「元気でいないとね。でも、君と次に会えた時にはもっともっと腕の良い産婦人科医になっていたいから、つい頑張ってしまうかも知れないな」七海先生はまた、ニコッと微笑んだ。その笑顔があまりにも眩し過ぎて、私は、七海先生のことを絶対に忘れたくないと思った。「ダメですよ。無理は禁物です」「はいはい、わかったよ。君は本当にいい奥さんになるね。僕は、君を忘れない。ずっとずっと一生忘れないよ。藍花ちゃんは、僕の全てをかけて愛した女性だからね。たとえ、僕が誰かと結婚したとしても、君との思い出は決して消えることはないから。じゃあ、ここで……」先生はそう言って椅子から立ち上がった。胸が熱くなるセリフに心から感謝が溢れた。誰か素敵な女性と結婚して幸せになってもらえたら……私はそれが一番嬉しい。「先生、お元気で」「藍花ちゃんも元気でね。またね」「はい、また……。本当にありがとうございます」「ありがとう」私達は笑顔で手を振って別れた。これで、本当に最後かも知れない……七海先生、素敵な思い出をありがとうございました。私は、心の中でもう一度お礼を言って、先生と本当のさよならをした。グレースホテル東京を出た瞬間、ふと見上げた空は、まるで七海先生の新しい人生の出発を見守るかのように、とても爽やかに晴れ渡ったっていた。
「ありがとうございました」その言葉だけを置いて、春香さんはナースステーションを去った。七海先生に続いて春香さんまで……しかもあまりに突然で驚いた。私は、帰ろうとしていた春香さんを追いかけた。少し話したいと言うと嫌な顔をされたけれど、結局、中庭で話すことになった。「ごめんなさい。無理やり引き止めて」今日で最後だと思うとどうしても聞いておきたかった。春香さんが辞める理由を――「いったい何ですか?あなたと話すことなんて何もないです」冷たい表情に一瞬心が揺らぐ。「は、春香さん、看護師辞めてこれからどうするの?この仕事、好きな仕事だったんじゃ……」「あなたには関係ないです。もう、はっきり言います。私はこの病院にいたくないんです。あなたのいるこの病院に」胸に何かがグサッと刺さったような気がした。「春香さん……私のせいで辞めちゃうの?」そうなら、本当に悲しすぎる。「はい。これ以上、あなたの顔を見たくないですから。それに……来栖さんの顔も……」「歩夢君のことも?」「すごくつらいです。あなたを好きな来栖さんを見てるのが」「……」「来栖さんはあなたのことを好きなのに、あなたは違う人が好きで。それなのに、あなたに微笑みかけてる来栖さんを見たら……私はとても苦しくなります。これ以上ここにいて、仕事に支障が出て迷惑かけるのも嫌なんです」「春香さん……ごめん……なさい」つらそうな春香さんの顔を見ていたら、なぜだか涙が出てきた。「えっ……。どうして泣くんですか?」春香さんは、私の突然の涙にびっくりしたようだった。「ごめん。私、春香さんの気持ち、今なら少しわかるよ。つらいと思う……好きな人が別の人を見てるのって。私もやっと本当に好きな人ができて、その人がもし……って考えたらやっぱり悲しいから」「……」「春香さんが歩夢君を想う気持ちが深いのはわかる。だからこそ私が許せないんだよね。でもね、私にはこの状況をどうすることもできない。私には好きな人がいて、歩夢君のことは仲間だと思ってる。ただそれだけなの。私はこの仕事が好き。だから春香さんが辞めてしまうのは……すごく残念だよ」
「あなたにそんな風に言われるなんて思ってなかった……。私は、今までずっと誰にも相手にされずに生きてきました。でも来栖さんは違って、こんな私に笑いかけてくれたんです。気づいたら、私、来栖さんのことを……。初めて人を好きになったんです。大好きなんです、歩夢君のことが。でも恋愛なんてしたことがないから、どうしたらいいのか全然わからなくて……」春香さん、今、歩夢君って……本当はそう呼びたかったんだ……「歩夢君の笑顔、素敵だもんね。あんなに優しく笑える人、他にいないよね」春香さんはうなづいた。「私は全然ダメだから、歩夢君に振り向いてもらえない。フラれるに決まってる……そう思うと何だか悲しくなって。いつしか蓮見さんに対してイライラして……あなたにあたってしまってました」言葉のトーンが明らかに今までとは違って穏やかになっている。それが何だかとても嬉しく感じた。「春香さんは全然ダメなんかじゃないよ」「えっ?」「自分に自信がないのは私だって同じなんだから」「は、蓮見さんが!?う、嘘でしょ?みんなから好かれているあなたがどうして?」