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桜華、戦場に舞う のすべてのチャプター: チャプター 861 - チャプター 870

889 チャプター

第861話

親房夕美はこれまで、どんな大きな過ちを犯しても、必ず責任逃れをし、自分は無実だと言い張るか、やむを得なかったと言い訳をしてきた。しかし今回ばかりは、三姫子の言葉に反論せず、ただ止めどなく流れる涙を拭うばかりであった。三姫子は彼女を見つめながら、ため息をついた。この将軍家では、北條正樹はすでに官位を失い、妻も亡くなり、一日中部屋に引きこもったきりだ。北條森は才覚のない男で、武芸も学問もものにならず、期待などできなかった。次男家は関与しないと言い切り、本当に手を引いてしまい、むしろ塀を築き始め、将軍家を二分しようとしていた。結局、北條守だけが頼りになった。特別訓練の合間を縫って家に戻り、夕美の世話をし、家政の采配を取る。帳簿を確認してみれば、将軍家が本当に極貧状態であることが分かった。二時間ほど経った頃、孫橋ばあやが二百両を三姫子の元へ急いで届けに来た。息を切らし、足取りも慌ただしく、明らかに屋敷外から駆けつけてきた様子であった。三姫子はお紅からいろいろと事情を聞いた。美奈子が老夫人に装飾品を質に入れるよう頼んだものの、老夫人は断固として拒否し、そのことで美奈子を叱責したという。しかし今や自身の病の治療費用のため、老夫人は仕方なく装飾品を質入れすることにしたのだ。三姫子は足を運ぶことにしたものの、実のところ徒労に終わるとわかっていた。そのため、証人として孫橋ばあやを連れて行き、彼女には頭巾を被らせることにした。薬王堂に着くと、雪心丸を求めて身分を明かした。初めての来客ということで、医師が応対に出てきた。「お宅様のどなたが心の症でお困りなのでしょうか?雪心丸は丹治先生が直々に診察し、処方せねばなりません。西平大名夫人様、しばらくお待ちいただければ、丹治先生をお呼びして、西平大名邸まで同行させていただきますが」三姫子は言った。「まあ、そこまでご面倒なのですか?診察の結果、心の症でないと雪心丸はお買い求めできないということでしょうか?」「はい、その通りでございます。雪心丸は数に限りがございまして、本当に必要とされる方にお渡しするため、このような手順を取らせていただいております」当直の医師はそう答えた。三姫子は頷いて、「分かりました。では改めて日を改めて参りますわ」礼を言って孫橋ばあやと共に薬王堂を後にした。だが、店の丁稚
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第862話

北條守は思い切った措置として、かなりの数の下働きを手放すことを決めた。将軍家はもはや持ちこたえられる状況ではなかった。兄は官位を失い、次男家は分家し、自身の復職もいつになるか分からない。収入が途絶えた今、支出を抑えるしかなかった。通常、貴族や勲功家の邸では下働きを手放すようなことはしない。屋敷内には人に知られたくない様々な秘事があり、下働きが良家に仕え直すならまだしも、そうでない場合は恨みを抱いて、内々の醜聞を暴露しかねないからだ。そのため、名家ではこのような行為を最も忌み嫌った。だが今や、将軍家に隠し立てすることなど残っているのだろうか。北條守はもはや気にかけなかった。最も酷い呪詛の言葉が日々民衆の口の端に上っている今、何を恐れることがあろう。家政を任されて初めて、米の貴さを知る。北條守は今、美奈子の立場が痛いほど分かった。まるで自分が美奈子になったかのようだった。今の彼の親房夕美に対する感情は複雑を極めていた。子を失った彼女を心配する一方で、美奈子との諍いに苛立ちも覚えていた。流産の件について問いただしたい気持ちはあったが、このような時期に傷口を広げては彼女を更に苦しめることになると懸念し、問うのを控えた。老夫人の容態は日に日に悪化し、医師の診立てでは年を越すことは難しく、もはや時間の問題だという。北條守は北條涼子に使いを立て、母の見舞いを促したが、彼女は戻ってこなかった。美奈子が亡くなった時も同様だった。縁起でもないと言って、今や将軍家が非難の的となっているこの混乱に巻き込まれるのを避けたのだ。北條老夫人の傍らには今や孫橋ばあや以外誰もおらず、まさに四面楚歌の有様だった。死と絶望は金箍のごとく、彼女の心を死への恐怖に縛り付けていた。冬至の日、一家団欒の食事もままならず、北條老夫人はもはや病床から起き上がることもできなかった。老夫人は孫橋ばあやの手を握りしめ、涙ながらに言った。「北冥親王邸へ行って、上原さくらを呼んでおくれ。私から話があるのだと」孫橋ばあやはため息をつきながら答えた。「老夫人様、王妃様はお見えにはならないかと......」「私が間違っていたと伝えておくれ......」老夫人は虚ろな目で、痩せこけて窪んだ顔はより一層酷薄に見えた。「私が、間違っていたと......」床際に座った孫橋ばあやは涙を
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第863話

