ニュースアプリを開いて見ると、目に入ったのは、黒木グループの記者会見だった。啓司が夏目グループの買収に成功した。これから、この世に、夏目グループは、もう存在しない......ニュースには。啓司の写真が掲載され、彼の横顔はハンサムで元気だった。 写真の下には、多くのコメントがあった。 「啓司君はイケメンで、若くてグループの社長になった」「残念なことに彼は結婚した。結婚相手は夏目家の長女だったのか?」「ビジネス婚、3年前のニュースを忘れたの?結婚式で、啓司君が花嫁を置き去りにした......」「......」インターネットには記憶があった。 紗枝は、3年前の結婚式、腹立った啓司に置き去りされたことを忘れたのに。彼女は続けてコメントを見た。 ここ3年間。 夏目グループが崩壊すると彼女はとっくに分かった。まさかこんなに早くなるとは思わなかった。......啓司は最近とても楽しく過ごしていた。 夏目グループを買収して、やっと復讐出来た。 和彦が笑顔で言った。「3年前、夏目家に結婚を騙され、今、やっとやり返したな」突然話題を替えて、側で働いていた啓司に尋ねた。「啓司君、最近、聾者が頼みに来たのか?」啓司の手が急に止まった。どうしたか分からないが、最近、彼の周りによく紗枝のことを聞かれた。どうして離婚するのに、彼女を追い払わなかったのか?「いいえ」 啓司は冷たく答えた。 和彦が驚いた。夏目家にこんな大きな出来事が起こったのに、紗枝はどうして落ち着いていられるのか。彼は続けて聞き出した。「まさか本当に理解してくれたのか?」「今、夏目家の親子は紗枝を至る所で探していると聞いたが、どこに隠れているだろうね」和彦は続けて喋っていた。 啓司は眉をひそめ、非常に苛立った。 「出て行け!」和彦は唖然とした。 啓司が怒った。和彦は何も言えず、さっさと社長室を出た。 彼が出て行った。啓司は無意識にスマホを手にして、彼女からショートメールも電話もなかった。彼女は本当に頼みに来なかった。ドアの外、和彦は少し心配していた。男として、啓司の行動は可笑しいと思った。表ではいつも通りだったが、一旦紗枝のことを触れると、彼はすぐ怒ってしまった。和彦は外に出て、助
紗枝は右耳から血が流れ出ているように感じた。 彼女はその場でぼんやりして、動かなかった。 夏目美希はそのような臆病で無能な娘を見て、悲しくなった。 テーブルの上の書類を取り上げ、紗枝に渡した。 「じっくり見てくれ!」「お母さんがこれからの進路を選んで上げたのよ」 紗枝はその書類を取り、婚約契約書と書かれているのを見かけた。 開いて見た。「......夏目紗枝は小林一郎と結婚し、小林一郎の残りの人生の世話をすることを約束する......」「小林一郎は、夏目紗枝の家族、すなわち夏目家の今後の生活を維持するため、60億円を提供する......」小林一郎、桃州市の起業家の先輩で、今年78歳。 紗枝の心は急に引き締まった。美希が続けて言った。「小林一郎は、バツイチのあなたでも構わないと、彼と結婚してくれたら、夏目家の復興を助けると言ったわよ」手を紗枝の肩に撫でながら、回答を期待していた。「いいよね、紗枝、お母さんと弟を失望させないだろうね?」 紗枝の顔は青ざめた。 契約書を握りしめて彼女は言った。「啓司とまだ完全に離婚していませんが」美希は気にしなかった。 「小林一郎は、結婚式を挙げて、結婚届は後で出せばいいと言われたの」「どうせ、啓司に愛されてないし、母さんはあなたの意見を尊重し、彼との離婚を承諾するわ」啓司との結婚を挽回できないと思った。美希は息子の言葉を聞いて、娘が若いうちの価値を最大限に引き上げようとした。それを聞くと、紗枝の喉が詰まった。 「一つ質問してもいいですか?」彼女は少し黙ってから言い出した。「私はあなたの実の娘ですか?」美希の顔が強張った。優しいふりを一変して、本性を見せ始めた。「あなたを産むため、私は体型を崩し、世界的なダンサーの夢を諦めた。こんなに恩を仇で返されてがっかりしたわ!」 紗枝は子供の頃から、他人の母親が後悔せず自分の子供を愛していたことをどうしても理解できなかった。そして、自分はお母さんに少しも愛されていなかった。今になっても彼女はまだ理解できていなかった。しかし、一つ分かったことがあった。それは他人からの愛を期待しないことだった。 契約書を閉まって、「お約束できません」と回答した。断られると思わなかったので、美希
