私達は嫌な静けさをかき消そうと、全く同じタイミングで声を発した。思わず見つめ合い、苦笑いする。「すみません、先生からどうぞ」「あ、ああ。ごめん、じゃあ……藍花ちゃん、体調は大丈夫?元気かな?」まずは私の体を心配してくれる七海先生。こういうところは相変わらず優しくて紳士的だ。「ありがとうございます。いつもと変わらず元気にしてます」「そっか、それなら良かった。安心したよ」七海先生は、ホッとしたように一息吐いてから微笑んだ。その顔を見たら、本当に心配してくれていたんだとわかった。「七海先生がいなくなって、病院のみんな寂しがってますよ。患者さん達も『七海先生はいないのか?』って。みんなで先生の存在の大きさを改めて感じてます。それでも産婦人科の看護師さん達は、新しい先生と一緒に毎日頑張ってますよ」「有難いね、僕のことを覚えていてくれて。でも、あの先生は素晴らしい人だから。僕も父も以前から良く知っててね。今回は彼女を是非にと松下院長に紹介させてもらったんだ。腕は確かだし、志も熱いしね」「そうだったんですね。本当にすごく前向きで良い先生だってお聞きしました。またいろいろお話ししてみたいです」「彼女、喜ぶよ。藍花ちゃんみたいな可愛い人が話しかけてくれたら。きっと勉強になると思うし、機会があれば本当に話しかけてあげて」七海先生は、さっきからずっと私だけを見つめて微笑んでくれている。少し離れたテーブルに座っている若い綺麗な女性達がずっと先生のことを見ているのに、熱い視線は気にならないのだろうか?他のテーブルにいる女性だって、チラチラこちらを見ているのに、視線を向けようともしない。きっと、気配は感じているはずなのに。普通の男性なら女性に見つめられたら嫌な気はしないと思う。でも、七海先生はずっと私だけを見てくれている。全く目を逸らさずに、にこやかに。「あの……七海先生」優しい眼差しの先生に、今から言うことはとても残酷なことかも知れない。それでも私は、今、このタイミングで切り出さなければならないと思った。
「うん」何かを覚悟したような返事、少し顔が強ばったような気がした。私の中に緊張が走る。「七海先生に、この前のお返事をさせていただきたいと思っています」「……だよね。でも不思議だね、藍花ちゃんの返事を待っていたはずなのに、今はあまり聞きたくないと思ってる。そう思うのは何故かな……」「先生……」「ごめん。大丈夫。聞かせてくれるかな?」自分に言い聞かせるような言葉に、申し訳ない気持ちが溢れる。「あの、私……。七海先生から告白してもらった時は、本当に自分の気持ちがわからなくて迷っていました。でも、それから、すぐに自分の気持ちがわかった……というか、素直になれたというか……」何を言ってるのか、ドキドキし過ぎてよくわからない。でも、大丈夫、キチンと伝えなければ……私自身も自分に言い聞かせ、話を続けた。「あの、私……」上手く言おうとして言葉がもつれる。私は急いで呼吸を整えようとした。「藍花ちゃん、大丈夫だよ。ゆっくりでいいから。落ち着いて」きっと顔が引きつっているだろう。こんな素敵な場所で、みっともない姿を晒しているかも知れないと思うと情けない。私は、意を決して、七海先生を見つめた。「すみません。私……他に好きな人がいます」それだけ言って目をギュッと閉じる。七海先生の顔が……見れない。膝の上でギュッと手を握りしめ、体中に力が入った時、私の頭の上に大きな手のひらが触れた。「えっ……」ハッとして目を開ける。すぐ近くに先生の顔がある。すごく穏やかで優しくて、魅力的な笑顔が。その瞬間、胸がキュンとして泣きたくなった。「それは白川先生だね」七海先生に名前を先に出されて、言葉が出てこなくなる。「今、藍花ちゃんの顔を見て確信したよ。君は、本当に……白川先生が好きなんだって」「先生……」「彼はやっぱりモテるね。大学時代と変わらない。うらやましいよ」「……」「2人はもう付き合ってるのかな?」「……はい」そう言った瞬間、先生は眼鏡の奥の瞳をゆっくりと閉じた。「……そっか、わかった。なら、僕は藍花ちゃんにフラれたってことだね」「……」いったいどういう風に答えればいいのだろうか?「覚悟してたよ。ちゃんと覚悟は決めてたんだ。でもやっぱり……つらいんだね、大好きな人にフラれるのって。初めてだよ、こんなに胸が苦しいのは。君には他
