LOGIN「どうやって三郎に手伝わせた?」「方法ならあるわ」彼女は彼の隣に腰を下ろし、悔しそうに言葉を続けた。「奏、あなたに私のことを忘れられるわけがない。私の青春も、情熱も、愛も、すべてあなたと結びついてる。私たちの過去は、あなたが望んだからといって消せるものじゃない。あなたが新しい人生を始めたいと思っても、私が簡単に身を引けるわけがないの」奏の指がぎゅっと握られる。彼は何と返せばいいのか分からない。脅されても、彼女は怖がらない。まさかここで手を出すわけにもいかない。「本当に、もう私に何の気持ちもないの?」彼女は彼の大きな手を握りしめた。「ねぇ、こっちを向いて」「くだらない」喉の奥から冷たい嘲りがこぼれる。「あなたが自分の心を隠すのが上手いのは知ってる。でも、完全に私を忘れたなんて信じない」彼女は力を込め、彼の手をさらに強く握りしめ、もう片方の腕で彼の首を抱いた。真っ赤な唇が、彼の薄い唇に重なる。彼の懐かしい匂いが、胸の奥の感情を一気にかき立てる。今の彼が別の女性の夫であること、冷たく突き放されることを思うと、涙が勝手にこぼれ落ちた。熱い涙が彼の頬に落ちる。奏は彼女を乱暴に突き放し、嫌悪をにじませた目で睨みつけた。「とわこ!昔から、そんな卑しい手で俺を操ってたのか?」「そうよ」彼女は真っ赤な唇をかすかに噛み、彼の言葉に乗った。「もう一度試してみる?今でも私に操られるかどうか」彼女の言葉に、奏の怒りが爆発する。だが、手を上げることはできない。怒りの行き場を失った彼は、目の前の黒いノートにぶつけた。そのノートをゴミ箱に放り込み、立ち上がって部屋を出ようとする。「奏!やっぱり私を忘れたのね!」彼の大きな背中を見つめながら、とわこはかすかに笑った。「嘘だと思ってたけど、本当だったのね」一瞬だけ、奏の足が止まる。だが、すぐに迷いを振り切るように去っていった。彼がいなくなったあと、とわこはゴミ箱からノートを拾い上げ、ティッシュで丁寧に拭いた。きれいにすると、それをバッグにしまい、急須から自分のためにお茶を注ぐ。少しして、奏の車が別荘の前庭から姿を消した。とわこはバッグを手に、静かに外へ出る。ボディーガードが彼女を見つけると、すぐに車のドアを開けた。「さっき二人がキスしてるの見えましたよ」「俺
およそ一時間後、黒い乗用車が別荘の前庭に入ってくる。三郎がとわこに声をかける。「お前の男が来たぞ」とわこは苦笑する。「今はもう彼は私の男じゃない。借りを作った人です」昨夜、彼は何度も繰り返した。必ず痛い代償を払わせると。その言葉のせいで、とわこは一晩中眠れなかった。思い出すだけで、胸がざわつく。車が止まり、ドアが開くと、奏が大股で降りてくる。今日も黒い服に黒いズボンで決め、長身がいっそう際立って見える。護衛は客間には入らず、室内に入るときに靴を取り替える。そして彼の視線はすぐにとわこの顔に向く。昼間に見る彼女と昨夜に見る彼女とは受ける印象が違うらしく、彼の目に一瞬驚きが走る。昼の冷静さが、そうさせるのかもしれない。「奏、座れ」三郎が促す。「体の具合はどうだ」「悪くない」奏はいつもの冷たい表情に戻る。三郎から湯呑みを受け取り、一口含んでから置く。「真帆との結婚式、やり直すつもりはあるか」三郎が何気なく訊ねる。「礼は用意してある。もしやらないなら、後で持ち帰れ」「今のところ考えていない」奏はとわこを空気のように扱いながら、淡々と答える。「最近忙しい。そんな余裕はない」「そうか。剛が手の届かない厄介事をお前に押し付けたんだろう。無理はするな。死人が出るようなことはするなよ」三郎はとわこをさりげなく一瞥し、立ち上がると奏に向かって言う。「とわこが会いに来ている。話すかどうかはお前次第だ」そう言い残し、三郎は大股で外へ出て行く。奏は湯呑みを手に取り、淡々と茶を注ぐ。「奏、返したいものがあるの」とわこは黒い手帳を差し出す。「数日前、剛がこれを私に渡したの。あなたの物だから返すべきだと思って」奏は手帳に目をやり、すぐ視線を逸らす。「ほかに用はあるか」「あなたが記憶消去の手術を受けたことを知っている。だから私のことを忘れたのもわかっている。今あなたがどう接しても、責めはしない」彼女は言葉を早める。いつでも立ち去られるかもしれないと怖れているのだ。「この手帳、持ち帰ってちゃんと読んで」「無駄な抵抗はやめろ。お前との関係は終わった」奏は湯呑みを置き、その瞬間、鷹のような冷たい瞳でとわこを見据える。とわこは正面から見返す。「その台詞は私が言うべきものよ。あなたが記憶を取り戻すまでは、私たちは終わっ
