42 食堂へは蘭子のほうが先に着き、席を確保して待っていた。「よっ、今日は何にするかなぁ~」「私はカレーライスにしようかな」「あっ、じゃあ俺もそれにしよっ」 信也が2人分のカレーをテーブルまで持ってきてくれた。「午後から授業あったっけ?」「1コマあったけど今日は休講になったわ」「じゃあ、食事が終わったらちょっとその辺ブラブラしない?」「何かあった?」「うんっ、ちょっと話があるんだ」「ここで今話せないこと?」「うん、ここでは止めたほうがいいかな」「ヒントだけでも」「妹のことだよ」「ブッ……」 信也が口に運んでたカレーを吹いた。「どうしたの?」「ちょっと吃驚して吹いた。予想してなかったから」「そっか」 分かりやすい人。 1%信也を信じてみてもいいかなと考えていた残りのゲージ1%が吹き飛んだ。 信也の口の中にあったご飯粒のように。 話す前に浮気? 乗り替え? が100%だと分かり、冷静に話を持ちだせそうに思えた。 大学の校内にある樹木の周りはぐるりと一周お尻を乗せられるくらいの石積みで囲ってあって、学生のいない場所を見つけて私たちふたりはそこに座った。「ね、玲子のこと、もう知ってるんだよね?」「えー、何かな? その振りっておかしくない?」「うん、じゃあ直截的に訊くね。 玲子とヤッたってほんと?」 私の質問に信也の目が泳ぎ出した。「ヤッたって……何を?」「フーン、そうきたか。玲子のヤツ私をおちょくったのかぁー」 私の呟きを聞いて信也は更にキョドリ出した。「玲子ちゃんに遊ばれたんだ。 姉妹でも蘭子たちって性格ぜんぜん似てないよな」「容姿もね。 やっぱり派手できれいな玲子みたいなのが男心くすぐられるのかしら? だから信也も私から玲子に乗り替えたいって思ったりする?」「そんなこと考えたこともないしぃ~、玲子ちゃんは個性的だからさぁ~俺じゃぁ無理だな。 俺にはさ、やっぱり控えめでやさしい蘭子が似合ってるよ。 あぁこれって別に玲子ちゃんがどうこうっていう悪口じゃないぜ。 ほら、人には破れ鍋に綴じ蓋《われなべにとじぶた》っていうように相性ってあると思うからさ」「金城くん、玲子ね、妊娠したらしいよ。 何か話聞いてなぁ~い?」「えー、俺が? 普通そんなの聞かないでしょ……」「うん、そだ
43「妹のお腹の子は金城くんが父親で玲子はあなたのこと、自分が貰ったって吹いてるわ。 これって昨日の話。 玲子とあなた、もう何度かそういう行為をしてるんだってね。 片方だけの話を聞いただけじゃあ100%本当かどうか判断できないしそれであなたに確認したの。 これって私を困らせるための玲子の妄想? それとも玲子に乗り替えたいと思ってる? 昨日妹から妊娠とあなたとの関係を聞いて、ずっと一睡もできなくて……ほんとしんどい。 でもこんなことメールや電話で訊けるようなことでもないから金城くんと顔見ながら話をしなきゃと思って。 ほんとのことをちゃんと話してね。 嘘は止めてほしい。 玲子の言ってることが本当なのか嘘なのか」 私が話している間の金城くんを見てると悲しくなった。 金城くんの行動は早かった。 腰かけてた石積みから足元の地べたに素早く移動し「蘭子、ごめん。とぼけてごめん。裏切ってごめん。 玲子ちゃんの誘惑に負けて何度か付き合ってしまったけど、俺の好きなのは蘭子だけなんだ。 妊娠のことは今知った。 今月に入ってから玲子ちゃんからの連絡は全部スルーしてたからそんなことになってるなんて知らなかった」「玲子は産む気らしいよ。 両親も玲子とあなたを応援したいんだって。 私に身、引けって言ってるわ」「えっ……そんな。ご両親がそんなことを。 俺、玲子ちゃんとは結婚できないよ」「私にはどうにもできないわ。 ただ玲子がそれで引き下がるような子ならいいけど。 内定のこともあるし、玲子とよく話し合ったほうがいいと思う。じゃ、これで。 明日から大学でも一緒にいるのはもう止めたほうがいいと思う。 あなたはもう私の恋人じゃなくて玲子のお腹の中の子の父親だからね。 じゃあ、先に帰るね」 信也の口からちゃんと玲子とのことを聞けてかなりスッキリした。 スッキリったって暗く悲しい状況ありきの範疇でのスッキリに過ぎないけど。
