一日中、紗枝から電話もショートメールも一つもなかった。「どのぐらい我慢できるか見て見よう!」啓司はスマホを置いて立ち上がり、厨房に向かった。 冷蔵庫を開けた瞬間、彼は呆れた。 冷蔵庫の中には、一部の食べ物を除いて、漢方薬が沢山入ってた。彼は手にパックを取り、「不妊治療薬」と書かれた。 不妊......啓司は漢方薬の臭い匂いを鼻にした。 以前、紗枝の体に漂っていた薬の匂いを思い出した。その由来をやっとわかった。彼は心の中で嘲笑した。一緒に寝てないのに、どれだけ薬を飲んでも、妊娠することは不可能だろう!薬を冷蔵庫に戻した。啓司は今、紗枝が拗ねる理由を分かった。すぐ気が晴れてリラックスとなった。メインルームに戻って寝た。紗枝がいなくなり、今後、彼女を避ける必要はなく、帰るときに帰ればいいと思った。啓司はぐっすり眠れた。 今日、和彦とゴルフの約束をした。 そこで、朝早くクロークでスポーツウェアに着替えた。 着替えた後、居間まで行き、いつものように紗枝に今日は帰らないと話しかけた。「今日は......」 そこまで話して始めて気づいた。今後、彼女に話す必要がなくなった。ゴルフ場。 啓司は今日いい気分で、白いスポーツウェアをしたため、ハンサムで冷たい顔がかなり柔らかくなった。 びっしりの体型で映画スターのように見えた。スイングすると、ボールはまっすぐ穴に入った。 和彦から褒められた。「啓司君、今日は上機嫌だね。何か良いことでもあったのか......」 紗枝が離婚を申し出たこと、一日たって、周りの人たち皆知っていた。 和彦は知らない筈がなかっただろう...... 彼はただ啓司から直接聞きたかった。ずっと待っていた葵を呼んでこようかと思った。啓司は水を一口飲んで、さり気無く答えた。 「何でもない、ただ紗枝と離婚するつもりだ」それを聞いて、和彦はまだ不思議と思った。啓司の友人として、紗枝のことをよく知っていた。彼女は清楚系ビッチで腹黒い女だった。啓司に付き纏っただけだった。もし離婚できたら、二人はとっくに別れていただろう。3年間待つことなかった。「聾者が納得した?」和彦は聞いた。啓司の目が暗くなった。「彼女が申し出たのだ」和彦は嘲笑いした。「捕
通常、彼女は補聴器がなくても些細な音を聞こえた。 紗枝は暗闇に模索しながら起き上がり、ベッドサイドテーブルから薬を取り出し、苦くて渋い薬を口に入れた。 昨日、3年間続いて住んだ家から離れた。彼女は実家に一度戻った。 しかし、玄関に着いた時、母と太郎の会話が聞こえた。 「そもそもなぜこんな役立たずの娘を産んだのか。3年も経ったが、啓司に触れたこともなかった!」「彼女は今、健全な女性とも言えない。どうして離婚したいのか?」お母さんの怒りの言葉は、ナイフのように紗枝の心を突き刺さった。どんな女なら、お母さんにとって健全な女なのかよく理解できなかった。旦那さんに甘やかされた女なのか?それとも子供を持つ女なのか?弟の言葉はさらに酷かった。「姉さんは夏目家の人らしくない。噂では啓司の初恋が戻ってきた。彼女が離婚しなくても、追い出されるだろうね。」「だったら、我が家の将来を考えたらどうだ。小林社長の奥さんは最近亡くなったじゃないか?姉さんは聾者だけど、80歳のおじさんには余裕だろう......」聞いた言葉を思いながら、紗枝は空しくなった。彼女はこれらのことを考えないようにした。 スマホを取り出してみると、未読のショートメールがあった。 啓司からだと思ったが、彰弁護士からだった。メールの内容は次のようなものだった。「紗枝さん、すでに契約書を啓司に渡しました。彼の態度は良くなかったです。今後、自分自身のことをもっと考えてくださいね」紗枝は返事をした。「有難う。そうする」返信して、紗枝はまた暫く正気を失った。自分が持つ僅かの資産を啓司に渡したのは、自分が気高いじゃなかった。啓司にこれ以上の借りを作りたくなかった......残念なことに、彼女は結婚前に合意したほど多くの資産を出せなかった。一生出せなくて、結婚を騙した罪を負わなければならなかっただろう。2日間何も食べなかったが、お腹がすいてなかった。周りが静まり過ぎて、怖がるほどだった。補聴器を付けて、薬を飲んだのに、どうして何も聞こえなかったのか?啓司から離婚の電話を聞こえないと心配していた。彼女はタクシーを拾って近くの病院に行った。検査したら、耳に乾いた血の塊が見られた。すぐ、聴力回復の治療を受け、紗枝の聴力は少し回
