14 片や花の状態はというと、食事も摂らずたまに水分補給するくらいで 一日ベッドの中で過ごしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 仕事を終えて帰宅後匠吾は花を訪ねた。 玄関で出迎えてくれた花乃子に匠吾は頭《こうべ》を垂れた。 「おばさん、申し訳ありません。 昨日花ちゃんに嫌な思いをさせてしまいました。 すぐに彼女に謝ろうと思ったのですが僕もパニクってしまい 伺えませんでした。 それで今日こそ会社でちゃんと説明して分かってもらおうと 思ってたのですが話せなかったものですから、お邪魔させていただきました」 匠吾を見ると大層悩まし気な風情で、彼の今回の困惑具合が 手に取るように分かった。 「折角心配して来てもらったけど、花ね、昨日過呼吸起こして精神的に まだ安定してないから日を改めて来てもらおうかな」 「えっ、過呼吸……。 ひと目でいいんです1分だけでも。 何でもいいから花から何か聞きたいです、罵倒でもいいから。 ひと目会わないと俺たち駄目になりそうで不安なんです。 お願いします、会わせてください」「匠吾くん、ほんとに少しだけにしてね。 もしかしたら花はまともに返事できないかもしれないということも 分かった上で会ってね」 「わ、分かりました」 *** 「花、入るわね。匠吾くんがお見舞いに来てくれたのよ」
15 花とふたりきりで話せると思っていたのにおばさんは部屋から出て行かず ドアの側に立っていた。 「花、昨日はちゃんと説明できなくてごめん。 それから誤解されるようなことしてごめん」 花はベッドの上で両手で布団の端を握り締め前方を見ている。 声を掛けても俺のほうを見ない。 「今日花が休んでてびっくりした。 俺のことが原因ならちゃんと話を聞いてもらって誤解を解かなきゃって、 会いにきたんだ。な、花、俺を見て!」 「見たくないよぉ~、見ない見ない、何も聞かない、帰って。 おかあさん、苦しい~」 苦しい~と言い出した花は前方に身体を折り曲げて『うぅ~』と 唸り声を出し始めた。 「約束よ、匠吾くんそこまでにしてね」「はい……」 花の状態がここまでとは思わず俺はこれからどうしたらいいのか、 途方に暮れるばかりだった。 花の部屋から出ておばさんに見送られた時にどうしても黙っていられなくて俺は自分の現状を話した。 「一緒にカフェバーに行ったことはすごく反省しています。 花との約束を破る事になったわけで……。 ですがそれだけなんです。 島本から暗にそういうのを誘われましたが断って帰って来たのです。 それを花が分かってくれてないようなので、誤解させた自分が悪いのですがなんとも切なくて」 「匠吾くん、私は君の話を信じる。 だけどこれからのことは娘のことを第一に考えようと思ってるの。 取り敢えずは花の様子見してからの話になるわね」 「はい、ありがとうございます。失礼しました」 「花には折を見て一番大事な話を、匠吾くんと女性との間には疚しいことは 何もなかったってこと、伝えておくから」「よろしくお願いします」 花乃子おばさんがちゃんと肝心要のポイントをちゃんと理解してくれている ことが今の自分には少しの励ましになったと思う。 花がちゃんと分かってくれるといいのだが。
16 食事が摂れなくなった娘、ドクターから点滴の用意をしてもらい それからは毎日点滴で凌いでるような状況で、掛居夫婦はこのままじゃ 娘の精神が病んでしまうじゃないかと非常に心配になっていた。 それから4~5日しても花の精神状態は変わらず体のほうも 衰弱するばかりで……打つ手なし。 花の母親、花乃子と父親の智久とで話し合い、状況の悪化を鑑みて 花の今の状況を掻い摘んで祖父に伝えようという結論に達した。 このまま祖父に黙ったままいて万が一取り返しのつかないことにでも なれば、花を大層可愛がっている祖父の怒りを買うのは必至。 