13
今日こそはちゃんと話をして花を何とか宥めようと、そんな算段をして
匠吾は出勤したというのに花は出勤してこなかった。 総務の課長に理由を聞いてみると……。「ああ、掛居さんね、体調不良で2~3日休むことになったよ」
「そうなんですか」
昨日の今日で花が休みってことは俺のせいだよなぁ……。
行き違いだけは、俺の気持ちだけはなんとしてでも聞いてもらわないと。 昼の休憩時になり席を立とうとした時、島本玲子が俺の側までやって来た。 「土曜は楽しかったですね。 あ、そうそう、これ向阪さんのじゃないですか。 お店で落としてましたよー」と周囲に対してデートしましたよねを主張しまくりの、とどめが
俺のハンカチ登場だった。 俺が手洗いに席を立った時にでもカバンから抜かれてたのだろう。この女ならあり得る。
画像は自宅へ来るための手段、ハンカチは社内へ向けての
私たちデートした仲アナウンス。 気持ち悪いほど一つ一つ仕掛けられていたようだ。 俺は無言で受け取り彼女を無視して席を離れた。そしていつものメンツとカフェテリアへ向かった。
好きなメニューを乗せたプレートをテーブルに置いて座った時だった。
さっきのシーンを見ていたであろう同期の藤本が言った。 「なんか、ややこしいことになってるのか?」「えっ?」
「いやぁ~なんかさっきの島本さんとお前の遣り取り見てたら温度差が
半端ないっていうか、お前彼女にストーカーされてない?」「思いたくないけどそうかもしれない」
「掛居さんが出社してないのもそのせいだったりして。
気を付けたほうがいいぞ。
島本さんお前とのツーショット画像を土曜の夜にかなりの人数に
送ってるみたいで、送ったあとで『間違って送ってしまいました』っていう すみませんメールまで送ってるしぃ」そこまでやられてるのか、俺は。
ガックリと項垂れるしかなかった。
「掛居さんに誠心誠意謝るしかないよなぁ~」他人事のように……いや実際他人事だからな、他人事のように呟く
藤本の慰めの言葉を遠くで聞いた。14 片や花の状態はというと、食事も摂らずたまに水分補給するくらいで一日ベッドの中で過ごしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 仕事を終えて帰宅後匠吾は花を訪ねた。 玄関で出迎えてくれた花乃子に匠吾は頭《こうべ》を垂れた。「おばさん、申し訳ありません。 昨日花ちゃんに嫌な思いをさせてしまいました。 すぐに彼女に謝ろうと思ったのですが僕もパニクってしまい伺えませんでした。 それで今日こそ会社でちゃんと説明して分かってもらおうと思ってたのですが話せなかったものですから、お邪魔させていただきました」 匠吾を見ると大層悩まし気な風情で、彼の今回の困惑具合が手に取るように分かった。「折角心配して来てもらったけど、花ね、昨日過呼吸起こして精神的にまだ安定してないから日を改めて来てもらおうかな」「えっ、過呼吸……。 ひと目でいいんです1分だけでも。 何でもいいから花から何か聞きたいです、罵倒でもいいから。 ひと目会わないと俺たち駄目になりそうで不安なんです。 お願いします、会わせてください」「匠吾くん、ほんとに少しだけにしてね。 もしかしたら花はまともに返事できないかもしれないということも分かった上で会ってね」「わ、分かりました」 *** 「花、入るわね。匠吾くんがお見舞いに来てくれたのよ」
15 花とふたりきりで話せると思っていたのにおばさんは部屋から出て行かずドアの側に立っていた。「花、昨日はちゃんと説明できなくてごめん。 それから誤解されるようなことしてごめん」 花はベッドの上で両手で布団の端を握り締め前方を見ている。 声を掛けても俺のほうを見ない。「今日花が休んでてびっくりした。 俺のことが原因ならちゃんと話を聞いてもらって誤解を解かなきゃって、会いにきたんだ。な、花、俺を見て!」「見たくないよぉ~、見ない見ない、何も聞かない、帰って。おかあさん、苦しい~」 苦しい~と言い出した花は前方に身体を折り曲げて『うぅ~』と唸り声を出し始めた。