里香は、できるだけ目立たないようにしていたが、突然二宮のおばあさんに話しかけられて、少し驚いた。「おばあちゃん、この照り焼きチキン、召し上がってみませんか?」里香は取り分け用の箸で料理をおばあさんに取って差し出した。「そうね、いただくわ」おばあさんはすぐにその料理に目を向けた。雅之の視線がじっと里香に向けられていたが、彼女はおばあさんにしか目を向けず、雅之には一度も視線を向けなかった。由紀子が口を開いた。「久しぶりなんだから、今日は泊まっていきなさいよ。おばあちゃんもずっと気にかけてたんだから」二宮のおばあさんも頷きながら、「そうそう、今日はぜひ泊まっていきなさい」と重ねて言った。里香は少し困惑し、雅之の方をチラッと見た。今の二人の関係で、一緒に泊まるのはちょっと......と思い、彼が断るだろうと期待していた。しかし、雅之は淡々と「分かった」と頷くだけ。里香は眉をしかめた。何考えてるの?私のサイン、まったく気づいてないの?おばあさんは里香の手を握り、にこにこしながら言った。「里香ちゃん、雅之ともっと頑張って、早くひ孫を見せてちょうだいね。あなたたちのために体に良いスープを作らせたから、寝る前にちゃんと飲んでね」里香は作り笑いを浮かべ、「分かりました、おばあちゃん」と頷いた。おばあさんは雅之にも言った。「雅之、あんたもちゃんと飲みなさいよ。一滴も残さないでね」「分かった」雅之も同じく頷いた。正光は少し苦い顔をしていたが、由紀子は一瞬目を輝かせて夏実に話しかけた。「夏実、今夜は一緒に過ごさない?久しぶりにゆっくり話しましょうよ」夏実は微笑みながら、「おばさん、それってちょっとご迷惑じゃないですか?」と控えめに言った。「何が迷惑よ!前もここに泊まってたじゃない。前の部屋を使えばいいわよ。ちゃんと掃除してあるし」夏実は無意識に雅之をチラッと見たが、彼は視線を落とし、無表情で、彼女たちの会話にはまったく興味がない様子だった。「じゃあ、決まりね。まずはご飯にしましょう」と由紀子は楽しそうに言った。夏実は少し緊張しながらも、了承した。テーブルの雰囲気はどこか妙な感じだった。里香の目には、かすかな冷笑が浮かんでいた。この場で一番純粋なのは、二宮のおばあさんだけね。おばあさんは真剣な表情で食事をし、
「たった一晩だけだぞ。何をそんなに怖がってるんだ?」雅之は、まるで里香の心を見透かしたかのように言った。「怖がってるんじゃないの。ただ、今の私たちの関係で、一緒に泊まるのはちょっとよくないじゃない?」里香は答えた。その瞬間、雅之の表情が一気に暗くなり、「僕たち、今どんな関係だって?」と問い詰めた。「もちろん、もうすぐ離婚する関係よ」里香はためらわずにそう答えた。里香が言い終わると同時に、雅之は一歩里香に近づいた。その鋭い瞳には冷たい光が宿り、彼の中に広がる深い闇が見え隠れしていた。「何するつもり?」里香は警戒し、一歩身を引いた。雅之は彼女の前で足を止め、冷たく言い放った。「じゃあ、君が『考える』って言ってたのは、こういう結論だったわけだ?」こんなに時間をかけて考えた結果、まだ離婚したいって言うのか?里香は目を伏せ、長いまつ毛が微かに震えた。静かに口を開き、「雅之、私は真剣に考えたの。私たちはもう元には戻れない。結婚って、安心感とか、心の安らぎを与えてくれるものだと思う。でも、私たちの結婚生活では、そんな風に感じたこと、一度もない。たぶん、あなたも同じでしょ?だから、別れた方がいいんじゃないかって思うの」と言った。真摯な表情で雅之を見つめる里香の瞳は、透明で澄み切っていた。雅之は一瞬黙り込み、じっと彼女を見据えたあと、「君は間違ってるよ。僕はちゃんとリラックスしてる」と淡々と答えた。「いつ?」里香は眉をひそめて尋ねた。「君とベッドにいる時だ。快感もリラックスもちゃんと感じてる」と雅之は冷静に言った。その瞬間、里香の顔色がさっと変わった。この男、何を言ってるの? こんなに真剣に話をしてるのに!里香の怒りに満ちた表情を見て、雅之は鼻で軽く笑い、「君が自分の感情を話すように、僕も感じたことを言っただけだよ。君はベッドで、気持ちよくないのか?」と挑発的に言った。「黙って!」里香はもう彼の言葉を聞きたくなくて、顔を曇らせた。雅之は軽く笑いながら、「僕が自分の感情を言っただけで、そんなに怒るなんて、君、ちょっと独裁的じゃない?」と続けた。独裁的?何言ってるの、バカバカしい!里香は怒りで唇を噛み締め、言葉が出なかった。この無恥な男!里香の頬が怒りで赤く膨らんでいるのを見て、雅之の瞳には薄ら笑いが浮かんだ。「ま、
