「……何故、謝るんだ?」
急に謝罪されたので、櫻井課長は驚いて聞いてきた。
(何故と言われましても。こんな気まずい上に私がお見合い相手だからです)
櫻井課長だって選ぶなら美人で清楚な人がいいだろう。
自分では不釣り合いなことぐらい分かっている。そもそも部下なので論外だろうけど。
「私がお見合い相手だからです。ガッカリされたのは承知しています。だからその…申し訳ありませんでした。断って下さってもいいので」
深々と、もう一度頭を下げる亜季。
何故そんなに頭を下げて謝るのかは、亜季自身も分からない。
ただ…気まずいやら怖いやらで、何とか機嫌を損ねたくなかった。
逆に失礼なことを言っているのかもしれないが、今の亜季はそんなことを考えている余裕はなかった。
櫻井課長は、そのまま黙り込んだ。もしかして怒っている?
それとも呆れて口に出して言えないのだろうか?
「松井」
「は、はい」
突然、名前を呼ばれ思わず返事してしまう。全身ビクビクして震えていた。
(えぇ? もしかして怒られる!?)
すると櫻井課長は私の腕を掴まえて、そのまま料亭の壁際まで連れて行かれる。
そしてバンッと壁ドンをされてしまう。
あまりの勢いだったので全身硬直してしまう亜季だった。
(ひぃぃっ~!?)
普通よく漫画やテレビで観る壁ドンって、胸キュンとしたり、ドキドキするシーンが多いはずだが。
今の亜季には、胸キュンより恐怖が優先していた。これだと逃げることもできないし、追い詰められている。
(怖い……誰か助けて!?)
思わず目をつぶりガタガタと震える。すると櫻井課長がボソッと、
「お前は、そんなに俺が怖いか?」と小さな声で呟いてきた。
「えっ?」
恐る恐る目を開けて櫻井課長を見ると、彼は切なそうな表情で亜季を見ていた。
まるで傷ついたように。
「櫻井課長……?」
「俺は、お見合い相手が君だと知ったから、お見合いを引き受けたんだ!」
(えっ? 今なんて……??)
櫻井課長の突然の言葉に啞然とする亜季。
思わず櫻井課長の顔をジッと見つめると、目線を逸らしてきた。
しかも、ほんのり頬が赤くなっているではないか。
(今の……聞き間違いではない!?)
思わない櫻井課長の恥ずかしそうな顔にドキドキしてしまった。
それでも課長は話を続けようとしてきた。
「俺は……昔からこの顔立ちのせいか変な誤解をされやすい。 だけど、君がお見合い相手だと分かり、どうしても諦め切れなくて。気になっていたんだ。入社した頃から。でも、こんな風貌や立場上だから、その……上手く接してやれなかった」
櫻井課長は、しどろもどろしながら話している姿は初めて見る。
それって……つまり。
思い上がりかも知れないが、そう考えたら心臓がドキドキと高鳴ってしまう亜季。
「それって……私のことが好きってことですか?」
思わず亜季の口から出てしまった。 すると、その瞬間だった。
頬を赤くする櫻井課長。どうやら亜季の予想が当たってしまったようだ。
思わない彼の気持ちを知ってしまう。
「いや……その、申し訳ない。やはり嫌なら断ってくれても構わない。強制でも何でも無いから。ただ……これだけは、言わしてほしい」
そう言うと壁から手を離した櫻井課長は、亜季の頭をポンポンと撫でてくる。
「これから少しずつでいい…俺のことを知ってほしい。好感を持ってくれたら、それだけでも嬉しい」
少し照れくさそうに、そう言ってきた。
その表情と、ぬくもりがある優しい手は今まで見てきた櫻井課長とは違った。
何だか心臓の辺りがポカポカとあたたかい。
そして、キュンと胸が締め付けられるような気持ちになった。
(何、この気持ちは!?)
「悪かったな。強引なやり方をして。これではセクハラだと言われてしまうな? 戻ろう……家族が心配をしているだろうし」
櫻井課長はそう言うと、静かに歩き出した。
でも振り向き様に「行くぞ? 松井」と、いつものように苗字を呼んだ。
いつものように呼ばれているだけなのに、何だか恥ずかしくなってくる。
心臓の鼓動が速くなっているのが自分でも感じた。
「は、はい」
亜季は、慌てて櫻井課長の元に駆け寄って行く。
今の自分は、きっと彼のように真っ赤だろう。
おかしい。さっきまで恐怖としか思わなかった櫻井課長のことが、少し可愛く見えてきた。
(私は、どうしたらいいのだろうか? お見合いを断るはずだったのに……)
櫻井課長のお見合いを断る理由が思いつかない。 それよりも、もっと照れた櫻井課長課長を見てみたくなってしまった。 何よりも彼のことを知りたくなった。 そのままお見合いは終わってしまったが、亜季はずっと課長のことを考えていた。 翌日になってもチラッと櫻井課長のことばかり目で追ってしまう。 本人は、相変わらず怖い表情で黙々とパソコンと睨めっこをしていたが。 いつもの櫻井課長に戻っていた。 本当に昨日と同一人物なのだろうか? まだ自分のことを好きで居てくれているのだろうか? まるで、今では夢を見ていたような感覚だ。「どうしたの? さっきから櫻井課長のことばかりチラチラ見て?」 あんまりにも見るものだから美奈子が亜季に声をかけてきた。(えっ? そんなに見ていた?)「あ、別に。そう? お茶淹れてあげた方がいいか迷っていて」「あぁ、タイミングとか難しいよねぇ~課長の場合は」「……そうそう」 良かった……気づかれていないようだ。 慌てて誤魔化したから、変に思ったかと心配したが。 友人である美奈子でも言いづらい。