77 場所は赤坂にある結婚式場。 駅からハイヤーで10分少々。 私たちは10分前には受付にいた。 はぁ~、素敵な場所で圧倒される。 「独りで来るのはヤバイね」「ほんと、魚谷に付いてきてもらってよかったよ~」 私と星野は窓際に佇み、次々とゲストが入室するのを雑談しながら 眺めていた。 「結構年配の人が多いねー」思ったことを口に出してみた。「今は50代から上でも独身者多いんじゃないかな」「20代とは言わないけど30代、来てくれぇ~」と言いつつ 年寄りしか集まらなかったらやばいよね、と他人事ながら心配になる。……という私の心配をよそに多くはないけれど、20代30代と思しき 男性たちもボツボツ入室してきているようだった。「私のように恋人がいるのに参加してる人っているのかしらね?」「今回この話自体、急に決まっちゃったからさ、私はたまたま独身で 誘える友だちがいなくて魚谷誘っちゃったんだけど、まぁ普通は独身同士で 参加するでしょうね」「だよね」「ねね、顔動かさないで聞いて。 向こうからさ2人組がこっちに向かって来てる……ドキドキしてきた」 「早くも捕獲に来てくれてラッキーじゃん。 星野、頑張ろぉ~。ファィトっ、ゲホホツ」 情けない、力入り過ぎちゃった。「ぎゃははっ、魚谷、力入れ過ぎっ」 緊張感もなく、ふたりで『ぎゃはは』やっているところへ、男性陣が 参戦してきましたよ……っと。「やっ、何やら楽しそうですね。 お仲間に入れてもらえませんか」 私は瞬時に声を掛けてきた男性《ひと》と隣にいる男性《ひと》を ちら見した。 どちらも合格ラインに乗っててラッキー。
78 「あっ、つまんないことで騒いじゃってて恥ずかしいです。 こちらこそよろしくデス」 「じゃぁその辺のテーブル席へ移動しませんか」 今度は隣にいた男性《ひと》が声を掛けてきた。 2人ともなかなかなイケボで、なんだか楽しそうな時間を過ごせそうで よかった。 星野はどっちの人が好みかな。 私は……関係ないけど、隣にいた人がいいと思う。 話を聞くところによると彼らは同じ職場の同期だということらしい。 もちろん恋人なし。 私は星野に合わせて恋人なしということにしておいた。 どうも彼らも未来の花嫁候補をGetする気満々なようで、 食事もそこそこに人懐っこくかつ積極的に私たちに絡んでくれた。 最初に声を掛けてきたのが宮内隆《みやうちたかし》さん、そして もうひとりが柳井寛《やないひろし》さんという。 4人での話は盛り上がり、あっという間にパーティーのお開きの時間に なった。 お開きの後、隣接しているバーへと河岸を変え、私たちはお酒で 喉を潤しつつ、フランクに各々が自分たちのことを互いによく知り合いたい という情熱を傾けて楽しい時間を過ごした。 そして私たちはグループLINEを作り別れた。 彼らは大手不動産(株)勤務で柳井さんは総合職の都市事業ユニット 推進部のグループリーダーをしており、宮内さんは同じ総合職の都市事業 ユニット事業本部の係長ということだった。 宮内さんは眼鏡をかけていてにこやかでおっとり系、一緒にいると 癒される感じ。 柳井さんは近くで見ても遠目に見てもシュっとした鼻筋と綺麗で広めの 額から下がりそこそこ彫を深く見せる目元と盛り上がった頬骨からの顎に かけてのシャープなラインがちょいエキゾチックな雰囲気を醸し出してい る。 星野はどちらが好みなんだろう。 私は宿泊したその夜のホテルでも帰りの新幹線の中でも彼らの話で 盛り上がったものの肝心の星野の意中の相手のことは敢えて聞かなかった。