「おはようございます、前田さん。どうですか?傷口痛みますか?」「あっ、蓮見さん、おはようございます。ええまあ、傷はずいぶん良くなったと思います」病室の窓から穏やかな秋の朝日が優しく差し込む。今日も、看護師としての1日が始まる――私の名前は、蓮見 藍花(はすみ あいか)、24歳。160cm、自分では普通の体型だと思っているけれど、たまにスタイルいいねって……恥ずかしいけど褒めてもらえる時がある。看護師である以上、常に笑顔は心がけていて、化粧もあまり派手にならないようナチュラルにしている。茶色でボブスタイルの髪型は、昔からあまり変わっていない。「おはようございます。前田さん、傷口、どうですか?」「ああ!白川先生。おはようございます」病室に後から入ってきたのは、我が「松下総合病院」の外科医、白川 蒼真(しらかわ そうま)先生。白川先生は、前田さんの主治医だ。まだ若手の先生だけど、周りからの信頼はとても厚く、医師としての腕はかなり評判がいい。いづれはこの病院のエースになる人だ。老若男女を問わず、患者さんにダントツ1番人気の理由は、腕が良いだけでなく、超イケメンな美しい顔と、このモデルのようなスタイルも関係しているだろう。180cmで細身、髪型はアッシュグレーのナチュラルショート。前髪は少し長めのセンターパートで、前髪からサイドに流れをつけている。整えられた眉に二重で切れ長の目。艶のある大人っぽい薄めの唇、高い鼻。その端正な顔立ちに、初めて見た人はみんな驚く。あからさまに赤面する人や、急にお喋りになる人、逆に恥ずかしくて緊張してしまう人……女性なら興味をひかれるのは仕方がないだろう。私だって、最初は「こんな素敵な男性が世の中にいるんだ」と、とても驚いたから。学生時代にオシャレ雑誌のモデルも経験済みらしいけれど、そんな華やかな世界には進まずに、医師になるなんて、少しもったいない気がした。
イケメンだからといって、決してチャラチャラしているわけではなく、全身から溢れ出す清潔感は洗練された上品さがある。とにかく、29歳とは思えないしっかりさんで、いろんな意味で「無敵な外科医」なんて呼ばれている。「白川先生、ありがとうございます。少し頭痛があって……」「じゃあ、頭痛薬出しておきますから飲んで様子を見て下さいね。頭痛、つらかったですね。何かあったら看護師に言って下さい。我慢はいけませんよ」白川先生は、前田さんに優しい笑顔を向けた。「ありがとうございます。なんだか毎日不安ばっかりで……。でも、先生がそう仰って下さると安心できます」そう言って、前田さんは嬉しそうに何度も頭を下げた。白川先生のこういうところは、本当にすごいと思う。温かい言葉から、患者さんへの優しさが伝わってくる。私達は、前田さんに一礼をして部屋を出た。「蓮見」「は、はい!」白川先生に苗字を呼ばれてビクッとした。「患者さんが不安になるから、もう少し笑顔でいろ。前田さんは特に今不安な時期なんだ」「は、はい。すみません、気をつけます」私は、腰を90度に曲げて謝った。たまにこうして注意されるせいか、白川先生は私にとってかなり怖い存在だ。患者さんに対して普段はニコニコできるのに、白川先生が隣にいると急に萎縮してしまう。早く先生に慣れないと……とは思っているけれど、今はまだ苦手なままで改善できずにいる。「先輩からもっとしっかり学ぶんだ」「はい……本当にすみません」「どんなことがあっても、患者さんのことを1番に考えろ。お前の気持ちを患者さんに押し付けるな。誰が1番つらいのか。手術して自分の病気と必死に向き合ってる人の気持ちを想像するんだ。その心を癒せるのは御家族と俺達しかいない」「はい!」本当にその通りだ。何も間違ってはいない。白川先生が怖いとか、そんなこと、患者さんには全く関係ないことだ。なのに私は……きっと、まだ未熟過ぎて自分の気持ちが前に出てしまっているのだろう。患者さんの気持ちに寄り添えないなんて、本当に情けない。
