まったく、腹立たしくも可笑しくもあった。さくらは足を引きずる玄武を支えながら、ゆっくりと山を下りていった。簪は失くし、髪は乱れ、雪に触れて濡れた髪が風で片側に吹かれ、大きな塊となって凍り立っている様は、まるで妖怪のようだった。顔は青あざに紫あざ、そして赤い擦り傷が混じり、幸い傷は浅く細かいものばかりで、寒さのおかげですぐに出血も止まった。額には鵞卵大の腫れが出来ており、見ていると可哀想でありながらも可笑しかった。武芸も、戦も、官吏の仕事も得意な彼なのに、遊びとなるとこれほど不器用とは。あまりに突っ走りすぎた。雪滑りなど、こんなやり方があるものか。世の人は皆、山を侮るなかれ、水を侮るなかれと知っている。ただ水の方が危険とされるがために、山を軽んじてよいという訳ではない。特に普段は雪に覆われず、厳冬の時だけ雪を纏う山は要注意だ。雪の下に潜む岩々が甘く見られようか。この地形は邪馬台とは違う。それに、戦の時のように鎧も身につけていない。玄武は極度に面目を失っていた。まさか、ただの雪滑りでこれほどの失態を演じることになろうとは。せっかくの休暇に二人で出かけ、共に過ごす時間を大切にして、年老いてから共に懐かしむような思い出を作ろうと思ったのに......ああ、確かにこれは忘れられない思い出になった。きっとさくらは一生この日のことを忘れないだろう。「足が痛むのでしょう?」さくらは、彼の足取りが次第に悪くなるのを見て尋ねた。「大丈夫だ」玄武は顔を背けながら言った。「実は支えなくても、自分で歩ける。お前にこうして支えられていると、まるで不具者のようじゃないか」さくらは手を離さず、甘えるような口調で言った。「いいえ、こうしてあなたにすがって歩きたいの」以前なら、玄武はさぞ喜んだことだろう。だが今は気力が萎え、惨めさは極限に達していた。足の痛みは耐え難く、おそらく骨にひびが入ったのだろう。でなければ、これほどの痛みはないはずだ。さくらに支えられて歩くと、少し力を借りられて楽になった。あの瞬間、なぜ両手で体勢を整えて飛び上がることができなかったのだろう。誇りにしていた軽身功を、どうして使えなかったのか。不測の事態に陥った時、まず頭に浮かんだのは、さくらに笑われるということ。その一瞬の遅れが、あの転がり落ちる結果を招いた
有田先生に中庭の掃除を言い渡された拓磨が去った後、薬王堂から藍雀がやって来た。藍雀は丹治先生の六番目の弟子で、若くして医術に秀でていた。普段は薬王堂で診療に当たり、往診することは稀だった。今日の親王様の怪我に際し、丹治先生が特別に彼を寄越したのは、頭から足まで隈なく診察し、急所に怪我がないか確認するためだった。まだ若く子宝にも恵まれず、あの薬まで服用している身だ。丹治先生が心配するのも無理はない。恵子皇太妃と沢村紫乃が街歩きから戻ると、玄武が怪我をしたと聞いて、皇太妃は慌てて駆けつけた。藍雀が治療を施している傍らで、さくらが付き添っていた。皇太妃の姿を見るや、さくらは深々と礼をして「お義母様」と挨拶した。皇太妃は軽く頷き、すぐさま息子を探す目を向けた。帰府後まだ髪を整える暇もなく、逆立ったままの髪。青や紫のあざだらけの顔に、鵞卵大に腫れ上がった額。皇太妃は心配しながらも思わず笑みを漏らした。「まあ......一体どうしてこんな恰好に?山で雪見をすると言っていたではないの?」「お義母様、親王様が少々転んでしまいまして」とさくらは静かに答えた。「そう」皇太妃は息子の顔をもう一度見つめ、「随分とひどい転び方のようね」紫乃は部屋には入らなかった。有田先生が足の怪我を診る必要があると告げたからだ。袴を捲り上げねばならないとなれば、さくらの夫の素足など見るべきではない。「どうして府医を呼ばなかったの?」と皇太妃が尋ねた。「府医は本日外出しておりまして」とさくらは答えた。「そうね、やはり府医は二人は置いておくべきね」皇太妃は息子の腫れた足を見つめた。若い医師が包帯を巻いて固定している。「怪我の具合はどうなの?」「はい、皇太妃様。親王様は脛骨に亀裂が入っておりますが、大事には至りません。薬を塗り、十日ほど固定すれば概ね回復いたします。他は皮膚の怪我ですので、数日で治るでしょう。ただ、怪我をした足は当分水に触れぬようお気をつけください」と藍雀が答えた。さくらは感謝の思いを込めて、「承知いたしました。藍雀、ご親切に感謝いたします」と言った。藍雀は軽く頷き、小声で告げた。「王妃様、ご安心ください。先ほど親王様の脈を診させていただきましたが、他の箇所に異常は見られません」「他の箇所?」さくらは一瞬意味が分からず、「脈を診て確認する