清家本宗は声を荒げた。「たわけた話だ。拙者が男であることは明らかだが、男というものは、好き勝手が許され、正妻に側室と好きなだけ女を囲うことも許され、子なければ養子を迎え、重病に伏せば妻に看病させる。男がこれほど我が儘放題に振る舞っても天下は乱れぬというのに、どうして離縁された女が一つの住み処を得ることが、乱れの元になるというのか」「女に一筋の活路を与えることを、そなたたちは何故これほど恐れる?誰もが望んで選ぶ道ではない。追い詰められての末路だ。まさか、皆でそこまで追い込もうというのではあるまいな?もしそうでないのなら、何を恐れる理由があろう?」清家本宗の発言には明確な意図があった。妻からの指示通り、親王様への全面的な支持を示すためだった。さくらも朝議の場で耳を傾けていたが、女性という立場上、発言は控えていた。女性の代弁者として発言すれば、より激しい反発を招くことは明らかだった。利害関係が立場を決めるのだから。たとえ弁舌さわやかであっても、一人では彼らの舌鋒に太刀打ちできまい。そこで彼女は待っていた。陛下からの言葉を待っていたのだ。案の定、影森玄武と清家本宗、そして群臣たちの議論が白熱する中、天皇が一度咳払いをし、さくらに目を向けた。「上原卿、そなたの意見を聞かせてもらいたい」さくらは、まるで突然名指しされたかのように、衆人の視線を集めながら、とぼけた表情を浮かべた。だが、すぐさま表情を引き締め、一歩前に出て、拝礼しながら答えた。「陛下にお答え申し上げます。私には格別な見識などございませんが、一人の女として、また、かつて離縁を経験した身として、些細な思うところを申し上げても良ろしいでしょうか。諸公にもお聞き入れいただけますでしょうか」おや、これは興味深い話になってきた。彼女の離縁の一件は誰もが知りたがっていた事柄だ。そのため、それまでの議論は一斉に止み、皆が彼女の言葉に耳を傾けた。さくらを敬愛する者たちは、胸が締め付けられる思いだった。さくら様が自ら心の傷を開こうとしているのだから。天皇の眼差しが柔らかくなった。「申せ」「女が嫁ぐということは、いわば第二の人生の始まりでございます。必ずしも豪奢な暮らしを望むわけではなく、夫の家と苦楽を共にし、運命を共にする覚悟でございます。ただし、夫の家が私どもを他所者として扱い、虐げ、
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第864話

