実の母親から地獄行きを告げられる――その感覚は、まるで心臓を刃物でゆっくりと抉り出され、粉々に砕かれるような痛みだった。表情こそ平静を装っていたものの、紗枝の胸の奥で鈍い痛みが走った。意識でコントロールできないその痛みは、次第に増していく。苦しみを押し殺すように、紗枝は薄笑いを浮かべた。「美希さん、これからは刑務所でどう後半生を過ごすか、そのことを考えた方がいいんじゃないかしら」「それに、父の遺産を取り戻した後、あなたと昭子がどう生きていくのかも」「鈴木家の今の繁栄のほとんどが、かつての夏目グループの基盤があってこそだってことは、知ってるわ」紗枝が言い終えると、美希の怒りに満ちた視線を無視して立ち上がった。数歩も歩かないうちに、後ろで大きな物音が響いた。振り返ると、美希が椅子から崩れ落ちていた。目は上を向き、腹部を必死に押さえながら、足が制御を失ったように痙攣している。紗枝は呆然と美希を見つめた。一体何が起きているのか、理解できなかった。また演技なのだろうか?すぐに医師が駆けつけ、美希は病院へ搬送された。面会室を出る紗枝の胸中は複雑な思いで満ちていた。外では岩崎弁護士が待っていた。「紗枝さん、美希は何を?」「示談金の額を聞きたがってました」「出雲さんを死に追いやり、夏目社長の遺産を横領しておきながら、よくもそんなことが」岩崎は眉をひそめた。あまりにも打算的な女性は好きになれなかった。夏目社長があれほど深く愛していたのに、本性に気付いたのは最期の時だった。だからこそ、紗枝のための遺言を残したのだろう。紗枝は頷き、美希が痙攣して倒れたことを伝えた。「またですか。病気を装って逃げ切ろうとでも?」岩崎は反射的に言い放った。紗枝も確信が持てず、首を横に振った。「ご安心ください。どんなに暴れようと、刑務所行きは免れません」岩崎弁護士は紗枝がもはやこの母親に期待を寄せていないことを確認すると、これまでの調査結果を明かし始めた。「実は、かなり前から美希さんのことを調べていたんです。社長の死に、どうしても違和感があって」その言葉は、まるで晴天の霹靂だった。「どういうことですか?」紗枝の目が驚きで見開かれた。「お話ししていませんでしたが、社長は亡くなる直前、私に車の故障が人為的なものかどうか、内
紗枝は岩崎弁護士に美希の動向を見張るよう依頼した。末期がんでもない限り、決して許すつもりはなかった。帰宅後、紗枝は雷七に父の事故について改めて調査を依頼した。岩崎弁護士は年月が経ち過ぎて証拠は残っていないと言ったが、紗枝は確かな真実が知りたかった。全ての用事を済ませ、ソファに身を沈める。疲れているはずなのに、眠れない。頭の中は混沌としていた。幼い頃の記憶が蘇る。父の優しい顔。「お母さんはとても良い人で、紗枝のことを心から愛しているんだよ」と語る父の声。紗枝の口の中に苦い味が広がった。クッションを強く抱きしめる。そのままソファで横になったまま、いつしか意識が遠のいていった。家政婦は眠り込んだ紗枝を見つけると、そっと毛布を掛けてやった。今日は逸之が不在だった。幼稚園での一泊体験保育の日だったのだ。深夜になってようやく帰宅した啓司に、家政婦が小声で報告した。「旦那様、奥様が午後からずっとソファでお休みになっています。起こすのも気が引けまして……」「このまま寝てらっしゃると、風邪を召されそうで」「分かった。もう休んでいいよ」啓司は静かに告げた。「はい、失礼いたします」家政婦は自室へと引き取った。啓司はソファへと歩み寄り、大きな手を伸ばすと、紗枝を毛布ごと優しく抱き上げた。温もりを感じる柔らかな重みが、腕の中に収まる。二階の寝室まで運び、そっとベッドに横たえる。シャワーを浴びようと身を翻そうとした瞬間、紗枝の細い指が啓司の手首を掴んだ。「行かないで……」啓司は動きを止めた。まさか目を覚ましたのか。声をかけようとした瞬間、紗枝の寝言が漏れ聞こえてきた。「お父さん……紗枝を……置いて……いかないで……」啓司の表情が和らいだ。紗枝は夢の中で父を呼んでいたのだ。すすり泣くような紗枝の声に、啓司は空いた手を伸ばし、その頬に触れた。涙の跡が冷たく残っていた。言葉を詰まらせたまま、啓司はベッドの端に腰を下ろした。紗枝の手を握ったまま、そっと寄り添う。時が流れ、紗枝が目を覚ました時、啓司がベッドヘッドに寄り掛かり、静かな寝息を立てていた。少し身動ぎした紗枝は、下を向いた瞬間、啓司と繋がれたままの手に気付いた。目覚めたばかりの紗枝の記憶に、夢の情景が鮮やかに残っていた。幼い頃、父と一緒に料理を作
