さくらには分かっていた。夜間に武器を携帯し、しかも将軍家への刺客の襲撃を事前に知っていたことは、必ず天皇の疑念を招くだろうと。たとえ玄甲軍の副将とはいえ、それは名目上の職に過ぎず、夜間に武器を携帯して外出することは許されない。まして刺客の動向を知っているなど、なおさらだ。陛下は彼女が密偵を配置していることを疑うだろう。そして彼女を疑うということは、北冥親王家を疑うということになる。さくらは目を上げ、率直に言った。「陛下、上原家が一族の惨禍を経験したことはご存知かと存じます。潤くんが戻って参りましてから、妾は日夜、彼に不測の事態が降りかかることを案じておりました。そのため、姉弟子に依頼し、京に入る怪しい者たちを見張る者を何人か配置させていただきました。果たして先日、数名の者が京に入り、万丸旅館に投宿いたしました。彼らは武芸の心得が深く、宿に籠もったまま外出もせず、何かを企んでいるように見受けられました。潤を狙っているのではと懸念し、密かに監視を続けておりました」「その夜、彼らが夜忍びの装束姿で万丸旅館の二階から飛び降り、親王家ではなく青雀通りへ向かうように見えました。その付近には穂村宰相や左大臣の邸もございますゆえ、朝廷の重臣を狙うのではと危惧し、すぐさま追跡いたしました。しかし思いがけず、彼らは青雀通りではなく将軍家へと向かったのです」清和天皇はその説明を聞き、笑みを浮かべながらも鋭い眼差しを失わなかった。「お前と将軍家との確執を考えれば、なぜ進んで救いの手を差し伸べたのだ?」「人命が関わることでございます。また、妾と将軍家の間に生死を分けるほどの深い怨みがあるわけでもございません。そして何より、臣は玄甲軍の副将。見殺しにすることなどできません」天皇は軽く頷いた。「うむ、その説明も理にかなっておる。だが、あの夜の刺客が葉月琴音を狙っていたことは知っておったか?」「その時は存じませんでした。妾が刺客の手足の筋を切った後、北條剛様が彼らを縛り上げ、その時、山田鉄男殿も禁衛を率いて到着されましたので、妾はその場を離れました」天皇はゆっくりと溜息をついた。「そうか。残念ながら刺客は皆死んでしまい、誰の差し金かを問いただすことはできなくなってしまった。お前が彼らと戦った際、何か手掛かりは掴めなかったか?」さくらは少し考えてから首を振った
羅刹国の辺境の城は、戦後ずっと重兵が配備されていた。特に今は大和国との交渉において、人質と薩摩城との交換を持ちかけているため、人質を収容する牢獄には特別な重兵が配置されていた。影森玄武たちは辺境の城に潜入して数日が経ち、ようやく七瀬四郎が収容されている場所を突き止めた。辺境を守る衛所であり、鉄壁の要塞だった。高い城壁の内側にある牢獄の構造も、今では細部まで把握できていた。彼らは親房甲虎が定めた五日の期限を知らなかった。明日が、その五日目の最後の日となる。玄武は明日、ビクターが親房甲虎と再び交渉を行うことを知っていた。五日の期限こそ知らなかったものの、親房甲虎が自分の命令に従わず、今回の交渉を引き延ばさないだろうと察していた。玄武は決断を下した。明日、ビクターが浪牙山での交渉に向かう際に、救出作戦を実行する。ビクターの周りには多くの武芸者がいたが、浪牙山での交渉に向かう際には、必ずやその大半を随行させるはずだ。邪馬台の戦場で長く戦い、北冥軍に敗れた彼は、北冥軍に対して本能的な恐れと憎しみを抱いているのだから。浪牙山での交渉で、もし親房甲虎が即座に拒否すれば、ビクターは長居せず、明晩には戻ってくるだろう。ここは親房甲虎が交渉の場で時間を稼げるかどうかにかかっている。もし曖昧な態度を示して引き延ばすことができれば、ビクターを引き留めて交渉を続けさせることができる。そうすれば、ビクターは少なくとも明後日まで戻って来ないはずだ。そうなれば、救出のための時間は十分となる。有田先生は救出作戦を立案した。一人が外で支援を待機し、三人で突入して救出を行う。外での待機役は尾張拓磨が務め、時刻は今夜の酉の刻、衛兵の交代時間に定められた。三人とも武芸に長けているとはいえ、鉄壁の城壁を突破し、地下牢まで潜入して救出を行うのは、相当な困難が予想された。しかし、これまでに玄武と師匠が夜陰に紛れて数回の偵察を行っており、地下牢には到達できなかったものの、地形をほぼ把握し、警備の状況も掴んでいた。勝算は十分にあった。一方、辺境の城近くのベル川沿いの木造の小屋では、十人の男たちが集まっていた。彼らは髭面で、周辺の漁民と同じような服装をしており、粗野な黒い肌をしていた。彼らは低い机を囲んで床に座り、机の上には一枚の図面が広げられていた。この図面