44 あのペテン師め! 俺はZoomで事の次第を話し合おうと玲子に連絡を入れた。「お前、どういうつもり? これは私たちだけの秘密、お姉ちゃんには内緒ねって言ってただろ? しかも俺に一言も話さないで妊娠したとか言って俺たちのことバラすなんてサイテーだな、おまえ」「なぁに真剣になっちゃってんの、テンパリ過ぎよ。 ね、お姉ちゃん、泣いてた? 縋られた? 私を捨てないでぇ~って」 なんなんだ、コイツほんと。 ふざけた野郎だ。「泣いてもないし、縋られてもない」「え~なんだつまんないの」「妊娠って嘘だろ?」「……」「姉の恋人寝取ったことがそんなに楽しいのか? 蘭子を苦しめて楽しんでるのか?」「私の誘惑にホイホイ乗ってきたあんたにそんなこと言う資格ないっしょ」「お前のエロイ身体に負けてしまったのは一生の不覚だったわ。 言っとくが今後一切お前とは会わないし勿論付き合ったりもしない」「お姉ちゃんと結婚するつもり? そんなことさせないから」「ンとにお前、クソだな。 こんなことしておいて知られていないならともかくも、白日の下に晒されて蘭子に今まで通り付き合ってほしいなんて、そんな最低なこと言えないわ。 俺はそこまで腐ってない」「フーン、じゃあ私が結婚してあげる。自棄にならなくていいよ」「ごめんだね。 それと妊娠を盾に俺との結婚強要するならこちらにも考えがあるから。 お前の妊娠したっていう話が嘘なのは証明できるから。 俺は子供の頃の病気が原因で不妊だ。 妊娠が本当なら父親は別にいるってことになる」実は信也は幼少期におたふく風邪を引き、母親の思い込みから、以後ずっと『あんたはもう子供できないかも』と言われ続けてきたのだった。それは病院で検査しての決定事項でもなかったのだが……。「信也くん、不妊だなんてそれこそ詐欺じゃん。 私、信也くんの他にも付き合ってるヤツいるからそっちなのかもね」 玲子は吹いてるだけで本当のところ妊娠などしていないと思われた。 蘭子から俺という恋人を奪うのが目的だったのだろう。 ほんとに悪い女《ヤツ》だ。 蘭子もこんな破廉恥で節操なしの妹と良識のない両親を持って大変だな。 人の家庭の事情だから介入できないけど、今度のことは心から蘭子に申し訳ないことをしたと思う。 蘭子、本当にすまない。
45 具体的に『別れよう』ってお互いに言葉には出さなかったけれど、 大学校内で妹とのことを確認したあの日を境に私と信也は別れた。 それからしばらくして玲子の妊娠は想像妊娠で 実は妊娠してなかったというオチがついた。 玲子は自分と信也が身体の関係になっているということを 大々的に私に遠慮なく堂々と声を大にして言いたいがために 意図的に放った言葉だったのだろう。 こんな愚かな妹と両親が……どうして自分の家族なんだろう。 いつか時が来たら全員捨ててやる。 妹の悪意が100%分かった日に私はそう決意した。 * 玲子の謝罪編に時は進む * ◇玲子の謝罪 万事休すでどうしようもないところまで追い込まれた玲子は 姉、蘭子の苦言を聞き、やっと向阪 匠吾への謝罪を本気で 考えるようになった。 そう決めると今の今まで謝罪などということは考えたこともなかったのに 善は急げとばかりに翌日すぐに向阪匠吾に会ってほしいと連絡を取った。 電話は気が引けてメールで問い合せをした。 返事がきたのは一時間後だったので、その間返事がもらえなかったら どうしようなどとハラハラしながら玲子は待った。 待ち合わせ場所は中山手にある『にしむら珈琲店』でということになった。 初めての場所だったため、少し早めに家を出たので匠吾よりも早く着いた。 手持無沙汰だったせいか 『向阪くんは今どこに住んでるんだろう。 自宅に招かれたら住んでるところが分かったのになぁ~』 などと、分かったところでどうにもならないのに玲子はそんなふうなことを 思ったりしつつ待ち人を待った。 ほどなくして向阪匠吾は時間きっちりに玲子の前に現れた。 「忙しいところ、今日はありがとうございます」「で? 何で今頃謝罪したいなんて思ったわけ?」 「離婚して家を追い出されたのは自分のせいだって分かってるの。 だけど……離婚したあと、就職が決まっても何故かあとからなかったことに してほしいと言われ、就職が決まらなくて。 それで……、それからある男性と縁があってね、婚約したんだけどこれもあとになってから破談になったの」「俺が手を回してるとでも言いたいの?」 向阪くんが厳しい眼差しで言葉を口にした。