四月の初めに大雨が降った。病院の出口。痩せた夏目紗枝の細い手に、妊娠検査報告書が握られていた。検査結果は見なくても分かった。報告書にははっきりと二文字が書かれていた――『未妊』!「結婚して3年、まだ妊娠してないの?」「役立たずめ!どうして子供を作れないの?このままだと、黒木家に追い出されるよ。そんな時、夏目家はどうする?」夏目美希は派手な服をしていた。ハイヒールで地面を叩きながら、紗枝を指さして、がっかりした顔を見せていた。紗枝の眼差しは空しくなった。心に詰まった言葉が山ほどあったが、一言しか口に出せなかった。「ごめんなさい!」「ごめんなどいらない。黒木啓司の子供を産んでほしい。わかったか?」紗枝は喉が詰まって、どう答えるか分からなくなった。結婚して3年、啓司に触られたこと一度もなかった。子供なんか作れるはずはなかった。弱気で意気地なしの紗枝が自分と一寸も似てないと夏目美希は痛感していた。「どうしても無理があるなら、啓司君に女を見つけてやって、あなたのいい所、一つだけでも覚えてもらったらどうだろう!」冷たい言葉を残して、夏目美希は帰った。その言葉を信じられなくて紗枝は一瞬呆れて、お母さんの後ろ姿を見送った。実の母親が娘に、婿の愛人を探せというのか冷たい風に当たって、心の底まで冷え込んだ。......帰宅の車に乗った。不意にお母さんの最後の言葉が頭に浮かんできて、紗枝の耳はごろごろ鳴り始めた自分の病気が更に悪化したと彼女はわかっていた。その時、携帯電話にショートメールが届いた。啓司からだった。「今夜は帰らない」三年以来、毎日に同じ言葉を繰り返されていた。ここ3年、啓司が家に泊まったことは一度もなかった。紗枝に触れたこともなかった。3年前の新婚の夜、彼に言われた言葉、今でも覚えていた。「お宅は騙して結婚するなんて、いい度胸だね!孤独死を覚悟しろよ!」孤独死......3年前、両家はビジネス婚を決めた。双方の利益について、すでに商談済みだったしかし結婚当日、夏目家は突然約束を破り、200億円の結納金を含め、全ての資産を移転した。ここまで思うと、紗枝は気が重くなり、いつも通りに「分かりました」と彼に返信した。手にした妊娠検査報告書はいつの間にか
「啓司、ここ数年とても不幸だっただろう?」「彼女を愛していないのはわかってるよ。今夜会おう。会いたい」画面がブロックされても、紗枝はまだ正気に戻れなかった。タクシーを拾って、啓司の会社に行こうとした。窓から外を眺めると、雨が止むことなく降っていた。啓司の会社に行くのが好まれないから、行くたびに、紗枝は裏口の貨物エレベーターを使っていた。紗枝を見かけた啓司の助手の牧野原は、「夏目さんいらっしゃい」と冷たそうに挨拶しただけだった。啓司のそばでは、彼女を黒木夫人と見た人は一人もいなかった。彼女は怪しい存在だった。紗枝が届けてくれたスマホを見て、啓司は眉をひそめた。彼女はいつもこうだった。書類でも、スーツでも、傘でも、彼が忘れたものなら、何でも届けに来ていた......「わざわざ届けに来なくてもいいと言ったじゃないか」紗枝は唖然とした。「ごめんなさい。忘れました」いつから物忘れがこんなにひどくなったの?多分葵からのショートメールを見て、一瞬怖かったせいかもしれなかった。啓司が急に消えてしまうのではないかと心配したのかな......帰る前に、我慢できず、ついに彼に聞き出した。「啓司君、まだ葵のことが好きですか?」啓司は彼女が最近可笑しいと思った。ただ物事を忘れたではなく、良く不思議なことを尋ねてきていた。そのような彼女は奥さんにふさわしくないと思った。彼は苛立たしげに「暇なら何かやることを見つければいいじゃないか」と答えた。結局、答えを得られなかった。紗枝は以前に仕事を探しに行ったことがあったが、結局、黒木家に恥をかかせるとの理由で、拒否された。姑の綾子さんにかつて聞かれたことがあった。「啓司が聾者と結婚したことを世界中の人々に知ってもらいたいのか?」障害のある妻......家に帰って、紗枝はできるだけ忙しくなるようにした。家をきれいに掃除していたが、彼女はまだ止まらなかった。こうするしか、彼女は自分が存在する価値を感じられなかったのだ。午後、啓司からショートメールがなかった。いつもなら、彼が怒っていたのか、取り込み中だったのかのどちらかだったと思ったが......夜空は暗かった。紗枝は眠れなかった。ベッドサイドに置いたスマホの着信音が急にな