おばさんの声が聞こえてきた。 「紗枝さん、起きた?朝飯ができたよ。熱いうちに食べてね」彼女の言葉を聞いて、今までのことを思い出した。家を出て、病院に行ってお医者さんに診てもらい、最後に出雲おばさんに会いに行くと出かけた。頭を軽く叩き、呆けた自分を心配した。記憶力はそんなに貧しくなったのか?起き上がろうとした時、寝ていたシーツに大きな血痕があった。右耳に触れると、粘り気なものがあった。手を見ると、血まみれになっていた......補聴器も赤く染まっていた......びっくりして、急いで紙で耳を拭き、すぐにシーツを取り出した。出てこないから、出雲おばさんは見に来ると、紗枝がシーツなどを洗い始めていた。「どうしたの?」「生理だったのです。シーツを汚れました」紗枝は笑顔で説明した。 洗濯終わって、出雲おばさんと一緒に朝食を食べて、安らぎのひとときを過ごした。おばさんの声は、時にははっきりで、時にはぼんやりだった。 二度とおばさんの声を聞こえないと思うと、彼女はとても怖くなった。おばさんに知られて悲しくなるのも心配だった。半日過ごして、彼女はこっそりと貯金の一部をベッドサイドテーブルに置き、おばさんに別れを告げた。 離れた時。おばさんが彼女を駅まで送り、しぶしぶと手を振りながら彼女と別れた。 紗枝の離れる後姿を見届けて彼女は向きを変えた。帰り道、痩せた紗枝を思い浮かべて、出雲おばさんは黒木グループの内線電話に電話をかけた。秘書が紗枝の乳母だと聞いて、すぐ啓司に報告した。 今日は紗枝が家出の3日目だった。 また、啓司が彼女についての電話を初めて受けた。彼はとても上機嫌でオフィスの椅子に座っていた。彼が言った通り、案の定、紗枝は3日間続かなかった。 おばさんの掠れた声が電話から聞こえてきた。「啓司君、私は子供の頃から紗枝の世話をしてきた乳母の出雲おばさんだ。お願いだが、お手柔らかにして、紗枝をこれ以上傷つけないでください」「彼女は見かけほど強くない。彼女が生まれて、聴覚障害のことで奥様に嫌われて、私に世話をさせてくれたのだ」「小学生の時に迎えてもらった......夏目家では旦那様以外、皆が彼女を使用人として扱いされた。子供の頃、彼女はよく私に電話をくれた。泣きながら夏
啓司が時計を見てちょうど10時だった。彼は紗枝に電話をしようと思った時に、木の下に黒い服を着て立っている彼女を見かけた。遠くから見ると、霧雨の中、彼女はとても痩せていて、風に当たると倒れそうだった。啓司の記憶には、結婚したとき、彼女は若くて活気に満ちていて、今の痩せた彼女とは真逆だった。彼は傘をさして、紗枝に向かってまっすぐ歩きだした。 紗枝はやっと彼のことに気づいた。過去3年間、啓司はあまり変わっておらず、まだハンサムで元気で、以前よりも大人気になり強くなった。 彼女はぼんやりとした。この3年間、あっという間に過ぎ去った。まるで人生を尽くされたようだった。啓司は紗枝の前に来て、目を丸くして冷たい目線で彼女を見て、彼女からの謝罪を待っていた。こんなに長く拗ねったので、もう十分だろう!しかし、紗枝の言葉に驚いた。「仕事の邪魔をしてごめんなさい。入りましょう」啓司の顔が凍りつき、すぐに落ち着いた。 「後悔するな」話し終わって、見向きを変えて、役所に入った。紗枝は彼の背中を見て、少し悲しく感じた。 後悔するのか?わからない。疲れたことだけは分かった。別れる覚悟をしたら、大体希望などを見つけなくて、失望ばっかり積み重ねた挙句だった。市役所の窓口。スタッフから尋ねられた時、紗枝は離婚願望をはっきり伝えた。彼女の目線で啓司はびっくりさせられた。手続き終わったが、成立するために、一か月後もう一度市役所に来るようにと言われた。市役所を出た。紗枝は珍しく落ち着いて啓司を見て話しかけた。「来月またお願いします。ではお大事に」 そう言って、彼女は雨の中に歩き出し、タクシーを拾って去った。啓司はその場で立ち止まり、彼女が乗った車を見届き、心の中で複雑な気持ちでいっぱいだった。ほっとしたのか!彼女とかかわりがなくなり、他人から聾者の妻と嘲笑されることもなくなった。この時、和彦から電話が来た。「啓司君、手続き終ったか?」「うーん」「一か月後に離婚できると聞いた。聾者に甘くしてはいけないよ。彼女に何かされるか分からないぞ」和彦が言った。 「分かった」紗枝は10年以上も啓司を付き纏ったので、突然手放すと言って、誰が信じるのか?......紗枝がタクシーに乗った。
