12 「花ちゃん、どうしたの? 何かあった? お部屋入るわね」 花乃子が部屋に入ると娘の花は声を殺して泣いていた。 「匠吾くんとDVD見るって言ってたのに……。 喧嘩でもした?」 「おかあさん、私胸が苦しいの」 初めて見る娘の苦しむ姿に花乃子はびっくりした。 そのうち見るからに呼吸の仕方がおかしくなり、急いで ホームドクターに来てもらうことにした。 花は過呼吸をおこしていた。 その夜花乃子は娘から午前中にあった出来事のあらましを 聞き出したのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 花の話から匠吾くんと相手の女性の係わり方が全部は把握できてないかもしれないけれど、相手の女性がまともではないということだけは分かる。 相手の女性が何も話さなければ、匠吾くんも花には何も言わず あとは会うこともなかったのかもしれない……し、会ったかもしれない……か。 ふふっ、この辺は分からないわねぇ。 匠吾くんは一応花から相手の女性とは係わらないでほしいと 言われてたのに、会ったのだから。 しかも夜の酒場で。 下心があったのかなかったのか、そんなもの神のみぞ知る? 匠吾くんは知ってるよね、自分の気持ちなんだから。 どちらにせよ、夜の街で、酒場で恋人以外の女性と会ったという事実は 消えない。 この時花乃子は花が匠吾との未来は選ばないと言ったら 花の言う通りにしてやろうと決めていた。 そして仕事から帰って来た夫とも話し会い、同じ結論に至った。
13 今日こそはちゃんと話をして花を何とか宥めようと、そんな算段をして 匠吾は出勤したというのに花は出勤してこなかった。 総務の課長に理由を聞いてみると……。「ああ、掛居さんね、体調不良で2~3日休むことになったよ」「そうなんですか」 昨日の今日で花が休みってことは俺のせいだよなぁ……。 行き違いだけは、俺の気持ちだけはなんとしてでも聞いてもらわないと。 昼の休憩時になり席を立とうとした時、島本玲子が俺の側までやって来た。 「土曜は楽しかったですね。 あ、そうそう、これ向阪さんのじゃないですか。 お店で落としてましたよー」と周囲に対してデートしましたよねを主張しまくりの、とどめが 俺のハンカチ登場だった。 俺が手洗いに席を立った時にでもカバンから抜かれてたのだろう。 この女ならあり得る。 画像は自宅へ来るための手段、ハンカチは社内へ向けての 私たちデートした仲アナウンス。 気持ち悪いほど一つ一つ仕掛けられていたようだ。 俺は無言で受け取り彼女を無視して席を離れた。 そしていつものメンツとカフェテリアへ向かった。 好きなメニューを乗せたプレートをテーブルに置いて座った時だった。 さっきのシーンを見ていたであろう同期の藤本が言った。 「なんか、ややこしいことになってるのか?」「えっ?」「いやぁ~なんかさっきの島本さんとお前の遣り取り見てたら温度差が 半端ないっていうか、お前彼女にストーカーされてない?」「思いたくないけどそうかもしれない」「掛居さんが出社してないのもそのせいだったりして。 気を付けたほうがいいぞ。 島本さんお前とのツーショット画像を土曜の夜にかなりの人数に 送ってるみたいで、送ったあとで『間違って送ってしまいました』っていう すみませんメールまで送ってるしぃ」 そこまでやられてるのか、俺は。 ガックリと項垂れるしかなかった。 「掛居さんに誠心誠意謝るしかないよなぁ~」 他人事のように……いや実際他人事だからな、他人事のように呟く 藤本の慰めの言葉を遠くで聞いた。