さくらは慌てて戻り、まず皇太妃をなだめながら外へと案内した。皇太妃は外でもなお言い続けた。「当たり前でしょう?夫婦になったのだから、何を恥ずかしがることがあるの?小さい頃は母に何でも話せたのに、今は話せないの?あの子が小さかった時なんて、あそこを蚊に刺されて、下着を脱いで母に薬を塗ってもらったこともあったのよ......」「母上!」部屋から玄武の怒鳴り声が響いた。さくらは急いで紫乃に皇太妃の相手を任せ、京江ばあやと紗英ばあやに湯を用意させ、自ら玄武の髪を洗うことにした。温泉に浸かることができないため、洗面所で椅子に座り、前かがみになってさくらに髪を洗ってもらう。足を濡らさないよう気をつけながら。自分の不甲斐なさを感じながらも、妻の指が頭皮を揉みほぐし、髪をなでさする感触に、恥ずかしさの中にも甘い幸せを覚えていた。自分を慰めるように考えた。この怪我がなければ、こんな贅沢な待遇は受けられなかっただろう。以前怪我をした時は、尾張が世話をしてくれていたのだから。髪を洗い終えると、さくらが髪を拭いている間、玄武はしばらくして憂鬱そうに呟いた。「母上があんなことを言って......気にしないでくれ」「ええ」さくらは分厚い木綿布で彼の髪を丁寧に拭きながら答えた。「もう何を仰っていたか覚えてないわ」玄武は沈んだ声で続けた。「今日はがっかりしただろう?昨夜話した時から、一晩中楽しみにしていたのに、結局何も見られなかった」さくらは微笑んで言った。「どうしてがっかりするの?私は梅月山で育ったのよ。山登りが大好きだもの。それに、雪山の景色は壮大で美しかったでしょう?それに、あなたと一緒にいられて......何もしなくても、ただ静かに座って話すだけでも楽しかったわ」期待していなければ、失望もない。山登りの話が出た時から、今日期待できるのは都景楼での食事だけだと分かっていた。「本当か?私と一緒なら楽しいって?」玄武が目を上げてさくらを見つめた。さくらはすぐに視線を逸らした。彼の額の瘤を見て笑いが漏れないよう、特に哀れっぽい眼差しと相まって、なるべく目を合わせないようにした。確かに、尾張が無邪気に笑ってしまったのも無理はない。普通なら堪えられないだろう。「もちろん本当よ」さくらは彼の後ろに回って髪を拭きながら、口元の笑みを抑えた。「目を見て
恵子皇太妃は折に触れて先帝の話をした。時には先帝の優しさを語り、時には不満を漏らす。だが話すたびに、まるで成長を止めた少女のように、あどけない仕草を見せるのだった。彼女は後宮の争いの中で、最も憂いなく過ごせた妃であった。妃の位にありながら、陰謀に悩まされることもなく、仮に策略があったとしても彼女を標的としたものではなく、たとえ彼女を狙ったものであっても、太后が前に立ちはだかって守ってくれた。甘やかされて育ち、子を産み育てる時も甘やかされ、今では息子の妻に可愛がられ、何一つ心配することのない生活を送っている。それでも彼女は、心配の種を探しては悩み、淑徳貴太妃や斎藤貴太妃とのちょっとした張り合いごとに心を砕いた。勝てば足を跳ねて喜び、負ければ頬を膨らませて怒るものの、すぐに忘れてしまう。影森茨子と儀姫に謀られた時でさえ、ただ一時の憤りを見せただけで、すぐに忘れ去った。悪い感情に長く心を囚われることはなかった。そうして人生の半ばを過ごしてきた。今は孫を抱きたがっているが、本当に欲しいわけではなく、ただ淑徳貴太妃の息子である榎井親王に子供ができたから、自分も欲しくなっただけなのだろう。本心を言えば、本当に子供が好きなのだろうか。子供は泣くかわめくかのどちらかで、まだ子供の取り柄を見出せてはいない。ただ、淑徳貴太妃が持っているものは、自分も持たねばならないという思いだけだった。さくらは皇太妃の先帝についての話を暫し聞いた後、自室へ戻った。京江ばあやが玄武の額に卵を当てていた。効果はありそうで、以前より腫れは大きくなっているものの、鵞卵大から鴨卵のようになっていた。中央が瘀血で黒ずんでいたからだ。お珠が生姜菓子を持ってきて、玄武は二切れ食べた。さくらは彼女たちに夕餉の支度をするよう命じた。夕食を済ませた後、二人は寄り添いながらしばらく過ごした。さくらはようやく彼の顔をまともに見られるようになっていた。玄武は大きな手を伸ばしてさくらを抱き寄せ、深い眼差しで見つめた。「ここ数日、私のことを全く相手にしてくれないじゃないか。いつも寝るとすぐ眠ってしまう」さくらは笑いながら言った。「でも、あなたの足に骨折があるから、不都合でしょう」熱を帯びた指先がさくらの頬から眉骨へと這い、その瞳は深い海のように欲望に満ちていた。「別の体位も