「あなたはたぶん今まで恋を経験したこともなかっただろう。知らないだろうが、啓司は私と一緒にいたとき、料理をしてくれたし、私が病気になった時、すぐにそばに駆けつけてきたのよ。彼がかつて言った最も温もりの言葉は、葵、ずっと幸せにいてね......」「紗枝、啓司に好きって言われたことがあるの?彼によく言われたの。大人気ないと思ったけどね......」紗枝は黙って耳を傾け、過去3年間啓司と一緒にいた日々を思い出した。 彼は台所に入ったことが一度もなかった......病気になった時、ケアされたことも一度もなかった。愛してるとか一度も言われたことがなかった。紗枝は彼女を冷静に見つめた。「話は終わったの?」葵は唖然とした。紗枝があまりに冷静だったせいか、それとも瞳が透き通って、まるで人の心を見透かせたようだったのか。彼女が離れても葵は正気に戻らなかった。なぜか分からなかったが、この瞬間、葵は昔に夏目家の援助をもらった貧しい孤児の姿に戻ったように思えた。夏目家のお嬢様の目前では、彼女は永遠にただの笑われ者だった......紗枝は葵の言葉に無関心でいられるのだろうか? 彼女は12年間好きだった男が子供のように他の女を好きになったことが分かった。耳の中は再び痛み始め、補聴器を外した時、血が付いたことに気づいた。いつも通り表面から血を拭き取り、補聴器を置いた。眠れなかった...... スマホを手に取り、ラインをクリックした。彼女宛のメッセージは沢山あった。開いてみたら、葵が投稿した写真などだった。最初のメッセージは、大学時代に啓司との写真で、二人は立ち並べて、啓司の目は優しかった。2枚目は2人がチャットした記録だった。啓司の言葉「葵、誕生日おめでとう!世界一幸せな人になってもらうぞ!」3枚目は啓司と二人で手を繋いで砂浜での後姿の写真......4枚目、5枚目、6枚目、沢山の写真に紗枝が追い詰められて苦しくなった......彼女はそれ以上見る勇気がなくて、すぐに電話の電源を切った。この瞬間、彼女は突然、潮時だと感じた。 この日、紗枝は日記にこんな言葉を書いた。――暗闇に耐えることができるが、それは光が見えなかった場合に限られる。翌日、彼女はいつものように朝食を準備した。しかし
今思えば、お父さんはとっくに分かっていた。啓司が紗枝の事が好きじゃなかったことを。 しかし、お父さんは彼女の幸せのため、黒木家と契約を結び、彼女が望むように啓司と結婚させた。 でも、意外なことに、二人が結婚する寸前に、父親が交通事故に遭った。お父さんが他界しなかったら......弟と母親は契約を破ることもなかった......資産譲渡についてのすべての手続きを彰弁護士に任せて、彼女は家へ向かった。帰り道の両側に、葵のポスターがたくさん並べられていた。ポスター上の葵は明るくて、楽観的できれいだった。紗枝は手放す時が来たと思った。啓司を解放して、そして自分も解放されると思った。邸に戻り、荷物を片付け始めた。結婚して3年経ち、彼女の荷物はスーツケース一つだけだった。離婚合意書は、昨年、彰弁護士に用意してもらっていた。 たぶん、啓司の前では、自分が不器用で、プライドがなくて、感情的だったと思った。だから、2人の関係が終わりを迎える運命にあると思って、とっくに離れる準備をしていた...... 夜、啓司からショートメールがなかった。 紗枝が勇気を出してショートメールを送った。「今夜時間ありますか?お話したいことがあります」向こうからなかなか返事が来なかった。 紗枝はがっかりした。メールの返事でもしたくなかったのか。朝に戻ってくるのを待つしかなかった。向こう側。黒木グループ社長室。啓司はショートメールを一瞥して、スマホを横に置いた。親友の和彦は隣のソファに座っていた。それに気づき、「紗枝からか?」と尋ねてきた。啓司は返事しなかった。和彦は何げなく嘲笑した。「この聾者は黒木夫人だと思ったのか。旦那の居場所まで調べたのか?「啓司君、彼女とずっと一緒に過ごすつもり?現在の夏目家はもうだめだ。紗枝の弟の太郎は馬鹿で、会社経営も知らなくて、間もなく、夏目家は潰れるだぞ」「そして、紗枝のお母さんは猶更だ!」 啓司は落ち着いてを聞いていた。「知ってるよ」 「じゃあ、どうして離婚しない?葵はずっと待ってるのよ」和彦は熱心に言った。彼の心の中では、シンプルで一生懸命努力する葵は腹黒い紗枝より何倍優れていると思った。 離婚と思うと、啓司は黙った。 和彦はそれを見て、いくつかの言葉
紗枝は自分の部屋に戻り、沢山の薬を無理やりに飲み込んだ。 耳の後ろに手を伸ばして触れると、指先が真っ赤に染まっていた。 医師のアドバイスが頭に浮かんできた。「紗枝さん、実際には、病気の悪化は患者の気持ちに大きく関わってます。できるだけ感情を安定させ、楽観的になり、積極的に治療に協力してくださいね」楽観的に、言うほど簡単ではなかった。紗枝はできるだけ啓司の言葉を考えないようにして、枕にもたれかかって目を閉じた。外が薄白くなったとき、彼女はまだ起きていた。薬が効いたせいか、彼女の耳がいくらか聴力を取り戻した。 窓から差し込む些細な日差しを見て、紗枝はしばらく茫然としていた。 「雨が止んだ」 本当に人を諦めさせるのは、単なる一つの原因ではなかった。 それは時間とともに蓄積され、最終的には一撃があれば。その最後の一撃は草でも、冷たい言葉でも、些細なことでも可能だった...... 