六月十八日の夕暮れ、十人の男たちは粗末な椀を掲げていた。椀の中身は冷たい水だった。この数年、彼らは茶も酒も一滴も口にしていなかった。茶葉はこの辺境では贅沢品で、彼らには手が出なかった。濁り酒は安価ではあったが、一滴たりとも口にする勇気はなかった。一時の酒の勢いで、言ってはならないことを口走れば、それこそ命はないも同然だったからだ。彼らが唯一酒を買ったのは、上原元帥と六人の若き将軍たちの戦死を知った時だった。地面に酒を注ぎ、元帥の御霊を弔った。その夜、布団の中で一晩中涙を流し続けた。しかし悲しみに浸れる時間は一晩だけ。翌日には涙を拭い、再び命懸けの任務に身を投じねばならなかった。邪馬台はまだ奪還されていなかったのだから。その後、邪馬台は奪還され、ビクターは軍を率いてこの地に退き、守備についた。もはや邪馬台への情報伝達は不可能となり、国境の往来も極めて困難になった。以前は糧食や商品を運ぶ隊列に紛れて薩摩へ情報を送っていたが、今はその必要もなく、外に出ることすらままならない。そのため邪馬台奪還後は、どうやって脱出するかばかりを考え、東奔西走していた末に、清張が捕らえられてしまった。清張は捕縛後、おそらく厳しい拷問を受けただろうが、最後まで仲間のことは明かさなかった。さもなければ、羅刹国の兵士たちはとうに彼らを見つけ出していたはずだ。清張の鉄のような意志と不屈の精神を思えば、彼らにも恐れることなどなかった。藁草履を脱ぎ捨て、十人が揃って身を屈め、新しく作った布靴を履いた。ぼろ布同然の衣服を脱ぎ、夜忍びの装束に着替えた。この十着の装束は、黒布を買って自分たちで縫い上げたものだった。かつては刀剣を手に戦場で敵を討った武人たちだ。針仕事など知るはずもなかったが、この数年は既製の衣さえ買えず、布を買って自分で仕立てるしかなかった。近所の老婆に教えを請い、次第に皆が覚えていった。武器すら持っていなかった彼らは、捕虜収容所から出てきた時、何一つ持ち合わせがなく、衣服さえ鞭打たれて布切れ同然だった。数年の歳月をかけ、今では自前の使い慣れた刀剑も手に入れた。情報収集の合間には、天方と清張の指導の下、深山で武芸の鍛錬を重ねた。彼らは砂漠に生える頑強な雑草のように、忠義の信念だけを糧に今日まで生き抜いてきた。六月十八日の月は空に懸かり
影森玄武は彼らを目にした瞬間、心臓が喉元まで飛び上がりそうになった。どこからこれほどの人数が現れたのか。しかも、その中には明らかに武芸の心得が浅い者もいる。鉄鉤と縄を使わなければ城壁も登れないほどだ。一体何者なのか。深夜に衛所に忍び込む目的は何なのか。もし彼らが物音を立てでもしたら、今夜の救出計画は水の泡となってしまう。玄武たちは暗がりに身を潜めていたが、城壁に沿って素早く近づいてくる彼らに声をかけることもできない。仕方あるまい。衛兵の交代も終わりに近づいている。一刻も早く潜入を開始せねばならない。天方十一郎たちも前方に潜む三人の気配を察知した。しかし、闇に紛れて黒装束に身を包んだ彼らの姿は、顔こそ隠していないものの、はっきりとは見分けられなかった。敵か味方か判断がつかないまま、その三人は燕のように身軽く、彼らの目指す方向へと瞬く間に消えていった。天方たちは一瞬呆然とした。まさか、自分たちと同じ救出の目的なのだろうか。だが、それはありえないはずだ。本営との連絡は途絶えているとはいえ、元帥が交代して親房甲虎となったことは知っている。親房甲虎といえば、天方にとっては義理の兄だ。武将の出でありながら、長らく戦場から遠ざかり、机上の空論を得意とする男。実力が皆無というわけではないが。ただ、彼は傲慢で自負心が強く、得失を天秤にかけるタイプの男だ。判断を迫られれば、必ず面倒な手段は避けて通る。交渉か救出か、となれば間違いなく前者を選ぶ。両方を試みるような真似はしないだろう。一息ついた天方は、手で潜入の合図を送った。衛所は広大で、十二棟の建物が立ち並ぶ。地牢は第十一棟と第十二棟の間にある独立した小屋の地下に設けられていた。その場所が厳重な警備下にあることは間違いない。各所で警備の交代が行われている中、彼らは東へ西へと身を隠しながら、何とか第十一棟まで辿り着いた。第十一棟の壁に身を寄せながら、そっと地牢入口の警備の様子を窺おうとした矢先、先ほどの三人も同じように壁際に潜んでいるのが見えた。そのうちの一人が首を伸ばして様子を窺っている。地牢に近いため、周囲には明かりが灯されていた。ただ、彼らの潜む場所は、折よく傍らの大木の影が落ちかかり、ほどよい暗がりとなっていた。とはいえ、先ほどよりは明るく、互いの姿も幾分か見分けられるよ