ニュースアプリを開いて見ると、目に入ったのは、黒木グループの記者会見だった。啓司が夏目グループの買収に成功した。これから、この世に、夏目グループは、もう存在しない......ニュースには。啓司の写真が掲載され、彼の横顔はハンサムで元気だった。 写真の下には、多くのコメントがあった。 「啓司君はイケメンで、若くてグループの社長になった」「残念なことに彼は結婚した。結婚相手は夏目家の長女だったのか?」「ビジネス婚、3年前のニュースを忘れたの?結婚式で、啓司君が花嫁を置き去りにした......」「......」インターネットには記憶があった。 紗枝は、3年前の結婚式、腹立った啓司に置き去りされたことを忘れたのに。彼女は続けてコメントを見た。 ここ3年間。 夏目グループが崩壊すると彼女はとっくに分かった。まさかこんなに早くなるとは思わなかった。......啓司は最近とても楽しく過ごしていた。 夏目グループを買収して、やっと復讐出来た。 和彦が笑顔で言った。「3年前、夏目家に結婚を騙され、今、やっとやり返したな」突然話題を替えて、側で働いていた啓司に尋ねた。「啓司君、最近、聾者が頼みに来たのか?」啓司の手が急に止まった。どうしたか分からないが、最近、彼の周りによく紗枝のことを聞かれた。どうして離婚するのに、彼女を追い払わなかったのか?「いいえ」 啓司は冷たく答えた。 和彦が驚いた。夏目家にこんな大きな出来事が起こったのに、紗枝はどうして落ち着いていられるのか。彼は続けて聞き出した。「まさか本当に理解してくれたのか?」「今、夏目家の親子は紗枝を至る所で探していると聞いたが、どこに隠れているだろうね」和彦は続けて喋っていた。 啓司は眉をひそめ、非常に苛立った。 「出て行け!」和彦は唖然とした。 啓司が怒った。和彦は何も言えず、さっさと社長室を出た。 彼が出て行った。啓司は無意識にスマホを手にして、彼女からショートメールも電話もなかった。彼女は本当に頼みに来なかった。ドアの外、和彦は少し心配していた。男として、啓司の行動は可笑しいと思った。表ではいつも通りだったが、一旦紗枝のことを触れると、彼はすぐ怒ってしまった。和彦は外に出て、助
紗枝は右耳から血が流れ出ているように感じた。 彼女はその場でぼんやりして、動かなかった。 夏目美希はそのような臆病で無能な娘を見て、悲しくなった。 テーブルの上の書類を取り上げ、紗枝に渡した。 「じっくり見てくれ!」「お母さんがこれからの進路を選んで上げたのよ」 紗枝はその書類を取り、婚約契約書と書かれているのを見かけた。 開いて見た。「......夏目紗枝は小林一郎と結婚し、小林一郎の残りの人生の世話をすることを約束する......」「小林一郎は、夏目紗枝の家族、すなわち夏目家の今後の生活を維持するため、60億円を提供する......」小林一郎、桃州市の起業家の先輩で、今年78歳。 紗枝の心は急に引き締まった。美希が続けて言った。「小林一郎は、バツイチのあなたでも構わないと、彼と結婚してくれたら、夏目家の復興を助けると言ったわよ」手を紗枝の肩に撫でながら、回答を期待していた。「いいよね、紗枝、お母さんと弟を失望させないだろうね?」 紗枝の顔は青ざめた。 契約書を握りしめて彼女は言った。「啓司とまだ完全に離婚していませんが」美希は気にしなかった。 「小林一郎は、結婚式を挙げて、結婚届は後で出せばいいと言われたの」「どうせ、啓司に愛されてないし、母さんはあなたの意見を尊重し、彼との離婚を承諾するわ」啓司との結婚を挽回できないと思った。美希は息子の言葉を聞いて、娘が若いうちの価値を最大限に引き上げようとした。それを聞くと、紗枝の喉が詰まった。 「一つ質問してもいいですか?」彼女は少し黙ってから言い出した。「私はあなたの実の娘ですか?」美希の顔が強張った。優しいふりを一変して、本性を見せ始めた。「あなたを産むため、私は体型を崩し、世界的なダンサーの夢を諦めた。こんなに恩を仇で返されてがっかりしたわ!」 紗枝は子供の頃から、他人の母親が後悔せず自分の子供を愛していたことをどうしても理解できなかった。そして、自分はお母さんに少しも愛されていなかった。今になっても彼女はまだ理解できていなかった。しかし、一つ分かったことがあった。それは他人からの愛を期待しないことだった。 契約書を閉まって、「お約束できません」と回答した。断られると思わなかったので、美希
周りを見回すと、とても不思議な感じがした。 彼女はまた戻る道を忘れた。 スマホを取り出してナビゲーションしようと思ったが、住む場所も忘れた。やっとのことで思い出した。辰夫はずっと彼女を尾行していた。啓司が離れて間もなく、紗枝が一人で立ち止まった。辰夫は心配してたまらなかった。「紗枝」 啓司が戻ったと思った。少しは期待したが、振り返った瞬間、彼女はがっかりした。辰夫は彼女に駆けついた。「僕の事を本当に覚えてないのか?」彼を見て、やはり思い出せなかった。 「辰夫、忘れた?」 辰夫がヒントを上げた。やっと思い出した。子供の頃、出雲おばさんと一緒に田舎に住んだ時の知り合いだった。当時、辰夫は非常に太っていて、自分ほど背が高くなかった。今では190センチの背の高い男になり、顔も大人気になった。 「思い出した。すごく変わったよね。見て分からないよ」久しぶりに親友と会えて嬉しかった。無理に笑いを作った彼女の顔を見て、辰夫は悲しくなった。 