私達、看護師の仕事は四六時中気が抜けない。患者さんの容態が急変しないよう常に気を配らなければならないし、早朝だろうが夜中だろうが呼ばれたらすぐに駆けつけなければならない。「今日も何も無く、無事に1日が終わった」……そう言える日が本当に嬉しい。だけどもちろん、そういう安堵の日ばかりではなく、悲しいことが起こる時もある。今まで何人の患者さんを見送ったかわからない。せっかく親しくなったのに、お別れをしなくてはならないことが本当につらい。悲しくてどうしようもなく不安になることもある。日々、喜んだり落ち込んだり、色んな感情の波が押し寄せてくる。私はずっと看護師になりたくて、大学で4年間の勉強を終え、2年前に国家試験を受けて看護師資格を取った。その資格を得るために、様々なことを大学で必死で学んだけれど、実際の現場は想像以上に過酷だった。決して甘くない世界だと何度も自分に言い聞かせながら仕事に就いているけれど、現実は「リアリティショック」というギャップに苦しんで、看護師を早々に止めてしまう人も少なくない。実際、私の周りでも数名辞めている。理想と現実との壁はかなり厚く、そういったことをなくすため、国の方針として新人看護師研修を行っている病院が増えている。
プリセプターシップ――ある程度経験を積んだ看護師が、新人看護師と一緒に患者さんの看護をし、その技術、対話方法、そして、こちら側の自己管理に至るまで様々なことを教える。新人看護師は、その先輩の姿を見て学び、習得していく。これによって、いろんな悩みを1人で抱えずに頑張っていけるようになる――それが、理想とされる形。最初の頃は、私も先輩と一緒に看護をしていたし、今でも看護師同士、励ましあったり切磋琢磨したり、向上心を持って取り組んでるつもりだ。自分は人の命に関わる大切な仕事をしてるんだ――と、少しづつ実感しながら、ひたすら目の前の患者さんに真摯に向き合っている。なのに、実際はまだまだダメな新人看護師。白川先生にだけは緊張してしまう。白川先生が怖いから……とか、そんなことを言ってる場合ではないのだけれど。きっと私……先生には完全に嫌われているに違いない。何度も同じことを言わせているし、しかも、私だけ、なぜか「さん」付けではなく「蓮見」呼ばわり。きっと好かれてない……のだろう。この関係は、良くはならないまま続いていく気がする。こんな雰囲気に周りも何か感じているだろうし、本当に落ち込んでしまう。早く1人前になりたいけれど、この分だとあと何年かかるかわからない。「藍花ちゃん、前田さん大丈夫だった?」「はい。頭痛があるそうで、白川先生が頭痛薬を処方してくださったので、薬局さんにお願いしました」「良かった~。前田さん、手術後で気持ちが少し不安定だから、私達がしっかり気を配らないとね」
そう言ってニコッと笑うのは、私が信頼する看護師長の中川 百合子(なかがわ ゆりこ)さん。うちの病院のベテラン看護師。明るくて優しい、みんなをまとめてくれるとても頼れる先輩だ。いつも髪をアップにしていて、「最近太ってきた」と気にしてるのが可愛い。中川師長は、私のひとつ年下の男性看護師である来栖 歩夢(くるす あゆむ)君の伯母さんにあたる。「歩夢。山下さん、今日シャワーしてもらってね」「はい、準備します」中川師長は、ハキハキ返事をする甥っ子の歩夢君をいつも嬉しそうに見守っている。たぶん、独身だから自分の子どもみたいに可愛いのだろう。歩夢君は優しくてすごく良い子、ナースステーションの癒しのキャラクターのような存在。看護師や患者さんにも人気があるイケメン君で、黒髪ショートの無造作ヘア、オシャレな枠細めの黒縁メガネをかけてる。逆三の輪郭で顔が小さい。少しだけ太めの眉に二重の瞳、男子なのにキュートな雰囲気がある。なのに、175cmの細身で足も長く、スタイルも良いせいで、男性らしさもしっかりある。こんな性格良し、見た目良しの23歳がモテないがわけない。「藍花さん、大丈夫ですか? 手伝いましょうか?」「大丈夫、大丈夫。ありがとう」歩夢君は、いつも周りを気遣える人だ。お母さんも看護師さんで、きっと優しい人なんだろうと想像できる。いつか私が母親になれるとしたら、歩夢君みたいな素直な子が育つ方法を教えてもらいたい。「この前眠れなかったって言ってたから、ちょっと心配してました。疲れが溜まってるかも知れないんで、何かあったら何でも言って下さいね」そう言って、笑顔で私を見る歩夢君。こんな顔で微笑まれたらちょっとキュンとする。