46 そして続けて問われた。「それより就職だとか、婚約しただとか言ってるけど子供はどうしたの? 堕ろしたの?」 私の中では妊娠なんて遥か昔のことで、訊かれた時、はぁ~いつの話だよなんて思ってしまった。 でも実際まだ妊婦だったら臨月間際なんだよね。 玲子はふたつまとめて問いかけられ、あたふたしてしまった。「離婚したあとすぐにお腹の子は流産しちゃったの。 え~っと、それからあなたが何かしたとかは思ってない。姉がね、言うには、掛居花さんのおじいさまが力のある方でそっちのほうから何か圧力がかけられてるんじゃないかって」 いいところまで突いてきてはいるが、花の祖父が俺の祖父でもあるということを知らずにいそうな玲子を見ていて、男と女のことになると、小賢しく立ち回れるのに、色事を離れるとまるっきし駄目ダメ人間なのだということが露見し、滑稽でならなかった。 しかし、玲子と違い姉の欄子という人は少しは頭が切れるようだ。 さて、その女性は、掛居花の祖父が俺の祖父でもあると知っていて玲子に教えてないのか、知らないのか……どうなんだろうなぁ。 玲子と姉の関係性によると思うが、玲子のような性悪女のことだから姉にも何か仕出かしてたりしてな。 それにしても玲子の話によると祖父茂にとことんやられているようで匠吾は内心驚いた。 フィクサーというのはどこまでも非道になれるのだと聞いてはいたが。 自分は曲がりなりにも一応玲子に引導を渡したことで落とし前をつけた形になっていることと、義父が盾になっていてくれるので首の皮一枚で繋がっているのかもしれないなと思うのだった。
47「まぁ、掛居家のことは俺にも詳しく分からないけれど、参考までに取り敢えずどうすればいいか、ということを話しておくよ。 掛居家に対して祖父母、ご両親、そして本人の花さんたちに向け弁護士を通して正式に俺と君との間には身体の関係もなければ交際すらしておらず、同僚として一緒に酒を飲んだだけであったことを証拠として書類に記載。 またふたりの間にさも肉体関係があったかのように花さんが受け取るであろう言葉を彼女に言い放ったのは自分の悪意からであったことなどを併せて記載すること」「弁護士を通すんですね。 分かりました。いろいろとお世話になります」殊勝に玲子は匠吾に礼を述べた。「これで旧財閥の総帥でもある花さんの祖父が君を許すかどうかは俺にも分からない。 だが君にはもうその道しかないだろう。 命が惜しければできることは全部したほうがいいだろうね。 君は自分の放った言葉で何人の人間を不幸にしたのか考えたこともないだろ? 俺は愛していた花とは結婚できず両親は俺のせいで財閥の跡取りになれなくなったよ。 その辺の地方貴族の跡取りとは訳が違う。 本来なら受け取れたはずの遺産も社会的地位に絶対的権力も父さんは血の繋がらない息子のせいで全て失くしたよ。 申し訳なくて申し訳なくて……。 母さんには肩身の狭い思いをさせてしまった。 玲子、俺はね、夜何度お前の首を絞めて殺そうと思ったかしれない。 お前を一生苦しめてやりたいよ」 ◇ ◇ ◇ ◇『愛していた花とは結婚できず』って、引き摺ってたのに私と結婚したんだ? 『両親は俺のせいで財閥の跡取りにはなれなくなった』 えっ、どういうこと? 向阪くんって元々財閥だったの? 花さんの家系も財閥でしょ? 元が同じ旧財閥だと知らない玲子にはこの謎解きは難し過ぎた。『父さんは血の繋がっていない息子のせいで……』えーっ、血が繋がってなかったのぉ~? 次々と知らない情報が匠吾の口からポンポン出て来てただただ驚くばかりの玲子だった。