春香さんはものすごく驚いた顔をしている。私が自分に自信のある人間だと本気で思っていたようだ。「本当だよ。ずっとずっと昔から自信がなくて苦しかった。どうしてって聞かれても理由とか理屈とかじゃなくて、そうだから仕方ないんだよね。でもね、やっと好きな人ができて、今はほんの少しだけ前向きになれたし、その人を信じようと思えてるの」「蓮見さんみたいに可愛い人が自信がないなんて……信じられない」「可愛いくないよ、別に。私もずっと上手く恋愛できなくて悩んでたから」「やっぱり信じられない。もし私が蓮見さんみたいに可愛いかったら、絶対に自信持つと思う。ねえ、蓮見さん。私なんかがこれから少しでも前向きに変われるのかな?」春香さんの言葉は、いつの間にか敬語ではなくなっていた。なんかいいな、こういうの……心が自然に温かくなる。「大丈夫、もちろん変われるよ」「ほんとに?」前のめりに私に訊ねる春香さんがとても可愛く思えた。「でもね、笑顔を忘れないで。春香さん、絶対ニコニコしてた方が可愛いから。誰かを好きになったら……笑ってて。そしたら自然に優しい気持ちになれるよ。きっと、春香さんらしく輝けるから。イライラなんかしてたらもったいないよ」
「蓮見さん……あなたって本当にお人好し」そう言って春香さんは笑った。「素敵だよ、その笑顔。春香さんには笑顔が良く似合う。本当に可愛い」目を細めて微笑む春香さんを見て心からそう思った。「蓮見さん。私、別の病院で看護師続けるから」「えっ」「本当は全て投げ出して逃げたいって思ったけど……。確かに私の輝ける場所は看護師しかないから。患者さんのために何かしたい。あなたに言われて……気持ちが変わった」「本当?だとしたらすごく嬉しいよ。絶対に看護師を続けてほしい」こんな短い時間で気持ちを変えてくれたなら、勇気を出して話しかけて良かったと思えた。すごくホッとして、安心した。「恋なんか、しばらくはしたくない。どこか自分を働かせてくれる病院を見つけて、看護師として絶対に患者さんのために頑張る」その顔は、さっきまでとは違って覇気のある表情に変わっていた。「うん、春香さんなら大丈夫。その笑顔があれば絶対大丈夫だから。新しい病院で頑張ってね。私、ずっとずっと応援してるから」それに、今の春香さんなら、きっと新しい恋だってできる。いつか必ず素敵な人と出会えるに違いない。「……ありがとう。ねえ、蓮見さん」突然、改まった顔で私を見た。「何?どうかした?」私が聞くと、春香さんは下を向いてしまった。「どうしたの?大丈夫?」「あ、あの、この前、蓮見さんが足に怪我したの……あれ、私の責任だから」春香さんから急に笑顔が消えて、真剣な表情に変わった。「……ううん、それは違うよ。あの時はね、私の不注意だったんだ。私がフワフワしてて、仕事に集中してなかったから。私が悪いの、だから気にしないで」私はニコッと微笑んだ。気にしてくれていただけで十分だ。「私……すごく意地悪だったと思う。突然声をかけてしまったから蓮見さんがびっくりして。それなのに私は……」「だから違うって。もう足も全然治ってるしね」「本当に?ちゃんと治ってるの?」「本当だよ。もう痛くないよ」「あの時は……痛かったと思う」「……白川先生にね、落としたのが患者さんの足だったらどうするんだって言われてハッとしたよ。本当に私で良かったよ。それに…他に良かったこともあったから」そう、あの怪我のおかげで私は……蒼真さんとの距離が嘘みたいに近づいたんだ。
「ごめんなさい。本当に……」頭を深く下げる春香さん。「ありがとうね、そんな風に言ってくれて。でも、自分の責任だから本当に気にしないで」「……あ、ありがとう。私……今日、蓮見さんと話せて良かった。じゃあ、行くね。また……会えるかな?」「うん、必ず会おうね。寂しいけど、元気でね」「白川先生と、お幸せにね」「えっ!?」「恋愛経験が無い私でもさすがに見てればわかるから」春香さんにも、七海先生にも当てられてしまったということは、自然に顔に出てしまっているのだろうか?気づかないうちにニヤけていたのかも知れない。だとしたら、かなり恥ずかしい。「う、うん。ありがとう」春香さんは、ほんの少しだけ手を振って、そのまま去っていった。「あんなに笑顔が素敵な人だったんだ。だから、これから先は大丈夫だよね」春香さんは、これから先の人生、きっと自分らしく前向きに生きていける。背中を見送る私の心は、嬉しさと安心したせいか、ポカポカして温かくなった。ナースステーションに戻ると、歩夢君がいた。