今日、啓司は出かけなかった。 朝早く、ソファに座って紗枝からの謝罪を待っていた。後悔する紗枝を待っていた。 結婚して3年になったが、紗枝がひねくれたことはないとは言えなかった。しかし、彼女がすねて泣いてから暫く、必ず謝りに来た。啓司は、今回も変わりはないと思った。 紗枝が歯磨いて顔を洗ってから、普段着ている暗い服を着て、スーツケースを引きずり、手に紙を持っていた。 紙を渡されたから啓司は初めて離婚合意書であることが分かった。 「啓司君、時間がある時に、連絡してください」 紗枝は啓司にごく普通の言葉を残してスーツケースを引きずりながら出て行った。雨が上がり、澄み切った空だった。 一瞬、紗枝は新たな命を与えられたように感じた。 啓司は離婚合意書を手に取り、リビングルームのソファで凍りついた。 長い間、正気に戻ることができなかった。 紗枝の後ろ姿が彼の前に消えてから、あの女がいなくなったと初めて気づいた。 ただ一瞬だけ落ち込んだが、すぐ冷たい自分に取り戻し、紗枝の家出を忘れた。どうせ、彼の電話一つ、言葉一つで、紗枝は瞬く間に彼の側に戻り、これまで以上に彼を喜ばせるだろうと思った。 今回も、間違いなく同じだろう。 四月最初の週末だった。 例年のこの時期に、啓司は紗枝を連れて実家に戻りお墓参りを
一日中、紗枝から電話もショートメールも一つもなかった。「どのぐらい我慢できるか見て見よう!」啓司はスマホを置いて立ち上がり、厨房に向かった。 冷蔵庫を開けた瞬間、彼は呆れた。 冷蔵庫の中には、一部の食べ物を除いて、漢方薬が沢山入ってた。彼は手にパックを取り、「不妊治療薬」と書かれた。 不妊......啓司は漢方薬の臭い匂いを鼻にした。 以前、紗枝の体に漂っていた薬の匂いを思い出した。その由来をやっとわかった。彼は心の中で嘲笑した。一緒に寝てないのに、どれだけ薬を飲んでも、妊娠することは不可能だろう!薬を冷蔵庫に戻した。啓司は今、紗枝が拗ねる理由を分かった。すぐ気が晴れてリラックスとなった。メインルームに戻って寝た。紗枝がいなくなり、今後、彼女を避ける必要はなく、帰るときに帰ればいいと思った。啓司はぐっすり眠れた。 今日、和彦とゴルフの約束をした。 そこで、朝早くクロークでスポーツウェアに着替えた。 着替えた後、居間まで行き、いつものように紗枝に今日は帰らないと話しかけた。「今日は......」 そこまで話して始めて気づいた。今後、彼女に話す必要がなくなった。ゴルフ場。 啓司は今日いい気分で、白いスポーツウェアをしたため、ハンサムで冷たい顔がかなり柔らかくなった。 びっしりの体型で映画スターのように見えた。スイングすると、ボールはまっすぐ穴に入った。 和彦から褒められた。「啓司君、今日は上機嫌だね。何か良いことでもあったのか......」 紗枝が離婚を申し出たこと、一日たって、周りの人たち皆知っていた。 和彦は知らない筈がなかっただろう...... 彼はただ啓司から直接聞きたかった。ずっと待っていた葵を呼んでこようかと思った。啓司は水を一口飲んで、さり気無く答えた。 「何でもない、ただ紗枝と離婚するつもりだ」それを聞いて、和彦はまだ不思議と思った。啓司の友人として、紗枝のことをよく知っていた。彼女は清楚系ビッチで腹黒い女だった。啓司に付き纏っただけだった。もし離婚できたら、二人はとっくに別れていただろう。3年間待つことなかった。「聾者が納得した?」和彦は聞いた。啓司の目が暗くなった。「彼女が申し出たのだ」和彦は嘲笑いした。「捕
紗枝は岩崎弁護士に美希の動向を見張るよう依頼した。末期がんでもない限り、決して許すつもりはなかった。帰宅後、紗枝は雷七に父の事故について改めて調査を依頼した。岩崎弁護士は年月が経ち過ぎて証拠は残っていないと言ったが、紗枝は確かな真実が知りたかった。全ての用事を済ませ、ソファに身を沈める。疲れているはずなのに、眠れない。頭の中は混沌としていた。幼い頃の記憶が蘇る。父の優しい顔。「お母さんはとても良い人で、紗枝のことを心から愛しているんだよ」と語る父の声。紗枝の口の中に苦い味が広がった。クッションを強く抱きしめる。そのままソファで横になったまま、いつしか意識が遠のいていった。家政婦は眠り込んだ紗枝を見つけると、そっと毛布を掛けてやった。今日は逸之が不在だった。幼稚園での一泊体験保育の日だったのだ。深夜になってようやく帰宅した啓司に、家政婦が小声で報告した。「旦那様、奥様が午後からずっとソファでお休みになっています。起こすのも気が引けまして……」「このまま寝てらっしゃると、風邪を召されそうで」「分かった。もう休んでいいよ」啓司は静かに告げた。「はい、失礼いたします」家政婦は自室へと引き取った。