周りを見回すと、とても不思議な感じがした。 彼女はまた戻る道を忘れた。 スマホを取り出してナビゲーションしようと思ったが、住む場所も忘れた。やっとのことで思い出した。辰夫はずっと彼女を尾行していた。啓司が離れて間もなく、紗枝が一人で立ち止まった。辰夫は心配してたまらなかった。「紗枝」 啓司が戻ったと思った。少しは期待したが、振り返った瞬間、彼女はがっかりした。辰夫は彼女に駆けついた。「僕の事を本当に覚えてないのか?」彼を見て、やはり思い出せなかった。 「辰夫、忘れた?」 辰夫がヒントを上げた。やっと思い出した。子供の頃、出雲おばさんと一緒に田舎に住んだ時の知り合いだった。当時、辰夫は非常に太っていて、自分ほど背が高くなかった。今では190センチの背の高い男になり、顔も大人気になった。 「思い出した。すごく変わったよね。見て分からないよ」久しぶりに親友と会えて嬉しかった。無理に笑いを作った彼女の顔を見て、辰夫は悲しくなった。 「行こう、家まで送る」 送ったら、彼女がボロボロのホテルに住んでいることに気づいた。 黒木家のような裕福な家は、たとえ離婚したとしても、彼女にこんなところまでさせないだろう。 紗枝は少し気まずくなった。「まずいところを見せてごめん!「ここに住むこと、出雲おばさんに内緒でね。彼女が心配するから」 辰夫はうなずいたが、どうやって彼女を慰めるか分からなかった。夜が更けた。 彼はここに長くいてはまずいと思った。明日に会いに来ると言って帰った。ホテルを出て、駐車所に黒い車が止まっていたことに気づかなかった。紗枝にとっては、どこに住んでも同じだと思った。辰夫が離れた。お酒のせいで胃が痛み始めた。眩暈もした。頭の中に啓司の言葉が浮かんできた。「まるで化け物みたいだぞ!」「この格好、どんな男に好かれると思うのか?」彼女は力込めて顔の化粧と口紅を拭き始めた。荒い動作で青白い顔は赤く腫れた。 うつ病のことを知ってから、彼女は病気についての情報をググった。うつ病の患者は脳に損傷を与える可能性があり、記憶喪失を引き起こすだけでなく、認知機能障害につながる可能性もあり、これにより人々は常に不幸なことについて考え、不幸なことを拡大してみる可能性
しかし、紗枝は、難聴にも拘らず、ピアノを弾いたり、踊ったり、歌ったりして、彼女は普通の人々よりも悪くないと証明した。 これらのニュースが光のようなもので、支えとなり辰夫は立ち上がった。辰夫から彼女の輝かしい過去を語られた。彼女が忘れるところだった。 辰夫に送られ、新しい居場所に辿り着いた。紗枝は微笑んで彼に言った。「ありがとう。元の自分を忘れるところよ」辰夫は彼女と一緒に食事をした。 紗枝が結婚した後に何が起こったのかについて、結局聞けなかった。 ここに泊まった後。 紗枝はスケジュールを確認して、市役所に行く5月15日まであと十数日だった。 お母さんに約束したことを思い出した。 朝、墓参りに行った。 お父さんの墓石の前で、優しいお父さんの写真を見て、紗枝は声が少しかすれた。「お父さん、会いたかった」そよ風が紗枝の頬を優しく撫でた。 彼女は涙でそうとなった。「お父さん、私が会いに行ったら、きっと怒るでしょうか?」手を伸ばして、墓石から落ち葉を一枚一枚取り外した。 「強くなければいけないと思ったが、でも......ごめんなさい......」長く墓石の前に立ってから紗枝は離れた。帰る前に彼女は骨壺を買ってきた。その後、写真屋に行って、不思議と思われた店員さんに白黒写真を撮ってもらった。すべてを終えて住いに戻ることにした。 彼女は車窓の外を見て、気が失った。 そんな時、一本の電話がかかってきた。 出雲おばさんだった。 「紗枝、調子はどう?」出雲おばさんの優しい声を聞いて、無理に微笑んだ。「よかったですよ」出雲おばさんはほっとした。それから彼女を責めた。「またこっそりとお金を置いたのか?使えないよ。預かっておく。もしあなたが商売でもしたい......」ここ数年、紗枝はしばしば彼女に密かにお金を上げた。 田舎で、お金はあんまり使えないから、貯金しておいた。 電話の向こうで出雲おばさんの心配事を聞いて、いつの間にか涙が顔に流れっぱなしだった。 「おばさん、子供の頃みたいに家に連れ帰ってくれますか?」出雲おばさんは戸惑った。 紗枝は言い続けた。「15日に、私を迎えてほしいです」どうして15日まで待たなければならないのか出雲おばさんはわからなかった。