相談した日がちょうど金曜で掛居夫婦は夜に、娘である花乃子が 父親である向阪茂に連絡を入れた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 翌日話を聞いた茂の取った行動は素早かった。 話を聞いて発した第一声が……。 『ばっかもぉ~ん』だった。 何故すぐに連絡しなかったのだと 怒りカミナリ炸裂。 不思議なことにその顔と攻撃は娘の花乃子へではなく、もっぱら付き添い くらいの気持ちでいた夫の智久に向けられた。 どこまでも娘と孫娘には甘い爺《じじ》であった。 やれ行けそれ行けと、三人でそのまま掛居家まで戻り祖父の茂は 孫娘の花がいる部屋へと向かった。「花、どうだ? ご飯が食べられなくなったとお母さんから聞いたよ。 辛いのか? 匠吾からお前のお母さんに潔白だと説明があったそうだが、だめなのかい? 許せないのかい?」 「悲しくて辛過ぎて悔しくて許せるところまで気持ちが追い付いて いかないの。 匠吾は私との約束を破ったの……破った……の。 嘘つきなのアーっ~うっうっー苦しい~ひぃ~」 匠吾の話題で花がまたまたヒステリックな状態になってしまった。「花、苦しいの取りたいか? 嫌な事忘れてしまいたいか?」「おじいちゃん、助けて。苦しいの取って」「分かった、おじいちゃんに任せろ」 このふたりの遣り取りのあと、翌日早朝から4人と運転手を乗せた車が 掛居家の門を潜り抜けて行った。
17 いうて、向阪茂は旧三居掛友財閥の総裁である。 さまざまな分野、方面に知り合いが多数いる。 今回孫娘の花をどうやれば心の苦しみから救えるのか茂にはすぐに ある人物の顔が浮かんだ。 そしてその治療を花に受けさすため親子を連れ、信州へと向けて 出かけたのだった。 信州へ向けて出発↑ 向かったのは身体的にも精神的にもリラックスして、潜在的な意識が 顕在化している意識レベルよりも優位な催眠状態で実施する心理療法の 一つである催眠療法の権威、増井隆三セラピストの元へだった。 彼は顕在意識を催眠状態に誘導して潜在意識に直接アクセスすることに 特化した、代替医療の一種である潜在意識を書き換えるヒプノセラピーを 患者に施すことのできるセラピストである。 施術に入るに際して…… 花本人、祖父の向阪茂(旧財閥総帥)、父親の掛居 智久、母親の花乃子(向阪茂の娘)の4人で増井隆三医師のカウンセリングを聞く。「記憶を思い出すことを抑制したり記憶を整理したりする方向での治療などといろいろなメソッドがありますが……今回わたくしは花さんのお話を聞いて取捨選択の結果、あった記憶は消せませんが気持ちの持ちようを変えてみたり相手を許せるように誘導するという方法をとろうかと考えています。 別の女性とデートしていてもそれが自分の好きな男性じゃなかったら どうです? ふ~んてなもんで過呼吸なんておこしませんよね? 怒りを持つと悲しみや苦しみに支配されて幸せな気持ちになんて なれやしません。 だけどどうです? 許すと心が落ち着き穏やかな気持ちでいられますよね。 記憶はあるのですがその懇意にされていた男性に万が一遭遇したとしても 慌てず騒がず、花さんは対処できるかと思います。 もう相手は嘗てのように好きな相手ではなくなっていますから。 記憶の操作です。 この催眠療法を8~10年間かけておいて、あとは自然と過去の記憶を全て 思い出せるようにしておきましょう。 その頃には人生経験も積み、催眠療法など効いてなくてもお相手のことを ある程度許せて、ご自身の動揺もほとんどなく過ごせると思います。 簡単に言えば今花さんが受け止めきれない問題を数年先延ばしにするという療法ですね」
