以前、田村に武の戸籍だけを調べてもらっていたが、彼の詳細な記録には目を通していなかった。そして実際に武の記録を目にした時、私は驚いた。記録写真に写っている武が、はおと瓜二つだったからだ。つばさが入院する際に病院で行われた身体検査で、彼の体内にシルデナフィルの成分が残留していたことが発見された。通称「バイアグラ」と呼ばれる薬だ。そして、最後のピースが埋まったのは、オーク・オウハウのパスポートを見たときだった。「onuk oha」。それは、久能はおの名前「hao kuno」のローマじを逆さにしたものであり、背筋が冷たくなるのを感じた。全てが繋がり、完全なタイムラインが頭に浮かんだ。1992年に義雄がはおの両親を殺害し、その後彼を引き取り、森田家の犯罪組織の首領となった。はおは犯罪活動の中で両親の死の真相を知り、復讐の機会を狙うようになった。そして、彼は武と出会った。武は彼とほとんど瓜二つの容姿をしていた。それを知ったはおは密かに計画を立て、武を自分の身代わりとして利用しようとした。電信課の同僚によると、二人の間には一切の通信記録がなく、二人は全くの無連絡で計画を遂行したことになった。この計画を実現するには、武に並外れた信念と決意が必要だった。そして、その信念と決意をもたらしたのが「憎しみ」だった。はおはつばさにバイアグラを飲ませて桜子を猥褻させ、それが武に森田家への絶対的な憎しみを抱かせることとなった。これがオノクが武に「ごめん」と伝えるよう私に頼んだ理由でもあった。武は出所後、はおの身代わりとなり、身の安全を守るために自ら小指を切り落とした。だから、私が偽のはおが真夏に手袋をしていて、しきりに小指に触れていたのは、彼が義指を弄っていたからで、その小指こそ、武の父に送りつけられたものだった。義雄は自責の念からはおと目を合わせることができず、またつばさが事件を起こしても彼に直接関わることがなかったため、武の容姿を知る機会もなかったのだ。そして本物のはおは整形手術を受け、さらに喉の手術で声も変えた。計画は順調に進み、本物のはおはつばさに接近し、彼の唯一の友人となった。そして、父親の命日に、義雄がかつて彼の父を殺した手口で、つばさを殺害し、義雄に恐怖を与えたのだ。義雄のような男が唯一恐れるのは、幽霊や神仏だけかも
2011年8月10日。森田建設グループの社長、森田義雄の息子である森田つばさが亡くなった。遺体はビルの最上階にある父のオフィスで発見された。午前10時半頃、義雄はデスクに天井から垂れてくる血の跡を見つけた。スタッフが天井を外すと、そこには手足を縛られたまま喉を切られたつばさの遺体があった。白いシャツは暗い赤色に染まり、自らの血溜まりの中で息絶えていた。検死結果によると、つばさは喉を切られた後、出血がゆっくりと進むよう傷口を処理されていた。つまり、手足を縛られ、声も出せないまま天井裏で、長く苦痛に満ちた死を迎えたのだ。さらに義雄の背筋を凍らせたのは、つばさが死亡してから発見されるまでの時間がわずか一時間足らずだったことだ。もし一時間早く発見していれば、つばさは救われたかもしれないのだ。犯人はあざ笑うように、「お前の縄張りで、お前の息子を殺した。本来なら助けられたのに、何もできなかったな」と。そして、「次はお前を殺すこともできる」と言わんばかりだった。
2011年8月13日午前9時、私は警視庁の重犯罪捜査班から指令を受けて、たった一人で長平市へ向かい、森田つばさ殺害事件の捜査にあたることになった。列車を降りると、田村刑事が車で迎えに来てくれていた。警察署へ向かう途中、名門ホテルの前で道路が高級車で完全に塞がれていた。「何があったんだ?」と私は田村に尋ねた。田村が顔を上げて見ると、「森田建設グループの社長の息子の追悼式みたい」と言った。私はうなずいた。一般的に追悼式が行われるのは高齢で社会に多大な貢献をした人に限られるものだが、25歳のつばさが盛大な追悼式を開いてもらえるとは、父親である義雄が長平市においてどれだけの影響力を持っているかが伺える。私が入手した資料によると、義雄は1962年に長平市の普通の家庭に生まれている。一家の長男で、父親は早くに他界したため学校を中退して十代で社会に出た。