「白々しい顔しやがって......一体、何がしたいわけ?」月宮は腰に手を当て、ベッドの端でかおるを見下ろしていた。ベッドに投げ出されたかおるの上着は肩からずり落ち、薄手のキャミソールワンピースがちらりと見えた。白く細い肩紐がかかる肩には、紅い梅のような痕が点々と残っていた。 それを見て、月宮は昨夜の自分の痕跡だと気づいた。瞳が一瞬暗くなり、喉がごくりと鳴る。身体の奥から不思議な熱が込み上げてくるのを感じた。不意に、喉の渇きと苛立ちが沸き上がってきた。一方で、かおるはベッドに膝をつき、上体を起こして睨み返した。小柄な体ながら、その気迫は負けていない。「もちろん、里香と雅之を離婚させるためよ!あんな男と結婚してから、里香がどんな目にあってるか、見てわかんないの?バカじゃないの?」月宮は冷笑を浮かべた。「夫婦の問題だろ?なんでお前みたいな外野が首突っ込むんだよ?『夫婦喧嘩は寝室まで』って言うだろ?今は揉めてたって、後々うまくいくことだってあるかもしれないじゃないか。そうなったら、お前のやってること、全部無駄じゃね?」月宮は彼女を指差し、呆れ顔で続けた。「いい加減にしろよ、考えなしで行動するの、そろそろやめろよな」「誰が考えなしだって言ったのよ?」かおるはカッとなり、手を振り上げて彼を叩こうとしたが、月宮は片腕で彼女の細い手首をしっかり掴んだ。その白くて華奢な手首は、少し力を入れただけで折れてしまいそうだった。「おい、俺に手を出すつもりか?」月宮は眉を上げて挑発的に見下ろした。「離して!」かおるはもがきながら、もう片方の肩の服がずり落ち、肘で引っかかったまま鎖骨が露わになる。そこにも昨夜の名残の痕跡が残っていた。月宮は彼女を軽くからかうつもりだったが、その痕跡を見た瞬間、言葉が詰まり、わずかに視線を外しながら咳払いをした。「言っとくけどな、あんまり無茶するなよ。雅之を本気で怒らせたら、俺だって止めきれないぞ」そう言いながら手を離し、少し距離を取った。かおるはふっと笑い、自分の体を見下ろして鼻で軽く笑った。「自分の野蛮さを自覚したから、今さら引いてるんじゃない?」月宮の顔は一気に険しくなった。かおるは服を直し、ベッドから降りつつ、言葉を緩めることなく続けた。「私が何をしようと私の勝手でしょ?あんた
かおるは身動きが取れず、内心でだんだん焦りが募ってきた。なに?この男、何考えてんの?まさか、もう一回しようってわけ?それだけは無理!あいつ、下手くそすぎて、もう二度とあんな苦しい思いなんかしたくない!かおるは全力で抵抗を始めた。彼女の体はしなやかで、月宮の下で絶えずもぞもぞ動いた。そのせいで、月宮の目つきはどんどん怪しくなっていく。「それ以上動いたら、ほんとに抱くぞ」月宮は渇いた声で低く言った。かおるは思わず動きを止めた。彼の意図が伝わってきたからだ。顔がカッと熱くなり、怒りと恥ずかしさがこみ上げてきて、「お、お前......早くどけよ!」と叫んだ。けれど、月宮はどくどころか、逆に彼女をぎゅっと抱き寄せて、「絶対に動くなよ。少し待てば落ち着くから」と囁いた。彼は顔を近づけ、熱い息がかおるの肌にかかる。かおるは鳥肌が立つのを感じた。もう、動けなくなった。というか、少し怖くなってきた。このまま無理やりされたら、自分じゃどうしようもない!このクズ男、どこででもそうやって発情するなんて!雅之は冷たい目で祐介を見つめ、口元に一瞬だけニヤリと笑みを浮かべた。「いいよ、その弁護士、紹介してくれよ。どれだけの腕か、見せてもらおうじゃないか」祐介は黙って里香に視線を向けた。里香は少し目を伏せ、長いまつげが微妙に揺れながら、答えた。「祐介兄ちゃん、ありがとう。でも今はまだ大丈夫」「なんだ?どうして遠慮するんだ?せっかくだから使ってみろよ。こっちだって弁護士知ってるし、どっちが上か、勝負だ。負けた方はこの世から消えてもらおうか?どうだ?」雅之は挑発的に続けた。里香は眉をひそめて、雅之を睨みつけた。「いい加減にして、雅之」雅之は冷たく睨み返し、「ふざけてるとでも思ってんのか?むしろ、僕は冷静だよ」と言い放った。里香は一瞬黙り、内心で思った。この男、頭おかしいんじゃない?祐介は笑みを浮かべていたが、その笑みも少し曇りかけていた。彼はわかっていた。里香が今、離婚できない状況にあり、彼を巻き込むつもりもないことを。それがなければ、彼女が断る理由なんてなかっただろう。「もし何かあれば、いつでも連絡してくれよ」祐介は優しく言った。「うん、わかった」里香は軽く頷いた。二人の間には静かな安心感が流れていた。そんな二人