「約束よ、匠吾くんそこまでにしてね」「はい……」 花の状態がここまでとは思わず俺はこれからどうしたらいいのか、途方に暮れるばかりだった。 花の部屋から出ておばさんに見送られた時にどうしても黙っていられなくて俺は自分の現状を話した。「一緒にカフェバーに行ったことはすごく反省しています。 花との約束を破る事になったわけで……。 ですがそれだけなんです。 島本から暗にそういうのを誘われましたが断って帰って来たのです。 それを花が分かってくれてないようなので、誤解させた自分が悪いのですがなんとも切なくて」「匠吾くん、私は君の話を信じる。 だけどこれからのことは娘のことを第一に考えようと思ってるの。 取り敢えずは花の様子見してからの話になるわね」「はい、ありがとうございます。失礼しました」「花には折を見て一番大事な話を、匠吾くんと女性との間には疚しいことは何もなかったってこと、伝えておくから」「よろしくお願いします」 花乃子おばさんがちゃんと肝心要のポイントをちゃんと理解してくれていることが今の自分には少しの励ましになったと思う。 花がちゃんと分かってくれるといいのだが。
1「牧野さん、私、|向阪 匠吾《こうさかしょうご》さん狙っていきまぁ~す」 一緒に社食に向かうこの春準社員で入社して来た島本玲子 が 開けっ広げに私に宣言してきた。 『いや、ちょっとそれは…まずいかも。しかし最近入ってきた人には 分かンないよね~』と心の声。 「水を差すようだけど向阪くんに彼女いる可能性は考えないの?」「彼、独身ですよね?」「ええ、まあ、独身だと思うわ」「じゃあ、もし彼女がいても無問題ですよ。 結婚がゴールだとしたらそこに辿り着くまではマラソンみたいなものだから 一番にゴールした者の勝利ってことで。 私の前に1人2人走ってたって平気ですよ。 ゴールのラインはまだ誰も踏んでませんからね」 「島本さんって積極的なのね~」 「私もう29才、いわゆる崖っぷちっていうやつなので、 大人しくしていたら永遠に独身まっしぐらですもん」『島本さん綺麗だから今までチャンスは幾らもあったと思うんだけど、 高望みし過ぎたとか? 20代で綺麗で積極性があって、なのにどうして今だに独身なのかしら、 と訊いてみたいところだけど、きっとここは踏み込んではいけないところよね』 向阪くんが掛居 花 《かけいはな》ちゃんと仲いいことは周知の事実に なっている。 中には知らない者もいるだろうけれど、ほとんどの者が知っている。 ほぼほぼ公認の仲っていうヤツよ。 29才独身はやはりパートナー狙いで入社してきたようだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 実は彼女の採用時の最終面接にはうちの課の仕事の補佐をお願いするものだから課長、係長そして私と3人が人事課以外からも面接の場に立ち会っていた。 今回の応募者は20代前半の人が大半で20代後半は島本さんひとりだった。 経理経験者は彼女ともうひとり40代既婚の人がひとりだけ。 課長と係長は仕事ができることと見た目で、島本さん即決だった。 私は正直40代の女性とどちらにするか迷った。 結局私も島本さん推しということで彼女に決まったわけだけど、 私ひとりがあの時40代の女性を推していても数の論理でいくと 結
2 いや、ターゲットを狙うのはいいのよ、問題なくそのお相手が シングルならばね。 いくら結婚してないからって恋人がいるのが分かっていて 略奪みたいな真似はねぇ~、普通しないものでしょ。 前々から忙しい業種ではあるんだけれど、近年忙しいため募集をかけて 折角採用したのだから、揉めて辞めてくれるなよ~頼むよ~だ。 今我が社は近年の台風や豪雨そしてあちこちで頻発する地震と自然災害の 乱発がすごくて皆、青息吐息で社員は誰も彼も猫の手を借りたいほど 忙しいのだ。 そんな我が社は旧財閥系列の会社で社名もふたつの財閥の名称から取り 『三居掛友海上火災保険株式会社』と称する。 