48 一番驚いたのが匠吾が自分を殺そうと思うほど憎んでいたことだった。 『じゃぁ、私との結婚は何だったの?』 と訊いてみたいのを必死でこらえた。 「ごめんなさい。皆を苦しめてほんとにごめんなさい」 目に涙をためながらそう何度も謝り玲子は足早に店を出た。 ◇ ◇ ◇ ◇ 歩きながらセミロングのヘアーを手で斜め後ろに何度か流しながら 心に溜まっている文句を吐き出した。 「何言ってんのよ。知らないわよ。 そんな大仰なお家事情なんて。 私を親子して追い出しておいてまだ足りないっていうの? 私はね、花さんに一言もあなたと浮気したなんて言ってないってんの。 花さんだってあなたとちゃんと話し合っていれば誤解だって 分かったんじゃない? そもそもあなたの言うことを信じなかった花さんってどうなのよ。 10年余りも付き合ってたのにあなたたちの信頼関係は そんなものだったってことなんでしょ。 もう花さんがメンタル弱すぎなのよ。 周りが甘やかしてくれるからってこれ見よがしにメソメソしちゃって いい迷惑だよ」 なんという玲子のメンタルの強さ。 しかし結局は向阪のアドバイスを実行しなければ命の危険も有り得るかもしれないとも思う玲子は弁護士を雇い作成した書類を持ち、まずは花の両親の元、掛居家を訪れ謝罪をした。 彼らから『許します』とは言われなかったものの『祖父のところへは自分たちからちゃんと報告するので出向かなくてよい』と言われほっと胸を撫でおろす玲子だった。 誰も彼も……元夫の匠吾にも掛居家からも自分の発言を聞いてもらえただけで『許す』の言葉はもらえなかった。 勿論、大物らしい祖父という人も許してはくれないのだろう。 しかし、やるだけのことはやったのだ。
49 このあと自分はどんなふうに生きていけばいいのだろう。 これからの身の振り方を考えて数日過ごしたあとのこと、気晴らしに電車に揺られ海浜公園にある堤防に来ていた玲子はじっとその場に佇み、今までのことこれからのことを考えていた。 ふと気が付くと考え事をしていたせいか堤防を離れ海浜公園の中程に戻っていた。 こんな暑い中を意味もなく歩き回ったりして、いつもの自分らしくないことに気付き嫌になった。 自分らしくいられないものの正体をぼんやりとではあるが気付き始めていた。 向阪のアドバイス通り弁護士を介してお詫び行脚もしたけれど、何とも言えない不安が胸の奥からせり上がってくるのを止められず、いてもたってもいられない気持が消えないのだ。「こんなところに一人で、難しい顔をしてどうした?」 玲子は見ず知らずの男にいきなり声を掛けられてビクっとしつつ、その男の方へ視線を向けた。するとそれと同時に視界に入ってきた周りの風景は、日没時になったのか太陽がオレンジ色の輝きを放ち地平線の下に沈み始めているのが見えた。 そして再度男に視線を戻すと……「私でよければ話を聞いてやろう」と声を掛けられた。 ここはそもそもお弁当を持って来るような場所で周辺には飲食店もなく、自販機くらいはだだっ広い敷地のどこかにはあるのだろうけれど見渡す限り、自分たちの視界には見当たらなかった。 そんなことを考えたのは喉の渇きを覚えたからで、これからしゃべるのなら、何か飲み物が欲しいと思ったからだ。 私と、見た目40代くらいの男性とは、すぐ側にある石でできた長イスに少しだけ距離を置いて座り、私は取り繕ったりせずに自分がしてきた残念なこと、そのせいで何倍にもしてやり返されたこと、相手がとんでもなく力のある権力者で今頃になって怖くなり正式に謝罪したことなどを話し、けれど『許す』と言われてないことからこの先まだまだ嫌がらせが続くようなら……『死んだら楽になれるのかな』などと思いながら海を見ていたのだと告白した。
95 相馬は日々案件があり多忙を極めているのだが、花自体はようよう諸々の事務作業が一段落ついたところでもあり、久しぶりに定時で帰ることができそうで心は少しウキウキランラン。 花は声を掛けた相馬から『お疲れぇ~』と返され、所属している部署フロアーを出てエレベーターへと向かう。 自社ビルの1階に降り立ち出入り口に向かうも、昼食時には立ち寄れなかったチビっ子の顔でも見てから帰ろうと保育所に向かった。 チビっ子たちは3人わちゃわちゃしながら親を待っていた。 その側で疲れ気味な芦田が無表情な佇まいでぼーっと座っている。 そして、花を視界に入れるとほっとしたような困ったような複雑な表情を醸し出した。「芦田さん、どうかされました?」「昼間はぜんぜん大丈夫だったのに、夜間保育に入ってから体調がすぐれなくて……」「辛そうですね。