陰暦十二月二十六日の夜、予言通り老夫人は幻覚を見始めた。むしろ体調が良くなったかのように見え、起き上がって空中を指差しながら罵った。「出て行きなさい!出ていけ!役立たずめ、みんな何の役にも立たない!」「美奈子、よくも!私の首を絞めるなんて、この不孝者め......」老夫人は自分の首を両手で掴み、必死に何かと格闘しているかのように見えた。顔は紫色に変わっていった。医者が事前に状態を説明していたため、誰も取り憑かれたとは思わなかった。北條守は母の手を引き離そうとしながら、大声で言った。「お母様、誰もいませんよ。美奈子さんも来てはいません」「あの女が......私に復讐しに来たの。私を恨んでいるわ」老夫人は北條守の袖を掴み、凶暴な表情が恐怖に変わった。「あの女に言ってちょうだい。私はあの女を死なせるつもりじゃなかったの。ただ躾けたかっただけ、懲らしめたかっただけなのよ。あっ......来ないで!美奈子、よくも!」老夫人は両手を振り回し、息子の頬を何度も叩いた。北條守はじっと耐え、母の手を止めようとはしなかった。半刻ほどの暴れ様が、ようやく収まった。だが、すでに吐く息の方が、吸う息より多くなっていた。時折意識が戻ると、周りを取り巻く人々を見渡すのだが、そこに北條正樹や孫たちの姿は見えなかった。かすかに唇を動かし、「正樹......」と呼んだ。北條守は寝台の傍らで「お母様、お水はいかがですか?」と声をかけた。「正樹......」長男は、自分の長男はどこに......「兄上は少し出かけております。すぐに戻って参ります」北條守は慰めるように言った。北條森は涙を拭いながら、怒りを露わにした。「兄上は薄情者です。母上があれほど可愛がってくださったのに、最期の時にも来ようとしないなんて」老夫人の目が大きく見開かれた。最期?私は死ぬの?そうか、死ぬのね。長男も来ず、娘も一度も見舞いに来ず、分家からも誰一人来ない。こんなにも憎まれていたというの?諦めきれない、どうしても諦めきれない。将軍家のために心血を注いできたのに。かつての栄光を取り戻そうとしてきたのに。すべては子供たちのためだったのに。老夫人は喉が詰まったように、呼吸がますます困難になっていった。寒い、とても寒い。全身の震えが止まらない。どうしても諦められなかった。本
紫乃は北條守に同情する気になれなかった。「紅羽の話では、北條涼子は葬儀にも戻らず、代わりに葉月琴音があの毒婦のために喪服を着て出てきたそうよ」暗殺未遂以来、琴音は滅多に安寧館を出ることはなく、節季でさえ外出しなかった。老夫人の危篤時にも様子を見に来なかったのに、今になって喪服姿を見せるとは、不自然ではないか。もし誰かが彼女を再び殺そうとするなら、葬儀の混乱に紛れ込むのは難しくないはずだ。とはいえ、琴音にも分別はあるだろう。謀反の捜査が終わっていない今、誰が軽挙妄動に出るだろうか。「葬儀の段取りは誰が?」さくらが尋ねた。親房夕美は早産後、まだ体調が戻っていない。琴音も表立って采配を振るうはずがない。「次男家の第二老夫人よ」と紫乃が答えた。「どれだけ不仲でも、義理の姉妹なのだから。それに正式な分家もしていない。やるべきことはやらなければならないでしょう」「第二老夫人は情に厚い方ね」さくらが言った。「珍しい方だわ」皆が黙って頷いた。善悪をはっきりとさせる第二老夫人の性格に、心から敬服していた。第二老夫人を敬う一方で、心の中では北條老夫人を罵っていた。ただ、玄武だけは罵らなかった。確かに北條老夫人への怒りはあった。しかし、彼女の薄情な性格のおかげで、さくらを妻に迎えることができた。彼女を恨むのは、たださくらを虐げたからに過ぎない。玄武の怪我はほぼ完治していたが、まだ歩き方がやや不自然だった。