しかし結局、何も抵抗ができないまま、お見合いの日を迎えてしまう。
亜季は母に無理やり着物を着せられる。桜色で鶴と菊の花が添えた訪問着。
絞めつけられて苦しいし、気分まで沈む。今すぐにでも帰りたいと思ってしまうほどに。
「いい? 亜季。相手が上司なんだから、なおさら失礼のないようにね?」
失礼だと思われたくないなら、辞めさせた方がいいと思う。
お見合いするのは豪華な料亭だった。きちんと手入れされた庭園に、上品で落ち着いた雰囲気。さすが料亭なだけはあって、和が感じられて素敵だ。
お見合いではなければ、どんなにいいところだろうか。
「失礼致します。お連れ様がお見えになりました」
案内されて一室に入ると、相手の方は既に着ていて座っていた。
そこで見た男性は間違いなく櫻井課長だったが。 勘違いで終わらなかったようだ。
ビシッとスーツ姿でキメて、背筋が伸びている。しかし表情はムスッとしていて明らかに機嫌が悪そうに見える。
思わず会社に居る時のことを思い出して、亜季まで背筋が伸びた。
「まぁ、なんて綺麗なお嬢さんかしら。はじめまして。智和の母の和美(かずみ)です」
ニコッと挨拶してくれる課長のお母様は、上品で優しそうな感じの人だった。
櫻井課長は、お父様似なのだろうか?
「は、はじめまして。松井亜季(まつい あき)と言います。よろしくお願い致します」
「……櫻井智和(さくらい ともかず)だ。こちらこそ、よろしくお願い致します」
お互いに頭を下げて挨拶をするが、その声がいつもより低く感じてしまう。
もしかして既に機嫌悪くさせてしまったのだろうか?
親同士は、何やら楽しそうに会話を始める。
亜季は緊張しながらチラッと櫻井課長を見ると、思いっ切りガン見されていた。怖くて前が向けない。
亜季は恐怖でガクガクと体を震わせるが、必死で心を落ち着かせようとする。
「亜季さんのご趣味は、何かしら?」
突然、向こうのお母様が話をふってきたので驚いてしまう亜季。
いきなりだったので、慌てる。
趣味と言っても自慢するほどのものは何もない。あくまでも楽しむだけの趣味しかないが。
「あ、はい。えっと……ガーデニングと映画鑑賞です」
「まぁ、素敵な趣味だわ。ガーデニングってどんなのを?」
「花とか育てるのが好きで。今、アパートに住んでいるのでベランダに少しだけ」
「この子ったら昔から土いじりが好きな子だったんですよ~本当、地味でお恥ずかしいわ~オホホッ」
褒めてくれたので亜季は恥ずかしそうに答えると、母が横から割り込んできた。
嫌だわと、笑いながら。昔から人の話に入りたがるから困ってしまう。
それに娘の趣味を地味とは、失礼ではないだろうか?
亜季はムスッとするが、顔に出さないようにする。それでも母は横から、でしゃばるように、
「智和さんのご趣味は、何ですの?」
と、課長に質問を投げかけてしまった。
櫻井課長の趣味は、あんまり想像ができない。まず趣味とかあるのだろうか?
それは亜季も気になってしまい、思わず耳を傾けてしまった。
「そうですね。読書と、トレーニングを」
「まぁ、鍛えてらっしゃるの?」
「はい。まだまだ大したものではありませんが。体を動かすのは好きなので」
読書は、たしかに似合いそうだけどトレーニングとは意外だ。
そんなイメージはなかったから驚く。
(脱いだらムキムキなのかしら?)
思わずムキムキな櫻井課長を想像してしまった亜季。
それは、それで怖さが倍増になってしまうが。余計に恐ろしくなり、思わず首を振って、忘れようとする。
その後も母同士が色々を質問してくるけど、櫻井課長は一言、二言だけ話す程度だった。
やはり自分が見合い相手だったのが気に食わなかったのかもしれない。
亜季は罪悪感と恐怖で顔が見られないまま、ただ黙って聞いていた。
あまり会話も進まず何故だか、2人だけで料亭の庭園を歩くことになってしまった。
気まずい……凄く。早く終わらせて帰りたい。とりあえず謝っておこう。
「あの……櫻井課長。すみません。こんなことになってしまって」
亜季は、櫻井課長に頭を下げて謝罪をする。
「……何故、謝るんだ?」 急に謝罪されたので、櫻井課長は驚いて聞いてきた。(何故と言われましても。こんな気まずい上に私がお見合い相手だからです) 櫻井課長だって選ぶなら美人で清楚な人がいいだろう。 自分では不釣り合いなことぐらい分かっている。そもそも部下なので論外だろうけど。「私がお見合い相手だからです。ガッカリされたのは承知しています。だからその…申し訳ありませんでした。断って下さってもいいので」 深々と、もう一度頭を下げる亜季。 何故そんなに頭を下げて謝るのかは、亜季自身も分からない。 ただ…気まずいやら怖いやらで、何とか機嫌を損ねたくなかった。 逆に失礼なことを言っているのかもしれないが、今の亜季はそんなことを考えている余裕はなかった。 櫻井課長は、そのまま黙り込んだ。もしかして怒っている? それとも呆れて口に出して言えないのだろうか?「松井」「は、はい」 突然、名前を呼ばれ思わず返事してしまう。全身ビクビクして震えていた。 (えぇ? もしかして怒られる!?) すると櫻井課長は私の腕を掴まえて、そのまま料亭の壁際まで連れて行かれる。 そしてバンッと壁ドンをされてしまう。 あまりの勢いだったので全身硬直してしまう亜季だった。(ひぃぃっ~!?) 普通よく漫画やテレビで観る壁ドンって、胸キュンとしたり、ドキドキするシーンが多いはずだが。 