私仕事終わりなので少し子供たちみてましょうか? その間少し横になられてたらどうでしょう」「ありがとう、そう言っていただけると助かるわぁ~。厚かましいですけどすみません、ちょっと横にならせてもらいますね。 あと1時間もするとまみちゃんとななちゃんのママたちのお迎えがあるのでもし起きられなければ子供たちの引き渡しお願いしてもいいかしら」「分かりました。大丈夫ですよ。 ただ子供たちをママたちにお渡しするだけで他に申し渡しておく伝言などは特にないのでしょうか?」「今回はないわね」「はい、OKです。ささっ、横になっててください」「助かります。じゃぁ宜しくお願いします」 3才4才のお喋りな子供たちと積み木をして待っているとほどなくしてまみちゃんとななちゃんのママたちが迎えに来て、私は彼女たちを見送った。 残ったのは1才児のかわゆい凛ちゃんだった。 え~っと、この子のママはもう1時間後になるんだ。「凛ちゃん何して遊ぼうか……」 凛ちゃんが私の膝の上にちょこんと座った。 私はお腹に腕を回して膝を上下に揺らして振動を繰り返し、凛ちゃんをあやした。 遊び相手もみんな居なくなって寂しいよねー。「絵本読む? 読むんだったら絵本を花ちゃんに持ってきて~」 私がそう言うと、膝から立ち上がり……なんと、絵本を持って来たよ。 あなどれんな1才児。 ……感動した。 また私の膝にちょこんと腰かけた凛ちゃんを前に
94 社員が残業で迎えが遅くなる時は夜間保育もあるのだとか。 すごい、社内に保育所完備だなんて。 結婚して子供ができてからも働き易い職場、最高~! あんなことがあるまで勤めた前の職場は大企業ではありなから保育所はなかった。 今度おじいちゃんに提案しとかなきゃだわ。 保育所の存在を知ってから花は俄然小さな子たちに興味が沸き、親しくなりたての遠野や小暮を伴って時々食事を終えた後、子供たちの顔を見に行くようになった。 しかし、小説のことでプロットだのキャラ設定だのといろいろ考えることの多い遠野とデザインのアイディアを捻り出すことにエネルギーを注ぎたい小暮たち二人は食事が終わると机に向かうことが多くなり、頻繁に子供たちの顔を見に訪れるのは花だけになってしまった。 それで知らず知らず保育士たちとも親しい関係になり、子供たちにも懐かれるようになっていった。 ◇ ◇ ◇ ◇ 自分たちはこの先決して恋愛感情を持たず恋愛関係には決してならない、という互いの強い志に基づき、ビジネスライクに接し仕事に邁進していこう、ぶっちゃけそのような内容を相馬と花は業務の合間に真摯にというか大真面目に話あった。 ただしそれは、本人たち限定の話であってそんなブースでの2人の話し合いを横目に周囲はふたりのお熱い語らいとして捉えていた。 着任してひと月にも満たないにも係わらず、今まで相馬付きになった誰よりも最短で二人きりでブースに入ったのだから致し方のないことではある。 どうやら前任者たちは相馬に振られて辞めたのではなかったか、という疑念を周囲の夫々《それぞれ》が胸に持っているため、あらあら、掛居花はいつまで仕事が続くのだろうか? と心配している者もいた。 しかしながらそんな周囲の心配をよそに、話し合いをしてすっきりした相馬と花は元気よく日々仕事に邁進するのだった。 お互い異性として結婚相手にはならないことを確認し合っているため、そのことで相手に対する探り合いなどせずともよい関係だから、肩ひじ張らず フラットな関係で付き合えるというなんとも居心地の良い状況に互いが至極満足していた。 そんな2人の距離が急速に縮まっていったのは言わずもがなというものである。