車に乗り込むと、とわこはスマホを取り出し、ある番号に電話をかけた。コール音のあと、相手がようやく出た。「三郎さん、こんにちは。とわこです」相手は彼女の声を聞いて、くすりと笑った。「俺の番号、どこで手に入れた?」「奏のLINEにログインして、そこから見つけました」彼女は率直に切り出した。「少しお願いがあるんです」「三千院さん、森の別荘でのことでもう借りは返したはずだ。だから、もうお前の頼みは聞かない」三郎はあっさりと断った。「確かに、あの時で帳消しです。でも今後も絶対に私に助けを求めないと、言い切れますか?」とわこは穏やかに言葉を続けた。「年齢を重ねると、脳の病気のリスクは上がります。その時に私のところへ来てくだされば、無償で治療します」その一言で、三郎の呼吸がわずかに変わった。「それで、俺に何をさせたい?」彼は薄く笑いながら言った。「まさか奏を奪い返すために呼び出せってわけじゃないだろうな?昨夜の剛の屋敷でのお前の醜態、もう噂になってるぞ」「彼に渡したいものがあるんです。だから、三郎さんの家に呼んでもらえませんか」「それだけか?」「それだけです」「いいだろう。今、呼び出してやる」交渉成立後、とわこのスマホに三郎から位置情報が届いた。彼女はそのままボディーガードに転送し、運転を頼んだ。「すごいコネ持ってるじゃないっすか!」ボディーガードが感嘆した。「六人の法則って知ってますか?世界はどんなに広くても、六人を介せば誰とでも繋がるっていう話です」「今なら信じるでしょ?」とわこは答えず、ぼんやりと窓の外を見つめた。「緊張してきた。奏が私を見た途端に帰っちゃったらどうしよう」ボディーガードは心配そうに言った。「恋愛ドラマ見たことあります?」「え?」「うちの嫁が大好きで、俺も付き合って見たんすけどね」ボディーガードは真顔で続けた。「もし奏が話も聞かずに帰ろうとしたら、キスっすよ。とにかくキス。逃げそうになってもキス。女が粘れば男も負けるんす。恥なんか捨てて本気でぶつかれば、絶対どうにかなる!」三十分後、車は三郎の別荘の前に停まった。とわこは無事に屋敷に入り、三郎と対面した。彼は席を勧め、自らお茶を注いだ。「奏は来てくれるんですか?」とわこは落ち着かない様子で尋ねた。「
「子どもを育てるのに必要なのは金だけだろ?蓮なら金なんて腐るほどあるじゃん」マイクは一郎の気まずい表情を見て、吹き出すように笑った。「桜はもともと病院で堕ろすつもりだったんだよ。で、蓮が付き添って行った。でも何があったのか、最終的に蓮が自分がお金を出すから産めって言い出したらしい」その話を聞いた瞬間、一郎の胸の中の怒りがスッと消えていった。残ったのは、どうしようもない気恥ずかしさだけ。「実の父親よりも、蓮の方がよっぽど立派だな。蓮、まだ十歳にもなってないんでしょ?あんた、恥ずかしくないの?」瞳が冷ややかに笑う。「もうやめろって。十分恥ずかしいから」一郎は重くため息をついた。「まったく、桜って女は人をイラつかせる天才だ。何もかもはっきり言わねぇで、わざと怒らせやがる」「蓮ってクールな性格じゃない?そんな彼と仲良くできて、あんたとはダメって……原因はどっちか、考えるまでもないでしょ」瞳の鋭い言葉に、一郎は白旗を上げた。「わかったよ、悪かった。家に帰ってちゃんと反省する。少し頭冷やしてから、もう一度話してみる」そう言って、一郎は完全に降参したように肩を落とした。Y国。とわこが病院を出たあと、俊平は彼女の主治医を通じて副院長と連絡を取った。二人は病院近くのレストランで昼食を取りながら話を始めた。「あなた、とわこさんと随分親しいようですね」副院長が切り出す。「まあ、昔の同門です。教授の下で一緒に研究してました。だから彼女が困ってると聞いて、駆けつけたんです」俊平は淡々と答えた。「今日は、その“記憶消去術”についてお伺いしたくて。正直、成功例なんて聞いたことがないんですよ」「成功とは言えませんね。臨床例も、まだ三百件ほどです。動物実験を含めてですが」副院長は控えめに笑った。「それで、どうして奏に手術を?まだ確立していない技術ですよね?」俊平が問い返す。「この手術は、身体へのダメージが少ないんです。それにこの研究を出資しているのは剛さん自身で、彼もすでにこの手術を受けています」副院長の声は穏やかだった。「あなたは痛みというものに、どれほど耐えられますか?ある人にとって、過去の記憶は生き地獄です。忘れることが、唯一の救いなんですよ」「おっしゃる通りですね」俊平は頷いた。「ただ、手術を受けた後、記憶を早く取り戻す方法はありま