夏実は真剣な表情で雅之を見つめ、一生懸命に説明していた。まるで誤解されるのを恐れているかのようだった。雅之は冷ややかな顔で、淡々と「別に何も考えてない」とだけ言った。それを聞いた夏実は、ほっとしたように笑みを浮かべ、「そうならよかったわ。あなたに誤解されて、里香さんと険悪になったらどうしようかと思ってたの」と言い、そのまま続けて「でも、里香さん、さっきあんまり機嫌よくなさそうだったけど、二人って喧嘩でもしたの?」と尋ねた。雅之は答えず、ただ冷たい視線を夏実に向けていた。その視線に気づいた夏実は、すぐに「ごめんなさい、夫婦のことに口を出すべきじゃなかったわ。ただ......私たち、もう友達くらいにはなったんじゃないかって......」と慌てて付け加えた。雅之は「他に用があるのか?」と冷たく返すだけだった。その声は、以前の彼とはまるで別人のように冷たかった。夏実は唇を噛み、「いえ、もう何もないわ。邪魔してごめんなさい」と言い、くるりと背を向けて歩き出した。夏実のショートパンツから見える義足が、いつも以上に目立っていた。雅之の視線が自然とその義足に向かい、瞳には一瞬、暗い影が差した。一方、里香は別荘を出て庭へ向かっていた。新鮮な空気を吸い込むと、少しだけ気分が晴れるような気がした。夕暮れが訪れ、庭の灯りがぽつぽつと灯り始めていた。里香はゆっくりと庭を歩き、美しい花を見つけると、しばらく立ち止まって眺めていた。里香は今すぐには帰れないし、今夜もここに泊まらなければならない。でも、一晩雅之と同じ部屋で過ごすなんて考えただけで、全身がなんとも言えない不快感に包まれた。「小松さん」背後から夏実の声がした。里香は振り返り、冷静な瞳で彼女を見つめた。「何かご用ですか、夏実さん?」夏実は穏やかな笑顔を浮かべながら近づき、「あなたがもう雅之を愛してないのはわかるわ。でも、どうして離婚しないの?」と静かに言った。里香は少し冷たく「それは彼に聞いてください」と答えた。驚いた様子の夏実は、「雅之が離婚を拒んでいるの?たぶん、あなたが彼を助けたことを忘れられないのね。雅之って、すごく恩を大事にする人だから。実は私も昔、彼に結婚を約束されたことがあったの。でも、彼はあなたへの恩義の方を重く見て、その約束を破って、別の形で私に償ってくれたの
夏実は目を伏せ、心の中の思いをひっそりと隠した。雅之がどうやって彼女と一緒にい続けるつもりなのか、しっかり見極めてやるつもりだった。その頃、里香は別荘に戻ると、すぐにメイドが声をかけてきた。「奥様、台所からおばあさまのご指示で、坊ちゃまにスープをお持ちしました。奥様もお忘れなくお飲みくださいね」「うん、ありがとう」里香は軽く頷き、「おばあちゃんはもうお休みですか?」と聞いた。メイドは首を振って、「まだお休みになっていません」と答えた。「そう、じゃあちょっとおばあちゃんの様子を見てくるわ」そう言って、里香はメイドと一緒に二宮おばあさんの部屋へ向かった。おばあさんは花輪を作って遊んでいて、里香が入ってきたのを見て嬉しそうに、「里香ちゃん、一緒にいてくれるの?」と声を上げた。「うん、おばあちゃん、今夜一緒に寝てもいい?」里香はおばあさんの向かいに座りながら優しく聞いた。おばあさんは一瞬頷きかけたが、何かを思い出したように首を振って、「だめよ。あなたが私と寝たら、曾孫ができないじゃないか。雅之と一緒に寝なきゃ、あのバカ息子と」と言った。里香は思わず口元を少し引きつらせた。見た目は子どもみたいなのに、頭の中は曾孫のことでいっぱいなんだ。「遅い時間だから、早く雅之のところに戻って寝なさい」おばあさんは促すように言った。「もう少し一緒に遊んでもいい?」里香は動かずに聞いた。おばあさんは断ろうとしたが、里香はすかさず紐を取り出し、あやとりを提案した。「一緒にあやとりしましょう」おばあさんはすぐにその話に乗り、「いいわ、いいわ」と何度も頷いた。その頃、雅之の部屋では、メイドが「坊ちゃま、おばあさまのご指示で、スープを全部お飲みいただくまで見届けるようにとのことです」と告げた。雅之はテーブルの上のスープを一瞥し、無造作に手に取って飲み干した。そして「里香は?」と聞いた。「若奥様はおばあさまとご一緒です」メイドは答えた。雅之は軽く頷き、空になった碗をメイドに渡した。メイドはそれを受け取って部屋を出ようとしたが、階段を下りたところで夏実と鉢合わせした。「夏実さん、坊ちゃまがあなたに用があるそうです。どうぞ行ってみてください」メイドが近づいて声をかけた。一瞬驚いた夏実。雅之が自分を?さっきまであんなに冷たかったのに、今度