今の亜季には、胸キュンより恐怖が優先していた。これだと逃げることもできないし、追い詰められている。(怖い……誰か助けて!?) 思わず目をつぶりガタガタと震える。すると櫻井課長がボソッと、「お前は、そんなに俺が怖いか?」と小さな声で呟いてきた。「えっ?」 恐る恐る目を開けて櫻井課長を見ると、彼は切なそうな表情で亜季を見ていた。 まるで傷ついたように。「櫻井課長……?」「俺は、お見合い相手が君だと知ったから、お見合いを引き受けたんだ!」(えっ? 今なんて……??) 櫻井課長の突然の言葉に啞然とする亜季。 思わず櫻井課長の顔をジッと見つめると、目線を逸らしてきた。 しかも、ほんのり頬が赤くなっているではないか。(今の……聞き間違いではない!?) 思わない櫻井課長の恥ずかしそうな顔にドキドキしてしまった。 それでも課長は話を続けようとしてきた。「俺は……昔からこ
櫻井課長のお見合いを断る理由が思いつかない。 それよりも、もっと照れた櫻井課長課長を見てみたくなってしまった。 何よりも彼のことを知りたくなった。 そのままお見合いは終わってしまったが、亜季はずっと課長のことを考えていた。 翌日になってもチラッと櫻井課長のことばかり目で追ってしまう。 本人は、相変わらず怖い表情で黙々とパソコンと睨めっこをしていたが。 いつもの櫻井課長に戻っていた。 本当に昨日と同一人物なのだろうか? まだ自分のことを好きで居てくれているのだろうか? まるで、今では夢を見ていたような感覚だ。「どうしたの? さっきから櫻井課長のことばかりチラチラ見て?」 あんまりにも見るものだから美奈子が亜季に声をかけてきた。(えっ? そんなに見ていた?)「あ、別に。そう? お茶淹れてあげた方がいいか迷っていて」「あぁ、タイミングとか難しいよねぇ~課長の場合は」「……そうそう」 良かった……気づかれていないようだ。 慌てて誤魔化したから、変に思ったかと心配したが。 友人である美奈子でも言いづらい。『鬼課長』とお見合いをしてきたとか……驚かれるだろうし、恥ずかしい。「お茶……淹れてくるわね」 バレないように亜季は、そそくさと席を外した。 そして、そのまま給湯室に向かう。やっぱり櫻井課長にもお茶を淹れよう。 少しぐらい話とかできないだろうか? きっかけになればと思い、櫻井課長と自分と美奈子の分を用意する。 櫻井課長にお茶を淹れる時は、いつも緊張する。他の子達も言っていたが、タイミングが悪いと睨まれてしまうからだ。(何か理由があるのかも?) 昨日の櫻井課長を見ていたら違う気がしてくる。思ったより優しかったからだ。 そう思いながら、お茶を注ぎ終わると、タイミングを見てから櫻井課長のデスクに置いた。 違う意味でドキドキしてくるが。「失礼します。あの……課長。お茶をどうぞ」「うむ……ありがとう」 こちらを見ずにお礼だけ言われる。無愛想に笑いものせずに。(えっ? ……それだけ?) 亜季は、もう少し笑ってくれるか、こちらを見てくれると思っていた。 やっぱり、昨日の姿は幻だったのだろうか?少しでも期待していた分、残念な気持ちになっていく。 亜季は頭を下げて戻ると、すぐに櫻井課長は別の社員を呼びつけていた。
「は、はい」 私のことだよね? と返事をしながら振り向くと櫻井課長は亜季を見ていた。思わずドキッと心臓が高鳴ってしまう。 まさか呼び止められると思わなかったから驚いてしまった。「さっきのお茶……美味しかった。悪かったな。社内で馴れ馴れしいのも嫌だと思ったから」(もしかして気にしてくれたの?) 課長を見ると少し恥ずかしそうにしていた。照れている。 何だか亜季の胸の辺りがポカポカして温かくなってきた。「いえ…お気遣いありがとうございます」「それで……今夜予定が無いなら、一緒に食事でもどうだろうか?」「……えっ!?」「あ、いや…別に強制じゃない。嫌なら断ってくれてもいいから」「いえ。ぜひ、ご一緒させて下さい!」亜季は思わず口から出てしまった。自分でもびっくりしてしまう。 だが、せっかく誘ってくれたのに断るなんて亜季の中では、どうしても考えられなかった。「良かった。なら……そうだな。 仕事が終わったら駅のそばにある喫茶店で待っていてくれ。すぐに行くから。それと、この前の企画書は上手くできていたぞ」「ありがとうございます」 亜季は頭を下げると、そのまま部署に戻る。不思議だ。何だかスキップしたくなるぐらい嬉しい。 少し前なら恐怖だったし、呼び止められたら説教でも言われるのではないかと思って、ビクビクしていたはずなのに。今では口元がニヤニヤしてしまっていた。その気持ちは、顔にも出ていたようで、部署に戻った後に美奈子が亜季の顔を見て「どうしたの?何だか機嫌がいいみたいだけど?」と言ってきた。「そう…気のせいじゃない?」「怪しいわねぇ~何があったか教えなさいよ?」「何でも無いわよ~ほら、仕事をさっさと始めちゃおう」 そんなに顔に出ているのだろうか? でも、こうはしていられない。定時までには終わらせなくては。 急いでパソコンのキーボードを打ちやりかけの企画書を作成させる。 そして何とか仕事を無事に定時までに終わらせると、駅の近くにある一軒の喫茶店に向かった。 ここは通勤の利用者が多い。中に入っていくとサラリーマンや学生などが数人居た。亜季はコーヒーを頼み、窓際の席に座って櫻井課長が来るのを待つことにする。「課長まだかなぁ~忙しい人だから遅れるかしら?」何だか心臓が高鳴って落ち着かない。 キョロキョロと周りを見ると、まだ