私だけじゃない、きっとみんなが歩夢君の天使みたいな笑顔に支えられて元気をもらってる。新人1年目なのにすごいな……と感心する。だけど、いつも人のことばかり気にかけている歩夢君が疲れてしまわないか、心配になるのも事実だ。「ありがとう。でも全然大丈夫だよ。本当に私、歩夢君に心配かけちゃってダメな先輩だよね。もっとしっかりしなきゃね」白川先生にいろいろ言われて落ち込んでいるせいか、つい後輩の前でネガティブな言葉が出てしまった。「藍花さんはしっかり頑張ってますよ。いつも見てて思います。患者さんの目線に立って考えたり話したりしてるなって。誰にでも細かく気配りもできるし、優しいし、僕はそんな藍花さんからいっぱい学んでます。本当に尊敬してるんです。それに……」勢いよく話していた歩夢君の言葉が急に止まった。「歩夢君……?」「あ、いや、すみません。ちょっと喋りすぎましたね。山下さんのシャワーの時間なんで声掛けてきます。藍花さんも頑張って下さいね!」右手を上げて、ニコッと笑う歩夢君。「ありがとう」私も笑顔でそれに答えた。歩夢君、いったい何が言いたかったのかな?「私も落ち込んでる場合じゃない、頑張らなきゃ」、私は心の中で静かに自分を鼓舞した。ナースステーションの動きは慌ただしい。私達の仕事は夜勤もあるし、かなり大変だ。だけど、人間関係を大事にしながら、みんなで声を掛け合って励まし合いながら頑張っている。優しい歩夢君にも随分助けてもらって、もちろん中川師長はじめ、他の看護師達にも支えられて、私はすごく良い環境で仕事ができている。まだまだ先は長い。一喜一憂ばかりでいろいろあるけど、やっぱり前を向いて元気に進みたい。私は、改めてみんなに感謝した。
「うん」何かを覚悟したような返事、少し顔が強ばったような気がした。私の中に緊張が走る。「七海先生に、この前のお返事をさせていただきたいと思っています」「……だよね。でも不思議だね、藍花ちゃんの返事を待っていたはずなのに、今はあまり聞きたくないと思ってる。そう思うのは何故かな……」「先生……」「ごめん。大丈夫。聞かせてくれるかな?」自分に言い聞かせるような言葉に、申し訳ない気持ちが溢れる。「あの、私……。七海先生から告白してもらった時は、本当に自分の気持ちがわからなくて迷っていました。でも、それから、すぐに自分の気持ちがわかった……というか、素直になれたというか……」何を言ってるのか、ドキドキし過ぎてよくわからない。でも、大丈夫、キチンと伝えなければ……私自身も自分に言い聞かせ、話を続けた。「あの、私……」上手く言おうとして言葉がもつれる。私は急いで呼吸を整えようとした。「藍花ちゃん、大丈夫だよ。ゆっくりでいいから。落ち着いて」きっと顔が引きつっているだろう。こんな素敵な場所で、みっともない姿を晒しているかも知れないと思うと情けない。私は、意を決して、七海先生を見つめた。「すみません。私……他に好きな人がいます」それだけ言って目をギュッと閉じる。七海先生の顔が……見れない。膝の上でギュッと手を握りしめ、体中に力が入った時、私の頭の上に大きな手のひらが触れた。「えっ……」ハッとして目を開ける。すぐ近くに先生の顔がある。すごく穏やかで優しくて、魅力的な笑顔が。その瞬間、胸がキュンとして泣きたくなった。「それは白川先生だね」七海先生に名前を先に出されて、言葉が出てこなくなる。「今、藍花ちゃんの顔を見て確信したよ。君は、本当に……白川先生が好きなんだって」「先生……」「彼はやっぱりモテるね。大学時代と変わらない。うらやましいよ」「……」「2人はもう付き合ってるのかな?」「……はい」そう言った瞬間、先生は眼鏡の奥の瞳をゆっくりと閉じた。「……そっか、わかった。なら、僕は藍花ちゃんにフラれたってことだね」「……」いったいどういう風に答えればいいのだろうか?「覚悟してたよ。ちゃんと覚悟は決めてたんだ。でもやっぱり……つらいんだね、大好きな人にフラれるのって。初めてだよ、こんなに胸が苦しいのは。君には他