三つの黒い影が素早く飛び出していった。実のところ、好機など存在しなかった。小屋の周囲は灯りで照らされ、白昼のような明るさではないにせよ、物や人の動きは十分に見分けられた。とりわけ、百を超える目が見張る中、どれほど素早く、どれほど軽やかに動こうとも、最後には小屋の前に立って扉を破らねばならない。そして一旦地牢に入れば、まさに甕の中の鼈だ。玄武と皆無幹心は事前の偵察でその状況を把握していた。そのため、計画では皆無幹心と有田先生が見張りの注意を引き付け、玄武が地牢に潜入して囚人を救出。救出後は速やかに尾張拓磨に引き渡し、その後で玄武が戻って皆無幹心と有田先生の撤退を援護する手筈となっていた。今や天方十一郎たちが加わったことで、見張りを引き付ける戦力は更に増えた。影森玄武の姿が小屋の扉に向かって一直線に飛んだ。鉄製の扉は容易には破れないはずだが、玄武は黄金の太刀を手にしていた。二十八斤の重さを持ちながら、刃は鋼鉄さえも断ち切る鋭さを誇る名刀だ。真気を刀身に込めて数回斬りつけると、鉄扉の片側が裂け、蹴り開かれた。振り返ると、師匠が長刀を手に入口を守り、有田先生は既に多数の守備兵と戦いを交えていた。師匠のことは心配していない。ただ、有田先生の方が気がかりだった。武芸は特別優れているわけではないが、軽身功に長けている。敵を翻弄して疲れさせ、隙を突いて反撃するのが持ち味だが、それでも危険は否めない。最後にもう一度目をやると、天方十一郎たちも戦いに加わっていた。玄武はほっと胸を撫で下ろした。人数が増えれば、それだけ心強い。鉄扉を守り切ってくれれば、地牢からの救出も可能なはずだ。この衛所の地牢は、実質的には地下密室と地下道の複合施設だった。戦略的に建造されたこの場所は、両国の戦争が拡大し、羅刹国が劣勢に追い込まれた際の、主将の退避路や隠れ家として機能するよう設計されていた。しかし、玄武はこの地下道と密室の規模を見誤っていた。下層に降りると、地下道は複雑に入り組み、密室は優に百を超えていた。しかも一本道で続いている。衛所の規模を遥かに超えており、明らかに別の場所にまで掘り進められているようだった。それでも玄武は、血の匂いを手掛かりに、第三地下道の密室の一つで目的の人物を探し当てた。血の匂いに加え、この扉が他と異なっていたことも決
その日の昼下がり、浪牙山での会談で、親房甲虎の態度は異常なほど強硬だった。会談の前、天方許夫と斉藤鹿之佑は、ビクターの前で影森玄武の名を出すなと強く諫めていた。しかし親房は、彼らが北冥親王の元部下だったことから、単に玄武を庇おうとしているだけだと考え、表向きは同意しながらも、胸の内では別の思惑を巡らせていた。これまでの会談では、七瀬四郎と引き換えに金や米、絹織物などを提示してきたが、ビクターはいずれも拒否し続け、交渉は膠着状態が続いていた。今回、親房の忍耐は限界に達していた。七瀬四郎のためにすでに多くの譲歩を重ねてきた。銀五千両から一万両へ、米三千石、絹織物二千反と破格の条件を提示しても合意に至らないのは、相手の強欲以外の何物でもない。薩摩城の譲渡など論外だった。北冥親王の手で奪還した城を手放せば、世間の指弾は免れまい。この日の会談でも、米の量を五千石まで増やしたが、ビクターの返答は変わらなかった。「誠意が見えんな」親房は怒りに任せて机を叩きつけた。「これほどの譲歩をしているというのに、法外な要求ばかり。全く道理が通じん。そうまでいうなら、もはや話し合う余地もない」通訳を介してその言葉を聞いたビクターは、冷笑を浮かべた。「本当に交渉を打ち切るおつもりか?貴様らの密偵を見捨てるというのか?」「誠意がないのはそちらだ」親房は言い放った。「話し合う意思がないのなら、もう構わん。好きにするがいい。これは北冥親王の意向だ」天方許夫と斉藤鹿之佑は青ざめた。親王様の名を出すなと約束したはずではなかったか。「北冥親王?」その名は通訳を必要としなかった。ビクターの全身が緊張に震えた。「北冥親王が来ているのか?どこにいる?なぜ直接交渉に来ない?」ビクターの通訳がその言葉を伝えると、親房が口を開きかけたところで、斉藤鹿之佑が横から口を挟んだ。「実はこういうことでして。我らが北冥親王様より命を受けておりますが、ご本人は新婚間もないため、今は都を離れることができないのです」斉藤鹿之佑は羅刹国の言葉で話したため、通訳は必要なかった。その言葉の意味が分からない親房は、不審そうに鹿之佑を見つめた。「北冥親王は来ているな?」ビクターは疑わしげな目で斉藤鹿之佑を見据えた。斉藤鹿之佑は微笑みを浮かべながら答えた。「もし親王様がここにいらっしゃれば、
