【高見陽介】
帰国子女らしいって話。
何か国語だ?
ぺらっぺらで。取ってくる契約は桁違いの大口だったり、それでいて会話もスマートで偉ぶらない。ビジュアルも完璧、男の俺から見たら怪物みたいな存在の上司。まだ若いからって課長職に甘んじていたけど、将来約束された本物のエリートだった。
普段なら争う対象でもなく、同期じゃなくて良かったと思うくらいだ。仕事でなんか敵うわけもねーから成績を比べたことすらなかったけど。
「ごめんね、陽ちゃん。私、真田さんに着いて行きたいの」
独立した鉄人上司に、彼女を取られた。
この時ばかりは、流石に腸煮えくり返ったとも。「おい陽介……もう帰ろうって」
同僚に自棄酒に付き合わせて、半分は酔ったフリの蛇行歩きだ。浩平がさりげなくタクシー乗り場に誘導していることに、気付かないわけがない。
「嫌だ! 俺はまだまだ飲むぞまだ日付変わったばっかだろ!」
「日付変わったから帰ろうっつってんだろうがしばくぞこら」あー、明日の朝、酒抜けねえかも。
残った理性がそう冷静に判断するけど、入社した頃から二年付き合った彼女を掻っ攫われた心の痛手は、酒で誤魔化そうとする程度には、ダメージはでかかった。秋を迎えて夜は少々肌寒い。酒効果で妙にチカチカする視界で空に浮かぶ月を見ると、尚更感傷に浸りたくなる。
ってか、翔子。
お前結構いい女だったけど、所詮一般の部類だ。あれはさすがに格が違いすぎるって。
雲の上の存在過ぎてまさかのノーマークだったわ。そのうちポイっと捨てられるに決まってる。
本気で心配したけれど、それは言わなかった。
余りにも惨めだろ。 可哀想だろ、俺が。 「唯一勝てそうなのって背の高さしかねぇな……」 「あー、人混みでも難なく見つけられる立派な長所だ誇りに思え」夜風同様、浩平の態度が冷たい。愚痴を垂れ流し過ぎたのか、受け流しもぞんざいになってきた。これ以上面倒がられないようにそろそろ帰るか、とさっき通り過ぎたタクシー乗り場を振り返ろうとしたが、浩平の言葉に引き留められた。
「そうだ。そんなに飲みたきゃ、いいとこ連れてってやる」
何かを思いついたようにそう言って、突然すぐ傍の角で左に曲がる。
「なんだよいいとこって」
風俗とか言うなよ。
俺は今は女より酒が欲しい。「ショットバーだよ」
「ああ、なんだ」「で、めちゃくちゃ美人がいる」
「……へ、へえー……」いやいや。
女は今はいらないんだけどね。 でも、美人だと聞くと当然俺も興味を引かれるわけだ。「とりあえず酒が飲めるなら俺はいいんだ」
浩平のいう美人には用はないと素知らぬフリで後を着いて行く。
「心配すんな、当然酒も美味い」
「へえ、そりゃ楽しみ」「それに男だ」
「は?」「でも、男前ってより……すんげー美人なんだよ」
……は? 美人だけど、男なんだよな?