私達は嫌な静けさをかき消そうと、全く同じタイミングで声を発した。思わず見つめ合い、苦笑いする。「すみません、先生からどうぞ」「あ、ああ。ごめん、じゃあ……藍花ちゃん、体調は大丈夫?元気かな?」まずは私の体を心配してくれる七海先生。こういうところは相変わらず優しくて紳士的だ。「ありがとうございます。いつもと変わらず元気にしてます」「そっか、それなら良かった。安心したよ」七海先生は、ホッとしたように一息吐いてから微笑んだ。その顔を見たら、本当に心配してくれていたんだとわかった。「七海先生がいなくなって、病院のみんな寂しがってますよ。患者さん達も『七海先生はいないのか?』って。みんなで先生の存在の大きさを改めて感じてます。それでも産婦人科の看護師さん達は、新しい先生と一緒に毎日頑張ってますよ」「有難いね、僕のことを覚えていてくれて。でも、あの先生は素晴らしい人だから。僕も父も以前から良く知っててね。今回は彼女を是非にと松下院長に紹介させてもらったんだ。腕は確かだし、志も熱いしね」「そうだったんですね。本当にすごく前向きで良い先生だってお聞きしました。またいろいろお話ししてみたいです」「彼女、喜ぶよ。藍花ちゃんみたいな可愛い人が話しかけてくれたら。きっと勉強になると思うし、機会があれば本当に話しかけてあげて」七海先生は、さっきからずっと私だけを見つめて微笑んでくれている。少し離れたテーブルに座っている若い綺麗な女性達がずっと先生のことを見ているのに、熱い視線は気にならないのだろうか?他のテーブルにいる女性だって、チラチラこちらを見ているのに、視線を向けようともしない。きっと、気配は感じているはずなのに。普通の男性なら女性に見つめられたら嫌な気はしないと思う。でも、七海先生はずっと私だけを見てくれている。全く目を逸らさずに、にこやかに。「あの……七海先生」優しい眼差しの先生に、今から言うことはとても残酷なことかも知れない。それでも私は、今、このタイミングで切り出さなければならないと思った。
「私はまだまだこれからですよ。深月総支配人はもうご立派です。いつもアドバイスをいただいて感謝しています」「こちらこそ七海様には感謝しております」そう言ってから、総支配人さんは私を見た。その美しい顔立ちには女性である私でさえドキッとする。「では、蓮見様。これで失礼致します」「あっ、はい。お声がけをいただいてありがとうございました」「七海様から『明日は大切な人と伺います』とお聞きしておりましたから。本日はお会いできて光栄でした」「た、大切な人……?」七海先生はそんな紹介の仕方をしたのか?まさかこんな私を彼女や結婚相手と間違えることはないと思うけれど……「七海様の大切な方なら私どもにとっても大切なお客様です。またいつでもグレースホテル東京にお越し下さい。お待ちしております」総支配人さんの笑顔が眩し過ぎて照れてしまう。すぐ近くに超ド級のイケメンが2人もいて、その間に挟まれている私はいったい何者なのかわからなくなる。どちらからも良い匂いがするうえに、モデルみたいにキラキラ輝いてる人達と一緒にいるこの状況には全く現実味を感じられない。「あっ、はい、すみません。お気遣いありがとうございます」確かに、昔から憧れていたこのホテルにはまた来たいと思う。だけど……これから先、七海先生と一緒に来ることは二度とないんだ。大切な人だと紹介してくれた先生の想いを考えると、急に胸が苦しくなった。私達は総支配人と別れ、ラウンジに向かった。静かな時間が流れる素敵な空間の奥の席に座り、飲み物を注文する。数分して、七海先生の前にはブラックのコーヒーが運ばれ、私は気持ちを落ち着かせるために温かい紅茶を選んだ。上品で可愛いカップに口をつけ、ゆっくりと1口。とても美味しくて癒された……のもつかの間、なぜか少しの沈黙に気まずい空気が流れた。
