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いや、ターゲットを狙うのはいいのよ、問題なくそのお相手が
シングルならばね。 いくら結婚してないからって恋人がいるのが分かっていて 略奪みたいな真似はねぇ~、普通しないものでしょ。 前々から忙しい業種ではあるんだけれど、近年忙しいため募集をかけて 折角採用したのだから、揉めて辞めてくれるなよ~頼むよ~だ。 今我が社は近年の台風や豪雨そしてあちこちで頻発する地震と自然災害の 乱発がすごくて皆、青息吐息で社員は誰も彼も猫の手を借りたいほど 忙しいのだ。そんな我が社は旧財閥系列の会社で社名もふたつの財閥の名称から取り
『三居掛友海上火災保険株式会社』と称する。 島本さんが狙ってる向阪くんは彼女より2才も年下で現在の仕事は 『損害サポート業務部の火災損害サポート部』社員として活躍している。自動車損害サポート部も兼任しており将来を有望視されている若手社員だ。
花ちゃんは向阪くんと同年に同期入社し、総務部でテキパキ頑張ってる。
聞いたところによると向阪くんと花ちゃんは入社前から面識があったみたいだ。交際がいつ始まったかは知らないけれど入社してすぐに付き合っていることは
公認みたいな形になってる。
だからといって、別に社内でイチャイチャすることはないのよね、 今のところ。 ランチも一緒に摂ってるところなんて私は見たことないし。不思議っちゃあ不思議よね。
そんなふたりが公認の仲?
今まで何も不思議にも思っていなかったのに島本さんの向阪くん狙いの
話から彼と花ちゃんのことを考えていたら辿り着いてしまったって感じよね。 あれだね、きっと向阪くんが花ちゃんに悪い虫が付かないよう、 自分から周りにじわりと小出しにして認識させていったのかも。 ◇ ◇ ◇ ◇ 準社員として配属された島本玲子の上司で正社員の牧野千鶴38才既婚、 大学を卒業してから早16年勤務……は、知らなかった。従業員はパートまで含めると約3万人近くになる規模の会社で
取締役会長に始まり同じような執行役員という名の付く役員が 4、50人もいる中、そのような重役から下の役職へとふたりのことは 伝達されていたのである。 伝播された設定はこうだ。 向阪 匠吾《こうさかしょうご》と掛居 花 《かけいはな》は 中学、高校と学生の頃からの付き合いであり、たまたま就職先が 同じだったと。 意図的にある人物の意志でそのように社内に流布されていた。 その人物というのは掛居 花の祖父である向阪茂で、彼の提案だった。ふたりが数年後、滞りなく結婚まで順調に物事が進められるようにという
祖父心からの配慮だったのだ。3 10年前学生だった頃、姉の恋人を寝取ったのを皮切りに、人のモノ、 即《すなわ》ち彼女持ちの男を射止めるのが癖になってしまった島本玲子は 元々がそのような拗れたところからの恋愛を繰り返してきたため、 最後はいつも破局してしまいこの年になっても未だ独身だった。 言い寄られて彼女のいないれっきとした独身男性との交際も 時にはあったが飽き症の上にすぐ人のモノが欲しくなる性格も相まって なかなか結婚まで辿りつかない。 向阪に関していえば社内のカフェテリアで何度か見かけたのが切っ掛けだ。 背が高く容姿がずば抜けて整っている。 男性にしてはゴツゴツしてなくて、顔の肌が女子顔負けにきれいで さらには鼻梁の線も美しく、くっきりとした二重瞼と併せて彼の顔を きりりとした表情に作り上げている。 実は彼の顔をなるべくはっきり見たくて自然を装って 彼が座っていた近くを何度か行ったり来たりした。 島本玲子が入社した会社では、バーベキュー施設は地域問わず多く存在し、物品や材料が備えられているケースも多いため実施ハードルは低めで、屋外で自然と触れ合いながら飲食をすれば、非日常感溢れる環境だからこその仲が深まりやすい点もあり職場内よりも開放的な気持ちでコミュニケーションが取れるメリットがある。 そのため、BBQは毎年恒例の行事となっている。 玲子が入社して3ヶ月目に突入した頃のこと。 3日後の日曜日に社内の親睦を兼ねたバーベキューが催されることに なり、玲子は絶対この日に向阪のメルアドをGetしようと決めていた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は慎重に向阪 匠吾の様子を窺った。 周りに人はいても、実際彼に話し掛けている者がいない隙ができたのを 見計らい私は近づいて行った。
