9 匠吾の家を飛び出して道路の左右を見渡すと、遠方に島本さんの姿が見えた。 走れば追いつけそうだ。 しばらく走り、漸《ようよ》う追いついた私は彼女に声を掛けた。 「待って!」「あら、掛居さん? でしたっけ?」 「昨日の夜、向阪くんとお酒飲みに行ったんですか?」「はい。きれいな夜景が見える素敵なお店でした」「そのあとは?」「ホテル街を少しふたりで歩きましたよー」 「彼とはその……、まさかホテルに入ったとかは……つまりその……」 『掛居 さんは何が訊きたいのかしら。 はっきり言わないからわかんないわね。 お酒美味しかったなぁ~』 「はい、(お酒なら)おいしくいただきましたよ。 ご馳走様」 答えた台詞の中に『お酒なら』という言葉は省略しちゃったけど 優秀な掛居 さんなら分かるよね、私たちお酒いただいてたんですもの。 あれっ、彼女が泣いてる、なんでかしら、不思議。 泣いてる人の慰め方も分かんないし、早く帰ろっと。 「では、失礼します」 ◇ ◇ ◇ ◇ 花は島本玲子の悪意のある受け答えで胸が潰れそうに痛かった。 涙が後から後から零れ落ちてゆく。 小さな頃から身近にいて高校生になった頃から付き合って来たいとこ。 ずっと信頼してきた唯一無二の存在だった。 その人に裏切られたのだ。 涙で濡らした頬も心もヒリヒリと痛い。 踵を返し花はトボトボと来た道を歩いた。
10 その頃匠吾の家では母親の沙代がどういうことなのかと匠吾に詰め寄っていた。 「花ちゃん、血相変えて出て行ったけどあなたたち大丈夫なの?あなたは男だからまだまだ年齢的に猶予があるけれど花ちゃんは 女の子だからね、おじいさまが心配なさって『そろそろ婚約、結婚と 話を進めなけりゃあならんなぁ』とおっしゃってるところだから 気をつけけてよ、身辺にね。 まさか、さっき訪ねてきた島本さんと何かトラブったりして ないでしょうね」「彼女とは正社員になるための勉強方法とか聞かれて問題集を貸して あげただけなんだけど、困った人だ」 匠吾は、母親に掻い摘んで昨夜のことや先ほど島本玲子が訪ねてきた 理由などを話した。 「カフェバーか、行ったのを知ったら花ちゃん悲しむね、きっと」「なんでちゃんと断らなかったんだろ。優柔不断だな俺」 「なんか、島本さんの行動が怪し過ぎるわね。 削除してほしいって頼んだ画像のことでわざわざ家に……休日の朝に 来る必要ないものね。 花ちゃんにもう一度ちゃんと話して誤解を解いた方がいいと思うわ。 ちゃんと話せばおかしな振舞いの島本さんの言うことより あなたの言うことを信じてくれるはず。長い付き合いだもの」「うん、ちょっと花が心配だからその辺見てくるよ」 ◇ ◇ ◇ ◇ 家の前に出ると、ちょうど花が自分の家に向かって歩いているのが 見えた。 家の右、祖父の家を一軒挟んで隣が掛居家になる。 「花、どこ行ってたんだ?」 花は泣いていた。 「花……なんで」
11 「島本さんに聞いたよ。 匠吾の裏切り者、約束してたのに。 許さないから」 許さないからの言葉を残して、足早に花は自分の家へ入って行った。 はっとした。 俺が先ほど『彼女に訊いてくれていいから』と言ったので花は 島本を追いかけて行き、ふたりのことを訊いたのだろう。 あの島本のことだ。 何を花に話したのやら。 どこまでも迂闊な自分に腹がたつ。 俺が花を連れて島本に説明させればよかったものを。 何かこうなったら全て島本玲子のペースに乗せられて 俺は深い穴に落ちていくような気分だった。 『花、島本に何言われたか知らないけど俺の言うことを信じてほしい。 店に行ったことはごめん。謝るから、連絡ください』 『花、連絡ください。 俺と彼女の間に疚しいことは何もない、ほんとだから信じて』 『ツーショットの画像なんて撮らせてごめん。 言い訳に聞こえるかもしれないけどあれもハプニングで 隣に座ってた男と島本が勝手に撮ったものなんだ』 寝るまでにメールを何度も送り続けたが花からの返信はなかった。 胸が痛い。 どうか……花が明日は話を聞いてくれますように! ◇ ◇ ◇ ◇ちょうど花壇の手入れをしようと母親の花乃子が玄関口に 出ようとしていたところ、娘の花が血相を変えて家の中に入ってきて そのまま自分の部屋に向かったので、花乃子は気になり 花の部屋のドアをノックした。