93 花が新しく入社した三居建設(株)には、日中、未就学の子供の預け先がなくて困る社員たちのための企業内保育所というものがある。 **** 入社して少し落ち着いた頃、上司の指示で派遣社員の遠野さんに案内されることになった。 彼女の説明によると12名の乳幼児が預けられていて保育士が2名、補助のパートが1名……併せて3名で保育しているという。 私たちが部屋を覗いた時、1才~4才児がそれぞれ思い思いに遊んでいるところだった。 遠野さんから説明を受けていると私たちに気付いた40代とおぼしき保育士の芦田佳菜《あしだかな》女子ともう少し年下に見える綾川結衣《あやかわゆい》さんとが、私たちの方へと挨拶にきてくれた。 2人ともざっくばらんで話しやすく初対面だというのにぜんぜん気を張らなくて済み、私は自分のその時思ったことを構えることなく口にした。「時々、子供たちに会いにきてもいいでしょうか?」 今まで身近に小さな子はいなかったし、匠吾との結婚を考えていた頃も子供のことなんて何にも考えたことなどなかったというのに。ただ身近で小さな子たちを見ていて、心が癒されそんな気になったのだと思う。「ふふっ、掛居さんも、なんなら遠野さんも遊びにきてね。 子供たちも喜ぶと思うわ」 そう芦田さんから声が掛かると、側にいた綾川さんもそれから少し離れたところから私たちの会話に入ってきたパートの松下サクラさんも「いつでもきてくださいね」と言ってくれた。 自分たちのフロアーへの戻り道、遠野さんがこそっと教えてくれた。「えっと、松下さんは既婚者で正社員のおふたりは独身なのよ」「独身でも、ずっと可愛い子たちといられるなんて素敵なお仕事よね~」「あらっあらっ、もしかして掛居さん、保育所に異動したかったりして……」「うん、次の異動先の候補に入れるわ」「掛居さん、その頃私がまだ独身で、無名の小説家で時間に余裕があればご一緒させてください」「いいわよぉー。 遠野さんと一緒かぁ~、何だか楽しそう。ふふっ」
92 この時魚谷はちゃっかりと派遣会社の担当者にその男性社員の プロフィールみたいなものを聞き出していた。 聞けたのは氏名と正社員ということ、そして独身だということくらい だったのだが。 知りたいことのふたつが入っていたのでその場で 『行きます、お受けします』 と答えたという経緯があった。 そう、当時結婚を焦っていた魚谷は相馬付きになった当初から 彼をターゲットに絞っていたのだ。 過去の不運のこともあり、余裕のない魚谷は相馬の 『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』 と言う言葉も馬耳東風、異性の気持ちを虜にするのは今まで簡単なこと だった魚谷にしてみれば、自分のほうから積極的にいけば、そんな普通では 信じられないような考えを変えることなど、いとも簡単なことだと 気にも留めていなかった。 思った通り、自分がデートに誘えば相手にしてくれた。 好きだとは一度も言われていなかったが、当初あんなふうな言葉を 語った手前、そうそう自分に好きだなんて言えるわけもないだろうと、 そんなふうに自分勝手な解釈でいた。そのため、結婚の話も少しの勇気を 出すだけで話題に持ち出せた。 それなのに彼は 『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことになってる のか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚しないから、その 提案は無理です』 とはっきりと自分に告げたのだ。 一瞬何を相馬が言っているのか分からなかった。 過去の男たちは皆、私の気を引くために必死だったのよ。 ふたりの男性《ひと》たちから切望されたことも1度だけじゃないのよ。 そんな私が結婚を考えてあげるって言ってるのに何、それ。 信じられない。 私は気がつくと彼を詰り倒し店を出ていた。 家に帰り冷静になると、自分のしてきたことが如何に恥ずかしいこと だったのかということに思い至り、病欠で一週間休み続け、そのまま病気を 理由に辞職した。