「どこに行ってたんですか?」「あ、うん。春香さんと話してた」「そうなんですか……。春香さんが辞めてしまうなんて、寂しいですよね。七海先生もいないし……」「うん。寂しいよね。でも、春香さんはきっとまたどこかで看護師を続けると思うし、元気に頑張ってほしいよね」「はい。本当にそう思います。春香さん、看護師として今まで頑張ってたから……」歩夢君のこの言葉。春香さんが聞いたら嬉しいだろう。「まだまだこれからだよね。春香さんも、そして私達も。患者さんのためにしっかり頑張らなきゃ」「頑張ります!あっ、あの、藍花さん。今日、仕事終わってから少し話せますか?」「えっ、あ、うん。大丈夫だけど……どうしたの?」「藍花さんと2人でちゃんと話すのは今日が最後です。あっ、もちろん僕まで病院を辞めるわけじゃないですよ。ただ……改まって話すのは最後……ってことです」「……うん。わかった。実は私も話したいことがあるの」「そ、そうなんですか……。わかりました。話しましょう」蒼真さんとのこと、ちゃんと言わないと……***そして、夜になり、私は歩夢君と2人、病院を出て駅に向かってゆっくりと歩いた。「ごめんね、歩きながらで……」「いえ、突然僕が声をかけてしまったので、すみません」歩夢君
「藍花さん」「ん?」「……やっぱり僕、あなたのこと……」「……」「ずっと考えてしまいます」歩夢君は、小さな声でそう言った。「……」そう言われて、言葉が上手く続けられない。「でも、藍花さんには好きな人がいるから……僕達は恋人にはなれないんですよね」「歩夢君、ごめん……」「いやだな~。僕は藍花さんの笑った顔が好きなんです。そんなしんみりした顔しないで下さい。好きな人にはずっと笑顔でいてほしいです。あなたが笑顔なら、僕はそれだけで嬉しい。藍花さんが幸せなんだってわかれば……それでいいんです」「そんな……。歩夢君、優し過ぎるよ」七海先生と同じだ。私は、歩夢君にももっと別の世界を見てもらいたい。いろいろな人に出会い、新しい道を進んでほしい。「僕はこれから仕事も頑張っていきます。だけど、あなたを想うことも止めませんから。あなたが誰を好きでも構いません。迷惑だとは思いますけど、もうしばらく……藍花さんを好きでいさせて下さい。今日はそれが言いたくて」「歩夢君。すごく嬉しいけど、でも、私にこだわらず、新しく好きな人ができた時には、必ずその人を大切にしてあげてほしい。私に申し訳ないなんて思わずに、ちゃんと前に進んでね」「……ですよね。ずっと想ってるなんてやっぱり迷惑ですよね」「ううん、迷惑なんかじゃないよ。だけど、あなたの大切な人生だから。歩夢君の未来はキラキラ輝いててほしい。私だって……君に笑っててもらいたいよ」「……笑って……?」「そうだよ。歩夢君の笑顔はみんなを元気にするパワーがあるの。そのパワーで患者さんが元気になるんだよ。歩夢君が悲しい顔をしてたら、みんな元気もらえなくなる……」「……パワーありますかね?」「あるよ!もちろん」「だったら、ずっと笑っていないとダメですね。僕が誰かの役に立てるなら……」「うん」「もし、僕にも誰かを想える時がもし来たら……藍花さんのいうように、その人を大切に……しますね。まあ、もしそんな人が現れたら……ですけど。あっ、駅に着きました。あっという間です、早いですね」歩夢君はつぶやくように言って、口角を上げてニコッと笑った。「ありがとう、歩夢君。君の笑顔で私も元気になれるから……感謝してる。本当に……いろいろありがとう。明日からもまたよろしくね」「はい!藍花さんと一緒に働けるだけで僕は幸せです。
「藍花、好きだよ……」「私もです。蒼真さんとの時間がすごく大切です」部屋の明かりはついたまま。私達はベッド入り、隣り同士並んでる。布団の中ではお互い何もつけていない。肌と肌が触れ合う感覚に、さっきからずっとドキドキしている。「僕もだ。今までは医学のこと以外に費やす時間なんてほとんど無かった。ジムに行ったりするくらいで、食事も簡単に済ませてた」「蒼真さんは勉強熱心ですから、みんな言ってます」だからこそ無敵なんだ。どこまでも外科医として努力する姿がカッコよくて、私は心底尊敬している。「それももちろん大事だ。勉強することは止めない。でも今は……藍花との時間が1番大切なんだ。この時間があるからまた頑張れる。今となっては、もうお前がいないと頑張れない」「そんな、そんなことないですよ。蒼真さんはいつだって……」言葉を続けようとした瞬間、そっと唇を塞がれた。