12 「花ちゃん、どうしたの? 何かあった? お部屋入るわね」 花乃子が部屋に入ると娘の花は声を殺して泣いていた。 「匠吾くんとDVD見るって言ってたのに……。 喧嘩でもした?」 「おかあさん、私胸が苦しいの」 初めて見る娘の苦しむ姿に花乃子はびっくりした。 そのうち見るからに呼吸の仕方がおかしくなり、急いで ホームドクターに来てもらうことにした。 花は過呼吸をおこしていた。 その夜花乃子は娘から午前中にあった出来事のあらましを 聞き出したのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 花の話から匠吾くんと相手の女性の係わり方が全部は把握できてないかもしれないけれど、相手の女性がまともではないということだけは分かる。 相手の女性が何も話さなければ、匠吾くんも花には何も言わず あとは会うこともなかったのかもしれない……し、会ったかもしれない……か。 ふふっ、この辺は分からないわねぇ。 匠吾くんは一応花から相手の女性とは係わらないでほしいと 言われてたのに、会ったのだから。 しかも夜の酒場で。 下心があったのかなかったのか、そんなもの神のみぞ知る? 匠吾くんは知ってるよね、自分の気持ちなんだから。 どちらにせよ、夜の街で、酒場で恋人以外の女性と会ったという事実は 消えない。 この時花乃子は花が匠吾との未来は選ばないと言ったら 花の言う通りにしてやろうと決めていた。 そして仕事から帰って来た夫とも話し会い、同じ結論に至った。
13 今日こそはちゃんと話をして花を何とか宥めようと、そんな算段をして 匠吾は出勤したというのに花は出勤してこなかった。 総務の課長に理由を聞いてみると……。「ああ、掛居さんね、体調不良で2~3日休むことになったよ」「そうなんですか」 昨日の今日で花が休みってことは俺のせいだよなぁ……。 行き違いだけは、俺の気持ちだけはなんとしてでも聞いてもらわないと。 昼の休憩時になり席を立とうとした時、島本玲子が俺の側までやって来た。 「土曜は楽しかったですね。 あ、そうそう、これ向阪さんのじゃないですか。 お店で落としてましたよー」と周囲に対してデートしましたよねを主張しまくりの、とどめが 俺のハンカチ登場だった。 俺が手洗いに席を立った時にでもカバンから抜かれてたのだろう。 この女ならあり得る。 画像は自宅へ来るための手段、ハンカチは社内へ向けての 私たちデートした仲アナウンス。 気持ち悪いほど一つ一つ仕掛けられていたようだ。 俺は無言で受け取り彼女を無視して席を離れた。 そしていつものメンツとカフェテリアへ向かった。 好きなメニューを乗せたプレートをテーブルに置いて座った時だった。 さっきのシーンを見ていたであろう同期の藤本が言った。 「なんか、ややこしいことになってるのか?」「えっ?」「いやぁ~なんかさっきの島本さんとお前の遣り取り見てたら温度差が 半端ないっていうか、お前彼女にストーカーされてない?」「思いたくないけどそうかもしれない」「掛居さんが出社してないのもそのせいだったりして。 気を付けたほうがいいぞ。 島本さんお前とのツーショット画像を土曜の夜にかなりの人数に 送ってるみたいで、送ったあとで『間違って送ってしまいました』っていう すみませんメールまで送ってるしぃ」 そこまでやられてるのか、俺は。 ガックリと項垂れるしかなかった。 「掛居さんに誠心誠意謝るしかないよなぁ~」 他人事のように……いや実際他人事だからな、他人事のように呟く 藤本の慰めの言葉を遠くで聞いた。
14 片や花の状態はというと、食事も摂らずたまに水分補給するくらいで 一日ベッドの中で過ごしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 仕事を終えて帰宅後匠吾は花を訪ねた。 玄関で出迎えてくれた花乃子に匠吾は頭《こうべ》を垂れた。 「おばさん、申し訳ありません。 昨日花ちゃんに嫌な思いをさせてしまいました。 すぐに彼女に謝ろうと思ったのですが僕もパニクってしまい 伺えませんでした。 それで今日こそ会社でちゃんと説明して分かってもらおうと 思ってたのですが話せなかったものですから、お邪魔させていただきました」 匠吾を見ると大層悩まし気な風情で、彼の今回の困惑具合が 手に取るように分かった。 「折角心配して来てもらったけど、花ね、昨日過呼吸起こして精神的に まだ安定してないから日を改めて来てもらおうかな」 「えっ、過呼吸……。 ひと目でいいんです1分だけでも。 何でもいいから花から何か聞きたいです、罵倒でもいいから。 ひと目会わないと俺たち駄目になりそうで不安なんです。 お願いします、会わせてください」「匠吾くん、ほんとに少しだけにしてね。 もしかしたら花はまともに返事できないかもしれないということも 分かった上で会ってね」 「わ、分かりました」 *** 「花、入るわね。匠吾くんがお見舞いに来てくれたのよ」
