守は夕美を見つめながら、彼女が失った二人の侍女のことを思い出し、胸が締め付けられた。「沙布と喜咲のことは、申し訳ない。俺が守れなかった」「私はあなたの心の中で、どんな位置にいるのか聞いているの」夕美は拳を握りしめ、執着的に問いただした。「話をそらさないで」守は傍らの木に寄りかかり、深く息を吸って、先ほどの怒りを鎮めようとした。静かな声で言った。「話をそらすつもりはない。ただ......二人の死を深く悔やみ、惜しむばかりだ。お前が俺の心の中でどんな位置かと言えば、それは当然、正妻としての位置だ」「ただの正妻の位置だけなの?」夕美は諦めきれない様子で追及した。腫れぼったい目に涙が溜まっている。「私に少しの愛情もないの?一度も心が動いたことはなかったの?」その問いに守は一瞬言葉を失った。夕美を見つめながら口を開きかけた。本当は言いたかった。彼らの結婚は穂村夫人の取り持ちで、天皇の意向もあっての両家の縁組みだと。互いを敬い合える関係であれば十分なはずだと。しかし、今にも零れ落ちそうな夕美の涙を前に、その言葉を口にすることはできなかった。彼は親房夕美がこのような愛について問うとは、これまで一度も考えたことがなかった。夕美は彼が長い間何も言えずにいるのを見て、全てを悟ったかのように、悲しげな笑みを浮かべた。「つまり、愛情は微塵もなく、ただの夫婦の情だけなのね」守は苦しげな目で言った。「俺はお前の夫として、必ずお前を敬い、守る......」「刺客が沙布と喜咲を殺し、私を狙った時、あなたが命がけで守ってくれたのは、ただの責任から?」夕美は一歩後ずさり、目に深い悲しみの色を浮かべた。「ただそれだけなの?」「俺は......お前は俺の妻だ。守るのは当然のことだ」守は以前の上原さくらへの態度を思い出し、自信なさげにその言葉を口にした。清如は極限まで失望し、手で涙を拭いながら言った。「この家に嫁いでから、家事を切り盛りし、姑様に仕え、義妹を我慢し、あの醜く邪悪な平妻さえも耐えてきた。なのに今、あなたは私への愛情など微塵もないと仰る。それなのに、どうして私があなたにここまで尽くす価値があるというの?」守は答えようがなく、ただ茫然と彼女を見つめ、しばらくしてようやく尋ねた。「では、俺にどうしろと?」「どうしろですって?よくもそんなことを」夕美
さくらには分かっていた。夜間に武器を携帯し、しかも将軍家への刺客の襲撃を事前に知っていたことは、必ず天皇の疑念を招くだろうと。たとえ玄甲軍の副将とはいえ、それは名目上の職に過ぎず、夜間に武器を携帯して外出することは許されない。まして刺客の動向を知っているなど、なおさらだ。陛下は彼女が密偵を配置していることを疑うだろう。そして彼女を疑うということは、北冥親王家を疑うということになる。さくらは目を上げ、率直に言った。「陛下、上原家が一族の惨禍を経験したことはご存知かと存じます。潤くんが戻って参りましてから、妾は日夜、彼に不測の事態が降りかかることを案じておりました。そのため、姉弟子に依頼し、京に入る怪しい者たちを見張る者を何人か配置させていただきました。果たして先日、数名の者が京に入り、万丸旅館に投宿いたしました。彼らは武芸の心得が深く、宿に籠もったまま外出もせず、何かを企んでいるように見受けられました。潤を狙っているのではと懸念し、密かに監視を続けておりました」「その夜、彼らが夜忍びの装束姿で万丸旅館の二階から飛び降り、親王家ではなく青雀通りへ向かうように見えました。その付近には穂村宰相や左大臣の邸もございますゆえ、朝廷の重臣を狙うのではと危惧し、すぐさま追跡いたしました。しかし思いがけず、彼らは青雀通りではなく将軍家へと向かったのです」清和天皇はその説明を聞き、笑みを浮かべながらも鋭い眼差しを失わなかった。「お前と将軍家との確執を考えれば、なぜ進んで救いの手を差し伸べたのだ?」「人命が関わることでございます。また、妾と将軍家の間に生死を分けるほどの深い怨みがあるわけでもございません。そして何より、臣は玄甲軍の副将。見殺しにすることなどできません」天皇は軽く頷いた。「うむ、その説明も理にかなっておる。だが、あの夜の刺客が葉月琴音を狙っていたことは知っておったか?」「その時は存じませんでした。妾が刺客の手足の筋を切った後、北條剛様が彼らを縛り上げ、その時、山田鉄男殿も禁衛を率いて到着されましたので、妾はその場を離れました」天皇はゆっくりと溜息をついた。「そうか。残念ながら刺客は皆死んでしまい、誰の差し金かを問いただすことはできなくなってしまった。お前が彼らと戦った際、何か手掛かりは掴めなかったか?」さくらは少し考えてから首を振った