浩平の鼻の下が伸びて見えるのは気のせいか。『美人』という単語が、男に向けて使用されることに違和感が拭えなくて、首を傾げた。
石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。 今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと、クラシック音楽と店内の灯りが漏れてきた。「いらっしゃいませ」 耳に心地よいテノールで迎え入れられる。浩平が先に店へと足を踏み入れたが、俺の方が背が高い為店の中をすぐに見渡せた。 それほど広くはない、廊下にカウンターが添えられたような細長い空間で、しかし奥には僅かながらにテーブル席があるようだった。 カウンターの中に、先ほどの声の持ち主が居るのも見える。 が……しかし。 彼が、浩平の言っていた『美人』なのだろうか?「連れがあるなんて珍しいね」 「コイツがどうしても飲みたいって、こんな時間までつき合わされてたんすよ」 カウンターの男と視線が合って「どうも」と会釈をしながら浩平に続いて店内に滑り込む。「マスター、目が冷めそうなの作ってやってください」 「ははは。酒飲みに来てるのに、冷めそうなやつって」 カウンターに座るとマスターはすぐにオシボリを二つ、トントンと並べて、浩平の無茶振りに「難しいな」と笑った。 年は多分、三十後半か四十くらい。 確かにイケメンではあるけれど……顎に少し髭を残した、どちらかというと男くさい男前だった。「同じ会社の?」 「同期なんすよ。浩平がこんな洒落た店に出入りしてるとは知りませんでしたよ」 「いつもは一人で来てんだよ、今日は特別に教えてやったの!」 ジンベースの……なんだっけ? マスターが言ってたけど忘れた。どちらかというと辛口のカクテルはライムが効いてて酔いはあっても目は冴えそうだった。 浩平とマスターが会話しているのを聞きながら、噂の『美人』は一体誰のことなのかと、ちらりと店内を見渡したけど他に誰も見当たらない。 なんだ。 じゃあやっぱ、このおっさんが浩平の言う美人なのか。 釈然としない気分でグラスを空けた時だった。カウンターの中にある恐らくは食糧庫だとか従業員用のスペースの扉が開く。「あ、いらっしゃいませ」 飲ん
すらりとした立ち姿だが、然程高くはない。多分、170と少しくらいだろうが、小さな顔と長い手足が実際よりも長身に見せている。 「佑さん、これ。モンヴィーゾ」 「サンキュ。#慎__まこと__#、ここ頼むな」 マスターが真空パックされた何かを受け取り目の前からカウンターの隅へと移動する。代わりにそのマコトと呼ばれた男が正面に立った。 すっと通った鼻筋に、ふたつの目は恐ろしいほどに均整がとれていた。これが黄金比というやつだろうか。地毛なのか染めているのか、明るい髪色は日本人離れした顔立ちによく似合っている。緩くウェーブのかかった長めの前髪の間から、切れ長のアーモンド形をした目がたっぷりの色気を湛えてこちらを見ていた。 店内の少しオレンジ色を滲ませた灯りの中でもよくわかるほどに白い肌と、ビスクドールのように整った双眸は、確かに『美人』だ。 「いらっしゃい浩平さん。珍しい時間帯ですね」 「ちょっとね、今日は散々コイツに振り回されてんの」 浩平と話す穏やかでしっとりと柔らかいアルトを聞きながら、思わずじっと凝視していると、その薄茶色の瞳がこちらを向いた。 「こちらは初めての方ですよね。いらっしゃいませ、ようこそbarプレジスへ」 「どうも。高見です」 澄ました顔で答えたものの、ちょっとびびった。 いやいや落ち着け俺。 いくら綺麗でも男だから! っつかなんで苗字名乗ったの俺。 俺も名前で呼ばれたかった! 「何澄ましてんだよ陽介」 「たっ」 ばしん、と後頭部を叩かれて頭が前方に垂れる。 「何すんだよ」 「気取ってるからだろ」 「んなことないだろいつもこんなんだろ」 浩平と馬鹿なやり取りをしていたら結局化けの皮は剥がれてしまった。 くそ、ちょっとくらい気取らせろ。 普段居酒屋ばっかりだから、微妙に緊張するんだよ。 妙に小慣れた感じの浩平に敗北感を抱かされ横眼で睨んだら、目の前からくすりと含み笑いが聞こえた。 「何かお作りしますか?」 その声に視線を向けると、男の目がすっと下に落ちて空のグラスを示している。 「あー、じゃあ、同じもので」 「かしこまりました」 カクテルなんてそれほど詳しくもないし、咄嗟に思い浮かばなくて結局そう答えた。 慣れてないのなんてきっとバレバレなんだろうな。いくら気取っても隣から