15 花とふたりきりで話せると思っていたのにおばさんは部屋から出て行かず ドアの側に立っていた。 「花、昨日はちゃんと説明できなくてごめん。 それから誤解されるようなことしてごめん」 花はベッドの上で両手で布団の端を握り締め前方を見ている。 声を掛けても俺のほうを見ない。 「今日花が休んでてびっくりした。 俺のことが原因ならちゃんと話を聞いてもらって誤解を解かなきゃって、 会いにきたんだ。な、花、俺を見て!」 「見たくないよぉ~、見ない見ない、何も聞かない、帰って。 おかあさん、苦しい~」 苦しい~と言い出した花は前方に身体を折り曲げて『うぅ~』と 唸り声を出し始めた。 「約束よ、匠吾くんそこまでにしてね」「はい……」 花の状態がここまでとは思わず俺はこれからどうしたらいいのか、 途方に暮れるばかりだった。 花の部屋から出ておばさんに見送られた時にどうしても黙っていられなくて俺は自分の現状を話した。 「一緒にカフェバーに行ったことはすごく反省しています。 花との約束を破る事になったわけで……。 ですがそれだけなんです。 島本から暗にそういうのを誘われましたが断って帰って来たのです。 それを花が分かってくれてないようなので、誤解させた自分が悪いのですがなんとも切なくて」 「匠吾くん、私は君の話を信じる。 だけどこれからのことは娘のことを第一に考えようと思ってるの。 取り敢えずは花の様子見してからの話になるわね」 「はい、ありがとうございます。失礼しました」 「花には折を見て一番大事な話を、匠吾くんと女性との間には疚しいことは 何もなかったってこと、伝えておくから」「よろしくお願いします」 花乃子おばさんがちゃんと肝心要のポイントをちゃんと理解してくれている ことが今の自分には少しの励ましになったと思う。 花がちゃんと分かってくれるといいのだが。
16 食事が摂れなくなった娘、ドクターから点滴の用意をしてもらい それからは毎日点滴で凌いでるような状況で、掛居夫婦はこのままじゃ 娘の精神が病んでしまうじゃないかと非常に心配になっていた。 それから4~5日しても花の精神状態は変わらず体のほうも 衰弱するばかりで……打つ手なし。 花の母親、花乃子と父親の智久とで話し合い、状況の悪化を鑑みて 花の今の状況を掻い摘んで祖父に伝えようという結論に達した。 このまま祖父に黙ったままいて万が一取り返しのつかないことにでも なれば、花を大層可愛がっている祖父の怒りを買うのは必至。 相談した日がちょうど金曜で掛居夫婦は夜に、娘である花乃子が 父親である向阪茂に連絡を入れた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 翌日話を聞いた茂の取った行動は素早かった。 話を聞いて発した第一声が……。 『ばっかもぉ~ん』だった。 何故すぐに連絡しなかったのだと 怒りカミナリ炸裂。 不思議なことにその顔と攻撃は娘の花乃子へではなく、もっぱら付き添い くらいの気持ちでいた夫の智久に向けられた。 どこまでも娘と孫娘には甘い爺《じじ》であった。 やれ行けそれ行けと、三人でそのまま掛居家まで戻り祖父の茂は 孫娘の花がいる部屋へと向かった。「花、どうだ? ご飯が食べられなくなったとお母さんから聞いたよ。 辛いのか? 匠吾からお前のお母さんに潔白だと説明があったそうだが、だめなのかい? 許せないのかい?」 「悲しくて辛過ぎて悔しくて許せるところまで気持ちが追い付いて いかないの。 匠吾は私との約束を破ったの……破った……の。 嘘つきなのアーっ~うっうっー苦しい~ひぃ~」 匠吾の話題で花がまたまたヒステリックな状態になってしまった。「花、苦しいの取りたいか? 嫌な事忘れてしまいたいか?」「おじいちゃん、助けて。苦しいの取って」「分かった、おじいちゃんに任せろ」 このふたりの遣り取りのあと、翌日早朝から4人と運転手を乗せた車が 掛居家の門を潜り抜けて行った。