4 「こんにちは。 私バーベキューは今回が初めてで何をしたらいいのか要領が分からなくて……」 「あぁ、最近入られたのですか?」「はい、準社員でこの春から」 「うちは何年か勤めれば採用テストがあって正社員登用の道があるし、 皆親切な人が多くて働きやすい職場ですよ」 「そうなんです、正社員になれる道があると聞いてこちらの会社に 入社することに決めました」「早く正社員になれるといいですね」 「ありがとうございます。 まだまだ知らないことだらけで、経理部の人たちしか知らないですし、 何か困ったことがあればお聞きしてもいいでしょうか?」 「あぁ、もちろんいいですよ」 「じゃあ、もうしわけありませんがメルアド赤外線通信で 送っていただいても構いません? 私、赤外線の送信のしかたが今ひとつ分からなくて……」 「いいですよ……」 「ありがとうございます。うれしいです」 彼の側に知り合いが集ってきたところで、私は早々に引き上げた。 連絡がとれるようになったのだから、もう何も焦る必要なし……と 言いたいところだけど今回は今までとは違うからね~、ちょっと焦るわぁ~。 先日私が牧野さんに話していたように崖っぷちはほんとだから。 向阪くんは旦那さん狙いだもん。 絶対落とさなきゃ。 ◇ ◇ ◇ ◇ 島本にロックオンされているとも知らず、一方その頃向阪は 呑気なものだった。 「向阪 、さっきの美女誰よ」「えっと、誰だっけ? 忘れた。 さっき初めて会った、はじめましてさんだよ」 「なにぃ~、そんなわけあるかよ」「いや、まじそうなんだって」 「それではじめましてさんと何してたんだ?」 「いやぁ、何も。最近入社してきたって言ってたわ。 分からないことがあったらまた教えてくださいって言われただけ」「へぇ~、お前狙われてるんじゃねぇ」 「それはないだろ。俺には……」 「掛居 さんがいるもんな。気をつけろよ」「考え過ぎだって」 彼女はあんなこと言ってたけど、おいおい社内外のことをいろいろ 知っていくうちに俺と花のことも誰かから耳打ちされるだろうし、 そしたらメールなんてのも来ないだろう。 しかし、男なら誰でもグラっと
5 ◇かわいい嫉妬 向阪は気付いていなかったが島本とのアドレス交換しているところを 少し離れた場所から見ていた人物がいた。 それは向阪 の恋人で10代の頃から付き合っている掛居花だった。 帰りは花と足のない同僚ふたりを乗せそれぞれを最寄駅まで送り届けたあと、匠吾と花は北区のビバリーヒルズと呼ばれる高級住宅街に建ち並ぶそれぞれの豪邸近くへと帰って来た。 彼らは匠吾の父親が兄で花の母親が妹という兄妹の娘、息子、即ち従兄妹同士だった。 祖父の豪邸を真ん中に挟み匠吾と花は左右に住まっている。 今回は匠吾の車でBBQに出掛けていた。 その匠吾の車は近所にある公園の駐車場に止められた。 会社イベントは楽しかったけれどふたりでゆっくり話す時間もなかったため、少し話をしてから帰ろうということになったからだ。イベントの残りの缶コーヒーを飲みながら花は訊いた。 「今日島本さんと何話してたの? 匠吾、鼻の下がビロ~ンって伸びてたけど」 「ビロ~ンってオマエなぁ~、なぁ~に言っちゃってんの。 入社仕立てなんで分からないことがあったら教えてくださいって お願いされてたんだってぇ」 「へぇ~、接点のない他部署の匠吾に教えを乞うなんて不自然だよね」 「そうか?」「そうよ、おかしいよ。メルアド交換したでしょ」 「あっ、あぁそうだったっけ……」「ふ~ん、心配だな」 「大丈夫だって、わたしを信じなさいっ」「信じていいの? ほんとに?」 「大丈夫、ンとに心配性だなぁ~花は。 花が思うほど俺ってモテないから」 「もし、彼女から相談があるから会って話を聞いてほしいって言われたら どうするの?」 「電話で聞くようにする」「外では会わない?」 「会わない……」「よかった。それ聞いて安心した」「俺も良かったぁ」「何が?」 「ちゃんと花が俺に焼きもち焼いてくれることが分かったから」 俺がそういうと怒るかなって思ったけど花の反応はそうじゃなかった。 『じゃあ、約束ね』といって小指を出してきた。 そのしぐさが可愛いなって思った。 車の中じゃなかったら盛大にハグしたのに、残念。
