それ故に、診療費用も公立病院よりもかなり高くなった。そのため、この時間帯の患者はあまり多くなかった。呼び出しを待っている間、下半身から何かが出てくる感じがした。「来依、生理用品を買ってきてくれる?」「また出血してるの?」河崎来依は顔を引き締め、椅子から立ち上がった。「今行く、何か急用があったら電話して、わかった?私が戻ってこないまで待ってて、どこにも行かないで」「分った」私は弱々しく頷いた。そうなる前は、つわり以外に、妊娠前とあまり変わらないと感じた。今さら気づいたけど、疲れ切っていて、余分な力がまったくなかった。「36番、清水南さん、三番診察室にお越しください」私はドアの前に座っていた。立ち上がって中に入り、報告書を医者に渡した。「先生、お願いですが、今日突然出血しました」「出血ですか?」医者は報告書を見て真剣な表情で頭を垂れ、コンピュータで操作をした。「前回の検査結果は問題ありませんでしたが、なぜ今日こうになったのですか?疲れすぎたのか、血行を良くする食べ物を食べたのか、または感情の波動が大きすぎて気持ちが抑うつになったのでしょうか?」私は手のひらをつねり、正直に答えた。「たぶん、今日は気分があまりよくありませんから」医者はこのようなことをよく見ているようだった。「1日気分が悪いだけではこんなに深刻ではありません。ご家族は?」「友達が買い物に行ってくれました……」「家族について聞いていますよ。夫はどこですか?」医者は真顔で言った。「妊娠しているのに、彼はあなたを怒らせるのですか?彼を呼んできて、妊婦の注意事項を伝えますから。妊婦が心地よい気分を保つことは基本です!そうでなければ、父親になる資格はありません!」「宏、私を支えて!妊娠しているよ!赤ちゃんは大丈夫だろうか?何日も検査に来ていないので、成長はどうなっているかわからないんだ」「江川アナ、少し静かにしてもらえる?」「どういう態度なの?私を怒ることは、私のお腹の赤ちゃんを怒ることと同じだよ。分かるか?」「妖怪を妊娠しているの?数週間で聴覚があったのか」江川アナと江川宏の声が、半開きのドアから聞こえてきた。この2人、なかなか消えないわね。「なぜ話しませんの?」医者は経験者の表情で言った。「あなたは、妊娠のことにつ
元々無表情で、頭を下げて携帯を弄っていた江川宏も、一瞬顔を上げてこちらを見た。私は隠れる場所がなく、ただ勇気を出して外に出るしかなかった。江川宏は微妙な表情を浮かべ、優しい声で言った。「なぜ病院に来たの?」さっき江川アナに対して冷たい口調とは全く違った。以前なら、少しの愛情を感じることができたかもしれなかった。今は嘲笑しかなかった。私が話す前に、江川アナはオフィスのドアに表示されている医師の紹介をちらっと見て笑い、意味深そうに言った。「どうしてこんな専門家を見に来たの?もしかしてHPVに感染したのか?それは私生活が乱れているから感染するものだよ」彼女は意図的に声を張り上げて嘲笑し、多くの人々の視線を引き、嫌悪の目で私を見た。私は逆に安心した。表示されている専門家を見て、交代のためかもしれないと気づいた。私が予約した医師ではなかった。また、私は妊娠しているが、まだ3ヶ月経っていないため、産科ではなく婦人科で診察を受ける必要があった。産科なら、私は今、何を説明しても無駄だった。江川宏はおそらく私の病歴を調べるために権限を使うだろう。私は軽くため息をついて、気持ちを整え、淡々と言った。「はい、女が一番怖いのは夫が浮気して不潔な女性と関係を持ち、汚いものを家に持ち帰ることだよ」「……」江川アナは歯を食いしばり、もう私とこのことで議論することはできなかった。「それなら、ここに何しに来たの?」私は笑って言った。「もう言っただろう、私は夫から感染した汚い病気を見に来たんだ」江川アナが私を睨んで、言った。「清水南、貴様…」「こんなにしゃべられるのか」江川宏の顔色は寒霜がかかったように陰鬱で、冷たく江川アナの言葉を遮った。江川アナは怒って、目が赤くなった。「何の意味?彼女が宏を罵ったのに、聞こえなかったのか?彼女を守る必要があるのか?」「彼が私の夫だと知っているね?」私はできるだけ冷静にして、怒らないようにしていた。わざとゆっくりと言った。「人前で他人の夫に絡むなんて、人に笑われるのを恐れないの?そうだ。病院で何をしているんだ。ちょうど中にいたときに子供のことを話しているのを聞いたような気がするが、もう子供がいるのか?」言葉が終わると、見物人たちの視線は私から江川アナと江川宏に一気に移った。場にい