島本さんが狙ってる向阪くんは彼女より2才も年下で現在の仕事は 『損害サポート業務部の火災損害サポート部』社員として活躍している。 自動車損害サポート部も兼任しており将来を有望視されている若手社員だ。 花ちゃんは向阪くんと同年に同期入社し、総務部でテキパキ頑張ってる。 聞いたところによると向阪くんと花ちゃんは入社前から面識があったみたいだ。 交際がいつ始まったかは知らないけれど入社してすぐに付き合っていることは公認みたいな形になってる。 だからといって、別に社内でイチャイチャすることはないのよね、 今のところ。 ランチも一緒に摂ってるところなんて私は見たことないし。 不思議っちゃあ不思議よね。 そんなふたりが公認の仲? 今まで何も不思議にも思っていなかったのに島本さんの向阪くん狙いの 話から彼と花ちゃんのことを考えていたら辿り着いてしまったって感じよね。 あれだね、きっと向阪くんが花ちゃんに悪い虫が付かないよう、 自分から周りにじわりと小出しにして認識させていったのかも。 ◇ ◇ ◇ ◇ 準社員として配属された島本玲子の上司で正社員の牧野千鶴38才既婚、 大学を卒業してから早16年勤務……は、知らなかった。 従業員はパートまで含めると約3万人近くになる規模の会社で 取締役会長に始まり同じような執行役員という名の付く役員が 4、50人もいる中、そのような重役から下の役職へとふたりのことは 伝達されていたのである。 伝播された設定はこうだ。 向阪 匠吾《こうさかしょうご》と掛居 花 《かけいはな
3 10年前学生だった頃、姉の恋人を寝取ったのを皮切りに、人のモノ、 即《すなわ》ち彼女持ちの男を射止めるのが癖になってしまった島本玲子は 元々がそのような拗れたところからの恋愛を繰り返してきたため、 最後はいつも破局してしまいこの年になっても未だ独身だった。 言い寄られて彼女のいないれっきとした独身男性との交際も 時にはあったが飽き症の上にすぐ人のモノが欲しくなる性格も相まって なかなか結婚まで辿りつかない。 向阪に関していえば社内のカフェテリアで何度か見かけたのが切っ掛けだ。 背が高く容姿がずば抜けて整っている。 男性にしてはゴツゴツしてなくて、顔の肌が女子顔負けにきれいで さらには鼻梁の線も美しく、くっきりとした二重瞼と併せて彼の顔を きりりとした表情に作り上げている。 実は彼の顔をなるべくはっきり見たくて自然を装って 彼が座っていた近くを何度か行ったり来たりした。 島本玲子が入社した会社では、バーベキュー施設は地域問わず多く存在し、物品や材料が備えられているケースも多いため実施ハードルは低めで、屋外で自然と触れ合いながら飲食をすれば、非日常感溢れる環境だからこその仲が深まりやすい点もあり職場内よりも開放的な気持ちでコミュニケーションが取れるメリットがある。 そのため、BBQは毎年恒例の行事となっている。 玲子が入社して3ヶ月目に突入した頃のこと。 3日後の日曜日に社内の親睦を兼ねたバーベキューが催されることに なり、玲子は絶対この日に向阪のメルアドをGetしようと決めていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は慎重に向阪 匠吾の様子を窺った。 周りに人はいても、実際彼に話し掛けている者がいない隙ができたのを 見計らい私は近づいて行った。
4 「こんにちは。 私バーベキューは今回が初めてで何をしたらいいのか要領が分からなくて……」 「あぁ、最近入られたのですか?」「はい、準社員でこの春から」 「うちは何年か勤めれば採用テストがあって正社員登用の道があるし、 皆親切な人が多くて働きやすい職場ですよ」 「そうなんです、正社員になれる道があると聞いてこちらの会社に 入社することに決めました」「早く正社員になれるといいですね」 「ありがとうございます。 まだまだ知らないことだらけで、経理部の人たちしか知らないですし、 何か困ったことがあればお聞きしてもいいでしょうか?」 「あぁ、もちろんいいですよ」 「じゃあ、もうしわけありませんがメルアド赤外線通信で 送っていただいても構いません? 