額の卵大の腫れは今や薄い赤黒い痣となり、一見すると印堂が真っ黒になったかのように見えた。有田先生はその印堂の具合があまりにも縁起が悪いと言い、尾張拓磨に玄武を押さえつけさせ、白粉を塗って隠すよう命じたほどだ。そのため玄武は、よほどのことがない限り外出しないようにしていた。幸い、恵子皇太妃は皇太后に付き添うため宮中に入っており、この印堂を見て延々と小言を言われる心配はなかった。寒さが厳しくなり、皇太后は安寿殿の暖房室に移っていた。妃たちは一日と十五日に参内して安否を伺い、天皇は一日おきに訪れ、どれほど政務が忙しくとも欠かさなかった。謀反事件の最中でさえ、時間を作っては様子を見に来ていた。恵子皇太妃は宮中で数日を過ごし、天皇とも何度か顔を合わせていた。北條老夫人の死を知った太后は、こう言った。「よい潮時での死だこ
年が明けても、さして面白みもない。宮中の新年宴会には、年に一度顔を合わせる皇族たちが配偶者を伴って参列する。男たちは一団となり、女たちもまた一団となる。さくらは諸王妃や姫君たちと共に、皇后や宮妃に従って太后に拝謁した。皇太妃たちも一緒で、当然、恵子皇太妃もその中にいた。燕良親王妃の沢村氏と金森側妃は榮乃皇太妃の御殿で老女の相手をしており、こちらには来ていなかった。皆が取り留めもない会話を交わし、おべっかを使い合い、美を競い、装飾品を自慢し合う。天皇の妃たちも揃って参内していたが、さくらには目移りするばかりで、皇后、定子妃、敬妃、徳妃以外は見分けがつかなかった。贵嬪や嬪といった位の者たちは、一人として顔も覚えていない。さらに位の低い者たちは、終始うつむいたまま、時折取り繕った笑みを浮かべたり、恐る恐る顔を上げたりするだけだった。皇后の息子である嫡長子は、幼いながらも落ち着いた様子で、清和天皇そっくりの歩き方をしていた。両手を背に回し、顎を少し上げ、背筋をピンと伸ばして歩く姿は、その小さな背丈さえなければ、まるで大人のようだった。定子妃には娘と息子がいたが、膝元で育てている息子は実子ではなかった。乳母が抱いて太后に拝謁させた後、すぐに連れ戻された。姫君の方は愛らしい子で、髪を二つに結い上げている。三、四歳とまだ物心もつかない年齢だが、しつけが行き届いており、騒ぎ立てることもない。敬妃にも娘がいて、第一皇女として、定子妃の娘より三ヶ月年長だった。德妃には二歳になる第二皇子がいた。清和天皇には子が少なく、それは政務に励むあまり、後宮に足を運ぶ機会が少ないせいかもしれなかった。第二皇子は愛くるしい肥え肥えした体つきで、よちよちと歩く姿に、太后は目を細めた。しばらく抱きしめて可愛がった後、さくらに言った。「あなたも抱いてごらんなさい。来年はきっと大きな男の子が授かるわ」さくらはその愛らしい幼子を見つめ、微笑みながら手を差し伸べた。「第二皇子様、伯母上が抱かせていただいてもよろしいでしょうか?」第二皇子は少し躊躇い、德妃の方を振り返った。「いいのよ」德妃は笑顔で促した。「伯母上は可愛がってくださるわ」やっと第二皇子が両手を広げ、さくらが抱き上げようとした時、一瞥した太后の表情が気になった。笑みは浮かべているも