「どうぞ」と新しいグラスを置いて入れ違いで空のそれを引き上げていく。グラスの中には半分絞られたライムがそのまま沈められていて、マドラーで軽くかき混ぜた。 「はいおまたせ」 マスターが俺と浩平の間に四角い白い皿を置く。そこには数種類の得体のしれないものがバランスよく並べられていて、その一つ一つを凝視して固まった。 ……これ、食えんの? いや、得体はわかる。 チーズなんだろうけど、俺が今まで食ったことのあるチーズとは全く様相が違う。恐らくはブルーチーズだとか多分そんな類の……。 「お前顔に出過ぎ」 「いてっ」 またしても後頭部に衝撃を受けた。 「いちいち叩くな。だってしょうがねーだろ俺が食ったことのあるのはせいぜいカマンベールとかそんなもんなんだよ」 「嘘つけスライスとか三角チーズとかそんなもんだろ」 「俺だってカマンベールくらい食ったことあるわ!」 チーズだと思うにはグロテスクな色合いのそれを目の前に、浩平と馬鹿丸出しの会話をしていると、美人な男がくっと喉を鳴らして肩を震わせているのに気が付いた。 いや、堪えるのとかやめて。 寧ろ笑い飛ばしてネタにしてくれる方が傷つかないから。 「とりあえず食ってみ。俺もここで初めて食ってから癖になって必ず頼むんだよ」 「へー……」 皿の上には比較的手を出しやすい白いチーズと、もうこれ半分はカビだろってくらい黒いものがマーブル状に混じり合ったものまであり、恐る恐る指を伸ばして迷った挙句、俺がつまんだのは、その黒い物体だった。 「うわ、なんだこれ。美味い」 黒の物体は思っていた以上に美味くて、その外観とのギャップに手の中のチーズと見つめ合う。 「言ったろ癖になるって」 何がどう普通のチーズと違うのかというとよくわからないから俺には食レポは務まらない。確かに少し匂いはあるが、気になったのは最初くらいで一口含めばその味に夢中になった。 「おい、全部食うなよ」 「あ、わり。黒いのなくなった」「おまえええ」 「浩平はもう何度も食ってんだろ」 チーズの盛り合わせを挟んで男二人で食い意地の張った言い合いを繰り返していると。 「……っ。ぶふっ……っくくっ、あははは」 ……遂に笑いを取ってしまったらしい。 「最悪、お前のせいで慎さんに笑われた」 「なんでだよお前がケチ
―――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――― 無駄に日当たりのいいこの席が、今日ほど鬱陶しいと思ったことはない。体調が悪いというのに、サンサンと降り注ぎやがって誰だカーテン開けたヤツ。画面が見づらいだろうが。 布団に包まって惰眠を貪って気持ち悪さをやり過ごしたいというのに、当然ながら今日は仕事で、勿論昨日もちゃんとわかっていて飲んだわけだが。 「……ダメだ胃がむかむかする」 あれから慎さんの笑顔に乗せられて何杯飲んだか思い出せない。 どれだけ飲んでも記憶を飛ばすことはないが、かなり調子に乗せられた。 「飲み過ぎだ馬鹿め」 「あの悪魔の微笑に唆されたんだよ」 隣の席で浩平が呆れた声を出す。 コイツは適度にセーブしていたらしく、寝不足のみですんだらしい。 浩平の席からはキーボードを叩く音が途切れることなく続いているが、俺の方は途切れっぱなしだ。 「悪魔ってより天使だろ」 「いや、悪魔だ。一体あの笑みで何人客を掴んでいるのやら」「あそこの女性客の大半は慎さん狙いかマスター狙い、半々ってとこだよな」 「へー……」 やっぱりか、と納得する。 あの店にいる間に、何度も女の甘えた声で『慎さぁん』と彼が呼ばれるシーンを目にする。勿論それが仕事なんだから当たり前っちゃそうなんだけど。 テーブル席に呼ばれては、その足元に跪き。 カウンターで呼ばれては、すらりと高い上半身を屈めて女性の顔を覗き込むようにしてオーダーを聞く。 時には全く関係ない、プライベートギリギリの質問にも嫌な顔一つ見せることなく答えた。 