All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

ひやっと背筋が凍るような冷や汗が出た。智哉は彼を横目で睨みつけ、冷たい声で言った。「集中しろ。俺のことは俺が決める」「はい」「あの女の居場所は分かったか?」「今のところまだです。元々は裕子(ゆうこ)という名前でしたが、これだけ見つからないということは改名している可能性が高いかと......」「引き続き捜査を続けろ。佳奈には近づけるな」智哉は確信していた。佳奈が一年以上も行方不明になっているのは、きっとあの女に関係があるはずだ。そうでなければ、佳奈があの女をそれほど憎むはずがない。その日の夜、智哉は母親からの執拗な着信に応じて実家へ戻った。顔を合わせるなり、高橋夫人は一束の書類を彼に投げつけ、冷ややかに詰問した。「佳奈のために太陽光発電のプロジェクトを私から奪うのはまだしも、なぜ他のプロジェクトまで奪うの?独断専行するつもり?」智哉は一切の情けを見せずに答えた。「なぜそうしたのか、お母さんにはわかっているはずでしょう」「佳奈を追い詰めたからって......あの子がそんなにいいの?何がそんなにいいのか、そこまで執着して、何度も私に逆らって忘れないで。あの子の母親がどんな女だったか。高橋家にそんな女は入れられないわ」智哉は長い脚を組み、咥えたタバコを深く吸い込んでは吐き出した。その深い瞳には、明滅する火が揺らめいていた。「言いましたよね。もし佳奈や藤崎家に手を出すなら、簡単には済まないって。お母さんが私の言葉を真に受けず、独断で動いたんでしょう。来週、父さんと姉さんが帰ってくる。その時間を使って、夫婦関係を修復したほうがいい。でないと、高橋夫人の座も危うくなりますよ」「智哉、私はあなたの実の母親よ。息子がこんなことを......私たちの離婚を望んでいるの?」智哉の表情が一変した。「父さんが祖母との約束で、お母さんを見捨てないと決めていなかったら、とっくに離婚していたはずです。姉さんと私も、あなたたちの喧嘩を見て育って、自分たちの結婚生活にまで影響が出ている」高橋夫人は怒りのあまり、テーブルの上の茶碗を床に払い落とし、智哉を指差して罵った。「智哉、あなたも、あなたのお父さんも、高橋家の人間は皆同じ。私をこの家から追い出そうとしている。忘れないで。あの時、あなたの祖母がお父さんを救わなかったら、高橋家
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第62話

高橋夫人の目に一瞬の動揺が走ったが、すぐに平常心を取り戻した。「何をおっしゃるんです。美智子はあの子を守るために事故で亡くなったんです。偽りなんてあり得ません。美桜は顔立ちも血液型も遠山聖人(とおやま まさと)そっくりです。彼の前でそんなことを言わないでください。あの人の子煩悩ぶりといったら、家族だって敵に回しかねません」「誰が家族だって?当時、遠山家は智哉が目が見えなくなって、足も不自由になったのを見て婚約解消を持ちかけてきた。あの時にきっぱり縁を切っておけば、美桜が孫に付きまとうこともなかったのに」高橋夫人の声は随分と柔らかくなっていた。「お母様、この縁談は智哉が幼い頃に自分で選んだんです。家族の長老の前で、大きくなったら美智子のお腹の中の妹と結婚すると言ったんです。約束は守らなければ......」高橋お婆さまは冷笑した。「当時まだ4歳だったのよ。何がわかるっていうの?ただ一緒に遊ぶ妹か弟が欲しかっただけ。あなたのお腹の子さえ無事だったら、遠山家まで行くことなんてなかったはずよ」この話題に触れられ、高橋夫人の表情が曇った。「お母様、私も故意じゃなかったんです。あの子のことで、遠川は今でも私を許してくれなくて、外で女遊びばかりして、私と一緒にいることさえ......」高橋お婆さまは彼女の苦しそうな様子を見て、これ以上古傷を掘り返すまいと思った。「もういいわ。これからは出自のことで佳奈の入籍を邪魔するのはやめなさい。