「こんなこと言われたら失望する?」私は首を横に振った。「もし藍花がいなくなったら……俺、そう思うと本気で怖くなるんだ。情けないよな」「蒼真さん……。情けないなんて思いません。失望なんてするわけないです。蒼真さんは頑張り過ぎるくらい頑張ってます。そんなすごい人にそんな風に言ってもらえることは……やっぱり素直に嬉しいです」今度は私のおでこに優しくキスをした。「藍花。お前がもし患者さんのことを思うなら、絶対に一生俺から離れるな。藍花が側にいてくれたら俺はもう何も怖くない」そう言って私を抱き締める腕の強さに、何とも言えない安心感と男らしさを感じた。守られるって……こういうことなんだと。「いいな?絶対に俺から離れるな」私を間近で見つめながら甘く囁くその顔が、あまりにも美し過ぎる。この世にこんな美しいものが存在するなど、理解に苦しむほどだ。「私、離れません。ずっとあなたの側にいさせて下さい」「その言葉を待ってた。藍花……お前の全部を俺の物にしたい。俺だけのものに……」何度も何度も繰り返して押し寄せる甘いセリフの波。その波に飲み込まれて溺れてしまいそうになる。
そして、とろけるような刺激が私を包む。私の全てが蒼真さんに支配されていく……充分に敏感になった場所を、胸から順番に下に向かって何度も触れられ、私は更に深く高揚する。「あぁっ……ダメっ。蒼真さん……」「まだだよ。まだ……我慢だ」「意地……悪」繰り返される執拗な指の動きに、私はどうしようもなく淫らになる。蒼真さんの前では一切理性が効かない。制御不能になり、2人ともブレーキをかけることができず、ますます激しく震えるほどに乱れていく。私のこんな姿は誰にも想像できないだろう。普段の見た目との違いに、きっと引かれてしまうに違いない。自分でさえも、快楽に溺れる自分を受け入れられずにいるのだから――蒼真さんはお構い無しに私を愛撫する。体の全部の気持ち良いところを1つ1つ丁寧に。そんなところをそんな風にされたら……もうどうしようもなく気持ち良くて、我慢などできない。「もっと声出していいよ。藍花の思い通りにしてやるから」「思い通り……?」「ああ。どうしてほしい?」「……あ、あの……」私の望んでいることは何?こんなに体が熱いのに、まだまだ求められておかしくなりそうだ。だったら止めてほしい?私の本当の望みはいったい何なの?きっと私は……最高に気持ちいい瞬間がほしい――私は、「もっともっとしてほしいんでしょ?」と、悩める自分の心に問いかけた。「もっと……して。お願い、蒼真さん……」気がつけば、そんな恥ずかしいセリフを発していた。これが私の本性なのか?だとしたら、私、確実に……あなたにしつけられてこうなったんだ。ごく控えめだった私の中から、恐ろしい程淫らな部分を蒼真さんが引き出した。1から10まで全部、あなたに調教されて、私は女としてのこの上ない喜びを知ってしまった。不思議だ。もう私は、以前のつまらない自分には二度と戻りたくない――と、心で叫んでいた。
最高の秋日和。私はやはりこの季節が1番好きだ。今日は、小学校1年生になった蒼太を連れて、久しぶりのキャンプにやってきた。川沿いの美しい紅葉が見られる素晴らしいロケーションの中、私達はバーベキューを楽しんでいた。「蒼太!危ないから気をつけてね。絶対遠くに行っちゃダメよ」「はーい!大丈夫だよ」目の前に広がる浅瀬の川。すぐ近くで石を並べて遊んでる蒼太は、いつも以上にはしゃいでいる。「蒼太、楽しそうだな」「そうですね。今日はみんなで来れて良かったです。蒼太、パパと一緒でちょっと興奮気味です」「そっか……。喜んでくれているなら嬉しいな」「とても喜んでますよ。蒼太はパパが大好きだから」「なら良かった。でも、普段なかなか時間が取れないからな……。本当に申し訳ないと思ってる」「そんなこと気にしないで下さい。蒼真さんには大切なお仕事があるんですから。休みの日だって勉強もしなくちゃいけないし。私は蒼太さんの体が心配です」いつだって患者さんのために頑張っている蒼太さん。最近は特に無理をしているような気がする。「体は大丈夫だ。医師もちゃんと人間ドックを受けてるから心配しなくていい」「……そ、そうですよね」それでも、本当はとても心配だった。「たまにこうして藍花と蒼太、家族と一緒にいられるだけでリフレッシュできてるから。今日もこんなに気分が良い」「それなら……いいんですけど」「そんなに心配しなくていいから。でも、藍花が俺を大事に思ってくれてるのは有難い」「あ、当たり前です!