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第662話

著者: 夏目八月
last update 最終更新日: 2024-12-28 18:00:00
宝子は目に宿る複雑な思いを押し隠し、「参りましょう」と言った。

今はただ、天方家が自分を気に入らないことを願うばかりだった。現在の天方十一郎の地位なら、どんな女性でも妻に迎えられるはず。自分の身分さえ偽りなのに。

正殿に着くと、彼女は団扇で顔を隠しながら、しとやかな歩みで進んだ。この歩き方一つ習得するのにも、随分と時間がかかったものだった。

東海林侯爵夫人は笑みを浮かべながら、「汐羅、早く裕子様と天方夫人様にご挨拶なさい」と促した。

宝子は裕子と天方夫人に向かって丁寧に一礼し、「ご機嫌よう裕子様、天方夫人様」と挨拶した。

「それから、こちらが天方将軍様、そしてこちらの沢村お嬢様は裕子様の義理の娘でいらっしゃいます」先ほど沢村紫乃が入室した際、裕子が既に紹介していた。

団扇を下げて顔を見せた宝子は、はにかむような仕草もできず、ただ普通に挨拶をした。「天方将軍様、沢村お嬢様、はじめまして」

沢村紫乃は彼女を見つめながら礼を返した。「言羽お嬢様、ご機嫌よう」

天方十一郎も手を合わせて会釈した。「言羽お嬢様、はじめまして」

沢村紫乃は彼女の容姿を観察した。整った顔立ちに大きな瞳、薄すぎず厚すぎない唇は美しい弧を描き、上唇の小さな紅い痣が、端正な中にも愛らしさを添えていた。確かに美人ではあったが、名家の令嬢らしい気品というより、むしろ武芸界で生きてきた者特有の奔放さが漂っていた。

粗野さは見られなかった。礼儀作法は完璧だったが、かつて武芸界で生きていた者特有の気質は隠しきれないものだった。沢村紫乃は似たような人を数多く見てきただけに、よく分かった。

実はさくらにも、礼儀作法の中に時折覗く奔放さがあった。その点で、二人は少し似ているところがあった。

似ているところといえば、沢村紫乃は宝子をじっくりと観察し、何とも言えない既視感を覚えた。しかし、その親近感がどこから来るのか分からなかった。確かに宝子とは初対面のはずなのに、礼から着座までの一連の所作には、どこか見覚えがあった。

それは東海林侯爵夫人と東海林椎名との間に見られるような動作の類似性に似ていた。

もっとも、東海林侯爵夫人は東海林椎名の母親なのだから、二人の仕草が似ているのは当然のことだった。

では、この宝子から感じる既視感は、一体どこから来るのだろう。

裕子は満足げに見つめていた。控えめな
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    小林鳳子は髪を掴まれたまま床に倒れ、痛みで涙を流しながらも、声を上げることもできなかった。付き添いの禁衛も大長公主に手を出すことができず、ただ声を掛けるばかりだった。「お手を放してください。彼女から離れてください」茨子は乱れた髪が顔の半分を覆い、底知れぬ冷酷さで言い放った。「貴様如きが私に命令するとは。触れてみろ、どうなるか分かっているのだろうな?」小林鳳子の髪を引きずりながら禁衛に詰め寄る茨子に、禁衛は一歩後退するしかなかった。宰相夫人は立ち上がると大股で歩み寄り、茨子の頬を力強く打った。「私なら貴様に手を出すぞ。狂った女め、どうする?」「無礼者!」茨子は小林鳳子を放し、今度は宰相夫人に襲いかかろうとした。禁衛たちはもはや傍観できず、急いで茨子を制止した。丞相夫人に襲いかかれなかった茨子は、代わりに禁衛の顔や頭を容赦なく爪で引っ掻いた。禁衛の顔には無数の引っ掻き傷が付き、血の気が失せた。痛みに耐えかねた禁衛は、彼女の狂気じみた様子に歯ぎしりし、一計を案じた。足を出して彼女の足元を掬い、身をかわす。バランスを崩した茨子は前のめりに転び、額を床に激しくぶつけた。宰相夫人は冷然と命じた。「縄を持って来い。あなたたちが縛れないというなら、この私がやってやる」禁衛たちは慌てて縄を取りに走り、宰相夫人の命令を受けて、大長公主を柱のそばに縛り上げた。老婦人自ら手を下す必要はなかった。茨子の額には青黒い腫れができ、まるで狂人のように縄を振り解こうともがいたが、しっかりと縛られており、どれほど力んでも身動きが取れない。彼女は宰相夫人に怨嗟に満ちた眼差しを向け、吐き捨てるように叫んだ。「老婆め!私は大和国の大長公主なのだぞ。皇族を侮辱するとは、その罪、承知しているのか?父上に命じれば、貴様の一族皆殺しにできるぞ!」丞相夫人は冷然と答えた。「影森茨子、もう芝居はやめなさい。為したことには代償がつきもの。たとえ本当に狂っていようと、国法の裁きは免れぬ」大長公主は嗄れた、かすれた声で叫んだ。「誰が芝居をしている?貴様こそ、老いぼれの毒婦め!今すぐ跪いて頭を地に付けよ。私が慈悲をかけてやろう......」宰相夫人はもはや相手にする気も失せていた。茨子が正庁を行き来し、罵詈雑言を吐きながら出て行っては戻り、狂気じみた様子を見せる度に、その心中