『鬼課長』とお見合いをしてきたとか……驚かれるだろうし、恥ずかしい。「お茶……淹れてくるわね」 バレないように亜季は、そそくさと席を外した。 そして、そのまま給湯室に向かう。やっぱり櫻井課長にもお茶を淹れよう。 少しぐらい話とかできないだろうか? きっかけになればと思い、櫻井課長と自分と美奈子の分を用意する。 櫻井課長にお茶を淹れる時は、いつも緊張する。他の子達も言っていたが、タイミングが悪いと睨まれてしまうからだ。(何か理由があるのかも?) 昨日の櫻井課長を見ていたら違う気がしてくる。思ったより優しかったからだ。 そう思いながら、お茶を注ぎ終わると、タイミングを見てから櫻井課長のデスクに置いた。 違う意味でドキドキしてくるが。「失礼します。あの……課長。お茶をどうぞ」「うむ……ありがとう」 こちらを見ずにお礼だけ言われる。無愛想に笑いものせずに。(えっ? ……それだけ?) 亜季は、もう少し笑ってくれるか、こちらを見てくれると思っていた。 やっぱり、昨日の姿は幻だったのだろうか?少しでも期待していた分、残念な気持ちになっていく。 亜季は頭を下げて戻ると、すぐに櫻井課長は別の社員を呼びつけていた。
「は、はい」 私のことだよね? と返事をしながら振り向くと櫻井課長は亜季を見ていた。思わずドキッと心臓が高鳴ってしまう。 まさか呼び止められると思わなかったから驚いてしまった。「さっきのお茶……美味しかった。悪かったな。社内で馴れ馴れしいのも嫌だと思ったから」(もしかして気にしてくれたの?) 課長を見ると少し恥ずかしそうにしていた。照れている。 何だか亜季の胸の辺りがポカポカして温かくなってきた。「いえ…お気遣いありがとうございます」「それで……今夜予定が無いなら、一緒に食事でもどうだろうか?」「……えっ!?」「あ、いや…別に強制じゃない。嫌なら断ってくれてもいいから」「いえ。ぜひ、ご一緒させて下さい!」亜季は思わず口から出てしまった。自分でもびっくりしてしまう。 だが、せっかく誘ってくれたのに断るなんて亜季の中では、どうしても考えられなかった。「良かった。なら……そうだな。 仕事が終わったら駅のそばにある喫茶店で待っていてくれ。すぐに行くから。それと、この前の企画書は上手くできていたぞ」「ありがとうございます」 亜季は頭を下げると、そのまま部署に戻る。不思議だ。何だかスキップしたくなるぐらい嬉しい。 少し前なら恐怖だったし、呼び止められたら説教でも言われるのではないかと思って、ビクビクしていたはずなのに。今では口元がニヤニヤしてしまっていた。その気持ちは、顔にも出ていたようで、部署に戻った後に美奈子が亜季の顔を見て「どうしたの?何だか機嫌がいいみたいだけど?」と言ってきた。「そう…気のせいじゃない?」「怪しいわねぇ~何があったか教えなさいよ?」「何でも無いわよ~ほら、仕事をさっさと始めちゃおう」 そんなに顔に出ているのだろうか? でも、こうはしていられない。定時までには終わらせなくては。 急いでパソコンのキーボードを打ちやりかけの企画書を作成させる。 そして何とか仕事を無事に定時までに終わらせると、駅の近くにある一軒の喫茶店に向かった。 ここは通勤の利用者が多い。中に入っていくとサラリーマンや学生などが数人居た。亜季はコーヒーを頼み、窓際の席に座って櫻井課長が来るのを待つことにする。「課長まだかなぁ~忙しい人だから遅れるかしら?」何だか心臓が高鳴って落ち着かない。 キョロキョロと周りを見ると、まだ
店長がニコッと笑いながら丁重に案内してくれた。奥の席に座ると、亜季はメニュー表を見る。いろんな料理が書いてあった。 チラッと見ると櫻井課長も真剣な表情で選んでいた。(いつも思うけど櫻井課長って、真剣な表情って怖いわよね。あれが素だったのね) 機嫌が悪いだけなのかと思ったが、もともとの表情なのだろう。誤解してしまったことに申し訳なくなる。 そう思っていたら目が合ってしまう。亜季は慌ててメニュー表に目線を戻した。 見つめてしまったことに気づかれてしまっただろうか?「決まったか?」「あ、えっと…この鮭と野菜のホイル蒸しと、後は豆腐サラダにします」「ビールか何か飲むか?」「あ、はい。ならビールも一緒に」 ついでに注文して貰った。注文をすると沈黙が続く。見ていたことは気づかれなかったようだが、どうしよう。 何か話した方がいいだろうか? でも何を話したらいいのか分からない。 そもそも櫻井課長とは世間話をしたことがなかった。「えっと~素敵なお店ですね。上品な感じで。課長もこういうお店によく来るのですか?」「まぁな。料理も美味しいが何より落ち着く。君は、こういうお店は苦手か? あまりお洒落なお店とか知らなくて。悪いな」「いえ、私もこういう落ち着く感じが好きです。ただ、あまり行った事がなくて」 恥ずかしい……。実は小料理屋とかは、行ったことがなかった。行ってみたいと思ったことはあるが、何だか女性1人で行くには敷居が高くて。「普段は、どんなお店に行ったりするんだ?」「そうですね。同僚の美奈……玉田さんとはイタリアンとか居酒屋などに。色々なお店に行きます。ただ安いお店ばかりですが」「そうか…」 櫻井課長はそう言うと、また黙ったままになってしまった。 会話が続かない。櫻井課長は、普段口数が少ないタイプだし、もっと自分から話の幅を広げなくては。「あの~課長は、料理とか作りますか?」亜季はオドオドしながら何故だか、料理関係の話をふってしまった。 あまり作るイメージは無いけど、作ったりするのだろうか?「あぁ、作るぞ。一人暮らしが長いからか結構こだわりが強い方だ」 櫻井課長はあっさりとした表情で、そう言ってきた。作るらしい。こだわりとか強そうな雰囲気ではあったが、意外なことで亜季は驚いた。「君は、料理とか作るのか?」「たまに……で