里香はふと思い出した。月宮がかおるを寝室に連れて行ったことを。「どいてよ!」そう言って彼女はすぐに行こうとしたが、雅之に手で制されてしまった。里香の真剣な顔を見ながら、雅之は彼女の手をしっかり握り、低い声でささやいた。「今行っても、かえって気まずくなるんじゃないか?」里香は一瞬、迷ったように表情を曇らせた。「何事もお互いが同意してのことだからさ。無理なら、誰だってやめさせることはできるんだよ」と雅之は続けた。それでも里香は一瞬寝室の方に視線をやったが、やがて諦めたようにその場を離れた。彼女の脳裏にかおるの曖昧な態度がよぎり、もしかしたら......ただ遊んでいるだけかも、と思う。どうせ飽きれば、いずれは離れるだろうと。くるっと踵を返し、みんなで部屋を出た。階段の廊下は狭く、並んで降りるには一列になるしかなかった。雅之が一番前、里香がその後ろ、そして祐介が最後尾だ。歩きながら祐介が里香にささやいた。「海外で面白いものを見つけたんだ。今度時間があれば見せてあげるよ」里香は軽く振り返って「いいね」と微笑む。祐介も口元に笑みを浮かべて続けた。「景色もすごいんだよ。B島のオーロラは世界一美しくて、ずっと見ていたくなるくらいだ。一緒に行けたらいいのに」里香の目に少し憧れの色が混じった。「黒い砂浜もすごいって聞いたけど、本当に不思議な場所だよね」「うん、いつか行こう」「行きたいなあ......」そう言いかけたその時、突然、里香の鼻がズキっと痛み、目には思わず涙が滲んだ。気づかぬうちに前を歩く雅之にぶつかってしまったのだ。「なんで急に止まったのよ!」鼻を押さえながら、涙でぼやけた目で雅之を見上げる。雅之は振り返りもせずに言った。「階段で話しながら降りると危ないだろ?それに、君たちが話し終わるのを待ってからのほうがいいかと思っただけさ」言い方は穏やかだが、彼の冷たい雰囲気が漂っている。里香は何度か瞬きをしながら雅之の背中を見つめ、何も言わずにそのまま歩いた。祐介がくすくすと笑って、「二宮さん、おばあちゃんへのプレゼントはまだ買ってないんじゃなかったっけ?」と尋ねる。雅之はあっさりと答えた。「急がないさ、君たちの話が終わってからでもいいだろ」里香は少し間を置いて、「お店が閉まる前に早く行こうよ」
「そうか?」雅之は、里香の白くて純粋な顔をじっと見つめたかと思うと、ふいに身を屈めて彼女の後頭部を掴み、そのままキスをした。雅之のキスには、まるで狙いすましたかのようなテクニックがあって、じわじわと里香を引き寄せていく。彼女が我慢できなくなり、自ら絡みついてくるのを待っているように。「信じられないな」彼の呼吸が荒くなり、しゃがれた声で、唇の形をなぞるようにささやいた。外は夜も深まり、街灯の光は届かず、車内は薄暗いまま。二人の吐息が重なり合い、車内の温度もどんどん上がっていく。車は木陰に停めてあり、揺れる影が二人の顔に淡く映っていた。里香は抗おうとしたが、体がすでに雅之の手の感触に慣れてしまっているせいか、ほとんど抵抗の意思もなく体がふにゃりと力を抜いてしまった。雅之は低く笑って、「でも君の体は正直だな」と言った。里香の潤んだ瞳には、また涙が滲み、息を乱しながら言い返す。「私は普通の女よ。こんなふうに誘われたら、誰だって......他の男でも同じように......」でもその言葉を言い終える前に、また彼の唇が覆いかぶさった。そんな話、聞きたくもない! 他の男にこんな反応を見せるなんて、考えただけでも気が狂いそうだ!「んっ!」里香は思わず雅之を押し返そうとしたが、彼のキスはますます深く、激しさを増していく。彼は彼女の腰を掴むと、そのまま膝に引き寄せ、彼女を自分の膝に座らせた。大きな手でしっかりと彼女の腰を押さえ、二人の体はぴったりと密着した。お互いの体温を感じるほど、身を寄せ合ったまま。里香の顔は真っ赤で、呼吸も乱れっぱなしだ。雅之は彼女の手を取ると、ベルトのバックルにそっと触れさせた。「欲しいのか?」里香は腰が支えきれず、ふにゃりと彼の胸に身を預けてしまう。「雅之......感情はさておき、身体の相性だけなら、私たちいいかもね」雅之は彼女の顎を掴み、強引に自分を見るようにさせながら冷たく言った。「水を差す女に惚れてしまうなんて、僕もどうかしてる」里香のまつげが微かに震え、心の奥に築いた壁が崩れそうになる。雅之は再び彼女にキスをしたが、今回は意地悪く唇を軽く噛んだ。まるで罰でも与えるかのように。痛みに思わず涙を浮かべた里香を見て、雅之はふと手を離す。「誰が、お前と相性がいいって言った?」里香は