親房甲虎は二人の異様な様子に疑念を抱いた。交渉の采配は自分にある。もう話し合いは不要と宣言したのに、なぜ二人はビクターを必死に引き止めようとするのか。邪馬台奪還後に統帥を任された親房は、部下の将校たちからまだ十分な信頼を得られていない。この交渉でも采配を奪われれば、威厳に関わる。そんな事態は決して許せなかった。「お前たち二人、戻れ!」甲虎は厳しい声で命じた。そして通訳に言い付けた。「ビクターに伝えろ。誠意がないなら交渉は終わりだ。続けるというなら、私の提示した条件で話をしろ」通訳が伝え終わると、ビクターは親房甲虎の方を振り返った。その表情には苛立ちが見え、余裕があるようには見えなかった。しかし油断はできない。「城に戻る!」と命じた。斉藤鹿之佑と天方許夫は後を追い、必死でビクターを引き止めようとした。斉藤鹿之佑は深々と頭を下げながら懇願した。「ビクター元帥、親房元帥は七瀬四郎のことをご存じない。何の感情的な繋がりもないから、薩摩城と引き換えにする気がないのです。しかし我々にとって七瀬四郎は、共に戦った大切な戦友。どうか今しばらくお待ちください。親房元帥を説得してみます」「説得できるなら、とうの昔にしているはずだ」ビクターは冷ややかな目で睨みつけた。「それに、お前たちの影北冥親王も言っているではないか。薩摩城との交換に応じないのなら、話し合うことなどない」「いいえ、違います。わが親王様はすでに薩摩に向かっております。数日中には到着するはず。親王様は七瀬四郎を重んじておられます。親王様が来れば、必ず事態は好転するはずです」「北冥親王が来る、だと?」ビクターは斉藤鹿之佑の表情を逃すまいと見据えた。斉藤鹿之佑は日に焼けた顔に誠意を込めて頷いた。「はい、数日のうちには」一方、天方許夫は親房甲虎の元に戻り、謝罪の言葉を述べた。「元帥、どうかお静かに。確かに交渉打ち切りを決めましたが、あまりに性急な決定は後々批判を招きかねません。もう少し慎重に進めるべきではないでしょうか」親房甲虎は二人の様子に疑念を抱き、天方許夫を脇に呼んだ。「本当のことを話せ。北冥親王は今どこにいる?」天方許夫は真実を語れなかった。親王様の救出作戦は斉藤鹿之佑と自分にしか知らされておらず、親房元帥には伏せられていたのだ。恨みを買うわけにもいかず、天方許夫は慎重
斉藤鹿之佑と天方許夫は心中穏やかではなかった。これほど誠意のない交渉で、どうしてビクターを引き止められようか。今は只々、ビクターが戻る前に親王様が七瀬四郎を救出できることを祈るばかりだ。さもなければ、その結末は想像するだけでも戦慄する。一方、影森玄武は既に清張を救出し、外に飛び出したものの、そこでは激しい戦闘が繰り広げられていた。天方十一郎たちの数人が既に負傷していた。師匠がいるおかげで、今のところ劣勢には陥っていないが、敵の数が刻一刻と増えている。一刻も早く撤退せねばならない。玄武が飛び出すや否や、十数人の敵が襲いかかってきた。彼は身を翻し、稲妻のように飛び上がると、背負っていた人物を尾張拓磨に受け渡した。尾張拓磨はすぐさまその人を背負い、夜陰に紛れて素早く立ち去った。玄武は軽身功を駆使して戻った。一人を救い出しても、また何人かが捕らわれては、この救出作戦は失敗に終わる。金錯刀を手に、有田先生の傍まで飛び込んだ玄武は、一刀横に薙ぎ払い、雷のような勢いで有田先生を包囲する兵士たちを押し返した。皆無幹心は主力の武芸者たちと対峙していた。確かにビクターは多くの武芸者を連れて行ったが、それでも十数名の猛者が残されていた。人質が救出されたことを知った皆無幹心は、もはや鉄門を守る必要もないと判断し、全力で戦い始めた。師弟の連携は無敵と言えるほどだったが、敵の数が余りに多すぎた。師弟なら容易に脱出できるが、他の者たちにとっては難しい。そのため、一人ずつ包囲を突破させ、順次撤退させていくしかなかった。もはや時間的な余裕はない。ビクターの帰還も、近隣の駐屯軍の到着も懸念された。そのため玄武は容赦なく攻撃を繰り出した。黄金の太刀に真気を込め、旋風のような剣術で一刀で数人を薙ぎ払った。真気の消耗は激しかったが、敵を素早く押し返し、仲間たちの脱出の機会を作るためには、それも止むを得なかった。皆無幹心は玄武の決意を見て取り、自身も全力を出し切った。師弟の息の合った連携で、彼らを一歩一歩城壁の平台まで後退させていく。城壁は高く、天方十一郎はなんとか飛び越えられたものの、他の者たちは鉄鉤と縄を使って登らねばならず、その間に乱れ飛ぶ刃に斬られる危険が高かった。師弟は視線を交わし、皆無幹心が一人で敵を引き付ける間、玄武が一人ずつ外へ運び出すことに
三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果