(あんな嬉しそうな顔をするんだ?)「他にもお薦めのメニューとかあるぞ。今度食べてみるといい」「はい。ぜひ……」「じゃあ、今度また……あ、すまない。つい調子に乗ってしまった」 櫻井課長は、ハッとしたのか慌てだした。彼でも調子に乗ることもあるらしい。 亜季は思わずクスッと笑ってしまった。また櫻井課長の可愛いところを知ってしまったようだ。「いえ…また誘って下さい」そのせいか、不思議と何だかいい雰囲気になれた。素直に言うことも出来た。その後も料理の話をしたりと、会話が少しずつ増えていく。こういう時に、時間が過ぎるのは早い。あっという間に食べてしまい帰ることに。「あの……今日は、ごちそうさまでした」駅のそばで私は、お礼を伝える。。 会計の時に自分の分を払おうとしたが、櫻井課長が全額払ってくれた。 そんなつもりはなかったため申し訳ない気持ちになる。「いや…こちらこそ。今日は楽しかった…ありがとう」「いえ…こちらこそ。ありがとうございました。おやすみなさい」 亜季は深々と頭を下げると、お互い別れてホームに移動する。ハァ~緊張しちゃった。力が抜けてしまう。 こんなに緊張するとは……でも、また新しい櫻井課長が発見できた。 意外と料理を作るのも好きで小料理屋が好き。 今度、また一緒に行ったら新しい課長を発見できるだろうか? (次…いつ誘ってくれるかな?)自分から誘ってみたら迷惑だろうか? するとハッと気づく。いけない。課長の事ばかり考えているではないか!? 何だか胸が締め付けられそうな気持ちになる。不思議な気分だ。 そんな気持ちを抱きながら翌日。会社で仕事をしながら櫻井課長を見ると相変わらずの姿だった。 黙々と眉間にシワを寄せてパソコンのキーボードを打ち込んでいる。 あれは怒っているのではなくて、集中している姿。これも新しい発見だ。 今日もお茶を出したら喜んでくれるだろうか?そう思い席を立った。 給湯室で、お湯を沸かしていると誰かが入ってきた。同じ部署で後輩の澤村梨香(さわむらりか)さんだった。「お疲れ様です。あれ? それ、課長の湯吞みですか?」「えぇ、せっかくだから」 そう言いながら湯のみにお茶を注ぎ終わると急須を片付ける。すると、それを見て不思議に思ったのか、亜季に聞いてくる。「松井先輩ってマメですよねぇ~
すると数日後のことだった。「松井。悪いが、これを経理課まで届けてくれ」「あ、はい。承知しました!」 突然の頼みに驚くも亜季は引き受ける。書類を受ける。すると付箋が貼ってあったことに気づいた。何気に見てみると、『今夜食事でもどうだ? いいなら、こないだの喫茶店で待っていてくれ』 と、そう書いてあるではないか。二度目の食事のお誘いだった。まさかの出来事に亜季は嬉しくなる。 課長を見ると少し恥ずかしそうに頬を染めながら「頼んだぞ!」と言ってきた。「はい」 亜季は笑顔で返事をすると部署を出る。付箋を剥がしながら、もう一度見た。 自然と笑みがこぼれてしまう。また、同じ小料理屋に連れて行ってくれるのだろうか? 嬉しくて、その付箋をこっそりとポケットの中に入れた。そして、そのまま経理課に行き、受け取った書類を渡した。 仕事が終わると、私はこの前と同じ駅近くにある喫茶店で待つことに。 二度目でも、まだ心臓がドキドキしていた。会社とは、また違う櫻井課長が見える。 今日は、どんな発見があるのだろうか? しばらく待っていると課長が店内に入ってきた。「すまない。また遅くなった。待ったか?」「いえ、さっき来たばかりだから大丈夫です」「……そうか。じゃあ、行こうか」「はい」 謝ってくる櫻井課長に亜季は笑顔を向ける。そして伝票を持ち会計を済ませた。 連れて行かれたのは、美奈子と行ったことがあるイタリアンのお店だった。「女子社員に人気だと聞いたから、来たことはあるか?」「あ、はい。玉田さんと一緒に」「……そうか。俺と一緒では嫌かも知れないけど、今日は我慢してくれ」「いえ……全然構いません」 何だか照れくさいけど嬉しい。 だが店内に入ると、すぐに澤村梨香を見かけてしまう。 (あ、澤村さん達だわ!? どうしよう) 一緒に居る所を見られたら何を言われるか分かったものではない。 噂が好きな人たちだ。課長に迷惑をかけてしまうだろう。「どうした? 松井」「あ、いえ……その」 どうしたらいいか戸惑っていると課長も澤村梨香たちに気づいてしまう。 戸惑う亜季を察したのだろう。「……店を替えるか」「あ、でも……」 櫻井課長は、そう言うと先に店から出てしまった。 どうしよう。このままだと櫻井課長を見られるのが嫌だと勘違いされてし
