このホテルの部屋で、ドアの覗き穴を通して見える男が、廊下で私のドアの前をうろうろと行き来している。私は息を潜め、心臓が口元まで跳ね上がるほど緊張していた。ほんの少しの音でも出してしまえば、きっと気づかれてしまうだろう。何故なら、彼の手にはこの部屋のカードキーが握られているのだから。次の瞬間、彼が部屋に踏み込んできて、私に暴行を加えようとしている。その時、スマホが鳴り響いた。画面に表示された名前は、実の兄の名前だった。しかし、それは助けの兆しではなく、私にとっては“死の呼び声”だった。義姉が家に入って以来、兄は昔の優しい姿から変わり果ててしまい、もう幼い頃から知っていた兄ではなくなっていたのだ。思いは数か月前、義姉が産後の療養を始めた頃にさかのぼる。
結婚後、義姉が出産を終え、家で産後の療養を始めた。彼女は「快適に養生するため」として、家族全員が彼女の言うことを聞き、全て彼女を優先しなければならないと要求してきた。彼女が産後に後遺症にならないよう気を遣えというのだ。その話を聞いて、私は思わず口をすぼめた。結婚してからというもの、彼女は毎月六、八十万円もかけて買い物やエステに通い、実家への仕送りまでしている。そんな彼女が、私たちに気を遣えなんて言い出す暇があるとは思えないけどね。今は外出を控えているために、家族からの気遣いを求めているのか。そう思いながら、私はソファに寝そべり、義姉が決めた新たな「家のルール」を母が話すのを聞き流していた。その時、家政婦さんが義姉用にとナマコのお粥、野菜炒め、おしるこ、そして彼女の大好物であるすっぽん鍋を用意し、部屋に運んでいた。ふと漂う香りに、思わず気持ちが引き締まるようだった。そんな私の気が緩んでいると、突然、部屋から鋭い叫び声が響いた。「あなたたち、わざとやっているんじゃないの?スープに肉も入ってないじゃない!こんなんじゃ母乳が出ないわよ!」その一言に家中が凍りつき、指名された私と母は驚いて顔を見合わせた。何がそんなに気に障ったのか、まるで理解できない。私はテレビを消して、入口で落ち着かない様子の家政婦さんに目をやり、中の様子を見に行くことその時。「ガシャーン!」と大きな音が響き、部屋の中から皿がトレイごと投げ出され、陶器の破片が四方に飛び散り、危うく私にも当たるところだった。部屋の中では赤ちゃんが泣き叫んでいる。母と家政婦さんが慌てて部屋に駆け込んた。義姉は泣きじゃくる赤ちゃんを放ったまま、母を力づくで押し返し、ドアの前に立ちふさがりながら、険しい顔で母を指差してこう叫んだ。「あなた、女の子だからって軽んじているんでしょう?男の子だったら、こんな扱いはしなかったはず!」母は困惑しながらも、少し焦った表情を浮かべていた。実際、孫娘が生まれた時には父が義姉に200万円を送り、孫娘のためにマンションを購入し、義姉夫婦の名義にしてあげたほどだ。それがどうして「女の子を軽んじる」ことになるのか、理解に苦しむ。その態度を見ていると、私は怒りが沸騰し、彼女の手を払いのけて部屋から引き出し、怒鳴りつけようとしたが、母が鋭い目で私を制した。
私のこの義姉は、ある日、兄が突然連れて帰ってきた人だった。あの年の中秋節、一家揃って食事をしようとしていたところ、兄が義姉を伴って現れた。兄は専門学校卒だが、義姉は正真正銘の大学卒業生。両親も少し驚いていたが、そんな学歴のある女性が兄を選んでくれたことは、我が家にとっても幸運だと思っていた。そこで両親は義姉への好意を示すため、結婚前に彼女にスポーツカーを一台買い与え、さらに、彼女に任せて一軒の別荘を結婚式用の家として選ばせた。ところが、結婚式用の家の引き渡しがまだなのに、義姉が妊娠していることが判明した。両親はすでに彼女を息子の嫁として見ていたものの、あまりのスピードに皆が戸惑うことになった。結婚用の新居はまだ入居できず、他の家はどれも別荘ではないため、義姉は住みたがらず、仕方なく今住んでいる古い別荘で一緒に生活することになった。