それほど遠くない所から、私が聞き慣れた声が耳に入ってきた。 義父はカラフルなサングラスをかけ、柄シャツを着ていた。どうやらまたどこかの島から女の子を連れて帰ってきたようだ。若い頃から年を取っても遊び歩いている典型的な坊ちゃんだった。今はもう年季の入った坊ちゃんだ。江川アナは彼を見ると、瞬時に涙が雨のように流れ出した。「お父さん……やっと帰ってきてくれた。ううう、私いじめられて死にそうだったのよ」「江川宏がおまえをいじめたのか?」義父はサングラスを頭の上にかけ、江川宏を見つめて言った。「何度も言っただろう、アナをちゃんと守ってやれって。たった二日間留守にしただけなのに、アナがなぜ病院に来たんだ?」……私はイライラしていたから、この隙にさっさとこの場を去ってしまいたいと思った。しかし、義父は突然私の存在に気づき、満足げに笑って言った。「南か?君も来ていたのか」「お義父さん」失礼にならないように、挨拶をしておいた。私の目に映る義父は、江川宏にとって決して出来た父親とは言えなかった。義父は頷きながら言った。「おまえ達はちゃんとアナを大切にしないとな。そうすべきだ」「……」江川アナには臆面もなくまくし立てることができた。しかし、義父はやはり年上だ。「用事があるので、先に失礼します」と言うしかなかった。江川宏はそれを聞くと、江川アナを義父に押し付け、冷たく言った。「戻ってきたんだから、彼女を頼む」そう言い終わると、私と一緒にその場を去ろうとした。「宏!」江川アナは血相を変えて叫んだが、江川宏は素知らぬ顔をして、私の後を追ってエレベーターへと向かった。私は子供を気にかけてゆっくり歩いていて、彼もそれに合わせて歩いてくれた。エレベーターの前まで来ると、私は初めて彼に振り返り尋ねた。「午後時間ある?」私達にとって、さっさと問題を解決してしまうのが一番だと思った。彼は私からデートに誘われるのかと期待したようで、黒い瞳がキラキラと輝いた。「あるよ。どこに行きたい?」「役所に行きましょう」そうよ。デートよ。行き先は役所だけど。離婚手続きをするためにね。今は一ヶ月ある離婚冷却期間中。この冷却期間が終わる頃にはお爺さんの傘寿祝いはとっくに過ぎている。その時には、スムーズに離婚
私は意気消沈した。彼と目を合わせることがほとんどできず、医者が何か余計な事を言い出すのではないかと心配していた。そうなれば全て終わりだ。私が先に口を開き「先生、彼は今日私と一緒に来たのではなく、他の女性の検診に付き添ってきたんです」と言った。江川宏は低く落ち着いた声で「彼女のために来たわけじゃない」と言った。「でも、あなたがここに来た事実は変わらないでしょ?」私は原因や経緯について深く考えたくなかった。浮気に気づいた時、誰も自分の夫がなぜ他の女性と関係を持ったのかなんてどうでもいい事だ。ただ、夫が自分を裏切ったことだけにこだわるだろう。それが酔っ払ったせいなのか、あるいは計画的なものなのか、本質的な違いなどない。一度ついた汚れはきれいに洗い落とせない。どんなに立派な言い訳があっても、シタ夫である事には変わりないのだ。江川宏は何も言わず、凝視して「今日は病院に何しに来たのか、俺はまだ知らない」と言った。「言ったわよね……」「適当にごまかすなよ」彼は冷たく声を荒げた。どうしてもその理由を知らなければならないようだ。エコー検査の医者はまだその場にいて私に「夫人、どこか具合でも?」と尋ねた。私からは何も聞き出せないと分かり、江川宏は尋ねる相手を変えて言った。「先生、私の妻は検査で何か問題でもあったんですか?」「先生……」私は緊張してギュッと手を握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。背筋が凍りそうだった。しかし、江川宏の鷹が獲物を狙うような視線の前では、何も言えなかった。心臓がバクバクと止まらない。医者に彼には伝えないでほしいと懇願して見つめる事しかできなかった。離婚後、彼から遠く離れて、子供を一人で育て、良い母親になりたいだけだけだった。安らかな日々を壊されたくなかった。自分の子供を失うなんてなおさらだ。子供が無事に生まれても、江川家のような家柄の人達が、自分の血が繋がった子供を手放すはずがないだろう。お爺さんが私にどれだけ良くしてくれると言っても、それには条件がある。ひ孫を一族の中に入れたいと思うのは当然のことだ。思いもよらず、あの日、子供のために我慢するようにと繰り返し言っていた医者が口を開いた。「うーん、少し問題がありますが、大したことではありません。子宮内膜ポリープがいくつ