家の恥を外に晒すまいという配慮など、香月にはもはやなかった。だがさくらの威厳の前に、涙をこらえながら、母や義姉、叔母たちと共に西平大名家の正庁へと入っていった。西平大名家側は、親房鉄将がまだ勤務中で不在。蒼月が女中たちを従えているだけで、これほどの大勢に対峙するのは初めての経験だった。夕美を呼びに人を走らせたが、さくらが来ていると聞いた夕美は、なおさら姿を見せようとしなかった。結局、事態を知った三姫子が、高熱を押して事態の収拾に現れた。さくらは三姫子の姿を見て胸が痛んだ。わずか数日の間に一回り痩せ、蝋のように黄ばんだ顔は血の気を失い、唇だけが熱に焼かれて赤く染まっていた。歩くにも人の手を借りねばならぬほど、弱々しい様子だった。普段から親しかった三姫子が楽章の義姉と知り、さらに親近感を覚えたさくらは、こんな状態で夕美の尻拭いをさせるのが忍びなく、「夕美さんが出てこられないのなら、老夫人にお願いしましょう。病人を立たせておくわけにはまいりません」と声を上げた。「申し訳ございません。母上も体調を崩されておりまして……」蒼月が答えた。香月は理不尽な要求をするつもりはなかった。ただ、これまで抑えてきた思いを、今ここで夕美にぶつけたかった。たった一つの質問に答えてもらえれば、それで良かった。目を真っ赤に腫らしながら、香月は切々と訴えた。「私は誰かを責めたいわけではございません。ただ夕美さんに一つだけお聞きしたい。あの日、薬王堂へ行かれたのは、意図的に夫を探されたのでしょうか、それとも本当に薬を買いに……ただそれだけを、正直にお答えいただきたいのです。もし本当に偶然の出会いだったのなら、私の思い過ごしとして謝罪いたします。夫が職を失い、天方総兵官様にまでご迷惑をおかけしたこと、すべて私の責任……私が家から追い出されても甘んじて受けます」その言葉には明確な意図が込められていた。この数日間、きっと一睡もできぬほど考え抜いた末の言葉なのだろう。香月の目は泣き腫らして赤く、涙の跡が生々しかった。その心の張り裂けそうな表情に、見ている者まで胸が締め付けられた。三姫子は香月の母・千代子の方を向き、疲れた声で言った。「千代子様、私たちも長年の知り合いです。お付き合いは浅くとも、私がどんな人間かはご存知のはず。率直に申し上げますが、この件で夕美に問いた
光世の妻が押しかけてきたのには、それなりの理由があった。まず、世間の噂が収まらないことだ。村松光世が薬王堂で薬材を管理していたことは広く知れ渡り、連日、患者ではない野次馬が押し寄せては罵声を浴びせる始末だった。薬王堂は患者すら入れない有様となり、ついに採薬から戻った丹治先生が自ら、村松光世の解雇を宣言せざるを得なくなった。もはや薬王堂とは無関係だと。もう一つの理由は、天方家の縁談だった。やっと見つけた娘を天方十一郎の母、村松裕子は気に入り、先方も同意していた。あとは十一郎の承諾を得て、生年月日を取り交わすばかりだった。ところが一件が発覚すると、先方は仲人を寄越し、縁談を白紙に戻すと言い出した。これまでの付き合いは、ただのお茶飲み話だったということにしたいと。激怒した裕子は実家に戻り、村松家の長老たちに裁定を仰いだ。長老たちは村松光世を呼び寄せ、痛烈に叱責した。従兄弟の情を踏みにじったことはまだしも、何年経っても尻の拭い方も知らぬ馬鹿者が、世間の笑い者になるどころか、村松家の面目を潰し、おまけに十一郎と天方家の名誉まで台無しにしたと。光世は薬王堂の職を失い、すでに癪に障っていたところへ、村松家の長老からの叱責で名誉も失墜し、怒りのあまり離縁を口にした。それが一時の感情に任せた言葉だったのか、本気だったのかは定かではない。だが、一度口に出したその言葉は、光世の妻・白雲香月の怒りに油を注ぐ結果となった。実家は六位官に過ぎず、大きな権勢はないものの、娘が侮辱されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。兄たちは即座に光世の元へ押しかけ、暴力を振るった後、女性親族を引き連れて夕美のもとへ向かった。香月が夕美を追及する理由は明確だった。あの日、夕美がわざわざ薬王堂まで出向いて光世に愚痴をこぼしたのは、計算づくの行動だと。下心があっての仕業だと確信していた。白雲家の一族は予想以上に大人数だった。叔母や伯母など十数人に、さらに下女や老女を加えた二、三十人が、浩々としたぞろぞろと西平大名邸へ押し寄せた。最初は騒ぎ立てることもなく、ただ夕美に出てきて香月と話をつけるよう要求した。だが夕美は恐れて姿を見せず、屋敷の奥に隠れたまま、早く別邸へ移っていれば良かったと後悔するばかり。三姫子は高熱で寝込み、老夫人は体調を崩しており、このような事