私、赤外線の送信のしかたが今ひとつ分からなくて……」 「いいですよ……」 「ありがとうございます。うれしいです」 彼の側に知り合いが集ってきたところで、私は早々に引き上げた。 連絡がとれるようになったのだから、もう何も焦る必要なし……と 言いたいところだけど今回は今までとは違うからね~、ちょっと焦るわぁ~。 先日私が牧野さんに話していたように崖っぷちはほんとだから。 向阪くんは旦那さん狙いだもん。 絶対落とさなきゃ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 島本にロックオンされているとも知らず、一方その頃向阪は 呑気なものだった。 「向阪 、さっきの美女誰よ」「えっと、誰だっけ? 忘れた。 さっき初めて会った、はじめましてさんだよ」 「なにぃ~、そんなわけあるかよ」「いや、まじそうなんだって」 「それではじめましてさんと何してたんだ?」 「いやぁ、何も。最近入社してきたって言ってたわ。 分からないことがあったらまた教えてくださいって言われただけ」「へぇ~、お前狙われてるんじゃねぇ」 「それはないだろ。俺には……」 「掛居 さんがいるもんな。気をつけろよ」「考え過ぎだって」 彼女はあんなこと言ってたけど、おいおい社内外のことをいろいろ 知っていくうちに俺と花のことも誰かから耳打ちされるだろうし、 そしたらメールなんてのも来ないだろう。 しかし、男なら誰でもグラっときそうな美貌の女性だったな、と 向阪 は内心でそんなことを思った
5 ◇かわいい嫉妬 向阪は気付いていなかったが島本とのアドレス交換しているところを 少し離れた場所から見ていた人物がいた。 それは向阪 の恋人で10代の頃から付き合っている掛居花だった。 帰りは花と足のない同僚ふたりを乗せそれぞれを最寄駅まで送り届けたあと、匠吾と花は北区のビバリーヒルズと呼ばれる高級住宅街に建ち並ぶそれぞれの豪邸近くへと帰って来た。 彼らは匠吾の父親が兄で花の母親が妹という兄妹の娘、息子、即ち従兄妹同士だった。 祖父の豪邸を真ん中に挟み匠吾と花は左右に住まっている。 今回は匠吾の車でBBQに出掛けていた。 その匠吾の車は近所にある公園の駐車場に止められた。 会社イベントは楽しかったけれどふたりでゆっくり話す時間もなかったため、少し話をしてから帰ろうということになったからだ。イベントの残りの缶コーヒーを飲みながら花は訊いた。 「今日島本さんと何話してたの? 匠吾、鼻の下がビロ~ンって伸びてたけど」 「ビロ~ンってオマエなぁ~、なぁ~に言っちゃってんの。 入社仕立てなんで分からないことがあったら教えてくださいって お願いされてたんだってぇ」 「へぇ~、接点のない他部署の匠吾に教えを乞うなんて不自然だよね」 「そうか?」「そうよ、おかしいよ。メルアド交換したでしょ」 「あっ、あぁそうだったっけ……」「ふ~ん、心配だな」 「大丈夫だって、わたしを信じなさいっ」「信じていいの? ほんとに?」 「大丈夫、ンとに心配性だなぁ~花は。 花が思うほど俺ってモテないから」 「もし、彼女から相談があるから会って話を聞いてほしいって言われたら どうするの?」 「電話で聞くようにする」「外では会わない?」 「会わない……」「よかった。それ聞いて安心した」「俺も良かったぁ」「何が?」 「ちゃんと花が俺に焼きもち焼いてくれることが分かったから」 俺がそういうと怒るかなって思ったけど花の反応はそうじゃなかった。 『じゃあ、約束ね』といって小指を出してきた。 そのしぐさが可愛いなって思った。 車の中じゃなかったら盛大にハグしたのに、残念。