14 片や花の状態はというと、食事も摂らずたまに水分補給するくらいで 一日ベッドの中で過ごしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 仕事を終えて帰宅後匠吾は花を訪ねた。 玄関で出迎えてくれた花乃子に匠吾は頭《こうべ》を垂れた。 「おばさん、申し訳ありません。 昨日花ちゃんに嫌な思いをさせてしまいました。 すぐに彼女に謝ろうと思ったのですが僕もパニクってしまい 伺えませんでした。 それで今日こそ会社でちゃんと説明して分かってもらおうと 思ってたのですが話せなかったものですから、お邪魔させていただきました」 匠吾を見ると大層悩まし気な風情で、彼の今回の困惑具合が 手に取るように分かった。 「折角心配して来てもらったけど、花ね、昨日過呼吸起こして精神的に まだ安定してないから日を改めて来てもらおうかな」 「えっ、過呼吸……。 ひと目でいいんです1分だけでも。 何でもいいから花から何か聞きたいです、罵倒でもいいから。 ひと目会わないと俺たち駄目になりそうで不安なんです。 お願いします、会わせてください」「匠吾くん、ほんとに少しだけにしてね。 もしかしたら花はまともに返事できないかもしれないということも 分かった上で会ってね」 「わ、分かりました」 *** 「花、入るわね。匠吾くんがお見舞いに来てくれたのよ」
15 花とふたりきりで話せると思っていたのにおばさんは部屋から出て行かず ドアの側に立っていた。 「花、昨日はちゃんと説明できなくてごめん。 それから誤解されるようなことしてごめん」 花はベッドの上で両手で布団の端を握り締め前方を見ている。 声を掛けても俺のほうを見ない。 「今日花が休んでてびっくりした。 俺のことが原因ならちゃんと話を聞いてもらって誤解を解かなきゃって、 会いにきたんだ。な、花、俺を見て!」 「見たくないよぉ~、見ない見ない、何も聞かない、帰って。 おかあさん、苦しい~」 苦しい~と言い出した花は前方に身体を折り曲げて『うぅ~』と 唸り声を出し始めた。 「約束よ、匠吾くんそこまでにしてね」「はい……」 花の状態がここまでとは思わず俺はこれからどうしたらいいのか、 途方に暮れるばかりだった。 花の部屋から出ておばさんに見送られた時にどうしても黙っていられなくて俺は自分の現状を話した。 「一緒にカフェバーに行ったことはすごく反省しています。 花との約束を破る事になったわけで……。 ですがそれだけなんです。 島本から暗にそういうのを誘われましたが断って帰って来たのです。 それを花が分かってくれてないようなので、誤解させた自分が悪いのですがなんとも切なくて」 「匠吾くん、私は君の話を信じる。 だけどこれからのことは娘のことを第一に考えようと思ってるの。 取り敢えずは花の様子見してからの話になるわね」 「はい、ありがとうございます。失礼しました」 「花には折を見て一番大事な話を、匠吾くんと女性との間には疚しいことは 何もなかったってこと、伝えておくから」「よろしくお願いします」 花乃子おばさんがちゃんと肝心要のポイントをちゃんと理解してくれている ことが今の自分には少しの励ましになったと思う。 花がちゃんと分かってくれるといいのだが。
16 食事が摂れなくなった娘、ドクターから点滴の用意をしてもらい それからは毎日点滴で凌いでるような状況で、掛居夫婦はこのままじゃ 娘の精神が病んでしまうじゃないかと非常に心配になっていた。 それから4~5日しても花の精神状態は変わらず体のほうも 衰弱するばかりで……打つ手なし。 花の母親、花乃子と父親の智久とで話し合い、状況の悪化を鑑みて 花の今の状況を掻い摘んで祖父に伝えようという結論に達した。 このまま祖父に黙ったままいて万が一取り返しのつかないことにでも なれば、花を大層可愛がっている祖父の怒りを買うのは必至。 相談した日がちょうど金曜で掛居夫婦は夜に、娘である花乃子が 父親である向阪茂に連絡を入れた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 翌日話を聞いた茂の取った行動は素早かった。 話を聞いて発した第一声が……。 『ばっかもぉ~ん』だった。 何故すぐに連絡しなかったのだと 怒りカミナリ炸裂。 不思議なことにその顔と攻撃は娘の花乃子へではなく、もっぱら付き添い くらいの気持ちでいた夫の智久に向けられた。 どこまでも娘と孫娘には甘い爺《じじ》であった。 やれ行けそれ行けと、三人でそのまま掛居家まで戻り祖父の茂は 孫娘の花がいる部屋へと向かった。「花、どうだ? ご飯が食べられなくなったとお母さんから聞いたよ。 辛いのか? 