泣きそうになっている亜季に、櫻井課長は咳払いをしてきた。でも、まだ耳まで赤くなっているのが分かる。照れいるのだろうか?「とにかく、何処かの店に入ろう。えっと……この前の小料理屋でもいいか?」「あ、はい」 亜季は、すぐさま返事をする。そのまま歩いて小料理屋に向かった。 店に着いても何だか鼓動が高鳴って落ち着かない。この前と違うメニューを頼みビールを飲んでいると、櫻井課長の方から話しかけてくれた。「さっきの……あまり男性に言わない方がいい」「えっ? どうしてですか?」 もしかして気に障ったのだろうか? どうしようと亜季は不安になってしまった。「……男が変に勘違いをしてしまうからだ。俺に気があるのかって」「えっ……?」 その言葉に亜季は。また頬が熱くなってしまう。 櫻井課長に気があると想われちゃったのだろうか? だけど亜季は、それが嫌だと思わなかった。それよりも、ドキドキと鳴っている心臓の方がうるさい。「もちろん勘違いだと分かっているが、あまり男性を刺激しない方がいい。トラブルになったりするから。君は、もう少し警戒心を持った方がいい」「……はい。すみませんでした」 ちょっと説教気味に注意をされてしまった。謝るが、今度はズキッと心が痛む。 やっぱり怒らせてしまっただろうか? 勘違いさせられたって。しゅんと亜季は落ち込んでしまう。「あ、すまない。またいつもの癖で説教をしてしまった。 別に君を叱りたいわけではないんだ」「……はい。大丈夫です……すみません」 何だか空気が重くなってしまった。これでは、会社に居る時と変わらない。 そうしたら店長が間に入ってきた。「おいおい、櫻井さん。あまり女性に説教したら嫌われちゃうぞ?」「べ、別にそういうわけでは」「すまないねぇ~櫻井さんは君を想って言っただけだから。他の男性に言い寄られたら自分が嫌だからって」 代わりに謝罪をしてきた。それを聞いて課長は慌てだした。 他の男性に言い寄られたら嫌だから……?「あの……それって本当ですか?」 思わず口から出てしまう。すると、また課長は目線を逸らしてきた。 さらに耳まで真っ赤になっていた。「あ、あぁ…まぁ。 今回は俺だったから良かったが……」「私は櫻井課長だから言ったんです。他の人には言いません」 それだけは勘違いされたくない。
亜季と課長は、それからメッセージアプリでやり取りをするように。 話題は、たわいのない出来事だけど。顔が見えないせいか、お互い話が進んでいく。 そこでも櫻井課長の意外な素顔や新しい発見をする。『櫻井課長。今何をしているのですか? 私は今日借りてきたⅮⅤⅮを観ています』『さっきまでジョギングをしていた。汗をかいたからシャワーを浴びていたところだ』 ジョギングとは、いつもこの時間帯で走っているのだろうか?それに何キロを? 気になりメッセージをしてみた。『いつも何キロ走っているのですか?』『大体五キロぐらいだな。多くて十キロ。ジムも行ったりするが』 多くて十キロとは驚きだ。趣味がトレーニングと言っていたけど。 なかなか走れる距離ではないだろう。亜季は思わず感心する。『凄いですね。私は運動音痴なので、そんなに走れません』『そうなのか? 鍛えると運動音痴も改善するかも知れないぞ。今度いいトレーニング道具を貸してやる』『ありがとうございます。機会がありましたらぜひ』 トレーニング道具か…どんなのだろうか? 亜季はハァッ~と深いため息を吐いた。メッセージで、こんなに話せるなら直接もっと話がしたい。 櫻井課長の前だと緊張してしまい上手く話せない。無口な人だし。 亜季は口下手な方だ。そう思いながらスマホを眺めていた。 櫻井課長は、どんな気持ちでメッセージを打っているのだろうか?同じ気持ちならいいのに。と、ⅮⅤⅮを観ずに、ずっとスマホを眺めていた。 そして待ちに待った日曜日。櫻井課長と映画を観ることになったのだが。 初デートと言ってもいいのだろう。 気合いを入れて最近購入した白色のトップスにジャケット。 藍色のコットンスカート。 会社の時と違って服やメイクに気を使った。 ちょっと、気合い入れ過ぎただろうか? そう思いながら待ち合わせ場所の駅に電車に乗って向かう。 目的地の駅に着くと、既に改札口のそばで櫻井課長が待っていた。 いつものスーツ姿と違って私服姿。グレーのシャツに黒色のジャケットとジーンズ。 意外とお洒落な感じだ。「あの……遅れて申し訳ありません」「大丈夫だ。今さっき着いた」 慌てて謝罪をしながら課長のところに行くと、櫻井課長は何故だか驚いた表情をしていた。そして何も言わずに黙り込んでしまう。(あれ……? もしか
モールの中を2人で回る。なんて不思議な感覚だ。 まるで、本物の恋人同士みたいだ。 せっかくだから何をみようかと探していると、櫻井課長が何かを見つけたようだ。 何を見ているのだろうか? 目線の先をたどってみると、スポーツ用品店だった。 なるほど。課長トレーニングが趣味だから興味があるのだろう。「せっかくだからスポーツ用品店でも見ませんか?」「えっ? いや……でも君は、つまらないだろ?」「いえ、どんな商品があるか興味がありますし、平気です」 亜季から誘ってみる。櫻井課長が、どんな商品が好みなのか気になったからだ。 櫻井課長少し遠慮気味だったが、ならと恥ずかしそうに承諾してくれた。 二人でスポーツ用品店の中を見て回ると、櫻井課長は興味津々な感じで新商品の物をチェックし始める。「これは、また新しい商品だな。こっちは、どんな機能が?」 その姿を見ていて、思わず笑みがこぼれる亜季だった。 まるで少年のようだ! 櫻井課長は店員を呼び止めて、新しい商品のことを詳しく聞き始める。 聞き終わると、ハッと気づいたのか亜季を見る櫻井課長。「あ、すまない。つい夢中で……退屈だっただろ?」「フフッ……いえ。意外な一面が見れて楽しかったです」 それは、本当のことだ。新たな櫻井課長の一面を発見する。 