91 新卒で入行した銀行を恋愛のいざこざで辞め、次に就職した派遣先の大手ハウスメーカーにも迷惑を掛けた形(社員との自分有責での婚約破棄)で受付嬢を辞職していた魚谷が、たった3ヶ月で槇原に辞められて落ち込んでいた相馬と、三居建設(株)で同じ部署で働けるようになるなんて、当初の魚谷には考えられない僥倖だった。……というのも、流石に派遣先の社員を裏切ってからの婚約破棄という事情での辞職は4年余り真面目に勤めていたとはいえ、派遣先と派遣元からの態度には冷たいものがあった。 派遣会社から登録を抹消されることはなかったが、前職のような条件の良い大手の企業への紹介はないだろうと魚谷は覚悟を決めていた。 雨宮や柳井との一件でかなり落ち込んでしまい、働きに出る気力というモノが沸かなかったことと、案の定派遣先からの仕事の紹介もなかったことから家事手伝いの態で家に閉じこもるような生活を続けていた。 そんな生活を1年ほど続けていた時に、もう仕事の斡旋などしてくれることはないだろうと思っていた派遣会社から『中途半端な時期になるが即日にでも』とそこそこ大手の建設会社への仕事依頼が入ったのだった。 おそらく急なことで他に行ける人員がなく、自分にこの良い話が回ってきたのだろうと魚谷は考えた。 決め手は、仕事の内容だった。 内容といっても実質の仕事内容のほうではなく、部署的なものといったほうがいいのか。 男性社員の補佐をする仕事と聞いたからだ。
90 「それで?」 と相馬さんに続きを促しながら頭の片隅で相馬さんが醸し出す 不思議な雰囲気の理由が分かり私は少し興奮してしまった。 『結婚するつもりがない』という、これだったのかー、と。 謎が解けたスッキリ感。 続きはどうなったのか、野次馬根性が顔を出す。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「『私たちのことですけど……』『……?』『お付き合いして正確にはまだ1年じゃあないですけど、毎日 職場で会ってるしどうですか? そろそろ婚約とか、結婚に向けて話を進めてもいいと思うんですけど』 って言われて僕は腰が抜けるほど吃驚してね。 付き合ってることになっているなんて、どこをどう考えれば僕たちが 付き合ってるーっ? てね」 「わぉ~、それは大変なことになったんですね」「店の中で泣いたり怒ったり、彼女の独壇場だった。 とにかくこれ以上何か言われても僕は結婚は無理なのではっきり言った。『魚谷さんの中でどうして僕たちが付き合ってるっていうことに なってるのか分からないけど最初宣言していた通り僕は誰とも結婚 しないから、その提案は無理です』 『相馬さんがそんな不誠実な人だったなんて、最低~』 そう言い残して彼女店から出て行って、翌々日人事から彼女が 辞めることを聞いたんだよね。 なんかね、今考えても狐につままれたような気分なんだよね」 「彼女に対して思わせ振りな態度、全くなかったのでしょうか」「ないよ、信じて掛居さん。 そうそう今言っとく。……ということで僕には結婚願望は微塵もないのでフレンドリーになれれば それはそれでうれしいけれど、それ以上でもそれ以下でも気持ちはないとい うか、上手くいえないけど今度こそ長くパートナーとして一緒に仕事を続け ていってもらいたいので話しとく」 「分かりました。 金輪際、掛居花はどんなことがあっても相馬綺世さんに結婚を迫ったり しないことをここに誓います。ご安心めされよ」「良かったよぉ~、掛居さん」 そういうふうに泣くほど喜ばれた私の心中はちょい微妙な風が 吹いたのだが、今までの相馬さんが遭遇した不可抗力な恋愛系事件簿のこと を思うと仕方ないなぁ~と思った。 「今度一緒に働けるのが掛居さんでほんと良かったわ」「相馬さん、私に惚れられたりしたらどうし
89「次に派遣されて来た|女性《ひと》は、|魚谷理生《うおたにりお》さんっていう人で約1年続いたけど、何て言えばいいのか……。 仕帰りにたまにお茶して帰るくらい打ち解けてきて、仕事もお願いすれば説明しなくてもあらかたスムースに作成してもらえるくらいになって上手くいってると思ってたんだけど、残念なことになってしまってね。 彼女が辞めてから何度も自分の中で何がいけなかったのだろうかと自問自答したけども『どうしようもなかった』としか……ね、思えなくて」「相馬さん、それって具体的には言いにくいことなんですか?」「これから一緒に働くことになった掛居さんにはちょっとね」「意味深に聞こえましたが……」「魚谷さんに、恋愛感情を持たれていたみたいなんだ。 最初に気付いた時に『自分にはトラウマがあって一生誰とも結婚しない生き方に決めている』って彼女にカミングアウトしてたんだけどねー。