腹を割って話をするのだ。大切な客人をないがしろにするなよ、分かったか?」書斎に呼ばれた時、沢村氏は最初、心を躍らせていた。普段は金森側妃以外、立ち入ることすら許されない場所なのだから。だが、それが紫乃の来訪のためと分かると、途端に表情が曇った。あの従妹のことを思い出すと、心中穏やかではいられなかった。傲慢この上ない態度で、自分が親王妃となった今でさえ、まるで眼中にないかのような振る舞い……「聞いているのか?」親王の声が少し強まった。「はい、かしこまりました」沢村氏は慌てて心を取り直した。親王は立ち上がると、思いがけず沢村氏の手を取った。「参ろう。私は挨拶だけして退くから、姉妹水入らずで昔話でもするがよい」
「警告しておくわ、万紅」紫乃は人差し指を突きつけ、その目は炎のように燃えていた。「もし二度と儀姫の手先となって伊織屋の悪評を流すようなことがあれば……その舌を引き抜いてやる」言い終わるや、紫乃は袖を翻して大股で立ち去った。最後まで、燕良親王には一瞥もくれなかった。門外の護衛たちが駆け寄ろうとしたが、親王は振り返って手を上げ、下がるよう指示した。紫乃は冷ややかな嘲笑を一つ残し、颯爽と姿を消した。燕良親王は去りゆく紫乃の後ろ姿を見つめていた。鮮やかな紅衣が目を射るようで、その凛とした態度、恐れを知らぬ大胆さ、傲然とした姿勢……まさにこれこそが、自分が本当に求めていた沢村家の娘だったのだ。「親王様……」沢村氏が涙に濡れた顔を押さえながら嗚咽を漏らした。「私を打ったのに、なぜ見逃されたのです?」腫れ上がった頬から涙が雨のように零れ落ちる。親王は視線を戻すと、先程までの優しい眼差しは消え失せ、眉間に深い皺を寄せていた。同じ沢村家の血を引くというのに、なぜこれほどまでの違いが……「親王様!」冷ややかな目つきに不安を覚えた沢村氏は、さらに一歩近づき、先程の優しさにすがろうとした。「痛いのです。どうか、私の恨みを晴らしてください」親王は眉間の皺を解かないまま問いただした。「今の話だが、お前が儀姫と手を組んで伊織屋の噂を流しているというのは、どういうことだ?」高利貸しの件は親王に黙っていた。沢村氏では固く禁じられていることだし、親王の考えも分からない。厳しい表情に問い詰められ、沢村氏の動揺は増すばかり。「わ……私はただ……儀姫が離縁され、工房に助けを求めたのに、上原に断られたと聞いて……不憫に思っただけです」「ほう」親王は冷笑を浮かべた。「わが妃が、北冥親王妃に刃向かうほどの力を持っているとは知らなかったぞ」涙を拭いながら、沢村氏は無邪気な瞳を向けた。「ただ……儀姫は親王様の姪君。路頭に迷わせるのが忍びなく、少しばかり助力を……」「では何故」親王は容赦なく畳みかけた。「平陽侯爵家に直談判しなかったのだ?そこまで心配なら、親王家で引き取れば良かったのではないか?」「妾は……」沢村氏は言葉を濁らせた。「母上が謀反の罪で官庁に幽閉されておりますゆえ、お引き取りする勇気が……」親王は突如、沢村氏の顎を掴んだ。「母親が謀反人と知ってい
書斎に戻った燕良親王に、無相は手にしていた書物を置き、立ち上がって尋ねた。「親王様、沢村紫乃は何用で?王妃様とは話が……」「役立たずめ」親王は吐き捨てるように言った。「密かに儀姫と通じ、上原さくらに対抗するなど……」「親王様」無相は首を振った。「彼女を娶ったことが、そもそもの誤りでした。沢村家でも取るに足らぬ存在。家主でさえ、彼女のために親王様との関係を深めようとはしない。他に得られる利もございません」「同じ沢村家の娘とはいえ、沢村紫乃と比べれば、千倍も万倍も劣る」親王は座に着くと、目を細めた。その瞳の奥には毒蛇のような冷徹な光が宿っていた。「先ほどの一件を見よ。颯爽と現れ、一つの平手打ちと警告を残して立ち去る。