79 翌日グループLINEで早速男性陣から次のお誘いがあった。私は星野の協力隊ということで後1回は付き合うけれど、三度目はないということを星野に伝えた。「だけど、ニ度会ってどちらからも明確なアプローチがなかった場合グループで会えないのは痛いなぁ~」「分かった、じゃあ三度目までギリ付き合いましょう!」「わぁお、ありがと、サンキュー」 しかし、三度目までという私たちの思惑は杞憂に終わり、ニ度目のデートのあと、星野は宮内さんと付き合うことになった。 そして、いけないことだけど私も柳井さんと付き合うようになった。 ニ度目に会ってから分かったことなんだけど彼は代議士の息子で御曹司だったのだ。 顔よし、声よし、性格良し、仕事も家柄もいい。 私の中で気持ちが大きく揺れ動いた。 柳井さんには自分に婚約者がいることを話し、その上で受け入れてくれるならお付き合いしたいということを話さなければならない。 そして雨宮さんには他に意中の男性《ひと》ができたので申し訳ないけれども婚約を取りやめにしたいと申し出ること。 私は柳井さんと付き合っていることを星野には黙っていた。 けど、絶対バレるよねー、宮内さんと柳井さんは同期で職場が同じなんだもん。 ◇ ◇ ◇ ◇ 星野と宮内さんはしばらくの間自分たちの意志の確認《愛を語る》に忙しかったらしく、星野から忠告の電話が掛かってきたのは月が変わってからだった。「ね、今日宮内さんから聞いてびっくりしたんだけど柳井さんと付き合ってるってほんとなの?」「うん、言い出しにくくて黙っててごめん」「えっと、婚約者はどうするの? 魚谷の中ではどっちが本命なのかなぁ~?」「それは……」「婚約者も柳井さんも、二股されてること知らないよね?」「ふ、二股だなんて人聞きの悪いこと言わないでっ」「人聞きが悪いって言われたってね~、じゃぁ魚谷のやってることって何なの?」「雨宮さんには悪いけど、柳井さんと付き合いたいって思ってるの」「ごめん、言い過ぎた。 もとはといえば私のせいでもあるんだものね。 何だか婚約者の人、雨宮さんだっけ? なんか責任かんじちゃうなぁ~。 まさか、こんなことになるなんてね」「わたしも……こんなことになるなんて思ってなくて、動揺してる」「ね、雨
80 そして、この会話のあった次の週末は久しぶりに4人で会うことになる。 4人が出会ったのはたまたま東京でのパーティーでだったのだが、居住地は皆関西ということで大阪梅田に近いホテルで落ち合うことになる。 ディナーとお酒を時間を掛けて楽しもうと一泊の予定が組まれた。 星野と魚谷は念入りに化粧を施し、目いっぱいドレスアップした。 少し早めに着いたので部屋に入る前に4人揃ってラウンジで飲み物を頼み当たり障りのない会話をしていた時である。「えっと、俺の親友がたまたま近くの書店まで来ててさ、ちょっと挨拶だけしてもらっていいだろうか。 星野さんと魚谷さんのことを可愛いっていう話をしたらぜひっ、拝ませて……じゃなかった、お会いしてみたいだと」「「え――っ、可愛いだなんてそんなぁ~、ほんとのこと言ってどうするんですかぁ~」」「ブッ、そこハモる~?」 宮内が女性軍を弄る。 ほのぼのとした幸せな光景があった。 そして4人はテンション高く浮かれていた。 4人は互いのパートナーと向かい合って座っており、女性たちは入り口に背を向けて座っていた。「あっ、噂をすれば……だ。来た来たっ。こっち、こっち」 柳井が入り口付近に向かって声を掛けた。「あいつ、婚約者がいるんたけどさ、今日は誘って先約があるからと断られて可哀そうな奴なんで、皆でヨシヨシしてやろう」 柳井は3人に向けて告げた。 柳井の親友とやらがテーブルに近づいたのを見計らって星野と魚谷は席を立ち挨拶の体勢に入った。「彼が俺の親友で雨宮。 で、こちらが同期の宮内とその彼女の星野さん、それと俺の彼女の魚谷さん」と柳井が親友に紹介をした。 宮内と星野はふたりの様子から雨宮と魚谷の挙動を視線で追いかける。 紹介していたため、柳井は気がつかないでいる。 雨宮はずっと魚谷を見ていて、魚谷はオロオロしたあと俯いてしまった。