雅之は深い眼で、まだ赤みを帯びた彼女の顔をじっと見つめた。「わかった、自分で解決するよ」そう言って、彼はベルトのバックルを開けた。カチッという軽快な音が響き、里香の呼吸が一瞬止まり、車内の空気が急に足りなくなったような気がした。喉が少し渇いてきた。次の瞬間、手がぐいっと引かれた。「何してるの?」里香は驚いて、無意識に抵抗した。雅之の鳳眼は冷ややかに彼女を見つめた。「自力でなんとかしてるんだよ」「あなた......」里香は何か言おうとしたが、突然顔が真っ赤になり、指は軽く縮んだ。だが、それはますます熱を呼び起こすばかりだった。雅之の喉仏が力強く動き、依然として彼女をじっと見つめ、呼吸が次第に重くなっていく。里香は顔を背け、もうどうにもならないとばかりに放っておいた。どうせ、手を貸すつもりはなかったのだから。「ほんとに意地悪だな」雅之の低くかすれた声が耳元に響き、里香の神経をかき乱した。里香は唇を軽く噛んで、自分が声を立てないように必死に我慢した。どれほどの時間が経っただろうか。何もしていないにも関わらず、彼女の指はすでに疲れてきたが、車内の雰囲気はますます狭く、そして妖しげになっていった。これには一向に終わりが見えないようだ。「もういい加減にして!」里香は堪えられずそう言った。雅之は顔を近づけ、彼女の唇に軽くキスをした。「それだけの時間で、足りるのか?」里香:「......」鮮やかな唇を噛みすぎて、血がにじみそうだ!まるで何世紀も経ったかのように長い時間が流れ、ようやく雅之はウェットティッシュを取り出し、彼女の指を丁寧に拭き始めた。里香は少し息をつき、「どこでプレゼントを買うつもり?」雅之の声は、満足感を帯びたかすれた音色。「さあね」里香は彼を見据えた。「全部あなたのせいよ」雅之は彼女を見返し、まだその目には輝きが溢れていた。その抑えつけていた欲望の炎が再び燃え上がりそうになっている。里香は急いで目をそらし、彼を挑発しなかった。雅之の絶倫さは、里香もよく分かっている。雅之は彼女の手をきれいに拭いて、ようやく自分の整理を始めた。すべてが片付いた後、彼はタバコを一本取り出し、火を灯した。火の光はタバコの先で揺れ、淡い煙が漂い始めた。彼は目を半分閉じ、何とも言えない曖昧な表情
祐介は目を伏せ、心の中で感情が渦巻いていた。深い闇がまるで溶けない墨のように広がっていた。しばらくして、ようやく車のエンジンを始動し、その場を離れた。上の階では、月宮がかおるを抱きしめて気持ちを落ち着けていた。「ちょっと、もういい加減にしてくれない?」かおるは息ができないほど押しつけられている。この男、抱きしめることを際限なく続けている!月宮は歯を食いしばって、「もう一度言ってみろ?」かおるは彼の体温を感じ、これ以上強がる勇気がなかった。だって、今は彼に完全に押さえつけられているのだから。もし彼女が体勢を取り戻したら、絶対に彼の歯を全部折ってやる!「皆もう出て行ったわよ、あなたも行けば?」かおるが言った。外の騒動は、かおるにははっきりと聞こえていた。少し気まずいけど、大したことじゃない。月宮はかおるの頬に浮かぶ淡い赤い色を見つめた。化粧もしていないのに、まるで殻をむいたゆで卵みたいな肌だ。その瞳は生き生きとしていて、さらに淡い赤みも帯びていて。明らかに感情が動いた兆候だった。月宮は顔を近づけた。かおる:「何してるの?まさか、私にキスしようとしてるの?」月宮:「......」その一言で彼の動きは止まった。そうだ、俺は何してるんだ?かおるの顔を見ると、ついキスをしたくなってしまうのか?かおるは無表情で、「何?癖になっちゃったの?悪いけど、私は一度寝た男に未練はないの。それに言わせてもらえば、あんた、使い物にならないわ」月宮の顔は真っ黒になった。「それ、どういう意味だ?」かおるは目をぱちぱちさせて、「どういう意味って?私、これでもすごく気を使って言ってるんだから。それをなんで掘り下げるの?本当の所をはっきり言ったら、傷つくのはあんただけでしょ?それでもわからないの?」「へっ!」月宮は冷たく笑った。「誰が下手だって?昨夜は誰が、『ダメ、止めて』て叫んだんだっけ?」かおるの顔が黒くなった。「あんな下手くそじゃ、私だって拒否するわ!」月宮の唇の端の笑みは完全に消えた。「下手くそ」「使い物にならない」彼は完全に貶められた気分だ。男ってのは、こういうことだけは我慢できないものだ!「クソ男!」と面と向かって罵られても、ベッドで使えないなんてことは絶対に言わせない!月宮は歯を食いしばって、「今す
雅之は車を運転して、直接に二宮家へ戻った。本当、あきれたと、里香は思った。買い物なんて言っていたが、全部嘘だったんだ。里香は無表情で車を降り、内部へ向かって歩き出した。「どこへ行くんだ?」雅之は彼女の腕を掴んだ。里香は言った。「もう遅いし、休んだ方がいいわ」「休むのは後だ」そう言って、雅之は里香を連れて別の方向へ歩き出した。二宮家の別荘はとても広く、里香がまだ行ったことのない場所が多かった。ある扉の前に来て、雅之が扉を押し開けると、中にはさまざまなコレクションが並んでいた。里香は少し驚いて言った。「これは?」雅之は言った。「おばあちゃんに贈るものを一つ選びなさい」里香は近づき、ガラスケースが中のものを覆っており、灯りがまっすぐその中に射していた。