続いて夜宴となり、燕良親王も正妃、側妃を伴って参上した。太后と帝后に拝謁した後、親族たちとも挨拶を交わした。淡嶋親王家からは淡嶋親王妃だけが参った。淡嶋親王は十二月に風邪を引き、まだ回復していないとのこと。太后は気遣いの言葉をかけ、滋養強壮の貴重な薬材を賜った。年越しの宴は豪勢を極めた。玄武とさくらは並んで座り、さくらの好物を玄武が取り分け、さくらの苦手なものは玄武が引き受けた。その様子を目にした皇后が、ふと微笑んだ。「親王様と王妃様は、本当に仲睦まじいこと」榎井親王と榎井親王妃が顔を上げた。自分たちのことかと思ったが、皇后の視線が玄武とさくらに向けられているのに気付き、彼らの方を見やった。清和天皇は軽く一瞥しただけで何も言わなかったが、酒杯を上げる際、皇后に冷ややかな視線を向けた。さくらは皇后の些細な企みを感じ取り、言葉を添えた。「陛下と皇后様の深い御愛情こそ、私どもの手本でございます」斎藤皇后は微笑むだけで、言葉を返さなかった。胸の内の苦しみは自分だけのものだった。帝后の深い愛情など、人目のためだけのもの。天皇の本当の寵愛を受けているのは定子妃なのだ。天皇が定子妃への愛情の半分でも自分に向けてくれていれば、ここまで息子を追い込む必要もなかったのに。嫡長子による皇位継承に異論などないはずだった。しかし、最も寵愛される定子妃がいつ息子を産んでもおかしくない。実子を持てば、我が子のために動くのは当然ではないか。そんな思いを巡らせている最中、宮人が薬椀を持って定子妃の元へ進み出た。「定子妃様、安胎のお薬の時間でございます」と小声で告げる。皇后の頭の中が轟いた。鋭い光が一瞬、瞳に宿ったが、すぐさま愛らしい笑みを浮かべて言った。「定子妃がお子を?こんな慶事を、なぜ私に知らせてくださらなかったの?」牡丹のように艶やかな定子妃の姿には、確かに妊婦特有の魅力が漂っていた。彼女は軽く目を上げ、微笑んで答えた。「初めは胎の安定が心配で、皇后様にお知らせできませんでした。どうかお許しください」「慶事というものに、許すも許さぬもありませんわ」皇后は笑みを浮かべた。「皇嗣をお宿しになったのですから、むしろ褒美を差し上げねばなりませんね」「恐れ入ります」定子妃は座ったまま、さりげなく応じた。皇后と定子妃の間の微妙な空気は、女性に
さくらでさえ湛輝親王を見やった。今になって孝行者だと分かったということは、つまり、以前はそれほど孝行とは思えなかったということか。少なくとも、そういう印象だったのだろう。ところが、皇族たちは首を傾げるばかりだった。燕良親王はずっと孝行な人物として知られていたはずだ。毎年、母妃の安否を気遣う上奏文を提出し、帰京を願い出ていた。時に許可され、時に却下されながらも、先帝の時代からそうしてきた。その孝心は誰もが感動するものではなかったか。しかし、今日はめでたい席。その言葉の真意を深く考える者は少なかった。ただ、清和天皇は意味深な眼差しで燕良親王を見つめた。燕良親王は一瞬顔色を変えたものの、すぐに平静を装って微笑んだ。「先祖は仁と孝を以て国を治められました。この甥が不孝であってよいはずがございません」玄武は湛輝親王を一瞥したが、何も言わず、さくらとの食事を続けた。宮宴の後、女たちは芝居見物に向かった。年越しの劇団は休むことなく、正月八日の朝廷開きまで公演を続けるのだ。芝居を見ながらの年越しは悪くない。少なくとも、時間が早く過ぎていく。定子妃は身重のため、既に自室に戻っていた。太后は皆と共に夜を過ごしていた。さくらは公務で多忙なため、滅多に参内できない。この貴重な機会に、自然と彼女の手を取って話に花を咲かせたいと思った。淑徳貴太妃も傍らに座り、「婚儀から随分経ちますのに、まだ懐勢なさらないのですか?」と尋ねた。さくらはこの手の質問への対応を最も煩わしく感じていた。子を持つか持たぬか、いつ持つかは、玄武と二人で決めることだった。さくらが答える前に、太后が口を開いた。「今やっと玄甲軍の大将となったところよ。何を急ぐことがありましょう。男が出世と仕途を重んじるように、女もそうあるべきではありませんか」さくらは常々、太后の考えの斬新さに感心していた。太后は女性の自己研鑽を強く奨励していた。以前、葉月琴音が軍に身を投じ、匪賊討伐で功を立てた時も、太后は喜び、琴音を高く評価し、天下の女性の模範と称賛したほどだ。今の「女も仕途を重んじるべき」という言葉に、さくらは深い感銘を受けた。もし他の誰かがこう言えば、玄武の子孫を望まないのだろうと疑われただろう。しかし、これは太后の言葉。さくらには、その真摯な信念が伝わってきた。芝
