里香は少し躊躇したが、結局エレベーターに入った。中には雅之と桜井だけだった。里香が入ると、桜井は一歩下がって隅っこに立った。里香は目を伏せ、隣の強大で冷たい気配を無視しようと努力した。エレベーターの中は静かで、微かに冷たい空気が漂っていた。ドアが開いたが、里香は急がず、雅之が先に出るのを待った。しかし、彼が出ないのに、雅之も動かなかった。何が起こっているの?桜井は隅っこで身を縮めていた。この二人が出ないなら、どうやって出ればいいの?何か話があるなら、外に出て話せばいいのに、エレベーターの中で突っ立ってどうすんだ?桜井の心の防衛線が崩れそうになったとき、ようやく雅之が口を開いた。「家に帰らないの?」里香は「帰りますよ。お先にどうぞ、私は急ぎません」と答えた。雅之は「うん、君が急がないなら、僕も急がない」と返した。この人、頭がおかしいじゃないの?間違いない、確実に何かおかしい。エレベーターのドアはゆっくりと閉まりかけていた。里香はこの時間を無駄にしたくなく、雅之の横をすり抜けて出ようとしたが、手首を掴まれた。雅之の冷たい瞳が桜井の顔に向けられた。桜井は緊張し、急いで体を横にして雅之の横を通り過ぎた。外に出ると、すぐに呼吸が楽になった。里香は眉をひそめ、「何が言いたいの?」と尋ねた。雅之は彼女を見つめ、低くて心地よい声で言った。「僕が言ったこと、もう考えたのか?」里香は「何のこと?」と返した。「一緒に住むこと」「無理よ」命を求めるだけでなく、体までも求めるなんて、何でも思い通りにしようとするのか?寝言は寝てから言え!雅之は眉をひそめた。「一緒に住まなければ、私たちの関係を維持する意味はないじゃないか?」里香は「だから、離婚するって言っただろう」と返した。雅之は黙り込んだ。彼の呼吸は少し重くなった。エレベーターのドアが再びゆっくりと閉まりかけた。里香は息を深く吸い、「もう家に帰って夕食を食べたいけど、先に手を放してもらえないか?」と問いかけた。雅之は「ちょうどいい、僕も夕食を食べたい」と言った。里香は彼に呆れて笑った。「じゃあ、勝手にどっかで食べればいいじゃない。私を引っ張ってどうするの?」雅之は「ちょうどいいタイミングだ。二人で一緒に食べないか?」と返した。何を言っているの、この人!里香は力強
鏡の中で自分のしなやかな体型を見つめ、夏実は満足げに口元をほころばせた。しかし、義足の小腿に視線が落ちたとき、嫌悪の色が浮かんだ。雅之と一緒にいるために、夏実は多くのものを捨ててきた。だから、雅之と結婚しなければならない。雅之は夏実だけのものでなければならない。雅之がすぐにやってきた。夏実は笑顔でドアを開け、「来たのね」と声をかけた。「うん」と雅之は一言返し、靴を履き替えて中に入った。夏実の目には期待が浮かんだが、雅之の視線は夏実の身に留まることはなかった。夏実は唇を噛みしめ、「私の新しい服、どう?」と言いながら、雅之の前でくるりと回った。雅之の視線がようやく夏実に向いたが、ただざっと見ただけで、「何か話があるのか?」と尋ねた。夏実の目には失望の色が明らかになった。雅之のために着替えたのに、雅之はそれに気づかなかったのか?どうしてこんなに冷たい態度なの?雅之は里香の前でもこんな感じなのか?「まずは食事をしよう。食べ終わったら話そう」と夏実は気持ちを切り替え、食堂の方へ歩いていった。雅之は夏実の後について行き、視線は夏実の義足に落ち、その目は少し暗くなった。夏実は赤ワインを二杯注ぎ、一杯を雅之の前に、一杯を自分の前に置いた。夏実は雅之の隣に座り、笑顔で「雅之、今までお世話になりました、ありがとう。これを雅之に捧げるわ」と言った。雅之はグラスを持たず、「それは僕がすべきことだ」と淡々と答えた。夏実は唇を軽く噛み、「しばらく会っていなかったから、雅之が私に冷たくなってない?昔はそんなことなかったのに」と言って、目が少し赤くなり、「雅之は里香のことが好きになったの?彼女と離婚したくないの?」と問いかけた。雅之は眉をひそめ、「考えすぎだ」と言ってグラスを持ち、夏実と軽く合わせた。グラスがぶつかる音が響き、深紅のワインが透明な杯の中で微かに揺れていた。それはまるで、今の夏実の心情のようだった。夏実は赤ワインを一口飲みながら、じっと雅之を見つめていた。「私たちが別れてからもうすぐ2年になるから、雅之が私に冷たくなるのも当然だけど、少しだけ時間をくれない?お互いに慣れていけるように、お願い」雅之は淡白な唇を引き締め、何も言わなかった。夏実は明るく笑い、「もし本当に里香を好きになったのなら、私は祝福するわ。私の足のことは気にしなくて