6 花とそんな風にかわいい約束をしていたのに、BBQ明けから 早速島本玲子からのメールが向阪匠吾の元へ一日に二度三度と 届くようになった。 最初は『おはようございます。先日はありがとうございました』とあり放置していると同じ日の夜に『今日もお疲れさまでした。明日もお互い頑張りましょう』とくる。 最初は当たり障りの返事を特に返さなくてもよい内容だったので 放置していた。 3日めからメールの内容が返事を促すものへと変化していった。『正社員登用の試験内容など教えてほしい』というような文面に。 花に対してほんの後ろめたさを感じつつも花はメールについては 何も言ってなかったのだし、との言い訳を盾に、向阪はざっと簡単に 自分が受けた時の試験内容などを書いて送信した。 すると酷く感謝の言葉を羅列している文が送られてきて、これ以上 メールのやりとりはするまいと考えていた向坂だったのだが、 これで最後だしと返信メールをしてしまい、後は言葉巧みな玲子主導の元、『その問題集を見せてはくれないか』と言われOKすると、てっきり職場で渡す気だった向阪に玲子から『じゃあお礼も兼ねてカフェバーで会いましょう』ということにされ、あれよあれよという間にそのように設定されてしまった。 いや、それは一瞬『まずい』と向阪は思った。 花の顔も浮かんだ。 しかし、おそらく今回一度だけのことなのだしカフェバーでお礼に一杯と 言われ断るのも大人げなく思い、断らなかった。 また花との交際が若くして10代からのもので向阪は花以外誰とも 付き合ったことがなく、少し大人の女性との交流に興味を 持ってしまったということもあった。 浮気をするつもりなど毛頭なく、ほんとに興味本位でのOKだった。 しかし、自分の気持ちの確認はしたものの、玲子の思惑を少しも 考えてなかったことが向阪にとっては痛恨の極みであった。
15 花とふたりきりで話せると思っていたのにおばさんは部屋から出て行かずドアの側に立っていた。「花、昨日はちゃんと説明できなくてごめん。 それから誤解されるようなことしてごめん」 花はベッドの上で両手で布団の端を握り締め前方を見ている。 声を掛けても俺のほうを見ない。「今日花が休んでてびっくりした。 俺のことが原因ならちゃんと話を聞いてもらって誤解を解かなきゃって、会いにきたんだ。な、花、俺を見て!」「見たくないよぉ~、見ない見ない、何も聞かない、帰って。おかあさん、苦しい~」 苦しい~と言い出した花は前方に身体を折り曲げて『うぅ~』と唸り声を出し始めた。「約束よ、匠吾くんそこまでにしてね」「はい……」 花の状態がここまでとは思わず俺はこれからどうしたらいいのか、途方に暮れるばかりだった。 花の部屋から出ておばさんに見送られた時にどうしても黙っていられなくて俺は自分の現状を話した。「一緒にカフェバーに行ったことはすごく反省しています。 花との約束を破る事になったわけで……。 ですがそれだけなんです。 島本から暗にそういうのを誘われましたが断って帰って来たのです。 それを花が分かってくれてないようなので、誤解させた自分が悪いのですがなんとも切なくて」「匠吾くん、私は君の話を信じる。 だけどこれからのことは娘のことを第一に考えようと思ってるの。 取り敢えずは花の様子見してからの話になるわね」「はい、ありがとうございます。失礼しました」「花には折を見て一番大事な話を、匠吾くんと女性との間には疚しいことは何もなかったってこと、伝えておくから」「よろしくお願いします」 花乃子おばさんがちゃんと肝心要のポイントをちゃんと理解してくれていることが今の自分には少しの励ましになったと思う。 花がちゃんと分かってくれるといいのだが。
14 片や花の状態はというと、食事も摂らずたまに水分補給するくらいで一日ベッドの中で過ごしていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 仕事を終えて帰宅後匠吾は花を訪ねた。 玄関で出迎えてくれた花乃子に匠吾は頭《こうべ》を垂れた。「おばさん、申し訳ありません。 昨日花ちゃんに嫌な思いをさせてしまいました。 すぐに彼女に謝ろうと思ったのですが僕もパニクってしまい伺えませんでした。 それで今日こそ会社でちゃんと説明して分かってもらおうと思ってたのですが話せなかったものですから、お邪魔させていただきました」 匠吾を見ると大層悩まし気な風情で、彼の今回の困惑具合が手に取るように分かった。