店長がニコッと笑いながら丁重に案内してくれた。奥の席に座ると、亜季はメニュー表を見る。いろんな料理が書いてあった。 チラッと見ると櫻井課長も真剣な表情で選んでいた。(いつも思うけど櫻井課長って、真剣な表情って怖いわよね。あれが素だったのね) 機嫌が悪いだけなのかと思ったが、もともとの表情なのだろう。誤解してしまったことに申し訳なくなる。 そう思っていたら目が合ってしまう。亜季は慌ててメニュー表に目線を戻した。 見つめてしまったことに気づかれてしまっただろうか?「決まったか?」「あ、えっと…この鮭と野菜のホイル蒸しと、後は豆腐サラダにします」「ビールか何か飲むか?」「あ、はい。ならビールも一緒に」 ついでに注文して貰った。注文をすると沈黙が続く。見ていたことは気づかれなかったようだが、どうしよう。 何か話した方がいいだろうか? でも何を話したらいいのか分からない。 そもそも櫻井課長とは世間話をしたことがなかった。「えっと~素敵なお店ですね。上品な感じで。課長もこういうお店によく来るのですか?」「まぁな。料理も美味しいが何より落ち着く。君は、こういうお店は苦手か? あまりお洒落なお店とか知らなくて。悪いな」「いえ、私もこういう落ち着く感じが好きです。ただ、あまり行った事がなくて」 恥ずかしい……。実は小料理屋とかは、行ったことがなかった。行ってみたいと思ったことはあるが、何だか女性1人で行くには敷居が高くて。「普段は、どんなお店に行ったりするんだ?」「そうですね。同僚の美奈……玉田さんとはイタリアンとか居酒屋などに。色々なお店に行きます。ただ安いお店ばかりですが」「そうか…」 櫻井課長はそう言うと、また黙ったままになってしまった。 会話が続かない。櫻井課長は、普段口数が少ないタイプだし、もっと自分から話の幅を広げなくては。「あの~課長は、料理とか作りますか?」亜季はオドオドしながら何故だか、料理関係の話をふってしまった。 あまり作るイメージは無いけど、作ったりするのだろうか?「あぁ、作るぞ。一人暮らしが長いからか結構こだわりが強い方だ」 櫻井課長はあっさりとした表情で、そう言ってきた。作るらしい。こだわりとか強そうな雰囲気ではあったが、意外なことで亜季は驚いた。「君は、料理とか作るのか?」「たまに……で
(あんな嬉しそうな顔をするんだ?)「他にもお薦めのメニューとかあるぞ。今度食べてみるといい」「はい。ぜひ……」「じゃあ、今度また……あ、すまない。つい調子に乗ってしまった」 櫻井課長は、ハッとしたのか慌てだした。彼でも調子に乗ることもあるらしい。 亜季は思わずクスッと笑ってしまった。また櫻井課長の可愛いところを知ってしまったようだ。「いえ…また誘って下さい」そのせいか、不思議と何だかいい雰囲気になれた。素直に言うことも出来た。その後も料理の話をしたりと、会話が少しずつ増えていく。こういう時に、時間が過ぎるのは早い。あっという間に食べてしまい帰ることに。「あの……今日は、ごちそうさまでした」駅のそばで私は、お礼を伝える。。 会計の時に自分の分を払おうとしたが、櫻井課長が全額払ってくれた。 そんなつもりはなかったため申し訳ない気持ちになる。「いや…こちらこそ。今日は楽しかった…ありがとう」「いえ…こちらこそ。ありがとうございました。おやすみなさい」 亜季は深々と頭を下げると、お互い別れてホームに移動する。ハァ~緊張しちゃった。力が抜けてしまう。 こんなに緊張するとは……でも、また新しい櫻井課長が発見できた。 意外と料理を作るのも好きで小料理屋が好き。 今度、また一緒に行ったら新しい課長を発見できるだろうか? (次…いつ誘ってくれるかな?)自分から誘ってみたら迷惑だろうか? するとハッと気づく。いけない。課長の事ばかり考えているではないか!? 何だか胸が締め付けられそうな気持ちになる。不思議な気分だ。 そんな気持ちを抱きながら翌日。会社で仕事をしながら櫻井課長を見ると相変わらずの姿だった。 黙々と眉間にシワを寄せてパソコンのキーボードを打ち込んでいる。 あれは怒っているのではなくて、集中している姿。これも新しい発見だ。 今日もお茶を出したら喜んでくれるだろうか?そう思い席を立った。 給湯室で、お湯を沸かしていると誰かが入ってきた。同じ部署で後輩の澤村梨香(さわむらりか)さんだった。「お疲れ様です。あれ? それ、課長の湯吞みですか?」「えぇ、せっかくだから」 そう言いながら湯のみにお茶を注ぎ終わると急須を片付ける。すると、それを見て不思議に思ったのか、亜季に聞いてくる。「松井先輩ってマメですよねぇ~