夏実はとっさに雅之の胸に飛び込んだ。「どうしたの?怖いよ…」雅之は一瞬硬直し、夏実の腕を掴んで押し返した。「たぶんブレーカーが落ちたんだ。ちょっと見てくる」しかし、夏実は再び雅之に抱きつき、「怖いから行かないで」と言った。夏実の香水の香りが次第に雅之の鼻に届いた。雅之は眉をひそめ、もう一度夏実を押し返し、スマートフォンを取り出して懐中電灯を開いた。「これを持って、照らしてくれ」夏実は一瞬固まったが、仕方なくスマートフォンを握りしめた。雅之はブレーカーの位置に行き、見てみると、やはりブレーカーが落ちていた。スイッチを上げると、次の瞬間、部屋全体が明るくなった。「もう大丈夫だ」雅之は夏実からスマートフォンを取り戻し、淡々と言った。夏実は唇を噛みしめ、先ほどのもがいていたせいで、襟元がさらに下がり、胸元の谷間が見えてしまった。しかし、雅之はまるで見ていないかのように、自分のコートを取りに行った。「もう遅いから、先に帰るよ。ゆっくり休んで」夏実は雅之の衣服の裾を掴み、「雅之、怖いから、少しだけいてくれない?」と頼んだ。雅之の暗い視線が夏実の顔に向けられ、夏実の目の中の恐怖を見た後、夏実の足に目を向けた。雅之の呼吸は重く、ゆっくりとしたものになった。「わかった」雅之はそう答えた。夏実の目にはすぐに嬉しさが浮かび、雅之をリビングに座らせた。「ここに座って。今部屋を片付けるから。ここにはもう一つの寝室があるの。ゆっくりしていってね」雅之さえいてくれれば、夜のことは後で考えてもいい。雅之は忙しくしている夏実の姿を見つめ、目の色は落ち着きを取り戻した。すぐに夏実は部屋を片付け終え、「雅之、来て見てみて」と言った。雅之は立ち上がって夏実のところに行った。寝室に入ると、いきなり後ろから抱きしめられた。「雅之…」「何をしている?」雅之の筋肉は瞬時に緊張した。「雅之、私は本当にあなたが好きなの。あなたが無事だとわかった瞬間、本当に嬉しかった。雅之が元気で、本当に良かった」夏実は震えた声を発しながら雅之を抱きしめ、自分の胸で雅之の背中の筋肉を押し付けた。男は本能に忠実なものだ。こんな状況で全く反応しない男なんているわけがない。しかし、雅之は夏実の手首を掴み、強い力で夏実を押し返した。
会社を出た里香は、雅之がついて来ていないのを確認してほっと息をついた。この狂犬のような男がまた何かしでかすのではないかと心配だったのだ。里香は地下鉄の駅に向かった。会社からカエデビルに戻るのは地下鉄でとても便利で、終着駅を出てすぐの場所だ。しかし、曲がり角を曲がったとき、里香の視界の端に見慣れた人影が映った。驚いて振り返ると、昨晩助けてくれた男で、今朝も突然謝ってきた男だとわかった。この男はどうやって自分の会社を知ったのか?なぜ自分の後をつけているのか?何をしようとしているのか?里香は警戒心を強め、地下鉄の駅に向かう足を速めた。改札でカードをスキャンして中に入り、振り返るとその男も一緒に入ってきた。里香は息を呑み、いつでも警察に通報できるようにスマートフォンを取り出した。もしこの男が自分に危害を加えようとしたら、すぐに通報するつもりだった。でも、今は彼がただの通りすがりかどうかわからないから、様子を見ることにした。地下鉄に乗り込み、終着駅に着くまで不安な気持ちを抱えていた。終着駅に着いたら、里香は地下鉄を出て振り返った。やはりその男がまだついてきていた。何なの?彼は一体何をしたいのか?これ以上ついてくるなら、通報すると決めた。里香は足早に歩き、カエデビルに入るまで急いだ。そうすれば、その男は入れないはずだ。しかし、カエデビルの入り口に近づいたとき、突然後ろから急な足音が聞こえた。以前、誰かに後ろから髪を引っ張られたことがあったため、里香の顔は瞬時に青ざめ、振り返って大声で問い詰めた。「あなたは何なの?私について何をしたいの?」言いながら、里香はすでに110番をかけていた。里香が突然振り返るとは思わなかったのか、東雲は驚いた。里香の青ざめた顔を見て、彼女を怖がらせてしまったことを理解し、慌てて説明した。「僕はただ謝りたくて…」「もしもし?今、ストーカーされています、助けてください!」東雲の言葉がまだ終わらないうちに、通報の電話がつながり、里香は早口で今の状況を伝えた。「違う、僕はただ…」東雲は一瞬驚き、無意識に一歩前に出た。「やめて!近づかないで!」里香は叫びながら、何度も後ろに下がった。電話の向こうで、警察は事の重大さを理解し、すぐに住所を尋ねた。里香が住所を教えると、あえて電話を切らないようにした。東雲の無表情な顔に