グレースホテル東京――要人も利用する世界的に有名な最高級ホテル。待ち合わせの場所を聞いて少しはオシャレをしてきたつもりだけれど、これでは七海先生と全然釣り合わない。見た目の違いに恥ずかしさを感じながらも、このホテルには1度来てみたかったから、宿泊は無理でも、ラウンジでお茶を飲めるだけで満足だった。「藍花ちゃんにそう言ってもらえて良かった。僕はここのホテルがとても好きでね。子どもの頃からよく利用してるんだ」子どもの頃からよく……やはり七海先生もとんでもないお金持ちだ。こんな一流ホテルを何度も利用できるなど、生活レベルがあまりにも違い過ぎて驚く。本当にうらやましい限りだ。「私は七海先生とは違って初めてで……。だから、先生からここで待ち合わせと聞いて、かなりテンションが上がってしまいました」幼稚なカミングアウトをしている自分が恥ずかしい。「そうだったんだね。それを聞いて安心したよ。待ち合わせ場所、どこが良いのかずいぶん悩んだんだ。僕はここのホテルに来るとホッとするから……だから、ぜひ藍花ちゃんにも良さを知ってもらえたと思って。格式高いホテルだけど、飾らずにとても温かく迎えてくれるんだよ」「そうなんですね。本当に、先生のおかげでこんな素敵なホテルに来ることができて嬉しいです。ありがとうございます」「いらっしゃいませ、七海様」えっ、だ、誰?!私は、突然現れた謎の超イケメンに目を疑った。「こんばんは。深月(みつき)総支配人」総支配人さん……?こんなにカッコ良いホテルマンは今まで見たことがない。「蓮見様も、よくいらして下さいました。七海様から伺っております」「えっ、あっ、はじめまして。とても素敵なホテルですね。さっきからずっと感動しています」「お褒めいただきありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごし下さい」「あっ、はい。ありがとうございます」「七海様。最近は少しご多忙なようですね」総支配人さんは、七海先生に話しかけた。この2人のツーショットはかなり目を引く。「はい。最近、父の病院で働くことになって、まだまだ全然慣れなくて……今は毎日必死です」七海先生は苦笑いした。「お父様も先日いらして下さりお聞きしました。七海様と一緒に仕事ができると大変喜んでおられましたよ。私もいつかは父と……とは思っていますが」スラッと背が高く、
あれからしばらくして七海先生は病院を去った。そのせいで産婦人科の看護師達は少しモチベーションが下がってしまった気がする。それだけ先生は素晴らしい人格者だったから。でも、新しく配属になった先生も腕の良い女医さんで、みんなで新しい命のため、患者さんのために一致団結してスタートしていた。私も、気持ちを新たにして頑張る決意をした。仕事に関してはそう思えていたけれど、プライベートのことはまだ解決できていなかった。早く七海先生に返事をしないと――結局、お互い忙しく、約束の1週間はとっくに過ぎてしまっていた。明日は私が休みで時間が取れることもあり、勇気を出して自分から七海先生に連絡してみた。先生はこの前の返事をしたいという言葉を受け入れて、快く会うことを承諾してくれた。何だか、今からとても緊張する。あの時、七海先生は精一杯告白してくれた。だからこそ、私も誠意を持って本当の気持ちを伝えたい。七海先生に会うことは、もちろん蒼真さんにも了解を得た。『2人きりで会うことには抵抗があるけれど、藍花の気持ちをちゃんと七海先生に伝えてほしい』と言われた。そして……次の日の夜、私は七海先生に久しぶりに会った。「こんばんは」先生は、今日はグレーのスーツ姿だった。とてもスタイルが良くて、タイトめのスーツが良く似合っていて素敵だ。そんな眼鏡の超イケメンを、周りの女性達が気にしていないわけがなかった。「あの人、めちゃくちゃカッコ良いんだけど」「うわぁ、色気あり過ぎ、ヤバい」聞こえるように言う女性達は、みんな美人揃いだ。どこにいても目を引くその容姿は、蒼真さんもだけれど、華があり過ぎる。本人は言われ慣れているのだろうか、まるで眼中に無いみたいに振舞っていた。「こんばんは。藍花ちゃん、来てくれてありがとう。会えて嬉しいよ」「こんな素敵なところに誘っていただいて嬉しいです」