彼は24歳まで下積みを続け、25歳の時に輸送業で共同事業を始め、それを機に次第に頭角を現したのだ。20年も経たないうちに、彼の事業は輸送業から土木建材へと拡大し、最終的には長平市のほとんどの都市開発事業を一手に引き受ける森田建設グループを設立するに至った。「せっかくだから少し様子を見てみるか。どうせこのままじゃ通れないし」と私は田村に言った。私たちは車を降り、ホテルの入り口前に集まる人々を見渡した。彼らは皆、追悼式に参列するために集まった人々のようだった。1〜2分が過ぎた頃、突然人々は静まり返り自然とホテルの入り口へ続く道を作り出した。私と田村もそれに倣って少し横に避けた。すると、ベンツが路肩に停まり、運転手が降りて後部座席のドアを開け、そこから堂々とした体格の中年男性が現れた。彼は何も言わず、そのままホテルの入り口へと向かって歩き始めた。顔には疲れが見えたものの、威厳を感じさせる堂々たる雰囲気があった。「彼が森田義雄だ」と田村が私の耳元でささやいた。私は黙ったまま、その場の人々とは異なる雰囲気を漂わせる水色のシャツを着た痩身の若者に視線を向けていた。その間に義雄はホテルの中へ入り、他の人々も次々に続いてホテルに入っていったため、最後に残ったのは私と田村だけになった。「戻ろう、警察署へ」と私は田村に言った。警察署に着くと、田村は私を仮設のオフィスに案内し、そこには事件
まさか犯人は義雄を狙っていたのか?とはいえ、もし犯人の目的が義雄なら、彼を直接殺すこともできたはずだ。その手段を持っているならなおさらだが、そうはしなかったのが疑問だ。午前中、オフィスで頭を悩ませていたが結論にたどり着けず、昼食の時間が近づいた頃、田村が急いでオフィスに入ってきて私を応接室に連れて行った。応接室に入るとこの事件を担当している他の刑事たちがすでに集まっており、そこで待っていたのは、ホテル前で見かけたあの水色のシャツを着た若い男だった。部屋に入ると他の刑事たちが私を一瞥したが、私は気にせずに席に着いた。田村も私の隣に腰を下ろした。「彼は誰なんだ?」と私は小声で田村に尋ねた。「彼がつばさの友人、オノク」と田村が答えた。「オノクさん、全員揃いましたので、何か手がかりがあればお話しください」と一人の刑事が言った。オノクは頷き、話を始めた。「つばさは中学三年生の頃、同じクラスの女子に片思いしていたそうです。その女子が好きだったのは彼だけではなく、岡本武という悪ガキも同じ相手に気があった。どういうわけかつばさの気持ちが武にバレてしまい、彼はつばさに絡み始めました」「つばさは何度か殴られ、耐えられなくなって、父親に頼んで武を懲らしめてもらうことにしました。武が怯えるかと思いきや、逆に恨みを抱き、ある雨の日に男子トイレでつばさを待ち伏せして半殺しにしたんです」「その事件で武は少年院に送られましたが、つばさもそれ以降、人と関わるのが怖くなり、誰とも接触を避けるようになりました。僕は留学中にルームメイトになり、避けられない状況で親しくなった唯一の友人です」話を聞き終えた私は顎に手をやりながら尋ねた。「つまり?」「つばさはそれ以来、僕以外の誰ともほとんど関わりがなかったので、武が恨みを晴らすために戻ってきた可能性があると思うんです」「分かりました。貴重な情報をありがとうございます」と刑事の一人が言った。「僕はただ、つばさにとっての唯一の友人として、真実を突き止めていただきたいだけです」とオノクは言い残して去っていった。オノクが帰ると他の刑事たちはあまり興味を示さず、「古臭い話を持ち出しやがって」と小声で不満を漏らしていた。誰もこの情報を真面目に捜査する気はなさそうだった。正直、私もオノクの話をそれほど真に受けて