この部屋には古い骨董品や書画、翡翠や宝石、アクセサリーがずらりと並び、なんでも揃っていた......全てのアイテムには値札がついていた。いくつかは購入されたもので、いくつかはオークションで競り落とされたものだった。どれも非常に高価だ。里香は、その数字の後ろに並ぶゼロを見るだけで、つい感嘆せずにはいられなかった。お金持ちは恐るべし!雅之はドアの前に立ったまま言った。「気に入ったものがあれば、僕の口座に直接振り込んでくれればいい」里香は戸惑いの表情で彼に視線を向けた。「私に売るつもりなの?」雅之は片眉を上げて言った。「他に何がある?」里香は思わず唇を引きつらせた。恥ずかしくも、好きなものを選ばせるというのは、てっきりプレゼントかと思ったと言いたいところだった。口に出さなくてよかった。どれ一つとして、彼女には買えるものがなかった。雅之は片手をポケットに入れ、部屋に入り、ざっと見渡した後、最終的に視線を一つの翡翠の簪に落として言った。「これはいいな。おばあちゃんは簪が好きだから」里香はその簪の値段を一瞥した。なんと、8億円。なるほど、ちょうど自分の持っている額だ。つまり、雅之は里香の持っているお金を見越してこれを勧めたってこと?里香は軽く笑って言った。「あなた、さすが商売人ね」雅之の端正な顔は穏やかで、美しい目は微笑みを浮かべながら、彼女を見つめていた。「お金を出さなくてもいいよ。代わりにちょっと手伝えば」里香は一瞬何のことか
里香はただ、いつになったらこの結婚生活を終えられるのか、そればかりを考えていた。雅之が歩み寄り、そっと手を差し出した。黒のドレスを身にまとった里香は、気品が漂い、高貴な佇まいを見せていた。美しい顔立ちはどこか繊細で、その瞳には静かな清らかさが浮かんでいる。細い腰と柔らかなヒップラインが絶妙で、周りの視線を自然と引きつける。雅之の手に、自分の手をそっと重ねる里香。彼はその手をしっかりと握り、強い感情を瞳に宿しながら低い声で言った。「里香、君は本当に美しい」里香はふっと微笑んで、「ありがとう。でも、今さら?」と軽く返す。雅之は少し困ったような顔をしたが、怒るでもなく、その目の中には柔らかな光が一層強まっていく。月宮の助言に従っているのか、いつもより優しい雅之。そんな彼に里香も距離を保ちながらも、この二日間は静かに過ごせていた。――もしこのままなら、案外やっていけるのかもしれない。そう思わせるには十分な時間だった。二人はそのまま二宮家の屋敷を出て、車に乗り込んだ。二宮おばあさんの誕生日パーティーは、本宅で開催される予定で、招待客は冬木の上流階級ばかり。華やかな一流女優も、ただの添え物にすぎない。敷地に到着し、車を降りると、豪華な赤いカーペットが玄関から庭までずらりと敷かれていた。細部まで飾り立てられた庭の赤い横断幕には、おばあさんへの祝辞が綴られている。「雅之様が来たわ!」「見て、隣の女性って誰?」「噂によると、奥さんらしいよ!」周囲からのひそひそとした声が聞こえてくる。雅之は端整な顔立ちを冷ややかに引き締め、何も言わずに里香を連れて邸宅へと進んだ。そこには、友人たちと話していた正光がいた。雅之と里香が現れた瞬間、彼の表情が一瞬固まった。「ちょっと失礼」正光は軽く友人たちに挨拶し、すぐに雅之に歩み寄ってきた。「雅之、彼女を連れてくるなって言ったはずだ。彼女がどんな立場か分かっているのか?こんな場所には相応しくない」怒りを抑え、低い声でそう言う正光に対し、雅之は冷淡に返した。「彼女は僕の妻だ、正真正銘の」正光は何とか怒りを抑えつつ、「彼女のこと、誰かに紹介でもしたのか?」と問い詰めた。「忘れてたな」と、雅之はさらりと答え、執事を呼ぶと、わざとらしく大きな声でリビングの客人にも聞こえるよう
里香嬉しそうに顔を輝かせ、急いで言った。「外の様子は?火は収まったの?」「火事はもう抑えました。まずドアを開けてください」里香は濡れた服をしっかりと身に巻きつけ、火の近くに触れないよう確認した後、ドアを開けた。徹は湿ったタオルで口と鼻を覆い、里香を見てホッとした表情を浮かべた。「奥様、こちらに来てください」里香は初めて気づいた。火がキッチンの方から広がり、キッチン近くの部屋が炎に包まれているのを見て、煙がもうもうと立ち込めていた。哲也は早く目を覚まし、子供たちを先に避難させ、消火器で火を消していた。新はボディーガードたちを引き連れてホースをつなぎ、火をかなり抑え、徹が里香を外に連れ出す機会を作った。里香の部屋がキッチンに近い場所だったので、もし火が制御できなければ、彼女の部屋まで火が及んでいたかもしれない。「奥様、大丈夫ですか?」新は里香が出てきたのを見て、すぐに駆け寄って尋ねた。里香は首を振りながら答えた。「大丈夫です」新もほっとして、「奥様、あちらで少し休んでください。さっきシグナルジャマーを壊して、消防に電話しました。