確かに私に対する発言はキツ過ぎる。今の春香さんには言葉を選ぶ余裕がなかったのだから仕方がない……とはいえ、やはりまだ胸が痛む。この感覚を表現するのはとても難しいし、今まで味わったことがない。私も、本当なら春香さんの気持ちを理解してあげたいけれど、まだ自分がそれほど強くないことも、残念ながら同時に実感していた。今夜の告白……歩夢君の気持ちを受け入れられないことはとても申し訳ないと思う。歩夢君に対して私はどうすればいいのだろうか?わからない……私にはわかるはずがない。今はただ、与えられた目の前の仕事をしっかり頑張るしかない。きっと、それしか……ないと思う。とにかく、自分ができることを一生懸命頑張っていたら、いろいろなことが良い方向に動いていくような気がするから。大丈夫。絶対、みんな大丈夫――いつか歩夢君も素敵な人を見つけて必ず幸せになれる。七海先生にも、私の気持ち、ちゃんと言わなければいけない。先生にも、幸せになってもらわないと困るから。2人とも、私にはとても大切で、特別な人達。だから、ずっとずっと笑顔でいてほしい。いつだって笑っててほしいんだ。勝手だけれど、そう願わずにはいられなかった。
「どうだか。私は来栖さんには告白しません。フラレるの嫌ですから。あやうくあなたの罠にはまるところでした」「罠にはめるなんて、私、絶対にそんなことしないから」「あなたみたいな男たらしを好きになるなんて、来栖さんが可哀想です。その正体をバラしてやりたいです。早く誰かと結婚してさっさと看護師辞めて下さい。その方が来栖さんは幸せになれます」「春香さん……」「私、あなたの顔を見たくないので仕事に戻ります」言いたいことだけを言って、春香さんはその場を去った。靴音が消え、誰もいなくなり、全ての音が無くなった。ポツンと1人。静寂の中で、どうしようもない深い悲しみに襲われる。どうしてそんなひどいことが言えるのか……?看護師を辞めろなどと、なぜ春香さんに言われなければならないのか?私は、悔しくてつらくて、両手のこぶしを握りしめながら泣いた。冷たい雫がどんどん頬をつたって落ちていく。ほんのしばらく、私は人を責める気持ちに支配された。「……ダメ。こんなことで泣いてちゃ……ダメだよ」私は、自分の心に言い聞かせ、冷静になれるよう数回深呼吸した。無理をして口角を上げ笑顔を作る。脳に、「私は大丈夫、元気だから」と錯覚させるために。今、春香さんに腹を立てても仕方がない。私にはまだ大切な仕事が待っているんだから。患者さんのために、私ができることは「笑顔」で励ますこと。私にはそれしかできないから――その時、頭の中に蒼真さんが浮かんだ。私を優しく抱きしめて微笑む姿。一気に気持ちが晴れていく……そうか……春香さんは、歩夢君を好き過ぎてあんなことを言ってるだけなんだ。きっとそうだ。もし白川先生が私以外の誰かを好きだと聞いてしまったら……私も、春香さんと同じように苦しくなるに違いない。誰かにヤキモチを妬いて、憎んでしまうかも知れない。いや、それだけでは済まない、私はきっと……闇の中に閉じ込められてしまう。気持ちが自分で上手くコントロールできなくて、時々おかしくなることだって……好きな人を想うとは、そのくらい大変なことだ。今、私が蒼真さんを好きな気持ちを考えれば、春香さんの心情もわかるはずなのに、ついカーッとなってしまった自分が恥ずかしい。