啓司はソファへと歩み寄り、大きな手を伸ばすと、紗枝を毛布ごと優しく抱き上げた。温もりを感じる柔らかな重みが、腕の中に収まる。二階の寝室まで運び、そっとベッドに横たえる。シャワーを浴びようと身を翻そうとした瞬間、紗枝の細い指が啓司の手首を掴んだ。「行かないで……」啓司は動きを止めた。まさか目を覚ましたのか。声をかけようとした瞬間、紗枝の寝言が漏れ聞こえてきた。「お父さん……紗枝を……置いて……いかないで……」啓司の表情が和らいだ。紗枝は夢の中で父を呼んでいたのだ。すすり泣くような紗枝の声に、啓司は空いた手を伸ばし、その頬に触れた。涙の跡が冷たく残っていた。言葉を詰まらせたまま、啓司はベッドの端に腰を下ろした。紗枝の手を握ったまま、そっと寄り添う。時が流れ、紗枝が目を覚ました時、啓司がベッドヘッドに寄り掛かり、静かな寝息を立てていた。少し身動ぎした紗枝は、下を向いた瞬間、啓司と繋がれたままの手に気付いた。目覚めたばかりの紗枝の記憶に、夢の情景が鮮やかに残っていた。幼い頃、父と一緒に料理を作
実の母親から地獄行きを告げられる――その感覚は、まるで心臓を刃物でゆっくりと抉り出され、粉々に砕かれるような痛みだった。表情こそ平静を装っていたものの、紗枝の胸の奥で鈍い痛みが走った。意識でコントロールできないその痛みは、次第に増していく。苦しみを押し殺すように、紗枝は薄笑いを浮かべた。「美希さん、これからは刑務所でどう後半生を過ごすか、そのことを考えた方がいいんじゃないかしら」「それに、父の遺産を取り戻した後、あなたと昭子がどう生きていくのかも」「鈴木家の今の繁栄のほとんどが、かつての夏目グループの基盤があってこそだってことは、知ってるわ」紗枝が言い終えると、美希の怒りに満ちた視線を無視して立ち上がった。数歩も歩かないうちに、後ろで大きな物音が響いた。振り返ると、美希が椅子から崩れ落ちていた。目は上を向き、腹部を必死に押さえながら、足が制御を失ったように痙攣している。紗枝は呆然と美希を見つめた。一体何が起きているのか、理解できなかった。また演技なのだろうか?すぐに医師が駆けつけ、美希は病院へ搬送された。面会室を出る紗枝の胸中は複雑な思いで満ちていた。外では岩崎弁護士が待っていた。「紗枝さん、美希は何を?」「示談金の額を聞きたがってました」「出雲さんを死に追いやり、夏目社長の遺産を横領しておきながら、よくもそんなことが」岩崎は眉をひそめた。あまりにも打算的な女性は好きになれなかった。夏目社長があれほど深く愛していたのに、本性に気付いたのは最期の時だった。だからこそ、紗枝のための遺言を残したのだろう。紗枝は頷き、美希が痙攣して倒れたことを伝えた。「またですか。病気を装って逃げ切ろうとでも?」岩崎は反射的に言い放った。紗枝も確信が持てず、首を横に振った。「ご安心ください。どんなに暴れようと、刑務所行きは免れません」岩崎弁護士は紗枝がもはやこの母親に期待を寄せていないことを確認すると、これまでの調査結果を明かし始めた。「実は、かなり前から美希さんのことを調べていたんです。社長の死に、どうしても違和感があって」その言葉は、まるで晴天の霹靂だった。「どういうことですか?」紗枝の目が驚きで見開かれた。「お話ししていませんでしたが、社長は亡くなる直前、私に車の故障が人為的なものかどうか、内
角張さんは意外そうな表情を見せた。昭子は彼女を人気のない場所に連れて行き、しばらく話し込んだ。その内容は定かではないが、角張さんはすぐに昭子の世話を引き受けることを約束した。翌日。角張さんがいなくなって、紗枝は久しぶりにぐっすりと眠れた。目覚めてからは作曲をしたり、本を読んだりとゆっくりと過ごした。今は美希と太郎との裁判と、来週月曜の保護者会会長選の結果を待つだけ。午後になって、その穏やかな時間を破る一本の電話が入った。拘置所からだった。美希が紗枝に会いたいと言っているという。「分かりました」紗枝は電話を切り、拘置所へ向かった。一時間後、紗枝は到着した。美希が悲惨な状況にいるだろうと思っていたが、会ってみると身なりは以前と変わらず、髪も新しくセットされていた様子だった。「用件は?」紗枝の声音は冷たかった。美希は紗枝の顔に残る傷跡を見ても、一片の同情も示さず、単刀直入に切り出した。「いくら払えば、訴えを取り下げてくれる?」「もちろん、父の遺産全部よ」「冗談じゃないわ」美希は強い口調で遮った。「私たちは夫婦だったのよ。遺産の半分は当然私のもの。あなたと太郎で残りの半分を分けるのが筋でしょう」「夫婦」という言葉が、紗枝の耳に異様に不快く響いた。「夫婦ですって?美希さん、お忘れのようですけど、夏目グループは父の婚前財産です。半分なんて分けられるはずがない。あなたが受け取れるのは、結婚してからの収益分だけよ」その言葉に美希は言葉を詰まらせた。