もし蒼真さんが倒れたら私は……」色々と悪い方に考えると目が潤む。「本当に大丈夫だから。俺はお前達のためにいつまでも元気でいたいと思ってる。ずっとずっと3人でこうして一緒にいたい。だから、ちゃんと気をつける」「……はい」「藍花も無理するな。何をするにも一生懸命だから」私のことを心配してくれている……その気持ちがとても嬉しい。「そんなことはありません。私は大丈夫です。でも……そうですよね。私も元気で蒼真さんや蒼太とずっと一緒にいたいです」「ああ。俺達は2人とも元気じゃないと」「はい」「藍花と蒼太が毎日元気に笑ってくれてれば、他には何もいらない。俺は、それだけで頑張っていける」いつものセリフ、何度聞いても胸が熱くなる。こんなにも私達はこの人に大事にしてもらえてい
「嘘っ!またオーナーに怒られたの?」「うん。今月の売り上げがイマイチだったから……。思うようにはいかない」マンションの小さな部屋で、食事中に缶のビールを握りしめ落ち込む太一。「し、仕方ないよ。きっと来月はもうちょっと頑張れるよ。まあ、また気合入れていこー」満面の笑顔でそう言ったものの、実際、経営はかなり苦しかった。実は最近、すぐ近くに同じような店ができ、うちより規模も大きいし、オシャレで、かなりの人気になっている。そのことは、間違いなく売り上げが下がった原因の1つだ。でも……それでも頑張るしかない。弱音を吐いても何も変わらないから。「そうだな。月那のウエディングドレス姿見たいし、新婚旅行にも連れていきたいし」それが、太一の口癖。「それは別にいいって。気にしなくて大丈夫だから。とにかく、心も体も元気じゃないと何も前に進まないんだから、笑顔で乗り切ろうよ。太一はお客さんからの評判いいんだし、頑張ってたら、必ずまたこっちにお客さんが戻ってきてくれるから。絶対大丈夫!」太一と私のマッサージの腕は誰にも負けることはない、それだけは絶対に自信があった。「ありがとうな、月那。俺は、お前がいるから頑張れる。本当に……感謝してる」一瞬で顔が真っ赤になる。私は慌ててビールを喉の奥に流し込んだ。「あ~ちょっと酔っ払ったかも~。そうだ、ベランダ行こっ。太一も一緒に出よう。さっ」私は、太一を無理やり外に連れ出した。「うわぁ、いいね~。気持ちいい風だな、最高~」「ほんとに秋の風って最高~」こうして隣に太一がいてくれる安心感は半端ない。「月……めっちゃ綺麗だ」 「そうだね。いつか連れてってくれるんでしょ、あそこに」私は、腕を空に伸ばして指をさした。「ああ。任せとけ!絶対、行くから。2人であの月に!」そう言って、太一は私のことを抱きしめた。「ちょっと痛いよ、太一。もう、こんなムキムキの立派な腕をしてるんだから、めそめそしてちゃダメだよ。元気出しな。笑おうよ」私も、太一の腰に両腕を回した。このでっかい感じ、これが好き。「ガッハッハッ。これでいいか?」「バカじゃないの?本当に太一はお調子者なんだから」まだ抱き合ったまま、今日は離さないんだね。ちょっと照れる。「なあ、月那」「ん?」「俺、お前と結婚して良かったよ。本当に……大正解。これ
「今度はどんな映画を見に行く?」「あっ、そうね。恋愛……ううん、ホラーとか、楽しいかも」「ホラー映画は得意じゃないよ」「そう?結構好きなんだけど、私は」何気ない朝のやり取り。仕事が休みの日はなるべく妻と一緒にゆっくり過ごすことにしている。子どもがいない僕らにとって、2人で何をするかを考えるのは幸せな時間だった。その気持ちに嘘はない。「恋愛映画なんてずいぶん観てないな。何か良いのあるかな?」「恋愛映画は……何だか観ていて苦しくなりそうだから」「えっ?」「あなたは……きっとヒロインを誰かに重ねてしまうでしょうから」「な、何を言ってる?」「ヒーローは……あなたかしら。残念ながら、その相手は……私じゃない」「突然どうしたんだ?いつもの君らしくないよ」こんな妻を見るのは初めてだった。心臓がバクバクと音を立てる。「私、もう……限界かも。できることならずっとずっとあなたと一緒にいたかった。死ぬまで寄り添えたら、どんなに幸せだろうって……。でも、やっぱり……何だか毎日苦しいの」「……」「あなたは優し過ぎる。毎日毎日、慶吾さんに優しくされて、私……」「どうしてそんなことを言うんだ?君は毎日頑張ってる。家事を完璧にして、僕の帰りを待ってくれて。そんな君に優しくするのは当たり前のことだよ」そう、君は頑張ってる。全て完璧というほどに。「ただ優しいだけじゃ、私は嫌だよ。