18 話を聞き終えた茂が花に訊く。「花、どうする? おじいちゃんはいい方法だと思うが」「おじいちゃん、それで今の胸の痛みが取れるのだったらぜひ セラピー受けたい」 これでGOサインは放たれた。 増井医師より母親の花乃子に同室して花を見守りリラックスさせてあげてほしいとの要望があり、花乃子は花のセラピーに付き添うこととなる。 家族の予想に反してセラピーはそんなに時間はかからず、施術は完了した。 「どうだ、花」「不思議な感覚。 胸の痛みが嘘みたいだけど取れたよ、おじいちゃん。 おじいちゃんと先生のお蔭です。 おじいちゃん、ありがとう。 先生、ありがとうございました」「花、匠吾くんのことは覚えてる?」 母親からの質問に……「記憶は大丈夫、覚えてる。 バカだよねぇ~、あんな根性ババ子に唆《そそのか》されてさぁ~、ふふふ」 「あなた……」 花乃子は夫の智久に驚嘆の言葉を口にした。 夫と互いの視線を絡ませ二人は安堵の吐息を吐いた。「いやぁ~すごいですなぁ。流石増井くんだ、ありがとう。 後日改めて礼に伺わせていただきますよ」 「よかったです。 花さんから明るい言葉を聞けて私も安堵しました」 花自身も半分疑心暗鬼だったものの、施術後 『はぁ~い、終わりました。ゆっくりとこちらの世界へ戻りましょう』 と言われ目を開けたわけだが。 不思議な感覚としか言いようがない。 セラピーに入る前に感じていた悲しみ苦しみが嘘のように消えていたのだから。 そして気付いたことがあった。 匠吾の名前を聞いても相手を弄《いじ》れるほど他人事なのだ。 自分の中から匠吾に対する恋焦がれるほどの好きという気持ちが なくなっているなんて。 しかし、あんな苦しみを味わうことに比べれば瑣末なことだ。 花はそれを残念だとは思わなかった。
19 古くは戦国・江戸時代から続く名門、旧財閥の末裔である。 旧財閥は戦後の財閥解体で資産没収されたものの財閥企業は企業グループへと高度成長の波に乗って組織形態を変化させ集客を広げ利益を増やしてきた。 向阪茂はその財閥の中で頂点を極める存在で総帥ともフィクサーとも呼ばれ、知る人ぞ知る畏れられる存在であった。 フィクサーとは政治、行政や企業の営利活動における意思決定の際に 正規の手続きを経ずに決定に影響を与える手段、人脈を持っている 人物のことである。 ◇ ◇ ◇ ◇ さて、信州では一泊してすぐに自宅へと戻って来た茂は 花の一件が片付いたところで、すでに次の一手を考えていた。 それはもう一人の全く血の繋がりのない孫、匠吾のことだった。『世が世なら、詰め腹切らせるところじゃ』 との大層立腹した様子が茂の部屋の窓越しからでも分かるほどだった。 『だから言わんこっちゃない。 息子の洋輔には当時散々沙代との結婚は止めておけと言うたのになぁ~』 口に出して呟いたら何やら言葉尻がへなっと弱くなってしまった。 そこに茂の苦悩が見え隠れするのだった。 大岡越前(茂)之介、この裁きをどうつけようぞぉ~~。 ******** 息子の洋輔には週の真ん中あたりで父の茂から家族全員で週末、 自分たちの息子《匠吾》が仕出かしたことへの申し開きに来いとの お達しがあった。
20 洋輔から話を聞いた沙代はそうなるだろうとは思っていたが、 何を言われるのかと憂鬱だった。 当日息子の匠吾が驚きのあまりテンパってはいけないと、 この際だから匠吾の出生の秘密を本人に話すことに決めた。 その日職場から帰宅した匠吾に沙代は、夫の洋輔抜きで話をした。 先ずは祖父の茂からの招集が掛かったこと、それでその前にどうしても 話しておかなければならないことができたことなどを説明した。 「匠吾はおじいちゃんのことをどの辺まで知っているのかしらね。 まぁ世が世なら元は華族様で旧財閥の総帥って辺りまではなんとなく 知ってると思うけど……」 「うん、そうだね。知ってる」「おじいさまにはね、裏の顔っていうのがあって、ここ関西一円で力を持つ フィクサーでもあるの」 「マフィアのボスみたいな?」 「マフィアはどうだろう、微妙に違うような気もするけれど 私もちゃんとした説明は難しいわ。 