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第15話

作者: 佐藤 月汐夜
 車は風のように一気に須弥市で最も有名な高級ショッピングモールに駆けつけた。

 「日向様、ここでごゆっくりお買い物なさってください。帰りたいときは電話をください。迎えにきます」

 会社でまだ用事があるため、伊川海は日向桃に一言話した後、すぐ立ち去った。

 日向桃も彼を引き止めることなく、軽く頷いてから一人で中に入っていった。

 中にある多種多様な商品や値札に書かれた目を見張るほどの高額は、彼女を仰天させた。

 父親に家から追い出されて以来、こうした場所には滅多に足を運ばなかった。前回、ここに来たのはやはり菊池佐和に連れられてきた時だった。

 菊池佐和のことを思い出すと、彼女は少し気落ちしてしまった。記憶を頼りに前回訪ねたその店にたどり着いた。当時、試着したその服が一番目立つ所にかかっているのが見えた。

 当時菊池佐和が言った言葉をちゃんと覚えていた。彼女にプロポーズする日には、このようなドレスをプレゼントして、その日、彼女はきっと世界一美しい女性になるだろうって。

 懐かしい思い出に浸る彼女は店に入って、そのドレスに触れようとした瞬間、尖った声が響いた。「あら、マナーがわからないの?ここでは服は触っていいものじゃないのよ。汚れたら弁償できないでしょう」

 振り返ると、店員一人が嫌悪に満ちた顔で背後に立っていた。

 日向桃はいかにも滑稽でばかばかしいと思った。実際、そんな高価なドレスを買おうとは思わなかった。もしこの店員がちゃんと話してくれれば、気にしなかっただろう。

 しかし、この店員は自分を乞食と思い、このドレスを汚すことを心配していた。店員の話を聞いて、日向桃は泣き寝入りしたくなかった。「これは試着用に出してあるんでしょ?」と強く反発した。

 「その通りです。ですが、買えないでしょう」店員は彼女が着ている安価な服を見ながら、皮肉っぽい口調で言った。

 日向桃は店員のばかばかしい話に笑ってしまった。何か言おうとしたその時、外から女性の皮肉声が聞こえてきた。「何事?こんな所でだだをこねて暴れる人がいるとは思わなかったわ。恥を知りなさい」

 日向桃が目を声の方に振り向くと、店の入口から男女二人が入ってきた。

 高級ブランドの服を身にまとった女は、貴族のように見える。隣の男は長身で容姿端麗だ。

見た目だけから言うと、なかなか魅力的だが、日向桃にとっては非常に嫌なやつだ。

 女は小林夢だ。異父妹である日向歌の親友だ。以前は同じ大学で一緒に勉強していた。その時、いつも彼女から不必要に喧嘩を売られたため、日向桃にとっては一生の宿敵とも言えた。

 小林夢の隣にいる男性は渡部俊介と言い、同じく日向桃の同窓だ。マネジメント学科一のイケメンだ。かつて日向桃と同じプロジェクトに携わったことがある。その時、彼に「付き合ってくれませんか」と言われたが、母親が病気で、日向桃は恋をしたくなかったため、二人の間には何も起きなかった。

 学生時代に追いかけた人とここで会えるなんて渡部俊介は思わなかった。日向桃を見つめながら、彼は少しぼんやりとした。

 それを見て、小林夢は不快そうに咳払いをして、横にいる店員に向かって「これから、服を試着したいから、お金がないくせにここでグズグズしているこの人を追い払ってもらえない?」と言った。