「行こう、家まで送る」 送ったら、彼女がボロボロのホテルに住んでいることに気づいた。 黒木家のような裕福な家は、たとえ離婚したとしても、彼女にこんなところまでさせないだろう。 紗枝は少し気まずくなった。「まずいところを見せてごめん!「ここに住むこと、出雲おばさんに内緒でね。彼女が心配するから」 辰夫はうなずいたが、どうやって彼女を慰めるか分からなかった。夜が更けた。 彼はここに長くいてはまずいと思った。明日に会いに来ると言って帰った。ホテルを出て、駐車所に黒い車が止まっていたことに気づかなかった。紗枝にとっては、どこに住んでも同じだと思った。辰夫が離れた。お酒のせいで胃が痛み始めた。眩暈もした。頭の中に啓司の言葉が浮かんできた。「まるで化け物みたいだぞ!」「この格好、どんな男に好かれると思うのか?」彼女は力込めて顔の化粧と口紅を拭き始めた。荒い動作で青白い顔は赤く腫れた。 うつ病のことを知ってから、彼女は病気についての情報をググった。うつ病の患者は脳に損傷を与える可能性があり、記憶喪失を引き起こすだけでなく、認知機能障害につながる可能性もあり、これにより人々は常に不幸なことについて考え、不幸なことを拡大してみる可能性
しかし、紗枝は、難聴にも拘らず、ピアノを弾いたり、踊ったり、歌ったりして、彼女は普通の人々よりも悪くないと証明した。 これらのニュースが光のようなもので、支えとなり辰夫は立ち上がった。辰夫から彼女の輝かしい過去を語られた。彼女が忘れるところだった。 辰夫に送られ、新しい居場所に辿り着いた。紗枝は微笑んで彼に言った。「ありがとう。元の自分を忘れるところよ」辰夫は彼女と一緒に食事をした。 紗枝が結婚した後に何が起こったのかについて、結局聞けなかった。 ここに泊まった後。 紗枝はスケジュールを確認して、市役所に行く5月15日まであと十数日だった。 お母さんに約束したことを思い出した。 朝、墓参りに行った。 お父さんの墓石の前で、優しいお父さんの写真を見て、紗枝は声が少しかすれた。「お父さん、会いたかった」そよ風が紗枝の頬を優しく撫でた。 彼女は涙でそうとなった。「お父さん、私が会いに行ったら、きっと怒るでしょうか?」手を伸ばして、墓石から落ち葉を一枚一枚取り外した。 「強くなければいけないと思ったが、でも......ごめんなさい......」長く墓石の前に立ってから紗枝は離れた。帰る前に彼女は骨壺を買ってきた。その後、写真屋に行って、不思議と思われた店員さんに白黒写真を撮ってもらった。すべてを終えて住いに戻ることにした。 彼女は車窓の外を見て、気が失った。 そんな時、一本の電話がかかってきた。 出雲おばさんだった。 「紗枝、調子はどう?」出雲おばさんの優しい声を聞いて、無理に微笑んだ。「よかったですよ」出雲おばさんはほっとした。それから彼女を責めた。「またこっそりとお金を置いたのか?使えないよ。預かっておく。もしあなたが商売でもしたい......」ここ数年、紗枝はしばしば彼女に密かにお金を上げた。 田舎で、お金はあんまり使えないから、貯金しておいた。 電話の向こうで出雲おばさんの心配事を聞いて、いつの間にか涙が顔に流れっぱなしだった。 「おばさん、子供の頃みたいに家に連れ帰ってくれますか?」出雲おばさんは戸惑った。 紗枝は言い続けた。「15日に、私を迎えてほしいです」どうして15日まで待たなければならないのか出雲おばさんはわからなかった。
多田さんのSNSには娘の写真と前向きな言葉が並んでいたが、その裏には仕事も収入もなく、姑の顔色を伺う日々が透けて見えた。スクロールしていると、母親たちのLINEグループに新しい投稿が。「日曜日、みなさんいかがですか?うちで親睦会でもいかがかしら?」夢美からの誘いだった。海外出張のない時期は決まってこうして自宅に集まりを持つのが夢美の習慣だった。退屈しのぎであり、自慢の機会でもある。今回は特に紗枝の名前も指名で。今日の一件で思い通りにならなかった分、もし紗枝が参加すれば必ず恥をかかせてやろうという魂胆が見え見えだった。「はい、会長!お会いできるの楽しみにしています♪」多田さんが真っ先に返信。深夜零時。紗枝は作詞で起きていたが、多田さんまでこんな時間に即レスとは。他のメンバーは三々五々と参加表明を始めている。紗枝が返事を躊躇っていると、多田さんから個別メッセージが。「景之くんのお母さん、これはチャンスよ。このタイミングで夢美さんと距離を縮めてみては?」紗枝は考えを巡らせた。保護者会のメンバーが一堂に会する機会は貴重かもしれない。「ありがとう。そうさせてもらうわ」と多田さんに返信。夢美に近づくつもりなど毛頭なかったが。グループには「はい、明日お伺いします」と書き込んだ。