恐らくは、あたりさわりない程度なんだろうが。 ホストクラブかここは! と言いたくなるほど、客の女の表情は恍惚としたものだった。 「あの人目当てで来るの、女だけじゃないって話」 浩平がパソコンから目を離さないまま、衝撃的な言葉を吐いた。 「男にまでモテてんの、あの人」 「所謂あっちの人? そん中でも特に熱心なのが一人いるとかなんとか」 「げー……まじか」 男に好かれるのは勘弁だけどあのモテっぷりは腹立つくらいに羨ましい。 しかもあの環境、ようはただの接客だとわかってても夢中になって通い詰めるくらいのものがあの男にはあるということだ。 「浩平……お前なんであの店連れてった
【慎視点】 コンコン、と部屋の扉をノックする音が二回。 一度は起きたものの、うつらうつらとベッドの中で惰眠を貪っていたのがそのノックで漸く脳が覚醒を始める。「まこと! もう昼回ってるぞ」「はいはいはい」「はいは一回」「ふぁーい」 扉越しに佑さんと会話して、仕方なくうつ伏せのまま腰を上げる。 眠い。 頭がまだ枕とくっついていたいと言って離れない。いつもは昼前には目が覚めてるんだけど……なんで今日はこんなに眠いんだっけと昨夜のことを思い返す。 ああ、そうだ。 夕べ初めて来た客が朝方近くまで店に居座って、結局後片付けを終えたのが朝の六時を回ったからだ。 週末でもないのに、あの会社員二人組は無事に出社したんだろうか。 いつもの客に連れられてきた、デカい図体の若い会社員を思い出してくすりと笑った。思ったことが言葉以上に全部顔に出ていて、きっと隠し事なんか元々できないタイプだろう。 しかも不慣れなのをちょっと気にしている癖に気取り切れてないところとかが、わざと笑いを取ろうとしていたとしか思えない。 それにしても、よく飲む男だった。随分飲んでたけど、女に振られたとか話してたな。気分転換に今後もうちを使ってくれるなら万々歳だ。 欠伸を一つかみ殺してからなんとか枕と頭を切り離し、胡坐をかいたまま大きく伸びをすると、ベッドから降りて部屋備え付けの浴室に向かった。 此処は以前佑さんが住んでいたbarプレジスの奥にある住居スペースだ。 つまり半地下にある。その為、窓は天井に近いくらい高いところに明り取り程度の横長のものがあるだけだ。だから昼夜の区別をいまいち感じにくい。人間、朝日を浴びなきゃ体が目覚めない、という話はきっと本当だろうと思う。 シャワーで無理やり覚醒させて、シャツとスラックスで簡単に身支度を整えると、部屋を後にした。 ほんの2メートルほどの短い廊下があり、右側に食糧庫の扉、そして廊下の先の扉を開けると、店舗のカウンター内に出る。「おはよー、佑さん」 佑さんは今は近くにマンションを借りていて、そこから店に通ってくれていた。「はよ。すぐできるから座ってろよ」 ガスレンジの前に立つ佑さんの手元から、じゅわ、という音をさせて、油と何かを焼く匂いがする。「佑さん、何作ってんの」「お前の朝飯」 そうだと思った、と顔を顰めた。「起き
青白いのは別に、朝を食べないからではなく貧血のせいだ。 朝方頃から感じる下腹部の鈍痛に、気分も最悪に落ち込んでいく。「ほらよ」「げ……朝からこんなに食えないって」 皿に盛られた油の滲んだソーセージと目玉焼きに、顔を顰めて舌を出すと佑さんがトースターから食パンを一枚別の皿に乗せてきた。トーストならまだ何とか胃に収まりそうだと、そちらから手を出してのろのろと咀嚼する。 佑さんも食べるのかと思ったら、どうやら僕の分だけらしい。 丸椅子に座って珈琲を飲みながら新聞を読み始めていた。「あ、そうだ。マリちゃんから、今週末に僕の誕生日のお祝いをやりたいって相談されたんだけど」「って、祝われる本人に相談するってどうよ」 佑さんが呆れた声でそう言った。 まあ、マリちゃんが僕に敢えてそう連絡してきたのは、暗に二人でお祝いをしたいって意味なんだろう。「デートしたいって意味なんだろうけど。ありがとうお店で待ってるね、って返信しといた」「……お前、鬼だな」「だって週末だよ? 子供じゃあるまいし自分の誕生日のお祝いするからって店休むとかありえないよ」「まー……マリちゃんはちょっと、ネジ飛んでるよな」「可愛いんだけどね」 そう、マリちゃんは小さくて華奢で顔も好みだし、一生懸命距離を縮めようとするとことか見てて可愛らしいな、と思うけど。 