有田先生と道枝執事は持てる人脈を駆使して、この古い事件の調査を始めた。西平大名家の傍系の長老たちに話を聞くと、みな口を揃えて「あの子は火事で亡くなった」と言い、親房展夫妻が長く嘆き悲しんでいたという。明らかに真相を知らない者たちの証言で、陽雲が以前調べた時と同じく、表面的な情報に過ぎなかった。調査が進む一方で、北條守と親房夕美の離縁は円満に成立した。双方の同意を得て、争いもなく、持参金も返された。嫁入りの時は都中の注目を集めたというのに、今は目立たないようにと願うばかり。夕美は三姫子に、「将軍家が困窮しているのは承知している。大きな家具や寝具、箱は要らない。細々とした物と絹織物、装飾品だけで十分です」と伝え、ただし嫁資の不動産だけは真っ先に取り戻した。三姫子は自ら采配を振るわず、家の執事に任せきりだった。姑と夕美は三姫子に、光世の妻に会って誤解を解くよう懇願し、千金を用意するとまで言い出した。しかし三姫子も蒼月も反対した。千金で夕美の名誉を買い戻すなど、割に合わないと。この一件が片付いた途端、三姫子は病に倒れた。夜中に突然の高熱で意識が朦朧となり、急いで医者を呼んだ。診断によれば心火が強く、五臓が焦り、秋風に当たって冷えを引き、それが熱となったのだという。嫡子嫡女に庶子庶女まで、皆が看病に集まり、側室たちも次々と姿を見せた。庶子たちは雅君書院には通えなかったものの、三姫子は決して冷遇することなく、専任の乳母を付けて教育を施した。男児たちは同じく私塾で学んでいた。この結婚生活において、三姫子は持てる限りの心力を注ぎ込んだ。普通の人間ができること、できないことを問わず、すべてを成し遂げようとしてきた。西平大名老夫人は三姫子の病を知り、自分が追い詰めすぎたと後悔した。怒りに任せて夕美を叱りつけ、別邸で暮らすよう命じた。「甥や姪に迷惑をかけるな」と。夕美が当然のように騒ぎ立てると、老夫人は激怒し、平手打ちを食らわせた。「この不埒者め!三姫子がどれほどあんたのために尽くしてきたというのだ。いつまで家に迷惑をかけ続ける?あんたを育てたからといって、一生面倒を見なければならないとでも?」三姫子の病が重かったからこそ、老夫人も慈しみの心を見せたのだろう。それに、体面を重んじる老夫人にとって、娘が二度も実家に戻ってく
しかし青葉はその件について詳しくなかった。「親房展が爵位を継いでいないだって?師匠の調査が間違っていたということか?」「有田先生に聞けば分かるはずだ」玄武は即座に提案した。書斎に呼ばれた有田先生は、確かにその当時の事情を知っていた。諸侯の家系のことなら、三代前まではある程度把握しているのだ。まあ、ある程度だが。「親房展が爵位を継いだことは確かにございません」有田先生は丁寧に説明を始めた。「当時の大名様はご病気で、世子を定めていなかった。展様が戦功を立てて帰京された際、世子に推挙されましたが、その後、大名様の容態が回復に向かい、結局お元気になられた。そのため爵位継承は先送りになり……その後、何があったのかは存じませんが、大名様は突然、長孫の甲虎様を世孫に推挙なさった。そこには何か事情があったに違いありませんが、部外者には分かりません。私にも分かりません。恐らく西平大名家の長老方と、現在の老夫人様だけがご存じなのでしょう」この話は、突然謎めいたものとなった。親房展が爵位を継いでいないのなら、単に世子に封じられただけで楽章が家に福をもたらすと断言できたのだろうか。しかも楽章が生まれた年に世子となり、五歳で送り出されるまで爵位を継承していない。むしろ楽章は当時の大名様には利があったが、親房展にはさほど福をもたらしていないように聞こえる。確実に、この中に何か重要な謎が隠されている。そして恐らく、長老たちでさえ真相は知らないだろう。本当のことを知っているのは、現在の西平大名老夫人だけなのだ。「もう調べるのはやめましょう」さくらは静かに言った。「五郎師兄の判断に任せましょう。私たちは知っているだけでいい。どんな決断をしても、支持するだけです」確かにこれは楽章自身の問題だ。どうするかを決めるのは彼の権利であり、彼が心地よいと感じる方法で進めればいい。さくらは胸が痛んだ。実は以前、五郎師兄とはそれほど親しくなかった。その理由の一つは、彼の放蕩な性格で、いつも遊郭に入り浸っていたからだ。もう一つは、彼が何事にも不真面目で、何も真剣に捉えなかったこと。みんなで遊んでいる時も、両手を後ろに組んで傍観し、「子供じみてるな」と言い残して立ち去ってしまうのだ。さくらは今でも覚えている。梅月山に来て二年目の冬、後山で雪だるまを三つ作った。父と