宮を辞して馬車に乗ると、さくらは早速玄武にその件について話を切り出した。玄武は有田先生の報告を思い出した。謀反事件以降、淡嶋親王邸は終始穏やかで、淡嶋親王自身もめったに外出しないという。有田先生は常に燕良親王邸と淡嶋親王邸を見張らせていた。淡嶋親王は二、三度ほど外出したが、いずれも酒宴に出かけただけで、その後は足が途絶えていた。「淡嶋親王は病気ではなく、都を離れた可能性もある」玄武は眉をひそめた。「我々の部下が常に監視してはいるものの、これだけ長く続けていれば油断も生じる。淡嶋親王が変装でもすれば、見破れないかもしれない」「この時期に都を離れるとすれば、どこへ?」さくらが尋ねた。「屋敷に戻ってから話そう」玄武は現在の情勢を頭の中で整理しながら、ある推測を巡らせていた。今夜の親王邸も賑やかで、太政大臣家の人々も集まって年越しの宴を共にしていた。しかし沖田家は潤を戻さなかった。宮中の宴会に参加すると知っているので、親王邸より沖田家で過ごさせた方が良いだろうとのことだった。親王邸に戻ると、そこでも賑やかな宴が催された。屋敷中の者たちが年玉をもらいに来て、さくらは気前よく配り、皆が喜んで満足げだった。玄武は有田先生と深水青葉と共に書斎へ入った。さくらは同行せず、彼らに討議を任せた。親王家の出し物は宮中よりずっと面白かった。棒太郎が拳法と剑法を披露し、二十両の賞金を手にした。道枝執事も興を添えようと歌を披露したが、皆は笑いながら耳を押さえ、「ひどい歌声だ!耳の損害賠償を要求する」と冗談を飛ばした。道枝執事にはこの癖があった。下手だと言われても気にせず、自分が良いと思えば歌うのだ。賠償金を払わされても構わないという勢いだった。一曲のつもりが、皆にはやし立てられ、勢い込んで三曲も歌った。音程も外れ、声も割れ、紫乃とさくらは涙が出るほど笑った。使用人たちもそれぞれの芸を披露した。投壺、手裏剣投げ、木登り、切り絵、さらには掃除係の者までが早業の掃除を見せた。紫乃は頬を押さえながら、「もう無理、これ以上笑えない。ご褒美目当てにここまでやるなんて」棒太郎は胸を張って、「もう一つ難しい技を見せてもいいか?」難しい技は十両、普通の出し物は一両の褒美だった。「どんな難しい技?」紫乃は笑い声が掠れ気味だった。棒太郎は目を輝か
書斎では、三人の男たちが一刻以上も話し合いを続けていた。もし本当に淡嶋親王が都にいないとすれば、行き先として三つの可能性があった。一つ目は関ヶ原。彼らはそこに回し者を潜入させているはずだ。二つ目は牟婁郡。私兵がそこに駐屯している。三つ目は都の外れにある駐屯地の衛所だ。おそらく淡嶋親王はこの数年、そこにも密かに手を回していたはずだった。どこに向かったにせよ、それは彼らが行動を起こすということを意味していた。しかし、これまで淡嶋親王は最も冷静さを保てる人物だと考えていた。なぜ今になって最初に動きを見せたのか。有田先生が言った。「恐らく背水の陣を敷いたのでしょう。結局、影森茨子はまだ生きている。怯えて暮らすくらいなら、一か八かに賭けてみようということかもしれません」「単なる捨て身の策とは思えん」玄武は首を振った。「これほど長く謀ってきた者たちだ。邪馬台の戦いの際が最善の好機だったはずだが、その時も兵を動かさなかった。今更、正面から謀反を起こすはずもない。必ず正当な理由が必要なはずだ。