インタビューが終わって葵は紗枝のお母さんに会いに行った。紗枝のお母さんと弟が、紗枝を年寄りに結婚させるつもりだった。60億円と引き換えに。啓司から長い間返事を聞こえなかったため、葵は火に油を注いだ。「紗枝のお母さんの話では、結納金を60億円を要求したそうだ。紗枝はこんな人だと思わなかった。」「また、離婚冷静期間だと、結婚するのが不便だから、まずは結婚式を挙げるって」......お母さんと弟がすでに結婚の準備を始めた。紗枝の言葉を真剣に受け止めなかった。お母さんは彼女が死ぬ勇気がないし、死のうとしないと思った。 彼女は子供の頃から沢山苦労して、それでも死を選んでなかった。今回も間違いなく同じだと思った。 弟は結納金の60億円をとっくに貰った。すでに新しい会社の立ち上げを始めた。彼には罪悪感など全く感じなかったし、紗枝に悔いがあるとも思わなかった。この日、お母さんからショートメールが送られてきた。「小林社長がすでに結婚式の日を選んでいた。丁度今月の15日だった」「あと4日だ。あなたはちゃんと準備をして、今度こそ、男の心を掴んでね。分かったか?」2通のショートメールを見て、紗枝は悲しみ始めた。15日......縁起のいい日だった......そして、彼女と啓司が約束した離婚の手続きの日だった......また、彼女が結婚を強いられた日でもあった......それに、それは彼女がこの世を去ると決めた日でもあった......再び忘れてしまうと心配して、全てノートに記録した。 記入完了。彼女は遺言書を書き始めた。ペンを手に取ったが、何を書けばいいのかわからず、ついに出雲おばさんに言葉を残して、辰夫にも言葉を残した。書き終わって、彼女は遺言書を枕の下に置いた。 3日後。 14日、大雨が降った。 テーブルに置いたスマホの着信音が鳴り続けた。全てお母さんからだった。どこにいるのかを尋ねてきたのだ。明日は結婚式の日。家に帰って、結婚の準備をすべきだったなどなど。紗枝は返事をしなかった。彼女は今日真新しいベゴニア色のドレスに着替え、繊細な化粧をした。 元々素質は悪くなかった。ただ痩せすぎで、顔色が青白すぎただけだった。 鏡を見て、彼女は精緻で艶やかで、啓司と結婚する前の自分に
スマホが紗枝の手から落ちた。雨にびしょ濡れになり、だんだんと画面が暗くなった。 お父さんの墓石にもたれかかり、人形を抱きしめ、冷たい雨に降られる中、お父さんが優しい笑顔で向かって来るのを見たようだった。 ――愛情深い人は理想主義で、情けない人はリアリズムだ。どちらにしても、最後に悔いが残った。......牡丹別荘。電話が切られて、啓司はイライラした。彼が折り返し電話をかけたが、冷たい声が聞こえてきた。「申し訳ありませんが、おかけの電話は電波の届かないところにいるか......」啓司は起きて、コートを着て、出かけようとした。 ドアに着いたとき、立ち止まった。 紗枝は離婚したくないため、わざとそうやったのか。二人は間もなく離婚するだし、彼女が何をしても、自分と何の関係があるのか? 寝室に戻ると、なんだか眠れなくなった。紗枝の言葉、彼の頭に響き続けた。「もし......お母さんと弟がやったことを分かったら、私は......絶対......貴方と結婚しません......」「もし貴方が......葵の事がずっと好きだと......分かったら......私もあなたと結婚しません......」「もしお父さんが......結婚当日に......事故に遭うと分ったら......私は......あなたと結婚しません......」啓司は再び起き上がり、無意識のうちに紗枝の部屋の前に来た。 紗枝がここを離れてから1ヶ月以上経った。 ドアを開けて見ると、真っ暗で、とても重苦しかった。 灯をつけてみて、空っぽで、紗枝の私物は残っていなかった。 啓司が座ってベッドサイドテーブルを開くと、中には小さなノートがあった。 ノートには一言あった。「本当に去ることを選んだ人は一番辛いと思う。なぜなら、彼女の心はすでに数え切れないほどの葛藤を経て、ついに決心したからだ」啓司は綺麗な字を見て、「辛い?」と嘲笑した。 「あなたと一緒にいるここ数年、俺はつらくなかったと思うのか?」彼はノートをゴミ箱に捨てた。 部屋を出るとき、またノートをベッドサイドテーブルに戻した。 部屋を出て、二度と眠れなかった。......一方。辰夫はよく眠れず、この2日間で紗枝がおかしいと思ったが、どこが可笑しいか分
もう1通の遺言書は出雲おばさんへの物だった。開いて見ると、最後の一行に出雲おばさんにアドレスを書き残した。辰夫が駆け足で慌てて出て行った。 郊外の墓地まではそれほど遠くなく、車でわずか20分ぐらいだった。 しかし、辰夫は非常に遠いと思った。 彼は理解できなかった。かつてそんなに光みたいに輝いた人が、どうしてこの道を選んだのか。 これと同時に、彼のように郊外の墓地へ向かう人は、紗枝のお母さん、夏目美希だった。ただし、彼女は60億円のため、紗枝を結婚式に迎えに来たのだった。郊外墓地。大雨。紗枝は墓石の前に倒れ、激しい雨に降られて、長いドレスがすでにびしょ濡れで、痩せた体がさらに浮き彫りに見えて、水に漂った葉っぱのように、すぐにでもこの世から消え去って行くのだろう。辰夫は雨に降られて、大股で紗枝に向かって走った。「紗枝!!」 耳元に風と雨の音だけが響き渡り、辰夫は何の返事も得なかった。