返信を終えるなり、高級ブランドの本社に深夜の電話をかけ、ドレスの緊急空輸を依頼。身長、体重、スリーサイズを伝え、「オーダーメイドでなくても構いません。着られるサイズがあれば。予算は問題ありません」と告げた。資金力という魔法の杖を手にして、物事は驚くほどスムーズに運んだ。同じ要領で、あるママが憧れていたバッグや、他のママたちが手に入れられずにいたブレスレットやジュエリーも次々と購入。決して彼女たちの機嫌を取るためではない。贈り物には戦略が必要だ。最初から派手な贈り物をすれば、好感どころか警戒心を抱かせるだけ。翌朝。景之を澤村家に送り届けた紗枝を見て、唯の目が輝いた。「まあ!それって世界限定2個のバッグじゃない?どうやって手に入れたの?」「気に入った?」唯は何度も頷いた。澤村家の和彦の婚約者として澤村お爺さんにも可愛がられているとはいえ、お金の無心などできない立場だった。「今日使ったら、あなたにあげるわ。中古
「ママ、ママ、パパと一緒にお話して!」逸之が寝室に向かうのを渋った。「どんなお話がいい?ママが話してあげるわ」紗枝は優しく微笑んだ。啓司は必要ないという意味を込めて。「……」啓司の整った眉が少し動いた。「最新型のAIロボットを持ってこさせよう。お話はそれに任せられる」逸之は心の中で「このパパったら……」とため息をつきながら、父親の不器用さを実感していた。啓司の言葉通り、間もなく最新鋭の人型AIロボットが届けられた。ストーリーテリングだけでなく、宿題の手伝いや簡単な家事までこなせる優れものだった。当初は父と母をくっつけようと企んでいた逸之だったが、ロボットの魅力に取り憑かれ、景之と一緒に早々と自室に戻って新しいおもちゃの研究に没頭し始めた。子供たちがあっさりと気を紛らわされる様子を見て、紗枝は複雑な思いに駆られた。もし啓司が最初から二人を受け入れていれば、海外での辛い日々は避けられたかもしれない——階段を上り始めた紗枝を、啓司の声が引き止めた。「保護者会で、他に何かあったのか?」紗枝が戸惑いを見せる前に、啓司は続けた。「俺は子供たちの父親だ。生まれた時のことは黙っていたが、今度は違うだろう。知る権利がある」紗枝が躊躇したのは、突然の話題転換に驚いただけで、話したくないわけではなかった。「保護者会の会長は黒木夢美よ。ある保護者から聞いたんだけど、彼女は学校関係者と懇意で……子供たちを孤立させたり、意地悪できる立場にいるみたい」啓司は先ほどの紗枝と子供たちの会話を思い出していた。紗枝の歯切れの悪い様子から、何か隠していることは明らかだった。まさかこんな事態とは。「夢美が会長になれたのは、うちが長年幼稚園に投資してきた関係だろう。確か、おじいさまが最大株主のはずだ」紗枝は昂司の出資だと思っていたが、実は黒木おお爺さんだったとは。明一への深い愛情の表れなのだろう。「そうなんだって聞いてたわ」啓司はポケットからブラックカードを取り出し、紗枝に差し出した。「これで幼稚園ごと買収できる」息子には決して不当な扱いを受けさせるわけにはいかない——その思いが啓司の声に滲んでいた。紗枝はそのブラックカードを見つめ、一瞬我を忘れた。この人は「金がない」なんて嘘をついていたのね……断ろうかとも思ったが、今は事情
母の愛は強し。決意を固めた紗枝は、すぐに行動に移った。まず園長に投資の話を持ちかけると、すぐに快諾を得られた。次に、母親たちのLINEグループに溶け込もうと試みた。最初は静観を決め込み、会話の流れや、みんなが必要としているものを把握することに努めた。忙しい時は時が経つのも早い。逸之が眠そうな目をこすりながら声を上げた。「ママ、ごはんできた?」「ええ」紗枝はパソコンを閉じ、階下へ向かった。食事の時、逸之は意図的に紗枝と啓司を隣に座らせようとした。「ママ、僕の向かいに座って」その向かい側には啓司がいた。紗枝は啓司の様子を窺った。彼が何も言わないのを確認してから、ゆっくりと席に着いた。テーブルでは、家政婦が啓司の食事を用意していた。やっと人参抜きの食事が叶ったというのに、啓司の食欲は今ひとつだった。紗枝と啓司の席は近く、時折、紗枝の腕が啓司に触れる。距離を取ろうとした瞬間——「キィッ」椅子が床を擦る音が響いた。啓司が紗枝の椅子を掴み、強く引き寄せたのだ。紗枝は体勢を崩し、啓司の胸に倒れそうになる。「何するの?」思わず声が上がった。「見えないもので」啓司は素っ気なく答えた。「椅子を間違えた」そう聞いて、紗枝は諦めたように席を立とうとした。が、今度は啓司が彼女の手を掴んだ。「これも『間違い』?」紗枝の声には怒りが滲んでいた。「ママ」逸之が絶妙なタイミングで割り込んできた。「パパ、目が見えないんだから、少し大目に見てあげて」紗枝は呆れた。啓司は一体何を息子にしたというのか。こんなにも父親の味方をするなんて。力を込めて手を振り払い、黙々と食事を続ける紗枝。そこへ、携帯の着信音が鳴り響いた。画面を見た紗枝は、すぐに席を立った。エイリーからの着信だった。「エイリー?どうしたの?」「エイリー」という名前に、テーブルの父子三人の表情が一気に険しくなる。景之は母とエイリーのスキャンダル報道を知っていた。今どきの人気俳優なんて、ろくなものじゃない——そう考えながら、母を心配そうに見つめた。逸之が立ち上がろうとした。「どこへ行くの?」景之が弟の腕を掴んだ。「ママとエイリーおじさんの話、こっそり聞いてくる」「気をつけてね」景之は弟の手を離した。ママに見つからないように――