81「魚谷さん、いつから柳井の彼女になったのかな? あなた確か、俺の婚約者ではなかったかな? 俺の誘いを断って柳井たちと会ってたってわけだ。 柳井には話してるの? 婚約者がいること……って話してないよね、たぶん」「洋平さん、黙っててごめんなさい。 いつか話さなきゃって……」 「柳井、その人俺の婚約者……だった人かな。 悪いけど帰るわ。また連絡する。 皆さん楽しいところに水差すような形になってすみません。 失礼します」 「雨宮、婚約したのいつだ?」「先月の頭」「魚谷さん、出会った時付き合ってる人いないって言っ……いたんだ、 参ったな」 柳井の呟きを聞くや否や雨宮は踵を返していた。 星野が宮内のほうを見ると首を横に振り小声で 「部屋に行こう」 と囁き、その場から星野を連れ出した。 「星野さん、知ってた?」 「つい最近までっていうか、えっとそうじゃなくてぇ、まず婚約者が いるって話はレセプションに行く少し前に知ったって感じかな。 魚谷とは久しく会ってなかったから。 だいたい柳井さんとのことを知ったのが最近、宮内さんから聞いて 知ったの。 知ってから私も焦っちゃって……。 それで柳井さんにはまだ話せてないっていうの聞いて、せめて雨宮さん には心変わりしたことを伝えた方がいいよって話してたところっていうか……。 話す前にこんなことになったっていう感じかなぁ~。 どうしたらいいんだろう、私がレセプションに誘ったばっかりに。 雨宮さんに申し訳なくて」「星野さん……」「はい?」「星野さんまで他に誰か恋人がいるなんてこと……」「ありません。いません、いませんよ。信じて下さい」 「分かった、ほっとしたよ。 あとは柳井の気持ちひとつだな。 多分もう結論は出てると思うけど」 「えっ、柳井さんの気持ちがそんなに簡単に分かるの?」「時々聞かされてたからね、雨宮さんのこと。 彼とは大親友らしい。 柳井なら親友の婚約者とどうこうはないと思うね。 例え、魚谷さんが柳井推しでもね。 今回の場合なら間違いなく男同士の友情を取ると思う。 すごく魚谷さんのことを気にいってたから辛いだろうけど。 そこはまだ付き合いも始まったばかりだし、なんとか踏ん張って 気持ちを立て直すんじゃないか
82 雨宮が去り、気を効かせて宮内と星野もテーブル席から離脱、その場に 残された魚谷と柳井のふたりは、成す術もなくしばらく無言で 立ち尽くした。 「ほんとにごめんなさい。 最初に恋人はいない、というシチュエーションでレセプションに 参加したせいで、本当のことが言えなくなってしまって。 柳井さんから念押しされた時にちゃんと話せばよかったのにって 思うけど、だけど多分あの時私は婚約者がいることをあなたに 知られたくなかったんだと思います。 あなたから声が掛かればいいのにと思ってしまったから。 近々雨宮さんに話さなきゃって思ってたところだったの。 話す前にまさか今日こんな形で知られることになるなんて」「君のいうことを信じたいけど、まるっと信じられるほど俺は子供でもなく 純粋でもないのでね。 君は天秤に掛けてなかったって言い切れるのか? 本当に近々雨宮に報告するつもりだったのかなぁ。 俺とのことがちゃんとした正式な交際の形になるまでは、雨宮のこと保険 にしておこうってそんなふうな考えが少しもなかったって言える?」 「えっ、私がふたりのことを天秤にかける?」 私は柳井さんの鋭い言葉に反論できなかった。 彼らふたりに話すチャンスがなかったわけじゃないのに話さず 時間稼ぎしていたのだからそう思われてもしようがない? 自分の気持ちを振り返ってみるに、そうじゃないわとも思うし、 そうなのかもとも思えて、混乱してしまった。 「ね、俺あなたのことは忘れる、だから雨宮に謝罪して戻ってやって。 一時の気の迷いだと言って。 頼むよ、俺は……雨宮とは一生の友だちでいたいんだ。 俺たちってまだ付き合い始めたばかりでしょ? そんなに深いところまでいってなくて、元いた場所まで すぐに戻れるから。 俺あなたとは親友の奥さんとして付き合っていけるから、俺のことは 忘れて」 私は柳井さんの言葉を一言、ひと言、噛み締みて聞いた。 彼の言うことが正しい。 正しくない方へ踏み出していた私を正しい道に戻してくれるのだ。 彼が正しい。 だけど、この切なくてやり切れない感情とどうやって向き合えばいいのか 分からなかった。