紗枝を抱えようとしたときに、彼女の傍らに倒れた空っぽの薬の瓶に気づいた。辰夫は震えた手で紗枝を抱き上げた。 軽い!どうして? 「紗枝、目覚めて!」「眠るな!」言いながら、彼は麓へ走り出した。......「奥様、着きました」運転手が言った。美希は窓の外を見ると、見知らぬ男が目に入った。腕に抱え込んだのは......紗枝だった。「紗枝め!」彼女は眉をひそめ、傘を持ち出して車から降りた。 今日、美希は赤いドレスを着ていて、雨に降られて、裾も濡れ始めた。美希は焦って駆け付けて、紗枝を責めようとした。 怒鳴ろうとしたとき、辰夫の腕に靠れ、力が抜いた紗枝の体、そして青白い顔、閉じった目に......初めて気づいた。彼女はその場で凍りついた。 「紗枝......」 美希は何が起こったかと尋ねようとしたとき、風に吹かれ来た薬瓶に目を向いた。 素早く駆けついて薬瓶を拾い上げ、薬瓶には「睡眠薬」の文字が目に焼き付いた。 この瞬間、美希は数日前、紗枝に言われたことを思い出した。「命を返せば、今後、貴方は私の母親でなくなり、そして私を産んでくれた御恩を返せるでしょう?」 美希の手にした傘が地面に落ちた。 薬瓶を握りしめ、信じられなくて紗枝を睨みつけ、美希の目が雨に降られたのか、水が
「わかった」 太郎は辰夫に向かって歩き出し、紗枝を奪おうとした。 手が伸びた途端、辰夫に力強く蹴飛ばされた。バタンと音を立てて、太郎は数メートル先に倒れ、手でお腹を抱え込み、痛くて話すことができなくなった。 美希が慌てて息子を引き起こそうとした。それと同時に、辰夫を睨んで言い出した。「なんで息子を蹴り飛ばすのか?」辰夫は紗枝を抱え上げ、冷たい目つきで親子を睨み返した。雨水が髪の毛からぽつりぽつりと落ちていた。 親子の前までに来て、一変して修羅みたいに、ゆっくりと言葉吐き出した。「しーねーえ!」親子は驚かされてしばらく何も言えなかった。 辰夫は紗枝を抱えながら、美希に忠告してやった。「紗枝の遺言書には、あなたとの約束の録音があった。今後、一切関係ない事、忘れないで」紗枝が死んでも、彼女の娘になりたくなかった......録音が法的効力を持たないこと、親子の関係を断ち切ることに影響しないこと、紗枝は知っていた。でも、彼女は美希がどんな人なのかをもっともよく知っていた。 美希は面子が一番大切と思っていた。もしこの録音が公開されたら、彼女は娘を殺した罪を背負うことになる。辰夫の脅しで、美希は怪我した息子と一緒に離れた。車に乗り、バックミラー越しに辰夫の腕にある活気のない娘を見て、美希は力込めて拳を握り締めた。「お母さんを責めないで、責めるなら自分を責めろう。啓司の心を掴めなかったなんて。」「この結果、あなたの自業自得だ」一瞬だけ心が痛かったが、すぐ冷酷な彼女に取り戻した。娘の死より、小林社長への対応が最も重要になった。 辰夫は紗枝を近くの病院に連れて行った。オペ室に運ばれた紗枝を見届けた。手術中の3文字を見て、彼が緊張して、うろうろ廊下を歩いた。手術が1時間続いたとき、お医者さんが出てきた。「患者の様子が危篤で、家族の方はどこにいますか?」と聞かれた。辰夫ドキッとした。「彼女は......どうなったの?」 「家族の方ですか? 患者は危篤で、術式変更承認書にサインをお願いします。最大の努力するつもりですが......」とお医者さんが言った。 辰夫が喉を締められたようになり、元の優しさを一変し、襟元を掴んでお医者さんを持ち上げた。 「危篤なんかあり得ない。彼
紗枝は岩崎弁護士に美希の動向を見張るよう依頼した。末期がんでもない限り、決して許すつもりはなかった。帰宅後、紗枝は雷七に父の事故について改めて調査を依頼した。岩崎弁護士は年月が経ち過ぎて証拠は残っていないと言ったが、紗枝は確かな真実が知りたかった。全ての用事を済ませ、ソファに身を沈める。疲れているはずなのに、眠れない。頭の中は混沌としていた。幼い頃の記憶が蘇る。父の優しい顔。「お母さんはとても良い人で、紗枝のことを心から愛しているんだよ」と語る父の声。紗枝の口の中に苦い味が広がった。クッションを強く抱きしめる。そのままソファで横になったまま、いつしか意識が遠のいていった。家政婦は眠り込んだ紗枝を見つけると、そっと毛布を掛けてやった。今日は逸之が不在だった。幼稚園での一泊体験保育の日だったのだ。深夜になってようやく帰宅した啓司に、家政婦が小声で報告した。「旦那様、奥様が午後からずっとソファでお休みになっています。起こすのも気が引けまして……」「このまま寝てらっしゃると、風邪を召されそうで」「分かった。もう休んでいいよ」啓司は静かに告げた。「はい、失礼いたします」家政婦は自室へと引き取った。啓司はソファへと歩み寄り、大きな手を伸ばすと、紗枝を毛布ごと優しく抱き上げた。