無駄な動きは一つもない。あれほどの女を妃とできていれば……」親王は舌打ちした。「沢村家の全面支援を得られただけでなく、あのような有能な助力者も手に入れられた。紫乃一人で、わが配下の何十人分もの価値があろう」「親王様」無相は慎重に進言した。「今は四方に虎狼が潜む時。北冥親王家の人間に手を出すのは危険かと」だが親王は自らの計略に沈潜したままだった。「無能な妃なら、賢い者に席を譲らせればよい」「まさか……」無相は息を呑んだ。「それは危険すぎます。沢村紫乃は野馬のよう。今となっては、到底手なずけられません」「選択の余地はないのだ」親王の声は暗く沈んでいた。「影森茨子を失い、都での足場は揺らいでいる。沢村氏は無能、金森側妃では名家の婦人たちとの交際もままならん。一方、紫乃は都に確かな人脈を持ち、上原さくらとの親交も深い。彼女を娶れば、上原も多少は目こぼしをしてくれようというもの」「性格が違えば、同じ策も異なる結果を生みます」無相は首を振った。「親王様のお心が乱れております。焦りは禍根となる。まずは心を静め、より良い活路を見出すべき。さもなくば……」無相は深いため息をついた。「この野望は諦めるしかございますまい」「放棄などできぬ!」親王の声が突如高く響いた。「これまでの年月をかけた経営を、どうして諦められようか」数度の深い呼吸を経て、親王は落ち着きを取り戻した。「先生の仰る通り、私も焦りすぎていた。ただ……陛下の真意が掴めぬ。まるで私を疑ってなどいないかのように振る舞われる。目を合わせる時も、変わらぬ眼差しで……あの方の深さを、私
燕良親王の表情が落ち着きを失っていた。「椎名青舞は確かに親房甲虎の心を掴んだ。だが奴はまだ軍の心を掴めていない。それを焦ってはならん。平安京も同様だ。しかし、かといって手をこまねいているわけにもいかん。沢村が役立たずなら、紫乃を使えばよい。無相先生の懸念は杞憂だ。沢村万紅も上原さくらも共に王妃の位にある。この紫乃が親王妃の座に興味を示さぬはずがない。あれほどの気位の高い女が、並の男など眼中にないのだからな」「でも親王様……」無相は必死に諫めたが、燕良親王は自らの策略に酔いしれ、耳を貸す様子もない。どんな女でも、自らの操を粗末にはしまい。一度、身を任せてしまえば、後には引けなくなる。その時、王妃の座を約束すれば、誰よりも喜ぶに違いないと。さくらは既に親王邸に戻っていた。紅竹から紫乃が燕良親王邸を訪れたとの報告を受けた時、ちょうど村松碧との相談事を終えたところだった。一方、紫乃も親王邸に戻っていた。あの平手打ちの一件で、一瞬は溜飲が下がったものの、すぐに不安が込み上げてきた。自分のことではなく、玄武とさくらに迷惑がかかることを懸念していた。天皇陛下の密偵が燕良親王邸を監視していることは周知の事実だったからだ。さくらの姿を認めるや否や、紫乃は立ち上がって迎えに出た。「ごめんなさい、さくら。私、衝動的に燕良親王邸へ行ってしまって……きっと迷惑をかけてしまったわ」と、後悔の色を滲ませながら言った。さくらは紫乃を慰めるために急いで戻って来たのだが、むしろ紫乃の方が先に後悔の念を口にしていた。さくらは微笑みながら紫乃の腕に手を添えた。「燕良親王邸で大騒ぎでもしたの?」「沢村万紅を平手打ちしてしまったわ」紫乃は憂鬱そうに呟いた。「痛快だった?」さくらは目尻を下げて微笑んだ。「その時は良かったけど……玄武様とあなたに迷惑がかかりそうで」さくらは紫乃を椅子に座らせ、隣に腰を下ろした。そしてお珠を呼んで燕の巣のお椀を持ってこさせた。「好きにすれば良いのよ。たとえ面倒なことになったとしても、私たちで何とかできるわ」「そうは言っても……今回は本当に軽率だったわ」紫乃は顔を曇らせた。自分の感情をうまく制御できると思っていたのに、一瞬で理性が吹き飛んでしまった失態が悔やまれた。さくらは立ち上がって紫乃の背中を優しく撫でた。「土で作った人形だって