刺繍工房の件は、批判的な声もあれば理解を示す声もあったが、結果としてそれが更なる反響を呼ぶことになった。工房が正月明けに開設できる運びとなったのは、有田先生の監督のもと、手続きが早々に整い、道枝執事が物資の調達を担当したおかげだった。「足りなくなったら、私に言ってくれればいいわ」紫乃が藩札を取り出し、気前よく申し出た。道枝執事は自ら買い出しには向かわず、兵部大臣・清家本宗の夫人に同行を依頼した。家具調度品、寝具類、台所用品、織機、様々な色の絹糸、刺繍針に布地、便器や痰壺に至るまで、考えられるものは何でも清家夫人が購入した。長年家政を取り仕切ってきた清家夫人と、王府の庶務を担う道枝執事の力が合わさり、わずか数日で必要な物品がすべて揃えられた。特注品については、正月明けに納品される予定となった。刺繍工房は「伊織屋」と名付けられ、深水青葉が直筆で書いた文字が看板に刻まれ、工房の門構えに掲げられた。庶民たちは伊織が誰なのか知らず、不思議がった。女性たちの避難所なのだから、「慈恵院」のような名前の方が相応しいのではないかと。しかし、すぐに真相が明らかになった。伊織とは、自害した将軍家の奥方・美奈子の苗字だったのだ。これを知った人々は深いため息をつき、もはや工房を非難する声は上がらなくなった。それどころか、「王妃様は本当に情に厚い方なのだな」という声さえ聞かれるようになった。美奈子が入水を図った時、王妃様が救い出したことは誰もが知っている。しかし、一度は救えても二度目は叶わなかった。だからこそ王妃様は、見放された女性たちのために刺繍工房を設立なさったのだろう。悲しい物語が背景にあると、人々の共感を得やすいものだ。もはやさくらや北冥親王を非難する声は消え、代わりに「なんと情義に厚く、度量の広いお二人だ」という賞賛の声が上がるようになった。普通なら、再婚した妻が前夫の家族と付き合うことなど許されない。それだけに、親王様のこの寛容さには誰もが感服せざるを得なかった。もっとも、称賛の声がある一方で、「身分をわきまえぬ愚かな」と批判する声もあった。陰暦12月23日の小正月の日、潤が学院から休暇で戻ってきた。親王家で一日を過ごしただけで、沖田家の者たちが迎えに来た。さくらは名残惜しく思いながらも、実家で待ち望んでいることは
北條守は悲しみの色を瞳に浮かべ、「私は先生のご期待を裏切ってしまいました。今となっては後悔の念に堪えません」と声を落とした。「当時、上原家には縁談が山のようにあった。それなのに、なぜお前を選んだと思う?上原夫人が何を見込んでいたのか、分かるか?」亡き義母の話に、北條守は声を詰まらせた。「存じております。夫人は私が実直で正直者だと。そして、私が側室は決して持たないと誓ったから......申し訳ございません。約束を破ってしまいました」「それが一つ。もう一つの理由は、次男でありながら家の重責を引き受ける覚悟があったことだ。それはお前に責任感があることの証だった」丹治先生は続けた。「はっきり言おう。将軍家の再興は容易なことではない。特に一人では尚更だ。夫人は、お前なら上原洋平将軍のように、苦難の道のりを強い意志と一途な集中力で乗り越えられると信じていた。真面目で責任感のある者なら、そうするものだからな。お前が外で働き、さくらが内を守る。必ずしも大きな出世はできなくとも、功を立てて都で職を得ることくらいはできる。派手な暮らしは望めなくても、安らかで穏やかな生活は送れると。夫人が望んでいたのは、ただ娘の平穏な人生だけだったのだ」「しかし、夫人は豊富な人生経験から来る目で見たことが、そもそもの間違いだった。お前の家は確かに名門だったが、父上の代には既に没落し、家訓も緩く、母親からの愛情も薄かった。そのため、お前は世間の荒波に揉まれることもなく、誘惑に直面することもなかった。自制心も物事の善悪を見極める力も不足していた。お前の肩には、ただ家族から強いられた重荷があっただけだ。確かにお前自身も将軍家を往時の栄光に戻したいという思いはあった。正直に言えば、お前には才があった。だが、大きな才能とまでは言えなかった。もしお前が一歩一歩着実に歩み、佐藤大将やさくらの助けを得ていれば、きっと何かを成し遂げられただろう。将軍家の最盛期までは戻れなくとも、それなりの地位は築けたはずだ」「葉月琴音との出会いで、お前は彼女が見せる『女性の自立』に心を奪われた。だが、少しでも見識があれば、彼女の主張が誤りだと分かったはずだ。他の女性を貶めることで自分を高めようとする女性は、そもそも女性を尊重していないのだ。そして彼女が功を立てた後、お前は更に彼女に傾倒していった。あの時の葉月は、凛と
北條守は魂を抜かれたように薬王堂を後にした。紅雀が入ってきて尋ねた。「師匠、どうしてあの方にあれほど多くを語られたのですか?」紅雀には不思議だった。師匠は将軍家の者たちを最も憤っておられ、普段なら一言も交わそうとされないのに、今日は自身の休息の時間を割いてまであれほどの道理を説かれたのだから。丹治先生は小さくため息をつき、「世間の人々に、上原夫人が娘をあの男に嫁がせたのは目が見えなかっただけでなく、心までも盲目だったと思われたくない。たとえそれが真実だとしても、私は人々がそのように夫人を語るのを聞きたくないのだ」立ち上がると、白炭を一片炭炉に加え、両手を温めながら続けた。「それに、彼は確かに大それた悪人というわけではない。是非の区別くらいはつけられる。佐藤家の三男殿は彼を救うために片腕を失った。