温もりを感じる柔らかな重みが、腕の中に収まる。二階の寝室まで運び、そっとベッドに横たえる。シャワーを浴びようと身を翻そうとした瞬間、紗枝の細い指が啓司の手首を掴んだ。「行かないで……」啓司は動きを止めた。まさか目を覚ましたのか。声をかけようとした瞬間、紗枝の寝言が漏れ聞こえてきた。「お父さん……紗枝を……置いて……いかないで……」啓司の表情が和らいだ。紗枝は夢の中で父を呼んでいたのだ。すすり泣くような紗枝の声に、啓司は空いた手を伸ばし、その頬に触れた。涙の跡が冷たく残っていた。言葉を詰まらせたまま、啓司はベッドの端に腰を下ろした。紗枝の手を握ったまま、そっと寄り添う。時が流れ、紗枝が目を覚ました時、啓司がベッドヘッドに寄り掛かり、静かな寝息を立てていた。少し身動ぎした紗枝は、下を向いた瞬間、啓司と繋がれたままの手に気付いた。目覚めたばかりの紗枝の記憶に、夢の情景が鮮やかに残っていた。幼い頃、父と一緒に料理を作
実の母親から地獄行きを告げられる――その感覚は、まるで心臓を刃物でゆっくりと抉り出され、粉々に砕かれるような痛みだった。表情こそ平静を装っていたものの、紗枝の胸の奥で鈍い痛みが走った。意識でコントロールできないその痛みは、次第に増していく。苦しみを押し殺すように、紗枝は薄笑いを浮かべた。「美希さん、これからは刑務所でどう後半生を過ごすか、そのことを考えた方がいいんじゃないかしら」「それに、父の遺産を取り戻した後、あなたと昭子がどう生きていくのかも」「鈴木家の今の繁栄のほとんどが、かつての夏目グループの基盤があってこそだってことは、知ってるわ」紗枝が言い終えると、美希の怒りに満ちた視線を無視して立ち上がった。数歩も歩かないうちに、後ろで大きな物音が響いた。振り返ると、美希が椅子から崩れ落ちていた。目は上を向き、腹部を必死に押さえながら、足が制御を失ったように痙攣している。紗枝は呆然と美希を見つめた。一体何が起きているのか、理解できなかった。また演技なのだろうか?すぐに医師が駆けつけ、美希は病院へ搬送された。面会室を出る紗枝の胸中は複雑な思いで満ちていた。外では岩崎弁護士が待っていた。「紗枝さん、美希は何を?」「示談金の額を聞きたがってました」「出雲さんを死に追いやり、夏目社長の遺産を横領しておきながら、よくもそんなことが」岩崎は眉をひそめた。あまりにも打算的な女性は好きになれなかった。夏目社長があれほど深く愛していたのに、本性に気付いたのは最期の時だった。だからこそ、紗枝のための遺言を残したのだろう。紗枝は頷き、美希が痙攣して倒れたことを伝えた。「またですか。病気を装って逃げ切ろうとでも?」岩崎は反射的に言い放った。紗枝も確信が持てず、首を横に振った。「ご安心ください。どんなに暴れようと、刑務所行きは免れません」岩崎弁護士は紗枝がもはやこの母親に期待を寄せていないことを確認すると、これまでの調査結果を明かし始めた。「実は、かなり前から美希さんのことを調べていたんです。社長の死に、どうしても違和感があって」その言葉は、まるで晴天の霹靂だった。「どういうことですか?」紗枝の目が驚きで見開かれた。「お話ししていませんでしたが、社長は亡くなる直前、私に車の故障が人為的なものかどうか、内
角張さんは意外そうな表情を見せた。昭子は彼女を人気のない場所に連れて行き、しばらく話し込んだ。その内容は定かではないが、角張さんはすぐに昭子の世話を引き受けることを約束した。翌日。角張さんがいなくなって、紗枝は久しぶりにぐっすりと眠れた。目覚めてからは作曲をしたり、本を読んだりとゆっくりと過ごした。今は美希と太郎との裁判と、来週月曜の保護者会会長選の結果を待つだけ。午後になって、その穏やかな時間を破る一本の電話が入った。拘置所からだった。美希が紗枝に会いたいと言っているという。「分かりました」紗枝は電話を切り、拘置所へ向かった。一時間後、紗枝は到着した。美希が悲惨な状況にいるだろうと思っていたが、会ってみると身なりは以前と変わらず、髪も新しくセットされていた様子だった。「用件は?」紗枝の声音は冷たかった。美希は紗枝の顔に残る傷跡を見ても、一片の同情も示さず、単刀直入に切り出した。「いくら払えば、訴えを取り下げてくれる?」「もちろん、父の遺産全部よ」「冗談じゃないわ」美希は強い口調で遮った。「私たちは夫婦だったのよ。遺産の半分は当然私のもの。あなたと太郎で残りの半分を分けるのが筋でしょう」「夫婦」という言葉が、紗枝の耳に異様に不快く響いた。「夫婦ですって?美希さん、お忘れのようですけど、夏目グループは父の婚前財産です。半分なんて分けられるはずがない。あなたが受け取れるのは、結婚してからの収益分だけよ」その言葉に美希は言葉を詰まらせた。