羅刹国の辺境の城は、戦後ずっと重兵が配備されていた。特に今は大和国との交渉において、人質と薩摩城との交換を持ちかけているため、人質を収容する牢獄には特別な重兵が配置されていた。影森玄武たちは辺境の城に潜入して数日が経ち、ようやく七瀬四郎が収容されている場所を突き止めた。辺境を守る衛所であり、鉄壁の要塞だった。高い城壁の内側にある牢獄の構造も、今では細部まで把握できていた。彼らは親房甲虎が定めた五日の期限を知らなかった。明日が、その五日目の最後の日となる。玄武は明日、ビクターが親房甲虎と再び交渉を行うことを知っていた。五日の期限こそ知らなかったものの、親房甲虎が自分の命令に従わず、今回の交渉を引き延ばさないだろうと察していた。玄武は決断を下した。明日、ビクターが浪牙山での交渉に向かう際に、救出作戦を実行する。ビクターの周りには多くの武芸者がいたが、浪牙山での交渉に向かう際には、必ずやその大半を随行させるはずだ。邪馬台の戦場で長く戦い、北冥軍に敗れた彼は、北冥軍に対して本能的な恐れと憎しみを抱いているのだから。浪牙山での交渉で、もし親房甲虎が即座に拒否すれば、ビクターは長居せず、明晩には戻ってくるだろう。ここは親房甲虎が交渉の場で時間を稼げるかどうかにかかっている。もし曖昧な態度を示して引き延ばすことができれば、ビクターを引き留めて交渉を続けさせることができる。そうすれば、ビクターは少なくとも明後日まで戻って来ないはずだ。そうなれば、救出のための時間は十分となる。有田先生は救出作戦を立案した。一人が外で支援を待機し、三人で突入して救出を行う。外での待機役は尾張拓磨が務め、時刻は今夜の酉の刻、衛兵の交代時間に定められた。三人とも武芸に長けているとはいえ、鉄壁の城壁を突破し、地下牢まで潜入して救出を行うのは、相当な困難が予想された。しかし、これまでに玄武と師匠が夜陰に紛れて数回の偵察を行っており、地下牢には到達できなかったものの、地形をほぼ把握し、警備の状況も掴んでいた。勝算は十分にあった。一方、辺境の城近くのベル川沿いの木造の小屋では、十人の男たちが集まっていた。彼らは髭面で、周辺の漁民と同じような服装をしており、粗野な黒い肌をしていた。彼らは低い机を囲んで床に座り、机の上には一枚の図面が広げられていた。この図面
六月十八日の夕暮れ、十人の男たちは粗末な椀を掲げていた。椀の中身は冷たい水だった。この数年、彼らは茶も酒も一滴も口にしていなかった。茶葉はこの辺境では贅沢品で、彼らには手が出なかった。濁り酒は安価ではあったが、一滴たりとも口にする勇気はなかった。一時の酒の勢いで、言ってはならないことを口走れば、それこそ命はないも同然だったからだ。彼らが唯一酒を買ったのは、上原元帥と六人の若き将軍たちの戦死を知った時だった。地面に酒を注ぎ、元帥の御霊を弔った。その夜、布団の中で一晩中涙を流し続けた。しかし悲しみに浸れる時間は一晩だけ。翌日には涙を拭い、再び命懸けの任務に身を投じねばならなかった。邪馬台はまだ奪還されていなかったのだから。その後、邪馬台は奪還され、ビクターは軍を率いてこの地に退き、守備についた。もはや邪馬台への情報伝達は不可能となり、国境の往来も極めて困難になった。以前は糧食や商品を運ぶ隊列に紛れて薩摩へ情報を送っていたが、今はその必要もなく、外に出ることすらままならない。そのため邪馬台奪還後は、どうやって脱出するかばかりを考え、東奔西走していた末に、清張が捕らえられてしまった。清張は捕縛後、おそらく厳しい拷問を受けただろうが、最後まで仲間のことは明かさなかった。さもなければ、羅刹国の兵士たちはとうに彼らを見つけ出していたはずだ。清張の鉄のような意志と不屈の精神を思えば、彼らにも恐れることなどなかった。藁草履を脱ぎ捨て、十人が揃って身を屈め、新しく作った布靴を履いた。ぼろ布同然の衣服を脱ぎ、夜忍びの装束に着替えた。この十着の装束は、黒布を買って自分たちで縫い上げたものだった。かつては刀剣を手に戦場で敵を討った武人たちだ。針仕事など知るはずもなかったが、この数年は既製の衣さえ買えず、布を買って自分で仕立てるしかなかった。近所の老婆に教えを請い、次第に皆が覚えていった。武器すら持っていなかった彼らは、捕虜収容所から出てきた時、何一つ持ち合わせがなく、衣服さえ鞭打たれて布切れ同然だった。数年の歳月をかけ、今では自前の使い慣れた刀剑も手に入れた。情報収集の合間には、天方と清張の指導の下、深山で武芸の鍛錬を重ねた。彼らは砂漠に生える頑強な雑草のように、忠義の信念だけを糧に今日まで生き抜いてきた。六月十八日の月は空に懸かり