6 花とそんな風にかわいい約束をしていたのに、BBQ明けから 早速島本玲子からのメールが向阪匠吾の元へ一日に二度三度と 届くようになった。 最初は『おはようございます。先日はありがとうございました』とあり放置していると同じ日の夜に『今日もお疲れさまでした。明日もお互い頑張りましょう』とくる。 最初は当たり障りの返事を特に返さなくてもよい内容だったので 放置していた。 3日めからメールの内容が返事を促すものへと変化していった。『正社員登用の試験内容など教えてほしい』というような文面に。 花に対してほんの後ろめたさを感じつつも花はメールについては 何も言ってなかったのだし、との言い訳を盾に、向阪はざっと簡単に 自分が受けた時の試験内容などを書いて送信した。 すると酷く感謝の言葉を羅列している文が送られてきて、これ以上 メールのやりとりはするまいと考えていた向坂だったのだが、 これで最後だしと返信メールをしてしまい、後は言葉巧みな玲子主導の元、『その問題集を見せてはくれないか』と言われOKすると、てっきり職場で渡す気だった向阪に玲子から『じゃあお礼も兼ねてカフェバーで会いましょう』ということにされ、あれよあれよという間にそのように設定されてしまった。 いや、それは一瞬『まずい』と向阪は思った。 花の顔も浮かんだ。 しかし、おそらく今回一度だけのことなのだしカフェバーでお礼に一杯と 言われ断るのも大人げなく思い、断らなかった。 また花との交際が若くして10代からのもので向阪は花以外誰とも 付き合ったことがなく、少し大人の女性との交流に興味を 持ってしまったということもあった。 浮気をするつもりなど毛頭なく、ほんとに興味本位でのOKだった。 しかし、自分の気持ちの確認はしたものの、玲子の思惑を少しも 考えてなかったことが向阪にとっては痛恨の極みであった。
7 島本玲子が指定してきた店は港の近くの『ラウンジ・スルラテ・オーシャン』というきれいな夜景の見える場所だった。 玲子は問題集を貸すと大仰に喜び隣でひとりで飲んでた男性とも仲良くなり、はしゃいで楽しい酒を飲んだ。 3人で話が盛り上がった頃「折角だから記念に海をバックに画像を撮りません?」と玲子が言い出した。 最初に玲子とその男性を俺が彼女のスマホで撮った。 「はい~次は向阪くんと私の番ね~」 と彼女が別の男にスマホを渡した。 「いや、俺はいいよ」 と言ってるうちにその男が勝手に撮ってしまった。 やばいとは思ったがこんなことで怒るのも大人げないし あとで彼女に削除するよう頼もうと思い、苦笑いでその場をやり過ごした。 「もういい時間だからぼちぼちお開きにしますか」 と声を掛けて俺はトイレへ向かった。 この時もう一人の男性は帰ったあとだった。 そして俺たちは途中で解散をし別々に帰った。 ◇ ◇ ◇ ◇ カフェバーを出て少し歩き、途中で 『飲みなおさない?』って誘ったのにあっさりと蹴って帰って行った向阪 匠吾。 『チキンめ! そんなに彼女が怖いのか!』 ◇ ◇ ◇ ◇ 自宅で寝る前に気付いた。 やばい、画像の削除頼むのを忘れてた。 急いで彼女に画像を消してくれるようお願いメールを出し、その夜 俺は眠りについた。