すぐに来るはずです」と言った。里香はうなずいた。「わかりました」ホームの空き地には、子供たちが集まって恐怖と不安の表情で火の方向を見つめていた。里香は子供たちの元に行き、一人一人に怪我がないか確認した。誰も怪我をしていないことを確認した里香は、大きく息をついた。哲也は灰だらけになりながら近づき、里香が濡れた服を羽織っているのを見て、「その格好、寒くない?」と尋ねた。里香は首を振りながら答えた。「大丈夫です。火事に巻き込まれないように、用心していただけです」その言葉が途切れると、里香はくしゃみをした。哲也は心配そうに言った。「もう羽織らない方がいいよ。今はこんなに寒いんだから、風邪ひきやすいよ」里香は少し考えた後、それもそうだと思い、思い切って湿った服を投げ捨てて、体を動き始めた。運動をすれば寒さも感じなくなる。消防車のサイレンがすぐに鳴り響き、消防士たちが到着して火はあっという間に制御された。全てが終わる頃には、もう夜が明けていた。徹がやって来たが、その後ろには二人のボディガードが、一人の女性を押さえていた。「何をしているんだ?佐藤さんを放して!」
「雅之……」里香は彼の名前をつぶやきながら、スマホを手に取って彼に電話をかけた。そんな里香を見て、哲也は仕方なさそうに首を振った。多分、里香自身も気づいていないんだろうけど、雅之に対して、もう最初ほど抵抗感がなくなっている。やっぱり、未練があるからだろうね。好意や謝罪、許しを求められたら、心が揺れるのも無理ないよな。通話中の信号音が耳元で響いている。「ツーツー」という音が続いて、里香は少し不機嫌になった。どうして電話に出ない?どこにいるの?どこに行ったの?結局、スマホは自動で通話を切った。「電話に出ないんなら、もうあいつはいらない……」里香は一言つぶやくと、ふらふらと立ち上がり、外に向かって歩き出した。哲也は慌てて里香を支えようとしたが、里香に振り払われた。「私……大丈夫、自分で歩けるから」哲也は、いつでも支えられるように里香の後について歩いていた。里香はかなり飲んでいたから、歩くのが不安定なのも無理はない。幸い、里香は少し体が揺れるくらいで、道を蛇行しながらも転ばずに歩き続けた。里香を部屋まで見送ると、哲也は「ゆっくり休んで、俺は先に行くよ。何かあったらすぐ呼んで」と言った。「うん、わかった」里香は頷いた。哲也がドアを閉める前に、里香をじっと見つめた。彼女はベッドに横たわり、目を閉じて完全に無防備になっていた。ドアをしっかり閉めた後、哲也は部屋を去った。里香はすぐに眠りに落ちた。ぼんやりとした意識の中、濃い煙の匂いが鼻に突き刺さるような気がした。どうなってるの?ホームの中で、こんなに煙の匂いがするなんて……その匂いはどんどん濃くなっていき、里香は目を覚ました。すると、部屋の中が煙で充満しているのが見えた。頭は少し混乱していたが、里香はすぐに起き上がり、周りを見回した。窓の外には火の光が揺れているのが見えた。その瞬間、酔いが一気に覚めた!火事だ!里香は急いでベッドから飛び起き、コートを取り、洗面所に駆け込んで濡らし、それを身にまとってドアの方に走った。しかし、ドアを少し開けると、炎の舌が迫ってきた!廊下の火事はさらに激しくなっていた!子供たちの泣き声がかすかに聞こえる。里香は急いでドアを閉め、顔色が一瞬で青ざめた。どうしてこんなことに?どうして急に火事
夕日が西に沈むころ、食堂はとても賑やかだった。ホームには20人ほどの子供たちがいて、いくつかのテーブルが用意され、子供たちはそれぞれのテーブルに集まって座っている。哲也は大きな子が小さな子を連れてきたのを見届けた後、里香の方へやってきた。「実はさ、そんなに急いで帰らなくてもいいんだよ。まだ安江町の変化、見てないだろ?あのリゾート施設とかも、もう形が見えてきてるし」と、哲也が言った。里香は微笑みながら、「時間があるときにまた戻ってくるよ。この間のこと、本当にありがとう。乾杯しよう」と言った。里香はビールを手に取って、笑顔で哲也を見つめた。哲也もグラスを持ち上げ、「お礼なんていらないよ。俺たち、幼馴染だし、家族みたいなもんだから」と言った。里香は頷きながら、「その通り、乾杯!」と言った。二人はグラスを合わせ、酒を飲んだ。食堂の雰囲気は熱気に満ち、子供たちの笑い声が耳元で響いていた。一方、雅之は座って、哲也とどんどん乾杯を重ねる里香をじっと見て眉をひそめていた。彼は里香の手を押さえ、「少し控えたほうがいいよ、頭が痛くなるだろう」と言った。里香は眉を寄せて彼の手を払って、「あなたには関係ないでしょ、私は飲みたいの」と言った。哲也は笑いながら、「大丈夫、ここに迎え酒用のスープがあるから、後でそれを少し飲めばいいさ」と言った。雅之は冷たい目で哲也を見つめ、不満げに「これが家族としての態度なのか?