「じゃあ、僕、帰ります。今日、藍花さんと話せて良かったです。ちゃんと自分の気持ちを伝えられたから。ずっとどうしようか悩んでたんで、本当に良かったと思ってます。明日からまた……仕事頑張りますね」歩夢君は、満面の笑みを浮かべて帰っていった。そうやって無理に笑ってくれていること、さすがの私にもわかる。上から目線かも知れないけれど、私は心の中で「好きになってあげられなくて……ごめんなさい」とつぶやいた。「ひどいですよね、そういうの」「えっ!」私の前に、突然出てきて冷たく言い放ったのは春香さんだった。心臓が止まるかと思った。「もしかして……聞いてたの?」「私も今、休憩中ですから。ここは別にあなたのためだけにあるわけじゃないですよね?」確かにそうだ。言い返す言葉がない。「全部聞いた?春香さん、私はね……」「藍花さんの好きな人は白川先生ですか?」「えっ!」「それとも七海先生?」春香さんの冷たい視線が私の胸に突き刺さる。「ごめんね。そういうの、プライベートなことだからあんまり答えたくないの」私は嫌な女だ。もし誰かに言いふらされたらどうしよう……と、春香さんを信じ切れない自分がいる。万が一、私のことで蒼真さんや七海先生に迷惑はかけられない。もちろん、歩夢君にも。「ズルいですよね。ちょっと可愛いからって手当り次第に男を惑わせて。本当に……いやらしい人」「春香さん、その言い方はさすがにひどいよ」「ひどいって……だって本当のことですよね?あなたは実際来栖さんを惑わせてる。色目を使って誘惑しておいて、平気でフッてしまうなんて」「色目なんて……使ってないよ」容赦ないトゲのある言葉に心が痛くて苦しくなる。「蓮見さん、私に来栖さんに告白しろって言いましたよね。来栖さんの気持ち知ってて、私に告白させてフラレるのを見たかったんですよね?本当に最低。信じられない性悪女」「ちょっと待って。知ってて言ったわけじゃないよ。フラレるのを見たいなんて、そんなことして楽しいわけないじゃない」私は、春香さんに、そんなことを平気でする人間だと思われているんだ。だとしたら、すごく悲しい。
「手の届かない人なんて、そんなことはないよ」私は大きく首を横に振った。「藍花さんは高嶺の花ですよ。みんなの憧れだし。あなたは男女問わず、誰からも好かれてます」「や、やめて。そんなんじゃないよ」あまりにも大げさな言葉に、ものすごく恥ずかしくて顔から火が出そうだった。「藍花さんは本当に素敵な人です。側にいるだけで幸せになれる。その笑顔を見ると元気にもなれます。藍花さんは自分がどれだけ美人なのか、わかってないんです。ほんと、もったいないですよ」「そんなこと……」「人気者の藍花さんを独り占めしちゃいけないし、できるなんて思ってません。だから……このままで充分です。ただこのまま……あなたを好きでいさせてください。お願いします」直立不動で顔も強ばって、それでも、瞳を潤ませながら一生懸命想いを言葉にしてくれた。こんな私に「ただこのまま好きでいさせて」なんて……何だか胸がキュッとなった。だけど……私の気持ちは変わることはない。私は、どんなことがあっても蒼真さんが好き。その想いは揺らぐことはないんだ。歩夢君の気持ちはすごく嬉しい。でも、今、ちゃんと言わなきゃいけない。「歩夢君……。そんなこと言わないで。歩夢君のこれからの人生だよ。1度しかない大切な人生なんだから、もっとちゃんと考えてほしい。私のことを想い続けるなんて……ダメだよ、そんなこと」私は想いを必死に伝えた。「すみません、迷惑ですよね。やっぱりそうですよね……僕なんか相手にできませんよね」うつむく歩夢君。「め、迷惑とかじゃないよ。歩夢君がもし本当に私を好きになってくれたなら……やっぱり嬉しいし、有難いって思う。だけどね……」「藍花さんには、誰か他に好きな人がいるんですよね。わかってます。藍花さんみたいな素敵な人に彼氏がいないわけ、ないですから。それくらい、わかってます」悲しい顔をする歩夢君を見てはいられない。誰かの気持ちを拒否することが、こんなにも苦しいことだなんて思いもしなかった。「ごめんね。でも、ちゃんと言わなきゃダメって思うから言うね。私……私ね、好きな人がいるよ。だから……」「だ、大丈夫です!わかってます、わかってますから。もう、本当に大丈夫です」歩夢君は私の言葉を遮って、それ以上続けさせてはくれなかった。心の中が罪悪感で満たされる。歩夢君……ごめんなさい、本