「私と太郎を追い詰めるつもり?私はあなたの実の母親よ!太郎だってあなたの実の弟じゃない」理詰めでは勝てないと悟った美希は、感情に訴えかけた。「私が死んだら、あなたには血の繋がった家族が何人残るの?それに、あの人は私と太郎をどれだけ大切にしていたか。あの世で、あなたが全財産を奪うのを許すと思う?」紗枝は無表情で美希の訴えを聞き終えると、静かに口を開いた。「知ってるわ。鈴木昭子があなたの実の娘で、私より一歳上だってこと」「そういえば、父は結婚して一年後に私を授かったって言ってたわね」美希の頭の中で轟音が鳴り響いた。驚愕の表情で紗枝を見つめる。紗枝は美希の動揺など意に介さず、さらに畳みかけた。「私を身籠る前に、産褥期も終わってなかったんじゃない?」
「角張さん、だから言ったでしょう!」紗枝の声が鋭く響いた。「家具を動かしちゃダメだって。啓司さんは見えないんですよ。ぶつかって転んでしまうじゃないですか」「私の言うことを聞かないで、勝手に椅子を動かすから。ほら、啓司さんがぶつかってしまったでしょう」角張さんは一瞬呆然とし、我に返って反論しようとした。「でも、あなたが……」「私はいつも気をつけているんです」紗枝は角張さんの言葉を遮った。「動かした家具は必ず元の位置に戻すって。なのに角張さんときたら、私の制止も聞かずに」「綾子さまのお言葉だけを頼りにするのはいいですが、啓司さんのことも考えないと」「パパが怪我したらどうするの?責任取れるの?」逸之が追い打ちをかける。角張さんは母子の畳みかける追及に、顔色を変えて言葉を失った。啓司には二人の芝居が見え透いていたが、敢えて暴くことはせず、紗枝の思惑通りに話を進めた。「角張さん、実家に戻ってください。もう来ていただく必要はありません」角張さんが何か言い訳しようとしたが、一分後にはボディーガードに丁重にエスコートされ、本邸へと送り返された。紗枝と逸之は小さくハイタッチを交わす。その小さな勝利の音を聞きながら、啓司は眉を少し持ち上げた。「新しい夕食を頼めないか」ドア枠に寄りかかりながら言う。人参だらけの料理では、さすがに腹が満たされなかった。「私のを食べる?」紗枝が冗談めかして言うと、啓司の表情が僅かに曇った。自分を利用し終わったとたん、もう構わないというわけか。啓司が背を向けて立ち上がろうとすると、紗枝が慌てて声を掛けた。「まあまあ、実は厨房にもう注文してあるのよ。啓司さんの好きなものを」その言葉に足を止めた啓司は、ゆっくりと食卓に腰を下ろし直した。紗枝は新しい料理を運んできて、啓司の取り皿に取り分けながら優しく言った。「はい、たくさん食べてね」リビングに向かおうとする紗枝に、啓司が薄い唇を開いた。「次から何か要望があるなら、直接俺に言ってくれ。こんな回りくどいことをしなくても」紗枝は一瞬たじろぎ、申し訳なさそうに「ありがとう」と呼び掛けた。お礼を言うと、紗枝はリビングに向かい、動かされた家具を元の位置に戻し始めた。本邸では――角張さんが突然戻ってきたことに、綾子は驚きを隠せなか
「奥様は台所でお食事中でございます。何かございましたら、私にお申し付けください」角張さんが慌てて説明した。「台所?」啓司は眉を寄せた。「なぜそんなところで?こちらに来るように」まさか人参を避けて、こっそり別のものを食べているのか。「申し訳ございません。私どもの習わしでは、女性は男性と同じ食卓につくべきではございませんので」啓司は一瞬、言葉を失った。逸之も呆れ顔だった。いったい何時代の話をしているんだ?「ご心配なく」角張さんは啓司の取り皿に料理を盛りながら続けた。「奥様のお食事も万全に整えてございます」「この料理は……」「はい、私が考えた献立でございます」角張さんが啓司の言葉を遮った。啓司の表情が一段と険しくなる。だが、年配の女性と言い争うのは避け、「紗枝をここに呼んでくれ」と静かに命じた。まさか紗枝があの女の言うことを聞くとは。「それは相済みかねます」角張さんは首を振った。逸之はもう、この新入りの魔女ばあさんの相手などしていられなかった。椅子から降りると、台所へと向かった。そこには、紗枝がプラスチックの小さな椅子に座り、黙々と白いご飯を口に運んでいた。簡易テーブルの上には、無造作に並べられた白っぽい肉の薄切りだけ。炒めてもなければ煮てもいない。ただ蒸しただけの肉に、塩すら最低限しかかかっていなかった。角張さんは「これこそが最も栄養価が高く、妊婦に相応しい食事」と主張していたのだという。紗枝は白いご飯を数口摂っただけで、もう箸が進まなくなっていた。その光景を目にした逸之の瞳に、痛ましさが浮かんだ。「ママ……」紗枝は顔を上げた。「逸ちゃん、どうしたの?早くご飯食べてきなさい」逸之は首を振り、紗枝の傍まで駆け寄った。「外に食べに行こうよ」「だめよ。角張おばあちゃんが、ここで食べるように言ったの。あなたたちは向こうで食べてね」紗枝は逸之にウインクを送った。逸之は即座に意図を察し、わっと泣き出した。「こんなの、犬だって食べないよ!ママがこんなの食べるなんて……」息子の演技の上手さに驚きながらも、紗枝も芝居に乗った。「でも仕方ないの。角張おばあちゃんが、お腹の赤ちゃんのために必要だって」台所からの物音に、角張さんと啓司が引き寄せられてきた。「これは最高級の肉で