女性警察官が部屋を出て行くと、雅之が里香の前に立ち、「東雲は私の部下だ」と言った。里香は驚きのあまり目を見開いた。「彼をずっとつけさせていたのはあなたなの?あなた、変態なの?」雅之は黙り込み、額の青筋がぴくぴくと動きながら低い声で言った。「東雲が間違ったことをして君を誤解させたから、謝りに来たんだ」でも、東雲が誰にも言わずにそのまま里香に謝ってしまったとは思わなかった。精神病院に連行されなかっただけでもラッキーだと思うべきだ。里香は戸惑った顔で、「間違ったことって?」と問いかけた。雅之からあの夜のことを聞いて、里香は理解したように頷いた。「ああ、なるほど」雅之は里香を見つめ、「この件、君はどう解決するつもりだ?」と尋ねたが、里香は突然軽く笑った。「何を笑っている?」と雅之が尋ねると、「東雲さんが間違ったことを知って謝っているなら、あなたはどうなの?」と里香が問いかけた。雅之の表情が一瞬止まり、喉が上下に動き、その目は深く暗い色をしていて、胸の奥の感情を読み取ることができなかった。狭い部屋の中で、空気が凍り付いたように冷たい雰囲気が漂った。里香は紙コップを強く握りしめていた。「ごめん」と雅之が謝らないと思ったら、雅之が口を開いた。「君のことを誤解していた僕が悪かった」里香が不満を持つのではないかと恐れていたのか、雅之はもう一度繰り返した。里香は心の中でほっとしたが、思っていたほどのすっきり感は感じられず、ただ虚しい気持ちになった。求められていたから仕方なく謝罪することと、自発的に謝ることは同じではない。「もういい」と里香は立ち上がり、紙コップを横に置いた。「あなたの部下には、今後私の前に現れないように言って」そう言って、雅之の横を通り過ぎて出て行った。雅之は里香を一瞥した。外に出ると、東雲はすでに解放されていた。東雲はまるで何か悪いことをした子供のように、頭を下げて隅に立っていた。雅之は冷たい口調で「次回このようなことがあれば、もう僕の目の前に顔を出すな」と言ったら、東雲は即座に「もう二度とこんなことをしません!」と答えた。警察署を出ると、里香はすでに遠くに歩いていた。ここからカエデビルまでは近く、10分もかからない距離だ。雅之は里香を深く見つめ、里香の姿が曲がり角を曲がるまで見守っていた。東雲は黙って雅之の後に
雅之が別荘に戻ったばかりで、里香から電話がかかってきた。彼はほとんどためらわずに電話に出た。「もしもし?」里香は感情を抑えようとしたが、声が微かに震えていた。「雅之、私に手配してくれたボディガードはどこ?近くで守ってくれるボディガードは?」雅之は里香の重い口調から何かが起こったことを察し、「何があった?」と尋ねた。「私は近くで守ってくれるボディガードが必要なの」と里香は繰り返した。雅之は冷静に答えた。「何があったのか教えてくれなければ、手配はできない」里香は焦り混じりに答えた。「そんなのどうでもいいの!私はただ近くで守ってくれるボディガードが必要なの。できれば、私が望むときにいつでも見えるような人がいい」雅之は少し黙り込んだ後、その目に危険な光を宿して言った。「わかった、手配する」「できるだけ早くね」と里香はそう言って電話を切った。何がどうなっているのか分からなかったが、雅之の声を聞くと心の底から恐れや不安が少しずつ消えていった。里香はスマートフォンを握りしめ、自嘲気味に笑った。これって雅之に依存するようになったってこと?もし離婚したら、雅之がいなくなったらどうするの?里香は生きていけるのだろうか?ああ…その時まで生きていられるかどうかもわからない。里香は食欲を失い、さっきの血生臭い画像が頭に浮かんで、時々気持ち悪くなった。30分後、インターホンが鳴った。里香は警戒しながら立ち上がり、そっとドアに近づいた。覗き穴から外を見ると、来た人を見て一瞬驚いたが、すぐにドアを開けた。「どうしてあなたなの?ボディガードはどこ?」雅之はすでに服を着替えていて、黒いコートが彼の姿をさらに引き立てていた。雅之の全体からは高貴で冷たい気質が漂い、深く鋭い顔立ちが際立っていた。細長い黒い目が里香を見つめ、突然近づいてきて、里香の手首を掴んで引き寄せた。「もっと近くで守りたいのか?」里香は一瞬驚いて、「そこまで近くでなくても…」と答えた。雅之は里香を解放し、そのまま中に入って行った。まるで自分の家に戻ったかのように。「ボディガードは外で君を守ることしかできないし、中には入れない」里香は眉をひそめた。「それじゃあどうするの?この家は広すぎて、私一人だと怖い」雅之は振り返って里香を見た。「僕なら君の近くで守ることができる」
雅之は里香を一瞥し、さらに食事のペースを上げた。里香はその様子を見て、思わず目を大きく見開いた。血生臭い暴力の写真のことをすっかり忘れ、頭の中は「絶対に雅之に料理を全部食べられたくない!」という思いでいっぱいだった。これは私が作った料理なのに…全部私のものよ!皿の中には鶏の手羽先が一つだけ残っていた。里香は素早くそれをつまみ上げ、得意げに雅之を見ながら口に運んだ。雅之は箸を置き、優雅に口元をティッシュで拭いた。深い黒い目には少し温かみが宿っていた。最後の鶏の手羽先を食べ終え、里香は満足そうに目を細めた。お腹がいっぱいになって、本当に気持ちがいい!里香は立ち上がり、手を振って「まさくん、片付けて!」と言った。