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男は下らぬことに闘争心が湧いたりする《6》

作者: 砂原雑音
last update 最終更新日: 2025-02-11 16:48:14

【慎視点】

 コンコン、と部屋の扉をノックする音が二回。

 一度は起きたものの、うつらうつらとベッドの中で惰眠を貪っていたのがそのノックで漸く脳が覚醒を始める。

「まこと! もう昼回ってるぞ」

「はいはいはい」

「はいは一回」

「ふぁーい」

 扉越しに佑さんと会話して、仕方なくうつ伏せのまま腰を上げる。

 眠い。

 頭がまだ枕とくっついていたいと言って離れない。いつもは昼前には目が覚めてるんだけど……なんで今日はこんなに眠いんだっけと昨夜のことを思い返す。

 ああ、そうだ。

 夕べ初めて来た客が朝方近くまで店に居座って、結局後片付けを終えたのが朝の六時を回ったからだ。

 週末でもないのに、あの会社員二人組は無事に出社したんだろうか。

 いつもの客に連れられてきた、デカい図体の若い会社員を思い出してくすりと笑った。思ったことが言葉以上に全部顔に出ていて、きっと隠し事なんか元々できないタイプだろう。

 しかも不慣れなのをちょっと気にしている癖に気取り切れてないところとかが、わざと笑いを取ろうとしていたとしか思えない。

 それにしても、よく飲む男だった。随分飲んでたけど、女に振られたとか話してたな。気分転換に今後もうちを使ってくれるなら万々歳だ。

 欠伸を一つかみ殺してからなんとか枕と頭を切り離し、胡坐をかいたまま大きく伸びをすると、ベッドから降りて部屋備え付けの浴室に向かった。

 此処は以前佑さんが住んでいたbarプレジスの奥にある住居スペースだ。

 つまり半地下にある。その為、窓は天井に近いくらい高いところに明り取り程度の横長のものがあるだけだ。だから昼夜の区別をいまいち感じにくい。人間、朝日を浴びなきゃ体が目覚めない、という話はきっと本当だろうと思う。