「私、賛成です」突如として響いた声は、幸平くんのお母さんだった。凛とした眼差しで言葉を継ぐ。「景之くんのお母さん、必ず投票させていただきます」彼女の大胆な一声をきっかけに、他のママたちも次々と賛同の意を示し始めた。強引で高慢な夢美の会長ぶりに、みんな辟易していたのだ。余りにもスムーズに事が運んだため、帰り道の車中で紗枝は何か引っかかるものを感じていた。だが、角張さんをどう追い払うかという問題の方が差し迫っていた。「どうやったら帰ってもらえるかしら……」紗枝は目を閉じ、独り言を漏らす。朝の八時半に叩き起こされた疲れか、昼近くになって眠気が押し寄せてきていた。「どなたを、でございますか?」ハンドルを握る雷七が尋ねた。「角張さんよ。義母が寄越した栄養士」その話題が出たところで、紗枝は一旦車を止めるよう指示し、外で昼食を取ることにした。食事をしながら、紗枝は角張さんの横暴ぶりを雷七に吐露した。「それなら、簡単な解決法がございますが」雷七が静かに提案する。「簡単?」「啓司様に一言お願いすれば」紗枝は首を横に振った。まだ些細な確執が残る今、彼に頼るのは避けたかった。だが、雷七の言葉がきっかけとなり、素晴らしいアイデアが浮かんだ。「そうよ。啓司に直接頼まなくても、自然と動いてもらう方法があるわ」雷七は黙って紗枝を見つめた。彼はいつも聞き役に徹していた。相手が話さない限り、余計な質問はしない主義だった。紗枝が戻ると案の定、角張さんが威勢よく料理人に指図を出していた。キッチンに近づくと、「角張さん」と声をかけた。「おや、奥様。もうこんな時間です。外でお食事を?」角張さんは威厳に満ちた口調で詰問するような調子だった。その態度は、かつての管理人を思い出させた。「夕食は角張さんにお任せします。ちゃんと食べますから」紗枝は静かに告げた。告げ口が効いたと思い込んだ角張さんの目が、得意げに輝いた。——言うことを聞かないなんて、どうだい?「そうでなくては」角張さんは満足げに、さらに肉料理を増やすよう指示を出そうとした。「角張さん」紗枝が遮った。「私は肉ばかり食べても構いませんが、啓司さんと子供たちは違いますよね?」角張さんは啓司と子供のことをすっかり忘れていた。「ええ、そ
夢美は昭子の来訪に特に驚きもせず、「何か用?」と冷たく言い放った。義姉としての威厳を振りかざすのが習慣になっていて、先日の昭子が自分の立場を擁護してくれたことなど既に忘れていた。昭子はその高慢な態度に一切反応を示さなかった。「お義姉さん、明一くんの様子を見に来ただけです。もう大丈夫なんでしょうか?」息子の話題に、夢美の表情が一変した。背筋を伸ばし、「今日は幼稚園に行きましたの。でも先生からは、凍えた経験のある子は特に注意が必要だって……」溜息まじりに続けた。「明一は私の一人息子なのよ。もし何かあったら……」「ひどい話ですわ。紗枝さんは一体どんな教育をなさっているんでしょう。子供に嘘をつかせて、明一くんを築山に一晩も」昭子は意図的に間を置いて付け加えた。「そんな母親が、また双子を……」最後の一言が決定打だった。これで明一の黒木グループ継承は更に困難になる。夢美は紗枝の双子妊娠を初めて耳にして、雷に打たれたような衝撃を受けた。自分は体外受精で何とか明一を授かったというのに、紗枝はこんなにも簡単に双子を?昭子は種を蒔き終えたと判断し、さりげなく退散した。......一方、紗枝は携帯の修理を済ませ、朝食を取った後、約束のクラブに向かった。豪華な個室では、ママ友たちがくつろぎながら談笑していた。「景之くんのお母さん、本当に太っ腹ね。夢美さんとは大違い」「そうそう。夢美さんって自宅に呼んでは自慢話ばかりよね」でも、なんでわざわざここに集まる必要があったのかしら?プレゼントなら直接渡せばいいのに」みんなが思い思いに話す中、多田さんだけは紗枝の真の意図を察していた。来週の月曜日に保護者会の会長選があるということを、彼女は紗枝に伝えていたのだから。多田さんは周りのママたちを見渡しながら、夢美に知らせるべきか逡巡していた。伝えれば、夢美は自分に好意的になり、夫の商売にも便宜を図ってくれるだろう。一方で黙っていれば、紗枝が会長になっても、せいぜいプレゼント程度の見返りしかない。夫の事業に役立つことはないだろう。散々悩んだ末、多田さんはトイレを口実に席を外し、夢美に電話をかけた。紗枝には内緒にしておけば、両方の機嫌を損ねることなく、むしろ双方から得をできる——そう計算づくで判断した。一方、以前紗枝か