忘れないで、あなたの出自の方が彼女より下なのよ」その一言で高橋夫人は完全に言葉を失った。彼女の生い立ちは常に彼女の急所だった。父親は博打に溺れ、母親への暴力が絶えなかった。後に過失傷害で投獄された。母親も体が弱く、数年後に他界した。でも高橋征爾(たかはし せいじ)は一度も彼女を蔑んだことはなかった。正確に言えば、林田玲子(はやしだ れいこ)を蔑んだことは一度もなかった。その名前を思い出すと、高橋夫人の目に憎しみが宿った。——月曜の朝。佳奈がオフィスに着くと、石川さんが荷物をまとめているところだった。彼女は冷ややかな表情で近づいた。「石川さん、私を裏切ったこと、一度も後悔したことはないの?」石川さんの蒼白い顔がゆっくりと上がり、その目には隠しきれない憎しみが浮かんでいた。「
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第63話

両手を強く握りしめた。美桜が黙っているはずがない。あの録音は、彼女を刺激する最高の武器だ。考えるまでもない。今頃、会社中の人間が智哉との公にできない関係を知っているはずだ。副秘書が傍らに寄り、そっと彼女の腕を引いた。「藤崎秘書、私たち皆さんあなたを信じています。きっと何か誤解があるはずです」佳奈は苦笑いを浮かべた。「誤解なんかじゃありません。彼女の言った通りです」智哉が自ら言ったことだ。嘘なんてあるはずがない。隠そうとしても、隠せるわけがない。出社する前から、覚悟はできていた。でも、実際にこの問題に直面すると、やはり胸が痛むのだった。智哉への7年の想い、3年の寄り添い合い。まさかこんな形で露見するとは。かつて空想していた。智哉が皆の前で、彼女を恋人だと認め、将来妻にすると宣言する姿を。夢見る心が大きければ大きいほど、現実は残酷なものになるのだと。佳奈は何でもないかのように笑って、小声で言った。「仕事しましょう。土曜日はグループの周年記念式典です。この数日は残業になりそうですね」高木は入口に立ち、先ほどの一部始終を録画していた。戸惑いの表情を浮かべながら、智哉に見せた。「社長、今、会社中がこの件について噂しています。石川さん以上にひどい言葉も......本当に放っておくんですか?」智哉は画面の中の佳奈を見つめ、スマートフォンを握る指先が白く変色していた。佳奈は彼の目には、柔らかく従順なペルシャ猫のように映っていた。しかし、その骨の髄まで、誇りと強情さが染み込んでいる。今のように自分を卑下することなど、これまで一度もなかった。たとえ彼が目的があって近づいてきたと疑った時でさえ、誇り高く背筋を伸ばして反論した。今のように、一見平然と受け入れるようなことは、一度もなかった。智哉の深い瞳には、言葉にできない感情が渦巻いていた。冷たい声で言った。「伝えろ。誰であれ、これ以上一言でも言えば、即刻クビだ」高木は彼に向かって親指を立てた。「さすが社長!すぐに伝えてきます。誰が噂話なんかできるものか」「佳奈を呼べ」「はい」数分後、佳奈はノックをして入室した。顔には一切の悔しさもなく、ただ事務的な表情だけがあった。「社長、何かご用でしょうか?」智哉はその漆黒の瞳で数秒間彼女を見
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第64話

佳奈は淡く笑った。「社長、それは夫人が決めたことです。私には口出しする権利はありません」その上、彼女にはその気もなかった。智哉は彼女の冷淡な顔を見つめ、目尻を上げた。「佳奈、今年の式典で誰を連れて行くかがどういう意味を持つのか、わかっているはずだ。なぜ嫉妬しない?」佳奈の声色は相変わらず波一つなかった。「社長、愛人にはそこまでの権利はありません。ベッドの相手として、お相手を楽しませることだけが私の役目。それ以外のことは、口出しする権利はないんじゃないですか?」彼女の言葉は穏やかで優しく聞こえたが、一言一言が針のように智哉の心を刺した。