8 翌日は日曜で家《うち》で花と何か見繕ってDVD鑑賞会をする予定に なっていた。 二人で鑑賞前にコーヒーを淹れているとインターホンが鳴った。 ドアがノックされ、「匠吾、お客様よ。島本さんって方」と 母親から呼ばれる。 どうして彼女が家へ? 自分の頭が真っ白になっていくのが分かる。 昨夜の今朝で、相手は島本玲子。 繋がらないけど、繋がっているのかもしれない状況に眩暈を覚えた。 花の顔を見るとこわばっている。 何を言えばいいのか、俺は成す術もなく言葉が出ない。 とにかくと、玄関に向かう。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「あぁ、良かった。向阪さんご在宅だったんですね。 昨日メールいただいてたので直接お願いしたほうがいいかと思って 来ちゃいました。 突然でごめんなさい。 削除依頼のメール見ました。 でも記念の画像持っていたいんですけど、駄目ですか?」 この時初めて俺は彼女の異常性に気付いた。 間の悪いことに花が部屋から出て来て俺たちの遣り取りを 聞いていたようで……震える声で島本玲子に話し掛けた。 「昨日向阪くんとどこかへ行ったんですか?」「花、悪いけど島本さんと話があるから部屋に戻ってて」 「島本さん、その消したくないという画像見せてもらえません? 私見たいです」「ええっ、いいですよ」『ちょっ、なにやってんだよ』 止めようと思って島本のスマホを奪おうとしたけど阻止できず、 島本は俺とのツーショットを花に見せてしまった。 俺は急いで島本からスマホを奪い画像を削除した。 「なんでわざわざ家なんかに……」 「あの、すみませんでした。 残念ですけど画像はあきらめますね。 じゃぁ失礼します」 そう言い残し島本玲子は帰って行った。 火種を残して。 ◇ ◇ ◇ ◇ 「匠吾、どういうことなのかな? 夜景のきれいなお店だったね。 夜デートしたんだ。 どうして? 島本さんのほうを好きになったんだね?」「ちっ、違う。 好きなのは誓って花だけだ。 彼女に明日訊いてみて、ほんとに会って問題集を渡しただけだから」「問題集?」 「正社員になるテストに備えてどんな勉強をすればいい
9 匠吾の家を飛び出して道路の左右を見渡すと、遠方に島本さんの姿が見えた。 走れば追いつけそうだ。 しばらく走り、漸《ようよ》う追いついた私は彼女に声を掛けた。 「待って!」「あら、掛居さん? でしたっけ?」 「昨日の夜、向阪くんとお酒飲みに行ったんですか?」「はい。きれいな夜景が見える素敵なお店でした」「そのあとは?」「ホテル街を少しふたりで歩きましたよー」 「彼とはその……、まさかホテルに入ったとかは……つまりその……」 『掛居 さんは何が訊きたいのかしら。 はっきり言わないからわかんないわね。 お酒美味しかったなぁ~』 「はい、(お酒なら)おいしくいただきましたよ。 ご馳走様」 答えた台詞の中に『お酒なら』という言葉は省略しちゃったけど 優秀な掛居 さんなら分かるよね、私たちお酒いただいてたんですもの。 あれっ、彼女が泣いてる、なんでかしら、不思議。 泣いてる人の慰め方も分かんないし、早く帰ろっと。 「では、失礼します」 ◇ ◇ ◇ ◇ 花は島本玲子の悪意のある受け答えで胸が潰れそうに痛かった。 涙が後から後から零れ落ちてゆく。 小さな頃から身近にいて高校生になった頃から付き合って来たいとこ。 ずっと信頼してきた唯一無二の存在だった。 その人に裏切られたのだ。 涙で濡らした頬も心もヒリヒリと痛い。 踵を返し花はトボトボと来た道を歩いた。
10 その頃匠吾の家では母親の沙代がどういうことなのかと匠吾に詰め寄っていた。 「花ちゃん、血相変えて出て行ったけどあなたたち大丈夫なの?あなたは男だからまだまだ年齢的に猶予があるけれど花ちゃんは 女の子だからね、おじいさまが心配なさって『そろそろ婚約、結婚と 話を進めなけりゃあならんなぁ』とおっしゃってるところだから 気をつけけてよ、身辺にね。 まさか、さっき訪ねてきた島本さんと何かトラブったりして ないでしょうね」「彼女とは正社員になるための勉強方法とか聞かれて問題集を貸して あげただけなんだけど、困った人だ」 匠吾は、母親に掻い摘んで昨夜のことや先ほど島本玲子が訪ねてきた 理由などを話した。 「カフェバーか、行ったのを知ったら花ちゃん悲しむね、きっと」「なんでちゃんと断らなかったんだろ。優柔不断だな俺」 「なんか、島本さんの行動が怪し過ぎるわね。 削除してほしいって頼んだ画像のことでわざわざ家に……休日の朝に 来る必要ないものね。 花ちゃんにもう一度ちゃんと話して誤解を解いた方がいいと思うわ。 ちゃんと話せばおかしな振舞いの島本さんの言うことより あなたの言うことを信じてくれるはず。長い付き合いだもの」「うん、ちょっと花が心配だからその辺見てくるよ」 ◇ ◇ ◇ ◇ 家の前に出ると、ちょうど花が自分の家に向かって歩いているのが 見えた。 家の右、祖父の家を一軒挟んで隣が掛居家になる。 「花、どこ行ってたんだ?」 花は泣いていた。 「花……なんで」