匠吾からお前のお母さんに潔白だと説明があったそうだが、だめなのかい? 許せないのかい?」 「悲しくて辛過ぎて悔しくて許せるところまで気持ちが追い付いて いかないの。 匠吾は私との約束を破ったの……破った……の。 嘘つきなのアーっ~うっうっー苦しい~ひぃ~」 匠吾の話題で花がまたまたヒステリックな状態になってしまった。「花、苦しいの取りたいか? 嫌な事忘れてしまいたいか?」「おじいちゃん、助けて。苦しいの取って」「分かった、おじいちゃんに任せろ」 このふたりの遣り取りのあと、翌日早朝から4人と運転手を乗せた車が 掛居家の門を潜り抜けて行った。
17 いうて、向阪茂は旧三居掛友財閥の総裁である。 さまざまな分野、方面に知り合いが多数いる。 今回孫娘の花をどうやれば心の苦しみから救えるのか茂にはすぐに ある人物の顔が浮かんだ。 そしてその治療を花に受けさすため親子を連れ、信州へと向けて 出かけたのだった。 信州へ向けて出発↑ 向かったのは身体的にも精神的にもリラックスして、潜在的な意識が 顕在化している意識レベルよりも優位な催眠状態で実施する心理療法の 一つである催眠療法の権威、増井隆三セラピストの元へだった。 彼は顕在意識を催眠状態に誘導して潜在意識に直接アクセスすることに 特化した、代替医療の一種である潜在意識を書き換えるヒプノセラピーを 患者に施すことのできるセラピストである。 施術に入るに際して…… 花本人、祖父の向阪茂(旧財閥総帥)、父親の掛居 智久、母親の花乃子(向阪茂の娘)の4人で増井隆三医師のカウンセリングを聞く。「記憶を思い出すことを抑制したり記憶を整理したりする方向での治療などといろいろなメソッドがありますが……今回わたくしは花さんのお話を聞いて取捨選択の結果、あった記憶は消せませんが気持ちの持ちようを変えてみたり相手を許せるように誘導するという方法をとろうかと考えています。 別の女性とデートしていてもそれが自分の好きな男性じゃなかったら どうです? ふ~んてなもんで過呼吸なんておこしませんよね? 怒りを持つと悲しみや苦しみに支配されて幸せな気持ちになんて なれやしません。 だけどどうです? 許すと心が落ち着き穏やかな気持ちでいられますよね。 記憶はあるのですがその懇意にされていた男性に万が一遭遇したとしても 慌てず騒がず、花さんは対処できるかと思います。 もう相手は嘗てのように好きな相手ではなくなっていますから。 記憶の操作です。 この催眠療法を8~10年間かけておいて、あとは自然と過去の記憶を全て 思い出せるようにしておきましょう。 その頃には人生経験も積み、催眠療法など効いてなくてもお相手のことを ある程度許せて、ご自身の動揺もほとんどなく過ごせると思います。 簡単に言えば今花さんが受け止めきれない問題を数年先延ばしにするという療法ですね」
18 話を聞き終えた茂が花に訊く。「花、どうする? おじいちゃんはいい方法だと思うが」「おじいちゃん、それで今の胸の痛みが取れるのだったらぜひ セラピー受けたい」 これでGOサインは放たれた。 増井医師より母親の花乃子に同室して花を見守りリラックスさせてあげてほしいとの要望があり、花乃子は花のセラピーに付き添うこととなる。 家族の予想に反してセラピーはそんなに時間はかからず、施術は完了した。 「どうだ、花」「不思議な感覚。 胸の痛みが嘘みたいだけど取れたよ、おじいちゃん。 おじいちゃんと先生のお蔭です。 おじいちゃん、ありがとう。 先生、ありがとうございました」「花、匠吾くんのことは覚えてる?」 母親からの質問に……「記憶は大丈夫、覚えてる。 バカだよねぇ~、あんな根性ババ子に唆《そそのか》されてさぁ~、ふふふ」 「あなた……」 花乃子は夫の智久に驚嘆の言葉を口にした。 夫と互いの視線を絡ませ二人は安堵の吐息を吐いた。「いやぁ~すごいですなぁ。流石増井くんだ、ありがとう。 後日改めて礼に伺わせていただきますよ」 「よかったです。 花さんから明るい言葉を聞けて私も安堵しました」 花自身も半分疑心暗鬼だったものの、施術後 『はぁ~い、終わりました。ゆっくりとこちらの世界へ戻りましょう』 と言われ目を開けたわけだが。 不思議な感覚としか言いようがない。 セラピーに入る前に感じていた悲しみ苦しみが嘘のように消えていたのだから。 そして気付いたことがあった。 匠吾の名前を聞いても相手を弄《いじ》れるほど他人事なのだ。 自分の中から匠吾に対する恋焦がれるほどの好きという気持ちが なくなっているなんて。 しかし、あんな苦しみを味わうことに比べれば瑣末なことだ。 花はそれを残念だとは思わなかった。