智哉は彼女を抱きしめながら、かつて佳奈が嫉妬した時の姿を思い出していた。彼が欲しいのは、あの時の佳奈であって、今のような従順で非の打ち所のない佳奈ではない。彼は佳奈の頭を優しく撫でた。「仕事が終わったら、一緒にドレスを試着しに行こう」「社長、私のドレスはもう選んであります。美桜さんとご一緒に行かれてはいかがですか」「佳奈、お父さんの体調が悪いんだろう。私たちの関係を知ったら、また具合が悪くならないと思うのか?」佳奈は譲歩をやめた。智哉は彼女の弱点が父親だと知っていた。淡々と答えた。「わかりました。行きます。まだ仕事が残っていますので、失礼します」彼女は智哉を押しのけ、背を向けて立ち去った。佳奈は一日中忙しく働き、ようやく午後6時に仕事を終えた。同僚と別れを告げ、一人で駐車場へ向かう。車に着いた途端、裕子が笑顔で駆け寄ってきた。「佳奈、ママずっと待ってたのよ。家に帰りましょう。ママがあなたの大好きな魚の煮付け作ってあげる」佳奈の手を掴もうとしたが、かわされた。「私には母はいません。7年前に死んだはずです」そう言って車に乗り込もうとした時、あの女が脅すように言った。「佳奈、4000万円くれないと、お父さんのところに行くわよ」佳奈は裕子の襟首を掴み、冷たい声で言った。「お父さんに近づいたら、殺すわよ」「あら、私の命なんてもうどうでもいいの?実の娘が私のことを認めないだけじゃなく、殺すだなんて」地下駐車場には同僚たちが行き来しており、この騒ぎに多くの人が注目し始めた。佳奈はこんな母親の存在を知られたくなかった。裕子の襟首を掴んだまま車に押し込
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第65話

実の母親なのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。父親を破産寸前に追い込み、心臓を痛めつけ、自分を重度の鬱病に陥れ、声まで失わせた。なぜこれほどの年月が過ぎても、まだ私たちを解放してくれないの。佳奈は泣き続け、どれくらいの時間が経ったのかもわからなかった。携帯の着信音で我に返った。すぐに感情を押し殺し、電話に出た。「佳奈、ドレスの試着に行くって言ってたじゃないか。どこにいる?」佳奈は平静を装って答えた。「私から行きます。もう半分くらい来ています」「わかった。入り口で待ってる」電話を切り、佳奈は化粧を直した。智哉にこのことを知られたくなかった。でも、自分の限界を過大評価していた。全身が震え、手足は氷のように冷たく、車を運転することなどできない。再び暗い淵に落ちていくような感覚。彼女の世界が再び暗闇に包まれようとしていた。全身の力が抜け、車の中でぐったりとしていた。どれくらい時が過ぎただろう。あの懐かしい声が聞こえた。かつて死の淵から彼女を救い出してくれた、あの声。「佳奈、俺だ。ドアを開けろ」佳奈は今ほど智哉に会いたいと思ったことはなかった。すぐにドアを開け、彼の胸に飛び込んだ。涙が一気に溢れ出た。だが一言も発せないうちに、意識を失ってしまった。「佳奈、佳奈!」智哉は運転席から彼女を抱き出し、冷や汗に濡れ、蒼白な顔をした彼女を見つめた。両手は氷のように冷たく、体は震えが止まらない。智哉は直ちに彼女を抱きしめ、大きな手で頭を優しく撫でた。温かい唇で、何度も彼女の額にキスを落とした。「大丈夫だ。家に帰ろう」佳奈はそのまま智哉に抱かれて車に乗せられ、彼の馴染みの香りと温かい体温を感じながら、少しずつ意識を取り戻していった。しかし智哉を抱く手は緩めることなく、すすり泣きが続いていた。「私は誘惑なんかしてない。私は安い女じゃない」泣きながら、体を震わせて言った。その言葉を聞いて、智哉は佳奈の異常な様子に理由があることを悟った。すぐに高木に指示を出した。「調べろ。彼女が誰と会っていたのか」智哉は佳奈を家に連れ帰り、風呂に入れ、髪を乾かしてやった。しかし始終、佳奈は一言も発しなかった。ただ静かに部屋に座り、虚ろな目をしていた。そんな佳奈を見て