紗枝は拳を握りしめ、冷ややかな眼差しを角張さんに向けた。「黒木家の子供って?私のお腹にいるのは、私の子供よ。何が良くて何が悪いか、母親である私が一番分かっています」「子供のためなら命だって投げ出せる。あなたにそれができますか?」「それに、私の顔のことは余計なお世話です。整形するかどうかは私が決めること。口を挟む権利なんて、あなたにはありません」角張さんは言葉に詰まった。赴任前に聞いていた「おとなしい奥様」という評判は、どうやら事実と違っているようだった。紗枝は立ち上がり、手を差し出した。「携帯を返してください」角張さんは自分が手に負えない女性などいないと思い込んでいた。彼女は手を上げた。返してくれるのかと思った瞬間、角張さんは意図的に手を緩め、スマートフォンを床に落とした。バキッという音と共に、画面にヒビが入る。「まあ申し訳ございません。年のせいで手が滑ってしまいまして」紗枝は深く息を吐き出した。怒りは胎児のためにもよくない。黙って床に落ちた携帯を拾い上げる。氷のような声で告げた。「そうですね。年齢的にもそろそろ隠居なさったら」そう言い残すと、携帯を手に玄関へ向かった。「奥様!どちらへ?」角張さんが慌てて後を追う。紗枝は無視して、雷七に車を出すよう指示を出した。今日はママ友たちとの約束がある。まずは携帯の修理に行って、その後どこかで朝食を取ろう。このままでは角張さんのストレスで高血圧になりそうだ。胎児のことを考えるなら、まずはこの面倒な存在を追い払わないと。紗枝が出て行くなり、角張さんは慌てて綾子に電話をかけた。紗枝の些細な行動も大げさに脚色して告げ口する。綾子は更に紗枝への嫌悪感を募らせた。お腹の孫のことがなければ、とっくに見放していただろう。「妊婦は気分が不安定になるものよ。しっかり面倒を見てあげなさい」綾子は電話を切った。実は角張さんが肉と卵を無理強いしていたことなど知らない。ただ紗枝が贅沢を言い、専属の世話係までつけてやったのに感謝もしないと思い込んでいた。傍らで電話を聞いていた昭子が、可愛らしい表情で声を掛けた。「おばさま、お義姉さんのことを本当に大切になさってるんですね」綾子は昭子の愛らしい横顔を見つめ、さらに好感を深めた。「あなたもこれから母親になるのだから
「考え方が古い」と言われた綾子は一瞬不快な表情を浮かべたものの、逸之の続く言葉に目を輝かせた。「三人分、って?」逸之は小さく頷いた。「うん、ママのおなかには弟か妹が二人いるの」綾子の顔が喜びに満ちあふれた。かねてから孫を望んでいた彼女にとって、紗枝が双子を連れてきたのに続いて、また双子を妊娠したというのは、この上ない朗報だった。お腹の子が生まれれば、四人の可愛い孫に恵まれる——抑えきれない喜びに、綾子は立ち上がると紗枝に向かって声を弾ませた。「まあ、あなた立っているの?早く座って、座って!妊婦が長時間立つのは良くないわ」紗枝は戸惑いを隠せなかった。黒木家の嫁になることを承諾した時以来、こんなに丁寧に扱われたことはなかったのだから。もちろん、これはすべてお腹の子のおかげだということは分かっていた。紗枝は綾子から離れた位置のソファに腰を下ろした。「明日、私の専属だった栄養士を寄越すわ」綾子が続けた。「結構です。家にはシェフがいますから」紗枝はきっぱりと断った。綾子は眉をひそめた。「シェフと栄養士じゃ、まったく違うわ」そう言うと、紗枝の返事を待たずに立ち上がった。「じゃあ、私は帰るわ。角張さんは明日来るから」綾子は玄関を出ると、待たせてあった車に素早く乗り込んだ。紗枝は栄養士の件など気にも留めず、来ても今まで通り過ごせばいいと思っていた。ところが翌朝、啓司と逸之が出かけた八時半、突如として栄養士の角張さんが寝室に押し入ってきて、紗枝を叩き起こしたのだった。まだ目覚めきっていない紗枝は、瞼を擦りながら目の前の女性を見つめた。五十代半ばといったところか、白髪まじりの髪を整え、きちんとしたスーツ姿の女性が立っていた。「奥様、もう八時半ですよ。長時間の睡眠は胎児によくありません」また胎児が、と紗枝は内心で溜息をつく。「角張さん、ですよね?」「はい、そうです。奥様の体調管理のために大奥様からの特命で参りました」せっかくの睡眠を妨げられた以上、もう眠れそうにない。紗枝は重い腰を上げた。階下に降りてみると、いつもなら様々な朝食が並ぶテーブルに、卵と肉類ばかりが所狭しと並べられていた。なぜ肉と卵だけ?紗枝は眉をひそめた。最近ようやく食事ができるようになったものの、肉類を見ただけで吐き気を催すの