夏実は背筋が凍るような感覚を覚えたが、それでも無理に冷静を装って言った。「そ、そうよ......小松さんが私をここに来させたの。彼女、今夜はもう戻らないって言ってたわ。雅之、彼女は本当にあなたを愛していないの。離婚するために、こんなことまでしてるのよ。もう彼女のことは考えないで。今、辛いんでしょ?私が手伝ってあげるわ、いいでしょ?」そう言って、夏実は思い切って雅之に手を伸ばした。その瞬間、雅之の中で怒りが爆発した。里香が夏実をここに?自分を他の女に押しつけただと?ふん、いいだろう。とてもいい!雅之の瞳には冷たい光が宿り、夏実を鋭く見据えて言った。「本当に手伝いたいんだな?後悔しないんだな?」夏実はすぐさま自分の気持ちを伝えるように、愛おしそうに雅之を見つめた。「雅之、私は二人が本当に愛し合ってると思って、身を引いたの。でも、いざ離れてみたら、心が痛くてたまらなかったの。私は本当にあなたを愛してる。だから、何があっても後悔なんてしないわ」雅之は薄く冷笑を浮かべ、「じゃあ、ベッドに行け」と冷たく言った。その瞬間、夏実の心は喜びで満たされた。雅之がついに受け入れてくれたの?これで、彼と結婚する夢が近づいたんじゃない?夏実は興奮のあまり、雅之の冷たい視線に気づくことなく、頬を赤らめながらベッドに向かって歩き始めた。一方、里香は二宮おばあちゃんと一緒にしばらく遊んでいた。そこにメイドが部屋に入ってきて、「若奥様、おばあさまはそろそろお休みの時間です」と告げた。その言葉を聞くと、二宮おばあちゃんは大きなあくびをした。里香はそれを見て、紐を二宮おばあちゃんに渡しながら言った。「おばあちゃん、これを大事にとっておいてくださいね。また今度、一緒に遊びましょう」二宮おばあちゃんは少し眠そうな顔で、「いいわよ」と答えた。「それじゃ、おやすみなさい。私はこれで戻りますね」と里香が言うと、「うん、うん、あんたも早く戻って、あのバカ息子と寝て、曾孫を作んなさいよ」と二宮おばあちゃんは言った。里香は少し困ったような顔をした。こんなに長い間遊んでたのに、まだその話覚えてるんだ......二宮おばあちゃんの部屋を出た里香は、ゆっくりと階段を上っていった。雅之とのさっきの嫌なやりとりが頭をよぎり、今は彼の顔なんて見たくなかった。で
里香は夏実をぐいっと引っ張って、寝室のドアの前まで連れてきた。部屋の中にはベッドサイドのランプが一つだけ灯っていて、薄暗い光が漂っていた。雅之はバスローブ姿でベッドヘッドにもたれかかり、襟元はだらしなく開いていた。唇にはタバコが挟まっていて、青白い煙がゆっくりと漂っている。「続けてみろよ」里香は無言で夏実を部屋に押し込み、冷たい目で二人を見つめた。手足が冷えていくのを感じながらも、何とか感情を抑えていた。ふん......二宮家の本宅で我慢できなかったのか?昔は、夏実とは結婚しないって言ってたのに、今こうして自分の前でこんな風に現れるなんて。一瞬、離婚を本気で考えたこともあった。でも、それはなんの意味があるの?もうどうでもいい。雅之はもう、里香の心の中の「まさくん」ではなかった。彼が責任を感じていたのは夏実だったのだ。二人がやっと一緒になれたんだから、里香は祝福してあげるべきだ。自分はついに自由になれたんだし。でも、なんでだろう?なんでこんなに胸が痛むの?もう愛さないって決めたのに、どうしてこんなに苦しいの?里香は心の中の痛みを隠して、顔だけは冷静を装った。「お前が興ざめさせたんだ、どう続けろっていうんだ?」雅之はタバコを深く吸い込み、煙の向こうから冷たい視線を里香に向けた。その目はまるで、彼女が本当にやったのかと問いただすかのようだった。離婚するためなら、どんな手も使うってわけか。里香は、もしかして雅之が否定してくれるかもしれないという、微かな期待を抱いていた。しかし、彼はそれを認めた。まるで顔に平手打ちされたかのように、心が焼けるように痛んだ。里香は深く息を吸い込んで言った。「それでいいわ。雅之、私たち離婚しましょう。そして、あなたたちは結婚すればいい。夏実さんが不倫女だなんて言われたら、彼女がかわいそうだもの」雅之は突然立ち上がり、彼の大きな体が里香に向かって歩み寄ってきた。彼はそのまま里香の首を掴み、壁に押し付けた。その光景に夏実は一瞬怯んだが、すぐに屈辱感がこみ上げてきた。彼女の目が鋭く光り、里香に向かって言い放った。「小松さん、2年前に私と雅之は結婚するはずだったのよ。だから、私は不倫女じゃない」呼吸が苦しくなりながらも、里香は無理に笑みを浮かべた。「そうね、あなたは不倫女じゃない。私がそうだ
夜は深まりつつあった。かすかに月光が残る空も、次第に黒い雲に覆われていく。ぽつりぽつりと降り始めた雨は、やがて土砂降りの豪雨へと変わった。雨粒が窓ガラスを滑り落ち、交差する線となって乱雑に絡み合い、部屋の中の光景をぼんやりとした光と影に映し出していた。里香は雅之の肩に噛みつき、その大きな瞳には憎しみが浮かんでいた。体は震え、涙が止まらずに流れ落ちていた。雅之の肩の筋肉は石のように硬く緊張し、額には青筋が浮かび、冷徹な目つきが彼の目に宿っていた。「憎い......雅之、あんたが憎い!」里香はすすり泣きながら叫び、彼を叩きながら必死に抵抗した。息が切れるほどに抵抗しても、決して屈しようとはしなかった。だが、雅之は強引で横暴だった。