 すると、彼女は手を出して、さっき日向桃が見ていたドレスを取り上げて試着しようとした。

 日向桃は冷笑することを禁じなかった。菊池雅彦からもらったブラックカードを取り出し、二人の前でそのカードを振りながら「これで、試着してもいいですか」と言った。

 日向桃を追い出そうとしたその店員はブラックカードを見て、突然黙り込んだ。

 彼女はそのカードを受け取り、繰り返して確認したうえで、最後に「本物ですね…」と驚嘆した。

 全市ではこの無制限に使えるブラックカードを有する人はわずかで、そして、持っている者は金持ち或いは有力者ばかりだ。

 その店員は少し戸惑ったが、粗相の無いようにすぐにそのドレスを取り下げ、両手でうやうやしく日向桃に手渡した。

 日向桃はドレスを手に持って試着室に入っていった。

 小林夢はへこまされてしまった。そのカードを見た小林夢は嫉妬心を起こした。

 体面を重んじる渡部俊介は二人の喧嘩を心配して、小林夢の手を引いて去ろうとした。

 しかし、渡部俊介の行為が彼女を怒らせた。渡部俊介の手をぱっと振り払い、「どうしたの。彼女のことを忘れられないの? 彼女のことについて、他の人は知らないかもしれないけど、私は全部知ってる。ただ家から追い出されたクズよ。こんなものを持ってるなんて、誰かに囲われているんでしょうね」と話した。

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    桃の苛立ちを見て、雅彦は思わず口元を緩めた。どうやら、彼女もそう鈍くはないらしい。こんなに早く気づくとは。だが、雅彦はそう簡単に認めるはずがなかった。彼は何食わぬ顔でメッセージを返した。「桃、何の話だ?俺は最初から計画通りに動いていただけだ。これまで手を出さなかったのは、ただチャンスを待っていただけだよ」桃はその返信を見て、呆れた。雅彦の言い分も、確かにもっともらしく聞こえた。これ以上食い下がるのは、まるで自分が勘違いして空回りしているみたいではないか……「桃、君が俺に約束したこと、忘れるなよ」桃からの返信が途絶えると、雅彦は眉をひそめ、すぐに念を押した。「約束したことは破らない。でも、私の条件も忘れないで」桃はそれだけ返すと、もうこれ以上言い合う気はなかった。雅彦の目にはかすかな笑みが浮かんだ。メッセージのやり取りはそこで終わり、彼は海に声をかけた後、外へ出た。桃は雅彦が彼女の誕生日を祝うことを承諾した。雅彦は完璧な準備をするつもりだった。彼女のために、彼は美しくて特別な場所を選び、そこで桃の誕生日を祝う計画を立てた。飾り付けについても、彼はちゃんと確認し、桃の好みに合わせるつもりだった。桃がそのサプライズを目にしたとき、どんな表情を浮かべるのかその光景を想像するだけで、彼の口元には自然と笑みがこぼれた。一方その頃。宗太は連行され、警察署へと送られた。取調べを受けるために、独房へと入れられたが、彼は終始落ち着いており、まるで人生を全て失った男とは思えないほど静かだった。時間は刻々と過ぎ、夜が更けた頃、一人の警官がやってきた。「行くぞ」宗太は独房から連れ出され、その代わりに同じ服を着た男が独房に押し込まれた。「準備ができた。君、言ったよな?俺の娘の病気を治せる方法があるって。嘘じゃないんだろうな?」警官の表情は切迫していた。拘束された後、宗太はとつぜん、警官に未発表の特効薬を持って、さらに最良の医師を手配して警官の娘の癌を治療できると言い出した。娘を救えるその一言に、警官は揺らいだ。普通の市民である彼には、莫大な医療費を工面することなど到底できなかった。だからこそ、彼はこの賭けに出た。宗太の指示に従い、警官は体格の似た死刑囚を手配した。そして、十数分後、仕掛けた発火装置が