僕にとったら通ってくれる大事なお客様の中の一人で、それ以上でも以下でもない。誰かを特別に扱うつもりもないから、こういう時にちょっと困る。「まこと。もうちょい、客との接し方考えろよ」「何が」「接客とかさ、近すぎんだよ。本気で勘違いする奴出てくるぞ」 ばさり、と音を立てて新聞を捲りながら佑さんの目がちらりとだけこちらを向いた。「別に僕は、店にいる間は気分よくお酒を飲んで楽しんでもらいたいだけだよ」 僕は食べる気の起きないソーセージをフォークで転がして、軽く突き刺すと、がじりと少しだけ、噛みついて咀嚼する。「その距離が近いっての。スマホの番号だって簡単に教えんなよ」「客に使わなかったら何に使うんだよ」 そういやスマホどこ行った、と記憶を掘り起こして思い出したのはこのカウンターの隅。ちょっと前屈みになって首を伸ばすと、思った通り水のデキャンタの陰にほったらかしになっていた。 昨日、そのマリちゃんからの連絡に返信し
青白いのは別に、朝を食べないからではなく貧血のせいだ。 朝方頃から感じる下腹部の鈍痛に、気分も最悪に落ち込んでいく。「ほらよ」「げ……朝からこんなに食えないって」 皿に盛られた油の滲んだソーセージと目玉焼きに、顔を顰めて舌を出すと佑さんがトースターから食パンを一枚別の皿に乗せてきた。トーストならまだ何とか胃に収まりそうだと、そちらから手を出してのろのろと咀嚼する。 佑さんも食べるのかと思ったら、どうやら僕の分だけらしい。 丸椅子に座って珈琲を飲みながら新聞を読み始めていた。「あ、そうだ。マリちゃんから、今週末に僕の誕生日のお祝いをやりたいって相談されたんだけど」「って、祝われる本人に相談するってどうよ」 佑さんが呆れた声でそう言った。 まあ、マリちゃんが僕に敢えてそう連絡してきたのは、暗に二人でお祝いをしたいって意味なんだろう。「デートしたいって意味なんだろうけど。ありがとうお店で待ってるね、って返信しといた」「……お前、鬼だな」「だって週末だよ? 子供じゃあるまいし自分の誕生日のお祝いするからって店休むとかありえないよ」「まー……マリちゃんはちょっと、ネジ飛んでるよな」「可愛いんだけどね」 そう、マリちゃんは小さくて華奢で顔も好みだし、一生懸命距離を縮めようとするとことか見てて可愛らしいな、と思うけど。 僕にとったら通ってくれる大事なお客様の中の一人で、それ以上でも以下でもない。誰かを特別に扱うつもりもないから、こういう時にちょっと困る。「まこと。もうちょい、客との接し方考えろよ」「何が」「接客とかさ、近すぎんだよ。本気で勘違いする奴出てくるぞ」 ばさり、と音を立てて新聞を捲りながら佑さんの目がちらりとだけこちらを向いた。「別に僕は、店にいる間は気分よくお酒を飲んで楽しんでもらいたいだけだよ」 僕は食べる気の起きないソーセージをフォークで転がして、軽く突き刺すと、がじりと少しだけ、噛みついて咀嚼する。「その距離が近いっての。スマホの番号だって簡単に教えんなよ」「客に使わなかったら何に使うんだよ」 そういやスマホどこ行った、と記憶を掘り起こして思い出したのはこのカウンターの隅。ちょっと前屈みになって首を伸ばすと、思った通り水のデキャンタの陰にほったらかしになっていた。 昨日、そのマリちゃんからの連絡に返信し
【慎視点】 コンコン、と部屋の扉をノックする音が二回。 一度は起きたものの、うつらうつらとベッドの中で惰眠を貪っていたのがそのノックで漸く脳が覚醒を始める。「まこと! もう昼回ってるぞ」「はいはいはい」「はいは一回」「ふぁーい」 扉越しに佑さんと会話して、仕方なくうつ伏せのまま腰を上げる。 眠い。 頭がまだ枕とくっついていたいと言って離れない。いつもは昼前には目が覚めてるんだけど……なんで今日はこんなに眠いんだっけと昨夜のことを思い返す。 ああ、そうだ。 夕べ初めて来た客が朝方近くまで店に居座って、結局後片付けを終えたのが朝の六時を回ったからだ。 週末でもないのに、あの会社員二人組は無事に出社したんだろうか。 いつもの客に連れられてきた、デカい図体の若い会社員を思い出してくすりと笑った。思ったことが言葉以上に全部顔に出ていて、きっと隠し事なんか元々できないタイプだろう。 