19 古くは戦国・江戸時代から続く名門、旧財閥の末裔である。 旧財閥は戦後の財閥解体で資産没収されたものの財閥企業は企業グループへと高度成長の波に乗って組織形態を変化させ集客を広げ利益を増やしてきた。 向阪茂はその財閥の中で頂点を極める存在で総帥ともフィクサーとも呼ばれ、知る人ぞ知る畏れられる存在であった。 フィクサーとは政治、行政や企業の営利活動における意思決定の際に 正規の手続きを経ずに決定に影響を与える手段、人脈を持っている 人物のことである。 ◇ ◇ ◇ ◇ さて、信州では一泊してすぐに自宅へと戻って来た茂は 花の一件が片付いたところで、すでに次の一手を考えていた。 それはもう一人の全く血の繋がりのない孫、匠吾のことだった。『世が世なら、詰め腹切らせるところじゃ』 との大層立腹した様子が茂の部屋の窓越しからでも分かるほどだった。 『だから言わんこっちゃない。 息子の洋輔には当時散々沙代との結婚は止めておけと言うたのになぁ~』 口に出して呟いたら何やら言葉尻がへなっと弱くなってしまった。 そこに茂の苦悩が見え隠れするのだった。 大岡越前(茂)之介、この裁きをどうつけようぞぉ~~。 ******** 息子の洋輔には週の真ん中あたりで父の茂から家族全員で週末、 自分たちの息子《匠吾》が仕出かしたことへの申し開きに来いとの お達しがあった。
79 翌日グループLINEで早速男性陣から次のお誘いがあった。私は星野の協力隊ということで後1回は付き合うけれど、三度目はないということを星野に伝えた。「だけど、ニ度会ってどちらからも明確なアプローチがなかった場合グループで会えないのは痛いなぁ~」「分かった、じゃあ三度目までギリ付き合いましょう!」「わぁお、ありがと、サンキュー」 しかし、三度目までという私たちの思惑は杞憂に終わり、ニ度目のデートのあと、星野は宮内さんと付き合うことになった。 そして、いけないことだけど私も柳井さんと付き合うようになった。 ニ度目に会ってから分かったことなんだけど彼は代議士の息子で御曹司だったのだ。 顔よし、声よし、性格良し、仕事も家柄もいい。 私の中で気持ちが大きく揺れ動いた。 柳井さんには自分に婚約者がいることを話し、その上で受け入れてくれるならお付き合いしたいということを話さなければならない。 そして雨宮さんには他に意中の男性《ひと》ができたので申し訳ないけれども婚約を取りやめにしたいと申し出ること。 私は柳井さんと付き合っていることを星野には黙っていた。 けど、絶対バレるよねー、宮内さんと柳井さんは同期で職場が同じなんだもん。 ◇ ◇ ◇ ◇ 星野と宮内さんはしばらくの間自分たちの意志の確認《愛を語る》に忙しかったらしく、星野から忠告の電話が掛かってきたのは月が変わってからだった。「ね、今日宮内さんから聞いてびっくりしたんだけど柳井さんと付き合ってるってほんとなの?」「うん、言い出しにくくて黙っててごめん」「えっと、婚約者はどうするの? 魚谷の中ではどっちが本命なのかなぁ~?」「それは……」「婚約者も柳井さんも、二股されてること知らないよね?」「ふ、二股だなんて人聞きの悪いこと言わないでっ」「人聞きが悪いって言われたってね~、じゃぁ魚谷のやってることって何なの?」「雨宮さんには悪いけど、柳井さんと付き合いたいって思ってるの」「ごめん、言い過ぎた。 もとはといえば私のせいでもあるんだものね。 何だか婚約者の人、雨宮さんだっけ? なんか責任かんじちゃうなぁ~。 まさか、こんなことになるなんてね」「わたしも……こんなことになるなんて思ってなくて、動揺してる」「ね、雨