スポーツ商品のことになると夢中になる。 そして夢中になる姿は、少年のようで可愛らしい。「そうか? どうも、こういうところに行くと、つい夢中になって周りが見えなくなってしまう。申し訳がない」「フフッ……よく来られるのですか?」「まぁな。新商品が出ると必ずチェックしている。集めるのも好きで」 それは、また興味がある内容だ。 どんな道具があるのだろうか? もっと、もっと櫻井課長のことが知りたい。亜季はそう思った。「その話、もっと聞いてみたいです!」「そうか? あまり面白いものでもないぞ? あ、そろそろ映画が始まる時間だな。そろそろ出て行こうか?」「はい」 楽しみな映画なのに、ちょっと残念な気持ちになる。 もっと見ていたかったなぁ~と思ってしまった。 仕方がないので映画館に戻ることに。入る前にポップコーンと飲み物を買って、上映を場所に入った。 上演が始まると、観ながらチラッと隣で座っている櫻井課長を覗く亜季。 櫻井課長は真剣な表情で映画を
「そういうのを人は、甘えだと言うんだ。確かに、失恋は時間が経てば解決することもある。しかし、それから逃げたり自分の気持ちに嘘をつけば、必ず後悔する。君のは、自分から逃げているだけだ。相手が、どうとか言い訳をして、気持ちをひた隠しにしているだけ。そんな奴が成長なんて期待ができるわけがないだろう」 青柳は強い口調で厳しく言う。その言葉は亜季の心に深く刺さった。 腹が立つほど図星を言われたからだろう。「だって……仕方がないではないですか!? 私は責任がある大きな仕事があるし、櫻井課長は海外に行ってしまう。私が止めることなんて無理だし」 だって……本当は行ってほしくなかった。 でも、彼の出世の邪魔なんてできない。 だったら、別れるしか選択肢がない。 それがいけないことなのだろうか?「……無理? それで、君は満足しているのか?」「……えっ?」「自分に嘘をついてまで我慢をして。今の現状を本当に満足ができているのかと聞いているんだな?」「満足って。そんなの……しているわけ」 そんなのしている訳がない。辛くて……今にも泣きだしそうだった。 ずっと後悔ばかりで、自分でも呆れるぐらい情けないだけ。 大きな仕事を任されて、充実しているとは言えなかった。「どうして、一緒について行かなかったんだ?」「だって……」 櫻井課長に、ついて来てほしいと言われなかった。 やらなければいけない大切な仕事だってある。それを目標に今まで頑張ってきたので放り投げることができないし。「離れたくないなら無理やりでも一緒について行けば良かっただろ? なのに……そんなこともしない。それは新しい環境や不安。仕事を言い訳にして、他人任せで相手を信じていなかったせいだ! どこかで、辞めてくれるのではないかとか、相手が動いてくれるまで待っていただけの甘えだ」「………」 青柳の言葉は、キツいが真実を言われているような気持ちになった。 胸がギュッと絞めつけられているみたいに苦しい。 そのせいか何も言い返せなかった。(自分は櫻井課長に甘えていた……?)「自分から逃げているだけの奴が、相手に振り向いてもらおうなんて考えが甘い。逃げるなら最後までぶつかってからにしろ」 青柳の言葉にハッとさせられる。(私……今までどうしていたんだっけ?) 櫻井課長に誤解を解いた時も……初めて泊ま
『初めてメッセージをします。あれから、どうですか? 元気にやっているのなら、いいのですが』 青柳は気遣って、わざわざメッセージを送ってくれたようだ。 やっぱり櫻井課長に似ている。そういうところが。 亜季は急いでメッセージを返した。『メールとお気遣いありがとうございます。元気にしているかとなると、微妙なところです。少しずつ』 そこから先が打てなかった。 前向きにと打つはずだったのに、嘘を言っているような気がして。 あれからも立ち直ってもいないくせに。 (消そう……) 亜季は消去ボタンを押そうとしたが、手が震えてしまう。そのまま誤って送ってしまった。「あっ~どうしよう!? あんな中途半端な書き方をしたメッセージだなんて、相手に対して失礼じゃない」 送られた方は驚いてしまうだろう。何が言いたいのか分からないし。 謝りのメッセージを……。 亜季はそう思っていたら、またメッセージが届いた。青柳からだ。『返事ありがとうございます。さっきのメッセージを読ませてもらいました。無理に、元気に振る舞う必要はないと思います。悩み、相手の気持ちを考えているからこそ、人は成長ができるものだと思います!』 そう書かれていた。「悩み、相手の気持ちを考えているからこそ、成長ができる……?) 今の亜季には心に響く言葉だった。 もう一度メッセージを書いて送ってみた。『励ましの言葉ありがとうございます。凄く心に響きました。私は成長ができるでしょうか?』 すると、すぐにメッセージが届いた。『それは、俺にも分からない。でも君が成長をしたいと思うのなら、それは良い方向に向かうのではないか?』 それから青柳とは、自然とメッセージのやり取りが続く。 悩み相談とか……色々と。 彼は亜季に的確なアドバイスをしてくれるだけではなくて、聞いてもくれる。 そうすると自然と自分の心の中が、さらけ出せるようになってきた。 どうして、こんなにも心の中のことが言えるのだろうか? 不思議だ。 そんな時、青柳から『会わないか?』とメッセージが届いた。(会う……青柳さんと?) 正直、亜季は戸惑ってしまう。 まさか、会いたいと言ってくるとは思ってもみなかったからだ。 こんなにも相談に乗ってくれるし、素敵な人だと思う。だけど、今は新しい恋とか考えられなかった。 向こうは、た