最初は、側にいてくれればそれでいいって思ってた。それは本当。でも、あなたの中にはいつも他の誰かがいて……」「……そんなことは」「無いって言えるの?私はどんどんあなたを好きになるのに、あなたは……ますます違う方を見てる。私じゃない誰かの方を。もう……耐えられないの」泣き崩れる君に、僕は何も言えなかった。結婚の意味なんて、今でも僕にはわからない。それでもこの人と、一生、2人で生きてゆく覚悟はしていたのに。なのに、いつだって彼女の笑顔が浮かんでくる。自分は異常なのか?と悩みもした。でも、結婚してさらに、こんなにも藍花ちゃんを想っている自分に気付かされた気がして……「ごめん。本当に……ごめん」僕は、最低だ。目の前で号泣するこの人の背中に手を置く。すごく震えていて、泣き声が切なくて……僕の心臓はとても痛くなった。いや、この痛みなど、この人に比べれば……この人は
私は今、すごく幸せ――だったら、それでいいのかな?都合良すぎる考え方かも知れないけれど……だけど、月那が言ってくれた言葉だから、私はそれを信じようと思った。七海先生も歩夢君も……絶対「幸せ」でいてほしい。お願いだから、悲しい思いをしないで……心からそう祈るばかりだ。「私の話ばかりでごめんね。月那は太一さんとの新婚生活はどう?楽しんでる?」「う~ん、まあまあだね。仕事も家でも一緒だし、ちょっと飽きてきたかな」また大声で笑う。大きな口を開けていても、美しい人は美しい。「さっき世界一幸せな夫婦って言ってたよね?」「そんなとこ言ったかな?まあ……ね、もちろん楽しくやってるよ。いろいろあるけど、私、太一がいないとダメみたいだしさ。あんなに筋肉バカなのに、嘘みたいに優しい人だし。ちょっと頼りないとこあるけど、私にとっては最高の夫かなって思うよ」「そっか……素敵だね」月那もすごく幸せなんだ。その言葉がとても胸に響いて嬉しくなる。「素敵……かな?」「うん!最高の旦那様だって、素直に太一さんにもそう言ってあげてね」「い、嫌だよ。そんなこと言ったら負けだし」「負けって……。月那、私には素直にって言っておいてズルくない?」「ズルくないズルくない。私はいいの~」自由な月那に苦笑いした。そんな風に、お互いの新婚生活や仕事、子育てのことをしばらく語り合う2人だけの時間は、あっという間に過ぎていった。もっとずっと話していたいけれど、今日はここでおしまい。「今日の晩御飯は何?」「太一が好きだから今日は豆腐ハンバーグ。子どもみたいだからね、あの人。何個も食べるからミンチの大量買いしなきゃいけない」「いいな~美味しそう!豆腐ハンバーグはヘルシーだしいいよね。うちはカレーにする」初めて蒼真さんに作った料理。いつ食べても毎回褒めてくれる「カレーならそっちも子どもだよ」「確かにそうだね」「男はお子さま料理が好きだよね。煮物とか食べないんだから」「煮物美味しいのにね」「まあ、鍛えてるから食事はちょっと大変だけど、喜んで食べてる姿見たら嬉しくなるからね。頑張って作ろうって思えるよね」「本当にそう。美味しそうに食べてくれるのが1番嬉しいよ」女子トークは結局、ドアを閉める瞬間まで続いた。「必ずまた女子会しよう」と約束して、手を振りながら、月
「そっか……。奥さん、毎日側にいてわかったんじゃないかな。七海先生の中には他の誰かがいて、自分を見てないって。最初からわかってたつもりだったけど、実際に側にいると余計につらいと思うからさ」「……」その言葉について、私は何も言えなかった。「大好きな七海先生と別れるのは寂しかったかも知れないけどさ。その分、藍花が幸せにならなきゃダメだよ。奥さんだって、七海先生より良い人に必ずいつか巡り会えるんだから。そのための離婚だよ。絶対に」「月那……」その言葉にほんの少し救われる。七海先生が私のことをずっと想ってくれているなんて、自惚れたくはないけれど、奥さんの、好きな人と別れる決断は、ものすごくつらかっただろうと、今の私には痛いほどわかる。結婚して蒼真さんの側にいて……私はどんどん彼を好きになっていくから。「七海先生はさ、たぶん1人で大丈夫だよ。あの人、結局誰と結婚しても一生藍花を想い続けるから。それが七海先生の幸せなんじゃない?」「そんな……。私、どうしたらいいかわからないよ」「出たね、藍花の迷い癖」「えっ?」「いいんだよ、どうもしなくて。本当にほおっておきなよ。好きにさせてあげたらいいんだよ」「でも……」「でもじゃない。七海先生にとってはそれが1番の幸せなんだって。藍花は気にせずに自分の幸せだけを考えたらいいの。でないと白川先生に悪いよ」「……うん。わかった……」「素直でよろしい!いい子だね、よしよし」月那は私の頭を優しく撫でた。その仕草に少し照れる。「とにかくさ。七海先生と歩夢君はそれぞれに幸せなんだからね。自分のせいだとか考えちゃダメだからね。藍花が幸せになることが、2人にとって何よりも嬉しいことなんだからね」