彼は微かに驚いた。「会社のこと、お前は……知っているのか?」「ええ、今日知ったばかりだけど」私は軽く肩をすくめようと思ったが、力が全く入らなかった。「だから、あなたがした選択を変える気はないんでしょ?」彼が江川アナを再び注目させることを惜しむわけがない。やはり、彼の表情は少し硬くなった。「彼女の子供の状況は楽観視できないんだ。刺激を与えるわけにはいかない。でも、安心してくれ、状態がよくなったら、もう君に不快な思いをさせないから」「……」本当にその上辺だけの空っぽの話を聞いて、数十年先まで失望してしまうわ。悲しみを抑え、がっかりした表情で彼を見つめた。「じゃあ、私がもし妊娠して彼女よりもさらにひどい状況だったとしたら?」ここに立っている一分一秒、下腹部の痛みと下半身の湿りを感じた。だが、私の夫は彼の想い人が刺激に耐えられないからといって、私には我慢しろと言うのだ。つまり私には元々全く価値のない人間だから、我慢するしかないというのか。江川宏は身体を微かに硬くし、すぐに苦笑いを浮かべて言った「お前も彼女と同じように幼稚になったのか?」「何ですって?」「安全日以外の日にゴムなしでやったことがあるか?お前が妊娠なんてするわけないだろ」突然、どこからともなく冷たい風が吹き込んできて、骨までその寒気が沁みるのを感じた。私の心臓は震え、声もかすれていた。「あなたはただの一度も私達に子供ができるって思わなかったの?」彼は眉をひそめて言った。「お前、子供がほしかったのか……」「もういいわ」私は突然自分の感情を抑えられなくなり、冷たい声でスパッと切り捨てた。「時間があるって言ったわよね、午後さっさと手続きを済ませましょ」江川宏は瞬時に顔を曇らせて言った「時間がなくなった」「今日時間がないなら、明日にしましょう」私は唇を噛みしめ、ゆっくりと口を開いた。「明日の午後、役所の前で待ってるわ」「それなら、昼、どうしても離婚するっていうなら最後の晩餐といこうじゃないか」彼は視線を下にし私を睨みつけた。泣きそうになりながら、私は首を振った。「どうせ別れる身、思い出なんてこれ以上必要ないわ」言い終わると、エレベーターのドアが開いた。私は彼をもう一度見る勇気もなく、後ろを向きエレベーターに乗り込んだ。……
私は一瞬驚いて、無意識に江川宏を見た。彼はいつものように態度を崩さず、優しそうにしていた。私を腕に抱きしめているその様子は、確かに離婚しに来た二人には見えなかった。ロビーの床は乾いていた。私は彼の手をそっと離し、唇を噛んで言った。「違います、私たちは離婚しに来たのです」「あ……」職員は少し残念そうに言った。「二人が一緒になるのは簡単ではないですよね。お二人の関係は良さそうなのに、本当に離婚なさるのですか?離婚はやはり慎重にならないと、衝動的にすると後悔されます。一度亀裂が生じると、再び修復するのは難しいですからね」私は視線を下に向け、力なく言い返した。「順序を逆にされているかもしれませんが、亀裂は離婚の結果ではなく、亀裂が生じたからこそ離婚に至るのです」よほど追い詰められない限り、どの夫婦も離婚したいとは思わないだろう。職員はもう説得しないで言った。「そうですか、ではあちらへどうぞ。こんな天気ですので、人もほとんどいません。どの窓口でも構いませんよ」「ありがとう、お願いします」お礼を言った後、一番近い空いている窓口に座った。「こんにちは、離婚の手続きをお願いします」「手続きの書類はお持ちですか?」「持ってきました」私は身分証明書、結婚証明書、戸籍謄本を一緒に提出し、その後、立っている江川宏を見た。「あなたのは?」彼はぼんやりしていたが、声が聞こえてやっと反応した。完璧な美しい顔には、暗く不明瞭な感情が渦巻いていた。「持ってきたよ」声がなんとなくかすれていた。「こちらにお願いします」職員は手を差し出したが、江川宏は全く動かなかった。ファイルケースを握っている手に青筋が浮かび、動く気配がなかった。私は我慢できずに彼を急かした。「江川宏?」「ああ」彼は軽く応えた。目の奥に微かな悲痛の色が閃いた。しかし、最終的に私に急かされて、ファイルを手放した。職員は眉をひそめて言った。「お二人は本当に離婚を望まれていますか?」「はい」私は迷うことなく答えたが、隣の人は何も言わなかった。職員は江川宏を見つめて言った。「男性の方はどうですか?もしもまだよく考えていないのなら、家に帰って再度話し合ってください」「彼もよく考えました」私は穏やかに言った「この結婚証明書を私が持っている限り、い
