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◇何をか言わんや 69

Author: 設樂理沙
last update Last Updated: 2025-04-15 12:22:09

69

 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで

槇原にレクチャーした。

 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には

質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。

 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら

こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。

 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と

思うようなことが増え始めた。

 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを

説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。

 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで

『はい、いいえ、わかりました』

という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。

 そしていつも悲し気な表情でいることにも。

 気付いてしまうと

『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』

そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく

なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。

 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を

一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう

がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要

はなくなったのである。

          ◇ ◇ ◇ ◇

 本人から直接ではなく、上司から

『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』

と聞かされたのだ。

 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。

『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。

 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。

 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
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    86◇花と相馬コンビ 花が相馬の仕事を補佐するという業務に付いてから3週間が経とうとしていた。                           当面の仕事として書類整理、電話対応、PCでのデータ入力、資料作成など少しずつ係わらせてもらっている。 相馬さんの指導は丁寧で性格のやさしい人らしく説明はいつも穏やかで感じの良いもの言いだ。 今取り掛かっている仕事が一息付いたのか、珍しくすぐ側にあるブースへ誘われた。「掛居さん、ちょっといいかな、ブースまで」 指でブースを指す相馬さんから声を掛けられた。「はい、大丈夫です」「掛居さん、どうですか僕との仕事、やっていけそうですか? 何か改善してほしい点とかあったら忌憚なく言ってほしいんだけど」「相馬さん、お気遣いありがとうございます。 今のところ大丈夫です。 相馬さんのご指導が丁寧なので助かっております」「ほんとに? 本心?」「相馬さん、これまでいろいろご苦労があったみたいですがそれで私にもものすごく気を遣われてるのでしょうか?  こんなこと、まだ知り合って間もない私が言うのもおこがましいのですが」「ええー、掛居さん、何言おうとしてんのかなぁ。怖いんだけど」「ふふっ、前振りの仕方がよくなかったでしょうか?」「いやまぁ、それで言いたいことは何かな? 聞くけど」「折角ブースでお話できる機会に恵まれましたので雑談などをと思いまして。駄目?」 すごいなぁ~掛居さんは。 チャーミングに雑談を誘うなんて、いけない女性《ひと》だよ、まったく。「こっ怖いんだけどぉ~」「少しだけ、お願いします。 いろいろと派遣の人たちから聞いていて、噂だけじゃあ何が真実か分からなくて、相馬さんの口から分かることだけでも聞けたら今後の私の仕事の仕方なども方向性が見えるかなと思うので。 何故こんな野次馬とも取れることを聞こうって思ったかというとですね、私は相馬さんの仕事を実力をつけてもっともっとフォローしたいと考えてるからなんです。 私も人の子、明日何があるかなんて分からないので100%の確約はできませんが正社員でもありますし、できれば腰掛的にではなく長期に亘りこちらの仕事を続けられればと思ってます」

  • 『特別なひと』― ダーリン❦ダーリン ―❦   ◇慰謝料 85

    85 そして迎えた週末、指定されたホテルへと向かった。 私たちが案内されたのはミーティングルームだった。 6人でということだったがあちらは4人だった。 話は婚約中にも係わらず、私が別の男性と交際していることが分かったので婚約破棄するという内容だった。 両親にも何も話してなかったため、母親は泣いて怒り、父親からは勘当すると言われた。 知らない顔の男性は弁護士で私は慰謝料を支払うことになると告げられた。 ほとんど雨宮さんもご両親も私に顔を合わせてはくれなかった。 謝罪する両親の横で私も一緒に謝罪するしか術がなく居たたまれなかった。 あちらの家族が退出したあと、母が私に訊いてきた。「それで柳井って人とはこのまま付き合うの?」 私は頭《かぶり》を振り答えた。「振られた。彼、雨宮さんの親友だったの」「悪いことはできないものね。世間は狭いってことね。 だけど心変わりしたのならお付き合いする前に雨宮さんに断りを入れて謝罪すればよかったものを、こういうことはいつかバレるものでしょ? 今更だけど、いつまでも隠しておけるものでもないんだから。 理生、あなたは私と違って器量よしで今まで男に不自由したことがないかもしれないけど、こういうことって先の縁談に不利になるのよ。 慰謝料払ったっていう前例を作るわけだし」「お母さん、お父さん、迷惑かけてごめんなさい」          ◇ ◇ ◇ ◇ 社内公認で付き合っていた雨宮と魚谷たちがよそよそしくなると、どうしても誰かから理由を聞かれるのは止められず、雨宮が進んで言い触らしたとかではなかったが魚谷の仕出かしたことは社内で知れるところとなり、数年勤めた会社を逃げるようにして魚谷は辞めたのだった。

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