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    立場が逆転した後、カイロス家は完全に受動的な状況に陥った。菊池家はその隙を突き、カイロス家の不祥事を公表した。片時、カイロス家は世間の標的となり、好奇心旺盛な記者たちに取り囲まれた。カイロスはすぐに協力者たちと連絡を取ろうとしたが、何の成果も得られなかった。「間違いない……きっと雅彦だ。あいつしか、こんなことを仕掛ける奴はいない」何度交渉しても成果が得られず、カイロスは絶望に陥った。今や誰もカイロス家の言葉を信じようとはしなかった。ようやくドリスをなだめた宗太は、この知らせを耳にした。彼の顔色が一瞬で曇った。宗太はカイロス家の人間ではなかったが、カイロス家が彼に新たな人生を与えてくれた場所だと思っていた。そして、彼の軽率な行動のため、雅彦が手がかりを得た。そして結局、今回の騒動を起こってしまった。「俺には方法がある」宗太は目を赤くして言った。「叔父さん、今回の件は俺のせいだ。ならば俺がすべての罪を背負う。俺が実験室を支配し、すべての行動を指示したと公表してください。叔父さんたちは責任を俺に押し付ければいい。そうすれば、少なくとも家の名誉は守れるはずだ」カイロスは驚きを隠せなかった。確かに、それは一つの解決策だった。しかし、それを実行すれば、宗太は破滅する。多くの者を敵に回したため、彼は命を狙われる恐れがあった。「いや、君にそんな罪を背負わせるわけにはいかない。他の誰かを代わりに立てる」宗太はカイロスの考えを察したのか、苦笑しながら首を振った。「叔父さん、まだわからないか?雅彦は俺たちを完全に潰すつもりだ。無関係な人間を差し出したところで、あいつが納得するはずがない。俺が罪を認めるしか、この状況を収める方法はない」宗太は目を伏せ、ドリスの部屋の方を見つめた。「俺は家族のいない孤児だ。もしここに拾われなければ、とっくに死んでいたでしょう。この命は叔父さんたちがくれたものだ。だから、失ったとしても惜しくはない。ただ……俺がいなくなった後、ドリスのことだけは、どうか頼む」カイロスは宗太の目に宿った光を見て、ため息をついた。もしかしたら、あのときドリスのわがままを許すのではなく、もっと宗太との関係を深めさせていれば、こんな結末にはならなかったのではないか。しかし、今となっては、もう遅すぎた。結局、カイロスは記者会見を

  • 植物人間の社長がパパになった   第710話

    海はすぐに雅彦の意図を理解し、顔に興奮の色を浮かべ、手に持っていた証拠をすぐにその家族の支配者たちに送信するように命じた。しばらくして、カイロス家の全ての協力者たちに詳細な証拠が送られた。その内容は、カイロス家が表向きは病気の治療薬を研究しているとしながら、実際には毒薬を密かに開発していたことを示すものだった。これらの決定的な証拠を前に、多くの人々は揺れ動き始めた。彼らがカイロス家と手を組んでいたのは、家族の誰かが病気にかかったときに、より良い治療を受けられるかもしれないという期待からだった。だが、もしカイロス家が最初から不正を企てていたのなら、そこに治療を求めることは、命を賭けるようなものではないか?そのため、これまで関係が良い同盟も一気にひびが入った。次第にその結束は揺らぎ、崩れそうになった。海は時間を見計らい、協力者たちの内紛が始まりそうなタイミングで、また、他の証拠を送った。今回は、カイロス家が特定の人々に対して薬物依存を引き起こす治療法を使用していた証拠だった。調査の過程で、海はカイロス家が長期的な協力を確保するため、意図的に患者を薬物依存にさせる薬を使っていたことを発見した。そのため、治療を受けた患者やその家族は、カイロス家と良好な関係を築かざるを得ず、その結果、かなりの利益を譲渡させられていた。この情報を得た後、雅彦はすぐに美穂を検査に連れて行くように指示した。幸いなことに、ドリスはまだ美穂の力を借りて菊池家に嫁ぐつもりだったため、使っていた薬はすべて正常なものだった。だが、雅彦はこのことに震え上がった。もし母親が薬物依存に陥っていたら、自分のせいだろう。そう思うと、彼は責任を感じた。カイロス家の行動を知った永名は、これまで雅彦の行動に不満を抱いていたが、ついに態度を変えた。元々、永名は雅彦とカイロス家の戦争を避けるべきだと考えていた。結婚によって問題を解決できるなら、なぜ争う必要があるのかと思っていた。しかし、美穂が被害者になりかけていたことを考えると、永名の態度は一変した。雅彦の行動を支持するだけでなく、直接出向いて、動揺している株主たちをなだめ、雅彦にかなりの時間を稼いだ。そして、雅彦が二度目に公開した証拠は、まるで熱い油に冷水を注ぐような効果を発揮した。瞬く間に人々が激怒した。その結果、彼