もし彼がこのまま目覚めることなく、母親に引きずられて過ちを重ねていけば、三男殿の腕は無駄に失われたことになる」「師匠、他にも何か理由がおありなのではないですか?」紅雀はそれほど単純な話ではないと感じていた。師匠が誰かを嫌っているのなら、普通はあれほど多くを語ることはないはずだ。丹治先生は瞳を暗く曇らせ、「聞かないでくれ。その時が来ないことを祈るばかりだ」北條守が薬を手に入れられなかったことを、屋敷の人々は覚悟していた。これまで何度も断られてきたのだ。彼が行ったところで、何が変わるというのか。それに、丹治先生が最も嫌う相手が彼なのだから、なおさら無理な話だった。老夫人はまだ意識がはっきりしており、息子が薬を求めに行ったことを知っていた。心の中にはまだ希望を抱いていた。そして、息子が戻ってきた時、その手には小さな木箱が握られていた。彼女にはそれが分かった。あの木箱は雪心丸を入れる箱だった。狂喜する心を抑えきれず、「手に......手に入ったの?」と老夫人は尋ねた。北條守は目に宿る苦みを隠しながら、孫橋ばあやに命じた。「お湯を小半杯持ってきてください。薬を溶かしましょう」孫橋ばあやは事情を知っていたので、言われた通りにしただけだった。薬は湯に溶かされ、北條老夫人は待ちきれない様子で飲み干した。しかし、薬液が口に触れた瞬間、老夫人は様子がおかしいことに気付いた。味が全く違うのだ。雪心丸には微かな人参の香りがあり、爽やかな
陰暦十二月二十六日の夜、予言通り老夫人は幻覚を見始めた。むしろ体調が良くなったかのように見え、起き上がって空中を指差しながら罵った。「出て行きなさい!出ていけ!役立たずめ、みんな何の役にも立たない!」「美奈子、よくも!私の首を絞めるなんて、この不孝者め......」老夫人は自分の首を両手で掴み、必死に何かと格闘しているかのように見えた。顔は紫色に変わっていった。医者が事前に状態を説明していたため、誰も取り憑かれたとは思わなかった。北條守は母の手を引き離そうとしながら、大声で言った。「お母様、誰もいませんよ。美奈子さんも来てはいません」「あの女が......私に復讐しに来たの。私を恨んでいるわ」老夫人は北條守の袖を掴み、凶暴な表情が恐怖に変わった。「あの女に言ってちょうだい。私はあの女を死なせるつもりじゃなかったの。ただ躾けたかっただけ、懲らしめたかっただけなのよ。あっ......来ないで!美奈子、よくも!」老夫人は両手を振り回し、息子の頬を何度も叩いた。北條守はじっと耐え、母の手を止めようとはしなかった。半刻ほどの暴れ様が、ようやく収まった。だが、すでに吐く息の方が、吸う息より多くなっていた。時折意識が戻ると、周りを取り巻く人々を見渡すのだが、そこに北條正樹や孫たちの姿は見えなかった。かすかに唇を動かし、「正樹......」と呼んだ。北條守は寝台の傍らで「お母様、お水はいかがですか?」と声をかけた。「正樹......」長男は、自分の長男はどこに......「兄上は少し出かけております。すぐに戻って参ります」北條守は慰めるように言った。北條森は涙を拭いながら、怒りを露わにした。「兄上は薄情者です。母上があれほど可愛がってくださったのに、最期の時にも来ようとしないなんて」老夫人の目が大きく見開かれた。最期?私は死ぬの?そうか、死ぬのね。長男も来ず、娘も一度も見舞いに来ず、分家からも誰一人来ない。こんなにも憎まれていたというの?諦めきれない、どうしても諦めきれない。将軍家のために心血を注いできたのに。かつての栄光を取り戻そうとしてきたのに。すべては子供たちのためだったのに。老夫人は喉が詰まったように、呼吸がますます困難になっていった。寒い、とても寒い。全身の震えが止まらない。どうしても諦められなかった。本
続いて夜宴となり、燕良親王も正妃、側妃を伴って参上した。太后と帝后に拝謁した後、親族たちとも挨拶を交わした。淡嶋親王家からは淡嶋親王妃だけが参った。淡嶋親王は十二月に風邪を引き、まだ回復していないとのこと。太后は気遣いの言葉をかけ、滋養強壮の貴重な薬材を賜った。年越しの宴は豪勢を極めた。玄武とさくらは並んで座り、さくらの好物を玄武が取り分け、さくらの苦手なものは玄武が引き受けた。その様子を目にした皇后が、ふと微笑んだ。「親王様と王妃様は、本当に仲睦まじいこと」榎井親王と榎井親王妃が顔を上げた。自分たちのことかと思ったが、皇后の視線が玄武とさくらに向けられているのに気付き、彼らの方を見やった。清和天皇は軽く一瞥しただけで何も言わなかったが、酒杯を上げる際、皇后に冷ややかな視線を向けた。さくらは皇后の些細な企みを感じ取り、言葉を添えた。「陛下と皇后様の深い御愛情こそ、私どもの手本でございます」斎藤皇后は微笑むだけで、言葉を返さなかった。胸の内の苦しみは自分だけのものだった。帝后の深い愛情など、人目のためだけのもの。天皇の本当の寵愛を受けているのは定子妃なのだ。