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第66話

智哉の体が硬直した。顔から優しい表情が一瞬で消え去った。彼女の口から、二度目のその人の名前を聞いた。毎回こんなにも親しげに呼びかける。平静を装い、何も聞こかなかったふりをしようとした。その人を佳奈の人生から消し去りたかった。だが男の強い独占欲が理性を失わせた。他の男が佳奈の心の支えになること、彼女が夢の中で自分以外の名を呼ぶことを、耐えられなかった。智哉の瞳が次第に深く沈み、ついに感情を抑えきれなくなった。佳奈の唇に顔を寄せ、低い声で言った。「いいよ。キスさせてくれたら、行かない」そう言うと、佳奈の反応を待たずに唇を奪った。このキスには強い独占欲が込められ、強引で狂おしかった。佳奈は乱暴な動きで目を覚まし、潤んだ瞳で智哉が唇を好き勝手に貪るのを見つめた。智哉はゆっくりと動きを止め、鼻先で佳奈の頬を撫で、魅惑的な声で囁いた。「佳奈、したくなった。いいか?」そう言いながら、大きな手が佳奈のパジャマの中へ忍び込んだ。熱い唇が佳奈の耳先を噛んだ。喉から熱い砂を含んだような声で。「佳奈、この苦しみを忘れさせてやれる。試してみるか?」佳奈の硬くなっていた体が、智哉の愛撫で蕩けていく。白い肌が魅惑的なピンク色を帯びていった。頭の中は智哉の言葉で満ちていた。苦しみを忘れさせてくれると。あまりにも辛くて、もうあの深淵に落ちたくなかった。智哉の方法を試してみたかった。佳奈は両手で智哉の頭を抱え、掠れた声で呼んだ。「智哉」別れ話以来、こんなに親しく彼を呼んだことはなかった。智哉はその声に、手の動きを一瞬止めた。その深い黒瞳には抑えきれない欲情が満ちていた。突然笑みを浮かべ、掠れた声で言った。「佳奈、もう一度」佳奈は素直に応えた。「智哉」智哉の喉仏が何度か上下し、佳奈の柔らかな肌に噛みついた。この夜は狂おしいものとなった。智哉は佳奈と何度も愛の海に溺れていった。まるで昔に戻ったかのよう。佳奈の目に自分だけが映っていた、あの頃に。彼は何度も何度も佳奈の体を奪った。彼女が泣きながら許しを乞うまで。散々に愛し尽くされ、甘い眠りについた佳奈を見つめ、智哉は口元に笑みを浮かべた。佳奈の唇に軽くキスをして、低い声で囁いた。「佳奈、これからもずっとこうしていいか
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第67話

智哉はそう考えると、目の奥の殺気がさらに増した。「クビにしろ。二度とここに現れさせるな」「はい、すぐに手配します」翌朝、佳奈が目を覚ますと、智哉の整った顔が目に入った。男は上半身を露わにし、腕で彼女をきつく抱きしめていた。佳奈の脳裏に昨夜の光景が次々と蘇った。智哉と体を重ねた。しかも何度も。彼女が昂ぶった時、智哉は彼女に色っぽい言葉をたくさん言わせた。今思い出しても、顔が赤くなるような言葉ばかり。佳奈には智哉がなぜこんなに色気を帯びるようになったのか分からなかった。認めざるを得ない。昨夜は彼の色気に魅了され、確かに心地よかった。裕子がもたらした苦しみを忘れ。智哉と共に溺れていった。佳奈はゆっくりと智哉の腕を外そうとした。半分ほど外したところで、頭上から甘い低音が聞こえた。「使い終わったら逃げるつもり?」佳奈は急いで顔を上げ、朦朧とした睡眠の残る智哉の深い瞳と目が合った。まつげを何度か震わせ、小声で言った。「朝ごはん作りに......」智哉は長い指で彼女の顔を優しく撫で、唇に笑みを浮かべた。「そうだな、豪華な朝食を作ってもらわないと。昨夜お前を喜ばせようと、腰が砕けそうだったからな」そう言いながら、大きな手が佳奈の体を意地悪く撫で回した。佳奈は逃げ出そうとして慌てた。「智哉、離して」彼女は起き上がろうとして身をよじった。朝一番の智哉が最も危険だということを、彼女は知っていたから。智哉は彼女を放すどころか、さらにきつく抱きしめた。