しかも不慣れなのをちょっと気にしている癖に気取り切れてないところとかが、わざと笑いを取ろうとしていたとしか思えない。 それにしても、よく飲む男だった。随分飲んでたけど、女に振られたとか話してたな。気分転換に今後もうちを使ってくれるなら万々歳だ。 欠伸を一つかみ殺してからなんとか枕と頭を切り離し、胡坐をかいたまま大きく伸びをすると、ベッドから降りて部屋備え付けの浴室に向かった。 此処は以前佑さんが住んでいたbarプレジスの奥にある住居スペースだ。 つまり半地下にある。その為、窓は天井に近いくらい高いところに明り取り程度の横長のものがあるだけだ。だから昼夜の区別をいまいち感じにくい。人間、朝日を浴びなきゃ体が目覚めない、という話はきっと本当だろうと思う。 シャワーで無理やり覚醒させて、シャツとスラックスで簡単に身支度を整えると、部屋を後にした。 ほんの2メートルほどの短い廊下があり、右側に食糧庫の扉、そして廊下の先の扉を開けると、店舗のカウンター内に出る。「おはよー、佑さん」 佑さんは今は近くにマンションを借りていて、そこから店に通ってくれていた。「はよ。すぐできるから座ってろよ」 ガスレンジの前に立つ佑さんの手元から、じゅわ、という音をさせて、油と何かを焼く匂いがする。「佑さん、何作ってんの」「お前の朝飯」 そうだと思った、と顔を顰めた。「起き
―――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――― 無駄に日当たりのいいこの席が、今日ほど鬱陶しいと思ったことはない。体調が悪いというのに、サンサンと降り注ぎやがって誰だカーテン開けたヤツ。画面が見づらいだろうが。 布団に包まって惰眠を貪って気持ち悪さをやり過ごしたいというのに、当然ながら今日は仕事で、勿論昨日もちゃんとわかっていて飲んだわけだが。 「……ダメだ胃がむかむかする」 あれから慎さんの笑顔に乗せられて何杯飲んだか思い出せない。 どれだけ飲んでも記憶を飛ばすことはないが、かなり調子に乗せられた。 「飲み過ぎだ馬鹿め」 「あの悪魔の微笑に唆されたんだよ」 隣の席で浩平が呆れた声を出す。 コイツは適度にセーブしていたらしく、寝不足のみですんだらしい。 浩平の席からはキーボードを叩く音が途切れることなく続いているが、俺の方は途切れっぱなしだ。 「悪魔ってより天使だろ」 「いや、悪魔だ。一体あの笑みで何人客を掴んでいるのやら」「あそこの女性客の大半は慎さん狙いかマスター狙い、半々ってとこだよな」 「へー……」 やっぱりか、と納得する。 あの店にいる間に、何度も女の甘えた声で『慎さぁん』と彼が呼ばれるシーンを目にする。勿論それが仕事なんだから当たり前っちゃそうなんだけど。 テーブル席に呼ばれては、その足元に跪き。 カウンターで呼ばれては、すらりと高い上半身を屈めて女性の顔を覗き込むようにしてオーダーを聞く。 時には全く関係ない、プライベートギリギリの質問にも嫌な顔一つ見せることなく答えた。 恐らくは、あたりさわりない程度なんだろうが。 ホストクラブかここは! と言いたくなるほど、客の女の表情は恍惚としたものだった。 「あの人目当てで来るの、女だけじゃないって話」 浩平がパソコンから目を離さないまま、衝撃的な言葉を吐いた。 「男にまでモテてんの、あの人」 「所謂あっちの人? そん中でも特に熱心なのが一人いるとかなんとか」 「げー……まじか」 男に好かれるのは勘弁だけどあのモテっぷりは腹立つくらいに羨ましい。 しかもあの環境、ようはただの接客だとわかってても夢中になって通い詰めるくらいのものがあの男にはあるということだ。 「浩平……お前なんであの店連れてった