簡単にいうと忠誠を誓い懐にいる時は困った時いつでも助けてくれる人、だけど……具体的にいうと可愛い孫娘を裏切ったりすると即座に敵に なって沈められる? 物騒だけどそういうこと」 「身の危険があるっていうこと?」 「お父さん《洋輔》の前では言えないけど、そういう可能性は あるんじゃないかと私は思ってる」「だけど、花と同じで俺も孫だよ」 「そう花ちゃんと同じ孫なら痛み分けにしてくれたかもしれないんだけど……」 「えっ……もしかして違うの?」 「匠吾、落ち着いて聞いてね。 お父さんは初婚だけど私はあなたを連れての再婚なのよ」「じゃあ、俺って……」「そう表向きは孫だけど、おじいさまともお父さんとも血の繋がりはないの。 私はあなたが花ちゃんと結婚したらその後に本当の話をしようと 思っていたの。 だけど今回おじいさまに詫びを入れなきゃならなくなってしまって そうもいかなくなってしまったわ。 きっとおじいさまはあなたの実の父親の話を出してくると思うから、 その時にあなたが動揺しないよう先に話しておくことにしたの」 「父親のこと話して……」
21「あなたが生まれてすぐにあなたの父親一樹さんが浮気をしてしまい 『本気じゃないから許してほしい』って土下座して懇願されたけど 私はガンとして許さなかった。 その後しばらくして大学の同級生だった洋輔さんと結婚したのよ。 その時ね、おじいさまが『浮気するような男の子供を連れた女など 向阪家の嫁にはできぬ』とおっしゃってね、それはもう大層ご立腹だったわ。 でもね、洋輔さんが一歩も引かなくて、『承諾は無くても結婚します』と言ってくれて素敵だったのよ」 『こんな時に惚気るなんてお母さま、頼みますよ~』 「で、その俺の本当の父親やらとはその後どうなったの?」 「私が再婚するとすぐに後を追うように浮気相手だった女性と結婚したの。 だけど結婚した後その女性がホストに嵌り、借金が嵩み泡嬢に落ちて いったらしいわ。詳しいことは分からないけどたぶんその女性とは離婚 したんじゃないのかな」 「なんか、悲惨~カッコ悪い末路だな」 ◇ ◇ ◇ ◇ 沙代の元夫一樹が致した浮気はほんの出来心で、沙代と元の鞘に戻りたく散々沙代に謝罪したのだが、沙代の心を取り戻すことはできず…… そうこうしているうちに学生時代からの友人である洋輔と沙代が さっさと再婚してしまい、何を血迷ったのか一樹は結婚など微塵も考えていなかった浮気相手の荻島和子と自分も沙代と張り合うように再婚をした。 だが和子と暮らす日々に平穏な生活など一日たりともなかった。 和子という女はトキメキがないと生きていけない属性の人間で 結婚後すぐにホストにド嵌り。 借金を作りお定まりの風俗嬢におちていった。 沙代に振られてからというものどうでもいいような生き方をしていた一樹も流石にあきれ果てたのか振り回されてばかりだった和子と縁を切るのだった。 その後も何人かの女性と縁はあったものの、沙代に向けていた同じ熱量で愛せる女性に巡り合うことはなく、残りの長い人生を共に生きていきたいと 思えるような女性には出会えず、50代の今になっても独りの生活、おひとりさまで生きている。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」
86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。 当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか? こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」
85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」 ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。