そう言って前に二歩進んだが、次の瞬間、里香は立ち止まり、前を見つめて目を瞬きさせ、その目の奥にある酸っぱさを押し込めた。ここに、まさくんなんていないのに。「勝手に来てご飯を食べたんだから、皿や箸はあなたが片付けるべきよ」里香は振り返らずに言い、すぐに寝室に入って行った。雅之は里香の背中を見つめ、その目に暗い色が宿った。「まさくん」と呼ぶ声に、彼は一瞬ぼんやりとした。まるで昔に戻ったようだった。里香が料理を作り、雅之が皿を洗う、役割分担がはっきりしていたあの頃に。目の前の皿や箸を見つめながら、雅之は薄い唇を真一文字に結んだ。その時、スマートフォンが鳴り出し、雅之はそれを取り出して通話を受けた。「もしもし?」東雲聡の声が聞こえた。「社長、その番号は仮の番号です。相手は実名登録していないため、相手の身元情報は確認できません」雅之の口調は冷たくなった。「俺が求めているのはその答えではない」聡は「今のところ、他に情報はありません」と返した。雅之は「引き続き調べろ。手掛かりが見つからないなら、帰国するな」と冷たく言い放った。聡が返事をしようとしたが、電話はすぐに切られた。部屋の中で、里香はシャワーを浴び、ドレッサーの前でスキンケアをしていた。突然、寝室のドアが開いて、里香は驚いた様子で、「どうしてノックせずに入ってきたの?」と尋ねた。雅之は淡々とした表情で、「ノックしたら入れてくれる?」里香は「無理よ」雅之は「それじゃ君に拒否する機会を与える必要がないじゃないの?」里香は絶句した。その論理には反論できなかった
雅之が何も着ていないままで出てきたのを見て、里香は驚き、変態じゃないの?と心の中で叫び、てて振り向き、クローゼットから自分のバスタオルを引っ張り出して雅之に投げつけた。「目の毒だからさっさとこれを巻いて!」そのバスタオルはピンク色で、大きくもなく、ぎりぎり雅之の腰を巻けるくらいだった。巻き終わった雅之を一瞥した里香は思わず笑い出した。何なの、このおかしさ?手足が長い男がピンクのタイトなバスタオルを巻いてるなんて、笑える!雅之は里香の笑顔を見て、目の色が少し柔らかくなった。彼はベッドに向かい、そのまま布団をめくって横になった。里香は驚いて、「何してるの?」と尋ねた。「寝る」「ここは私の部屋だから、寝るのはダメ!」「君を守るために近くにいるんじゃないの?これで十分近くない?」里香の顔から笑顔が消え、声も冷たくなった。「雅之、そんなのは面白くないよ」雅之は「ふーん」とだけ言った。里香は言葉が出ず、無力感を感じたまま部屋を出ていった。「どこへ行くの?」雅之の低く魅力的な声が背後から響いた。「別の部屋に行く。どうせ広い部屋だし、部屋もたくさんあるし」「怖くないの?」「あなたの方が怖いよ」雅之は黙り込み、里香の背中を見送りながら、その表情は真剣さを帯びた。里香は別の部屋に行った。部屋はきれいに整っていたが、慣れない場所では眠れなかった。何度も寝返りを打ったが、血まみれの恐ろしい写真が頭に浮かんできて眠れなかった。やってられない!布団を頭に被ったが、何度繰り返してもダメだった。イライラして起き上がり、頭をかきむしった。なんで雅之が来たせいで私が部屋を追い出されなきゃいけないの?なんで私が避けなきゃいけないの?里香は無表情で主寝室に戻った。雅之はベッドの片側で真っ直ぐ横たわり、目を閉じて寝ているようだった。里香がこんなに苦しんでいるのに、雅之はどうしてこんなに平然としていられるの?里香はベッドの反対側に行き、布団を全部引っ張って自分の方に持っていった。凍えてしまえ!慣れ親しんだベッドと匂いに、里香の心は徐々に落ち着き、目を閉じて眠りに落ちた。隣から規則的な呼吸が聞こえてきた。暗闇の中で、雅之は目を開け、里香の方を微かに見た。里香は背を向けていたため、雅之には後頭部しか見えなかった。
里香は彼の様子を見て少し戸惑いながらも、「それでは、親子鑑定をなさいますか?」と控えめに提案した。「いや、そんな必要はない。君こそが、私の娘だ。見てごらん……お母さんにそっくりじゃないか!」秀樹はすぐさま首を振ると、足早に一枚の写真の前へと歩み寄り、その中の女性を指さした。里香も近づき、じっと写真を見つめる。見覚えのない顔だったが、確かに自分とよく似ているとわかる。特に目元の優しく穏やかな雰囲気が、自分とそっくりだった。里香は軽く唇を噛み、秀樹の方に向き直ると、静かに口を開いた。「やはり一度、きちんと確認しておきましょう。あとで揉め事にならないようにするためにも」するとそのタイミングで、賢司が口を挟んだ。「父さん、やっておいたほうがいいよ。これで今後、誰にも何も言われなくなるんだから」景司は何も言わず、ただ複雑な表情のまま、じっと里香を見ていた。里香とまっすぐ向き合う勇気がなかったのだ。あれほど、何度も雅之との離婚を勧めたのは、自分だった。