多田さんは紗枝の言葉に目を見開いた。人気のない角に紗枝を引き込むと、声を潜めて話し始めた。「ご存知ですか?夢美さんが会長になれた理由を」「黒木家は毎年、幼稚園に20億円を寄付しているんです。確かにあなたも黒木家の……でも、旦那様は……」視力を失ったという言葉は、多田さんの喉に引っかかったまま。紗枝は彼女の言いよどみの意味を理解していた。「もし、私がもっと多額の寄付ができたら?」多田さんは首を横に振った。「会長選出は学校幹部の意向と、保護者会メンバーの投票で決まるんです。新参者のあなたに、誰も票を入れないでしょう」「だって……誰が黒木家の逆鱗に触れたいと思いますか?私たち、必死になって夢美さんの家庭パーティーに呼ばれようとしているんです。彼女の一言で、主人の会社の取引先が決まることだってあるんですから」黒木家の実権を握っているわけでもない昂司でさえ、これほどの影響力を持っている。紗枝は改めて思い知った。黒木グループは、並大抵の力では揺るがせない存在なのだと。多田さんは紗枝の思案げな表情を見つめながら、思わず尋ねた。「もしかして、夢美さんに何か……?」昂司の妻である夢美とは義姉妹の関係。大家族の義理の関係に軋轢がないなんて、そんな都合の良いことはありえない。「ええ、大きな確執があります」以前の夢美は言葉による嫌がらせだけだった。でも今は明一を使って息子を危険に晒そうとしている。おまけに夢美の両親まで連れてきて、逸之に土下座を強要しようとまでした。多田さんは不安げな表情を浮かべた。自分が間違った相手に近づいているのではと恐れたようだ。「景之くんのお母さん、幼稚園なんて2、3年でしょう?夢美さんに謝って、頭を下げて、少し我慢すれば……」我慢?紗枝もかつてはそう考えていた。でも、我慢し過ぎれば、相手は自分を何とも思わなくなる。「ありがとうございます」多田さんの本心など知れたものじゃない。この会話が夢美への取り入りの種になるかもしれないのだから。多田さんを見送ってから、紗枝は車に乗り込んだ。家に着くと、逸之は疲れ果てた様子でソファーに横たわり、本を顔にかぶせて午睡をとっていた。小さな手のひらはまだ薄っと赤かった。景之はパソコンで何かを打ち込んでおり、分からないことがあると啓司に尋ねている
他の母親たちも、紗枝が金額を勘違いしているに違いないと、その失態を待ち構えていた。しかし紗枝は驚くほど落ち着いていた。「ええ、もちろん」そう言うと、バッグからカードを取り出し、テーブルに置いた。「今すぐお支払いできます」1億2千万円。今の彼女にとって、途方もない金額ではなかった。高価な服やバッグを身につけていないのは、単に好みの問題だった。経済的な理由ではない。夢美は今日、紗枝を困らせてやろうと思っていたのに、結果的に自分の立場が危うくなった。新参者の紗枝が1億2千万円も出すというのに、保護者会会長の自分はたった3千万円。「景之くんのお母さんって、本当にお優しいのね」夢美は作り笑いを浮かべた。紗枝が本当にその金額を支払えると分かると、他の母親たちの軽蔑的な眼差しが、徐々に変化し始めた。会の終了後、多田さんは紗枝と二人きりになって話しかけた。「景之くんのお母さん、あんなに大金を出すって……ご家族は大丈夫なんですか?」「私の稼いだお金ですから、家族に相談する必要はありません」紗枝は率直に答えた。多田さんは感心せずにはいられなかった。夢美のお金持ちぶりは、生まれながらの富裕層で、その上、黒木家という大金持ちの家に嫁いだからこそ。一方、紗枝は……多田さんはネットニュースで読んだことを思い出した。紗枝の父は若くして他界し、財産は弟に相続されたという。確かに啓司と結婚はしたものの、数年の結婚生活で、啓司も黒木家の人々も彼女を蔑んでいたらしい。お金など渡すはずもない。今や啓司は視力を失い、なおさらだろう。「景之くんのお母さん、本当にごめんなさい」突然、多田さんは謝罪した。「どうしてですか?」紗枝は首を傾げた。多田さんは周囲を確認した。夢美と他の役員たちが離れた場所で打ち合わせをしているのを見て、声を潜めた。「実は……夢美会長が私に頼んで、わざとお呼びしたんです。新しい方に寄付を募るなんて、普段はありえないんです。もし寄付をお願いする場合でも、事前に説明があるはず……」多田さんは申し訳なさそうに続けた。「会長は、あなたを困らせようとしたんです」紗枝はようやく違和感の正体を理解した。そうか。夢美のような人物が、自分を保護者会に招くはずがないと思っていた疑問が、今になって氷解した。「なぜ私に本当のことを