76 友人の星野から電話で聞いた話では今回のパーティーは商社に勤める 柿谷さんからの紹介らしかった。 柿谷さんも私たちと同じ大学だったけれどグループが違っていた人だ。 在学中に少し親しくしていたみたいで、たまたま最近繁華街で出会って 立ち話もなんだからとお茶して近況を話し合ってるうちに……ということ らしい。 学生時代からの友人星野は自分とは違い堅実にずっと同じ職場で 頑張っている。 医科大で正社員として勤務している。 昨今大学の事務員というのもほとんどが時給の契約社員とか 日給の派遣社員がほとんどらしいから流石新卒で入社して頑張ってるだけ あるよね、星野は。 私も当初は正規雇用の銀行員だったのにさ、なんでこうなっちゃったん だろうなんて思う日もあったわ。 でも伴侶を見付けるなら大手企業への派遣入社も悪くはないよね。 実際、私は研究員のエリート捕まえたもん。 ここはひとつ星野が良い男性《ひと》と出会えるよう協力を惜しまない つもり。星野ぉ~、あんたいい友だち持ったね~。 ◇ ◇ ◇ ◇ 金曜日の夜に彼女から再度連絡があり、私たちが参加するのは レセプションパーティーで開催時間は17:00からと聞く。 ホテルのチェックインの時間に合わせて行くことに決めた。 夜は少し肌寒くなるかもしれないからとふたりともスプリングコートを 羽織って行くことにしたのでフォーマルなドレスの見せあいっこは ホテルにチェックインしてからになった。 星野はほどよいマキシ丈でウエストにゴムが入っているネイビー色の シンプルだけど華やかさも併せ持つドレス。 ハイネックマキシドレスで襟元のビジューがパールでドレスと相まって 彼女の印象に華やかさをプラスしている。 「星野、いいじゃない、そのドレスと襟元のパールのネックレス、 むちゃくちゃいいわ。きっといい男性《ひと》見つかるね」 「ふふっ、サンキュー。そう言ってもらうと心丈夫だわ」 私はというと、今回クローゼットを覗いて黒のにするか今着ている ペールブルーにするか迷ったけれど、透明感があって袖がシースルーの透け たレース生地になっている清楚系デザインの丈短めドレスにした。 私もネックレスはパールだ。 ふたりでしばし、互いのドレスを褒め合いパーティーに向
75 婚約も終え半年先を見据えた結婚の話も決まりほっと一息ついた魚谷は、仕事も勤めて丸4年になり、たまに緊張する場面もあるものの、普段はこなれた動作で仕事を片付けていて精神的にも物理的にも暇の1文字が頭を掠めるようになるのだった。 婚約者の雨宮も仕事に追われ忙しそうである。 ただの恋人同士だった時には会わないでいると不安でしようがなかったものだが、双六《すごろく》でいうと、まだ盤上にはいるものの、ゴールに到達したも同然。 それゆえ、魚谷はほどよく余裕でいられた。 ……とそんな折に、婚活している学生時代の友人から『お願いがあるのぉ~』と電話が掛かってきた。 東京でセレブリティ《celebrity 》たちが集う豪華パーティーがあるので一緒に付き合ってほしいというものだった。 その週は雨宮との約束がなかったため、保護者の気分と著名人などが集うパーティーというものに今まで縁のなかった魚谷はそういう人たちに会えることにも少し興味があり、二つ返事でOKした。 新大阪駅からなら東京まで新幹線で2時間30分と少し……といったところだろうか。一泊すれば楽勝だ。 誘われた後で、本当に一般人の自分たちが名士や著名人が参加するパーティーという名の集いにそんなに簡単に参加できるものなんだろうかと気になり、ちょっと調べてみた。 真の富裕層などが集うところへは、簡単に参加できないらしいということが わかった。 ……ということは、友人が行くところはどんな人たちの集まりだというのだろう? 小金持ちくらいの集いかもしれないなと魚谷は思った。