深水青葉は残りの話を続けた。萌虎が追い出された後、妖術使いは彼が生きられまいと踏んでいた。死のうが生きようが、最後は狼の餌食となり、骨すら残らないだろうと。だが思いがけず菅原陽雲がその辺りを通りかかった。夜になって赤子のような弱々しい泣き声を耳にした陽雲は、何か妖怪に出会えるのではと興味を持ち、その声を頼りに進んでいった。しかし、萌虎を見つけた時の陽雲は落胆した。第一に、赤子ではなく五、六歳ほどの子供だった。第二に、妖怪でもなく、死にかけの病児だった。しかも、どれほどの間ここに放置されていたのか、片方の足の指はネズミに食いちぎられ、血を流していた。近くには毒蛇も出没していたが、萌虎があまりにも衰弱して動かなかったため、蛇も襲わなかったのだ。この子の福運の強さを疑う者があろうか。息も絶え絶えだったのに、陽雲に助けられ、数日間の重湯と二服の薬膳で、まるで奇跡のように命を取り戻した。都では名医たちが束手をこまねいていたというのに、たった二服の薬膳と数碗の重湯で回復したのだ。まさに不思議としか言いようがない。陽雲は眉をひそめた。痩せこけた猿のような男の子は、全身合わせても三両の肉もないだろう。しかも聞けば、もう六歳だという。三、四歳にしか見えない体つきの子供を育て上げるのは、並大抵の苦労ではないだろう。陽雲は最初、この子を元の場所に戻そうと考えた。だが、毒蛇に囲まれていた時でさえ叫び声一つ上げなかったことを思い出した。人として最も大切な胆力を持っているなら、引き取ってみるのも悪くはない。あとは運命次第だろう。五、六歳ともなれば、記憶は残る。師匠を信頼するようになった楽章は、自分の生い立ちを打ち明けた。陽雲が調査を命じ、真相が明らかになった。寺の火災で萌虎が死んだと西平大名家が思い込んだ後、陽雲は剣を携え、妖術使いを梅月山まで連れて行った。折しも秋晴れの良い季節で、陽雲は「干し肉作りには持って来いの天気だ」と言った。そして長い竿を立て、妖術使いを縛り付けた。舌は美味しくないからと、最初にそこだけ切り落とした。妖術使いがいつ息絶えたかは定かではない。ただ、三ヶ月後に下ろされた時、埋葬する価値もなく、むしろ筵を無駄にするのも、穴を掘って大地を穢すのも惜しいということで、狼の餌食にされた。しかし狼でさえ、冬を越
夕食後、さくらと玄武は青葉を書斎へと連れ込んだ。二人は左右から挟むように立ち、青葉が逃げ出せないよう、そのまま部屋の中へ押し込んだ。「なんと無作法な」塾の教師となった青葉は、学者らしい口調で嘆いた。「そんな乱暴な真似は」それでも結局、肘掛け椅子に座らされた青葉は、好奇心に満ちた目で見つめる師弟たちに向かい、少々むっとした様子で言った。「聞きたいことがあるなら、はっきり言うがいい」玄武が最初に切り出した。「一つ目の質問だが、五郎師兄が最近、西平大名邸の周辺を頻繁に訪れているのは、師叔か師匠の指示なのか?親房甲虎に何か動きでもあったのか?」さくらはより深刻な表情で続けた。「二つ目。今夜の五郎師兄の様子が気になるの。紫乃を見る目つきが普段と違うし、いつもみたいに反発しなくなった。何か心当たりはある?」青葉には一つの取り柄があった。話すべきことと、そうでないことの線引きが明確だったのだ。楽章の出自について、他人には隠すべきだろうが、親しい師弟に対して秘密にする必要はないと考えていた。師匠は早くから楽章の身の上を青葉に明かし、時折諭すように言っていた。人生は長いようで短い。いつ何が起こるか分からない。執着しすぎるのは良くないと。青葉も楽章にそう伝えたことがあった。だが楽章は、万華宗の皆が自分の家族だ、他人のことは気にならないと答えるだけだった。「楽章は親房甲虎と親房鉄将の末弟だ。親房夕美が姉で、三姫子夫人は兄嫁にあたる。最近、西平大名邸を頻繁に訪れているのは、おそらく屋敷で起きた騒動と関係があるのだろう。老夫人が病で寝込み、雪心丸が必要なのだ。楽章は雪心丸を持っているから、どうやって渡すか考えているのだろう」青葉の言葉に、玄武とさくらは目を丸くして言葉を失った。二人はありとあらゆる可能性を考えていたが、まさかこんな事実があったとは。さくらは両手を口に当てたまま、しばらくして下ろすと「どうやって万華宗に?お父様が送られたの?西平大名老夫人が実のお母様?どうして一度も会いに来なかったの?」と矢継ぎ早に尋ねた。「長い話だが、かいつまんで話そう」青葉は姿勢を正した。「父親の先代西平大名・親房展は道術に執着していた。楽章が生まれた時、戦功を立てて帰朝し、爵位を継いだ。満月の祝いの時に道士を招いて占いをしてもらったところ、楽章は両親に大
