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◇娘の心を救え 16

Author: 設樂理沙
last update Last Updated: 2025-03-11 17:39:24
16

食事が摂れなくなった娘、ドクターから点滴の用意をしてもらい

それからは毎日点滴で凌いでるような状況で、掛居夫婦はこのままじゃ

娘の精神が病んでしまうじゃないかと非常に心配になっていた。

 それから4~5日しても花の精神状態は変わらず体のほうも

衰弱するばかりで……打つ手なし。

 花の母親、花乃子と父親の智久とで話し合い、状況の悪化を鑑みて

花の今の状況を掻い摘んで祖父に伝えようという結論に達した。

 このまま祖父に黙ったままいて万が一取り返しのつかないことにでも

なれば、花を大層可愛がっている祖父の怒りを買うのは必至。

 相談した日がちょうど金曜で掛居夫婦は夜に、娘である花乃子が

父親である向阪茂に連絡を入れた。

          ◇ ◇ ◇ ◇

 翌日話を聞いた茂の取った行動は素早かった。

 話を聞いて発した第一声が……。

『ばっかもぉ~ん』だった。

 何故すぐに連絡しなかったのだと

 怒りカミナリ炸裂。

 不思議なことにその顔と攻撃は娘の花乃子へではなく、もっぱら付き添い

くらいの気持ちでいた夫の智久に向けられた。

 どこまでも娘と孫娘には甘い爺《じじ》であった。

 やれ行けそれ行けと、三人でそのまま掛居家まで戻り祖父の茂は

孫娘の花がいる部屋へと向かった。

「花、どうだ? ご飯が食べられなくなったとお母さんから聞いたよ。

辛いのか?

 匠吾からお前のお母さんに潔白だと説明があったそうだが、

だめなのかい? 許せないのかい?」

「悲しくて辛過ぎて悔しくて許せるところまで気持ちが追い付いて

いかないの。

 匠吾は私との約束を破ったの……破った……の。

 嘘つきなのアーっ~うっうっー苦しい~ひぃ~」

 匠吾の話題で花がまたまたヒステリックな状態になってしまった。

「花、苦しいの取りたいか? 嫌な事忘れてしまいたいか?」

「おじいちゃん、助けて。苦しいの取って」

「分かった、おじいちゃんに任せろ」

 このふたりの遣り取りのあと、翌日早朝から4人と運転手を乗せた車が

掛居家の門を潜り抜けて行った。
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    87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」

  • 『特別なひと』― ダーリン❦ダーリン ―❦   ◇ お仕事頑張りますっ 86

    86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。                           当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか?  こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」

  • 『特別なひと』― ダーリン❦ダーリン ―❦   ◇慰謝料 85

    85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」          ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。

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