さくらの声は大きすぎず小さすぎず、大広間の隅々まで届いた。「美奈子様のご逝去を、取るに足らぬことと思われる方もいらっしゃるでしょう。ですが、もしそれが皆様の姉妹や娘、親族であったなら?少しは心に響くものがございませんか?この殿にお集まりの方々は、皆、聖賢の書を読み、老いたる者や弱き者を憐れむ心をお持ちのはず。多くの女が離縁される理由は、重病や子を授からぬこと。本来、それは罪などではないはずです」さくらは物憂げにため息をつき、「女の命も、また命なのです。まさか、この世は彼女たちを根絶やしにせよとおっしゃるのでしょうか」「もしそれが皆様のご姉妹や娘、親族であったなら」という言葉に、多くの者は内心で舌打ちした。しかし「聖賢の書を読み、老いたる者や弱き者を憐れむ」という一言が、彼らの首に道徳の枷をはめた。これではもはや、どう反論すればよいというのか。反論すれば、彼らこそが非情な人間となり、女たちを根絶やしにしようとする者と映るではないか。これが男の口から出た言葉なら、まだ反論もしやすかっただろう。しかし、これは女の言葉。広間に女はさくら一人。しかも陛下の命で意見を述べたのだ。女たちへの深い悲しみと共感に満ちたその言葉に、どう反論できよう。反論すれば、それは彼女を虐げることにならないか。これほど大勢の官僚が、たった一人の女官を虐げるというのか。面目もないではないか。しかも彼女は自ら進んで喋り出したわけではない。陛下のお召しによる意見陳述なのだ。かくして広間は静まり返った。不服の色を浮かべながらも、もはやさくらに反論する者はいなかった。清和天皇はここぞとばかりに、時機の熟したのを悟った。もはやこの件を引き延ばす必要もない。あらゆる観点から見ても、これは必要なことだった。大燕国に先例があるのに、我が大和国が後れを取るわけにはいかない。「反対する者もいないようだな。ならば試しに始めることとしよう。朝廷からの出資はないが、刺繍工房は官の監督下に置かれる。女たちを売り飛ばしたり、虐げたりすることは許さん。彼女たちの稼ぎは彼女たちのものだ。もし北冥親王家がこれらの女たちを私利私欲のために利用し、金を稼がせようとしているのが発覚すれば、朕が真っ先に容赦せぬぞ」玄武は片膝をつき、「陛下の御仁徳、まことにありがたき幸せ。臣、深く恩賜を賜り感謝申し上げます
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第865話

翌日、夫婦で出かける前に、玄武はわざとらしく沢村紫乃に一緒に行かないかと声をかけた。紫乃は不思議そうな目で彼を見た。昨夜、さくらと二人きりで遊びに行くと言っていたではないか。尾張拓磨すら連れていかないと言っていたのに、今さら誘うなんて、ちょっとばかり芝居がかっているのではないだろうか。もっとも、誘われなくても行くつもりはなかった。暇を見つけては刺繍工房の工事の様子を見に行かねばならないし、現場を見守るのは間違いではない。それに、刺繍工房の監督が必要なければ、皇太妃様とお茶を飲みに行ったり、食べ歩きをしたりすればいい。都景楼や金鳳屋だって、素敵な場所ではないか。寒空の下、山に登って冷たい風に肌を切られでもしたら、どれほど楽しいものか分かるだろう。都景楼では、玄武がいくつか料理を注文した。真鯛の蒸し物、豚の角煮、ふかひれの上湯煮込み、菊花模様の豚ひれ肉の炒め物、帆立と青菜と豆腐の煮込み汁、それに海老の醤油煮も追加した。どれも基本的な料理で、特別な高級料理というわけではない。しかし都景楼は、そんな基本的な料理を極限まで美味しく仕上げることで知られていた。これから山に登ることもあり、寒い天気なので、燗酒も一本注文した。さくらは彼の好きにさせておいた。今日は全て彼に任せ、自分は普段以上に端麗な彼の姿を眺めることに専念した。白狐の大衣は脇の衣架に掛けられ、個室には炭火が焚かれ、心地よい暖かさに包まれていた。湖水色の佐賀錦には雲文様と波涛文様が織り込まれ、立襟に細身の袖、冠には翡翠の簪を差している。以前の小麦色の肌も今では随分白くなり、全体的に文官のような優雅な気品を漂わせていた。ただ、鋭い眉が鬢に連なる様だけが武将らしい凛々しさを残していた。さくらは突然、戦場で初めて彼に会った時のことを思い出した。まるで野人のように、顔中に乱れた髭を生やし、作戦を協議する際、何度も彼の髭に目が行き、あの髭はある長さまで伸びると枝分かれするのだろうかと考えていた。思わず吹き出し、「今のあなたと邪馬台で見たあなたが同じ人だなんて、本当に信じられないわ」「あの時の方が良かったんだ」と玄武は言った。「男はあれくらいでないと様にならない」「どちらも素敵よ。今のこの姿も素敵」さくらは手を伸ばして彼の頬に触れ、指先でそっと撫でた。かつての荒々しい感触は
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第866話