  • 桜華、戦場に舞う   第713話

    大長公主邸では、太夫人たちと相良玉葉らも次々と立ち去り、ただ宰相夫人だけが残った。これほど多くの被害者の治療には、采配を振るう者が必要だった。とりわけ、大長公主がまだ拘束されていない今は尚更のことだった。北條守ら数名は手当てを受けた後、禁衛軍と御城番の処理が済むまでここで待機することになった。彼らは経壇に配置され、傷ついた女性たちとは別の場所に置かれた。山田鉄男は私兵と護衛を全て拘束し、さらに公主邸の使用人たちを一箇所に集め、家令たちを監視下に置いた後、ようやく北條守たちの様子を見に来た。「どうだ?持ちこたえられるか?」山田が尋ねた。五人のうち二人は重傷で、止血はしたものの危険な状態にあった。医師は当面の移動を禁じ、分厚い布団が掛けられていた。北條守ともう二人も重傷ではあったが、先の二人に比べれば幾分ましな状態で、急所は避けられていた。北條守は今になって激しい痛みを感じていたが、山田の問いかけに耐えながら答えた。「大丈夫です」山田は頷いた。「よくやった」北條守は躊躇いながらも尋ねた。「山田殿、刺客たちは捕まりましたか?」「全員逃げおおせた。一人も捕まえられなかった」と山田は答えた。地下牢で命を落としかけたことを思い出した北條守は、怒りを覚えながら言った。「山田殿、あの刺客たちのことですが......私たちは利用されたのではないかと。刺客と対峙した時、顔は覆っていましたが、私には誰だか分かりました」山田は微笑み、北條守の肩を叩きながら意味深な口調で言った。「なぜ私がお前のいる地下牢を見つけられたと思う?北條守、お前は手柄を立てたぞ」北條守は一瞬驚いた。手柄?そんなことは考える余裕もなかった。山田の言葉を反芻する。なぜ自分のいる地下牢を見つけられたのか?大長公主が入った後、地下牢の扉は施錠されていた。入口を知らなければ、中には入れないはずだ。ということは、北冥親王が引き返して扉を開け、山田たちを導いたということか?だが、あれほどの禁衛軍と御城番がいる中、逃げ出してから戻るのは危険すぎる。もし捕まるか、正体が露見すれば、百年河清を待つとも潔白を証明できまい。北條守には信じがたかったが、手柄を立てたと思うと胸が高鳴った。それが北冥親王であろうとなかろうと、地下牢の扉を開けに戻ってきたのが誰であろうと、手柄も