「折角心配して来てもらったけど、花ね、昨日過呼吸起こして精神的にまだ安定してないから日を改めて来てもらおうかな」「えっ、過呼吸……。 ひと目でいいんです1分だけでも。 何でもいいから花から何か聞きたいです、罵倒でもいいから。 ひと目会わないと俺たち駄目になりそうで不安なんです。 お願いします、会わせてください」「匠吾くん、ほんとに少しだけにしてね。 もしかしたら花はまともに返事できないかもしれないということも分かった上で会ってね」「わ、分かりました」 *** 「花、入るわね。匠吾くんがお見舞いに来てくれたのよ」
13 今日こそはちゃんと話をして花を何とか宥めようと、そんな算段をして 匠吾は出勤したというのに花は出勤してこなかった。 総務の課長に理由を聞いてみると……。「ああ、掛居さんね、体調不良で2~3日休むことになったよ」「そうなんですか」 昨日の今日で花が休みってことは俺のせいだよなぁ……。 行き違いだけは、俺の気持ちだけはなんとしてでも聞いてもらわないと。 昼の休憩時になり席を立とうとした時、島本玲子が俺の側までやって来た。 「土曜は楽しかったですね。 あ、そうそう、これ向阪さんのじゃないですか。 お店で落としてましたよー」と周囲に対してデートしましたよねを主張しまくりの、とどめが 俺のハンカチ登場だった。 俺が手洗いに席を立った時にでもカバンから抜かれてたのだろう。 この女ならあり得る。 画像は自宅へ来るための手段、ハンカチは社内へ向けての 私たちデートした仲アナウンス。 気持ち悪いほど一つ一つ仕掛けられていたようだ。 俺は無言で受け取り彼女を無視して席を離れた。 そしていつものメンツとカフェテリアへ向かった。 好きなメニューを乗せたプレートをテーブルに置いて座った時だった。 さっきのシーンを見ていたであろう同期の藤本が言った。 「なんか、ややこしいことになってるのか?」「えっ?」「いやぁ~なんかさっきの島本さんとお前の遣り取り見てたら温度差が 半端ないっていうか、お前彼女にストーカーされてない?」「思いたくないけどそうかもしれない」「掛居さんが出社してないのもそのせいだったりして。 気を付けたほうがいいぞ。 島本さんお前とのツーショット画像を土曜の夜にかなりの人数に 送ってるみたいで、送ったあとで『間違って送ってしまいました』っていう すみませんメールまで送ってるしぃ」 そこまでやられてるのか、俺は。 ガックリと項垂れるしかなかった。 「掛居さんに誠心誠意謝るしかないよなぁ~」 他人事のように……いや実際他人事だからな、他人事のように呟く 藤本の慰めの言葉を遠くで聞いた。
12 「花ちゃん、どうしたの? 何かあった? お部屋入るわね」 花乃子が部屋に入ると娘の花は声を殺して泣いていた。 「匠吾くんとDVD見るって言ってたのに……。 喧嘩でもした?」 「おかあさん、私胸が苦しいの」 初めて見る娘の苦しむ姿に花乃子はびっくりした。 そのうち見るからに呼吸の仕方がおかしくなり、急いで ホームドクターに来てもらうことにした。 花は過呼吸をおこしていた。 その夜花乃子は娘から午前中にあった出来事のあらましを 聞き出したのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 花の話から匠吾くんと相手の女性の係わり方が全部は把握できてないかもしれないけれど、相手の女性がまともではないということだけは分かる。 相手の女性が何も話さなければ、匠吾くんも花には何も言わず あとは会うこともなかったのかもしれない……し、会ったかもしれない……か。 ふふっ、この辺は分からないわねぇ。 匠吾くんは一応花から相手の女性とは係わらないでほしいと 言われてたのに、会ったのだから。 しかも夜の酒場で。 下心があったのかなかったのか、そんなもの神のみぞ知る? 匠吾くんは知ってるよね、自分の気持ちなんだから。 どちらにせよ、夜の街で、酒場で恋人以外の女性と会ったという事実は 消えない。 この時花乃子は花が匠吾との未来は選ばないと言ったら 花の言う通りにしてやろうと決めていた。 そして仕事から帰って来た夫とも話し会い、同じ結論に至った。