78 「あっ、つまんないことで騒いじゃってて恥ずかしいです。 こちらこそよろしくデス」 「じゃぁその辺のテーブル席へ移動しませんか」 今度は隣にいた男性《ひと》が声を掛けてきた。 2人ともなかなかなイケボで、なんだか楽しそうな時間を過ごせそうで よかった。 星野はどっちの人が好みかな。 私は……関係ないけど、隣にいた人がいいと思う。 話を聞くところによると彼らは同じ職場の同期だということらしい。 もちろん恋人なし。 私は星野に合わせて恋人なしということにしておいた。 どうも彼らも未来の花嫁候補をGetする気満々なようで、 食事もそこそこに人懐っこくかつ積極的に私たちに絡んでくれた。 最初に声を掛けてきたのが宮内隆《みやうちたかし》さん、そして もうひとりが柳井寛《やないひろし》さんという。 4人での話は盛り上がり、あっという間にパーティーのお開きの時間に なった。 お開きの後、隣接しているバーへと河岸を変え、私たちはお酒で 喉を潤しつつ、フランクに各々が自分たちのことを互いによく知り合いたい という情熱を傾けて楽しい時間を過ごした。 そして私たちはグループLINEを作り別れた。 彼らは大手不動産(株)勤務で柳井さんは総合職の都市事業ユニット 推進部のグループリーダーをしており、宮内さんは同じ総合職の都市事業 ユニット事業本部の係長ということだった。 宮内さんは眼鏡をかけていてにこやかでおっとり系、一緒にいると 癒される感じ。 柳井さんは近くで見ても遠目に見てもシュっとした鼻筋と綺麗で広めの 額から下がりそこそこ彫を深く見せる目元と盛り上がった頬骨からの顎に かけてのシャープなラインがちょいエキゾチックな雰囲気を醸し出してい る。 星野はどちらが好みなんだろう。 私は宿泊したその夜のホテルでも帰りの新幹線の中でも彼らの話で 盛り上がったものの肝心の星野の意中の相手のことは敢えて聞かなかった。
77 場所は赤坂にある結婚式場。 駅からハイヤーで10分少々。 私たちは10分前には受付にいた。 はぁ~、素敵な場所で圧倒される。 「独りで来るのはヤバイね」「ほんと、魚谷に付いてきてもらってよかったよ~」 私と星野は窓際に佇み、次々とゲストが入室するのを雑談しながら 眺めていた。 「結構年配の人が多いねー」思ったことを口に出してみた。「今は50代から上でも独身者多いんじゃないかな」「20代とは言わないけど30代、来てくれぇ~」と言いつつ 年寄りしか集まらなかったらやばいよね、と他人事ながら心配になる。……という私の心配をよそに多くはないけれど、20代30代と思しき 男性たちもボツボツ入室してきているようだった。「私のように恋人がいるのに参加してる人っているのかしらね?」「今回この話自体、急に決まっちゃったからさ、私はたまたま独身で 誘える友だちがいなくて魚谷誘っちゃったんだけど、まぁ普通は独身同士で 参加するでしょうね」「だよね」「ねね、顔動かさないで聞いて。 向こうからさ2人組がこっちに向かって来てる……ドキドキしてきた」 「早くも捕獲に来てくれてラッキーじゃん。 星野、頑張ろぉ~。ファィトっ、ゲホホツ」 情けない、力入り過ぎちゃった。「ぎゃははっ、魚谷、力入れ過ぎっ」 緊張感もなく、ふたりで『ぎゃはは』やっているところへ、男性陣が 参戦してきましたよ……っと。「やっ、何やら楽しそうですね。 お仲間に入れてもらえませんか」 私は瞬時に声を掛けてきた男性《ひと》と隣にいる男性《ひと》を ちら見した。 どちらも合格ラインに乗っててラッキー。
76 友人の星野から電話で聞いた話では今回のパーティーは商社に勤める 柿谷さんからの紹介らしかった。 柿谷さんも私たちと同じ大学だったけれどグループが違っていた人だ。 在学中に少し親しくしていたみたいで、たまたま最近繁華街で出会って 立ち話もなんだからとお茶して近況を話し合ってるうちに……ということ らしい。 学生時代からの友人星野は自分とは違い堅実にずっと同じ職場で 頑張っている。 医科大で正社員として勤務している。 昨今大学の事務員というのもほとんどが時給の契約社員とか 日給の派遣社員がほとんどらしいから流石新卒で入社して頑張ってるだけ あるよね、星野は。 