  • 桜華、戦場に舞う   第712話

    戦いが佳境に入り、北條守は死の恐怖を感じ始めていた。関ヶ原での初陣を思い出していた。敵に包囲され、刃の下で死にかけた時、佐藤三郎将軍が命を救ってくれた。その代償として、佐藤三郎将軍は片腕を失った。あの時と同じような死の恐怖が襲う。一瞬の隙を突かれ、蹴り倒された。慌てふためく中、冷たい光を放つ大刀が振り下ろされるのが見えた。咄嗟に地面を転がり、大長公主の足元まで転がっていった。「死ね!」大長公主は獰猛な形相で剣を振り上げ、彼の胸めがけて突き立てようとした。北條守は剣の刃を両手で掴み、それを支えに立ち上がろうとした矢先、侍衛たちが襲いかかってきた。その千載一遇の危機に、大勢の禁衛軍が押し寄せ、山田鉄男は階段から飛び降り、北條守に刃を振り上げていた侍衛を一蹴して、北條守を救った。戦闘は続いていたが、山田鉄男率いる精鋭たちはまたたく間に敵を圧倒し、程なくして侍衛たちの首筋に刃が突きつけられた。大長公主は形勢が一変したのを目の当たりにした。覚悟はしていたものの、あまりにも急激な敗北を受け入れることができず、全身の力が抜けたように地面に崩れ落ちた。禁衛軍が掲げる松明が地下牢全体を照らし出した。ここは牢獄などではなく、小規模な武器庫だった。火薬を発見した山田鉄男は胸が締め付けられる思いで、即座に命じた。「火を消せ」松明が消され、薄暗い灯火に武器の冷たい輝きが浮かび上がった。その意味するところを、その場にいた者たち全員が悟っていた。山田鉄男は北條守と重傷を負った数名の禁衛を治療のため外に運び出すよう命じ、残りの者たちは全員を拘束して連行させた。大長公主に関しては、処遇を決める権限がないため、地下牢に見張りを配置し、数名の兵を付けて監視することにした。行動は制限しないが、公主邸から出ることは許されなかった。最終的な処遇については、陛下に報告し、その裁定を仰ぐことになった。北條守を含む五名の禁衛は重傷を負っていたため、公主邸の御殿医が応急処置を施した。相良玉葉が手配した医師たちも続々と到着し、さらに山田鉄男も民生館から医師を召集したため、公主邸はまるで大きな医館のような様相を呈していた。志遠大師は諸僧と共に公主邸を後にした。去り際、最後に振り返った一瞥には、来年この場所を訪れる必要はもはやないという確信が宿っていた。無念の死を

  • 桜華、戦場に舞う   第711話

    新たに連れて来られた者たちからは、耐え難い悪臭が漂っていた。その中の二人は正気を失ったかのように、供物台に並べられた果物に飛びつき、まるで飢えに狂ったように貪り食った。数人は床に横たわったまま動けず、長い病に蝕まれたのか、死人のような青ざめた顔をしていた。一同がその正体を測りかねているうちに、さらに新たな一団が運び込まれてきた。人影が見えぬうちから、すさまじい悪臭が押し寄せた。腐肉のような吐き気を催す臭気に、沢村氏は袖で鼻を覆い、部屋の隅へと退いた。高僧たちが目を開けると、そこには手足の欠けた女たちが次々と運び込まれており、思わず「南無阿弥陀仏」の声が漏れた。慈悲の心を説く出家の身でありながら、このような惨状を目の当たりにしては、いかに修行を積んだ者でも怒りを抑えることは叶わなかった。夫人たちは運び込まれる女たちを目にし、息を呑んで思わず後ずさった。相良玉葉は袱紗で口元を覆いながら、年長の夫人たちと共に状況を確認しようと近寄った。傷口の凄まじい有様を目にした彼女は、顔を蒼白にして急いで声を上げた。「早く、誰か!皆を医館へ運ばねば!」しかし、大半の者たちは逃げ出すばかりだった。あまりの悪臭と恐ろしい光景に、吐き気を催し、胸が締め付けられる思いだった。「御殿医は?御殿医はどこにいる?」咲木子は走り出ると、公主邸の侍女の一人を捕まえた。「早く御殿医を呼んでください!」侍女たちは目の前の惨状に凍りついていた。普段は正庭で接客を担当するだけの彼女たちは、地下牢の出来事など知る由もなかった。次々と運び込まれる人々の中には見覚えのある顔もあれば、見たこともない者もいた。しかし、その全てが骨と皮だけになり、傷つき、あるいは体の一部を失っていた。咲木子の叫び声に、侍女たちは我に返り、一斉に御殿医を探しに走り出した。普段なら指先を少し切っただけでも大騒ぎする侍女たちを従える貴族の夫人たちも、この光景の前では言葉を失い、近寄ることさえできなかった。足を失った女性は、虚弱のあまり体を起こすこともできず、地面に横たわったまま、うつろな目で周りを見回した。そして、笑いとも泣きともつかない声を上げた。「やっと、私を殺してくれるの?早く、早く楽にして......」その声は笑いと涙が混ざり合い、聞く者の心を凍らせると同時に、深い悲しみを呼び