『結婚を押し付けたりしないのでたまにはデートしましょ』と言われ、まぁそれでうまく仕事が回っていくならいいかなと思い、たまに……と言っても魚谷さんが辞めるまでに3度出掛けたくらいかな。 あとはこうやってブースで息抜きに雑談したり彼女の相談に乗ったり、仕事帰りにお茶して帰ったり。 とにかく彼女が気持ちよく仕事ができればと付き合ったんだけど……」「上手くいってたのに、最後上手くいかなかったのはどんな理由だったのでしょうか」「あれは、仕事が落ち着いてきて定時上がりになった日のことだった。 帰りにお茶でもと誘われてカフェに入った時のこと。『私こちらに入社して1年経ちました』と彼女から言われ『ああ、もうそんなになるんだね。これからもよろしくお願いします』と返したんだ」
88「サイン? う~ンっとっと、そう言えば朝から熱でもあるのか顔を赤くしてた日が あった、かな。 ちょっとその日は変で僕とあまり視線を合わせてくれなくて。 それで僕の方もなんとなく槇原さんに声をかけづらくなってしまって、 そういうのもいけなかったかもしれないなぁ。 まぁ辞めたくらいだから、僕との仕事は息が詰まってしんどかったのかも しれないね」 「彼女、ちゃんと辞める理由があったみたいなので相馬さんとの仕事が 嫌だったわけではないんじゃないかと」 「そうだよね、変に勘ぐってもどちらにとってもよくないと思うから そういうことで、とは思うけどもね」 私は槇原さんがどういう女性《ひと》か知らないから断定はできない けれど、もしかしたら相馬さんと毎日近い距離での仕事だったから しんどくなったのかも、と思わなくもなかった。 片思いってしんどいものだから。 私も匠吾と両思いになって付き合うようになるまでは、ドキドキしたり 心配だったりでずっと不安だったもの。 相馬さんみたいな素敵な男性《ひと》からアプローチがあれば 私も彼におちるかもね、なぁ~んて。 だけど相馬さんからはまず異性に対する溢れだす特別な感情? みたいなものがぜんぜん出てない。 だから私もぜんぜんっ意識しないで仕事だけに集中できるんだけどね。 周囲の噂だけを鵜呑みにする限り、相馬さんが次々に派遣の女性と 何かあって彼女たちが辞めたのでは? みたいにとられている節があるけれども普段の仕事振りと今話してる 彼の様子から、そういうのじゃないっていうか、相馬さんは誰彼なしに 女性に手を出す人じゃないっていうことが分かる。
87「……といいますと」「……といいますとですね、私の前にいた2人の派遣社員の人たちはどちらも短期で辞めてしまったと聞いています。 相馬さんは私のこともいつ辞めるか分からないって思ってません?」「実は、疑心暗鬼……少し思ってた、思ってる?」「簡単に言いますと『頑張りまぁ~す』ということを言いたかったのです。 それでその疑心暗鬼になっている理由を知りたいということです。 よければどうして派遣の人たちが続けて短期間で辞めることになったのか。理由が分かれば、私はそうならないように気をつければいいと思いますし」「じゃあ、僕の分かりにくいかもしれない話を聞いて何か気付いたこととかあったら意見ください」「OKです」 これまであったことを話しますと言った相馬さんは顎を少し上げ、窓の外、視線を虚空《こくう》に向け口をへの字にして思案しはじめた。 彼の視線が私のほうへと戻り私の視線と絡まった時、被りを振り「思い当たることがないんだよねー」と言った。「入社した時の様子はどんなでしたか? その時からあわなさそうな雰囲気ありました? あわないっていうか馴染めないっていうか」「最初の印象はすごく良かったんだ。 頑張りますっていう勢いみたいなものを感じたね」「へぇ~、じゃあ仕事を任せていてずっとスムーズでしたか? それとも何か……」「掛居さんに訊かれて思い出したけど、そう言えばミスが続いたことがあったね」「相馬さん、相馬さんに限って叱責なんてされてませんよね~?」「気にしないようにって。 次から気をつけるようにとフォローしたけど、まぁ僕のフォローの仕方がまずかったのかもしれないなー。 真面目な人だからものすごく謝罪されて困ったよ」「その辺りから何かしら彼女がサイン出してなかったでしょうか?」