天皇が定子妃への愛情の半分でも自分に向けてくれていれば、ここまで息子を追い込む必要もなかったのに。嫡長子による皇位継承に異論などないはずだった。しかし、最も寵愛される定子妃がいつ息子を産んでもおかしくない。実子を持てば、我が子のために動くのは当然ではないか。そんな思いを巡らせている最中、宮人が薬椀を持って定子妃の元へ進み出た。「定子妃様、安胎のお薬の時間でございます」と小声で告げる。皇后の頭の中が轟いた。鋭い光が一瞬、瞳に宿ったが、すぐさま愛らしい笑みを浮かべて言った。「定子妃がお子を?こんな慶事を、なぜ私に知らせてくださらなかったの?」牡丹のように艶やかな定子妃の姿には、確かに妊婦特有の魅力が漂っていた。彼女は軽く目を上げ、微笑んで答えた。「初めは胎の安定が心配で、皇后様にお知らせできませんでした。どうかお許しください」「慶事というものに、許すも許さぬもありませんわ」皇后は笑みを浮かべた。「皇嗣をお宿しになったのですから、むしろ褒美を差し上げねばなりませんね」「恐れ入ります」定子妃は座ったまま、さりげなく応じた。皇后と定子妃の間の微妙な空気は、女性に
年が明けても、さして面白みもない。宮中の新年宴会には、年に一度顔を合わせる皇族たちが配偶者を伴って参列する。男たちは一団となり、女たちもまた一団となる。さくらは諸王妃や姫君たちと共に、皇后や宮妃に従って太后に拝謁した。皇太妃たちも一緒で、当然、恵子皇太妃もその中にいた。燕良親王妃の沢村氏と金森側妃は榮乃皇太妃の御殿で老女の相手をしており、こちらには来ていなかった。皆が取り留めもない会話を交わし、おべっかを使い合い、美を競い、装飾品を自慢し合う。天皇の妃たちも揃って参内していたが、さくらには目移りするばかりで、皇后、定子妃、敬妃、徳妃以外は見分けがつかなかった。贵嬪や嬪といった位の者たちは、一人として顔も覚えていない。さらに位の低い者たちは、終始うつむいたまま、時折取り繕った笑みを浮かべたり、恐る恐る顔を上げたりするだけだった。皇后の息子である嫡長子は、幼いながらも落ち着いた様子で、清和天皇そっくりの歩き方をしていた。両手を背に回し、顎を少し上げ、背筋をピンと伸ばして歩く姿は、その小さな背丈さえなければ、まるで大人のようだった。定子妃には娘と息子がいたが、膝元で育てている息子は実子ではなかった。乳母が抱いて太后に拝謁させた後、すぐに連れ戻された。姫君の方は愛らしい子で、髪を二つに結い上げている。三、四歳とまだ物心もつかない年齢だが、しつけが行き届いており、騒ぎ立てることもない。敬妃にも娘がいて、第一皇女として、定子妃の娘より三ヶ月年長だった。德妃には二歳になる第二皇子がいた。清和天皇には子が少なく、それは政務に励むあまり、後宮に足を運ぶ機会が少ないせいかもしれなかった。第二皇子は愛くるしい肥え肥えした体つきで、よちよちと歩く姿に、太后は目を細めた。しばらく抱きしめて可愛がった後、さくらに言った。「あなたも抱いてごらんなさい。来年はきっと大きな男の子が授かるわ」さくらはその愛らしい幼子を見つめ、微笑みながら手を差し伸べた。「第二皇子様、伯母上が抱かせていただいてもよろしいでしょうか?」第二皇子は少し躊躇い、德妃の方を振り返った。「いいのよ」德妃は笑顔で促した。「伯母上は可愛がってくださるわ」やっと第二皇子が両手を広げ、さくらが抱き上げようとした時、一瞥した太后の表情が気になった。笑みは浮かべているも
紫乃は北條守に同情する気になれなかった。「紅羽の話では、北條涼子は葬儀にも戻らず、代わりに葉月琴音があの毒婦のために喪服を着て出てきたそうよ」暗殺未遂以来、琴音は滅多に安寧館を出ることはなく、節季でさえ外出しなかった。老夫人の危篤時にも様子を見に来なかったのに、今になって喪服姿を見せるとは、不自然ではないか。もし誰かが彼女を再び殺そうとするなら、葬儀の混乱に紛れ込むのは難しくないはずだ。とはいえ、琴音にも分別はあるだろう。謀反の捜査が終わっていない今、誰が軽挙妄動に出るだろうか。「葬儀の段取りは誰が?」さくらが尋ねた。親房夕美は早産後、まだ体調が戻っていない。琴音も表立って采配を振るうはずがない。「次男家の第二老夫人よ」と紫乃が答えた。「どれだけ不仲でも、義理の姉妹なのだから。それに正式な分家もしていない。やるべきことはやらなければならないでしょう」「第二老夫人は情に厚い方ね」さくらが言った。「珍しい方だわ」皆が黙って頷いた。善悪をはっきりとさせる第二老夫人の性格に、心から敬服していた。第二老夫人を敬う一方で、心の中では北條老夫人を罵っていた。ただ、玄武だけは罵らなかった。確かに北條老夫人への怒りはあった。しかし、彼女の薄情な性格のおかげで、さくらを妻に迎えることができた。彼女を恨むのは、たださくらを虐げたからに過ぎない。玄武の怪我はほぼ完治していたが、まだ歩き方がやや不自然だった。