義姉が未婚のまま妊娠してしまったことへの「謝罪」として、両親は彼女の実家を訪れ、正式に結婚の申し込みをした。しかし、彼女の両親は、彼女を大学まで育てた苦労に対する報酬だとして、4000万円の結納金を要求してきた。そして、大学を出た彼女は「実家に報いる」義務があるからと、弟の養育をサポートするべきだと言い出したのだ。弟の扶養に関しては納得しきれなかったものの、結局両親はその額を支払うことにした。家にとっても大した負担ではなかったからだ。ところが、結婚当日、結婚式の車が義姉の実家に到着すると、彼女の家族が「もう少しお金を出して弟にマンションを買ってくれないなら、結婚はさせない」と言い出した。この知らせをホテルで聞いた母は、怒りのあまり倒れそうになった。父もその場でテーブルを叩き、兄に電話をかけ、「どうしてもこの結婚をするなら、もう家には帰ってくるな」と言い放った。その後、双方で何度ももめた末に、うちがさらに400万円を加えることで、ようやく結婚式が無事に終わった。だが、結婚後は義姉が装いをやめたのか、あるいは結婚の際に何か不満があったのか、ほぼ毎日のように買い物や美容に出かけ、夜遅くまで遊び回る生活が始まった。元々遊び好きな兄も、それにすっかり乗り気で、二人で羽目を外して遊ぶようになった。母が何度か彼女の体を心配して注意したものの、義姉は「妊娠中の自分の気持ちを害するようなことは一切や
翌日、ついに私の頼りない兄が姿を見せた。朝食の席で、兄は母に対してへつらうように笑顔を浮かべていた。「依美は出産したばかりで、情緒が不安定なんだ。だからあまり気にしないでほしい」「情緒不安定?彼女は目先の利益にしか目がないだけだ」と私は兄の言葉を遮った。「もし昨日、彼女の実家にマンションを買ってあげていたら、きっと情緒も安定したでしょうね」兄は困った表情を浮かべ、不満そうに私を咎めた。「お前もさ、少しは彼女をなだめたらどうなんだ」でも、矛先は私なんだから、どうやってなだめろっていうの?「もう少し控えめに怒って」とでも言えっていうの?それじゃ、ますます情けないじゃない。「まったく、所詮似た者同士なんだのね!」と私は席を立ち、即座に言い返した。兄が結婚した途端、まるで別人のように振る舞うなんて。「お前、何を言っているんだ!」案の定、兄も私に怒りを向けた。私と兄が口論し始めると、義姉はその様子を嬉しそうに見つめていた。その時、父が箸をテーブルに叩きつけ、ガラスの上で響く音に一同が思わず身を縮めた。父も昨日の件を知っていたのだろうが、彼は公正な人で、息子だからといって決して肩を持つことはしない。案の定、場が静まり返ると、父は一巡して皆を見渡し、最後に兄に視線を向けて厳かに口を開いた。「兄としての自覚がないなら、妹に対する口のきき方を改めて、今すぐ謝りなさい!」兄は私の前では偉そうにしているが、父に対しては少し畏怖の念を抱いているようだった。しぶしぶと謝罪するものの、声は蚊の鳴くように小さい。事が収まると思っていた矢先、義姉が椅子を勢いよく立ち上がり、母親のように兄をかばう態度を見せた。「お義父さん、炎也は何も悪くないのに、なんで謝らなきゃいけないんですか?それに、芸子はいずれ嫁いでしまうんだから、そんなにお金をかけたところで、他人の家の得になるだけじゃないですか。私の弟を助けてあげてほしいです。せめて赤ちゃんの伯父なんですから、炎也とも将来お互い支え合えるようにしたいんです」大学を出た人の言葉とは思えない発言に、私の常識が崩れ去るのを感じた。兄を見ると、義姉を急いで座らせていたが、その表情には責める気持ちは一切なく、むしろ心の中で彼女を称賛しているようだった。父はすでに兄に対して長年の不満を溜め込ん