レストランは貸切状態。長テーブルを囲んだ母親たちは、既に海外遠足の詳細について話し合いを始めていた。紗枝が入店すると、会話が途切れ、一斉に視線が集まった。控えめな装いに、淡く上品な化粧。右頰の傷跡も、彼女の持つ高雅な雰囲気を損なうことはなかった。同じ子持ちの母親たちは、紗枝のスタイルの良さと整った顔立ちに、どこか妬ましさを感じていた。エステに通っている彼女たちでさえ、紗枝ほどの美肌は手に入らない。せめてもの慰めは、あの傷跡か。「おはようございます」時間を確認しながら、紗枝は丁寧に挨拶した。部屋を見渡すと、夢美の姿が目に留まった。明一と景之が同じクラスなのだから、夢美がここにいるのは当然だった。首座に陣取る夢美は、紗枝の存在など無視するかのように、お茶を一口すすった。会長の態度に倣うように、誰も紗枝の挨拶を返さない。そんな中、昨日紗枝を招待した多田さんが手を振った。「景之くんのお母さん、こちらにどうぞ」紗枝は感謝の眼差しを向け、彼女の隣の空席に腰を下ろした。夢美は続けた。「今回の渡航費、宿泊費、食事代は私が全額負担します。それに加えて介護士の費用、ガイド料、アクティビティ費用……私の負担する3千万円を除いて、総額1億六千万円が必要になります」紗枝は長々と並べ立てられる費用の内訳を聞いて、ようやく今日の集まりの目的を理解した。子供たちの渡航費用の分担について話し合うためだったのだ。「うちの幼稚園は少し特殊なんです」多田さんが紗枝に説明を始めた。「普通は個人負担なんですけど、保護者会のメンバーはみな裕福な家庭なので、子供たちと先生方の旅費を援助することにしているんです」紗枝が頷いたその時、ある母親が手を挙げた。「私、200万円を出させていただきます」すると次々と声が上がった。「私は400万円を」多田さんも手を挙げた。「私からは200万円で」そう言うと、深いため息をつき、周りに聞こえないよう小声で続けた。「主人の会社の経営が厳しくて、これが精一杯で……」ほとんどの母親たちは賢明で、一人当たりの負担額は最大でも1400万円程度だった。その時、夢美が紗枝に視線を向けた。「景之くんのお母さん、新しいメンバーとして、いかがですか?金額は少なくても、お気持ちだけでも」夢美は紗枝のことを調べ上げていた。
子どもの父親として、啓司には逸之を危険に晒すつもりなど毛頭なかった。万全の態勢を整えれば、幼稚園に通うことも自宅で過ごすことも、リスクは変わらないはずだった。先ほどの逸之の期待に満ちた眼差しを思い出し、紗枝は反対を諦めた。「わかったわ」指を握りしめながら、それでも付け加えずにはいられなかった。「お願い。絶対に何も起こらないように」啓司は薄い唇を固く結び、しばらくの沈黙の後で答えた。「俺の息子だ。言われるまでもない」その夜。啓司は殆ど食事に手をつけず、部屋に戻るとタバコを立て続けに吸っていた。なぜか最近、特に落ち着かなかった。二人の息子を取り戻せたはずなのに、紗枝が子供たちを連れ去り、他の男と暮らしていたことを思うと、どうしても腹が立った。一方、逸之と景之は同じ部屋で過ごしていた。「このままじゃダメだよ。バカ親父に会いに行って、積極的に動いてもらわないと」「待て」景之が制止した。「なに?」逸之は首を傾げた。「子供のためって名目で、ママを無理やり一緒にさせたいの?ママの気持ちは?」景之の言葉に、逸之はベッドに倒れ込んだ。「お兄ちゃんにはわかんないよ。二人とも好きあってるのに、意地を張ってるだけなんだから」隣の部屋では、紗枝が既に眠りについていた。明日は週末。保護者会の集まりがあり、遠足の準備について話し合うことになっている。翌朝早く。紗枝は身支度を整えると、双子を家政婦に任せて出かけた。啓司は今日も会社を休み、早朝から双子に勉強を教え始めた。景之には何の問題もなかった。しかし逸之は困っていた。頭の良い子ではあったが、さすがに高等数学までは無理があった。「バカ親父、これ本当に僕たちのレベルなの?」啓司は冷ややかな表情で答えた。「当然だ。俺はお前たちの年で既に解けていた」「問題を解いたら、答えを読み上げなさい」視力を失っている彼は、二人の解答を口頭で確認するしかなかった。「嘘つき」逸之は信じられなかったが、兄の用紙に複雑な計算式と答えが並んでいるのを見て、自分の考えが甘かったと気付いた。できないなら写せばいい――逸之が景之の答案を盗み見ようとした瞬間、家政婦の声が響いた。「逸ちゃん、カンニングはダメですよ」啓司は見えないため、家政婦に監督を任せていたのだ。