まるで里香を食い尽くすかのように、容赦ない力で彼女を押さえつけていた。里香は力尽き、ただ無力に涙を流すことしかできなかった。どうしてこんな仕打ちを受けなければならないの?彼はもう夏実と一緒になったのに、どうしてまだ自分にこんな形で怒りをぶつけるの?彼らが一緒になって、自分と離婚することがそんなに難しいの?どうしてこんなにも辱めてくるの?すべてが静まり返ったが、窓の外ではまだ嵐が続いていた。雅之は、青紫色の痕が体中に残った里香を見つめ、その目には暗い感情が渦巻いていた。雅之は里香の顎をつかみ、冷たい声で言った。「僕が夏実と何かあったと思ってるのか?それで自由になれるとでも?夢見るな。お前は一生、僕から逃れられないんだよ」そう言い放ち、雅之はそのまま浴室へ向かった。シャワーの音が響く中、里香はただ凍えるような冷たさを感じていた。体を丸めたが、少しでも動くと腰や脚に激しい痛みが走った。涙がまた溢れ出し、里香はそれを手で拭った。もうここにはいたくない!里香は歯を食いしばり、破れた服を身にまとった。幸い、まだ少しは体を隠すことができた。別荘の中は静まり返っていた。里香はそのまま外へ出て行った。大雨が彼女の痕跡を洗い流し、彼女が去った音もかき消してしまった。雨の中に飛び込むと、瞬く間に全身がずぶ濡れになった。体中が痛み、冷たさが骨の芯まで染み込んでくる。里香は道端を歩き続けた。痛い......本当に痛い。どうしてこんなことをされなければならないの?自分が何を間違えたっていう
東雲はしばらく沈黙した後、「小松さんは倒れて、祐介さんに連れて行かれました」と言った。雅之の声には冷たい怒気が漂っていた。「お前、それを黙って見ていただけ?」東雲はしばし黙った後、ようやく答えた。「ご指示通り、小松さんの安全は守りました。でも、祐介さんは彼女に害を加えていません」電話は一方的に切られた。東雲:「......」俺、言われた通りに動いたのに、何か間違えたか? 里香は、体が冷たくなったり熱くなったりしているのを感じていた。耳元で誰かが話しているような気がしたが、はっきりとは聞き取れなかった。突然、口の中に何か苦いものが押し込まれ、反射的に吐き出してしまった。「里香?」その声が少し鮮明になり、どこか聞き覚えがあった。ぼんやりと目を開けると、目の前に祐介の端正な顔が浮かんでいた。里香は少し驚いて、「祐介兄ちゃん、どうしてここに?」と尋ねた。祐介は眉をひそめて言った。「お前、倒れてたんだ。今、熱があるんだから、薬を飲め。もう医者を呼んだから」里香は乾いた唇を引きつらせて、「ありがとう」と言った。祐介は「礼なんかいらない。で、どうしてあんな場所で倒れてたんだ?いつ帰ってきたんだよ?」と問いかけた。里香は頭が割れるように痛く、薬を飲んで少し温かい水を口に含むと、少しだけ楽になった。「祐介兄ちゃん、ここはどこ?」里香は祐介の質問に答えなかった。祐介の目が一瞬鋭く光り、「俺の家だ」と答えた。里香は慌てて起き上がり、「行かなきゃ、ここにいちゃいけない」と言った。雅之が東雲を自分に付けていた以上、どこにいるかは雅之に筒抜けだ。ここにいれば、祐介に迷惑をかけてしまう。祐介は里香の肩を押さえ、「今は熱があるんだから、じっとしてろ。熱が下がったら、どこへでも行けばいい。俺は止めない」と落ち着いて言った。里香は眉をひそめ、「祐介兄ちゃんに迷惑をかけたくないの......」と言った。祐介は里香の額を指の関節で軽く叩き、悪戯っぽく笑った。「お前、俺のことを『兄ちゃん』って呼んでるんだろ?迷惑なんか気にするな。さあ、ちゃんと寝てろ。もうすぐ医者が来るから」里香は頭がぼんやりしていたが、祐介に対して感謝の気持ちでいっぱいだった。「本当にありがとう」祐介は「礼はいいからさ、治ったら飯でも作ってくれ
雅之は里香を見つめ、短く言った。「走れるか?」「うん、走れる」里香は力強く頷いた。雅之は彼女の手をしっかり握り、天井に目をやった。その視線の先には、今にも崩れ落ちそうな梁がぐらついている。彼の瞳に一瞬冷たい光が宿った。「走れ!」二人は出口に向かって全速力で駆け出した。炎が衣服を舐めるように迫ってくるが、そんなことを気にしている暇はない。ただ出口だけを目指して、必死に走った。「ガシャン!」突然、頭上から木材が裂ける音が響いた。里香の胸はぎゅっと締め付けられたが、考える間もなく、強い力で前に押される。「ドスン!」振り返る間もなく、背後で重いものが落ちる音がし、炎が一瞬だけ弱まった。振り返った里香の顔は真っ青になり、目に飛び込んできたのは梁の下敷きになった雅之の姿だった。炎が彼の体をすぐそこまで飲み込もうとしている。「雅之!」叫びながら、里香は再び中へ飛び込んだ。梁の下で動けなくなっている彼を見た瞬間、里香の胸は痛みで張り裂けそうになり、これまで築いてきた心の壁が崩れ落ちた。涙が止めどなく溢れ出した。「行け、早く行け!」