  • 植物人間の社長がパパになった   第709話

    桃は少し手を止めたが、表情は動揺することなく、わずかに微笑んだ。「お母さん、何を言ってるの?」香蘭はしばらく桃の表情をじっと見つめたが、特に不自然なところは見つけられなかった。それで、新聞に載っていた内容を桃に見せた。「今日、新聞で雅彦に関する記事を見たんだけど、あなたも見たかと思って」桃の心臓が少し高鳴った。新聞を受け取って数行を見た。「今朝少し見たけど、こういうことは私たち普通の人間がどうこうできることじゃないから」「それをわかってくれればいいのよ。ただ、また勝手に手を出すかどうか心配で」香蘭は桃が本当に何も知らない様子を見て、少し安心したようで、顔色が良くなった。それから、荷物を持って台所に向かった。香蘭の背中を見送りながら、桃は胸を軽く叩いた。母親に嘘をついたとき、心臓がすごく早く鼓動して、うっかりバレるかと思った。でも、帰る前に桃はこのような状況になるかもしれないと予想して、心の準備をしていたから、何とかバレずに済んだ。ただ、母親の様子を見ると、桃は理解していた。誕生日の日には、きちんとした理由を作らなければならなかった。もし見破られたら、大変なことになるだろう。桃が帰った後、しばらくしてから雅彦は目を覚ました。目を開けると、桃はすでにいなくなっていた。部屋に自分一人しかいなかったのを見て、彼は何とも言えない寂しさを感じた。そして、雅彦は急に起き上がり、手で髪を後ろにかきあげた。先ほどふっと浮かんだ奇妙な考えが、彼自身でも少し面白いと思った。こんなことで感じやすいなんて、自分らしくないな。しばらく座っていた後、眠っていたため少しぼんやりしていた目が、だんだんといつもの鋭さを取り戻していった。起き上がって、少し休んだことで体がリフレッシュしたのか、雅彦はすっきりとした気分だった。時間を確認すると、雅彦は目を細めた。この眠り、かなり長かったな。いくつかのことはもう片付けるべき時だった。雅彦はベッドを抜け出し、ドアを開けた。外にいた海が音を聞き、振り返ると、雅彦の機嫌が良さそうだと感じ、安堵の表情を浮かべた。「どうだった?新しい家族、カイロス家と協力することを発表したか?」海は首を振った。「いいえ、カイロス家は、今回菊池家を抵抗するために、すべての手を打って勢力を結集させたようですね」雅