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一
さくらは使いを出し、薬王堂から紅雀を呼び寄せた。三姫子の額の傷は幸い浅く、出血もすぐに止まったため大事には至らなかった。だが、数日前からの発熱で体力を消耗していた上に、激しい動揺が重なり、今や心火が上って血を吐き、意識も朦朧としていた。目尻から絶え間なく涙が零れ落ちる。さくらが何度拭っても、まるで尽きることを知らないかのように流れ続けた。「どうですか、様子は?」紅雀が脈を取り終えると、さくらは尋ねた。紅雀は深いため息をつきながら答えた。「奥方様は数日来の高熱に加え、先ほど背中を叩いてみたところ、肺に異常が見られます。また、肝気の鬱結が著しく、気血が滞っております。これまでの投薬では力不足でした。まずは強い薬で肝気を清め、火を取り、肺気を整える必要があります。その後、徐々に養生していただきますが、これ以上の心労は厳禁です」そう言うと、紅雀はさくらを部屋の外に呼び出し、声を落として続けた。「肝血の鬱結が深刻です。これは明らかに心の悩みが原因かと。何か言えない事情を抱え込んでいらっしゃるのでしょう。自らを追い詰めているような……」さくらには察しがついた。親房甲虎の謀反事件に家族が連座するのではないかという不安だろう。賢一を棒太郎に武術の稽古をさせた時、玄武は「最悪の事態を想定しているんじゃないかな」と言った。最悪の事態を想定しているということは、きっと昼夜問わずその心配に苛まれているのだろう。「まずは薬を数服……」紅雀はそれ以上何も言わず、部屋に戻っていった。さくらは御城番の部下たちに、今日の出来事について一切口外無用と厳命した。他人が噂を流すのは別だが、御城番からの漏洩は絶対に避けねばならない。指示を終え、部下たちが立ち去った後、振り返ると夕美が柱に寄りかかっているのが目に入った。その目は泣き腫らして真っ赤だった。夕美は琉璃のように儚げな様子で、今にも砕け散りそうにさくらを見つめていた。「北冥王妃様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」鼻声で、完全に詰まった声だった。「どうぞ」さくらは応じた。夕美は嘲るような笑みを浮かべた。「伊織屋を開いて、女性の自立を謳っているそうですね。では伺いますが、私がしたことを男がしたとして……同じように非難されるでしょうか?むしろ、多くの女性に好かれる手腕があると褒められるのではありま
その言葉に、その場にいた全員が凍りついた。千代子に付き添ってきた親族たちも、香月自身も、その「子供」のことは知らなかった。特に香月は大きな衝撃を受け、よろめきながら二歩後ずさり、まるで磁器が砕けるように、その場に崩れ落ちそうになった。実は千代子も確信があったわけではなかった。薬王堂での一件の後、親房夕美の素性を探らせた際、ある医師と接触した。その医師は夫と親交があった。北條家での子供を何故失ったのかと尋ねると、医師は一つの推測を語った。以前の堕胎が原因で子宝に恵まれない体質になった可能性があるというのだ。医師は事情を知らず、婦人が子を失うのは珍しい事ではなく、堕胎後の養生が不十分だと不妊の原因になり得ると考えただけだった。千代子には、夕美と十一郎との間に子供がいたのかどうかを確かめる術がなかった。天方家への調査は及びもしなかった。全ては推測に過ぎなかった。しかし夕美の傲慢な態度に堪忍袋の緒が切れ、推測を事実のように突きつけた。事の真相を明らかにさせるための強烈な一撃のつもりだった。だが、その言葉を発した瞬間、三姫子と夕美の血の気が引いた表情を目にして、千代子は自分の推測が的中していたことを悟った。