私はこの出来事に非常に興味を持ち、ここには何か隠された事情があるのではないかと薄々感じていた。今はまだ直接的な証拠がないので、犯人の動機を突き止めることが最善の選択だ。そこで、田村に車を出してもらい武の戸籍の住所へ向かった。車で約10分後、武家の玄関を叩いた。二度ノックすると、家の中からぼんやりとした声が聞こえてきた。「誰だ?」田村が私より先に答えた。「こんにちは、私たちは武さんに会いに来ました」「出てけ!」と、中の人が荒々しく怒鳴りました。私は田村と顔を見合わせ、状況がつかめずにいた。再度ドアをノックして、「すみません、私たちは刑事です。少しお話を伺いたいのですが」と声をかけた。数十秒ほどしてようやくドアの向こうから足音と怒声が聞こえ、60代くらいの小柄な老人がドアを開けた。「お前たち、何しに来たんだ?」と老人は怒鳴り、顔の筋肉が声とともに震え膨らんだ血管が今にも破裂しそうだった。私は微笑みを浮かべ、落ち着いて答えた。「武さんに会いに来ました」「奴は死んだ!」老人は投げやりに答えた。「ですが、彼の戸籍はまだ抹消されていません。つまり、法律上では彼はまだ生きていることになります」老人はもう一度「死んだ!」と答え、ドアを閉めようとした。「では、武さんがどうして亡くなったのか教えていただけませんか?なぜ彼の戸籍が抹消されていないのか、もし何か事情があるのなら、お話していただければ助けになれるかもしれません」私がそう言うと、老人は半ば閉めかけた体を戻して、「中に入れ」と言い、私たちにお茶を出して話し始めた。「俺は武の父親だ」「今でも覚えている。あの日、警察から電話があって、武が人を殴って、重傷を負わせたって」「俺と家内は急いで警察署に駆けつけたが、警察は武に会わせてくれず、武が少年院に入るまで会わせてもらえなかった」「武が何をしたのかも分からず、警察官が、義雄の息子を殴ったんだと教えてくれたんだ」「そのとき、俺たちはすべてが崩れたように感じた。毎日、義雄の報復が怖くてたまらなかった」「だが、武が少年院を出るまで、報復はなかった。しかし、その日、俺と家内は朝早くから武を迎えに行ったのに——」「彼らは、武はすでに誰かに連れられて行ったと言った。そのとき、俺は呆然とした」「数日後、これを受け
田村はそれを見て驚き、私も眉をひそめた。 「これは……」 武の父親は目を赤くし、歯を食いしばって涙をこらえていた。「その時、俺たちに送られてきたのはこの指一本だけで、驚いてすぐ警察に通報したんだ」 「だが、警察はどうしても事件として扱ってくれなかった。裏で義雄が邪魔していることはわかっていた。武もきっとあいつにやられたんだ」 「武は生死もわからないままで、俺たちも彼の戸籍をそのままにしてある」 「そして妻は……耐えきれず、川に身を投げたんだ……」武の父親は声を詰まらせ断続的に話した。 「この指が武さんのものだと確認できたのですか?」と私は尋ねた。 「そ、その時には無理だった……その後、俺のDNAと指で鑑定してもらって……武のものだってわかったんだ……」 老人は歯を食いしばったまま、涙を堪えきれずこぼし落ちてしまった。その姿はまるで子供が泣いているようだった。 彼はまだせいぜい50歳前後のはずだが、外見はもう60歳を超えているように見えた。 彼をここまで変えてしまった苦痛がどれほどのものか想像もできなかった。 隣で田村も目を潤ませていたが、私は深く眉を寄せたままだった。 どうやら、武に関する手がかりはここで途絶えたようだ。そして、どうして警察署の者たちがこの件を誰も調べたがらないのか理解できた気がした。 「武の件、警察署のみんなは知っているか?」武の家を出た後、私は田村に尋ねた。 田村はしばらく沈黙してから、ようやく口を開いた。「もう10年近く前のことだし、詳しいことは知らないけど、仮に知らなくても、誰も森田家に関わることは調べたがらないよ」 私は数秒考え込んだ。 「武が通っていた中学校に行ってみよう」と私は田村に言った。 武に関する手がかりは断たれたが、当時、彼がつばさを殴って重傷を負わせたのは学校内での出来事だった。まだ知っている人がいるかもしれないし、そこに行けば新しい手がかりが見つかるかもしれない。 まず私たちは警察署に戻り、当時の記録を調べて、武の担任教師と最初に武がつばさを殴った現場を目撃した清掃員の情報を見つけた。 それから学校に向かったが、武の当時の担任は今や校長になっていた。 彼女は最初私たちにとても親切だったが、武の話をした途端、