すると数日後のことだった。「松井。悪いが、これを経理課まで届けてくれ」「あ、はい。承知しました!」 突然の頼みに驚くも亜季は引き受ける。書類を受ける。すると付箋が貼ってあったことに気づいた。何気に見てみると、『今夜食事でもどうだ? いいなら、こないだの喫茶店で待っていてくれ』 と、そう書いてあるではないか。二度目の食事のお誘いだった。まさかの出来事に亜季は嬉しくなる。 課長を見ると少し恥ずかしそうに頬を染めながら「頼んだぞ!」と言ってきた。「はい」 亜季は笑顔で返事をすると部署を出る。付箋を剥がしながら、もう一度見た。 自然と笑みがこぼれてしまう。また、同じ小料理屋に連れて行ってくれるのだろうか? 嬉しくて、その付箋をこっそりとポケットの中に入れた。そして、そのまま経理課に行き、受け取った書類を渡した。 仕事が終わると、私はこの前と同じ駅近くにある喫茶店で待つことに。 二度目でも、まだ心臓がドキドキしていた。会社とは、また違う櫻井課長が見える。 今日は、どんな発見があるのだろうか? しばらく待っていると課長が店内に入ってきた。「すまない。また遅くなった。待ったか?」「いえ、さっき来たばかりだから大丈夫です」「……そうか。じゃあ、行こうか」「はい」 謝ってくる櫻井課長に亜季は笑顔を向ける。そして伝票を持ち会計を済ませた。 連れて行かれたのは、美奈子と行ったことがあるイタリアンのお店だった。「女子社員に人気だと聞いたから、来たことはあるか?」「あ、はい。玉田さんと一緒に」「……そうか。俺と一緒では嫌かも知れないけど、今日は我慢してくれ」「いえ……全然構いません」 何だか照れくさいけど嬉しい。 だが店内に入ると、すぐに澤村梨香を見かけてしまう。 (あ、澤村さん達だわ!? どうしよう) 一緒に居る所を見られたら何を言われるか分かったものではない。 噂が好きな人たちだ。課長に迷惑をかけてしまうだろう。「どうした? 松井」「あ、いえ……その」 どうしたらいいか戸惑っていると課長も澤村梨香たちに気づいてしまう。 戸惑う亜季を察したのだろう。「……店を替えるか」「あ、でも……」 櫻井課長は、そう言うと先に店から出てしまった。 どうしよう。このままだと櫻井課長を見られるのが嫌だと勘違いされてし
泣きそうになっている亜季に、櫻井課長は咳払いをしてきた。でも、まだ耳まで赤くなっているのが分かる。照れいるのだろうか?「とにかく、何処かの店に入ろう。えっと……この前の小料理屋でもいいか?」「あ、はい」 亜季は、すぐさま返事をする。そのまま歩いて小料理屋に向かった。 店に着いても何だか鼓動が高鳴って落ち着かない。この前と違うメニューを頼みビールを飲んでいると、櫻井課長の方から話しかけてくれた。「さっきの……あまり男性に言わない方がいい」「えっ? どうしてですか?」 もしかして気に障ったのだろうか? どうしようと亜季は不安になってしまった。「……男が変に勘違いをしてしまうからだ。俺に気があるのかって」「えっ……?」 その言葉に亜季は。また頬が熱くなってしまう。 櫻井課長に気があると想われちゃったのだろうか? だけど亜季は、それが嫌だと思わなかった。それよりも、ドキドキと鳴っている心臓の方がうるさい。「もちろん勘違いだと分かっているが、あまり男性を刺激しない方がいい。トラブルになったりするから。君は、もう少し警戒心を持った方がいい」「……はい。すみませんでした」 ちょっと説教気味に注意をされてしまった。謝るが、今度はズキッと心が痛む。 やっぱり怒らせてしまっただろうか? 勘違いさせられたって。しゅんと亜季は落ち込んでしまう。「あ、すまない。またいつもの癖で説教をしてしまった。 別に君を叱りたいわけではないんだ」「……はい。大丈夫です……すみません」 何だか空気が重くなってしまった。これでは、会社に居る時と変わらない。 そうしたら店長が間に入ってきた。「おいおい、櫻井さん。あまり女性に説教したら嫌われちゃうぞ?」「べ、別にそういうわけでは」「すまないねぇ~櫻井さんは君を想って言っただけだから。他の男性に言い寄られたら自分が嫌だからって」 代わりに謝罪をしてきた。それを聞いて課長は慌てだした。 他の男性に言い寄られたら嫌だから……?「あの……それって本当ですか?」 思わず口から出てしまう。すると、また課長は目線を逸らしてきた。 さらに耳まで真っ赤になっていた。「あ、あぁ…まぁ。 今回は俺だったから良かったが……」「私は櫻井課長だから言ったんです。他の人には言いません」 それだけは勘違いされたくない。
亜季と課長は、それからメッセージアプリでやり取りをするように。 話題は、たわいのない出来事だけど。顔が見えないせいか、お互い話が進んでいく。 そこでも櫻井課長の意外な素顔や新しい発見をする。『櫻井課長。今何をしているのですか? 私は今日借りてきたⅮⅤⅮを観ています』『さっきまでジョギングをしていた。汗をかいたからシャワーを浴びていたところだ』 ジョギングとは、いつもこの時間帯で走っているのだろうか?それに何キロを? 気になりメッセージをしてみた。『いつも何キロ走っているのですか?』『大体五キロぐらいだな。多くて十キロ。ジムも行ったりするが』 多くて十キロとは驚きだ。趣味がトレーニングと言っていたけど。 なかなか走れる距離ではないだろう。亜季は思わず感心する。『凄いですね。私は運動音痴なので、そんなに走れません』『そうなのか? 鍛えると運動音痴も改善するかも知れないぞ。今度いいトレーニング道具を貸してやる』『ありがとうございます。機会がありましたらぜひ』 トレーニング道具か…どんなのだろうか? 亜季はハァッ~と深いため息を吐いた。メッセージで、こんなに話せるなら直接もっと話がしたい。 櫻井課長の前だと緊張してしまい上手く話せない。無口な人だし。 亜季は口下手な方だ。そう思いながらスマホを眺めていた。 櫻井課長は、どんな気持ちでメッセージを打っているのだろうか?同じ気持ちならいいのに。と、ⅮⅤⅮを観ずに、ずっとスマホを眺めていた。 そして待ちに待った日曜日。櫻井課長と映画を観ることになったのだが。 初デートと言ってもいいのだろう。 気合いを入れて最近購入した白色のトップスにジャケット。 藍色のコットンスカート。 会社の時と違って服やメイクに気を使った。 ちょっと、気合い入れ過ぎただろうか? そう思いながら待ち合わせ場所の駅に電車に乗って向かう。 目的地の駅に着くと、既に改札口のそばで櫻井課長が待っていた。 いつものスーツ姿と違って私服姿。グレーのシャツに黒色のジャケットとジーンズ。 意外とお洒落な感じだ。「あの……遅れて申し訳ありません」「大丈夫だ。今さっき着いた」 慌てて謝罪をしながら課長のところに行くと、櫻井課長は何故だか驚いた表情をしていた。そして何も言わずに黙り込んでしまう。(あれ……? もしか