「うん、今、すごく頑張ってるんだって。蒼真さんが歩夢君をとても可愛がってるみたいで、人一倍動けるし、患者さんからの人気もあるって言ってた」「そうなんだ。歩夢君、やるね~。本当に真面目ないい子なんだね。見た目も可愛くてイケてるしさ。キュートな眼鏡男子って感じで」「うん、そうだよね。本当にみんな癒されてた。歩夢君がいてくれたら職場が安定するというか……」「安定剤だね」「確かに。歩夢君、前にお母さんのために早く1人前になりたいって言ってたけど、十分過ぎるくらい頑張ってる。体を壊さないかって蒼真さんも心配してた。まあ、中川師長がすぐ側にいるから大丈夫と思うけど。ほんと、新人なのに私の何倍も偉いよ。私は……さっさと辞めちゃったしね」歩夢君の頑張っている話を聞くとすごく嬉しくなる。でも、バリバリ仕事ができることが、少しうらやましくも思える。私も、歩夢君みたいに看護師という仕事が好きだから……「藍花が辞めたのは妊娠したからだし、またいつか復帰するって思ってるんだからさ。何も卑屈になる必要はないよ。それまでは白川先生と蒼太君のために「奥さん」と「お母さん」を頑張りな」「うん、そうだね」「そうだよ、藍花は本当に幸せ者なんだからさ」「ありがとう、月那。今は家族のことだけ考えて、いつかまた看護師に復帰できたら、その時はしっかり頑張るね。蒼真さんと同じ病院は無理かも知れないけど、ここの近くにも病院はたくさんあるからね」「うんうん、頑張れ!応援してる」「……ありがとう。すごく心強いよ」「あっ、そうだ。あともう1人のイケメンは?」「……七海先生?」月那がうんうんとうなづく。「蒼真さんにはたまに連絡があるみたいだよ。あれからお見合い相手の人と結婚したんだって。でも……」「ん?」「……七海先生、フラれたみたいで……」「嘘!あの超イケメンが!?」「そうみたいなんだ。残念だけど……」「えっ、七海先生、結婚したお見合い相手にフラれたの?」「……うん」蒼真さんから聞いた時はすごく驚いた。せっかく新しい1歩を踏み出したのに……「でも何で?あんな超イケメンをフルなんて度胸あるよね」「別れた原因はわからないんだって。フラれたとだけ聞いたって。今は1人で、もう一生結婚はしないって言ってるみたい。お父様の病院で産婦人科医として仕事に生きるって……」
私は病院から少しだけ離れたところに新居を建ててもらい、月那はマッサージ店の近くのマンションを買った。常にいつでも会える距離……ではないけれど、大好きな月那とはたまにはこうして会いたい。月那のアドバイスはやはり直接聞きたいし、そばにいてくれるだけでかなり安心できる存在だから。「ねえ、あれからみんなどうしてるの?病院行ってもなかなか情報聞き出せないしさ」「月那、スパイじゃないんだから」「似たようなもんよ。客商売、情報が全てでしょ」「ダメだよ、病院の内部事情をお客さんに話したら」「当たり前だよ。言っちゃダメなことは言わないようにしてる。それくらい心得てるから大丈夫……たぶんね」「たぶんって、本当にダメだって~」「大丈夫、大丈夫、ちゃんとわかってますよ。だけど、白川先生と藍花のことは当然みんな知ってるよ。患者さん達も喜んでたし。あの子なら仕方ないって、白川先生のファンのおば様達が言ってたから」「そ、そうなんだ……」蒼真さんのファンって……まるでアイドルみたいな扱いだ。「それでもさ。未だに病院じゃ、みんな白川先生のことをハートマークのついたキラキラした瞳で見つめてるから気をつけた方がいいよ~」そう言って、月那は意地悪そうに微笑んだ。「うん。そうだね。でも、病院じゃなくても蒼真さんといるとみんなそんな目で見てるから。本当にどこにいても注目の的で……」あのルックスでは絶対に目立ってしまうから仕方がない。ただでさえそうなのに、最近はますます男性としての魅力に磨きがかかっている。やはり蒼真さんは無敵だ。「うらやましいよね、本当。だってさ、太一といても誰も振り向かないから」月那が大きな声で笑う。だけど……みんなは月那のことを見ているんだ。太一さんには申し訳ないけれど、2人は美女と野獣というか……月那みたいなすごい美人はなかなかいないし、どうしても目を引いてしまう。私達とは逆――視線は全て蒼真さんに向いているから。「ねぇ、それよりさ。歩夢君はどうしてるの?元気なの?」突然、月那が話題を変えた。