里香が戻ってきたのを見て、雅之は鋭い声を上げた。その瞬間、胸に激痛が走る。肋骨が折れているのだろう。体中が焼けるような痛みでいっぱいだったが、それでも炎は容赦なく彼を飲み込んでいく。その時、ボディーガードたちが駆け込んできて、梁を押し上げた。雅之は体が軽くなるのを感じたが、次の瞬間、視界が真っ暗になった。意識を失う直前、誰かが彼の顔をそっと包む感触を覚えた。その手は不思議なくらい暖かかった。握り返そうとしたが、力が入らなかった。斉藤は再び警察署に連行された。今回は誘拐と恐喝、それに加えて殺人未遂の容疑。前科もあり、彼の残りの人生は刑務所の中で終わることになりそうだった。病院に駆けつけたかおるが見つけたのは、疲れ切った様子で椅子に座り、床をじっと見つめている里香だった。「里香ちゃん……」かおるはそっと彼女の肩に手を置いた。「大丈夫?怪我してない?」里香は少しだけ顔を上げた。灰が顔に付いていて、髪は乱れ、頬には手の跡がくっきり残っている。赤く腫れた目で、かすれた声を絞り出した。「私は大丈夫。でも、雅之が……」かおるは複雑な思いを胸に抱えた。まさか開廷を控えた前日にこ
斉藤の顔色は、やっぱり青ざめていた。手に握ったナイフをさらに強く握りしめ、その目には複雑な感情が渦巻いているのがはっきりとわかった。「何のことだか、全然分からねぇよ!俺はただ、金が欲しいだけだ!ここから抜け出したいだけなんだ!他の奴らなんか関係ねぇ!」祐介が何か言い返そうとしたその瞬間、またしてもスマホの着信音が響き渡った。止まる気配もなく鳴り続けている。祐介は眉間にしわを寄せ、スマホを取り出すと通話ボタンを押した。「蘭、どうした?」スマホの向こうから、蘭の泣き声が聞こえてきた。「祐介お兄ちゃん……戻って来て……早く……怪我しちゃったの。すっごく痛いよ……」祐介は声を落ち着かせて聞いた。「救急車、呼んだか?」すると、蘭はさらに激しく泣き出した。「もう呼んだよ!でも、祐介お兄ちゃん、どうしても会いたいの……あなたがそばにいてくれると安心するから……お願い、今すぐ来てよ!」祐介は一瞬黙ってから、冷静に言った。「蘭、今ちょっと立て込んでて、すぐには行けない。片付けが終わったらすぐ行くから、な?」けれども蘭は全然引き下がらない。「嫌!今すぐ来てよ!もし来てくれなかったら……おじいちゃんに頼んで、あなたとの契約を取り消してもらうから!お願いだから、無理させないで!」その言葉を聞いた瞬間、祐介の穏やかだった瞳が、一瞬で冷たくなった。「分かった、今から行く」「うん、待ってるね」蘭はそう言って電話を切った。祐介は静かに目を閉じ、深呼吸を一つした。そして、まぶたを開けると、斉藤に視線を向け、次の瞬間、猛然と突進した!しかし、斉藤も予想していたようで、祐介が向かってくると同時にライターを取り出し、後ろの工場に向かって思い切り投げつけた!ライターが地面に落ちると、たちまち床のガソリンに火がつき、炎がみるみる広がり始めた。その速さに、誰も反応する間もなかった。「死にたいのか!」祐介は燃え広がる炎を見て、思わず斉藤の顔面にパンチを入れた。斉藤は殴られた勢いでよろめき、床に倒れ込んだ。その時、潜んでいたボディーガードたちが駆け寄り、斉藤を押さえつけた。祐介は振り返り、工場の中へ走り出そうとしたが、彼よりも速く、一人の人影が飛び込んでいった!その背中を見た瞬間、祐介の表情は険しくなった。雅之!いつ
「里香、大丈夫だ!俺が絶対助け出すから!」祐介は工場に向かって叫んだ。「おい!」斉藤が苛立った顔で睨みつける。「まるで俺がいないみたいに、よくそんなセリフが平気で言えるな?」祐介は斉藤を見据えた。「つまり、お前は雅之に連絡して金を要求したんだな?もし俺だけが払って雅之が金を出さなかったら、その時はやっぱり彼女を解放しないってことか?」斉藤は肩をすくめて言った。「そうだよ」彼は手に持ったライターをカチカチとつけたり消したりしていて、その仕草が妙に神経を逆なでした。祐介は冷たい目で彼を見つめながら言った。「誘拐して金を要求するなんて、完全にアウトだぞ。ついこの間まで服役してただろ?また刑務所に戻りたいのか?」だが斉藤は鼻で笑い飛ばした。「お前らの手助けがあれば、金さえ手に入れりゃ、捕まるわけないだろ?」その目はだんだんと狂気を帯びてきた。「さあ、早くしろ。俺の我慢もそう長くは続かねぇぞ」祐介は後ろを振り向き、部下に短く命じた。「銀行に振り込め」そして、再び斉藤の方に向き直り、「口座番号を言え」斉藤は祐介のあまりに冷静な態度に少し面食らったが、すぐに口座番号を伝えた。その瞬間、祐介が一歩前に進み出た。普段の穏やかな表情とは打って変わり、その目は鋭い冷たい光を宿している。「お前がこんなことしてるって、彼女は知ってるのか?」斉藤の顔が一瞬でこわばり、睨む目に鋭さが増した。「なんだと!?」