「パパ、ママ、お願い、喧嘩しないで」逸之は瞬く間に涙目になっていた。紗枝と啓司は口を噤んだ。「ママ」逸之は涙目で紗枝を見上げた。「幼稚園なんて行かないから、パパのことを怒らないで。パパは僕が悲しむのが嫌だから、許してくれただけなの」その言葉に紗枝の胸が痛んだ。啓司は息子を悲しませたくないというのに、自分は違うというのか?なぜ……何年も子育てをしてきた自分より、たった数ヶ月の付き合いのパパの方が、子供の心を掴めるのだろう?「ママ、怒らないで」逸之はバカ親父を助けようと、必死で母の気を紛らわそうとした。この甘え作戦で母の怒りが収まるはずだと思ったのに、逆効果だった。「逸之、行きたいなら行きなさい。でも何か問題が起きたら、即刻退園よ」そう言い放つと、紗枝はいつものように逸之を抱き締めることもなく、そのまま通り過ぎていった。逸之は急に不安になった。母はバカ親父だけでなく、自分にも怒っているのだと気づいた。一人になりたかった紗枝は音楽室に籠もり、扉を閉めた。外では、景之が密かに弟を叱りつけていた。「バカじゃないの?ママがここまで育ててくれたのに、どうして啓司おじさんの味方ばかりするの?」「お兄ちゃん、完全な家族を持ちたくないの?みんなに『私生児』って呼ばれ続けるのが、いいの?」逸之も反論した。景之は一瞬黙り込んだ。しばらくして、弟の頑なな表情を見つめながら言った。「前から言ってるでしょう。ママが受け入れたら、僕もパパって呼ぶよ」「お兄ちゃん……」「甘えても無駄だよ」景之はリビングのソファーに座り、本を開いた。啓司は牧野に、設備の整った幼稚園を探すよう指示を出した。逸之は母が出てくるのを待ち続けた。母の心を傷つけたことを知り、音楽室の前で待っていた。紗枝が長い時間を過ごして部屋を出ると、小さな体を丸めて、まどろみかけている逸之の姿があった。「逸ちゃん、どうしてこんなところで座ってるの」「ママ」逸之は目を覚まし、どこからか手に入れた小さな花束を紗枝に差し出した。「もう怒らないで。パパよりママの方が大好きだから。幼稚園なんて行かないよ」紗枝は胸が締め付けられる思いで、しゃがみこんで息子を抱きしめた。「逸ちゃん、あなたたち二人は私の全てよ。怒るわけないでしょう?ただね……健康な体を
選ぶまでもないことだろう?逸之は迷うことなく、景之と同じ幼稚園に通いたがった。「幼稚園がいい!」紗枝が何か言いかけた矢先、逸之は啓司の足にしがみつき、まるでお気に入りの飼い主に甘える子犬のように目を輝かせた。「パパ大好き!お兄ちゃんと同じ幼稚園に行かせてくれるの?」兄の景之は弟のこの厚かましい振る舞いを目にして、眉をひそめた。逸之と一緒に幼稚園に通うなんて、御免こうむりたい。「嫌だ」確かに逸之は自分と瓜二つの顔をしているが、甘え方も上手で、愛嬌もある。どこに行っても人気者になってしまう弟が、景之には目障りだった。逸之が甘えモードに入った瞬間、自分の存在など霞んでしまうのだ。思いがけない兄の拒絶に、逸之は潤んだ瞳で兄を見上げた。「どうして?お兄ちゃん、もう僕のこと嫌いになっちゃったの?」景之は眉間にしわを寄せ、手にした本で弟のおしゃべりな口を塞いでやりたい衝動に駆られた。「そんなに甘えるなら、車から放り出すぞ」冷たく突き放すような口調で景之は言い放った。その仕草も物言いも、まるで啓司のミニチュア版のようだった。逸之は小さな唇を尖らせながら、おとなしく顔を背け、啓司の足にしがみつき直した。啓司は、初めて紗枝と出会った時のことを思い出していた。彼女が自分を拓司と間違えて家に来た日、今の逸之のように可愛らしく後を追いかけ、服の裾を引っ張りながら甘えた声を出していた。「啓司さん、お願い、助けてくれませんか?私からのお願いです。ねぇ、お願い……」そう考えると、この末っ子は間違いなく紗枝の血を引いているな、と。もし次は紗枝に似た女の子が二人生まれてくれたら、どんなにいいだろう……「逸ちゃん」紗枝は子供の夢を壊すのが辛そうだった。「体の具合もあるから、今は幼稚園は待ってみない?下半期に手術が終わってからにしましょう?」その言葉を聞いた逸之は、更に強く啓司の足にしがみついた。心の中では、「バカ親父、僕がママと手を繋がせてあげたでしょ。今度は僕を助ける番だよ」と思っていた。啓司はようやく口を開いた。「男の子をそんなに甘やかすな。明日にでも牧野に入園手続きを頼むよ」紗枝は子供たちの前では何も言わなかった。牡丹別荘に戻ると、啓司を外に呼び出し、二人きりになった。「あなた、逸ちゃんの体のことはわかっている