額の卵大の腫れは今や薄い赤黒い痣となり、一見すると印堂が真っ黒になったかのように見えた。有田先生はその印堂の具合があまりにも縁起が悪いと言い、尾張拓磨に玄武を押さえつけさせ、白粉を塗って隠すよう命じたほどだ。そのため玄武は、よほどのことがない限り外出しないようにしていた。幸い、恵子皇太妃は皇太后に付き添うため宮中に入っており、この印堂を見て延々と小言を言われる心配はなかった。寒さが厳しくなり、皇太后は安寿殿の暖房室に移っていた。妃たちは一日と十五日に参内して安否を伺い、天皇は一日おきに訪れ、どれほど政務が忙しくとも欠かさなかった。謀反事件の最中でさえ、時間を作っては様子を見に来ていた。恵子皇太妃は宮中で数日を過ごし、天皇とも何度か顔を合わせていた。北條老夫人の死を知った太后は、こう言った。「よい潮時での死だこ
陰暦十二月二十六日の夜、予言通り老夫人は幻覚を見始めた。むしろ体調が良くなったかのように見え、起き上がって空中を指差しながら罵った。「出て行きなさい!出ていけ!役立たずめ、みんな何の役にも立たない!」「美奈子、よくも!私の首を絞めるなんて、この不孝者め......」老夫人は自分の首を両手で掴み、必死に何かと格闘しているかのように見えた。顔は紫色に変わっていった。医者が事前に状態を説明していたため、誰も取り憑かれたとは思わなかった。北條守は母の手を引き離そうとしながら、大声で言った。「お母様、誰もいませんよ。美奈子さんも来てはいません」「あの女が......私に復讐しに来たの。私を恨んでいるわ」老夫人は北條守の袖を掴み、凶暴な表情が恐怖に変わった。「あの女に言ってちょうだい。私はあの女を死なせるつもりじゃなかったの。ただ躾けたかっただけ、懲らしめたかっただけなのよ。あっ......来ないで!美奈子、よくも!」老夫人は両手を振り回し、息子の頬を何度も叩いた。北條守はじっと耐え、母の手を止めようとはしなかった。半刻ほどの暴れ様が、ようやく収まった。だが、すでに吐く息の方が、吸う息より多くなっていた。時折意識が戻ると、周りを取り巻く人々を見渡すのだが、そこに北條正樹や孫たちの姿は見えなかった。かすかに唇を動かし、「正樹......」と呼んだ。北條守は寝台の傍らで「お母様、お水はいかがですか?」と声をかけた。「正樹......」長男は、自分の長男はどこに......「兄上は少し出かけております。すぐに戻って参ります」北條守は慰めるように言った。北條森は涙を拭いながら、怒りを露わにした。「兄上は薄情者です。母上があれほど可愛がってくださったのに、最期の時にも来ようとしないなんて」老夫人の目が大きく見開かれた。最期?私は死ぬの?そうか、死ぬのね。長男も来ず、娘も一度も見舞いに来ず、分家からも誰一人来ない。こんなにも憎まれていたというの?諦めきれない、どうしても諦めきれない。将軍家のために心血を注いできたのに。かつての栄光を取り戻そうとしてきたのに。すべては子供たちのためだったのに。老夫人は喉が詰まったように、呼吸がますます困難になっていった。寒い、とても寒い。全身の震えが止まらない。どうしても諦められなかった。本
北條守は魂を抜かれたように薬王堂を後にした。紅雀が入ってきて尋ねた。「師匠、どうしてあの方にあれほど多くを語られたのですか?」紅雀には不思議だった。師匠は将軍家の者たちを最も憤っておられ、普段なら一言も交わそうとされないのに、今日は自身の休息の時間を割いてまであれほどの道理を説かれたのだから。丹治先生は小さくため息をつき、「世間の人々に、上原夫人が娘をあの男に嫁がせたのは目が見えなかっただけでなく、心までも盲目だったと思われたくない。たとえそれが真実だとしても、私は人々がそのように夫人を語るのを聞きたくないのだ」立ち上がると、白炭を一片炭炉に加え、両手を温めながら続けた。「それに、彼は確かに大それた悪人というわけではない。是非の区別くらいはつけられる。佐藤家の三男殿は彼を救うために片腕を失った。もし彼がこのまま目覚めることなく、母親に引きずられて過ちを重ねていけば、三男殿の腕は無駄に失われたことになる」「師匠、他にも何か理由がおありなのではないですか?」紅雀はそれほど単純な話ではないと感じていた。師匠が誰かを嫌っているのなら、普通はあれほど多くを語ることはないはずだ。丹治先生は瞳を暗く曇らせ、「聞かないでくれ。その時が来ないことを祈るばかりだ」北條守が薬を手に入れられなかったことを、屋敷の人々は覚悟していた。これまで何度も断られてきたのだ。彼が行ったところで、何が変わるというのか。それに、丹治先生が最も嫌う相手が彼なのだから、なおさら無理な話だった。老夫人はまだ意識がはっきりしており、息子が薬を求めに行ったことを知っていた。心の中にはまだ希望を抱いていた。そして、息子が戻ってきた時、その手には小さな木箱が握られていた。彼女にはそれが分かった。あの木箱は雪心丸を入れる箱だった。狂喜する心を抑えきれず、「手に......手に入ったの?」と老夫人は尋ねた。北條守は目に宿る苦みを隠しながら、孫橋ばあやに命じた。「お湯を小半杯持ってきてください。薬を溶かしましょう」孫橋ばあやは事情を知っていたので、言われた通りにしただけだった。薬は湯に溶かされ、北條老夫人は待ちきれない様子で飲み干した。しかし、薬液が口に触れた瞬間、老夫人は様子がおかしいことに気付いた。味が全く違うのだ。雪心丸には微かな人参の香りがあり、爽やかな