だが楽章は黙ったまま、ただ黙々と酒を飲み続けた。一壺を空けると、今度は紫乃の分まで奪おうとする。紫乃は彼が酔いすぎだと判断し、必死で守った。二人は都景楼の屋上で追いかけっこを始め、先ほどまでの重苦しい空気は、夜風と共に吹き散らされていった。紫乃は結局、この件をさくらに打ち明けなかった。約束はしていなかったものの、楽章が誰にも知られたくない胸の内を吐露したのだから、武家の誇りにかけても、軽々しく噂話にするわけにはいかなかった。しかし、ここ数日、楽章が西平大名邸の周辺を徘徊している姿が、御城番の目に留まっていた。村松碧がさくらに報告すると、さくらは不審に思った。五郎師兄は、あそこで何をしているのだろう?知り合いでもいるのだろうか。その夜の夕食時、さくらは尋ねてみた。「五郎師兄、最近何かお忙しいの?」楽章は顔を上げた。「別に。ぶらぶらしているだけだ」「西平大名邸の近くを?」楽章は紫乃を鋭く見つめた。紫乃は驚いて即座に弁明した。「私、何も言ってないわよ」さくらは二人の様子を窺った。一方は怒りを、もう一方は無実を主張する表情。まるで何か秘密を抱えているようだ。さらに問おうとした時、玄武が箸で料理を取り分けながら「さあ、食事にしよう」と促した。さくらは疑わしげに二人を見やった。二人は同時に俯いて食事を始め、箸を運ぶ動作まで同じように揃っていた。「ある夜のこと」深水青葉は悠然と言葉を紡いだ。「あの二人が都景楼で酒を酌み交わしていたのを見かけたよ。追いかけっこをしたかと思えば、悲鳴や笑い声が聞こえてきてね。実に賑やかなものだった」「あの日のこと?」さくらは驚いて二人を見た。「五郎師兄が『空を飛ぼう』って誘った日?」「騒いでなんかいないわ。悲鳴も上げてないし、はしゃぎもしてない。ただ私の酒を奪おうとしただけよ」紫乃は弁解した。「大師兄」楽章は青葉を睨みつけた。「どうしてそれを?私たちを尾行でもしたんですか?盗み聞きしてたんですか?」突然立ち上がり、声を荒げる。「なんてことを!人の後をつけるなんて!」「誰が尾行なんかするものか」青葉は怪訝な表情で楽章を見つめた。「そんな大きな騒ぎを立てておいて、下の者が気付かないとでも?それにしても随分と取り乱しているな。後ろめたいことでもあったのか?まさか二人は……」「やめろ!」楽章
楽章は黙したまま、酒壺を傾け、大きく喉を鳴らして飲み干した。それから夜光珠を丁寧に箱に収めた。光が消えると、三日月と星々だけが残された。紫乃は楽章がこんな身の上だったとは思いもよらなかった。さくらからも聞いたことがない。遊郭に入り浸って、芸者の唄を聴いたり、自ら笛を吹いて聴かせたり。そんな放蕩な振る舞いをする男が、まさか大名家の息子だったとは。楽章の沈黙の中、紫乃の頭には後宮争いの物語が浮かんでいた。父親に利をもたらした誕生なら、きっと溺愛されただろう。側室の息子が寵愛を受ければ、それは当然、正室とその子への挑戦となる。母親がどんな人物だったかは分からないが、手腕のある女性ではなかったのだろう。でなければ、楽章がこうして家に帰れない身となることもなかったはず。「西平大名家の老夫人が、お戻りになるのを許さないの?家督を争うことを恐れて?」紫乃は慎重に探りを入れた。「誰も、俺が生きていることを知らないんだ」楽章は空虚な笑みを浮かべた。「それでいい。親房家は表面は華やかだが、内部は危機だらけだ。俺の存在を知らない方が都合がいい。あの混乱に巻き込まれずに済む。ただ、都に戻って三姫子さんの苦労を知ってしまった以上、黙ってはいられない。家の当主の妻とはいえ、所詮は他家の人間だ。背負わされている責任が重すぎる」「じゃあ……三姫子夫人を助けたいの?」紫乃は彼の取り留めのない話を整理しようとした。「助けられない。だからこそ、気が滅入るんだ」「でも、どうやって助けるの?それに、お義母様だって、あなたを認めないでしょう。手を差し伸べれば、何か企んでいると警戒されるだけじゃない?」「大名家なんて、どうでもいい」楽章は冷たく言い放った。「欲しいものは何もない。ただ、三姫子さんが賢明なら、今のうちに逃げ道を作るべきだ。都に執着する必要なんてない。子どもたちを連れて、どこか安全な場所へ……俺たち武家ならそうする。でも、そんな助言を聞く耳を持たないだろうから、黙っているさ」「でも気になるわ」紫乃は首を傾げた。「親房夕美は、あなたの妹?それとも姉?少なくとも血のつながりはあるはずなのに、どうして心配しないの?」楽章は冷笑を浮かべた。「彼女は年上だ。私は末っ子さ。なぜ彼女のことに首を突っ込む必要がある?すべて自分で選んだ道だ。三姫子さんとは違う。彼女は巻