  • 植物人間の社長がパパになった   第708話

    そう言いながら、桃は無意識に手を伸ばし、彼の頭を軽く叩いた。まるで翔吾を寝かしつけるときのように。雅彦は目を閉じた。実際、彼も何日間も休まず働き、しっかり休んでいなかった。桃がそばにいることで、言葉にできないほどの安心感を感じ、徐々に疲れが出てきた。桃は雅彦が眠りに落ちそうになったのを見て、忍耐強くそこに座りながら彼を見守っていた。しばらくすると、彼の呼吸が次第に安定し、眠りに入った。その瞬間、桃はほっと息をつき、静かに雅彦の手をそっとどけ、隣にあった布団を引き寄せて彼にかけた。しばらくその場に座っていたが、やがて桃は立ち上がり、部屋を出る準備をした。家を出てから少し時間が経っており、もし帰らなければ、母親が怪しむかもしれない。そう思い、桃はこれ以上時間を無駄にしないようにと、静かにその場を離れた。扉を開けると、外で海が待っていた。桃は少し顔を赤らめ、まるで何か悪いことをしてしまったかのような気分になった。しかし、海は賢い人物で、桃のその様子を見てすぐに話題を変えた。「雅彦さんは休みましたか?」桃は頷き、海もほっと一息ついた。ここ数日、雅彦は一日四、五時間しか寝ておらず、海も説得できなかったが、どうやら桃がいないとダメなようだった。「用事があるから、あまり長くはここにいられない。少し彼を見守っていて。それと、もうコーヒーは飲ませないように」桃はしばらく考えた後、いくつかの注意を伝えた。雅彦の胃はもともとあまり良くなかった。今の状態では、きっと食事もちゃんと取らないだろうし、胃に悪いコーヒーを飲んで元気を出そうとするのは、まさに自殺行為だった。「わかりました」海は頷いて、桃が雅彦のことを心配していたのを見て、少し安心したような気持ちになった。「桃さん、俺が送っていきます」桃は首を振った。「いいえ、自分で車を運転してきたから、わざわざお手数をかけなくていい」桃がそう言うと、海は無理に勧めることもなく、彼女が去ったのを見送った。桃は階段を下り、車に乗り込むと、つい雅彦がいる階を見上げてしまった。しかし、すぐに視線を戻し、車を発進させた。香蘭に余計なことを考えさせないために、桃はわざわざ本屋に立ち寄り、いくつかの参考書を買い、その後大きなスーパーで食材を買ってから帰宅した。一方、香蘭はリビングのソファに座っ

  • 植物人間の社長がパパになった   第707話

    彼の視線は非常に真摯で、その熱が桃に迫りすぎて、彼女は心から隠した嘘を言うことができなかった。桃は少し黙っていた後、ようやく口を開いた。「どう言おうと、もしあなたに何かあったら、私にも関係があるから。だから、私はあなたが元気でいてほしいと思っている」雅彦の目に、少し笑みが浮かんだ。桃が自分の気持ちを正面に向き合うのを避けていることはわかっていたが、彼女の性格からして、こういう言葉を口にできたこと自体、十分だった。桃は言い終わると、耳が自然と熱くなり、恥ずかしさを避けるために急いで雅彦をベッドのそばに引っ張った。「もう黙って、早く寝なさい」「寝るのはいいけど、ひとつ条件を呑んでくれ」雅彦は桃の赤くなった頬を見て、少し勇気を出して、さらに要求をしてきた。桃は少し呆れたように彼を見つめた。つまり、この男は寝ることも、自分の体を守ることも、彼女の責任だと言いたいのか?それでも彼の真剣な表情を見ると、桃は気になってしまった。彼が言いたいことが気になった。もし過分な要求なら、もちろん断るつもりだ。「言ってみなさい。私にできることなら、できる限り応じる」「もうすぐ、君の誕生日だろう?その時、翔吾と一緒に君の誕生日を過ごせないか?」雅彦は桃をじっと見つめていた。彼女の誕生日を雅彦はよく覚えていた。桃が偽装死をして家を出たあの時から、彼にとってその日はずっと心に引っかかっていた。彼は一度も彼女と記念日を過ごしたことがなく、彼女の重要な日を祝ったこともなかった。今、チャンスがあれば、雅彦は本当に桃と一緒に誕生日を過ごしたいと思っていた。それは長年の心の中の後悔を少しでも埋めたいためだった。桃は少し驚いた。自分の誕生日?今日の日付を確認したとき、ようやく思い出した。確かにその通りだった。この数日間、色々なことがありすぎて、全くそのことに気を使っていなかったので、彼女は完全に忘れていた。彼がこんなにも真剣に頼んでくるとは、桃は少し驚き、心の中で少し混乱していた。「私……」桃は少し躊躇した。「長時間は取らないよ」雅彦は急いで言った。桃はこの言葉を聞いて、さすがに断りにくくなった。結局、相手の好意を断るのが苦手なのだった。「じゃあ、翔吾を連れてくるけど、夜の時間は取らないでね」桃は最終的に了承した。誕生日は母親と一緒に過ご

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