「私と太郎を追い詰めるつもり?私はあなたの実の母親よ!太郎だってあなたの実の弟じゃない」理詰めでは勝てないと悟った美希は、感情に訴えかけた。「私が死んだら、あなたには血の繋がった家族が何人残るの?それに、あの人は私と太郎をどれだけ大切にしていたか。あの世で、あなたが全財産を奪うのを許すと思う?」紗枝は無表情で美希の訴えを聞き終えると、静かに口を開いた。「知ってるわ。鈴木昭子があなたの実の娘で、私より一歳上だってこと」「そういえば、父は結婚して一年後に私を授かったって言ってたわね」美希の頭の中で轟音が鳴り響いた。驚愕の表情で紗枝を見つめる。紗枝は美希の動揺など意に介さず、さらに畳みかけた。「私を身籠る前に、産褥期も終わってなかったんじゃない?」
「角張さん、だから言ったでしょう!」紗枝の声が鋭く響いた。「家具を動かしちゃダメだって。啓司さんは見えないんですよ。ぶつかって転んでしまうじゃないですか」「私の言うことを聞かないで、勝手に椅子を動かすから。ほら、啓司さんがぶつかってしまったでしょう」角張さんは一瞬呆然とし、我に返って反論しようとした。「でも、あなたが……」「私はいつも気をつけているんです」紗枝は角張さんの言葉を遮った。「動かした家具は必ず元の位置に戻すって。なのに角張さんときたら、私の制止も聞かずに」「綾子さまのお言葉だけを頼りにするのはいいですが、啓司さんのことも考えないと」「パパが怪我したらどうするの?責任取れるの?」逸之が追い打ちをかける。角張さんは母子の畳みかける追及に、顔色を変えて言葉を失った。啓司には二人の芝居が見え透いていたが、敢えて暴くことはせず、紗枝の思惑通りに話を進めた。「角張さん、実家に戻ってください。もう来ていただく必要はありません」角張さんが何か言い訳しようとしたが、一分後にはボディーガードに丁重にエスコートされ、本邸へと送り返された。紗枝と逸之は小さくハイタッチを交わす。その小さな勝利の音を聞きながら、啓司は眉を少し持ち上げた。「新しい夕食を頼めないか」ドア枠に寄りかかりながら言う。人参だらけの料理では、さすがに腹が満たされなかった。「私のを食べる?」紗枝が冗談めかして言うと、啓司の表情が僅かに曇った。自分を利用し終わったとたん、もう構わないというわけか。啓司が背を向けて立ち上がろうとすると、紗枝が慌てて声を掛けた。「まあまあ、実は厨房にもう注文してあるのよ。啓司さんの好きなものを」その言葉に足を止めた啓司は、ゆっくりと食卓に腰を下ろし直した。紗枝は新しい料理を運んできて、啓司の取り皿に取り分けながら優しく言った。「はい、たくさん食べてね」リビングに向かおうとする紗枝に、啓司が薄い唇を開いた。「次から何か要望があるなら、直接俺に言ってくれ。こんな回りくどいことをしなくても」紗枝は一瞬たじろぎ、申し訳なさそうに「ありがとう」と呼び掛けた。お礼を言うと、紗枝はリビングに向かい、動かされた家具を元の位置に戻し始めた。本邸では――角張さんが突然戻ってきたことに、綾子は驚きを隠せなか
「奥様は台所でお食事中でございます。何かございましたら、私にお申し付けください」角張さんが慌てて説明した。「台所?」啓司は眉を寄せた。「なぜそんなところで?こちらに来るように」まさか人参を避けて、こっそり別のものを食べているのか。「申し訳ございません。私どもの習わしでは、女性は男性と同じ食卓につくべきではございませんので」啓司は一瞬、言葉を失った。逸之も呆れ顔だった。いったい何時代の話をしているんだ?「ご心配なく」角張さんは啓司の取り皿に料理を盛りながら続けた。「奥様のお食事も万全に整えてございます」「この料理は……」「はい、私が考えた献立でございます」角張さんが啓司の言葉を遮った。啓司の表情が一段と険しくなる。だが、年配の女性と言い争うのは避け、「紗枝をここに呼んでくれ」と静かに命じた。まさか紗枝があの女の言うことを聞くとは。「それは相済みかねます」角張さんは首を振った。逸之はもう、この新入りの魔女ばあさんの相手などしていられなかった。椅子から降りると、台所へと向かった。そこには、紗枝がプラスチックの小さな椅子に座り、黙々と白いご飯を口に運んでいた。簡易テーブルの上には、無造作に並べられた白っぽい肉の薄切りだけ。炒めてもなければ煮てもいない。ただ蒸しただけの肉に、塩すら最低限しかかかっていなかった。角張さんは「これこそが最も栄養価が高く、妊婦に相応しい食事」と主張していたのだという。紗枝は白いご飯を数口摂っただけで、もう箸が進まなくなっていた。その光景を目にした逸之の瞳に、痛ましさが浮かんだ。「ママ……」紗枝は顔を上げた。「逸ちゃん、どうしたの?早くご飯食べてきなさい」逸之は首を振り、紗枝の傍まで駆け寄った。「外に食べに行こうよ」「だめよ。角張おばあちゃんが、ここで食べるように言ったの。あなたたちは向こうで食べてね」紗枝は逸之にウインクを送った。逸之は即座に意図を察し、わっと泣き出した。「こんなの、犬だって食べないよ!ママがこんなの食べるなんて……」息子の演技の上手さに驚きながらも、紗枝も芝居に乗った。「でも仕方ないの。角張おばあちゃんが、お腹の赤ちゃんのために必要だって」台所からの物音に、角張さんと啓司が引き寄せられてきた。「これは最高級の肉で