この一件で、さすがにしばらくは家が落ち着くかと思った。あの日以来、義姉もさすがに私の前ではブラコン的な発言を控えていたからだ。ところが、その平穏も一週間しか持たなかった。そして義姉はさらなる計略を温めていたようだ。ある日、仕事を終えて帰宅すると、リビングがとんでもない状態になっていた。部屋中が煙に包まれ、床にはお菓子の袋が散乱している。ソファには老夫婦と若い男が座り、テレビの音がリビング中に響き渡っていた。しかもその若い男はタバコをぷかぷかとふかしている。一瞬、泥棒でも入ったのかと思い、慌ててその場から逃げて警察に通報しようとしたところ、その老婦人が目ざとく私を見つけ、「あらあら、これはご親族のお嬢さんじゃないの」と大げさに言って私の手をつかんできた。驚いてよく見れば、それは義姉の両親と弟だった。結婚以来、この一家に対して良い印象はなかったが、義姉のブラコンにはうんざりしていたため、ますます彼らに対する感情は冷えきっていた。私は顔を曇らせ、手を振りほどいて冷たく言った。「子どもがいる家で煙草を吸うなんて、非常識にもほどがあるでしょう?」「ただの女の子じゃないか。そんなに大事にするものでもないわよ。そのうち嫁に行くんだから」と義姉の母は平然とした顔で言い放った。「それに、娘を産んでから息子を産んだんだから、姉が弟の面倒を見るのにちょうどいいね」この義姉の価値観がどこから来たのか、やっと理解した。家族全員が同じ考えを持っているなんて。「そうだよな。女なんて、いずれ嫁いで子供を産むだけさ」彼女の弟もそう言って同調しながら、私をじろじろと見回した。その不躾な視線に嫌悪感が込み上げてきた私は、これ以上彼らと関わりたくないと思い、すぐに執事に来客の見送りを頼んだ。すると、義姉の母は急に表情を変え、「お嬢さん、それってどういう意味?娘の家に泊まって、孫娘を見に来ることも許されないなんて、あなたたちの家族はひどいもんね!」と声を荒げてきた。「そうだ、僕の姉を叩いたんだから、今日はそのお詫びをもらいに来たんだ!」と弟も強気で叫び始めた。「いいわ、じゃあ警察署で話をつけましょう。これは私の家で、名義も私のものですから、無断侵入は犯罪になりますよ?」私は冷ややかに笑い、スマホを取り出して通報しようとした。その時だった。「あい
夜、ベッドに横たわっていると、どうにも眠れなかった。義姉一家が家に居座っていることが思い出され、胸が重苦しくなる。その上、あの義姉の弟が私に向けた不快な視線を思い返すと、まるで口にしたものすべてが腐ったような気持ち悪さがこみ上げてくる。そんな状態で一晩眠れず、翌朝早く、家を離れて会社に行こうと準備をした。階段を下りると、彼女の家族が朝食をとっているのが見え、食欲など消え失せた私は、そのまま玄関に向かった。「お嬢さん、朝ごはん食べないの?」義姉の母が、遠慮のない大声で呼び止めてきた。「いえ、会社に行きますから」と、父母への義理を果たす程度に、軽く返事をした。「じゃあ、ついでに健二を連れて行ってくれない?一緒に行かせてもらって」「はあ?」「誰を?」思わず振り返り、耳を疑った。義姉の弟である健二も声をあげ、「まだ朝ごはん食べてる途中だよ」とぶつぶつ文句を言っている。「食べてる場合じゃないでしょ。さっさと行きなさい、お嬢さんを見習って働くのよ」義姉の母は息子を急かし、私に対しても「お嬢さんは本当にしっかり者ね。将来あなたを嫁に迎える人は幸せねえ」とおだててきた。私は眉をひそめ、訳が分からず父と母を見つめた。一体何を考えているのか、さっぱり理解できなかった。母が咳払いをして困惑した顔で口を開いた。「健二も今年やっと卒業したから、会社で少し学ばせてあげてくれないかしら。あなたが一緒に連れて行ってあげたら…」その言葉を聞いた瞬間、母を驚愕の眼差しで見つめ、反射的に拒否しようとした。しかし、哀願するような母の目と、黙って食事を続ける父を見て、察するものがあった。どうやら義姉が赤ちゃんをダシにして、両親を説得したに違いない。しばらく沈黙した後、最終的に私は健二を会社に連れて行くことを承諾した。