彼は微かに驚いて「なぜ知っている?」と言った。結婚生活が終わりに近づいて、何も言い訳する必要はない。私は率直に言った。「あの日、あなたとお爺さんがオフィスで話しているのを、私はドアの前で聞いていたの。その時、あなたは私に対して何の感情も持っていないと認めた事も聞いたわ。実は、この結婚は最初から最後まで間違っていたのでしょうね」「違うよ」彼は迫られたように否定し、眉をひそめて考えを巡らせ「俺が認めたのはその質問に対してじゃないよ。君は誤解している……」と説明した。今の私に言い争いをする必要なんてなかった。彼をじっと見つめながら、淡々と笑って言った。「それなら、私を愛したことはあるの?」「……」江川宏は一瞬驚いた。これは彼にとって酷な質問だったかもしれない。「南……」「説明する必要はないわ、私が可哀想に見えるでしょ」私は何事もない様子で笑って言った。「加藤伸二に私が渡した離婚協議書を持ってこさせて。将来、あなたは他の人と結婚するでしょう、ここに書いてある株の財産分与は適切ではないわ……」彼は突然力強い声を出し、真面目な顔つきではっきりと言い切った。「俺は結婚なんかしない」私のまつげがぴくりと震えた。「それは……あなたの問題でしょ。とにかく、この株は私が持つには妥当じゃないわ」私は自分がそんなに悟った人間じゃないということはよくわかっていた。長年愛した人なのだから、離婚したら、再会するのは不適切だろう。時間に任せるのは、過去の傷跡を消す事であって、古傷をえぐる事ではないはずだ。それに、江川アナがこの株のことを知りでもしたら、私は安心して日々を過ごせないだろう。関係を断つと決めたのなら、その後には何も起こらないようにキッパリと切ってしまわないと。「俺に関わることをそんなに恐れているのか?」江川宏は顔を沈め、腕時計をちらりと見て、薄い唇をギュッと引き締めた。「俺には残り5分しかない。署名したくないなら、次回にしないか」「今すぐ署名します」私は歯をギリッと噛み、素早く自分の名前を空いている箇所に署名した。手こずったとしても、必ず解決法は見つかるものだ。最優先させることはこの手続きを今すぐ終わらせることだ。窓口に戻ると、職員は他の書類をチェックし終え、離婚協議書を再び見返した。確認が終わり
「後悔するのがそんなに心配?」彼ははっきりしない声で「でも、俺は君が赤の他人扱いしてきそうで、それがもっと心配だな」と言った。周りはとても寒かったが、彼の抱擁は昔と変わらない温度でとても暖かく感じた。彼の言葉に私は驚き動揺した。ハッとした時には、彼はもう車のドアを開けてくれていた。私が乗った後、振り返らずに去っていった。雨のカーテン越しに、彼のスラリと高いその背中がびっしょり濡れているのが見えた。胸の中は何万匹もの蟻に食い荒らされてしまったかのように、空っぽになっていった。結婚というのはこんなにあっさりと終了してしまうものなのか。30分ほどの時間を空けておくだけでいい。役所に行って書類を提出し、署名するだけだ。1ヶ月後、再び時間を作って役所に行く。二人の考えが変わらなければ、婚姻証明書と形は同じの離婚証明書をもらえるのだ。今までの全てがこうしてバッサリと断ち切られてしまうのだった。かつて同じベッドで寝て、共に生きてきたことがまるで夢のようだ。もちろん、そうなる条件は江川宏が約束を破らなければ、という話なのだが。河崎来依の家に戻った時、私がドアを開けるよりも早く彼女がドアを開けた。「帰ってきたの?」「うん」私は軽く笑って、何事もなかったかのような態度をとった。彼女は私が家に入り、スリッパに履き替えるのを静かに見つめ、恐る恐る口を開いて言った。「江川宏からメッセージが来たの。あなたたちは……本当に離婚するんだよね?」「そうだね、もう申請したし、1ヶ月後に離婚の証明書を受け取る予定だよ」私はコートを脱ぎ、髪を頭の後ろに適当にまとめて、一つに結んだ。「彼からメッセージって、何を言ってきたの?」彼女はためらいながら口を開いた。「私にこの一ヶ月間あなたのことを任せたよって」「まさか私が飛び降りるとでも心配しているの?」私は自虐的に言った。「彼にあまり考えすぎるなって伝えて。私一人いなくなったところで、地球は変わらずに回り続けるわよ」「違うよ」河崎来依は否定し、眉間に皺を寄せて考えながら言った。「私はこの言葉に何か別の意味があるような気がする。彼は本気で離婚するつもりかしら? ただ今だけ一時的に対応してるだけなんじゃ。離婚の冷却期間中に一方が申請を取り下げれば離婚できなくなるから」「