夕美は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。千代子の言葉が探りだったとは知らず、すべてが露見したと思い込んでいた。「やっぱり……」香月の頬を涙が伝う。「私の疑いは的中していた。ただの思い過ごしではなかった。あなたは夫に会いたかった。それだけの関係じゃなかった。子供まで……夫を探し出した理由は明らかよ。なのに夫も慎むことなく、あなたの愚痴を聞いていた。一番避けるべき立場なのに。そして破廉恥な二人が、私を非難した。私の取り乱しのせいで評判を落としたなんて……」夕美は溺れる者のように、死の淵に追い詰められたような絶望感に襲われた。村松光世の子を宿したと知った時と同じような……もう逃げ場はないと感じていた。あの時は三姫子が救ってくれた。夕美が三姫子を見つめた時、蒼白な顔をした三姫子は前のめりに倒れ込んだ。気を失ったのだ。さくらは咄嗟に駆け寄って支えようとしたが、間に合わなかった。三姫子は床に倒れ込み、額を打った。さくらが触れると、手は血に染まった。額と頬は異常な熱を帯び、全身が火照っていた。「医者を!早く医者を!」蒼月も三姫
夕美は目を泳がせ、座って話し合うことを頑なに拒んだ。冷ややかな声で言った。「あの時は、酒に酔って起きた過ちよ。私はあの人を十一郎さんだと思い込んでいただけ。でもあの人は正気だった。私が誰なのか分かっていたはず。だから、私にも非はあるけど、彼の方がずっと重い」「でも、夫は違うことを言っていました」香月は必死に涙をこらえながら、震える声で続けた。「あなたは酔っていたけど、正気だったと。彼が誰か分かっていて、名前も呼んだって」「嘘つき!」夕美は顔を赤らめ、一瞬さくらの方をちらりと見てから、大声で言い返した。「嘘よ!あの人に直接対質する勇気があるの?私が呼んだのは十一郎さんだわ!」さくらには裁きの経験こそなかったが、あれだけの時が経っても、夕美が十一郎の名を呼んでいたことを覚えていた。それは、彼女が村松光世と区別がつかないほど泥酔していなかった証だった。香月は一時、言葉を失った。しかし、その母である千代子は冷静さを保っていた。冷笑して言った。「泥酔していたはずなのに、誰の名を呼んだか覚えているのですか?酔っていても三分の意識があったということは、その人が十一郎さんでないことも分かっていたはず」「戯言を!」夕美は再び立ち去ろうとした。大勢の前でこの恥ずかしい話を蒸し返されて面目が立たなかった。織世が再び制止しようとすると、平手打ちを食らわせた。「生意気な!私を止める気!?」織世は頬を押さえながらも、一歩も退かなかった。「夕美お嬢様、話をはっきりさせてからお帰りになって」夕美の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。「私に何を言えというの?この件で一番傷ついたのは私よ。光世さんは得をしただけ。私がどれほどの代償を払ったか分かって?全て私が悪いというの?なぜ私ばかりを追及するの?彼を問い詰めに行けばいいでしょう」香月は次第に冷静さを取り戻してきた。「夫への問い詰めは当然やります。それはさておき、正直に答えてください。あの日、薬王堂に行ったのは彼に会うためだったのでしょう?私も調べましたよ。薬王堂に行く前から、北條守さんとの離縁を騒ぎ立てていた。もう一緒に暮らせないと思ったから、彼を頼ろうとしたのでは?」「雪心丸を買いに行っただけよ!」夕美は恥ずかしさと怒りで声を荒げた。「余計な詮索はやめて!」「彼は薬箪笥係ではなく、仕入れ係でしょう?雪心丸を買
三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果