彼は明らかに動揺し、声を荒らげた。「俺はあのクソ女に騙されたんだぞ!なんで俺があいつの気持ちなんか気にする必要があるんだ!」祐介は静かに返す。「でもさ、お前がこんなことやってるのも、結局は彼女との生活を良くしたいからなんじゃないのか?」斉藤の目が赤くなり、手に持ったナイフを強く握りしめたが、辛うじて冷静さを保っている。「お前と彼女、どういう関係なんだ?なんでお前がそんなに詳しい?お前は一体何者だ?」祐介はさらに一歩前に出た。二人の距離がさらに縮まった。「俺が誰かなんてどうでもいい。重要なのはこれだ。今すぐ里香を解放すれば、お前を国外に逃がしてやる。しかも金もやる。それで余生は安泰だ、どうする?」その条件は確かに魅力的だった。祐介が自分の事情を知り尽くしているのは明らかで、斉藤は迷い始めた。だが、脳裏に彼
その時、電話が鳴った。雅之は手を伸ばし、イヤホンのボタンを押した。「小松さんの居場所が特定されました。西の林場近くにある廃工場の中です」桜井の声が静かに響いた。雅之の整った顔がピリピリした緊張感に包まれ、血のように赤く染まった瞳が前方をじっと見据えた。冷たい声で一言、「僕の代わりに株主総会に行け。何もする必要はない。連中を押さえればそれでいい」と告げた。「……了解しました」桜井の声には、一瞬ためらいが混じる。すごいプレッシャーだ、と心の中でぼやきつつ、話を続けた。「それと、聡の調べによると、喜多野さんも人を連れて向かっているようです」「わかった」雅之はそれだけ言うと、無言で通話を切った。廃工場。里香は少しでも楽な体勢を取ろうと、座る姿勢を直した。乱れた髪に、土埃のついた身体。透き通る瞳が冷たく光り、ライターをいじる斉藤をじっと見つめている。「なんであの時、雅之と彼の兄を誘拐した?」なんとなく、今なら話してもいい気がした。昔の出来事が、どこか引っかかっていたからだ。普通に考えれば、二宮家の一人息子である雅之は、正光に溺愛されてもおかしくない。けれど、正光の態度はむしろ嫌悪感さえ漂わせていて、雅之を支配しようとしているように見えた。その結果、今では雅之を徹底的に追い詰め、すべてを奪い去り、生きる道すら断たれてしまった。「みなみ」という名前が時々話に上がるが、いったい何者なのか。斉藤は里香の問いには答えず、蛇のように冷たい目で彼女を睨みつけた。その視線はまるで攻撃のタイミングを伺う蛇そのものだ。里香は唇をぎゅっと結び、それ以上何も言わなかった。工場内は静まり返り、外では風がうなり声を上げて吹き荒れている。気温はどんどん下がり、冷気が肌に刺さるようだ。風に吹かれた落ち葉が工場内に舞い込んでくる。里香はその落ち葉をじっと見つめ、胸の奥に悲しみがじわりと広がっていった。――昔、自分がしたことの報いが、今になって返ってくるなんて。もしやり直せるなら、また同じ選択をするのだろうか。通報することを選ぶのだろうか。里香は目を閉じ、深く考え込んだ。その時だった。外から車の音がかすかに聞こえてきた。斉藤はライターをいじる手をピタリと止め、立ち上がって工場の入口へ向かう。高台にある工場の外から、数
雅之が電話を取った瞬間、表情が一変し、顔が冷たく引き締まった。そして桜井に目を向け、低く鋭い声で命じた。「すぐに聡に連絡して里香の居場所を特定させろ。仲間も集めてくれ」桜井は一瞬戸惑った表情を見せる。「でも、社長、株主総会がもうすぐ始まります。このタイミングで抜けるのは……」「いいから早く行け!」雅之の声には明らかな焦りがにじんでいた。彼はその時すでに二宮グループのビルの正面に立っており、迷うことなく車に乗り込むと、エンジンをかけて猛スピードで走り出した。向かう先は――あの場所だった。あの場所……一度封じ込めたはずの記憶が、脳裏をえぐるように蘇った。誘拐され、廃工場に閉じ込められた、あの日々――みなみと二人で耐えた地獄の時間。食べ物も水もなく、力尽きかけていた5日目。二宮家からの助けは訪れず、犯人の怒りが爆発した。彼はガソリンを持ち出し、廃工場の地面に撒き散らした。鼻を突く刺激臭が広がる中、二人は死を覚悟せざるを得なかった。もう終わりだ――そう思ったその時、遠くから警笛の音が聞こえた。音はだんだん近づいてくる。微かな希望の光が差し込んだ、はずだった。だが、追い詰められた犯人は逆上し、廃工場に火を放った。炎が激しく燃え上がる中、みなみはなんとか縄を解き、雅之のもとへ走り寄った。「じっとしてて!すぐ縄を解くから!」しかしその手は震えており、雅之の目にはみなみの手首に深い傷が刻まれているのが見えた。「お兄ちゃん、怪我してるじゃないか!」みなみは痛みを無視して必死に縄を解こうとしていた。「平気だよ、まさくん。絶対に助ける。俺たちはここから無事に出るんだ!」火がすぐ足元まで迫っているというのに、彼の言葉は穏やかで温かく、どこか安心させるような笑みさえ浮かべていた。雅之はただ、みなみを見つめることしかできなかった。その時、犯人が突然狂ったように刃物を持ってみなみに襲いかかり、その背中に刃を突き立てた!同時に、みなみは雅之の縄を解き終えていた。「走れ!早く逃げろ!」みなみは咄嗟に犯人を押さえつけ、雅之に鋭い目で叫んだ。雅之は力を振り絞って立ち上がろうとしたが、数日間飲まず食わずだった体は思うように動かない。こんなに自分が弱っているなら、みなみにはどれだけの力が残されているん