76 友人の星野から電話で聞いた話では今回のパーティーは商社に勤める 柿谷さんからの紹介らしかった。 柿谷さんも私たちと同じ大学だったけれどグループが違っていた人だ。 在学中に少し親しくしていたみたいで、たまたま最近繁華街で出会って 立ち話もなんだからとお茶して近況を話し合ってるうちに……ということ らしい。 学生時代からの友人星野は自分とは違い堅実にずっと同じ職場で 頑張っている。 医科大で正社員として勤務している。 昨今大学の事務員というのもほとんどが時給の契約社員とか 日給の派遣社員がほとんどらしいから流石新卒で入社して頑張ってるだけ あるよね、星野は。 私も当初は正規雇用の銀行員だったのにさ、なんでこうなっちゃったん だろうなんて思う日もあったわ。 でも伴侶を見付けるなら大手企業への派遣入社も悪くはないよね。 実際、私は研究員のエリート捕まえたもん。 ここはひとつ星野が良い男性《ひと》と出会えるよう協力を惜しまない つもり。星野ぉ~、あんたいい友だち持ったね~。 ◇ ◇ ◇ ◇ 金曜日の夜に彼女から再度連絡があり、私たちが参加するのは レセプションパーティーで開催時間は17:00からと聞く。 ホテルのチェックインの時間に合わせて行くことに決めた。 夜は少し肌寒くなるかもしれないからとふたりともスプリングコートを 羽織って行くことにしたのでフォーマルなドレスの見せあいっこは ホテルにチェックインしてからになった。 星野はほどよいマキシ丈でウエストにゴムが入っているネイビー色の シンプルだけど華やかさも併せ持つドレス。 ハイネックマキシドレスで襟元のビジューがパールでドレスと相まって 彼女の印象に華やかさをプラスしている。 「星野、いいじゃない、そのドレスと襟元のパールのネックレス、 むちゃくちゃいいわ。きっといい男性《ひと》見つかるね」 「ふふっ、サンキュー。そう言ってもらうと心丈夫だわ」 私はというと、今回クローゼットを覗いて黒のにするか今着ている ペールブルーにするか迷ったけれど、透明感があって袖がシースルーの透け たレース生地になっている清楚系デザインの丈短めドレスにした。 私もネックレスはパールだ。 ふたりでしばし、互いのドレスを褒め合いパーティーに向
75 婚約も終え半年先を見据えた結婚の話も決まりほっと一息ついた魚谷は、仕事も勤めて丸4年になり、たまに緊張する場面もあるものの、普段はこなれた動作で仕事を片付けていて精神的にも物理的にも暇の1文字が頭を掠めるようになるのだった。 婚約者の雨宮も仕事に追われ忙しそうである。 ただの恋人同士だった時には会わないでいると不安でしようがなかったものだが、双六《すごろく》でいうと、まだ盤上にはいるものの、ゴールに到達したも同然。 それゆえ、魚谷はほどよく余裕でいられた。 ……とそんな折に、婚活している学生時代の友人から『お願いがあるのぉ~』と電話が掛かってきた。 東京でセレブリティ《celebrity 》たちが集う豪華パーティーがあるので一緒に付き合ってほしいというものだった。 その週は雨宮との約束がなかったため、保護者の気分と著名人などが集うパーティーというものに今まで縁のなかった魚谷はそういう人たちに会えることにも少し興味があり、二つ返事でOKした。 新大阪駅からなら東京まで新幹線で2時間30分と少し……といったところだろうか。一泊すれば楽勝だ。 誘われた後で、本当に一般人の自分たちが名士や著名人が参加するパーティーという名の集いにそんなに簡単に参加できるものなんだろうかと気になり、ちょっと調べてみた。 真の富裕層などが集うところへは、簡単に参加できないらしいということが わかった。 ……ということは、友人が行くところはどんな人たちの集まりだというのだろう? 小金持ちくらいの集いかもしれないなと魚谷は思った。