むしろ今は、関ヶ原の佐藤大将の方が心配だ」「平安京!」有田先生の目が険しくなった。関ヶ原で最大の不確定要素は平安京だった。恐らく淡嶋親王も平安京の皇帝が重篤だという情報を掴んでいるのだろう。もし本当に平安京を目指しているのなら、そこにも既に手駒を配置していたはずだ。しかも、その人物は新たな皇太子の側近である可能性が高い。関ヶ原、鹿背田城、平安京――これらが組み合わされば、いずれ爆発する火薬のようなものだ。予め対策は講じていたものの、実際に事が起これば、うまく対処できるかどうか。なぜなら、どう考えても変えられない事実がある。関ヶ原の総兵元帅は佐藤大将だということだ。これこそが、皆が最も懸念している点だった。さくらには残された親族が少ない。外祖父の一族は何としても守らねばならない。深水青葉が言った。「まずは穏やかに新年を過ごそう。水無月師妹に手紙を出して、あちらの様子に注意を払うよう伝えておく。動きがあれば、すぐに報告が来るはずだ」「ありがとう、大師兄」玄武は答えた。この年は、やはりしっかりと祝わねばならない。この静けさも、そう長くは続かないのだから。夜更けの丑の刻まで過ごした後、寝台に入ってからも、脚の傷が治った玄武は受けの
三姫子の今回の来訪目的は明確だった。刺繍工房と女学校の件について探りを入れるためで、もし北冥親王家で本当に女学校を創設するのであれば、自分の娘のために入学枠を確保したいという魂胆だった。本来なら娘を同伴すべきところだったが、そうすれば目的があからさまになりすぎる。さくらに娘の入学を強要するような印象を与えかねず、却って良くない。そこで娘は連れてこず、まずは入学条件などを聞き出して、準備に取り掛かろうという算段だった。「どうぞ御遠慮なく。奥の間でゆっくりとお話いたしましょう」さくらは微笑みながら三姫子たちを案内し、まだ眠そうな顔をしている玄武を、あくびを連発する清家本宗と共に残していった。「あのー」清家本宗は口を押さえながら、またしてもあくびをかみ殺すように言った。「親王様のところで、横になりながら話せる場所とかございませんかな?」玄武は目を丸くして「......はぁ?」という表情を浮かべた。この年でまだ夜更かしとは。ふしだらな爺めが――伊織屋の立ち上げに紫乃が重要な役割を果たしていることを知っていた清家夫人は、「沢村お嬢様のお姿が見えませんが、伊織屋のことでご相談したいことがございまして」と尋ねた。さくらは紫乃のことを気遣い、もう少し休ませてあげたいと思ったものの、清家夫人から直接問われた以上、使いを立てて起こしてもらうしかなかった。清家夫人には周到な計画があった。伊織屋は工房として機能するものの、場所が辺鄙なため、手工芸品を販売するには別に店舗が必要だという。彼女は店舗を一軒提供し、そこで作品を専門的に販売する意向を示した。売り上げは全て刺繍工房のものとし、制作者それぞれに応じた配分を行うという提案だった。「店の賃料は頂戴いたしません。これも善行の一助とさせていただきたく」清家夫人は続けた。「販売員の丁稚の給金も、収益が出るまでは私が負担いたしましょう。収益が出始めましたら、その中から支払うという形では、いかがでございましょうか」紫乃は少し考えてから口を開いた。「とりあえずはそのような形で進めさせていただければと存じます。まだ刺繍工房に何人の方が集まるかも定かではございませんので。もし順調に運営できるようでしたら、彼女たちの中から話の上手な方を選んで販売を任せるのも一案かと。すでに自活の道を選ばれた方々なのですから、人前に出
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一