「どうぞ」と新しいグラスを置いて入れ違いで空のそれを引き上げていく。グラスの中には半分絞られたライムがそのまま沈められていて、マドラーで軽くかき混ぜた。 「はいおまたせ」 マスターが俺と浩平の間に四角い白い皿を置く。そこには数種類の得体のしれないものがバランスよく並べられていて、その一つ一つを凝視して固まった。 ……これ、食えんの? いや、得体はわかる。 チーズなんだろうけど、俺が今まで食ったことのあるチーズとは全く様相が違う。恐らくはブルーチーズだとか多分そんな類の……。 「お前顔に出過ぎ」 「いてっ」 またしても後頭部に衝撃を受けた。 「いちいち叩くな。だってしょうがねーだろ俺が食ったことのあるのはせいぜいカマンベールとかそんなもんなんだよ」 「嘘つけスライスとか三角チーズとかそんなもんだろ」 「俺だってカマンベールくらい食ったことあるわ!」 チーズだと思うにはグロテスクな色合いのそれを目の前に、浩平と馬鹿丸出しの会話をしていると、美人な男がくっと喉を鳴らして肩を震わせているのに気が付いた。 いや、堪えるのとかやめて。 寧ろ笑い飛ばしてネタにしてくれる方が傷つかないから。 「とりあえず食ってみ。俺もここで初めて食ってから癖になって必ず頼むんだよ」 「へー……」 皿の上には比較的手を出しやすい白いチーズと、もうこれ半分はカビだろってくらい黒いものがマーブル状に混じり合ったものまであり、恐る恐る指を伸ばして迷った挙句、俺がつまんだのは、その黒い物体だった。 「うわ、なんだこれ。美味い」 黒の物体は思っていた以上に美味くて、その外観とのギャップに手の中のチーズと見つめ合う。 「言ったろ癖になるって」 何がどう普通のチーズと違うのかというとよくわからないから俺には食レポは務まらない。確かに少し匂いはあるが、気になったのは最初くらいで一口含めばその味に夢中になった。 「おい、全部食うなよ」 「あ、わり。黒いのなくなった」「おまえええ」 「浩平はもう何度も食ってんだろ」 チーズの盛り合わせを挟んで男二人で食い意地の張った言い合いを繰り返していると。 「……っ。ぶふっ……っくくっ、あははは」 ……遂に笑いを取ってしまったらしい。 「最悪、お前のせいで慎さんに笑われた」 「なんでだよお前がケチ
すらりとした立ち姿だが、然程高くはない。多分、170と少しくらいだろうが、小さな顔と長い手足が実際よりも長身に見せている。 「佑さん、これ。モンヴィーゾ」 「サンキュ。#慎__まこと__#、ここ頼むな」 マスターが真空パックされた何かを受け取り目の前からカウンターの隅へと移動する。代わりにそのマコトと呼ばれた男が正面に立った。 すっと通った鼻筋に、ふたつの目は恐ろしいほどに均整がとれていた。これが黄金比というやつだろうか。地毛なのか染めているのか、明るい髪色は日本人離れした顔立ちによく似合っている。緩くウェーブのかかった長めの前髪の間から、切れ長のアーモンド形をした目がたっぷりの色気を湛えてこちらを見ていた。 店内の少しオレンジ色を滲ませた灯りの中でもよくわかるほどに白い肌と、ビスクドールのように整った双眸は、確かに『美人』だ。 「いらっしゃい浩平さん。珍しい時間帯ですね」 「ちょっとね、今日は散々コイツに振り回されてんの」 浩平と話す穏やかでしっとりと柔らかいアルトを聞きながら、思わずじっと凝視していると、その薄茶色の瞳がこちらを向いた。 「こちらは初めての方ですよね。いらっしゃいませ、ようこそbarプレジスへ」 「どうも。高見です」 澄ました顔で答えたものの、ちょっとびびった。 いやいや落ち着け俺。 いくら綺麗でも男だから! っつかなんで苗字名乗ったの俺。 俺も名前で呼ばれたかった! 「何澄ましてんだよ陽介」 「たっ」 ばしん、と後頭部を叩かれて頭が前方に垂れる。 「何すんだよ」 「気取ってるからだろ」 「んなことないだろいつもこんなんだろ」 浩平と馬鹿なやり取りをしていたら結局化けの皮は剥がれてしまった。 くそ、ちょっとくらい気取らせろ。 普段居酒屋ばっかりだから、微妙に緊張するんだよ。 妙に小慣れた感じの浩平に敗北感を抱かされ横眼で睨んだら、目の前からくすりと含み笑いが聞こえた。 「何かお作りしますか?」 その声に視線を向けると、男の目がすっと下に落ちて空のグラスを示している。 「あー、じゃあ、同じもので」 「かしこまりました」 カクテルなんてそれほど詳しくもないし、咄嗟に思い浮かばなくて結局そう答えた。 慣れてないのなんてきっとバレバレなんだろうな。いくら気取っても隣から