里香が酒で頭痛を起こすと分かっていて、ただ見ているだけか?」と言った。哲也は一瞬言葉を失った。里香は「少しぐらい飲むのに、何が悪いの?雅之、なんでそんなに面倒なの?」と、顔に不満の色を浮かべて言った。まったく演技には見えなかった。雅之はすぐに怒りを感じた。里香は手を振って、「こいつのことなんて放っておいて、話を続けよう。ええと……どこまで話したっけ?」雅之は突然立ち上がり、そのまま食堂を出て行った。哲也は彼を一瞥したが、何も言わずに里香との昔話を続けていた。雅之は外に出て、夜の冷たい風に吹かれながら、頭を冷静にさせた。里香が珍しく感情を表に出すのに、自分は何をしていたのか。苦笑いを浮かべながら、すぐに戻ろうとしたその時、スマホが鳴り出した。取り出してみると、二宮グループの安江支社の担当者からの電話
里香は倉庫の方をちらっと見た。幸子がドアを叩いているのがわかった。幸子は、もう誰かに捕まることを恐れていない。自分が里香の弱みを握ったと思っているのか、恐れを知らずにいる様子だ。里香はひと呼吸おいてから歩き出し、倉庫のドアを開けた。「なんでまだ解放してくれないの?里香、本当に両親が誰なのか知りたくないの?」幸子は不満げに言った。里香は冷たい目で幸子を見つめ、「あなたが教えなくても、自分で調べられる。もうあなたは必要ない。今すぐ誰かを呼んで、あなたを外に出してもらうから」その言葉を聞いた瞬間、幸子は目を見開いて驚いた。「そ、そんなことできるわけないでしょう!里香、私は何年もあなたを育てたんだから、そんな恩知らずにならないで!」里香は皮肉を込めた笑みを浮かべて言った。「確かに、引き取ってくれた恩はあるけど、私を何度も他の人に渡した時点で、それは消えたのよ。今更そんなことを持ち出すなんて、恥ずかしくないの?」「なっ……」幸子は言葉に詰まり、無言になった。どうする?今、どうすればいい?本当にあの連中に連れ戻されるのか?それでは絶対に死んでしまうから、それだけは絶対に耐えられない!動揺し始めた幸子の顔が青ざめ、目がぐるぐると回っている。「わかった、両親のことを知りたくないんだね。だったら、何も言わないよ。今すぐに出て行く!最初からこんなところに来るべきじゃなかった!」そう言って、幸子は里香を押しのけて立ち去ろうとした。その瞬間、背の高い影が幸子の前に立ちはだかった。幸子はその影を見て、一歩後退り、警戒しながら尋ねた。「あんた……何をするつもり?」雅之は冷徹な目で幸子を見下ろし、その顔に冷気を漂わせた。「ひどいじゃないか、里香にそんなことをして」何もしていないただの立ち姿で、雅之の圧倒的な気配が幸子を震えさせた。幸子の顔色がますます青くなり、目の奥で恐れが広がった。「し、仕方なかったんだよ!あの時、ホームを経営しないといけなかったし、そうしないと前田から経営の許可がもらえなかったんだ。私は仕方なく……」幸子は言い訳をし始め、苦しげに声を震わせた。「そんなこと、僕には関係ない。僕が気にしているのは、里香のことだけだ」そう言って、雅之はすぐにスマホを取り出してメッセージを送った。少しして
景司はまさか、雅之がこんなにストレートに聞いてくるとは思ってもみなかった。こいつ、本当に距離感ってものを知らないのか?少し眉をひそめ、雅之をじっと見つめると、淡々と答えた。「当たり前だろ。お前には関係ない話なんだから」雅之は半笑いで肩をすくめた。「信じられないな」まったく、何なんだこいつは。そんな雅之を無視し、里香は景司に向かって言った。「向こうで話そう」少し離れたところに小さな公園がある。散策する人の姿がちらほら見え、陽射しも心地よく、微風が吹いて寒さも和らいでいる。「いいよ」景司は頷くと、すぐに里香とともに歩き出した。数歩進んでから、ちらりと振り返り、雅之を一瞥した。その目には、わずかに嘲笑の色が浮かんでいた。雅之は何も言わず、ただじっと里香を見つめる。そしてしばらくすると、諦めたようにため息をついた。どうすることもできない。今の雅之にとって、里香は従うしかない「女王様」のような存在。機嫌を損ねれば、ますます遠ざかってしまう。それだけは避けなければならなかった。公園に着くと、景司が口を開いた。「雅之と仲直りしたのか?」里香はすぐに首を振った。「してないよ」景司は怪訝そうに眉を寄せた。「でも、お前たち、一緒にいるよな?」里香は景司をチラリと見て、軽く息をついた。「偶然だって言ったら、信じる?」景司は少し考え込み、「偶然とは思えないな。むしろ、誰かが意図的に仕組んだように見える。里香、伊藤さんの時間は貴重だ。裁判が開かなければ、この件はどんどん長引くぞ」と言った。里香は小さく頷き、「知ってる。訴訟、取り下げるつもりなの」「え?なんで?」景司は思わず驚き、思い直したように尋ねた。里香はため息をつき、肩を落とした。「離婚って、お互いが同意しないと成立しない。どちらかが拒否すれば、訴えたところで無駄なの」雅之は絶対に折れない。だから、誰も手出しできない。景司は深く眉をひそめた。「確かに、そうかもしれない。でも、このままじゃダメだろ」そんなこと、里香だって分かってる。でも、こっちには打つ手がない。雅之が首を縦に振らない限り、どうしようもないのだ。だから今は、ただ様子を見ながら進むしかない。「大丈夫。時間が経てば、彼も同意するよ」そう言う里香を、景司は心配そうにじっと見つめ