83 私は翌朝、独りで皆より一足先にホテルを後にした。 星野が一緒に帰ると申し出てくれたけど、折角なのにもったいないから 宮内さんとちゃんと楽しんでから帰ってほしいと告げて自分だけで 帰路についた。 馬鹿だなぁ~、雨宮さんとのことが知られても柳井さんに振られるなんて ことは思ってもみなくて、私っておめでたい女だわ。笑えるー。 こういうの過大評価? 自信過剰っていうんだったっけ? 私は人から見ればとんでもないことをやらかしているにも係わらず、 自分の手から抜け落ちて行くのはふたつの内のひとつだけと考えていた。 当初、柳井さんとの結婚を夢見て、雨宮さんとのことをいつ切ろうかって 考えてた。 だけど頼みの綱の柳井さんから迷いなくいとも簡単にお別れを 言い出され、ぼーっとした頭でじゃあこのままやっぱり雨宮さんと結婚 するのだと単純に考えて帰宅した。 柳井さんも言ってたようにまずは謝罪しないとね。 すぐに連絡を入れて謝罪しないとと思うものの、どうしても 連絡を入れることができなかった。 あんなに私にご執心だった柳井さんから簡単に手放すと言われ、 私はとても落胆したのだ。 好きになった人から、好きだと言ってきた人からそんなふうに扱われ、 悲しくて惨めで……人の気持ちのなんと脆いこと。 自分の悲しさに浸り、雨宮さんのことまで私は頭が回らなかった。 酷いことを仕出かして傷つけた人に思い遣りも持てない自己中な人間、 それが私だった。 私は自分の汚さもこの時知ってしまった。 もし柳井さんが普通の一般家庭の人だったらどうだっただろうって 考えてしまったせい。 雨宮さんとの婚約を破棄してまで付き合いたいとは思わなかっただろうと そう結論づけたから。
84 その週の真ん中に母親から電話が夜に入った。『理生、さっきね雨宮さんのお母さんから電話があってね、週末両家6人でお会いしたいって。 どんなことなのか一切内容はおっしゃらなかったけど、なんかいい話という雰囲気でもなくてね、理生、何かあったの? 心当たりある?』『あるけど、今話すとややこしくなりそうだからちょっと待って。 はっきりしたら言うから』『そう? 折角の良縁が駄目になったりしないわよね?』『お母さん、悪いけど今は何も言えないの。ごめん、電話切るね』 母からの電話で、今まで呆けていた頭がキーンってクリアになっていく。 雨宮さんは私には直接何も言わず、両家に話を移そうとしている。 大変なことになりそう。 私はここで初めて彼に連絡を入れた。 着信拒否されていた。 ことここにきて、謝罪もさせてもらえないのだということに気がついた。 だとすると、両家の話合いというのは『婚約破棄』が濃厚だ。 私は前回の失敗を何も生かせていなかった。 同じようにふたりの男性の間で気持ちが揺れてどちらとも上手くいかなかった。 優柔不断で当時はそのような結果になってしまい、今回は自分の狡さと不誠実さが招いた結果なのだ。 私は頭を抱えた。 その週は週末まで仕事も手に付かずずっと心ここに非ず状態で過ごした。
95 相馬は日々案件があり多忙を極めているのだが、花自体はようよう諸々の事務作業が一段落ついたところでもあり、久しぶりに定時で帰ることができそうで心は少しウキウキランラン。 花は声を掛けた相馬から『お疲れぇ~』と返され、所属している部署フロアーを出てエレベーターへと向かう。 自社ビルの1階に降り立ち出入り口に向かうも、昼食時には立ち寄れなかったチビっ子の顔でも見てから帰ろうと保育所に向かった。 チビっ子たちは3人わちゃわちゃしながら親を待っていた。 その側で疲れ気味な芦田が無表情な佇まいでぼーっと座っている。 そして、花を視界に入れるとほっとしたような困ったような複雑な表情を醸し出した。「芦田さん、どうかされました?」