山を登れば登るほど、玄武は何かがおかしいと感じ始めた。天方十一郎が語った花々の咲き乱れる様子も、流れ落ちる滝もなく、ただ裸の木々と一面の銀世界が広がっているだけだった。この時期、滝も渓流も姿を消し、初冬から続く旱魃の影響が色濃く残っていた。雪景色が美しくないわけではない。ただ、辺境の地で過ごした時間が長かったせいか、雪景色にも少々飽きていた。もし渓流や滝があり、雪景色に溶け込み、高山に咲く冬の花々と調和していれば、それは別格の景色になっただろう。だが問題は、この山には冬に咲く花が一つもないことだった。笑ってしまうほどで、梅の木一本すら見当たらない。しかし、金万山の北斜面は急な傾斜が一面に広がり、雪に覆われ、障害物もない。そこなら雪滑りができそうだった。そこで玄武は計画を変更し、さくらと共に軽身功を使いながら駆け足で、北側へと横断した。山頂に着くと、玄武は息を整えながら興奮した様子でさくらに言った。「ここの景色も素晴らしいだろう?夕陽を待って、それを見てから雪滑りで降りようよ。すっごく楽しいはずだ」さくらは目を上げ、小さく頷いた。視界いっぱいに広がる純白の雪と、むき出しの枝だけの木々。確かに、壮大で寂寥感のある独特の美しさがあった。もう少し寒くなければ、だが。北風が刃物のように頬を切り裂き、耳は凍えそうなほどだった。外套の頭巾を被っていても、風は容赦なく中に吹き込んでくる。それでもさくらは微笑みながら言った。「いいわ、ここで夕陽を待ちましょう」師弟が珍しく風流な気分になっているのだから、その気持ちに寄り添い、喜ばせてあげたかった。今はおよそ申の刻。日没まで少なくとも一時間以上待たねばならない。それも、見られればの話だ。今の空は鉛色に沈んでいた。さくらは端麗な師弟を一瞥した。よし、命は預けたわ。ただ、雪滑りの話は冗談に違いないと思っていた。山の傾斜はかなり急だ。雪滑りには板が必要なはずだが、玄武は地形を確認し、雪面を踏み固めながら、外套を敷いて加速をつければ滑り降りられると考えた。邪馬台でもよくやったことだ。二人は山頂の雪の上に腰を下ろし、玄武はさくらを抱き寄せた。寄り添って温もりを分け合うためだ。寒さと強風のせいで、景色の美しさも温かな気持ちも感じられず、内力のすべてを寒さをしのぐことに費やしていた。
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第867話

まったく、腹立たしくも可笑しくもあった。さくらは足を引きずる玄武を支えながら、ゆっくりと山を下りていった。簪は失くし、髪は乱れ、雪に触れて濡れた髪が風で片側に吹かれ、大きな塊となって凍り立っている様は、まるで妖怪のようだった。顔は青あざに紫あざ、そして赤い擦り傷が混じり、幸い傷は浅く細かいものばかりで、寒さのおかげですぐに出血も止まった。額には鵞卵大の腫れが出来ており、見ていると可哀想でありながらも可笑しかった。武芸も、戦も、官吏の仕事も得意な彼なのに、遊びとなるとこれほど不器用とは。あまりに突っ走りすぎた。雪滑りなど、こんなやり方があるものか。世の人は皆、山を侮るなかれ、水を侮るなかれと知っている。ただ水の方が危険とされるがために、山を軽んじてよいという訳ではない。特に普段は雪に覆われず、厳冬の時だけ雪を纏う山は要注意だ。雪の下に潜む岩々が甘く見られようか。この地形は邪馬台とは違う。それに、戦の時のように鎧も身につけていない。玄武は極度に面目を失っていた。まさか、ただの雪滑りでこれほどの失態を演じることになろうとは。せっかくの休暇に二人で出かけ、共に過ごす時間を大切にして、年老いてから共に懐かしむような思い出を作ろうと思ったのに......ああ、確かにこれは忘れられない思い出になった。きっとさくらは一生この日のことを忘れないだろう。「足が痛むのでしょう?」さくらは、彼の足取りが次第に悪くなるのを見て尋ねた。「大丈夫だ」玄武は顔を背けながら言った。「実は支えなくても、自分で歩ける。お前にこうして支えられていると、まるで不具者のようじゃないか」さくらは手を離さず、甘えるような口調で言った。「いいえ、こうしてあなたにすがって歩きたいの」以前なら、玄武はさぞ喜んだことだろう。だが今は気力が萎え、惨めさは極限に達していた。足の痛みは耐え難く、おそらく骨にひびが入ったのだろう。でなければ、これほどの痛みはないはずだ。さくらに支えられて歩くと、少し力を借りられて楽になった。あの瞬間、なぜ両手で体勢を整えて飛び上がることができなかったのだろう。誇りにしていた軽身功を、どうして使えなかったのか。不測の事態に陥った時、まず頭に浮かんだのは、さくらに笑われるということ。その一瞬の遅れが、あの転がり落ちる結果を招いた
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第868話