廃工場を通りかかったとき、偶然中を覗いてみると、二人の少年が一緒に縛られているのを見つけた。そこには男がいて、周りにガソリンを撒きながら「焼き殺してやる」と口にしていた。ショックと恐怖で震え上がり、しかし心のどこかで、少年たちはこのままでは死んでしまうと理解していた。焼き殺されてしまう、と。里香は慌てふためいてその場から逃げ出し、ずいぶんと遠くにあるスーパーに駆け込み、警察に通報した。警察が駆けつけた頃には緊張と疲労で里香は失神してしまった。再び目を覚ましたときには、里香はすでに孤児院へ連れ戻されていた。昏睡中に熱を出したせいで、その出来事の記憶を失ってしまっていた。しかし今、その記憶の断片がまるで走馬灯のように蘇った。そして里香は思い出した。その男、斉藤は、当時あの二人の少年を焼き殺そうとしていた張本人だったのだ、と。「間違ったことをしたのはあんただ!刑務所に入ったのは自業自得でしょ!?どうしてその報復を私にするのよ!」里香は激しい怒りに突き動かされ、斉藤に向かって飛びかかった。思いもしない里香の行動に斉藤は隙を突かれ、倒れ込んだ。里香は息を切らしながらすぐさま立ち上がり、全力でその場から走り去った。「逃げなきゃ、絶対に逃げなきゃ!」必死に走る里香だったが、心の中には斉藤の強い殺意の理由への理解が徐々によぎっていた。そうだ、彼が里香に強い恨みを持っているのは、あの日、里香が警察に通報し、それによって彼が逮捕され、10年間牢獄生活を強いられたからだった。「くそが、てめぇ、絶対にぶっ殺してやる!」斉藤はすぐに起き上がり、里香の後を追い始めた。だが里香の体は痛みで満足に動かず、数歩走っただけで肋骨の下が鋭く痛み、つまずきそうになってしまった。その間に斉藤は距離を詰め、里香の髪を乱暴に掴み、廃工場の中へ引きずり込もうとした。「離してよ!放せ!」里香は必死に抵抗し、手で彼の腕を引っ掻き、できる限りの方法で反撃しようとした。しかし、その努力もむなしく、里香は再び廃工場の中に引きずり込まれ、今度はしっかりと縄で縛り上げられてしまった。恐怖と怒りで瞳を赤く染めた里香は、もがきながら声を上げた。「また刑務所に戻りたいの?何もかもやり直すことだってできるのに、どうしてこんなことを!」「俺だってやり直したかったさ!」斉藤は
里香が車を停めようとした瞬間、後部座席の男がその意図を見抜いたようで、しゃがれた声を発した。「止めてみろよ、刺し殺すからな。どうせ俺には生きる価値なんてないんだよ!」その言葉に、里香は恐怖で体が硬直し、ブレーキを踏むどころか、そのままアクセルを踏み続けてしまった。こいつ、本当に死ぬ気なんだ。でも、自分は違う!自分はまだ、生きたい!「何がしたいの……?」震える声で問いかけても、男は答えなかった。ただ冷たいナイフを首元に押しつけ続けた。それどころか、ナイフの刃先で肌を浅く傷つけ、血がじわりとにじみ出た。冷たい感触のあと、ヒリヒリとした痛みがじわじわと広がっていく。里香は恐怖で眉間に力が入り、声を出すことさえできなくなった。この男、本当に人を殺すつもりかもしれない。一体誰なんだ。何を企んでる?車は幹線道路を抜け、やがて街を離れ、男が指示した先にたどり着いた。そこは見るからに廃れた工場だった。秋風に揺れる壊れかけの建物、その壁には火事の跡がいまだにくっきりと残っている。里香はその場所を見つめて、わずかに眉をひそめた。ここ、どこかで見たことがあるような……「止めろ!」男の叫び声で我に返り、急いでブレーキを踏んだ。車が止まると、男は勢いよくドアを開けて車を降り、運転席のドアも乱暴に開けた。「降りろ!」恐怖で逆らう気力もなく、里香はおとなしくシートベルトを外し、車から降りた。そして恐る恐る男の顔を見た瞬間、思わず息を飲んだ。斉藤!何度も命を狙ってきた、あの男だ。その異様な憎悪が、なぜ自分に向けられているのか、里香には未だにわからなかった。まさか、あれからこんなに時間が経ったのに……しかも、こんな形で再会するなんて!「俺だと分かったか?」斉藤は彼女の驚きに満ちた表情を見て、狂気じみた笑みを浮かべた。そしてマスクを剥ぎ取り、陰湿で冷たい顔をさらけ出した。里香のまつ毛が震えている。「……どうして、そこまでして私を殺したいの?」彼女がそう尋ねる間もなく、斉藤は荒々しく彼女を押し倒した。「中に入れ!」よろけながらも、里香は逃げることができなかった。彼を怒らせたら、何をされるかわからない――それが一番怖かった。壊れた工場の中は火事の跡がさらに鮮明で、焦げた鉄骨や崩れた壁がそのまま放