74 そして次に就いた大手ハウスメーカーでも魚谷は過去の経験を何ら生かす ことなく、同じようなことをやらかして辞めざるを得なくなり追われるよう にして辞職した。 こちら大手ハウスメーカーの事務兼務付きの受付嬢の面接を受けた時から 魚谷はこんどこそこの会社で将来の夫となるべき男性《ひと》をGet するのだとの強い意志を持って臨んでいたこともあり、社内のイベントごと は欠かさず参加し続けた。 そしてそれが功を奏したのか、入社して1年経つ頃には社内のエリート を恋人に持つことに成功した。 大手ハウスメーカーでは雇用時にキャリア籍とノンキャリア籍という 具合にどちらかに選別され雇用される。 これは退職するまで能力がいかに高かろうと変わらないのであった。 抜け目のない魚谷が選んだ相手は住宅総合研究所という部署に所属する 東大卒のエリートだった。 ノンキャリア籍組とは給与が300万以上も違うと言われ 『専業主婦になれる』と魚谷は至極ご満悦であった。 ただ、研究室に閉じこもり建材成分などの分析研究をする仕事柄も 相まって、地味な性格が少し気になるところではあった。……とはいうものの、その恋人雨宮洋平とは順調に交際が続き、付き合って 3年が過ぎた頃両家で顔合わせもし正式な婚約を交わした。 周囲にふたりの交際は公認だったが、婚約した話は結婚をいつ頃にするか 決めてからにしようということで周囲にはまだ発表していないような 状況だった。
73――相馬の事務補佐2人目派遣社員・魚谷理生仕事と恋の変遷―― しかしそこは大手派遣会社『事務派遣コスモス』のこと、1日たりとも空白を作ることなく槇原が実質出社しなくなった翌日には新しい人材が投入された。 槇原も清楚でなかなかに可憐な女性だったが、次に派遣されてきた魚谷理生《うおたにりお》は、これまた華やかで別の美しさを持ち合わせた女性だった。 それもそのはず前職の派遣先は大手ハウスメーカーで80人の応募者の中から企業の顔である受付嬢に選ばれたという強者だ。 1人目もそこそこの綺麗所で2人目が更に美しい派遣社員となると、周囲にちょっとしたどよめきが起こっても致し方のないことだろう。 正直ぬぼーっとした相馬もきれいな人だなぁ~と内心素直に喜んだ。 だが素直に喜んだだけだ。 ここが重要で周囲がどよめいた理由とは少し違っていた。 そう、残念ながら? 年頃の男子にありがちな下心はなかったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ――― 二兎を追う者は一兎をも得ず ――― さて、大手ハウスメーカーの顔であり花形の受付嬢を射止めたというのに魚谷は何故にそちらを辞めて三居建設(株)に来ることになったのか。 魚谷は大学卒業後メガバンクへ一般職で入行した。 総合職も視野に入れていたものの、早く結婚して家庭に入りたかった魚谷はキャリアを積めるチャンスを自ら捨てた。 それでも社風は風通しがよく働きやすさと福利厚生が手厚いというのもあり寿退社するまでは働くつもりでいた。 けれど社内での恋愛でつまずき思いもよらず、3年で辞めることになってしまう。 モテるが故の苦悩というものだろうか!? 二股が原因だった。 早くどちらか1人に決めなければと思いつつもズルズルと付き合い続け、結局は両方からそっぽを向かれてしまい職場に居づらくなってしまったというのがことの顛末だった。
72 ただ気のせいか失敗が続いてから、以前よりも話し掛けられる回数が減ったかもしれない。 そう思い始めると居てもたっても居られなくて、夜になると涙が零れた。 毎日異性と一緒に仕事をするなんて初めてのことで、しかもその相手が自分から見ると神々しくて眩しい存在へと時間と共に大きく変化してしまい、そんな自分の感情を持て余しオロオロしてしまうばかり。 眩しい存在だと認識しているくせに親しくなりたいという想いが日に日に強くなり、反して現実はというと、彼とはお茶を誘われるどころかちょっとした雑談さえ交わせてなくて寂しさは募るばかり。 そんなふうに悲しい独り相撲をしていた槇原は妄想して苦しくなる毎日を手放す決心をするのだった。 家族の病気を理由に辞職を申し出て1週間後に逃げるようにして辞めた。「相馬さん、急に辞めることになってすみません」「あぁ、大丈夫だから。 派遣会社から次の人をすぐに紹介してもらえるみたいだから、心配しないで。おかあさんだったかな? 看病大変だろうけど頑張って下さい。 また派遣業務に戻ったら一緒に働く機会があるかもしれませんね。 その時はまたよろしく。今日までありがとうございました」「あ、こちらこそお世話になり、ありがとうございました」 最後までやさしい相馬に、槇原の胸はやさしくされたことへのうれしさが1割、自分らしさを発揮できないまま去って行くことへの寂しさが9割だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ こうして相馬は補佐してくれる人を本格的な夏が来る前に失った。