有田先生に中庭の掃除を言い渡された拓磨が去った後、薬王堂から藍雀がやって来た。藍雀は丹治先生の六番目の弟子で、若くして医術に秀でていた。普段は薬王堂で診療に当たり、往診することは稀だった。今日の親王様の怪我に際し、丹治先生が特別に彼を寄越したのは、頭から足まで隈なく診察し、急所に怪我がないか確認するためだった。まだ若く子宝にも恵まれず、あの薬まで服用している身だ。丹治先生が心配するのも無理はない。恵子皇太妃と沢村紫乃が街歩きから戻ると、玄武が怪我をしたと聞いて、皇太妃は慌てて駆けつけた。藍雀が治療を施している傍らで、さくらが付き添っていた。皇太妃の姿を見るや、さくらは深々と礼をして「お義母様」と挨拶した。皇太妃は軽く頷き、すぐさま息子を探す目を向けた。帰府後まだ髪を整える暇もなく、逆立ったままの髪。青や紫のあざだらけの顔に、鵞卵大に腫れ上がった額。皇太妃は心配しながらも思わず笑みを漏らした。「まあ......一体どうしてこんな恰好に?山で雪見をすると言っていたではないの?」「お義母様、親王様が少々転んでしまいまして」とさくらは静かに答えた。「そう」皇太妃は息子の顔をもう一度見つめ、「随分とひどい転び方のようね」紫乃は部屋には入らなかった。有田先生が足の怪我を診る必要があると告げたからだ。袴を捲り上げねばならないとなれば、さくらの夫の素足など見るべきではない。「どうして府医を呼ばなかったの?」と皇太妃が尋ねた。「府医は本日外出しておりまして」とさくらは答えた。「そうね、やはり府医は二人は置いておくべきね」皇太妃は息子の腫れた足を見つめた。若い医師が包帯を巻いて固定している。「怪我の具合はどうなの?」「はい、皇太妃様。親王様は脛骨に亀裂が入っておりますが、大事には至りません。薬を塗り、十日ほど固定すれば概ね回復いたします。他は皮膚の怪我ですので、数日で治るでしょう。ただ、怪我をした足は当分水に触れぬようお気をつけください」と藍雀が答えた。さくらは感謝の思いを込めて、「承知いたしました。藍雀、ご親切に感謝いたします」と言った。藍雀は軽く頷き、小声で告げた。「王妃様、ご安心ください。先ほど親王様の脈を診させていただきましたが、他の箇所に異常は見られません」「他の箇所?」さくらは一瞬意味が分からず、「脈を診て確認する
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第869話