それでも「疲れているだろう」と、蒼真さんは私を気遣ってくれる。診察、回診、手術……きっと自分の方が何倍も疲れているはずなのに……その、人を思いやる優しさに、私は心から感謝の気持ちでいっぱいになっていた。***それから1年――1歳になった蒼太に会いに、久しぶりに月那が遊びにきてくれた。月那は今は仕事に大忙しで、旦那様ともラブラブだった。「本当に幸せだよね、藍花。こんな立派な新居を建ててもらって、こんな可愛い蒼太君がいてさ」蒼太を見て微笑む月那は相変わらず美人だ。こんな美しい女性が私の友達だなんて、かなりの自慢になる。「うん、幸せだよ。みんなに感謝しかないよ。月那にはずっと相談に乗ってもらって、本当に感謝してる。いろんなことが月那の言う通りになっていくのがすごく驚いたよ」「当たり前だよ。月那様には全てお見通しだったからね。あの時の藍花はすごく迷ってた。3人のイケメンの間で揺れてたよね」「そう……だったね。あの時の自分は何もわからなくて本当に困ってた。ただ頭を抱えているだけで、前に進むことができなかったから」「まあ、仕方ないけどさ。あんなイケメン達に告白されたら、人間誰だってちょっとしたパニックになるよ。きっと世界が違って見えるんだろうな。その世界が見れた藍花は本当に幸せ者だよ」「世界が違って見えたかどうかはわからないけど……でも、もし月那がいなかったら、私は素直になれてなかったかも知れない。今でもまだ、月那がいう『違う世界』で迷子になってたかも……」本当にそうだ。恋愛マスターの月那がいたから、私は今の幸せを掴めたんだ。月那には、感謝してもし足りない。「ううん、藍花の中ではさ、本当は決まってたんだよ。3人の中で白川先生が1番好きだって。だから……白川先生と上手くいった……」「……そ、そうなの?」「うん。でも、藍花は優しいからさ。みんなに対していろいろ考えてたら何が何だかわからなくなってたんだよ。七海先生も、歩夢君も、みんなを大切に考えて……。私、見てて可哀想なくらいだったから。でもいろいろあった結果、藍花は世界で2番目に幸せになれたんだから、良かったんだよ」ニコッと笑う月那。「世界で1番幸せなのは……月那、だね」「もちろん、その通り。なかなかやるね」2人の笑い声、久しぶりの楽しい時間が嬉しかった。
陣痛も短く、驚く程に安産で、スっと出てきてくれた赤ちゃんに感謝した。この世に生を受け、一生懸命生まれて来てくれた我が子がどうしようもなく愛おしくて、涙が止まらなかった。蒼真さんもパパになることを楽しみにしてたから、小さなその体を初めて腕に抱いた瞬間、大粒の涙をこぼしていた。その顔を見て、私もまた泣いた。あの白川先生が涙を流すなんて……という感じもあったのか、周りにいた女医さんや看護師さんまでみんなもらい泣きしていた。赤ちゃんの泣き声と共に、分娩室は感動の連鎖で温かな空気に包まれた。入院中は代わる代わる中川師長や歩夢君、他の看護師達も部屋に寄ってくれて、赤ちゃんを抱っこして喜んでくれた。中川師長は「孫ができたみたい!」と言ってくれ、歩夢君は毎日「可愛い可愛い」と言って部屋に来てくれた。私への気持ちなんか決して口にせず、私と赤ちゃんを優しく見守ってくれている感じがしてすごく有難かった。赤ちゃんの名前は、しばらくして蒼真さんが決めてくれた。「蒼太(そうた)」元気な男の子にピッタリの名前だと思った。私が絶対に「蒼」という漢字を入れてほしいと頼んだこともあって、ずいぶん悩んでいたけれど、ようやく蒼太に決めたようだった。気づけば、蒼真さんと急接近して、付き合って、赤ちゃんまで授かって、そして結婚まで……こんな人生、私には予想もできなかった。あまりにも嘘みたいな展開に自分でも驚いている。とんでもないシンデレラストーリーに、私はまだ半分夢見心地だ。だけど、いつまでもフラフラしていてはいけない。本格的に子育てが始まったのだから、ママになった自覚はキチンと持たなければ。慣れない家事をしながらの育児に、最初は戸惑いはあったけれど、それでも毎日私なりに一生懸命頑張った。夜泣きしたり、ミルクを飲まなかったり、眠れない日々が続いても、やっぱり我が子はとてつもなく可愛くて、愛おしかった。子どもの笑顔には、疲れを吹き飛ばす偉大な力があるということを、ヒシヒシと実感していた。