(あ、照れているわ!?) 気づくと少し嬉しくなった。あぁ、やっぱり似ていると。 亜季は心の中でそう思った。雰囲気だけではない。 無愛想の中に、ちゃんと優しさが隠れているところ。笑うと何だか可愛いところまで。 心臓がトクンッと高鳴った。これは、どちらに高鳴ったのだろうか? そしてコーヒーを飲み終わると、帰ることに。 亜季は自分の代金を出すために財布を取り出そうとする。「いい……君の分も俺が払うから」「えっ……でも」「泣かせた上に、金まで払わせていたら男の面目が立たない」 青柳は、そう言うと亜季の分まで支払ってくれた。 泣いたのは自分が原因で彼のせいではない。何だか逆に、申し訳ない気持ちになっていく。 亜季は、お店を出るとお礼を言う。「あの……ご馳走様でした」「いや、こちらこそ悪かったな。じゃあ」 そのまま青柳は、立ち去ろうとする。 すると亜季は「あの……」と思わず彼に声をかけて止めてしまった。 何故、止めたのか亜季自身も分からない。気づいたら呼び止めてしまったからだ。「……何?」 青柳は振り向いてくれた。 止めた理由を何も考えていなかったため、亜季は戸惑ってしまう。 何か言わなくては、余計に気まずい。頭の中が混乱してきた。「よ、良かったらメッセージアプリのⅠDを教えて下さい」「はぁっ?」 青柳は驚いて聞き返してきた。それもそうだろう。 迷惑かけただけではなく、急にこんなことを言ってくるのだから。 亜季は、自分でも何を言い出すんだと思ってしまう。 体中が熱くなってしまう。どうも時々、大胆なことを言う癖がある。 櫻井課長の時もそうだった。焦りなのか、ただの無鉄砲なのか分からないけど。「いえ……何でもありません。今、言ったことは忘れて下さい」 亜季は、火照ってしまった顔を隠すために下を向いた。 馬鹿なことを言ってはダメ。彼は櫻井課長ではないのに。 恥ずかし過ぎて涙が出てくる。「別にいいけど」「えっ……?」 亜季は驚いて思わず頭を上げた。 今、確かにいいって言ったような気がする。聞き間違いではないのなら。 青柳を見ると、黙って亜季を見つめていた。本当に?「泣かれたあげく、落ち込まれると逆に気になってしまう。相談ぐらいなら乗ってやる」「あ、ありがとうございます」 ぶっきらぼうながらも、そう言ってく
「……ありがとうございます」 亜季は、そのハンカチを受け取ると遠慮しながらも涙を拭いた。 しかし、さすがに駅近くの商店街で涙を流しているわけにもいかず、とりあえず亜季と青柳は近くの喫茶店に入ることにした。。 お互いにコーヒーを頼み、沈黙したまま時間だけが過ぎて行く。 黙って泣き止むのを待っていてくれる青柳。彼もまた優しい人なのだろう。 亜季とは、合コンで会ったきりの関係。放って帰ってもいいはずなのに、そばに居てくれた。そのお陰なのか、少し落ち着いてきた。 店員が持ってきたコーヒーにミルクと砂糖を入れて、静かにかき混ぜる。 一口飲むとホッと気持ちが楽になった。「……落ち着いたか?」「はい。お見苦しいところをお見せして、すみませんでした」「また謝っている。 こういう時は、ありがとう……と言うものだ!」 申し訳なさそうに謝罪をすると青柳は、そう言って指摘をしてきた。 亜季は驚いて彼を見る。 彼は、黙ったまま自分のカップに口をつけていた。「えっと……ありがとうございます」 言われた通りお礼を言う。そうすると、こちらをチラッと見て静かに微笑んでくれた。「どういたしまして」と言いながら。 フッと微笑む表情まで櫻井課長に似ているからだろうか? 彼の行動に亜季はドキッと胸が高鳴り動揺する。そして気になってしまう。「あの……青柳さんって、おいくつなんですか?」 急に何を言い出したのか自分でも驚く亜季だった。でも話を続けたくて、思わず声が出てしまったようだ。。 青柳は一瞬目を丸くする。驚いたのだろう。「28だけど?」「えっ……えぇっ!?」 てっきり30代だと思っていた。意外過ぎる年齢に亜季は驚いてしまった。 しかも同い年だったとは。 落ち着いているせいか、またハッキリした顔立ちだからか。「み、見えませんね……28には」「それって、俺が老けていると言いたいのか?」「えっ? いや、そういう意味ではなくて。落ち着いているというか、その……大人っぽいていうか……」 亜季は必死にフォローするつもりが、なかなか上手くフォローができない。 むしろ必死過ぎて、自分でも何を言っているのか分からないぐらいだ。「結局は、老けていると言いたいのか?」「いや……けして、そういう意味では……すみません」 言えば、言うほど墓穴を掘ってしまう。結局