美奈子は「ただ」の意味が分からなかった。好みはあるから可愛いとだけなら分かるけど。八神はフフッと笑う。「泣いている姿を見ていた時は守ってあげたいと思ったし、相手のことを悪く言わないところとか、好印象を抱いた。それを含めて可愛いなって。人って、何かのきっけで好きになったりするから。分からないものだよね。今だって、友人思いの君のことを純粋で可愛いと思っているしさ」「はっ? 意味分からない!?」 亜季のいいところは、美奈子は十分理解しているつもりだ。八神が彼女に惹かれる部分があっても仕方がないと思っている。 しかし、どうして。そこで自分が可愛いと思うのだろうか? 美奈子は顔を耳まで真っ赤にして動揺してしまう。可愛げのない発言をしてしまった。言われ慣れていないので心臓がドキドキと高鳴ってしまう。 そうしたら八神はハハッと大笑いする。「耳まで真っ赤だよ? なんてね……驚いた?」「はっ? もしかして、からかったの!? 信じられない」 せっかく少し同情したのに、台無しだ。 やっぱりチャラい。あと性格が悪い気がする。美奈子はムスッとしてしまう。 八神はハハッと笑いながら、涙を拭った。「ごめん、ごめん。からかい過ぎた。でも……君に純粋なのは本当だよ。友人のことで、そこまで怒れる人はなかなか居ないと思う。上辺ばかりの女性と違って、純粋で優しいと思うよ」「えっ……そんなことは」 やはり言われ慣れていない。だからか、余計に体が熱く火照ってしまう。 例え冗談だとしても心臓に悪い。「だからと言って、からかわないで下さい。私は恋愛でも、手を抜きたくないんです」「いやだなぁ~俺だって、手を抜くつもりはないよ。いつだって本気だし」「どうだか!」 あー言えば、こう言う。なんだかお互いに言いたいことをぶつけているような気がする。まるで喧嘩友達のように。 おかしいと美奈子は思っていた。 イケメンを見ると、キャーキャー言う方だ。どちらかと言えばミーハー。それなのに、イケメンのはずの八神には素になってしまっている。 すると、八神はハハッと笑う。「なんだか、いいね。こういうの。俺に媚びとか売ってこないし。素で話せる人って、なかなか居なかったんだよね」「……確かに、友人とか居なさそう」「うわ~酷いな」 そう言い合いながらも、いつの間にか、お酒の席が賑やかにな
(落ち着け……自分。相手は軽い男よ。彼の好きなタイプは亜季みたいな子だし) 自分を落ち着かせるために、心で言い聞かす。 八神の好きなタイプは亜季みたいな素直な子みたいだ。真面目で一途な。「もしかして、俺のこと……警戒しています?」「えっ!? そ、そんなことないけど……」 そうしたら八神は美奈子にそんなことを聞いてきた。心の声が聞こえてしまったのかと思って、美奈子は焦る。警戒しない方が無理もないが。すると八神はハハッと笑ってきた。「ハハッ……警戒しているのがバレバレですよ? でも、仕方がない。俺、亜季にしつこく迫っていたから」 どうやら自覚はあるらしい。 余計なことを言うから、亜季は気にして櫻井課長を別れを切り出してしまったのだ。 結局のところは、合コンで会った、青柳って人に助言をしてもらったお陰で、上手くいっただけで。その間は落ち込み過ぎて美奈子は相当心配していた。 だから八神のしたことは、余計なおせっかいだと思っている。「……そうですよ。しかも余計なことまで言うし。そのお陰で亜季は、凄く泣いて落ち込んでいたんですよ」 美奈子は、彼の発言に少しムッとする。簡単に言っているからだ。 八神は、美奈子の発言に苦笑いをしていた。「そうだね……ごめん。でも、俺も真剣だったんだよ。別に彼女を傷つけるつもりはんかった。でも、苦しんでいる彼女を見ていたら……言うしかなかった。落ち込ませるような奴より俺にしたらいいのにって」「それが、余計なおせっかいなんです!」 美奈子は、ドンッとカウンター席のテーブルを思いっきり叩いた。周りは驚いた顔をしていたが。 彼は何も分かっていない。亜季は本当はそんなことは望んでいなかった。亜季が言っていた青柳っていう人の方が理解をしている。 そうしたら八神は、とても悲しそうな表情をする。「……そうだね。俺は……彼女を傷つけた。確かに、おせっかいだったかもしれないね」 今にも泣きそうだ。「あ、あの……ごめんなさい。言い過ぎました」 思わず言い過ぎてしまった。彼だって本気だったかもしれないのに。 自分も人のことが言えないだろう。そうしたら八神は苦笑いする。「気にしないで。俺は……昔から誤解されやすいから。女遊びが激しいとか、性格がチャラいとかさ。ただ一途なだけなのにね」 美奈子は言葉を失う。 彼は、本当に亜