 シャワーで無理やり覚醒させて、シャツとスラックスで簡単に身支度を整えると、部屋を後にした。

 ほんの2メートルほどの短い廊下があり、右側に食糧庫の扉、そして廊下の先の扉を開けると、店舗のカウンター内に出る。

「おはよー、佑さん」

 佑さんは今は近くにマンションを借りていて、そこから店に通ってくれていた。

「はよ。すぐできるから座ってろよ」

 ガスレンジの前に立つ佑さんの手元から、じゅわ、という音をさせて、油と何かを焼く匂いがする。

「佑さん、何作ってんの」

「お前の朝飯」

 そうだと思った、と顔を顰めた。

「起きてすぐ食べれないって言ってんのに」

 元々、朝食を摂るのは余り得意じゃない。加えて昨夜は遅かったから、ほっとけば食べないだろうと今日は早めに来てくれたんだろうけど。

 正直、珈琲以外受け付けない。

 しかもそんな油臭いの。

「いいからちょっとだけでも食え。青白い顔しやがって」

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     石畳の洒落た通りは、街灯もアンティーク感を漂わせて全体のイメージを敢えて統一しているのがわかる。夜は尚更異国の雰囲気を感じさせ、それに倣った店構えが並ぶ中、その店はひっそりとそこにあった。  今はもう照明の落とされたガラス張りの大きな店舗と店舗の間、半畳ほどの狭いステップから地下に繋がる階段を降りていく。暗がりをランプの灯りが照らす中、重厚そうな扉を押し開くと、クラシック音楽と店内の灯りが漏れてきた。「いらっしゃいませ」 耳に心地よいテノールで迎え入れられる。浩平が先に店へと足を踏み入れたが、俺の方が背が高い為店の中をすぐに見渡せた。 それほど広くはない、廊下にカウンターが添えられたような細長い空間で、しかし奥には僅かながらにテーブル席があるようだった。 カウンターの中に、先ほどの声の持ち主が居るのも見える。  が……しかし。  彼が、浩平の言っていた『美人』なのだろうか?「連れがあるなんて珍しいね」 「コイツがどうしても飲みたいって、こんな時間までつき合わされてたんすよ」 カウンターの男と視線が合って「どうも」と会釈をしながら浩平に続いて店内に滑り込む。「マスター、目が冷めそうなの作ってやってください」 「ははは。酒飲みに来てるのに、冷めそうなやつって」 カウンターに座るとマスターはすぐにオシボリを二つ、トントンと並べて、浩平の無茶振りに「難しいな」と笑った。 年は多分、三十後半か四十くらい。  確かにイケメンではあるけれど……顎に少し髭を残した、どちらかというと男くさい男前だった。「同じ会社の?」 「同期なんすよ。浩平がこんな洒落た店に出入りしてるとは知りませんでしたよ」 「いつもは一人で来てんだよ、今日は特別に教えてやったの!」  ジンベースの……なんだっけ?  マスターが言ってたけど忘れた。どちらかというと辛口のカクテルはライムが効いてて酔いはあっても目は冴えそうだった。 浩平とマスターが会話しているのを聞きながら、噂の『美人』は一体誰のことなのかと、ちらりと店内を見渡したけど他に誰も見当たらない。 なんだ。  じゃあやっぱ、このおっさんが浩平の言う美人なのか。 釈然としない気分でグラスを空けた時だった。カウンターの中にある恐らくは食糧庫だとか従業員用のスペースの扉が開く。「あ、いらっしゃいませ」 飲ん

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    【高見陽介】 帰国子女らしいって話。 何か国語だ?  ぺらっぺらで。 取ってくる契約は桁違いの大口だったり、それでいて会話もスマートで偉ぶらない。ビジュアルも完璧、男の俺から見たら怪物みたいな存在の上司。まだ若いからって課長職に甘んじていたけど、将来約束された本物のエリートだった。 普段なら争う対象でもなく、同期じゃなくて良かったと思うくらいだ。仕事でなんか敵うわけもねーから成績を比べたことすらなかったけど。「ごめんね、陽ちゃん。私、真田さんに着いて行きたいの」独立した鉄人上司に、彼女を取られた。 この時ばかりは、流石に腸煮えくり返ったとも。「おい陽介……もう帰ろうって」 同僚に自棄酒に付き合わせて、半分は酔ったフリの蛇行歩きだ。浩平がさりげなくタクシー乗り場に誘導していることに、気付かないわけがない。「嫌だ! 俺はまだまだ飲むぞまだ日付変わったばっかだろ!」 「日付変わったから帰ろうっつってんだろうがしばくぞこら」 あー、明日の朝、酒抜けねえかも。  残った理性がそう冷静に判断するけど、入社した頃から二年付き合った彼女を掻っ攫われた心の痛手は、酒で誤魔化そうとする程度には、ダメージはでかかった。 秋を迎えて夜は少々肌寒い。酒効果で妙にチカチカする視界で空に浮かぶ月を見ると、尚更感傷に浸りたくなる。 ってか、翔子。  お前結構いい女だったけど、所詮一般の部類だ。 あれはさすがに格が違いすぎるって。  雲の上の存在過ぎてまさかのノーマークだったわ。 そのうちポイっと捨てられるに決まってる。 本気で心配したけれど、それは言わなかった。  余りにも惨めだろ。  可哀想だろ、俺が。 「唯一勝てそうなのって背の高さしかねぇな……」 「あー、人混みでも難なく見つけられる立派な長所だ誇りに思え」 夜風同様、浩平の態度が冷たい。愚痴を垂れ流し過ぎたのか、受け流しもぞんざいになってきた。これ以上面倒がられないようにそろそろ帰るか、とさっき通り過ぎたタクシー乗り場を振り返ろうとしたが、浩平の言葉に引き留められた。「そうだ。そんなに飲みたきゃ、いいとこ連れてってやる」 何かを思いついたようにそう言って、突然すぐ傍の角で左に曲がる。「なんだよいいとこって」 風俗とか言うなよ。  俺は今は女より酒が欲しい。「ショットバーだよ」

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