しかも、その理由は、ゆかりを守るためだった。どれほど愚かだったのか……今になって痛いほど思い知らされる。そんな景司をよそに、里香が賢司の方を見やると、賢司はにこりと笑って言った。「初めまして。賢司だ。俺のことは『お兄さん』って呼んでくれればいいよ」里香は少し戸惑いながらも、小さく唇を動かして「お兄さん」と呼んだ。その瞬間、いつもは厳しい表情の賢司の顔に、初めて柔らかな笑みが浮かんだ。「うん」不思議な感覚だった。ゆかりから十年以上「兄さん」と呼ばれてきたのに、心が動くことは一度もなかった。むしろ、どこかで疎ましく感じていた。けれど、今。里香に「兄さん」と呼ばれた瞬間、煩わしさなんて一切なく、むしろ心地よささえ感じた。これが、血のつながりってやつなんだろう。とはいえ、手続きはやはり必要だった。すでに瀬名家のみんなが里香を家族として受け入れていたとしても。鑑定結果が出るまでには3日かかるということで、里香はその間、瀬名家に滞在することになった。秀樹は里香をひときわ大事にし、細やかな気配りで接してきた。彼女の好みを一つひとつ聞き出して、特別に部屋まで用意したほどだ。賢司も、里香の好きそうな物をたくさん買い揃えて帰ってきた。景司は最後
「じゃあ、本当の妹は、いったいどこにいるんだ?」景司は魂が抜けたように、ぽつりと呟いた。賢司は冷静な表情で言った。「ゆかりは、あの時たしか安江のホームから来たよな。親子鑑定の結果もあって、妹ってことになったけど……今思えば、髪の毛を出してきたのは彼女自身だった。もしかしたら、あれは彼女のものじゃなかったのかもしれない」「ってことは……本物の妹は、まだ安江のホームにいる可能性があるってこと?」景司は兄をまっすぐ見つめた。「ああ、そういうことになるな」賢司は静かに頷いた。ただ、時は流れ、今の安江ホームは当時とはすっかり様変わりしていた。あの頃の子どもたちはみんな成長し、今や全国に散らばっている。探すのは簡単なことじゃなかった。そんな中、なぜか景司の脳裏にふと、里香の顔が浮かんだ。そのときだった。使用人が扉をノックして入ってきた。「賢司様、景司様。二宮雅之と名乗る方が旦那様にお目通りを願っております」雅之?あいつが、なんでここに?景司の表情が固まる。頭に浮かんだのは、ゆかりがしでかした一連のことだった。まさか、詰問しに来たのか?階段を降りてきた秀樹が、「通せ」と静かに命じた。「かしこまりました」5分後、二人の人物が現れた。雅之は背が高く、整った顔立ち。仕草のひとつひとつから気品が漂い、見ただけで只者ではないと分かる男だ。そして彼の隣に立つ女性――上品で美しく、化粧っ気はなくリップグロスだけ。それがかえって、澄んだ印象を際立たせていた。秀樹はその女性――里香の顔を見た瞬間、凍りついたように動きを止めた。似ている!あまりにも似すぎている!この娘、美琴に瓜二つじゃないか!思わず興奮して、里香の前に歩み寄ると、震える声で尋ねた。「あなたは……?」里香は口元に穏やかな笑みを浮かべ、「瀬名さん、初めまして。小松里香と申します」と丁寧に名乗った。「里香!?なんで君がここに?」景司の驚きが部屋に響いた。秀樹が鋭い目で息子を睨んだ。「どういうことだ。お前、彼女と面識があるのか?」「あ、ああ……」景司が答えたその瞬間、賢司が軽くため息をつき、突然弟の頭を掴んでぐいっと向きを変えた。「ちょ、なにすんだよ!」景司は不満そうに身を捩った。賢司は手を離しながら、
「わ、わたしは……」ゆかりは全身を震わせながら、声が出なかった。目の前にこれだけの証拠を突きつけられては、もう言い逃れなどできるはずもない。もはや瀬名家の娘ではなく、お嬢様でもない。こんな状況で、これからどうやって生きていけばいいの?「父さん、この鑑定書の出所がはっきりしていません。もう一度きちんと検査し直すべきです。誰かが細工した可能性もありますから」賢司が冷静な口調で提案した。秀樹はゆかりの顔を見つめたまま、ふいに視線を逸らして「任せる」とだけ答えた。「わかりました」元々、賢司は冷静で厳しい性格だ。景司のようにゆかりを甘やかすようなことはなかった。そんな彼が、ゆかりが偽物であると知り、さらには数々の悪行まで明らかになった今、彼女に対する態度は一層冷たくなるのも当然だった。こうして手配が済むと、ゆかりは監禁されることとなった。景司は放心したようにソファへ崩れ落ちた。「ゆかりが妹じゃないなら、本当の妹は一体どこに……」秀樹はじっと壁にかかった一枚の写真を見つめていた。着物をまとった気品ある女性が、満面の笑みを浮かべてカメラの前に立っている。「美琴……間違った子を連れてきてしまったよ。ゆかりは、僕たちの娘じゃなかった。どうか……本当の娘がどこにいるのか、教えてはくれないか」沙知子はその様子を見つめながら、強く拳を握りしめていた。爪が手のひらに食い込みそうなほど、力を込めて。