74 そして次に就いた大手ハウスメーカーでも魚谷は過去の経験を何ら生かす ことなく、同じようなことをやらかして辞めざるを得なくなり追われるよう にして辞職した。 こちら大手ハウスメーカーの事務兼務付きの受付嬢の面接を受けた時から 魚谷はこんどこそこの会社で将来の夫となるべき男性《ひと》をGet するのだとの強い意志を持って臨んでいたこともあり、社内のイベントごと は欠かさず参加し続けた。 そしてそれが功を奏したのか、入社して1年経つ頃には社内のエリート を恋人に持つことに成功した。 大手ハウスメーカーでは雇用時にキャリア籍とノンキャリア籍という 具合にどちらかに選別され雇用される。 これは退職するまで能力がいかに高かろうと変わらないのであった。 抜け目のない魚谷が選んだ相手は住宅総合研究所という部署に所属する 東大卒のエリートだった。 ノンキャリア籍組とは給与が300万以上も違うと言われ 『専業主婦になれる』と魚谷は至極ご満悦であった。 ただ、研究室に閉じこもり建材成分などの分析研究をする仕事柄も 相まって、地味な性格が少し気になるところではあった。……とはいうものの、その恋人雨宮洋平とは順調に交際が続き、付き合って 3年が過ぎた頃両家で顔合わせもし正式な婚約を交わした。 周囲にふたりの交際は公認だったが、婚約した話は結婚をいつ頃にするか 決めてからにしようということで周囲にはまだ発表していないような 状況だった。
73――相馬の事務補佐2人目派遣社員・魚谷理生仕事と恋の変遷―― しかしそこは大手派遣会社『事務派遣コスモス』のこと、1日たりとも空白を作ることなく槇原が実質出社しなくなった翌日には新しい人材が投入された。 槇原も清楚でなかなかに可憐な女性だったが、次に派遣されてきた魚谷理生《うおたにりお》は、これまた華やかで別の美しさを持ち合わせた女性だった。 それもそのはず前職の派遣先は大手ハウスメーカーで80人の応募者の中から企業の顔である受付嬢に選ばれたという強者だ。 1人目もそこそこの綺麗所で2人目が更に美しい派遣社員となると、周囲にちょっとしたどよめきが起こっても致し方のないことだろう。 正直ぬぼーっとした相馬もきれいな人だなぁ~と内心素直に喜んだ。 だが素直に喜んだだけだ。 ここが重要で周囲がどよめいた理由とは少し違っていた。 そう、残念ながら? 年頃の男子にありがちな下心はなかったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ ――― 二兎を追う者は一兎をも得ず ――― さて、大手ハウスメーカーの顔であり花形の受付嬢を射止めたというのに魚谷は何故にそちらを辞めて三居建設(株)に来ることになったのか。 魚谷は大学卒業後メガバンクへ一般職で入行した。 総合職も視野に入れていたものの、早く結婚して家庭に入りたかった魚谷はキャリアを積めるチャンスを自ら捨てた。 それでも社風は風通しがよく働きやすさと福利厚生が手厚いというのもあり寿退社するまでは働くつもりでいた。 けれど社内での恋愛でつまずき思いもよらず、3年で辞めることになってしまう。 モテるが故の苦悩というものだろうか!? 二股が原因だった。 早くどちらか1人に決めなければと思いつつもズルズルと付き合い続け、結局は両方からそっぽを向かれてしまい職場に居づらくなってしまったというのがことの顛末だった。