「それは雨の日だった。休憩中に作業場から女トイレの方で音がするのが聞こえたんだ」 「音を頼りに行くと、武が誰かを殴っていた」 「武は良い子だよ。学校の金持ちの子たちは俺みたいな掃除人を馬鹿にしてるけど、武はいつも俺を人間扱いしてくれて、たまには手伝ってくれた」 「殴っていた相手は森田つばさだ。普段、家が金持ちだからって、学校で横暴に振る舞っていた」 「慌てて武を押さえつけたら、横であの娘、西村桜子が地面に倒れていて、下半身に服を着ていなくて、泣いていた」 「その時やっと理解した。つばさがあの娘をいじめていて、武があんなに強く手を出した理由もわかった。武はあの娘と付き合っていたから」 「俺は警察に通報しようと思ったんだけど、ちょっと気を抜いた隙に、武は俺を振り切って、何度もつばさを蹴りつけ、あいつの下半身を壊してしまったんだ。もし俺がもっと早く止めていたら、武は少年院に送られなかったかもしれない」 「それに、あの久能はおってヤツも。普段、武やつばさと仲が良かったくせに、その時は何もせず、あいつの手下も二人連れてただけだ」 私はその話を聞いて、思わず息を呑んだ。 なるほど、事件の真相はこうだったのか。つばさが武の彼女をいじめ、武がそれを理由に半殺しにしたというわけだ。しかも、そのことで彼は生殖能力に影響を与えるほどの重傷を負わせられたかもしれない。 そして、武はオノクが言っていたような不良ではなかった。清掃員の言う通り、彼はむしろ良い子だったのだ。 その後、少年院を出た後武は行方不明になり、家族には彼の切断された指が送られてきた。 最初は、武の死が義雄に関係しているのではないかと疑ったが、もしつばさが本当に不妊になったら、義雄が彼を殺した理由も納得がいく。 だんだんとこの事件の背後には予想以上に大きな秘密が隠されているように思えてきた。そして、つばさの死はそのほんの氷山の一角にすぎないのではないか。 そして、この新たに浮かび上がった久能はおという人物は一体誰なのか? 調査が元々の目的から外れているような気もしたが、それでも背後に隠された真実を知りたいと思った私は田村に言った。 「田村、警察署に戻ろう」田村はすでに少し酔っていて、顔が赤くなっていた。「どうしてだよ?警察署は
「そうだ」と言いながら、彼は手を振って私に座るよう促した。「警察が俺に用があるのか?」 私はその手招きを無視して聞いた。「岡本武のことを知っているか?」 彼は一瞬驚いたがすぐに平静を取り戻した。「知らないね」 その一瞬の驚きは、明らかに無意識の反応だった。「岡本武」という名前に反応していたのだから、何らかの形で彼が武を知っているのは間違いない。 私は深追いせず、続けて尋ねた。「じゃあ、森田義雄のことは知っているか?」 彼は笑って答えた。「もちろん知ってるさ。誰だって知ってるだろう?ただ、向こうは俺のことなんか知らないけどな」彼が話す間、ある仕草が気になった。真夏の八月だというのに、彼は右手に革の手袋をはめていて、話しながらずっと左手の人差し指と親指で手袋をした右手の小指を触っていた。この仕草には何か特別な意味があるのだろうか? 「他に聞きたいことはあるか?」と、はおが言った。 「いや、ご協力に感謝するよ」と言って、私は立ち去ろうとした。 「待てよ」はおが呼び止めた。 振り返ると、彼が古い金属製のライターを投げてよこした。「よくも俺のところに一人で来れたな。度胸があるじゃないか。俺は度胸のある奴が好きだ。これはお前にやるよ」 「タバコは吸わないんだ」 「関係ねぇさ。どうせそのうち必要になるからな」 メイフラワーバーを出て、タクシーでホテルへ戻った。 はおの態度から見て、彼と武には何かしらの関係があることは明白だった。田村が言っていたように、はおは義雄の人間だと言われていたが、彼の答えには一切の感情がなかったため、確証は得られなかった。 翌朝、私は警察署に着くなり田村に頼んで86年生まれの久能はおという人物の戸籍情報と資料をすべて調べてもらった。 田村が出かけようとした瞬間、私は彼を呼び止めた。なぜか、「すべてはあのオノクが私を導いているのではないか」という考えが頭をよぎったからだ。さもなければ、どうして彼がこんな古い事件である武のことを話したのか? 「田村、ついでにオノクの資料も調べてくれ」 しばらくして田村が数枚のプリントアウトを私のデスクに置いた。 久能はおの資料によると、彼は1999年に義雄に養子として迎えられ、その後は武と同様に、社会的な記録が一切な