嫁いできて十年。いまだに秀樹の心には入れず、息子たちからも距離を置かれている。本当に、報われない人生だわ……親子鑑定の再検査には時間がかかる。その間、瀬名家では本物のお嬢様探しが始まっていた。その動きはすぐに、雅之と里香の耳にも入った。「鑑定結果が出るまで三日かかるそうだ。錦山まで行くつもりか?」と雅之が尋ねると、里香は軽く頷いた。「うん、ちょっと見てこようかな」三日あれば、錦山をゆっくり見て回れる。その頃には、瀬名家がどう動くかも見えてくるだろう。錦山へは飛行機で数時間。着いたときには、ちょうど夕暮れどきだった。雅之は里香を連れて、名物料理をいろいろ食べ歩いた。以前は好んでいた焼きくさややドリアンなどには目もくれず、辛いものや甘いものばかりを選ぶ彼女の様子に、雅之は思わず笑いながらからかった。「どうした
秀樹はソファに深く腰を下ろし、目を閉じたまま、何も言わなかった。賢司は沙知子の方をちらりと見た。継母である彼女は、瀬名家の中ではいつも遠慮がちで、小さな声で「それは……」と口を開いた。「黙れ!」その瞬間、秀樹が怒声を上げ、リビングの空気は一気に重く沈んだ。賢司はただ事ではないと直感し、それ以上は何も言わず、そっと隣のソファに腰を下ろして静かに待った。30分後、玄関から再び物音がして、景司とゆかりが前後して部屋に入ってきた。中に足を踏み入れた途端、景司は空気の異様さに気付き、「父さん、兄さん、何があったんだ?」と問いかけた。後ろにいたゆかりは、おどおどと様子を伺い、不安げな表情を浮かべていた。胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。秀樹がようやくゆっくりと目を開け、「全員揃ったな。なら、これを見ろ」と低く言った。彼はテーブルの上の書類を指差した。最も近くにいた賢司がそれを手に取り、目を通していくうちに、その表情が次第に険しくなっていく。「……本当に、お前がやったことなのか?」読み終えた賢司は、鋭い視線でゆかりを見据えた。ゆかりは顔面蒼白になり、「え?な、何の話?兄さん、何言ってるのか全然わからない……」と声を震わせた。「これは……一体どういうことだ?」景司が近づき、書類を手に取って見た瞬間、顔つきが凍りついた。ゆかりを振り返り、怒りをにじませて睨みつけた。「放火、誘拐、薬物による冤罪工作……ゆかり、お前、冬木に残ってこんなことしてたのか!」その言葉に、ゆかりはすべてがバレたと悟った。だが、認めたら終わりだ。すべてを失う。「な、何のこと?何かの誤解じゃない?兄さん、いつも私のこと一番可愛がってくれてたじゃない……私がそんなことする人間に見える?」ゆかりは涙をポロポロこぼしながら、すがるように訴えた。景司は、苦しげに言った。「俺も、あの電話を聞いてなければ、もしかしたら信じてたかもしれない。でもな、雅之を陥れようとするお前を見て、もう……何を信じればいいのかわからなくなった」「土下座しろ!」その時、秀樹の怒声がリビングに響き渡った。ゆかりの膝がガクガクと震え、その場に崩れるように跪いた。涙に濡れた顔で秀樹を見上げる。「お父さん、信じて。本当に私じゃないの!誰かが私をハメようと
「もしもし、どうすればいいのよ?全部失敗したじゃない!雅之に指まで折られたのよ!あなたの計画、全然使いものにならなかったわ!」怒りを押し殺して話してはいたが、ゆかりの声は明らかに震えていた。少しの沈黙のあと、相手は冷たく言った。「自分の無能を人のせいにしないでくれる?」「……なにそれ!」ベッドから飛び上がりそうな勢いで声を荒げたゆかりだったが、それでもこの人物に頼るしかないと思い直し、なんとか感情を押さえて訊ねた。「じゃあ、これからどうするつもり?」「ここまで使えないなら、もう協力する意味もないね。あとは勝手にやれば?」それだけ言い残して、相手は一方的に電話を切った。「ちょ、ちょっと!もしもし!?」ゆかりは青ざめた顔で慌ててかけ直したが、すでに電源が切られていた。ひどい。本当に、ひどすぎる!そのとき、不意に背後から声がした。「誰と電話してた?」ドアの方から聞こえてきたのは景司の声だった。「に、兄さん……なんで戻ってきたの?」驚いたゆかりは、思わずスマホを床に落とし、動揺を隠しきれないまま景司を見上げた。景司はゆっくりと部屋に入ってきた。ドアの外で、彼女の会話をすべて聞いていたのだ。雅之に指を折られたという事実も、そこで知った。「お前、雅之を陥れようとしたのか?」ベッドの脇に立ち、不機嫌そうな目で彼女を見下ろしながら、床に落ちたスマホを拾い上げる。そして画面に表示された番号を確認した。記憶力に優れた彼は、その番号をすぐに覚えた。「この相手、誰だ?雅之を罠にかけろって言ったのか?お前が何度もしつこく俺に、雅之と里香を離婚させろって言ってきたのも、この人物の指示か?」畳みかけるように問い詰められ、ゆかりの顔から血の気が引いていった。「そんなこともういいじゃない。ねぇ、錦山に帰ろ?冬木にはもういたくないの。全然楽しくないし……」甘えるような声で、いつもの手を使ってごまかそうとする。けれど、もうそんなやり方は通用しなかった。「雅之を怒らせたから、逃げるように帰りたいんだろ?……ゆかり、本当に自分勝手すぎるよ」景司は失望を隠さず、彼女をまっすぐに見つめた。ちょうどそのとき、彼のスマホが鳴った。画面には「父さん」の文字が表示された。「父さん?」電話を取った景司の声は