玉田美奈子(たまだ みなこ)は昼下がりに会社の窓から見える景色を見ながら、ため息を吐いていた。 真夏の日差しは眩しくて、とにかく暑い。(今頃、亜季は何をしているのかしら?) 同期で友人の松井亜季(まつい あき)が櫻井課長を追いかけて、海外に行ってから半年が経った。 色々あった二人だったが、結ばれて結婚した。今では彼女のお腹には子供が宿しているとか。 最初は心配していた美奈子だったが、上手くやっていると聞いてホッと胸を撫で下ろしていた。しかし同時に羨ましく思う自分も居た。 彼氏が欲しい。そう思っていても、なかなか気になる相手が現れなかった。 合コンに積極的に行ったり、友人に紹介してもらってこともあったが、どれもピンッとこない。結局、すぐに別れてしまう。 多分そこまで好きではなかったか、恋愛に向いていないのかもしれない。 明るいが気が強い。そして、はっきりとした性格。飛びぬけて美人でもない。 そのせいか、友人止まりになってしまうこともしばしば。 亜季みたいにちょっと危なっかしいが、大人しく。真面目な性格だったり、後輩の澤村梨香みたいな少しぶりっ子な可愛い女性だったら、また違ったのかもしれないが。(あ~どこかに居ないかしら? カッコ良くて、エリートの一途な男性は) 高望みだと分かっていても、フッとそんなことを考えてしまう。 美奈子も28歳になる。そろそろ結婚しろと両親がうるさい。しかし相手が居ないと始まらない。また合コンで行くしかないかと思った。 そう思いながら、パソコンのキーボードを打って仕事を再開させる。 (今日は一人で飲みに行こっと) 仕事を定時に終わらせて、最近見つけたバーに向かった。駅から少し歩いたところにある。 ビルの地下にあるバーなのだが薄暗い店内だが、ジャズの曲が流れていてお洒落だ。 物腰の柔らかい年配のバーテンダーがいろんなカクテルを作ってくれる。 美奈子は、カウンター席に座って、お任せでカクテルを頼む。少し、その年配のバーテンダーと話していると、カラッと音を立ててドアが開いた。 誰が来たのかと振り向くと、その人物に驚いた。入ってきたのは、八神冬哉(やがみ とうや)だったからだ。 彼は、我が社の海外営業部で働いているエリート社員。顔立ちもいいのでモテる。 しかし彼は、亜季の猛アプローチしていた過去を持つ。
どうやら彼女の両親は離婚していたようだ。 青柳のところは両親が忙しかったので、祖父母が代わりに面倒を見てくれることが多かった。そのせいか、考え方が少し年寄りみたいだと言われることはあったが。「俺は両親が共働きだったせいか、祖父母に育てられた。だから夫婦のことは分からない。だが……あの夫婦は、確かに暖かかった」 俺にはないものを持っている。そう青柳は感じていた。 もしかしたら、どこか羨ましかったのかもしれない。「私は、そういう夫婦になりたかったんです。だから、基紀……元カレに言われ時に、違うなと思ったのだと思います。別れが言えたのも……それが影響したのかも。自分に自信がないのもありますが」 モジモジしながらも話す彩美。それを聞いて青柳は彼女なりの信念があるのだろうと感じた。 どうしても譲れないもの。それは自分にもあるように。 店長がビールが入ったジョッキーを持ってきたので一口飲んだ。「いいのではないか? それが君の信念だ。譲りたくないものがあれが、譲らなくてもいい。俺は……いいと思うぞ」「あ。ありがとうございます」 彩美は頬を赤く染めながらもビールを飲んでいた。 そういうところが真っ直ぐなのかもしれない。青柳は彼女に好印象を持つ。 その後。食事を済ませて、お店を出る。お礼だからと、彩美が奢る形で。「ご馳走様。本当に良かったのか? 奢ってもらって」「はい、お礼のつもりで誘ったので、大丈夫です。あ、あの……それよりもメッセージアプリのⅠDを聞いてもいいですか?」「えっ?」 青柳は彩美の言葉に驚いてしまった。まさかメッセージアプリのⅠDを聞いてくるとは思わなかったからだ。「あ、あの……ダメでしょうか?」「あ、いや……別に、いいけど」「本当ですか!?」 嬉しそうな顔をする彩美。その表情を見た時、青柳は嫌な気持ちにはならなかった。 それよりもドクッと確かに心臓の鼓動が速くなったのを感じた。 その後。青柳と彩美の交流は続いていた。 もちろん教習所の生徒と教官の関係制としてもだが。それ以外でもメッセージを送り合ったり、会う回数が増えていく。「青柳さ~ん」「ああ、おはよう」 日曜日に彩美と会う約束をする。彼女が観たがっていた映画を観に行く予定だ。 隣で歩く彼女が当たり前になっていくのを感じる青柳。自然と手をつなぐことも慣れて