雅之は里香をそのまま抱きしめ続け、しばらくの間じっと動かなかった。そして、ようやく彼女を放した。足が床についた瞬間、里香はようやく現実に引き戻された気がした。それでも、呼吸は乱れたまま、体に力が入らず、立っているのがやっとだった。もう雅之を突き放す余力すら残っていなかった。雅之は彼女を支え、しっかりと立つのを待ってから手を放した。その瞳は夜の闇のように漆黒で、墨のように深く、底が見えない。雅之の視線はじっと里香を捉え続けていたが、長い沈黙の後、結局何も言わずその場を立ち去った。彼にまとっていたあの清冽な香りも、彼が出ていった瞬間、跡形もなく消えてしまった。里香は力が抜けた体を引きずるように浴室を出て、ベッドの端に座り込んだ。しばらくしてようやく、乱れた気持ちを少しずつ落ち着かせることができた。絶対、何かされると思ってたのに……「里香ちゃん!」突然、かおるの声が聞こえた。慌ただしく部屋に飛び込んできたかおるは、ベッドの端に座る里香を見るなり声を上げた。「さっき雅之が出て行くのを見たの。しかも、どう見てもお酒飲んでたし、服も乱れてたけど……あいつに何かされなかった?」そう言いながら、彼女の視線は里香の顔へ向けられた。そして、一目で里香の唇の腫れに気づいた。そこには赤く腫れた跡がくっきりと残っていた。「えっ……これって……」かおるは彼女の唇を指さして、「めっちゃ腫れてるじゃん!本気でキスされたんだね」と驚いた声をあげた。里香:「……」さっきまで胸を締めつけていた複雑で重い気持ちが、かおるの言葉を聞いた瞬間にすっかり消えてしまった。「別に何もされてないよ。それより、かおるの方こそ、遅く帰るって言ってたのに?」かおるは肩をすくめながら言った。「片付けが早く終わったから、思ったより早く帰れたの。それに、里香ちゃんが一人で家にいるのが心配で戻ってきたのよ。……あっ、もしもうちょっと早く帰ってたら、何か見ちゃいけない場面を見ちゃってたかも?」里香はじっとかおるを見つめ、無言のままだった。すると、かおるは慌てて手を合わせて「ごめんってば!里香ちゃん、怒らないで!もうからかわないから!」と謝った。里香は何も言わずに立ち上がり、スキンケアのために鏡の前へ向かった。ふと唇に目をやると、確かに赤く腫れていて、雅之にキ
「本当に僕と離婚するつもりか?」雅之は里香の目の前に立ち、彼女の退路を完全に塞いでいた。その切れ長の瞳に複雑な感情が宿り、まるで言いたいことがたくさんあるのに、口にできないかのようだ。里香は必死に冷静さを保とうとしながら言った。「三日後に裁判があるでしょ、雅之。今さらこんなこと言われても、何が言いたいの?」雅之は手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れた。「里香、お前本当に僕を愛してないのか?」里香はわずかに顔をそむけ、その手を避けた。雅之の手は空中に止まったまま、彼女の拒絶の表情を見つめていた。そして薄く笑みを浮かべた。その笑みには自嘲と苦味が混ざっていた。あんなに堂々とした人なのに、その姿にはどこか寂しさと悲しみが漂っていた。しばらく彼女をじっと見つめた後、雅之は突然手を伸ばして彼女の首の後ろを掴み、そのまま身を屈めて唇を重ねた。「んっ!」里香はいつも警戒していたが、彼に敵うはずもなかった。柔らかな唇が噛み締められ、必死に身をよじるものの、まるでびくともしない。雅之は片手で簡単に彼女の両手首を掴み、背中側に押さえ込むと、そのまま力を込めて引き寄せた。彼女の柔らかな身体は彼の胸に密着し、首を仰がざるを得なくなり、そのキスを受け入れさせられた。こんなに近づいたのは、どれくらいぶりだろう。里香は心底拒絶していたが、雅之の方はますます強引になり、まるで病みつきになったように、その唇を深く貪った。唇が自分のものではなくなったような感覚だった。このまま全部彼に飲み込まれるんじゃないかと思うほどだった。雅之の清潔感のある匂いが彼女の五感を支配し、神経を惑わせていく。彼に触れられる感覚に対して、身体は正直だ。こんな激しいキスの中、彼女の体は無意識に力を抜き、ふわっと彼に寄りかかってしまった。そんな自分自身がとても惨めに思え、涙が自然と頬を伝った。雅之はキスしながらも、ほんのり塩辛い味を感じ、少し目を開けると、彼女の頬を流れる涙が見えた。その瞬間、呼吸が詰まりそうになり、喉仏が上下に動いた。しばらくして彼はそっとその涙を唇で拭い取った。「里香、お前には分かってるはずだ。僕がどれだけお前を喜ばせたいと思ってるか」低くかすれた声で言い聞かせるように続けた。「昔の僕がいいって言ったよな。そのために昔の自分に戻ろうと