雅之は里香にスマホを返し、彼女が電源を入れてメッセージを確認する様子をそっと見守っていた。ちょうどそのとき、かおるから電話がかかってきた。「もしもし、かおる?」「里香! どういうつもり!? 一人で行くなんて! 最初に一緒に行こうって約束してたでしょ!? なんで黙って出て行ったの? 私のこと、本当に友達だと思ってるの?」かおるの怒鳴り声がスマホ越しに響き渡り、どれほど怒っているかが痛いほど伝わってくる。里香はスマホを少し耳から離し、かおるが一通りまくしたてるのを待ってから、慌てて優しく謝った。「ごめんね、確かに行くつもりだったんだけど、結局行けなかったの。今、外で朝ごはん食べてるんだけど……一緒にどう?」「場所送って!」再び怒りの声が飛んできて、電話は一方的に切られた。里香は鼻をこすりながら、困ったように苦笑いを浮かべた。雅之は優しい眼差しを向けながら、頬にかかった彼女の髪をそっと耳にかけて言った。「君がこっそり出ようとしてたって聞いて、なんか……妙に納得しちゃったんだけど、なんでだろうね」里香はじっと彼を見つめて言った。「たぶん、平等に扱ってるって思ってるからでしょ。でもさ、逆に考えてみて? あなたが特別じゃないから、平等に扱ってるのかもしれないよ?」雅之は言葉を失って完全に黙り込んだ。ほどなくして、かおるが到着した。勢いよく店に入ってきて、里香と雅之が並んで座っているのを見るなり、顔をしかめた。「これ……どういう状況?」里香は説明した。「全部誤解なの。ゆかりが仕組んだことだったけど、結局うまくいかなかったの」かおるは状況を理解した様子だったが、雅之への視線は冷たいままだ。「こいつが他の女と一線を越えそうになったからって、何も言わずに街を出ようとして、それで説明されたからってすぐ許して考え直したってわけ? あなた自身の意思は? 最低限の線引きとか、ないの?」かおるはじっと里香を見つめ、怒りを通り越してあきれたような顔をしていた。里香はかおるの手をそっと握り、穏やかに微笑んで言った。「かおる……いろいろあって、本当に疲れちゃったの。だから、自分にもう一度チャンスをあげたいって思ったの。もしかしたら、本当に変われるかもしれないって……ね?」「ふんっ」かおるは鼻で笑ったものの、
朝の街はまだ車もまばらで、里香はしばらく歩いたあと、タクシーを拾った。「空港までお願いします」そう淡々と告げながら、窓の外に目をやる。視線の奥には、どこか生気のない静けさが宿っていた。同じ頃。徹は、遠ざかる里香の背中を見つめながら、雅之に電話をかけた。「小松さん、出て行きました。向かったのは……たぶん空港かと」渋滞に巻き込まれることもなく、里香が空港に到着したのは、まだ午前七時前だった。一番早い便のチケットを買い、そのまま保安検査場へ向かった。「里香!」ちょうどそのとき、背後から聞き覚えのある声が響いた。一瞬だけ動きが止まり、目を閉じてから、何事もなかったかのように振り返った。少し離れた場所に、雅之が立っていた。整った顔立ちには、冷ややかな表情が浮かんでいる。「どこへ行くつもりなんだ?」ゆっくりと彼が近づいてきた。「ずっと、お前のこと探してたんだ。やっと帰ってきたと思ったら……またすぐにいなくなるのか?もう僕なんて、いらないのか?」雅之は、じっと里香の目を見つめながら言葉を重ねた。里香は静かに答えた。「私たち、もう離婚したのよ。そういう誤解を招くような言い方はやめて」「でも、昨日の夜、僕に会いに来ただろ?間違いなく、会いに来てくれた。そうだろ?会いたかったんじゃないのか?」その言葉に、里香のまつ毛がかすかに震えた。気づいていたんだ。里香は深く息を吸い込み、静かに口を開いた。「私が会いに行ったってわかってるなら、私がこの街を出ていく理由も、きっとわかるはず。でもね、そもそも離婚したら出ていくつもりだったのよ」「あの女は、ゆかりだ。僕の飲み物に何か混ぜて、お前そっくりの格好をして、僕をあの個室に誘い込んできた。でも、途中で気づいた。何もしてない。本当に、何もしてないんだ。里香、あのとき、どうして中に入ってきてくれなかった?もし来てくれたら……僕、きっとすごく嬉しかった」雅之は、言葉を一つひとつ噛みしめるように、まっすぐに彼女を見つめながら言った。戸惑いが、里香の顔に滲む。そんな彼女の手を、雅之がそっと握った。「本当に、何もしてない。何もなかったんだ。お願いだ、僕のこと、捨てないで」その瞬間、心の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出すように、里香のまつ毛が震え、こらえていた涙が頬を