「人の価値は相手に決めてもらうものではない。俺も無口で不愛想とか言われることもあるが、それが自分だから変える気はない。君も、そのくだらない相手の意見ばかり聞いて、どうする。教習所でミスをしても、めげずに通ってくる勇気と一生懸命な君のほうが、何よりも価値があると思うぞ」 青柳は自分は間違ったことは言っていないと思っている。言葉はキツいが、それが本心だった。 彩美は大人しい性格ではあるが、真面目で一生懸命だ。失敗しても、必ず予習をしてくるし、嫌なことは嫌だと言える勇気はある。 ちょっと危なっかしいところも、人の見方によっては守りたくなる分類だろう。 そう考えると、青柳は少しずつだが彼女の存在が大きくなっていくのが分かった。 それは……あの亜季に似ているからかもしれないが。 すると彩美は何か考え事をしていた。そして青柳を見るとモジモジとしている。「……私、変われるでしょうか? もっと価値のある人間に」「……さあな。それも俺が決めることではない。しかし、俺は……あんたみたいな性格の人間は嫌いじゃない」 これも本心だった。 彩美はそれを聞いて。モジモジとしながら、ほんのりと頬を赤く染めていた。その意味は分からなかったが。 コーヒーを飲んで、その帰り際。「それでは」と言って、帰ろうとする。すると彩美が声をかけてきた。「あ、あの……お礼をさせて下さい。い、一緒にご飯とかどうですか?」 途中で嚙んではいたが彼女の方から食事のお誘いがくる。まさか誘われるとは思わなかったので青柳は驚いてしまった。「あの……ダメですか?」「あ、いや。構わないけど……」 彼女とは教官と生徒としての関係だ。あまりプライベートでは会うべきではないのだが、どうしてか断わる理由が見つからなかった。 そうこうしているうちに一緒に食事をすることになってしまった。 向かった先は駅から少し離れた場所にある小料理屋。落ち着いた雰囲気のある、お店だ。ここに入るのは初めてだが。 中には入ると店長らしき人が出迎えてくれた。しかし青柳の顔を見ると驚いた顔をされる。どうしたのだろう? と思っていたら「あ、すまない。知り合いの顔に似ていたから」「えっ?」 知り合いの顔に似ていると聞かれたのは初めてではない。まさか?「その方って、櫻井さんですか?」「おや、知っているのかい?」 青柳が
青柳が亜季と合コンの後に再開した時に、何故か泣かしてしまった。 もちろん、そんなつもりはない。だから動揺してしまう。「す、すまない、泣かせるつもりはなかったのだが」「あ、いいえ。違うんです。安心したら涙が……すみません。すぐに涙を引っ込ませますので」「いや……別に、無理に引っ込めなくても」 青柳は慌ててカバンからハンカチを取り出して、差し出した。「これを」「あ、ありがとうございます」 彩美は申し訳なさそうにハンカチを受け取った。それでも、なかなか泣き止まないので、仕方がなく近くの喫茶店に入ることに。 ここも光景も同じ経験していた。 彼女はオレンジジュースを頼み、青柳はコーヒーを注文する。しばらくしたら彩美は落ち着いてきたようだった。「……落ち着いたか?」「はい。お見苦しいところをお見せして、すみませんでした」「……こういうところも似ているかもな」「えっ?」「いや……こちらの話だ。それよりも、あの男性は彼氏だったのか? 別れを切り出していたが」 青柳は亜季を重ねつつも、彩美にさっきのことを尋ねた。そうしたらビクッと肩を震わした。「……悪い。聞いたら、まずかったか?」「あ、いいえ。そんなことはありません。あの人は……元カレです。以前付き合っていたのですが……お恥ずかしながら浮気をされてしまって。別れても、しつこくやり直そうと言われています」 どうやら元カレで間違いなさそうだ。浮気をしておいて、関係を続けたいとは勝手な話だ。「なるほどな。で? 君は、あの男に本当に未練はないのか?」「えっ……?」 さっきの態度だと、別れたそうにしていたが。 しかし以前のことがある。ちゃんと割り切れるかが問題だろう。 そうしたら言葉に詰まらせる彩美。 青柳は店員が持ってきたコーヒーに口をつける。「実際に別れたと思っているなら、それでいい。だが、まだ未練があって、やり直したいと思っているなら話は別だ。相手に分かってほしいは、通用する相手はないと思うが?」 恋愛とはよく分からない青柳だったが、これだけは分かる。あの男は自分勝手だと。 人より観察眼はある方だ。だから余計に思ってしまう。 亜季と櫻井課長みたいに純粋に相手を想い合っているとは思えなかった。あえて聞いたのは、確かめたかった。 彩美はスカートの裾をギュッと握り締める。「…
(ここにも居た……運転の下手なやつが) まさか、亜季みたいなタイプを担当するとは思わなかった青柳。これでは彼女の二の舞だ。 ため息を吐いている姿を見て、彩美はしゅんと落ち込んでしまう。「……すみません」「謝らなくても大丈夫。初めてなんだから仕方がないことだ」 そう言ってみせるが、どうやら彼女は謝る癖があるようだ。そういうところは、どこか亜季に似ていると思う青柳。 その後も通ってきて運転の講習を受ける彩美。 細かいミスを連発するが、他の生徒と比べて真面目だった。一生懸命で、どこか危なっかしい。少しずつではあるが、上手くなっていく。「出来ました」「ああ、良くなったと思う」「本当ですか!?」 そして上手くやれると、嬉しそうに笑顔を見せてくれた。やはりどこか似ている。 諦めたはずの彼女に……。 青柳は彩美に亜季の面影を重ねるようになっていく。(俺も……どうにかしている。彼女は松井さんではないのに) 本来なら距離を置きたいところだった、これ以上重ねないためにも。 しかし担当教官な以上は、責任を持って最後まで指導しないといけない。 青柳はギュッと胸の辺りが苦しくなっていく。 そんなある日。仕事が終わって帰る途中だった、。青柳は駅の辺で揉めている男女を発見する。その女性は彩美だった。(あれは……真中さん!? 彼氏と喧嘩でもしているのか?) 本来なら他人の揉め事に関わることはない。興味はないし。 しかし、彩美は恐怖でガタガタと震えているようだった。すると男性の方が声を上げる。「お前、いい加減にしろよ。せっかく俺がやり直してやるって言っているのに」「だから……無理なの」「何でだよ? 別に、ちょっと他の子と遊んだだけじゃないか? あれぐらいは男なら当たり前だし」 どうやら別れ話で揉めている様子だった。聞いたところだと、彼氏が浮気をしたのだろう。 そして彼女が別れを切り出したら、ここまで待ち伏せさせられた感じだろうか。 彩美は恐怖で目尻に涙を溜めていた。「基紀(もとき)が平気でも……私は辛い。だから別れて」「くっ……お前、生意気なんだよ。地味で冴えないから、付き合ってやっているのに」 そう言うと、キレたその男性は手をあげようしてきた。このままだとぶたれてしまう。 そう思ったら、自然と青柳の足は動いてしまった。ガシッと、基紀と