私も当初は正規雇用の銀行員だったのにさ、なんでこうなっちゃったん だろうなんて思う日もあったわ。 でも伴侶を見付けるなら大手企業への派遣入社も悪くはないよね。 実際、私は研究員のエリート捕まえたもん。 ここはひとつ星野が良い男性《ひと》と出会えるよう協力を惜しまない つもり。星野ぉ~、あんたいい友だち持ったね~。 ◇ ◇ ◇ ◇ 金曜日の夜に彼女から再度連絡があり、私たちが参加するのは レセプションパーティーで開催時間は17:00からと聞く。 ホテルのチェックインの時間に合わせて行くことに決めた。 夜は少し肌寒くなるかもしれないからとふたりともスプリングコートを 羽織って行くことにしたのでフォーマルなドレスの見せあいっこは ホテルにチェックインしてからになった。 星野はほどよいマキシ丈でウエストにゴムが入っているネイビー色の シンプルだけど華やかさも併せ持つドレス。 ハイネックマキシドレスで襟元のビジューがパールでドレスと相まって 彼女の印象に華やかさをプラスしている。 「星野、いいじゃない、そのドレスと襟元のパールのネックレス、 むちゃくちゃいいわ。きっといい男性《ひと》見つかるね」 「ふふっ、サンキュー。そう言ってもらうと心丈夫だわ」 私はというと、今回クローゼットを覗いて黒のにするか今着ている ペールブルーにするか迷ったけれど、透明感があって袖がシースルーの透け たレース生地になっている清楚系デザインの丈短めドレスにした。 私もネックレスはパールだ。 ふたりでしばし、互いのドレスを褒め合いパーティーに向
75 婚約も終え半年先を見据えた結婚の話も決まりほっと一息ついた魚谷は、仕事も勤めて丸4年になり、たまに緊張する場面もあるものの、普段はこなれた動作で仕事を片付けていて精神的にも物理的にも暇の1文字が頭を掠めるようになるのだった。 婚約者の雨宮も仕事に追われ忙しそうである。 ただの恋人同士だった時には会わないでいると不安でしようがなかったものだが、双六《すごろく》でいうと、まだ盤上にはいるものの、ゴールに到達したも同然。 それゆえ、魚谷はほどよく余裕でいられた。 ……とそんな折に、婚活している学生時代の友人から『お願いがあるのぉ~』と電話が掛かってきた。 東京でセレブリティ《celebrity 》たちが集う豪華パーティーがあるので一緒に付き合ってほしいというものだった。 その週は雨宮との約束がなかったため、保護者の気分と著名人などが集うパーティーというものに今まで縁のなかった魚谷はそういう人たちに会えることにも少し興味があり、二つ返事でOKした。 新大阪駅からなら東京まで新幹線で2時間30分と少し……といったところだろうか。一泊すれば楽勝だ。 誘われた後で、本当に一般人の自分たちが名士や著名人が参加するパーティーという名の集いにそんなに簡単に参加できるものなんだろうかと気になり、ちょっと調べてみた。 真の富裕層などが集うところへは、簡単に参加できないらしいということが わかった。 ……ということは、友人が行くところはどんな人たちの集まりだというのだろう? 小金持ちくらいの集いかもしれないなと魚谷は思った。
74 そして次に就いた大手ハウスメーカーでも魚谷は過去の経験を何ら生かす ことなく、同じようなことをやらかして辞めざるを得なくなり追われるよう にして辞職した。 こちら大手ハウスメーカーの事務兼務付きの受付嬢の面接を受けた時から 魚谷はこんどこそこの会社で将来の夫となるべき男性《ひと》をGet するのだとの強い意志を持って臨んでいたこともあり、社内のイベントごと は欠かさず参加し続けた。 そしてそれが功を奏したのか、入社して1年経つ頃には社内のエリート を恋人に持つことに成功した。 大手ハウスメーカーでは雇用時にキャリア籍とノンキャリア籍という 具合にどちらかに選別され雇用される。 これは退職するまで能力がいかに高かろうと変わらないのであった。 抜け目のない魚谷が選んだ相手は住宅総合研究所という部署に所属する 東大卒のエリートだった。 ノンキャリア籍組とは給与が300万以上も違うと言われ 『専業主婦になれる』と魚谷は至極ご満悦であった。 ただ、研究室に閉じこもり建材成分などの分析研究をする仕事柄も 相まって、地味な性格が少し気になるところではあった。……とはいうものの、その恋人雨宮洋平とは順調に交際が続き、付き合って 3年が過ぎた頃両家で顔合わせもし正式な婚約を交わした。 周囲にふたりの交際は公認だったが、婚約した話は結婚をいつ頃にするか 決めてからにしようということで周囲にはまだ発表していないような 状況だった。