北條守は悲しみの色を瞳に浮かべ、「私は先生のご期待を裏切ってしまいました。今となっては後悔の念に堪えません」と声を落とした。「当時、上原家には縁談が山のようにあった。それなのに、なぜお前を選んだと思う?上原夫人が何を見込んでいたのか、分かるか?」亡き義母の話に、北條守は声を詰まらせた。「存じております。夫人は私が実直で正直者だと。そして、私が側室は決して持たないと誓ったから......申し訳ございません。約束を破ってしまいました」「それが一つ。もう一つの理由は、次男でありながら家の重責を引き受ける覚悟があったことだ。それはお前に責任感があることの証だった」丹治先生は続けた。「はっきり言おう。将軍家の再興は容易なことではない。特に一人では尚更だ。夫人は、お前なら上原洋平将軍のように、苦難の道のりを強い意志と一途な集中力で乗り越えられると信じていた。真面目で責任感のある者なら、そうするものだからな。お前が外で働き、さくらが内を守る。必ずしも大きな出世はできなくとも、功を立てて都で職を得ることくらいはできる。派手な暮らしは望めなくても、安らかで穏やかな生活は送れると。夫人が望んでいたのは、ただ娘の平穏な人生だけだったのだ」「しかし、夫人は豊富な人生経験から来る目で見たことが、そもそもの間違いだった。お前の家は確かに名門だったが、父上の代には既に没落し、家訓も緩く、母親からの愛情も薄かった。そのため、お前は世間の荒波に揉まれることもなく、誘惑に直面することもなかった。自制心も物事の善悪を見極める力も不足していた。お前の肩には、ただ家族から強いられた重荷があっただけだ。確かにお前自身も将軍家を往時の栄光に戻したいという思いはあった。正直に言えば、お前には才があった。だが、大きな才能とまでは言えなかった。もしお前が一歩一歩着実に歩み、佐藤大将やさくらの助けを得ていれば、きっと何かを成し遂げられただろう。将軍家の最盛期までは戻れなくとも、それなりの地位は築けたはずだ」「葉月琴音との出会いで、お前は彼女が見せる『女性の自立』に心を奪われた。だが、少しでも見識があれば、彼女の主張が誤りだと分かったはずだ。他の女性を貶めることで自分を高めようとする女性は、そもそも女性を尊重していないのだ。そして彼女が功を立てた後、お前は更に彼女に傾倒していった。あの時の葉月は、凛と
刺繍工房の件は、批判的な声もあれば理解を示す声もあったが、結果としてそれが更なる反響を呼ぶことになった。工房が正月明けに開設できる運びとなったのは、有田先生の監督のもと、手続きが早々に整い、道枝執事が物資の調達を担当したおかげだった。「足りなくなったら、私に言ってくれればいいわ」紫乃が藩札を取り出し、気前よく申し出た。道枝執事は自ら買い出しには向かわず、兵部大臣・清家本宗の夫人に同行を依頼した。家具調度品、寝具類、台所用品、織機、様々な色の絹糸、刺繍針に布地、便器や痰壺に至るまで、考えられるものは何でも清家夫人が購入した。長年家政を取り仕切ってきた清家夫人と、王府の庶務を担う道枝執事の力が合わさり、わずか数日で必要な物品がすべて揃えられた。特注品については、正月明けに納品される予定となった。刺繍工房は「伊織屋」と名付けられ、深水青葉が直筆で書いた文字が看板に刻まれ、工房の門構えに掲げられた。庶民たちは伊織が誰なのか知らず、不思議がった。女性たちの避難所なのだから、「慈恵院」のような名前の方が相応しいのではないかと。しかし、すぐに真相が明らかになった。伊織とは、自害した将軍家の奥方・美奈子の苗字だったのだ。これを知った人々は深いため息をつき、もはや工房を非難する声は上がらなくなった。それどころか、「王妃様は本当に情に厚い方なのだな」という声さえ聞かれるようになった。美奈子が入水を図った時、王妃様が救い出したことは誰もが知っている。しかし、一度は救えても二度目は叶わなかった。だからこそ王妃様は、見放された女性たちのために刺繍工房を設立なさったのだろう。悲しい物語が背景にあると、人々の共感を得やすいものだ。もはやさくらや北冥親王を非難する声は消え、代わりに「なんと情義に厚く、度量の広いお二人だ」という賞賛の声が上がるようになった。普通なら、再婚した妻が前夫の家族と付き合うことなど許されない。それだけに、親王様のこの寛容さには誰もが感服せざるを得なかった。もっとも、称賛の声がある一方で、「身分をわきまえぬ愚かな」と批判する声もあった。陰暦12月23日の小正月の日、潤が学院から休暇で戻ってきた。親王家で一日を過ごしただけで、沖田家の者たちが迎えに来た。さくらは名残惜しく思いながらも、実家で待ち望んでいることは