場の空気が一瞬にして凍りついた。ただ瞳だけが、鼻で笑った。「やっぱり男なんて、ろくな奴がいないわね」その言葉に一郎は顔をしかめた。「おい、それは言いすぎだろ」「言いすぎ?聞いたわよ、あんたが桜を妊娠させたくせに責任取らないって。本当?」瞳は勢いよく言葉をぶつけた。「桜がどれだけ可哀想かわかってる?あんたみたいな最低男に引っかかるなんて、同情するわ」裕之が慌てて彼女の腕をつついた。「瞳、もうその辺で……」「やめない!」瞳は鋭い目を向ける。「クズって言われて文句でもある?奏がここにいても、私は同じこと言うから!」今日の彼女は最初から怒りをぶつけに来ていた。一郎はグラスを持ち上げ、苦笑いしながら一気に飲み干した。「桜のこと、責任取らないなんて言ってねぇよ。会いに行ったら、もう別の男がいるって言われたんだ。僕にどうしろって?その男と勝負でもしろってか?笑わせんなよ」子遠が無言で彼のグラスに酒を注ぎ足す。「だったら反省しなさいよ。桜が新しい男を選んだ理由を考えてみなさい。あんたがクズだからでしょ」瞳の容赦ない一言が、一郎の胸を刺した。一郎は顔を真っ赤にして言葉を失った。「私は桜に会ったことないけど、とわこから聞いたわ。彼女、ほんとに不幸な子だったって。小さい頃から誰にも愛されなくて、誰かが少し優しくするだけで、すぐ信じちゃうタイプだって。そんな子に何したのよ?」「優しくするって、どうすりゃいいんだ?結婚か?僕には無理だ。僕と彼女は、そもそも違う世界の人間なんだよ」「なら何で悩むの?彼女はもう別の人と生きるって決めたんでしょ。放っておけばいいじゃない。子どももその人と育てればいい。それとも、桜はいらないけど、子どもだけ欲しいの?」「……」「やっぱりクズね。奏だって最低だけど、とわこの子を奪おうとはしなかったわよ」「……」マイクは、顔を真っ赤にした一郎を見かねて口を挟んだ。「一郎、本気で子どもが欲しいのか?」「当たり前だろ!自分の子だぞ?欲しくないわけない!」一郎は即答した。「俺はそもそも子どもできないしな。でもさ、子どもが欲しいなら、母親のことも無視できねぇだろ?」「わかってるって!でも桜、もう他の男といるんだ!話し合おうとしても、全然無理だった!」一郎はグラスをまた掴み、喉を焼くように飲み干した。
俊平はその言葉に眉をひそめた。医者として、患者の健康こそが最優先だ。そして同級生としても、とわこの病気を治すことは、奏との関係よりもずっと大事なことだった。「もし奏の記憶が戻るまでに、すごく時間がかかったら?それか、結局思い出せなかったら?まさか、その間ずっと手術を延ばすつもりじゃないだろうね?」俊平の声には焦りが滲んでいた。「今はまだ腫瘍が小さいけど、大きくなれば一気に悪化するかもしれない。その時は」「定期的に検査を受けるわ。もし腫瘍が大きくなったら、すぐに手術する」とわこはまっすぐ彼を見つめ、静かに言った。「奏は記憶消去の手術を受けたばかり。今が一番、記憶を呼び覚ませる時期なの。だから、一か月だけ時間をちょうだい。試してみたいの」「一か月か」俊平は喉を鳴らし、少しの間考え込んだ。「その一か月後も、彼の心に何の変化もなければ……必ず手術を受けるんだな?」「うん、約束する」とわこは深くうなずき、彼の理解に感謝を込めて微笑んだ。「俊平、これ以上あなたの時間を奪いたくない。仕事に戻って。手術の決意ができたら、その時呼ぶから」しかし俊平は首を横に振った。「俺はもう何年も休みを取ってない。今回まとめて休暇をもらったと思えばいいさ。君の手術を終えるまでは帰らない。教授の一番の教え子を失うなんて、先生が天国で泣くよ。先生はもういないけど、俺の中ではずっと生きてる」その言葉に、とわこの目が潤んだ。「俊平、本当にありがとう。借りを作っちゃったね。いつか必ず返す」「気にするな。もし立場が逆なら、君だって同じことをしただろう」俊平は小さく息をつき、眉間に皺を寄せる。「でもやっぱり、少し冷静になれ。奏は記憶を失っただけで、体は健康だ。手術を終えてから探しても遅くない」とわこは首を横に振った。「違うの。手術してから回復するまで、少なくとも一か月はかかる。その間に何が起こるか分からない。剛という人がどんな人間か、あなたは知らないのよ。あの人は奏を操るために、わざわざこの手術を受けさせたの。私は、奏をあの人の操り人形になんてさせたくない」俊平は彼女の切迫した説明を聞き、ようやく彼女の焦りを理解した。「それで、彼に近づけそうなのか?」「簡単じゃない」とわこは伏し目になったが、その瞳には確かな決意が宿っていた。「でも、できる。必ず方法を見つけ