刺繍工房の件は、批判的な声もあれば理解を示す声もあったが、結果としてそれが更なる反響を呼ぶことになった。工房が正月明けに開設できる運びとなったのは、有田先生の監督のもと、手続きが早々に整い、道枝執事が物資の調達を担当したおかげだった。「足りなくなったら、私に言ってくれればいいわ」紫乃が藩札を取り出し、気前よく申し出た。道枝執事は自ら買い出しには向かわず、兵部大臣・清家本宗の夫人に同行を依頼した。家具調度品、寝具類、台所用品、織機、様々な色の絹糸、刺繍針に布地、便器や痰壺に至るまで、考えられるものは何でも清家夫人が購入した。長年家政を取り仕切ってきた清家夫人と、王府の庶務を担う道枝執事の力が合わさり、わずか数日で必要な物品がすべて揃えられた。特注品については、正月明けに納品される予定となった。刺繍工房は「伊織屋」と名付けられ、深水青葉が直筆で書いた文字が看板に刻まれ、工房の門構えに掲げられた。庶民たちは伊織が誰なのか知らず、不思議がった。女性たちの避難所なのだから、「慈恵院」のような名前の方が相応しいのではないかと。しかし、すぐに真相が明らかになった。伊織とは、自害した将軍家の奥方・美奈子の苗字だったのだ。これを知った人々は深いため息をつき、もはや工房を非難する声は上がらなくなった。それどころか、「王妃様は本当に情に厚い方なのだな」という声さえ聞かれるようになった。美奈子が入水を図った時、王妃様が救い出したことは誰もが知っている。しかし、一度は救えても二度目は叶わなかった。だからこそ王妃様は、見放された女性たちのために刺繍工房を設立なさったのだろう。悲しい物語が背景にあると、人々の共感を得やすいものだ。もはやさくらや北冥親王を非難する声は消え、代わりに「なんと情義に厚く、度量の広いお二人だ」という賞賛の声が上がるようになった。普通なら、再婚した妻が前夫の家族と付き合うことなど許されない。それだけに、親王様のこの寛容さには誰もが感服せざるを得なかった。もっとも、称賛の声がある一方で、「身分をわきまえぬ愚かな」と批判する声もあった。陰暦12月23日の小正月の日、潤が学院から休暇で戻ってきた。親王家で一日を過ごしただけで、沖田家の者たちが迎えに来た。さくらは名残惜しく思いながらも、実家で待ち望んでいることは
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