72 ただ気のせいか失敗が続いてから、以前よりも話し掛けられる回数が減ったかもしれない。 そう思い始めると居てもたっても居られなくて、夜になると涙が零れた。 毎日異性と一緒に仕事をするなんて初めてのことで、しかもその相手が自分から見ると神々しくて眩しい存在へと時間と共に大きく変化してしまい、そんな自分の感情を持て余しオロオロしてしまうばかり。 眩しい存在だと認識しているくせに親しくなりたいという想いが日に日に強くなり、反して現実はというと、彼とはお茶を誘われるどころかちょっとした雑談さえ交わせてなくて寂しさは募るばかり。 そんなふうに悲しい独り相撲をしていた槇原は妄想して苦しくなる毎日を手放す決心をするのだった。 家族の病気を理由に辞職を申し出て1週間後に逃げるようにして辞めた。「相馬さん、急に辞めることになってすみません」「あぁ、大丈夫だから。 派遣会社から次の人をすぐに紹介してもらえるみたいだから、心配しないで。おかあさんだったかな? 看病大変だろうけど頑張って下さい。 また派遣業務に戻ったら一緒に働く機会があるかもしれませんね。 その時はまたよろしく。今日までありがとうございました」「あ、こちらこそお世話になり、ありがとうございました」 最後までやさしい相馬に、槇原の胸はやさしくされたことへのうれしさが1割、自分らしさを発揮できないまま去って行くことへの寂しさが9割だった。 ◇ ◇ ◇ ◇ こうして相馬は補佐してくれる人を本格的な夏が来る前に失った。
71 配属先では相馬さんという男性《ひと》の事務補佐をすることになった。 感じのいい男性《ひと》でおまけに同い年だったので、第一印象は 『良かったぁ~』だった。 そこから彼が私の気を引こうとしたりするような素振りもなく、普通に 事務的に接してくれたのに、私のほうがだんだん意識するようになり 大変だった。 ――――― 相馬という人物は目は少しタレ気味でくりんとした子供っぽさを 残しており、それに反してガタイのほうは背が高くほどよく細マッチョで スラリとしている。 声質はイケボ―で電話越しに聞いたなら、どれほどの女性を虜にしてしま うだろうか、というほど良い声帯を持っていた。――――― 相馬さんの隣に私の席が置かれ、互いの仕事がスムースにいくよう配慮 されていたのだが、これが一層意識し始めると良くなかった? 気になる人と毎日顔を合わせ、業務上のこととはいえ言葉を交わすのだ。 周囲に恋ばなのできる相手もおらず、ひとりで悶々と恋の罠でもないだろ うけど……恋という蜜の中へとズブズブと嵌り込み身動きが取れなくなった。 あまりに苦しくてお酒の力を借りたら平常心でいられるかもと、朝、 チューハイを飲んで出勤したこともあったけれど……駄目で、どうして こんなにも自分は自意識過剰体質なのかと泣きたくなった。 あれほど仕事頑張ろうって思っていたのに。 そんな状態だったから仕事も上の空になり失敗を何度か繰り返して しまった。 そんな時でも相馬さんは嫌そうな顔もしないし、素振りさえ見せなかった。
70 登録している派遣会社からここ建築関係の企業に派遣されてきた29才という 中途半端な年齢の槇村笙子《まきむらしょうこ》が、どのような経緯でここに 流れ着いたのか。大学の単位不足が原因で留年してしまい、上手く就活に乗れず、 派遣社員として働いてきた。 これまで正規雇用の仕事も何度か面接にトライしてきたものの、 採用までには至らず。 三居建設(株)に入社する前の勤務先は居心地がよくて7年勤めた。 そちらは周りの男性たちがほとんど既婚者ばかりで出会いもなく 結婚の予定もないという状況で、あと1年もすれば30の大台に乗りそうな 勢いに焦りを持ち始めた頃、ちょうどよかったと言うべきかなんと言うべきか、 親切でやさしくしてくれた上司が異動になってしまい、新しい上司がやってきた。 そしてその上司とあとひとり、隣の課である工営二課の臨時社員のおばさまが 自分のいる工営一課に異動になった。 自分はその新しい上司とは何気に反りが合わず冷たくされ、また二回りは離れ ていそうな臨時社員おばさま、森悦子女子とは別々の課だった時には良好な関係 だったのだが同じ課になった途端、自分に冷たい態度をとるようになり、そのよ うな状況の中彼女は新しく異動で来たその上司とすぐに懇意になった……いや、 取り入ったというべきか! 自分はそれまで課に1人しかいない女性ということで周囲から甘やかされていた のだけれど、それは異動でいなくなった上司が可愛がってくれていたからなんだ とあとから思い知った。 