どこか危なっかしい。 本人は悪気がないというより、少し抜けているところがある。天然とういうのだろうか? 結局、自宅に招かれることになってしまった。 その時に青柳が驚いたことは、亜季の言っていた櫻井課長だ。似ているとは言っていたが、まさかここまで似ているとは思わなかった。亜季の息子である和季が勘違いするほどに。 お互いに気まずくなる。だから、自分を重ねるわけだと納得してしまう。 それなのにニコニコしている亜季を見て青柳は、ため息を吐いた。(これは……彼女の旦那も大変だな)と……。 どうも放っておけない。だからこそ、気になってしまったのだろう。 そして、これほど積極的で真っ直ぐに感情を向けてくるのだから、意識しない方が無理である。 亜季は深々と頭を下げると、櫻井課長も同じく頭を下げてくれた。「俺の方からもお礼を申し上げます」「2人共…頭を上げて下さい。それに俺、そんな立派なものではないです。ただの卑怯な奴ですから」「どうしてですか?」 亜季は不思議そうに尋ねるが、少し寂しそうな表情を見せる青柳だった。 自分は、それを言ってもらえるような人間ではない。「それは、秘密です。墓まで持って行くつもりなので」 青柳は、自分ことを卑怯な人間だと思っていた。 本当は、その先を期待していた。亜季が振られて帰ってきた際は、慰めたいと思っていたからだ。 上手くいったら諦めるはずだった。だが……もし。 彼女はダメだった時は、吹っ切れてほしい。そうしたら改めて交際を申し込める。 それは振られることを期待すること。それが……自分が持っている感情だった。(俺って……最低だな。彼女に笑ってほしいと思いながら、こんなことを望むなんて。だから、これは墓まで持っていくつもりだ) そう青柳は心に誓った。 自分の恋は、こうしてあっけなく終わってしまった。でも、それで良かったのかもしれないしれない。笑ってくれるのなら。 それから何ヶ月が経った頃。青柳は、いつもの日常を過ごしていた。 今回から、また新しい生徒を担当すること。青柳は資料を見る。 名前は真中彩美(まなか あやみ)大学2年生らしい。 学生のうちに免許を取得する人は多い。(真面目な子だといいのだが) 青柳は、そんな風に思っていた。そして実際に会ってみると、小柄で大人しい雰囲気の女性だった。
それが会ってハッキリすると、無性に腹が立ってきた。 ウジウジしていないで、ちゃんと向き合ってほしい。その櫻井課長にも。 「まぁ……簡単に忘れられるものではないだろう。焦らずに居ることだな。いずれは時間が解決してくれる」「青柳さん……」「……そう言って欲しいのか? 俺に」「えっ?」 そう思ったら、自分でも驚くぐらいに亜季に説教をする青柳。 そこまで言うつもりはなかったが、口が動いたら止まらなかった。そこで、ようやく気づいた……自分の気持ちに。(俺は、吹っ切ってほしかったんだ)と……。 ずっと櫻井課長のことを考えないでほしい。そのためにも、ハッキリさせてほしかったのだろう。 上手くいけば仕方がないが、もしダメだったら。踏ん切りがつくはずだ。本気でぶつかった相手なら、言わないよりも言った方がスッキリする。 なんより、彼女に笑ってほしかった。沈んだ姿は似合わないと思った。「やり直したいと思うなら動け。君が動かない限りは何も変わらない」「……まだ……やり直せるでしょうか?」「さあな。そんなの俺に聞いても分からない。で、どうするんだ?」 青柳の言葉に、亜季は静かに前を見る。 動かないと何も変わらない。それは自分自身にも言っていることだ。「私……追いかけます。課長とやり直したいから」「……そうか」 青柳は、これ以上は何も言わなかった。彼女が決めたことだからだ。 食事を済ませてお店を出ると、亜季は頭を深く下げて、お礼を伝えてきた。「ご指摘ありがとうございました。私……目が覚めました!」「どうやら、ちゃんと前を向く気になれたようだな」「青柳さん……」 青柳は静かに微笑んでみせる。 亜季の顔を見ると、どこかスッキリしていた。きっと、自分のやるべきことを見つかったのだろう。(ああ、彼女は笑うと魅力的な人だな) やっと彼女の微笑む姿を見ることができたのに、気持ちは切なかった。 でも……これで良かったのかもしれない。そう青柳は思った。「もし、ぶつかってみてダメなら、また俺に連絡して来い。相談でも愚痴でも聞いてやる」「ありがとうございます!」 青柳はそう言ったが、そこに本音が隠れていた。でも、それは言わないつもりだ。 彼女が、ちゃんと向き合って、会いに向かうまでは。 そして亜季は頭を下げると、青柳とそのまま別れた。