雅之は最初からかおるには一切目もくれず、リビングを何度か行き来して人の気配がないのを確認すると、そのまま寝室へ向かった。「ちょっと、止まりなさいよ!」かおるは慌てて駆け寄り、両腕を広げて彼の前に立ちはだかった。「何するつもりなの?」雅之は血走った目でかおるを睨みつけた。「どけ」彼の全身からは冷たい空気と、言葉にできないほどの威圧感が漂っていた。かおるは思わず身を引きそうになったが、それでも踏みとどまって言い返した。「どかないわよ。いきなり何なの、勝手に押し入ってきて!」雅之は苛立ちを隠せなかった。かおるがここまでして止めようとするってことは、里香がこの中にいるのは間違いない。だったら、なんで会わせてくれない?里香は知らないのか、自分がどれだけ必死に探していたかを。狂いそうになるくらい、ずっと探し続けていたのに。限界寸前だった雅之は、かおるを押しのけようと手を伸ばした――そのとき。背後のドアが、そっと開いた。パジャマ姿の里香が部屋の中に立っていた。片手をドアに添え、もう片方の手は力なく垂れている。細くしなやかな体がどこか儚げで、顔色はひどく青白かった。雅之の目は、彼女の顔に釘付けになった。まるで一瞬たりとも見逃すまいとするように、じっと見つめた。喉が上下し、かすれた声がようやく絞り出された。「……痩せたな」里香はドアノブを握る手に力を込めながら、静かに答えた。「疲れてるの。先に帰ってくれる?」その言葉に、雅之は息を呑んだ。彼女の冷たさが、鋭く胸に突き刺さった。「……わかった。ゆっくり休んで。明日また来る」そう言い残して背を向けた。何度も名残惜しそうに振り返りながら、ゆっくりと部屋を出ていった。ドアが閉まり、彼の気配が完全に消えると、かおるは「ふんっ」と鼻を鳴らし、振り返って彼女を見た。「里香ちゃん、あんなの無視しちゃいなよ!」里香は小さく頷いた。「疲れたから、先に寝るわ。付き添ってくれなくても大丈夫。一人でも平気」それに対し、かおるは即座にきっぱりと言った。「だめ。一緒にいる。じゃないと私が眠れないから」里香は仕方なくうなずいた。再びベッドに横たわったが、目を閉じても、眠気はまったく訪れなかった。さっきの彼の様子――早足で、目は真っ赤で、どこか混
バー・ミーティングの2階、個室にて。「雅之……」甘く媚びた女の声が耳元でささやく。吐息がすぐそばに感じられて、混濁していた雅之の意識が一瞬で覚醒した。彼は勢いよく身を起こし、低く掠れた声で問いかけた。「お前、誰だ?」「わ、わたし……」ソファに横たわっていた女は、突然正気を取り戻した彼に完全に面食らった様子だった。だが、雅之は女の答えを待たず、室内の照明スイッチを探して点けた。パッと明かりがつき、女の顔がはっきりと見える。ゆかり。その瞬間、雅之の顔つきが氷のように冷たくなった。そして次の瞬間には、彼女の首をつかんでいた。「僕に何をした?」「わ、わたし……っ」突然襲った激しい痛みと息苦しさに、ゆかりの目に恐怖が走る。目の前の男の目は冷たく鋭く、シャツは乱れ、全身から殺気がにじみ出ていた。この人、本気で殺す気だ。身体を震わせながら、ゆかりは必死に声を絞り出した。「だ、だめよ……わたしに手を出したら、瀬名家が……瀬名家があなたを許さない……っ」懸命に言いながら、雅之の手を振りほどこうとする。しかし彼は容赦なく彼女の指をつかみ、力を込めた。ボキッ。「きゃあああっ!」悲鳴を上げたゆかりは、そのままソファへと投げ捨てられた。ゆかりの指は明らかに折れていた。雅之は彼女を見下ろし、吐き捨てるように言った。「汚らわしい女が……僕のベッドに上がろうなんて、思うんじゃねぇ」冷たく言い放ち、雅之はそのまま大股で個室を出て行った。体の感覚がどこかおかしい。今すぐ病院に行かなければ。あの女、薬を盛りやがったな。瀬名家……か。里香はまだ戻っていない。だが戻ったら、必ず瀬名家には報いを受けさせる。ふと里香の顔が脳裏に浮かび、雅之の足取りは自然と早まっていった。バーを出て車に乗り込むと、スマホの着信音が突然鳴り響いた。額に青筋を浮かべ、顔をしかめながらスマホを手に取る。画面を一瞥し、そのまま通話に出た。「もしもし?」電話の向こうから、月宮の声が聞こえてきた。「うちのかおる、見てないか?」その一言に、雅之の眉がピクリと動いた。「僕に会いに来たって?」「そう。里香のことで何か手がかりがあったらしくて、直接話したいって言うから、お前の居場所教えたんだ。でも、会ってないのか?