新しくきた上司が自分に冷たいとそれまでやさしかった周囲が同じようによそよそしくなっていくのが手にとるように分かったからだ。 だって、自分は皆に何もしてない、今まで通り。 ただ上司に可愛がられなくなっただけ。 人間不信に陥りそうだった。 それですっぱりとその住宅サービス(株)を辞めることにした。 するとすぐに派遣会社から三居建設(株)を紹介され 『こちらの会社は将来正規雇用の道もあるので槇原さんどうでしょうか、 いいと思いますよ』 と勧められたのをきっかけにこちらに転職したのだった。
69 自分の仕事を覚えてもらおうと相馬は一生懸命最初の1ヶ月かかりきりで 槇原にレクチャーした。 それに応えるように柔らかい物腰で大人しい感じの槇原は、時には 質問などをし、熱心に仕事を覚えようとしてくれた。 彼女が育ってくれてできる限り長期に亘り自分を補佐してくれたら こんな有難いことはないと、うれしく思っていたのに……。 ある日を境に槇原はミスを頻発するようになり『あれっ?』と 思うようなことが増え始めた。 自分としては怒るようなことはせず、丁寧にどうしてミスに繋がったのかを 説明し、気にしないようフォローしたつもりだった。 けれどその頃から気がつくと彼女とのやりとりで 『はい、いいえ、わかりました』 という短い言葉の遣り取りしかないことに気付いてしまう。 そしていつも悲し気な表情でいることにも。 気付いてしまうと 『もしかして、自分は避けられているのだろうか……』 そんなふうに思えてきて、相馬のほうも業務以外での声掛けがしずらく なってしまい、ますますふたりの距離が離れていった。 自分としては彼女に避けられるようなことをした覚えがなく、この先仕事を 一緒にやるのなら、どこかで一度ゆっくりと親交を深めるための場を作ったほう がいいのだろうなぁ、などと漠然とした思いでいたのだが、残念なことにその必要 はなくなったのである。 ◇ ◇ ◇ ◇ 本人から直接ではなく、上司から 『槇原さんが病気の家族を看護するために急ではあるが辞めることになった』 と聞かされたのだ。 それを聞いた時、相馬の反応はシンプルに『あちゃ~』だった。『あちゃ~』には、いろいろな想いが込められていた。 続けてもらいたいと思うからこそのあーでもない、こーでもない、の想いや葛藤もあったが、辞めてゆく人に何も届かないのだから、いや届けられないのだから、もはや……『何をか言わんや』の境地というものだ。 それだからそのあとには、盛大なため息しか出てこなかったのである。
68 この日、花は自分と一緒に仕事をすることになった相馬綺世という人物がどう やら異性を惹きつけるフェロモンを出している所謂モテ男だということを知った。 顔立ちは言われてみればそこそこ整っていた……よね、と相馬の顔の造形を 思い返してみる。 あっ、背も高かったっけ。『親しくなったら一緒に話せるように誘うね』って言ったものの、自分も 仕事で係わるから業務内容のことで話を交わしているだけなので 遠野や小暮の立ち位置とさほど変わりないことに気付いた。 あぁ、安請け合いしたことが今更ながらに恥ずかしい。 でもまぁ、彼女たちの願いは付き合いたいとかっていう大きな野望じゃ ないので急がなくてもいいだろうし、とにかく自分は仕事面でちゃんと 補佐できるよう頑張ろう。 その内仕事を通して少しは親しくなれるだろう。 そうなったときに彼女たちに楽しく話せるよう、相馬との時間を セッティングすればいいだろうと花は考えた。 ◇ ◇ ◇ ◇◇相馬綺世の艱難《かんなん》 当時、29才で若手現場監督になり、事務仕事の補佐する人員を付けて もらえるようになった相馬の元へ派遣先からやって来たのは同じく29才 の槇村笙子《まきむらしょうこ》だった。 同じ学年ということでほっとしたのを記憶している。 仕事をする分には年齢の差はさほど重要ではない。 だが仕事を離れてちょっとした会話をするとなるとそこはやはり 共通の話題を振りやすいことにこしたことはないからだ。