11 「島本さんに聞いたよ。 匠吾の裏切り者、約束してたのに。 許さないから」 許さないからの言葉を残して、足早に花は自分の家へ入って行った。 はっとした。 俺が先ほど『彼女に訊いてくれていいから』と言ったので花は 島本を追いかけて行き、ふたりのことを訊いたのだろう。 あの島本のことだ。 何を花に話したのやら。 どこまでも迂闊な自分に腹がたつ。 俺が花を連れて島本に説明させればよかったものを。 何かこうなったら全て島本玲子のペースに乗せられて 俺は深い穴に落ちていくような気分だった。 『花、島本に何言われたか知らないけど俺の言うことを信じてほしい。 店に行ったことはごめん。謝るから、連絡ください』 『花、連絡ください。 俺と彼女の間に疚しいことは何もない、ほんとだから信じて』 『ツーショットの画像なんて撮らせてごめん。 言い訳に聞こえるかもしれないけどあれもハプニングで 隣に座ってた男と島本が勝手に撮ったものなんだ』 寝るまでにメールを何度も送り続けたが花からの返信はなかった。 胸が痛い。 どうか……花が明日は話を聞いてくれますように! ◇ ◇ ◇ ◇ちょうど花壇の手入れをしようと母親の花乃子が玄関口に 出ようとしていたところ、娘の花が血相を変えて家の中に入ってきて そのまま自分の部屋に向かったので、花乃子は気になり 花の部屋のドアをノックした。
10 その頃匠吾の家では母親の沙代がどういうことなのかと匠吾に詰め寄っていた。 「花ちゃん、血相変えて出て行ったけどあなたたち大丈夫なの?あなたは男だからまだまだ年齢的に猶予があるけれど花ちゃんは 女の子だからね、おじいさまが心配なさって『そろそろ婚約、結婚と 話を進めなけりゃあならんなぁ』とおっしゃってるところだから 気をつけけてよ、身辺にね。 まさか、さっき訪ねてきた島本さんと何かトラブったりして ないでしょうね」「彼女とは正社員になるための勉強方法とか聞かれて問題集を貸して あげただけなんだけど、困った人だ」 匠吾は、母親に掻い摘んで昨夜のことや先ほど島本玲子が訪ねてきた 理由などを話した。 「カフェバーか、行ったのを知ったら花ちゃん悲しむね、きっと」「なんでちゃんと断らなかったんだろ。優柔不断だな俺」 「なんか、島本さんの行動が怪し過ぎるわね。 削除してほしいって頼んだ画像のことでわざわざ家に……休日の朝に 来る必要ないものね。 花ちゃんにもう一度ちゃんと話して誤解を解いた方がいいと思うわ。 ちゃんと話せばおかしな振舞いの島本さんの言うことより あなたの言うことを信じてくれるはず。長い付き合いだもの」「うん、ちょっと花が心配だからその辺見てくるよ」 ◇ ◇ ◇ ◇ 家の前に出ると、ちょうど花が自分の家に向かって歩いているのが 見えた。 家の右、祖父の家を一軒挟んで隣が掛居家になる。 「花、どこ行ってたんだ?」 花は泣いていた。 「花……なんで」
9 匠吾の家を飛び出して道路の左右を見渡すと、遠方に島本さんの姿が見えた。 走れば追いつけそうだ。 しばらく走り、漸《ようよ》う追いついた私は彼女に声を掛けた。 「待って!」「あら、掛居さん? でしたっけ?」 「昨日の夜、向阪くんとお酒飲みに行ったんですか?」「はい。きれいな夜景が見える素敵なお店でした」「そのあとは?」「ホテル街を少しふたりで歩きましたよー」 「彼とはその……、まさかホテルに入ったとかは……つまりその……」 『掛居 さんは何が訊きたいのかしら。 はっきり言わないからわかんないわね。 お酒美味しかったなぁ~』 「はい、(お酒なら)おいしくいただきましたよ。 ご馳走様」 答えた台詞の中に『お酒なら』という言葉は省略しちゃったけど 優秀な掛居 さんなら分かるよね、私たちお酒いただいてたんですもの。 あれっ、彼女が泣いてる、なんでかしら、不思議。 泣いてる人の慰め方も分かんないし、早く帰ろっと。 「では、失礼します」 ◇ ◇ ◇ ◇ 花は島本玲子の悪意のある受け答えで胸が潰れそうに痛かった。 涙が後から後から零れ落ちてゆく。 小さな頃から身近にいて高校生になった頃から付き合って来たいとこ。 ずっと信頼してきた唯一無二の存在だった。 その人に裏切られたのだ。 涙で濡らした頬も心もヒリヒリと痛い。 踵を返し花はトボトボと来た道を歩いた。