「昼間はぜんぜん大丈夫だったのに、夜間保育に入ってから体調がすぐれなくて……」「辛そうですね。私仕事終わりなので少し子供たちみてましょうか? その間少し横になられてたらどうでしょう」「ありがとう、そう言っていただけると助かるわぁ~。厚かましいですけどすみません、ちょっと横にならせてもらいますね。 あと1時間もするとまみちゃんとななちゃんのママたちのお迎えがあるのでもし起きられなければ子供たちの引き渡しお願いしてもいいかしら」「分かりました。大丈夫ですよ。 ただ子供たちをママたちにお渡しするだけで他に申し渡しておく伝言などは特にないのでしょうか?」「今回はないわね」「はい、OKです。ささっ、横になっててください」「助かります。じゃぁ宜しくお願いします」 3才4才のお喋りな子供たちと積み木をして待っているとほどなくしてまみちゃんとななちゃんのママたちが迎えに来て、私は彼女たちを見送った。 残ったのは1才児のかわゆい凛ちゃんだった。 え~っと、この子のママはもう1時間後になるんだ。「凛ちゃん何して遊ぼうか……」 凛ちゃんが私の膝の上にちょこんと座った。 私はお腹に腕を回して膝を上下に揺らして振動を繰り返し、凛ちゃんをあやした。 遊び相手もみんな居なくなって寂しいよねー。「絵本読む? 読むんだったら絵本を花ちゃんに持ってきて~」 私がそう言うと、膝から立ち上がり……なんと、絵本を持って来たよ。 あなどれんな1才児。 ……感動した。 また私の膝にちょこんと腰かけた凛ちゃんを前に
94 社員が残業で迎えが遅くなる時は夜間保育もあるのだとか。 すごい、社内に保育所完備だなんて。 結婚して子供ができてからも働き易い職場、最高~! あんなことがあるまで勤めた前の職場は大企業ではありなから保育所はなかった。 今度おじいちゃんに提案しとかなきゃだわ。 保育所の存在を知ってから花は俄然小さな子たちに興味が沸き、親しくなりたての遠野や小暮を伴って時々食事を終えた後、子供たちの顔を見に行くようになった。 しかし、小説のことでプロットだのキャラ設定だのといろいろ考えることの多い遠野とデザインのアイディアを捻り出すことにエネルギーを注ぎたい小暮たち二人は食事が終わると机に向かうことが多くなり、頻繁に子供たちの顔を見に訪れるのは花だけになってしまった。 それで知らず知らず保育士たちとも親しい関係になり、子供たちにも懐かれるようになっていった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 自分たちはこの先決して恋愛感情を持たず恋愛関係には決してならない、という互いの強い志に基づき、ビジネスライクに接し仕事に邁進していこう、ぶっちゃけそのような内容を相馬と花は業務の合間に真摯にというか大真面目に話あった。 ただしそれは、本人たち限定の話であってそんなブースでの2人の話し合いを横目に周囲はふたりのお熱い語らいとして捉えていた。 着任してひと月にも満たないにも係わらず、今まで相馬付きになった誰よりも最短で二人きりでブースに入ったのだから致し方のないことではある。 どうやら前任者たちは相馬に振られて辞めたのではなかったか、という疑念を周囲の夫々《それぞれ》が胸に持っているため、あらあら、掛居花はいつまで仕事が続くのだろうか? と心配している者もいた。 しかしながらそんな周囲の心配をよそに、話し合いをしてすっきりした相馬と花は元気よく日々仕事に邁進するのだった。 お互い異性として結婚相手にはならないことを確認し合っているため、そのことで相手に対する探り合いなどせずともよい関係だから、肩ひじ張らず フラットな関係で付き合えるというなんとも居心地の良い状況に互いが至極満足していた。 そんな2人の距離が急速に縮まっていったのは言わずもがなというものである。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」