「えっと……雰囲気とか、話し方とか色々。あ、そんなことを言われても不愉快ですよね。すみません」「あんた。謝ってばかりだな」「えっ? 謝ってばかり?」 彼の言葉に驚いてしまった。そんなに謝っているのだろうか?「えっ……そうですか? すみません……あっ」 確かに本当だった。また謝っている。 申し訳ないと思っているせいかも知れないが。なんだか、余計に恥ずかしくなってきた。「……その櫻井課長って人。もしかして、あんたの好きな人か?」 何気ない青柳って人の発言にドキッとした。 返事に困っていると青柳は、「悪い。図星だったか?」と言って、謝ってきた。「いえ……好きな人ってよりも以前付き合っていた人です。残念ながら別れてしまいましたが」 亜季は寂しそうに苦笑いをする。 もう過去になってしまった人なのに、思い出して落ち込む自分が情けない。「ちょっと、そこの二人。何、葬式みたいに辛気くさい雰囲気を出しているのよ? せっかくの合コンなんだから、もう少し話して盛り上がりなさいよ!?」「……そう言われても」 美奈子に叱る亜季は困ってしまう。ガツガツしているわけでもないため、盛り上がれと言われても。 チラッと見ると青柳は気にすることもなく、お酒を飲み始めていたけど。 結局、その後も話が盛り上がる事もなく終わってしまった。 美奈子には呆れられてしまったが、どうしても次の恋愛がしたいと踏み切れなかった。意外と自分は未練が残る性格らしい。 情けないと思うけど、こればかりは、どうしようもない。 それから数日後。 何もないまま、ただ時間が過ぎて行く。窓から外を見ると、青空が広がり天気がいい。課長…元気だろうか? まだ、そう経っていないから変わらないと思うけど、会いたいと思ってしまう。。 別れを切り出したのは、自分のくせに会いたくて堪らない。 涙が溢れそうになりながらも、ただ青空を眺めていた。 夕方。仕事が終わり駅近くを歩いていた。 あの小料理屋には最近は行っていない。 行くと櫻井課長のことを思い出してしまうため遠慮していた。 亜季は一人でトボトボと歩いていると、向こうから見覚えのある人が歩いてきた。(あれ? あの人は……?) 合コンで出会った青柳って人だった。彼も亜季に気づいて立ち止まった。「あれ? あんたは……あの時の」「えっと……あの
お昼休み。喫茶店でランチを食べていたところ。 見かねた美奈子がそう言ってくる。(失恋って。美奈子……その言葉は傷つく) それに合コンって。彼女の突然の発言に驚いてしまった。 行ったこともないのに。「いくら何でも……合コンは、ちょっと」「何を言っているのよ。、もしかしたら新しい出会いだってあるかも知れないじゃない。このまま失恋に浸っているよりも全然いいわよ!」「……美奈子」 失恋に浸る。確かに、このままだといけないと思う。 自分で終わらせた以上は、もう櫻井課長のことは忘れないといけないだろう。「合コンのセッテングなら、私が他の子に頼んであげるから。行くだけ行ってみなさい」 美奈子の強くそう言われてしまった。 そして、やや強引でもあるが亜季は合コンを引き受けることに。 そこに出会いがあるとは思えない。それでも櫻井課長を忘れる、きっかけになるのならと思ったからだ。 3日後。仕事が終わると美奈子に案内されて、お洒落な居酒屋に向かった。 フレンチ料理が多く、若い世代が人気そうなお店だ。 中に入ると、既に数人の男女が集まっていた。「お待たせ~」「美奈子~遅いわよ。ほら、座って座って」 1人の女性がそう言って招き入れてくれた。席に座ると、それぞれ自己紹介とアピールを始める。 美奈子はノリノリでアピールをするが、場慣れしていない亜季は完全に浮いてしまっていたが。 周りが慣れ始めた頃。私は1人の男性に目が行く。彼も慣れていないようだ。 皆と話していることもせずに1人でちびちびと隅で、お酒を飲んでいた。(あ、何だか智和さんに似ている) 怖くて近寄り難い雰囲気で物静かなところとか。顔立ちも似ている。 この彼は眼鏡をかけているが……。 少し寂しそうに見えるのは、自分とも似ている気がする。 亜季は少し彼のことが気になって、チラチラと見ていた。 (やっぱり似ているかも……智和さんに) すると酔った美奈子が亜季に声をかけてきた。「ちょっと、亜季。誰か気になる人でも居た? あ、もしかして、あの人が気になるの?」「えっ!?」 亜季は美奈子の言葉に驚いた。 ただ櫻井課長に似ていたから、少し見ていただけだ。慌てて首を振った。「違う、違う。そんなことないわよ」「いいじゃん。よし、席替えターイム」「ちょっ……美奈子!?」 美奈子
そして私達は別れる。 別れたと言っても会社に行けば、変わらずに上司と部下の関係。普通に顔を合わせるし、必要なら会話だってする。「課長。企画書のことですが。このような感じで、どうでしょうか?」「あぁ、そこに置いておいてくれ。電話の後で見るから」「はい。お願いします」 櫻井課長は電話をしながら、そう言ってきた。 亜季は返事をするとデスクに企画書を置く。自分の席に戻った。 いつもと変わらない櫻井課長の姿だ。 しかし、その姿を見られるのは……あと少しだけ。 部長になる話は引き受けたと別の人から聞いた。これで良かったのだ! これで櫻井課長は何も障害がなく前に進める。 部長として新たなスタートが切れると言うものだ。「ねぇ、あんた本当に後悔していないの? 別れて」 仕事帰りに久しぶりに美奈子と食事をした。いつものイタリアンのお店で。 バスタを食べていると美奈子が心配そうに亜季に尋ねてきた。「……後悔していないと言ったら嘘になるわね」「だったら別れなかったら良かったのに……」「無理よ。そうでもしないと彼は、あの話を断るわ。あの人は優しいから」 今でも胸が痛む。無意識に櫻井課長のことばかり考えてしまうぐらいに。 でも櫻井課長は亜季の気持ちを優先するばかりに、自分の気持ちを犠牲にする。 それだけは、してほしくなかった。「私から見たら……亜季。あんたも十分優しいわよ?」「えっ?」「今時、自分の気持ちを優先して揉めるカップルが多い中で、あんた達は、お互いに譲り合っているじゃない。