石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。 今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと、クラシック音楽と店内の灯りが漏れてきた。「いらっしゃいませ」 耳に心地よいテノールで迎え入れられる。浩平が先に店へと足を踏み入れたが、俺の方が背が高い為店の中をすぐに見渡せた。 それほど広くはない、廊下にカウンターが添えられたような細長い空間で、しかし奥には僅かながらにテーブル席があるようだった。 カウンターの中に、先ほどの声の持ち主が居るのも見える。 が……しかし。 彼が、浩平の言っていた『美人』なのだろうか?「連れがあるなんて珍しいね」 「コイツがどうしても飲みたいって、こんな時間までつき合わされてたんすよ」 カウンターの男と視線が合って「どうも」と会釈をしながら浩平に続いて店内に滑り込む。「マスター、目が冷めそうなの作ってやってください」 「ははは。酒飲みに来てるのに、冷めそうなやつって」 カウンターに座るとマスターはすぐにオシボリを二つ、トントンと並べて、浩平の無茶振りに「難しいな」と笑った。 年は多分、三十後半か四十くらい。 確かにイケメンではあるけれど……顎に少し髭を残した、どちらかというと男くさい男前だった。「同じ会社の?」 「同期なんすよ。浩平がこんな洒落た店に出入りしてるとは知りませんでしたよ」 「いつもは一人で来てんだよ、今日は特別に教えてやったの!」 ジンベースの……なんだっけ? マスターが言ってたけど忘れた。どちらかというと辛口のカクテルはライムが効いてて酔いはあっても目は冴えそうだった。 浩平とマスターが会話しているのを聞きながら、噂の『美人』は一体誰のことなのかと、ちらりと店内を見渡したけど他に誰も見当たらない。 なんだ。 じゃあやっぱ、このおっさんが浩平の言う美人なのか。 釈然としない気分でグラスを空けた時だった。カウンターの中にある恐らくは食糧庫だとか従業員用のスペースの扉が開く。「あ、いらっしゃいませ」 飲ん
【高見陽介】 帰国子女らしいって話。 何か国語だ? ぺらっぺらで。 取ってくる契約は桁違いの大口だったり、それでいて会話もスマートで偉ぶらない。ビジュアルも完璧、男の俺から見たら怪物みたいな存在の上司。まだ若いからって課長職に甘んじていたけど、将来約束された本物のエリートだった。 普段なら争う対象でもなく、同期じゃなくて良かったと思うくらいだ。仕事でなんか敵うわけもねーから成績を比べたことすらなかったけど。「ごめんね、陽ちゃん。私、真田さんに着いて行きたいの」独立した鉄人上司に、彼女を取られた。 この時ばかりは、流石に腸煮えくり返ったとも。「おい陽介……もう帰ろうって」 同僚に自棄酒に付き合わせて、半分は酔ったフリの蛇行歩きだ。浩平がさりげなくタクシー乗り場に誘導していることに、気付かないわけがない。「嫌だ! 俺はまだまだ飲むぞまだ日付変わったばっかだろ!」 「日付変わったから帰ろうっつってんだろうがしばくぞこら」 あー、明日の朝、酒抜けねえかも。 残った理性がそう冷静に判断するけど、入社した頃から二年付き合った彼女を掻っ攫われた心の痛手は、酒で誤魔化そうとする程度には、ダメージはでかかった。 秋を迎えて夜は少々肌寒い。酒効果で妙にチカチカする視界で空に浮かぶ月を見ると、尚更感傷に浸りたくなる。 ってか、翔子。 お前結構いい女だったけど、所詮一般の部類だ。 あれはさすがに格が違いすぎるって。 雲の上の存在過ぎてまさかのノーマークだったわ。 そのうちポイっと捨てられるに決まってる。 本気で心配したけれど、それは言わなかった。 余りにも惨めだろ。 可哀想だろ、俺が。 「唯一勝てそうなのって背の高さしかねぇな……」 「あー、人混みでも難なく見つけられる立派な長所だ誇りに思え」 夜風同様、浩平の態度が冷たい。愚痴を垂れ流し過ぎたのか、受け流しもぞんざいになってきた。これ以上面倒がられないようにそろそろ帰るか、とさっき通り過ぎたタクシー乗り場を振り返ろうとしたが、浩平の言葉に引き留められた。「そうだ。そんなに飲みたきゃ、いいとこ連れてってやる」 何かを思いついたようにそう言って、突然すぐ傍の角で左に曲がる。「なんだよいいとこって」 風俗とか言うなよ。 俺は今は女より酒が欲しい。「ショットバーだよ」