  • 桜華、戦場に舞う   第710話

    刺客たちは既に山田鉄男と御城番の陸羽殿を伴い、他の地下牢に突入していた。地下牢では上原修平一家四人と、七、八人の狂気や病に冒された女性たちが発見された。山田鉄男は上原家の四人を目にした瞬間、表情を引き締め、即座に命じた。「直ちに彼らを護送せよ。夫人たちと共に避難させろ。あちらには禁衛と私兵が警備についている。安全だ」隣の牢房にも女性たちが収監されていたが、ここの女性たちは全員が身体に障害を負っていた。手足を失くしたり、顔を損なわれたり、舌を切られたりしていた。さらに、傷の手当ても粗末で化膿し、中には切断された脚に蛆が湧いている者もいた。禁衛たちはこの光景を目にして、ここが公主邸だとは信じがたかった。まさに地獄と言っても過言ではなかった。彼らは悪臭に耐えながら、一人一人を外へ運び出した。正庭では、志遠大師が高僧たちと共に読経を続けていた。禁衛と御城番の数が増えていくのを見て、刺客も増えているのではないかと懸念する者もいた。沢村氏を筆頭に数人の夫人たちが立ち去ろうとしたが、志遠大師はそれを制止した。普段は慈悲深く温和な志遠大師が、珍しく厳しい口調で言った。「来た以上は、最後まで務めを果たすのです。蒲団にお戻りなさい」沢村氏は本当に恐れていた。こんな事態は見たことがなかった。帰りたくても帰れず、涙ながらに訴えた。「刺客がいるのに、なぜ逃げることも許されないの?死者の供養のために自分の命を危険にさらすなんて、愚かすぎるわ。慈悲だなんて言いながら、人の命を軽んじるなんて」宰相夫人は冷ややかに言った。「禁衛と御城番が来ているというのに、燕良親王妃は何を怖がっているの?ご覧なさい、金森側妃はなんと落ち着いていることか」実際、金森側妃は決して落ち着いてなどいなかった。心臓が喉まで飛び出しそうだった。燕良親王に仕えて幾年も経ち、燕良親王の全ての計画を知り、大長公主の地下牢に何が隠されているかも承知していた。あれらが発見されれば、たとえ文利天皇が生き返ったとしても謀反の罪は免れまい。まして現帝は大長公主の甥に過ぎないのだ。宰相夫人の言葉に、金森側妃は無理に微笑を浮かべた。「太夫人方も若い娘たちも恐れていないのに、私たちが何を怖がることがありましょう。禁衛は我が国の精鋭、玄甲軍から選ばれた者たち。決して無能な者どもではありませんわ」

  • 桜華、戦場に舞う   第709話

    地面には束ねられた矢が置かれ、数台の弩機が並び、刀剣や弓矢が整然と列をなしていた。隅には大きな樽が幾つも積まれ、近づくと火薬の匂いが鼻をついた。樽は密封され、幾重もの布で覆われていたが、それでも火薬の臭気は漏れ出ていた。樽の置かれた場所には灯りがなく、地牢の入り口付近にだけ明かりがともっていた。振り返ると、侍衛たちが追いついていた。地下牢に灯りがともされ、多くの者たちは驚愕のあまり、刺客に立ち向かうことすら忘れていた。影森玄武は剣を構え、立て続けに数人を倒した。そこへ北條守が数名の禁衛を率いて入ってきた。北條守は地下牢の様子を見る間もなく、刺客めがけて刀を振り下ろした。玄武は二太刀ほど受け合わせた。薄暗い灯りの中、北條守は相手の瞳と目が合い、手にした武器が一瞬止まった。玄武はその隙を突き、稲妻のような速さで階段を駆け上がり、三段を二段に飛び、地下牢から姿を消した。北條守は一瞬の呆然の後、地下牢の光景に目を凝らした。その瞬間、彼の瞳は固まり、心は底知れぬ衝撃に震えた。深く息を吸い、数名の禁衛と目を交わした。「山田殿を探せ!」北條守は自分の声を取り戻した。「御城番の総領、陸羽殿も来ているはずだ。二人を探し出せ、急げ!」地下牢の扉が音を立てて閉まり、大長公主が裾を持ち上げて降りてきた。手にした剣を山田鉄男を探しに行こうとする禁衛に向け、冷ややかに言った。「誰も出してやらないわ」禁衛たちは一歩ずつ後退した。大長公主は地下牢に降り立つと、冷たく侍衛たちに命じた。「殺しなさい」北條守を含む禁衛はわずか五人。対する侍衛は三十人近くいた。これらの侍衛は影森玄武の前では子供の戯れのようなものだったが、北條守と四人の禁衛程度なら十分に対処できるはずだった。侍衛たちは刀剣を構え、五人に向けた。しかし、地下牢に並ぶ品々の多くは、彼らですら見たことがないものだった。これらは一般の邸宅での所持が固く禁じられており、所持すれば謀反の大罪となる代物だった。そのため彼らの心には恐れがあった。これらの品々が発覚することへの恐れと、事が済んだ後に大長公主に口封じされることへの恐れだった。北條守は地下牢の扉が閉ざされるのを目にした。たとえ山田鉄男が部下を連れて西庭に突入しても、この入口を見つけられるとは限らない。彼らはここで命を落とすかも

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