8 翌日は日曜で家《うち》で花と何か見繕ってDVD鑑賞会をする予定に なっていた。 二人で鑑賞前にコーヒーを淹れているとインターホンが鳴った。 ドアがノックされ、「匠吾、お客様よ。島本さんって方」と 母親から呼ばれる。 どうして彼女が家へ? 自分の頭が真っ白になっていくのが分かる。 昨夜の今朝で、相手は島本玲子。 繋がらないけど、繋がっているのかもしれない状況に眩暈を覚えた。 花の顔を見るとこわばっている。 何を言えばいいのか、俺は成す術もなく言葉が出ない。 とにかくと、玄関に向かう。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「あぁ、良かった。向阪さんご在宅だったんですね。 昨日メールいただいてたので直接お願いしたほうがいいかと思って 来ちゃいました。 突然でごめんなさい。 削除依頼のメール見ました。 でも記念の画像持っていたいんですけど、駄目ですか?」 この時初めて俺は彼女の異常性に気付いた。 間の悪いことに花が部屋から出て来て俺たちの遣り取りを 聞いていたようで……震える声で島本玲子に話し掛けた。 「昨日向阪くんとどこかへ行ったんですか?」「花、悪いけど島本さんと話があるから部屋に戻ってて」 「島本さん、その消したくないという画像見せてもらえません? 私見たいです」「ええっ、いいですよ」『ちょっ、なにやってんだよ』 止めようと思って島本のスマホを奪おうとしたけど阻止できず、 島本は俺とのツーショットを花に見せてしまった。 俺は急いで島本からスマホを奪い画像を削除した。 「なんでわざわざ家なんかに……」 「あの、すみませんでした。 残念ですけど画像はあきらめますね。 じゃぁ失礼します」 そう言い残し島本玲子は帰って行った。 火種を残して。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「匠吾、どういうことなのかな? 夜景のきれいなお店だったね。 夜デートしたんだ。 どうして? 島本さんのほうを好きになったんだね?」「ちっ、違う。 好きなのは誓って花だけだ。 彼女に明日訊いてみて、ほんとに会って問題集を渡しただけだから」「問題集?」 「正社員になるテストに備えてどんな勉強をすればいいかって訊かれてさ、 貸してあげたんだよ」 「それがどう
7 島本玲子が指定してきた店は港の近くの『ラウンジ・スルラテ・オーシャン』というきれいな夜景の見える場所だった。 玲子は問題集を貸すと大仰に喜び隣でひとりで飲んでた男性とも仲良くなり、はしゃいで楽しい酒を飲んだ。 3人で話が盛り上がった頃「折角だから記念に海をバックに画像を撮りません?」と玲子が言い出した。 最初に玲子とその男性を俺が彼女のスマホで撮った。 「はい~次は向阪くんと私の番ね~」 と彼女が別の男にスマホを渡した。 「いや、俺はいいよ」 と言ってるうちにその男が勝手に撮ってしまった。 やばいとは思ったがこんなことで怒るのも大人げないし あとで彼女に削除するよう頼もうと思い、苦笑いでその場をやり過ごした。 「もういい時間だからぼちぼちお開きにしますか」 と声を掛けて俺はトイレへ向かった。 この時もう一人の男性は帰ったあとだった。 そして俺たちは途中で解散をし別々に帰った。 ◇ ◇ ◇ ◇ カフェバーを出て少し歩き、途中で 『飲みなおさない?』って誘ったのにあっさりと蹴って帰って行った向阪 匠吾。 『チキンめ! そんなに彼女が怖いのか!』 ◇ ◇ ◇ ◇ 自宅で寝る前に気付いた。 やばい、画像の削除頼むのを忘れてた。 急いで彼女に画像を消してくれるようお願いメールを出し、その夜 俺は眠りについた。