会社に着くと、私は義姉の弟である健二を会議室に連れて行き、総務部に頼んで会社の業務に関する資料をいくつか運んでもらった。「え、直接お姉ちゃんの秘書をさせてくれるんじゃないの?」と彼はふてぶてしい態度で私に近づいてきた。私は呆れた表情で彼を見つめ、彼の顔に不安の色が浮かんできたところでようやく口を開いた。「退勤後に様子を見に来る」とだけ伝えて。彼が何か言いかけるのを無視して会議室を出た。そのフロアには大きな会議室が一つしかなく、エレベーター口には屈強な警備員を二人配置して、健二がそのフロアから出られないようにした。これで彼がどんな手を使おうとも、この場所から出られないはずだ。私はその足で自分のオフィスに戻らず、監視室に行った。すると、案の定、わずか15分も経たないうちに、健二は会議室から抜け出し、あたりをきょろきょろ見回していた。誰も彼に注意を払わないとわかると、悠々とフロア中を歩き回り、各部屋の扉を試して回ったが、どの部屋も会議室ばかりで目ぼしいものは何もない。結局、彼は会議室に戻り、また何か企むような目つきでエレベーターの方へ向かい、外へ出ようとしたが、私の指示を受けている警備員二人が彼を止めた。監視カメラ越しに見ると、健二は警備員を指差して怒鳴り散らしているようだったが、どれだけ怒っても警備員たちは彼を無視して立ち尽くしている。すると突然、健二が片方の警備員に殴りかかり、その警備員はとっさに身をかわしたが、健二の拳は壁にぶつかってしまった。続けざまに彼はもう一人の警備員に向かって突進し、彼を床に倒し、数発殴りつけた。これを見ていたもう一人の警備員が健二を引き剥がし、しっかりと抱き留めて動きを封じた。そろそろ見物は十分だと判断し、隣で一緒に監視カメラを見ていた警備部長に目で合図を送り、私たちは大勢を引き連れて会議室へと向かった。「一体何が起きてるんだ!」エレベーターを出ると、健二が警備員から逃れようと手足を振り回し、倒れている警備員がうめき声を上げているのが目に入った。警備部長は慌ててその警備員の元に駆け寄り、「大丈夫か、どこを殴られたんだ?」と心配そうに尋ねた。私はその様子を見て、「早く病院に行って検査を受けた方がいい。費用は会社が負担します」と焦ったように言ってみせた。そして、健二に向き直り、「これが故意の傷
夜になり、私は一人で病院を訪れ、病室の前で待っていた警備部長が私を出迎えた。「わざわざご自身で来られるなんて、そんなご心配には及びません。私がここで見守っていますから」と、彼は敬意を込めてドアを開けながら言った。「いいのよ、やっぱり一度顔を見ておきたかったの。今回は本当に助かったわ」この警備部長は私の信頼する部下で、彼が私たちの会社に来たのは、数年前、職を失って家族を養う手段がなく、警備員の仕事を求めてきたときだった。当時、ちょうど私が会社を引き継いだばかりで、どこか他人事と思えず、警備部に彼を迎え入れたのだ。すると、彼はとてもよく働き、夜勤や残業もこなしては手を抜かず、盗難防止などでも活躍してくれた。人柄もよく、私は彼を次第に昇進させて、安保部の要となった。今では、彼がいるおかげで警備部の士気も高まり、若い社員たちも彼を尊敬している。その日、私は出勤途中に彼に相談し、義姉の弟にひと芝居打つように頼んでいた。彼に力のある部下二人を配置し、義姉の弟を適度に刺激して手を出させる作戦だった。義姉の弟の性格上、警備員に止められたら必ず腹を立てるだろうと読んでいた。そして案の定、彼は手を出し、これで彼に「社員への暴行」という罪状を突きつけることができ、父も彼らの要求に応じることはなくなるだろう。私が入ってくると、ベッドに横たわっていた警備員は急いで起き上がり、満面の笑みを浮かべて私を見た。「いつになったら退院できるんですか?一日中寝ているのは慣れなくて」「お前、シングルの高級病室にいて、給料も支払ってさらに手当ももらってるんだぞ。これ以上贅沢は言うな」と、警備部長が冗談交じりにからかう。「大丈夫か?怪我してない?」私は少し心配だったが、映像では義姉の弟は体力もなく、喧嘩もお粗末な感じだったとはいえ、実際に大丈夫かと気になった。「全然平気です。小さいころから武術をやってて、あの細腕細足じゃマッサージみたいなもんでしたよ」彼の言葉に安心し、これで会社の中では少しは平穏な日々が続きそうだと、ほっと胸を撫で下ろした。