「私、賛成です」突如として響いた声は、幸平くんのお母さんだった。凛とした眼差しで言葉を継ぐ。「景之くんのお母さん、必ず投票させていただきます」彼女の大胆な一声をきっかけに、他のママたちも次々と賛同の意を示し始めた。強引で高慢な夢美の会長ぶりに、みんな辟易していたのだ。余りにもスムーズに事が運んだため、帰り道の車中で紗枝は何か引っかかるものを感じていた。だが、角張さんをどう追い払うかという問題の方が差し迫っていた。「どうやったら帰ってもらえるかしら……」紗枝は目を閉じ、独り言を漏らす。朝の八時半に叩き起こされた疲れか、昼近くになって眠気が押し寄せてきていた。「どなたを、でございますか?」ハンドルを握る雷七が尋ねた。「角張さんよ。義母が寄越した栄養士」その話題が出たところで、紗枝は一旦車を止めるよう指示し、外で昼食を取ることにした。食事をしながら、紗枝は角張さんの横暴ぶりを雷七に吐露した。「それなら、簡単な解決法がございますが」雷七が静かに提案する。「簡単?」「啓司様に一言お願いすれば」紗枝は首を横に振った。まだ些細な確執が残る今、彼に頼るのは避けたかった。だが、雷七の言葉がきっかけとなり、素晴らしいアイデアが浮かんだ。「そうよ。啓司に直接頼まなくても、自然と動いてもらう方法があるわ」雷七は黙って紗枝を見つめた。彼はいつも聞き役に徹していた。相手が話さない限り、余計な質問はしない主義だった。紗枝が戻ると案の定、角張さんが威勢よく料理人に指図を出していた。キッチンに近づくと、「角張さん」と声をかけた。「おや、奥様。もうこんな時間です。外でお食事を?」角張さんは威厳に満ちた口調で詰問するような調子だった。その態度は、かつての管理人を思い出させた。「夕食は角張さんにお任せします。ちゃんと食べますから」紗枝は静かに告げた。告げ口が効いたと思い込んだ角張さんの目が、得意げに輝いた。——言うことを聞かないなんて、どうだい?「そうでなくては」角張さんは満足げに、さらに肉料理を増やすよう指示を出そうとした。「角張さん」紗枝が遮った。「私は肉ばかり食べても構いませんが、啓司さんと子供たちは違いますよね?」角張さんは啓司と子供のことをすっかり忘れていた。「ええ、そ
夢美は昭子の来訪に特に驚きもせず、「何か用?」と冷たく言い放った。義姉としての威厳を振りかざすのが習慣になっていて、先日の昭子が自分の立場を擁護してくれたことなど既に忘れていた。昭子はその高慢な態度に一切反応を示さなかった。「お義姉さん、明一くんの様子を見に来ただけです。もう大丈夫なんでしょうか?」息子の話題に、夢美の表情が一変した。背筋を伸ばし、「今日は幼稚園に行きましたの。でも先生からは、凍えた経験のある子は特に注意が必要だって……」溜息まじりに続けた。「明一は私の一人息子なのよ。もし何かあったら……」「ひどい話ですわ。紗枝さんは一体どんな教育をなさっているんでしょう。子供に嘘をつかせて、明一くんを築山に一晩も」昭子は意図的に間を置いて付け加えた。「そんな母親が、また双子を……」最後の一言が決定打だった。これで明一の黒木グループ継承は更に困難になる。夢美は紗枝の双子妊娠を初めて耳にして、雷に打たれたような衝撃を受けた。自分は体外受精で何とか明一を授かったというのに、紗枝はこんなにも簡単に双子を?昭子は種を蒔き終えたと判断し、さりげなく退散した。......一方、紗枝は携帯の修理を済ませ、朝食を取った後、約束のクラブに向かった。豪華な個室では、ママ友たちがくつろぎながら談笑していた。「景之くんのお母さん、本当に太っ腹ね。夢美さんとは大違い」「そうそう。夢美さんって自宅に呼んでは自慢話ばかりよね」でも、なんでわざわざここに集まる必要があったのかしら?プレゼントなら直接渡せばいいのに」みんなが思い思いに話す中、多田さんだけは紗枝の真の意図を察していた。来週の月曜日に保護者会の会長選があるということを、彼女は紗枝に伝えていたのだから。多田さんは周りのママたちを見渡しながら、夢美に知らせるべきか逡巡していた。伝えれば、夢美は自分に好意的になり、夫の商売にも便宜を図ってくれるだろう。一方で黙っていれば、紗枝が会長になっても、せいぜいプレゼント程度の見返りしかない。夫の事業に役立つことはないだろう。散々悩んだ末、多田さんはトイレを口実に席を外し、夢美に電話をかけた。紗枝には内緒にしておけば、両方の機嫌を損ねることなく、むしろ双方から得をできる——そう計算づくで判断した。一方、以前紗枝か