71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。
70 登録している派遣会社からここ建築関係の企業に派遣されてきた29才という 中途半端な年齢の槇村笙子《まきむらしょうこ》が、どのような経緯でここに 流れ着いたのか。大学の単位不足が原因で留年してしまい、上手く就活に乗れず、 派遣社員として働いてきた。 これまで正規雇用の仕事も何度か面接にトライしてきたものの、 採用までには至らず。 三居建設(株)に入社する前の勤務先は居心地がよくて7年勤めた。 そちらは周りの男性たちがほとんど既婚者ばかりで出会いもなく 結婚の予定もないという状況で、あと1年もすれば30の大台に乗りそうな 勢いに焦りを持ち始めた頃、ちょうどよかったと言うべきかなんと言うべきか、 親切でやさしくしてくれた上司が異動になってしまい、新しい上司がやってきた。 そしてその上司とあとひとり、隣の課である工営二課の臨時社員のおばさまが 自分のいる工営一課に異動になった。 自分はその新しい上司とは何気に反りが合わず冷たくされ、また二回りは離れ ていそうな臨時社員おばさま、森悦子女子とは別々の課だった時には良好な関係 だったのだが同じ課になった途端、自分に冷たい態度をとるようになり、そのよ うな状況の中彼女は新しく異動で来たその上司とすぐに懇意になった……いや、 取り入ったというべきか! 自分はそれまで課に1人しかいない女性ということで周囲から甘やかされていた のだけれど、それは異動でいなくなった上司が可愛がってくれていたからなんだ とあとから思い知った。 新しくきた上司が自分に冷たいとそれまでやさしかった周囲が同じようによそよそしくなっていくのが手にとるように分かったからだ。 だって、自分は皆に何もしてない、今まで通り。 ただ上司に可愛がられなくなっただけ。 人間不信に陥りそうだった。 それですっぱりとその住宅サービス(株)を辞めることにした。 するとすぐに派遣会社から三居建設(株)を紹介され 『こちらの会社は将来正規雇用の道もあるので槇原さんどうでしょうか、 いいと思いますよ』 と勧められたのをきっかけにこちらに転職したのだった。
69 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで 槇原にレクチャーした。 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には 質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と 思うようなことが増え始めた。 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを 説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで 『はい、いいえ、わかりました』 という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。 そしていつも悲し気な表情でいることにも。 気付いてしまうと 『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』 そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を 一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要 はなくなったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 本人から直接ではなく、上司から 『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』 と聞かされたのだ。 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。