73――相馬の事務補佐2人目派遣社員・魚谷理生仕事と恋の変遷―― しかしそこは大手派遣会社『事務派遣コスモス』のこと、1日たりとも空白を作ることなく槇原が実質出社しなくなった翌日には新しい人材が投入された。 槇原も清楚でなかなかに可憐な女性だったが、次に派遣されてきた魚谷理生《うおたにりお》は、これまた華やかで別の美しさを持ち合わせた女性だった。 それもそのはず前職の派遣先は大手ハウスメーカーで80人の応募者の中から企業の顔である受付嬢に選ばれたという強者だ。 1人目もそこそこの綺麗所で2人目が更に美しい派遣社員となると、周囲にちょっとしたどよめきが起こっても致し方のないことだろう。 正直ぬぼーっとした相馬もきれいな人だなぁ~と内心素直に喜んだ。 だが素直に喜んだだけだ。 ここが重要で周囲がどよめいた理由とは少し違っていた。 そう、残念ながら? 年頃の男子にありがちな下心はなかったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ――― 二兎を追う者は一兎をも得ず ――― さて、大手ハウスメーカーの顔であり花形の受付嬢を射止めたというのに魚谷は何故にそちらを辞めて三居建設(株)に来ることになったのか。 魚谷は大学卒業後メガバンクへ一般職で入行した。 総合職も視野に入れていたものの、早く結婚して家庭に入りたかった魚谷はキャリアを積めるチャンスを自ら捨てた。 それでも社風は風通しがよく働きやすさと福利厚生が手厚いというのもあり寿退社するまでは働くつもりでいた。 けれど社内での恋愛でつまずき思いもよらず、3年で辞めることになってしまう。 モテるが故の苦悩というものだろうか!? 二股が原因だった。 早くどちらか1人に決めなければと思いつつもズルズルと付き合い続け、結局は両方からそっぽを向かれてしまい職場に居づらくなってしまったというのがことの顛末だった。
72 ただ気のせいか失敗が続いてから、以前よりも話し掛けられる回数が減ったかもしれない。 そう思い始めると居てもたっても居られなくて、夜になると涙が零れた。 毎日異性と一緒に仕事をするなんて初めてのことで、しかもその相手が自分から見ると神々しくて眩しい存在へと時間と共に大きく変化してしまい、そんな自分の感情を持て余しオロオロしてしまうばかり。 眩しい存在だと認識しているくせに親しくなりたいという想いが日に日に強くなり、反して現実はというと、彼とはお茶を誘われるどころかちょっとした雑談さえ交わせてなくて寂しさは募るばかり。 そんなふうに悲しい独り相撲をしていた槇原は妄想して苦しくなる毎日を手放す決心をするのだった。 家族の病気を理由に辞職を申し出て1週間後に逃げるようにして辞めた。「相馬さん、急に辞めることになってすみません」「あぁ、大丈夫だから。 派遣会社から次の人をすぐに紹介してもらえるみたいだから、心配しないで。おかあさんだったかな? 看病大変だろうけど頑張って下さい。 また派遣業務に戻ったら一緒に働く機会があるかもしれませんね。 その時はまたよろしく。今日までありがとうございました」「あ、こちらこそお世話になり、ありがとうございました」 最後までやさしい相馬に、槇原の胸はやさしくされたことへのうれしさが1割、自分らしさを発揮できないまま去って行くことへの寂しさが9割だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ こうして相馬は補佐してくれる人を本格的な夏が来る前に失った。
71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。