喉から低い声が漏れた。「もっと動くなら、朝食はなしだ。お前を食べる」その一言で、佳奈は身動きを止めた。智哉の体の反応を感じていたからだ。佳奈は抵抗を諦め、智哉の腕の中で大人しく横たわっていた。まるで従順な子猫のように。智哉は長い指で彼女の鼻先を軽く弾き、笑って言った。「ずっとこんな素直だったらいいのに」彼は彼女の額にキスをし、熱い視線を向けた。「周年記念式典で、お前にサプライズがある」朝食を済ませると、智哉は佳奈を連れてドレスショップへ直行した。店長は二人を見るなり、笑顔で迎えた。「社長、ご注文のドレスが用意できております。こちらへどうぞ」智哉は佳奈の頭を撫で、口元に笑みを浮かべて彼女を見た。「試着してきて。ここで待っ
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第68話

佳奈はドレスに着替え、鏡の前に立つと、映る自分の姿に息を飲んだ。このドレスは彼女の大好きなスターライトブルー。ストラップレスで、後ろ姿は背中が開き、細いリボンで固定され、リボンの結び目には生きているかのような青い蝶が添えられていた。裾はフロアレングスで、ブルーのシフォンには所々にダイヤモンドが散りばめられている。ダイヤモンドは照明に照らされ、虹色の輝きを放ち、まるで夜空に瞬く星のよう。店長は思わず感嘆の声を上げた。「社長のお目が高い。このドレスは藤崎さんの雰囲気にぴったりです。優雅で気品があり、けれども派手すぎない。まるで天から舞い降りた天女のよう」裕子のことで乱れていた佳奈の心は、このドレスの素晴らしさに心を奪われ、暗い気持ちが吹き飛んでいった。スカートを持ち上げ、口元に笑みを浮かべ、智哉に見せようと振り返った時。見慣れた二人の姿が目に入った。高橋夫人が美桜の腕を取り、母娘のように親しげに笑いながら近づいてきた。美桜は佳奈のドレス姿を見て、目を見開いた。高橋夫人の腕を揺らしながら甘えるように言った。「おばさま、藤崎秘書のドレス、とても素敵ですね。私も試着してみたいです」高橋夫人は佳奈の魅力的な姿を見て、表情が曇った。「一秘書が派手すぎる。誰を誘惑するつもり?」佳奈の笑みを含んでいた瞳は、その言葉を聞いた途端に冷たくなった。高橋夫人との因縁は深かった。証拠となる映像を消させ、美桜への傷害罪で彼女を陥れようとした。父親を自殺に追い込もうとさえした。それを思い出すと、佳奈の心の中の冷たさは増していった。彼女は整った顔を上げ、唇に美しい弧を描いた。「もちろんあなたの息子ですよ。高橋夫人、分かっていながら聞くんですか?」高橋夫人はその言葉に胸を痛め、歯を食いしばって言った。「佳奈、あなたは智哉の愛玩動物よ。飽きたら捨てられる。こんな立派なドレスを着る資格なんてない。美桜に譲りなさい」佳奈は侮辱的な言葉に対しても、笑顔を崩さなかった。「あなたの息子が私のために特注したものです。私が要らないとしても、美桜さんが着て似合うと思いますか?」軽蔑的な目で美桜を上から下まで見渡した。平らな胸元に視線を落とし、冷笑を浮かべた。「美桜さんは、パッドを何枚も入れないとこのドレスは着られない
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第69話

店長は躊躇いを見せたが、高橋夫人が社長の母親だけに、逆らうことはできなかった。仕方なく佳奈の方へ歩み寄った。佳奈のドレスに手を伸ばそうとした瞬間、背後から低く落ち着いた声が聞こえた。「そんなに気に入ったのか?」智哉は長い脚で佳奈の傍らまで歩み寄った。温かい手のひらを彼女の露わな腰に添え、軽く撫でながら、意味深な笑みを浮かべた。佳奈は先ほどの美桜への強気な態度とは打って変わって、自信なさげな様子に。智哉の目には、美桜が常に自分より上位にいることを知っていたから。彼女が何を言っても、何を望んでも、智哉は無条件で美桜を信じ、望みを叶えてやるのだから。佳奈は指先を軽く丸め、まつげを震わせた。