恵子皇太妃は折に触れて先帝の話をした。時には先帝の優しさを語り、時には不満を漏らす。だが話すたびに、まるで成長を止めた少女のように、あどけない仕草を見せるのだった。彼女は後宮の争いの中で、最も憂いなく過ごせた妃であった。妃の位にありながら、陰謀に悩まされることもなく、仮に策略があったとしても彼女を標的としたものではなく、たとえ彼女を狙ったものであっても、太后が前に立ちはだかって守ってくれた。甘やかされて育ち、子を産み育てる時も甘やかされ、今では息子の妻に可愛がられ、何一つ心配することのない生活を送っている。それでも彼女は、心配の種を探しては悩み、淑徳貴太妃や斎藤貴太妃とのちょっとした張り合いごとに心を砕いた。勝てば足を跳ねて喜び、負ければ頬を膨らませて怒るものの、すぐに忘れてしまう。影森茨子と儀姫に謀られた時でさえ、ただ一時の憤りを見せただけで、すぐに忘れ去った。悪い感情に長く心を囚われることはなかった。そうして人生の半ばを過ごしてきた。今は孫を抱きたがっているが、本当に欲しいわけではなく、ただ淑徳貴太妃の息子である榎井親王に子供ができたから、自分も欲しくなっただけなのだろう。本心を言えば、本当に子供が好きなのだろうか。子供は泣くかわめくかのどちらかで、まだ子供の取り柄を見出せてはいない。ただ、淑徳貴太妃が持っているものは、自分も持たねばならないという思いだけだった。さくらは皇太妃の先帝についての話を暫し聞いた後、自室へ戻った。京江ばあやが玄武の額に卵を当てていた。効果はありそうで、以前より腫れは大きくなっているものの、鵞卵大から鴨卵のようになっていた。中央が瘀血で黒ずんでいたからだ。お珠が生姜菓子を持ってきて、玄武は二切れ食べた。さくらは彼女たちに夕餉の支度をするよう命じた。夕食を済ませた後、二人は寄り添いながらしばらく過ごした。さくらはようやく彼の顔をまともに見られるようになっていた。玄武は大きな手を伸ばしてさくらを抱き寄せ、深い眼差しで見つめた。「ここ数日、私のことを全く相手にしてくれないじゃないか。いつも寝るとすぐ眠ってしまう」さくらは笑いながら言った。「でも、あなたの足に骨折があるから、不都合でしょう」熱を帯びた指先がさくらの頬から眉骨へと這い、その瞳は深い海のように欲望に満ちていた。「別の体位も
さくらは慌てて戻り、まず皇太妃をなだめながら外へと案内した。皇太妃は外でもなお言い続けた。「当たり前でしょう?夫婦になったのだから、何を恥ずかしがることがあるの?小さい頃は母に何でも話せたのに、今は話せないの?あの子が小さかった時なんて、あそこを蚊に刺されて、下着を脱いで母に薬を塗ってもらったこともあったのよ......」「母上!」部屋から玄武の怒鳴り声が響いた。さくらは急いで紫乃に皇太妃の相手を任せ、京江ばあやと紗英ばあやに湯を用意させ、自ら玄武の髪を洗うことにした。温泉に浸かることができないため、洗面所で椅子に座り、前かがみになってさくらに髪を洗ってもらう。足を濡らさないよう気をつけながら。自分の不甲斐なさを感じながらも、妻の指が頭皮を揉みほぐし、髪をなでさする感触に、恥ずかしさの中にも甘い幸せを覚えていた。自分を慰めるように考えた。この怪我がなければ、こんな贅沢な待遇は受けられなかっただろう。以前怪我をした時は、尾張が世話をしてくれていたのだから。髪を洗い終えると、さくらが髪を拭いている間、玄武はしばらくして憂鬱そうに呟いた。「母上があんなことを言って......気にしないでくれ」「ええ」さくらは分厚い木綿布で彼の髪を丁寧に拭きながら答えた。「もう何を仰っていたか覚えてないわ」玄武は沈んだ声で続けた。「今日はがっかりしただろう?昨夜話した時から、一晩中楽しみにしていたのに、結局何も見られなかった」さくらは微笑んで言った。「どうしてがっかりするの?私は梅月山で育ったのよ。山登りが大好きだもの。それに、雪山の景色は壮大で美しかったでしょう?それに、あなたと一緒にいられて......何もしなくても、ただ静かに座って話すだけでも楽しかったわ」期待していなければ、失望もない。山登りの話が出た時から、今日期待できるのは都景楼での食事だけだと分かっていた。「本当か?私と一緒なら楽しいって?」玄武が目を上げてさくらを見つめた。さくらはすぐに視線を逸らした。彼の額の瘤を見て笑いが漏れないよう、特に哀れっぽい眼差しと相まって、なるべく目を合わせないようにした。確かに、尾張が無邪気に笑ってしまったのも無理はない。普通なら堪えられないだろう。「もちろん本当よ」さくらは彼の後ろに回って髪を拭きながら、口元の笑みを抑えた。「目を見て