ゆかりはさらに緊張し、警戒しながらドアの方をじっと見つめた。「……あんた、誰?」しかし、返事はない。「ねえ、まだそこにいるの?」そう言いながら、恐る恐る二歩前に進み、外に向かって呼びかけた。だが、やはり何の反応もない。どういうこと?誰かがいるはずじゃ……?不安を押し殺し、意を決してドアに手をかけた。次の瞬間、突然、一つの影が飛び込んできた!「きゃっ——!」ゆかりは悲鳴を上げ、慌てて後ずさった。目の前の人物を警戒しながら睨みつけた。男だった。帽子とマスクをつけたまま無言で立っていたが、やがてそれを外し、素顔を見せた。「怖がらなくていいよ。別に君を傷つけるつもりはない。それに、君が里香を潰したいなら、手を貸すこともできる」その顔を見た瞬間、ゆかりの目が大きく見開かれた。「君、二宮雅之に似てるね。彼とどんな関係?」男は他ならぬみっくんだ。男はニッと笑いながら肩をすくめた。「みっくんって呼んでくれていいよ。雅之とは何の関係もないさ」それでもゆかりは警戒を解かず、じっと睨んだまま問い詰めた。「じゃあ、どうして私を助けるの?まさか里香と何か因縁でも?」みっくんは軽く笑って、「まあ、そんなところかな」と答えた。そして少し表情を引き締め、静かに言葉を続けた。「里香が瀬名家に戻れなくする方法がある。信じられないなら、今すぐ立ち去るよ。でもな……」彼はゆかりをまっすぐ見つめ、ゆっくりと言った。「里香には二宮雅之がついてる。今はどうあれ、いずれ瀬名家に戻るだろう。その時、君の今までの全てが、跡形もなく消えるってわけだ」その言葉と、自信に満ちた態度に、嘘は感じられなかった。その通りだ。雅之が里香を支えている以上、彼女が瀬名家に戻るのは時間の問題。特に最近、父の瀬名秀樹が元妻の写真を見つめる、あの表情を思い出すたびに、ゆかりの中に広がる不安は、どんどん膨らんでいく。「いいわ!」迷いなくその話に乗ったゆかり。一方その頃、里香は車に戻り、しばらく走らせていたが、突然、車がガクンと揺れ、止まった。「エンスト?」雅之はハンドルを握ったまま、一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに車を降り、ボンネットを開けて確認した。「……ダメだな。修理が必要だ」里香は眉をひそめ、車の外を見回し
雅之は里香をしっかりと抱きしめ、その落ち込んだ気持ちをひしひしと感じていた。「そのうちきっと会えるよ。もしお前を失望させるような両親なら、無視しても構わないよ」雅之は低い声で言った。里香は目を閉じ、しばらく黙っていた後、ゆっくりと口を開いた。「放して、ちょっと歩きたい」雅之は里香を放し、その顔が穏やかな表情に変わったのを見て、ほっと息をついた。安江町はそんなに広くない町だから、歩けばすぐに街の端に着く。遠くに広がる野原の風景に、里香は道端で立ち止まり、冷たい風を体に受けながら考え込んでいた。雅之は少し離れた場所から里香を見守っていたが、その時、スマホが鳴った。電話を取ると、新の声が響いた。「もしもし?」「雅之様、調査結果が出ました。例のボディガードたちは、瀬名家の長女、ゆかりが送り込んだものです。瀬名ゆかりは安江町のホーム出身で、この数年、沙知子とは連絡を取り続けていたようです。そして、最近は沙知子がゆかり名義の家に住んでいました」幸子によると、誰かが里香の身分を替わっていると。それから、里香の両親が富豪だということも言っていた。雅之は静かに言った。「ゆかりが瀬名家の実の娘じゃないって情報を瀬名家に漏らして、まずは彼らの反応を見てみよう」今となっては、里香が瀬名家の娘であることはほぼ確定的だ。しかし、今はまだ里香にはこのことを伝えるつもりはない。まずは瀬名家の反応を見てから決めるつもりだ。もし、彼らがどうしてもゆかりを選ぶというなら、もう再会する必要もないだろう。里香は振り返り、戻ってきた。雅之が電話をしているのを見て近寄らず、車の方に向かって歩き出した。その頃、錦山の瀬名家では、沙知子(さちこ)が貴婦人たちとお茶を飲みながら、麻雀をしていた。突然、スマホが鳴り、助手からの電話だった。沙知子は微笑みながら、「皆さま、少し失礼させていただきますわ。お電話を取ってまいりますので」と言って庭へ向かって歩きながら電話を取った。「どうかしましたか?」「奥様、ゆかりお嬢様が瀬名家の実の娘ではないという情報をキャッチしましたが、どのように対処なさいますか?」沙知子は驚いたように眉をひそめた。「誰かが調査をしているのかしら?」「はい、どうやら」「幸子のことは見つかりましたか?」「まだです。冬木の