「もし私がそうだと言ったら、それでも社長は美桜さんに譲れと言うんですか?」澄んだ瞳には、意地っ張りな性格と悔しさが隠しきれずに映っていた。まっすぐに智哉を見つめて。傍らの美桜はすかさず笑顔で言った。「智哉兄、周年記念式典で私、ピアノを弾くんです。あなたの好きな『月光』を。このドレス、曲にぴったりなんです。藤崎秘書さんに譲っていただきたいんです。どうせ主役じゃないんですから、そんな華やかな装いは必要ないでしょう?」高橋夫人も同調した。「美桜の言う通りよ。藤崎秘書は一社員なのに、私以上に派手な格好をして。メディアに誤解されたらどうするの?美桜に譲って、藤崎秘書には私が別のを選んであげるわ。費用は私持ちで」智哉は平然と佳奈を見つめ、感情の読めない声で言った。「彼女たちの言い分にも一理あると思うが、どう思う?」佳奈は強く拳を握りしめた。先ほどドレスを着た時の喜びが、今は痛みに変わっていた。やはり智哉に期待を寄せすぎてはいけない。皮肉めいた笑みを浮かべて。「社長がそうお考えなら、私の意見など必要ないでしょう」そう言って、試着室へ向かった。鏡の前に立ち、自分の目が徐々に赤くなっていくのを見つめた。智哉の優しさは、ただの気まぐれに過ぎなかったのだ。佳奈は素早く感情を整理し、ゆっくりとドレスを脱ぎ始めた。美桜はこの展開に、これ以上ない満足感を覚えた。佳奈に勝っただけでなく、欲しかったドレスまで手に入れられる。智哉の腕を取って笑顔で言った。「智哉兄、ご安心ください。パートナーとして、私きちん
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第70話

佳奈は呆然として、智哉を見上げた。「今、何て?」智哉は彼女の白く輝く頬を摘まみ、茶目っ気たっぷりに言った。「お前のものだから、お前のオフィスに届けるに決まってるだろう。他のとこに届けるわけないだろ」その言葉に美桜は目に涙を浮かべた。「智哉兄、試着すら許してくださらないんですか?」智哉は眉を上げて彼女を見て、のんびりとした口調で言った。「これはお前には合わない。他のを見てみろ。代金は俺の口座で」そう言うと、美桜の反応を待たずに、佳奈の腰を抱いて階下へ向かった。二人の親密な後ろ姿を見て、美桜は悔しそうに泣き出した。「おばさま、智哉兄、まさか藤崎秘書をパートナーにするつもりじゃ......私はどうすれば......」高橋夫人は涙を拭いてやりながら慰めた。「安心なさい。高橋家の若奥様の座はあなたのものよ。今回の式典でしっかり見せれば、智哉もあなたの良さに気付くわ」美桜は見た目は悲しそうに高橋夫人の肩で啜り泣きながら、目の奥には憎しみの色が浮かんでいた。佳奈はまだ現実感が掴めないまま、智哉に車に連れ込まれた。以前のように、智哉が無条件で美桜の味方をすると思っていたのに。まさかこんな展開になるとは。彼女は少し戸惑っていた。認めざるを得なかった。この瞬間、彼女の心は揺れていた。感情を隠すため、車に座ると外ばかり見つめていた。智哉は彼女の顎を掴んだ。強引に顔を向かせ、「窓の外が俺より面白いのか?」彼は彼女の唇を噛んだ。佳奈は痛みで呻いた。「智哉、犬みたい」「俺を見ないからだ」彼は佳奈の後頭部を押さえ、報復のようにキスを深めた。頭の中は佳奈のドレス姿でいっぱいだった。妖艶で、セクシーで、そして誘惑的な純真さを持っていた。佳奈がこれほど華やかなドレスを着るのを見たのは初めてだった。認めざるを得なかった。あの瞬間、彼は心を奪われていた。この女を手放したくなかった。彼女の美しさを他の男に奪われるなんて耐えられない。智哉のキスは強引で支配的で、強い独占欲に満ちていた。吐息が佳奈の顔にかかり、すぐさま熱が広がった。しばらくして、ようやく佳奈から離れた。彼女の赤くなった目尻を指先でそっと撫で、低い声で言った。「周年記念式典で、最初のダンスを俺と踊れ」佳奈はまだ激しいキスの余韻か
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