紗枝は拳を握りしめ、冷ややかな眼差しを角張さんに向けた。「黒木家の子供って?私のお腹にいるのは、私の子供よ。何が良くて何が悪いか、母親である私が一番分かっています」「子供のためなら命だって投げ出せる。あなたにそれができますか?」「それに、私の顔のことは余計なお世話です。整形するかどうかは私が決めること。口を挟む権利なんて、あなたにはありません」角張さんは言葉に詰まった。赴任前に聞いていた「おとなしい奥様」という評判は、どうやら事実と違っているようだった。紗枝は立ち上がり、手を差し出した。「携帯を返してください」角張さんは自分が手に負えない女性などいないと思い込んでいた。彼女は手を上げた。返してくれるのかと思った瞬間、角張さんは意図的に手を緩め、スマートフォンを床に落とした。バキッという音と共に、画面にヒビが入る。「まあ申し訳ございません。年のせいで手が滑ってしまいまして」紗枝は深く息を吐き出した。怒りは胎児のためにもよくない。黙って床に落ちた携帯を拾い上げる。氷のような声で告げた。「そうですね。年齢的にもそろそろ隠居なさったら」そう言い残すと、携帯を手に玄関へ向かった。「奥様!どちらへ?」角張さんが慌てて後を追う。紗枝は無視して、雷七に車を出すよう指示を出した。今日はママ友たちとの約束がある。まずは携帯の修理に行って、その後どこかで朝食を取ろう。このままでは角張さんのストレスで高血圧になりそうだ。胎児のことを考えるなら、まずはこの面倒な存在を追い払わないと。紗枝が出て行くなり、角張さんは慌てて綾子に電話をかけた。紗枝の些細な行動も大げさに脚色して告げ口する。綾子は更に紗枝への嫌悪感を募らせた。お腹の孫のことがなければ、とっくに見放していただろう。「妊婦は気分が不安定になるものよ。しっかり面倒を見てあげなさい」綾子は電話を切った。実は角張さんが肉と卵を無理強いしていたことなど知らない。ただ紗枝が贅沢を言い、専属の世話係までつけてやったのに感謝もしないと思い込んでいた。傍らで電話を聞いていた昭子が、可愛らしい表情で声を掛けた。「おばさま、お義姉さんのことを本当に大切になさってるんですね」綾子は昭子の愛らしい横顔を見つめ、さらに好感を深めた。「あなたもこれから母親になるのだから
「考え方が古い」と言われた綾子は一瞬不快な表情を浮かべたものの、逸之の続く言葉に目を輝かせた。「三人分、って?」逸之は小さく頷いた。「うん、ママのおなかには弟か妹が二人いるの」綾子の顔が喜びに満ちあふれた。かねてから孫を望んでいた彼女にとって、紗枝が双子を連れてきたのに続いて、また双子を妊娠したというのは、この上ない朗報だった。お腹の子が生まれれば、四人の可愛い孫に恵まれる——抑えきれない喜びに、綾子は立ち上がると紗枝に向かって声を弾ませた。「まあ、あなた立っているの?早く座って、座って!妊婦が長時間立つのは良くないわ」紗枝は戸惑いを隠せなかった。黒木家の嫁になることを承諾した時以来、こんなに丁寧に扱われたことはなかったのだから。もちろん、これはすべてお腹の子のおかげだということは分かっていた。紗枝は綾子から離れた位置のソファに腰を下ろした。「明日、私の専属だった栄養士を寄越すわ」綾子が続けた。「結構です。家にはシェフがいますから」紗枝はきっぱりと断った。綾子は眉をひそめた。「シェフと栄養士じゃ、まったく違うわ」そう言うと、紗枝の返事を待たずに立ち上がった。「じゃあ、私は帰るわ。角張さんは明日来るから」綾子は玄関を出ると、待たせてあった車に素早く乗り込んだ。紗枝は栄養士の件など気にも留めず、来ても今まで通り過ごせばいいと思っていた。ところが翌朝、啓司と逸之が出かけた八時半、突如として栄養士の角張さんが寝室に押し入ってきて、紗枝を叩き起こしたのだった。まだ目覚めきっていない紗枝は、瞼を擦りながら目の前の女性を見つめた。五十代半ばといったところか、白髪まじりの髪を整え、きちんとしたスーツ姿の女性が立っていた。「奥様、もう八時半ですよ。長時間の睡眠は胎児によくありません」また胎児が、と紗枝は内心で溜息をつく。「角張さん、ですよね?」「はい、そうです。奥様の体調管理のために大奥様からの特命で参りました」せっかくの睡眠を妨げられた以上、もう眠れそうにない。紗枝は重い腰を上げた。階下に降りてみると、いつもなら様々な朝食が並ぶテーブルに、卵と肉類ばかりが所狭しと並べられていた。なぜ肉と卵だけ?紗枝は眉をひそめた。最近ようやく食事ができるようになったものの、肉類を見ただけで吐き気を催すの