さくらは慌てて戻り、まず皇太妃をなだめながら外へと案内した。皇太妃は外でもなお言い続けた。「当たり前でしょう?夫婦になったのだから、何を恥ずかしがることがあるの?小さい頃は母に何でも話せたのに、今は話せないの?あの子が小さかった時なんて、あそこを蚊に刺されて、下着を脱いで母に薬を塗ってもらったこともあったのよ......」「母上!」部屋から玄武の怒鳴り声が響いた。さくらは急いで紫乃に皇太妃の相手を任せ、京江ばあやと紗英ばあやに湯を用意させ、自ら玄武の髪を洗うことにした。温泉に浸かることができないため、洗面所で椅子に座り、前かがみになってさくらに髪を洗ってもらう。足を濡らさないよう気をつけながら。自分の不甲斐なさを感じながらも、妻の指が頭皮を揉みほぐし、髪をなでさする感触に、恥ずかしさの中にも甘い幸せを覚えていた。自分を慰めるように考えた。この怪我がなければ、こんな贅沢な待遇は受けられなかっただろう。以前怪我をした時は、尾張が世話をしてくれていたのだから。髪を洗い終えると、さくらが髪を拭いている間、玄武はしばらくして憂鬱そうに呟いた。「母上があんなことを言って......気にしないでくれ」「ええ」さくらは分厚い木綿布で彼の髪を丁寧に拭きながら答えた。「もう何を仰っていたか覚えてないわ」玄武は沈んだ声で続けた。「今日はがっかりしただろう?昨夜話した時から、一晩中楽しみにしていたのに、結局何も見られなかった」さくらは微笑んで言った。「どうしてがっかりするの?私は梅月山で育ったのよ。山登りが大好きだもの。それに、雪山の景色は壮大で美しかったでしょう?それに、あなたと一緒にいられて......何もしなくても、ただ静かに座って話すだけでも楽しかったわ」期待していなければ、失望もない。山登りの話が出た時から、今日期待できるのは都景楼での食事だけだと分かっていた。「本当か?私と一緒なら楽しいって?」玄武が目を上げてさくらを見つめた。さくらはすぐに視線を逸らした。彼の額の瘤を見て笑いが漏れないよう、特に哀れっぽい眼差しと相まって、なるべく目を合わせないようにした。確かに、尾張が無邪気に笑ってしまったのも無理はない。普通なら堪えられないだろう。「もちろん本当よ」さくらは彼の後ろに回って髪を拭きながら、口元の笑みを抑えた。「目を見て
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第870話

恵子皇太妃は折に触れて先帝の話をした。時には先帝の優しさを語り、時には不満を漏らす。だが話すたびに、まるで成長を止めた少女のように、あどけない仕草を見せるのだった。彼女は後宮の争いの中で、最も憂いなく過ごせた妃であった。妃の位にありながら、陰謀に悩まされることもなく、仮に策略があったとしても彼女を標的としたものではなく、たとえ彼女を狙ったものであっても、太后が前に立ちはだかって守ってくれた。甘やかされて育ち、子を産み育てる時も甘やかされ、今では息子の妻に可愛がられ、何一つ心配することのない生活を送っている。それでも彼女は、心配の種を探しては悩み、淑徳貴太妃や斎藤貴太妃とのちょっとした張り合いごとに心を砕いた。勝てば足を跳ねて喜び、負ければ頬を膨らませて怒るものの、すぐに忘れてしまう。影森茨子と儀姫に謀られた時でさえ、ただ一時の憤りを見せただけで、すぐに忘れ去った。悪い感情に長く心を囚われることはなかった。そうして人生の半ばを過ごしてきた。今は孫を抱きたがっているが、本当に欲しいわけではなく、ただ淑徳貴太妃の息子である榎井親王に子供ができたから、自分も欲しくなっただけなのだろう。本心を言えば、本当に子供が好きなのだろうか。子供は泣くかわめくかのどちらかで、まだ子供の取り柄を見出せてはいない。ただ、淑徳貴太妃が持っているものは、自分も持たねばならないという思いだけだった。さくらは皇太妃の先帝についての話を暫し聞いた後、自室へ戻った。京江ばあやが玄武の額に卵を当てていた。効果はありそうで、以前より腫れは大きくなっているものの、鵞卵大から鴨卵のようになっていた。中央が瘀血で黒ずんでいたからだ。お珠が生姜菓子を持ってきて、玄武は二切れ食べた。さくらは彼女たちに夕餉の支度をするよう命じた。夕食を済ませた後、二人は寄り添いながらしばらく過ごした。さくらはようやく彼の顔をまともに見られるようになっていた。玄武は大きな手を伸ばしてさくらを抱き寄せ、深い眼差しで見つめた。「ここ数日、私のことを全く相手にしてくれないじゃないか。いつも寝るとすぐ眠ってしまう」さくらは笑いながら言った。「でも、あなたの足に骨折があるから、不都合でしょう」熱を帯びた指先がさくらの頬から眉骨へと這い、その瞳は深い海のように欲望に満ちていた。「別の体位も
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