雅之を完全に無視していたけど、ふと見上げると、ちょうど電話会議を終えたところだった。「何?」里香にじっと見つめられているのに気づくと、雅之は余裕のある表情で視線を返した。その瞳には、もう冷たさはなく、まるで彼女を包み込むような柔らかさが宿っていた。でも、里香の心の壁は、相変わらず頑丈だった。「山本のおじさんに会いに行きたい」雅之はあっさりとうなずいた。「いいよ」「啓をあんなに苦しめておいて、おじさんに会ったら罪悪感は沸かないの?」雅之はニヤリと笑い、「啓を解放しろって言いたいの?」「啓が潔白だと信じてるわ」雅之はじっと里香を見つめ、「里香、山本のおじさんはもうお金を受け取った。啓が無実かどうかなんて、問題はそこじゃないんだろ?」何か反論したかった。でも、言葉がうまく出てこなかった。そうよね。啓は両親に見捨てられた。今さら何を言ったところで意味なんかない。山本のおじさんはお金を手に入れて、老後は安泰。啓のことなんて、もう誰も気にしちゃいない……里香はそれ以上雅之を見ず、黙って朝食を食べ始めた。そんな彼女の様子を見ながら、雅之はぽつりと言った。「啓は死んでないし、死なないよ」思わず雅之を一瞥すると、彼はさらに続けた。「証拠は揃ってる。でも、お前の意見には一理あると思ってる。ただ、啓の無実を証明する決定的な証拠が、まだ見つかってないだけだ」里香は無意識に箸を握り締め、「……なんで今さら、そんなことを?」と尋ねた。雅之はまっすぐに里香を見て、「これ以上、お前に誤解されたり、怯えられたり、拒まれたりしたくないから」と言った。一瞬、戸惑いがよぎり、里香は視線を逸らした。雅之の考えは、いつだってストレートだ。それが意味するのは、要するに――離婚したくない、ってこと。でも……それでも、心の中にある壁は、どうしても崩せなかった。もう何も言わず、朝食を終えた里香は、山本の焼き鳥屋へ向かって歩き出した。雅之はさりげなく会計を済ませ、黙って後をついてくる。焼き鳥屋はそう遠くない。角を曲がればすぐのはずだった。なのに、里香はその角で立ち止まり、足を止めた。「どうして行かないの?」と雅之が横に立った。里香は複雑な表情で、じっと前を見つめた。「……焼き鳥屋、もうないの」雅之も視線を向けた。そこ
雅之は身をかがめて里香をじっと見つめた。二人の距離はとても近かった。里香の冷たい顔を見て、雅之は口元を引き上げて微笑みながら口を開いた。「冷たいな、昨日の夜とまるで別人みたいだ」里香は眉をひそめた。「その話、もうやめてくれない?」「じゃあ、せめてキスだけでも」里香は無言で雅之を押しのけ、立ち上がって言った。「私たちの関係はあくまで取引だから、余計な感情を混ぜないで。お互いにとって良くないから」雅之は里香の冷静すぎる顔を見て、笑いながら言った。「僕にとっては、むしろいいことだと思うけど」「私の質問に答えて。やるかやらないか、はっきりしてくれない?」この男、なんでこんなにわずらわしいんだ?「ああ、やるさ」雅之は里香の前に来て、優しい声で彼女の気持ちをなだめた。「お前に頼まれたことだし、やらないわけにはいかないよ。それに、ちゃんと綺麗にやるさ」欲しい答えを得た里香は振り返って部屋を出て行った。雅之が手伝ってくれるから、幸子を送り出す必要もなくなった。今日は冬木に戻るつもりだ。「帰っちゃうのか?そんなに急いでるのか?ここでもう少しゆっくりしない?」里香が帰ると聞いて、哲也はすぐに引き留めようとした。里香は首を振りながら、「ここには急に来たから、冬木での仕事があるの。そんなに長くは遅らせられないわ」と答えた。哲也は少し寂しそうだったが、それでも頷いた。「そうか、じゃあいつ発つんだ?」「明日よ」「それならちょうどいい。後で少し買い物に行って、今晩は一緒に鍋を食べよう。子供たちもきっと嬉しいよ」里香は頷きながら「いいね」と答えた。ちょうどこの時間を利用して山本さんを訪ねるつもりだ。雅之は里香の部屋からゆっくり出てきて、会話を聞いて「何話してるの?」と尋ねた。哲也はそれを見て、少し驚いて言葉に詰まった。「君たち……」雅之は里香の肩を抱きしめて、「どうしたの?」と言った。哲也はしばらく呆然としていたが、里香は雅之の腕から抜け出し、扉の方へ歩いて行った。雅之もそのまま後を追った。ドアを出ると、雅之がついてきたのを見て、里香は言った。「私には自分の用事があるから、もう追いかけないで」雅之は言った。「お前の用事を邪魔するつもりはないよ」どうやらついてくる気満々だ。里香は眉をひそめ、「あなた、