それって……お互いに優しいからで、相手を想い合っているからよね。本当……お似合いだったと思うわよ。あんた達は」 呆れつつも美奈子は、そう言って励ましてくれた。「ありがとう。本当ね。支え合えるような恋人同士になりたかったな」 だけど別れてしまった自分たちには、もう何もできない。 自宅に着くとスマホを覗き込む。メッセージの着信0件。 あれから櫻井課長とはメッセージをしなくなった。 別れたのだから当たり前だけど……寂しい。 アドレスを消す人。未だに残したり、連絡を取り合う人。亜季は、ずっと消さずに残してある。 もしかしたらメール来るかも……とか、そんなことをつい考えてしまう。 櫻井課長は生真面目で気遣う人だから遠慮して、送って来るわけがないのに。(未練
私は、その夜。櫻井課長にメッセージを送った。大事な話があると。 待ち合わせた場所は小料理屋にするか迷ったが、綺麗な夜景が見える場所にした。 最後に彼と見たかったからだ。「大事な話って、何だ?」 櫻井課長から口を開いてきた。 亜季は静かに決心すると櫻井課長の目を見て話した。 星が見える美しい夜景を見ているはずなのに。亜季の心は真っ暗で、ずっと曇り空のようだ。 でも言わなくては……櫻井課長のためにも。「課長……私と別れて下さい」「……えっ?」 それを聞いた櫻井課長は驚いて一瞬固まっていた。しかし、すぐに我に返って否定してくる。 「どうしてだ!? もしかしてアメリカに行くことで決めたのか? 俺は断わると言っているだろう。君は、それでいいのか?」 いい訳がない。でも、このままではいけない。 自分と一緒に居ては、櫻井課長の負担になるだけで、ダメにしてしまう。 別れ時なのだ。「私……昔から智和さんのことが苦手でした。いつも怒ってばかりで怖いと、美奈……玉田さんと噂をしていて。だから智和さんとお見合いをすると知った時は地獄かと思いました。でも少しずつ、いろんな性格が知れました。優しさや温かさとか……」 いろんなことが思い出して行く。 けして怖い人ではなかった。本当は誰よりも優しくて気遣いができる温かい人。 この人のことを知れば、知るほど好きになった。かけがえのない人になっていくのが分かった。 でも…それだけではダメ。好きになるだけでは。 亜季が彼にしてあげられるのは、これぐらいしかない。「でも……ダメなんです。智和さんでは、私は幸せになれない。だから……もう終わりにして下さい。そして、海外に行って下さい」 亜季は泣きたいのを必死に我慢しながら伝えた。 涙なんて引っ込め。櫻井課長に後悔させないためにも我慢しないと。 亜季は後ろを向いた。 涙に気づかれないように。「……亜季……お前」「……私、昔から諦めのいい方なんです。 立ち直りも早いし。きっと課長のことなんて、すぐに忘れて他に好きな人ができているかも。八神さんも、まだ私のことを好きだと言ってくれてるし。乗り換えようかなぁ~なんて……」 お願い。受け入れて……心が揺らぐ前に。 その時だった。櫻井課長は亜季を後ろから抱き締めてきた。 亜季は驚くが、彼はボソッとこう言った。
八神の言葉が、ずっと亜季の頭の中に残っている。 あれから八神と別れて、自宅に帰ってもずっと亜季は考え込んでいた。 どうしたらいいのだろうか? 次の日。会社に行くと、既に噂が部署の中まで広まっていた。 櫻井課長が姉妹会社に大抜擢されて、アメリカに課長として行くと。 いつの間に聞きつけたのだろうか。「亜季。本当なの?櫻井課長がアメリカの会社で大出世するって話って」「ちょっと……美奈子。声大きいから!?」 美奈子が亜季が来たのを確認すると、大きな声で真相を聞いてくる。 亜季は慌てて止めるが周りに聞かれてしまい、さらに騒ぎになってしまった。 どうしよう。こんなに騒ぎになってしまうなんて。「あの、まだ櫻井課長は迷っているみたいで。断わるかもしれないし」「どうして? こんな大出世の話を断る奴なんていないだろ? いたら、ただの馬鹿じゃん」 そう言ったのは、美奈子ではなくて一人の男性社員だった。そう言われると亜季の胸が痛んだ。 確かにそうなのだ。 こんな出世を断る人の方がおかしいのだろう。「……私では何も言えませんが、そういう話はあるみたいです」 周りは、さらに騒ぎ出した。驚く人や喜ぶ人も多く、なおさら否定もしにくい。 やはり櫻井課長は部長になるべき人なのだろう。断わるような馬鹿なことはしてはならない。「だとすると亜季は……どうするの? ついて行くの?」「私は、行かないわ。大きな仕事があるし。そのために頑張ってきたんだもの。それに、英語だって話せない。とても無理よ」「どうして? じゃあ、遠距離になるの? 亜季……それでいいの?」 美奈子は、それを聞いて驚いていた。 良くはない。でも、ついて行く勇気は亜季には難しかった。 それに大切な仕事がある。 そうしたら櫻井課長がいつものように出勤してきた。「おはよう。何だ? また、お前らは騒ぎを起こしているのか?」「おはようございます。課長、聞きましたよ!? 海外で部長になることが決まったらしいですね?」「凄いです。さすが課長」 皆は尊敬の眼差しで、そう言ってきた。 課櫻井長は既に知っていることに驚いていたが。「お前ら……いつの間に、そんな情報を知ったんだ? まったく、噂だけは仕入れるのが早いな」 呆れながら言っているのを、私亜季は後ろで黙って眺めていた。 これが櫻井課長の本来