影森玄武は彼らを目にした瞬間、心臓が喉元まで飛び上がりそうになった。どこからこれほどの人数が現れたのか。しかも、その中には明らかに武芸の心得が浅い者もいる。鉄鉤と縄を使わなければ城壁も登れないほどだ。一体何者なのか。深夜に衛所に忍び込む目的は何なのか。もし彼らが物音を立てでもしたら、今夜の救出計画は水の泡となってしまう。玄武たちは暗がりに身を潜めていたが、城壁に沿って素早く近づいてくる彼らに声をかけることもできない。仕方あるまい。衛兵の交代も終わりに近づいている。一刻も早く潜入を開始せねばならない。天方十一郎たちも前方に潜む三人の気配を察知した。しかし、闇に紛れて黒装束に身を包んだ彼らの姿は、顔こそ隠していないものの、はっきりとは見分けられなかった。敵か味方か判断がつかないまま、その三人は燕のように身軽く、彼らの目指す方向へと瞬く間に消えていった。天方たちは一瞬呆然とした。まさか、自分たちと同じ救出の目的なのだろうか。だが、それはありえないはずだ。本営との連絡は途絶えているとはいえ、元帥が交代して親房甲虎となったことは知っている。親房甲虎といえば、天方にとっては義理の兄だ。武将の出でありながら、長らく戦場から遠ざかり、机上の空論を得意とする男。実力が皆無というわけではないが。ただ、彼は傲慢で自負心が強く、得失を天秤にかけるタイプの男だ。判断を迫られれば、必ず面倒な手段は避けて通る。交渉か救出か、となれば間違いなく前者を選ぶ。両方を試みるような真似はしないだろう。一息ついた天方は、手で潜入の合図を送った。衛所は広大で、十二棟の建物が立ち並ぶ。地牢は第十一棟と第十二棟の間にある独立した小屋の地下に設けられていた。その場所が厳重な警備下にあることは間違いない。各所で警備の交代が行われている中、彼らは東へ西へと身を隠しながら、何とか第十一棟まで辿り着いた。第十一棟の壁に身を寄せながら、そっと地牢入口の警備の様子を窺おうとした矢先、先ほどの三人も同じように壁際に潜んでいるのが見えた。そのうちの一人が首を伸ばして様子を窺っている。地牢に近いため、周囲には明かりが灯されていた。ただ、彼らの潜む場所は、折よく傍らの大木の影が落ちかかり、ほどよい暗がりとなっていた。とはいえ、先ほどよりは明るく、互いの姿も幾分か見分けられるよ
三つの黒い影が素早く飛び出していった。実のところ、好機など存在しなかった。小屋の周囲は灯りで照らされ、白昼のような明るさではないにせよ、物や人の動きは十分に見分けられた。とりわけ、百を超える目が見張る中、どれほど素早く、どれほど軽やかに動こうとも、最後には小屋の前に立って扉を破らねばならない。そして一旦地牢に入れば、まさに甕の中の鼈だ。玄武と皆無幹心は事前の偵察でその状況を把握していた。そのため、計画では皆無幹心と有田先生が見張りの注意を引き付け、玄武が地牢に潜入して囚人を救出。救出後は速やかに尾張拓磨に引き渡し、その後で玄武が戻って皆無幹心と有田先生の撤退を援護する手筈となっていた。今や天方十一郎たちが加わったことで、見張りを引き付ける戦力は更に増えた。影森玄武の姿が小屋の扉に向かって一直線に飛んだ。鉄製の扉は容易には破れないはずだが、玄武は黄金の太刀を手にしていた。二十八斤の重さを持ちながら、刃は鋼鉄さえも断ち切る鋭さを誇る名刀だ。真気を刀身に込めて数回斬りつけると、鉄扉の片側が裂け、蹴り開かれた。振り返ると、師匠が長刀を手に入口を守り、有田先生は既に多数の守備兵と戦いを交えていた。師匠のことは心配していない。ただ、有田先生の方が気がかりだった。武芸は特別優れているわけではないが、軽身功に長けている。敵を翻弄して疲れさせ、隙を突いて反撃するのが持ち味だが、それでも危険は否めない。最後にもう一度目をやると、天方十一郎たちも戦いに加わっていた。玄武はほっと胸を撫で下ろした。人数が増えれば、それだけ心強い。鉄扉を守り切ってくれれば、地牢からの救出も可能なはずだ。この衛所の地牢は、実質的には地下密室と地下道の複合施設だった。戦略的に建造されたこの場所は、両国の戦争が拡大し、羅刹国が劣勢に追い込まれた際の、主将の退避路や隠れ家として機能するよう設計されていた。しかし、玄武はこの地下道と密室の規模を見誤っていた。下層に降りると、地下道は複雑に入り組み、密室は優に百を超えていた。しかも一本道で続いている。衛所の規模を遥かに超えており、明らかに別の場所にまで掘り進められているようだった。それでも玄武は、血の匂いを手掛かりに、第三地下道の密室の一つで目的の人物を探し当てた。血の匂いに加え、この扉が他と異なっていたことも決
その日の昼下がり、浪牙山での会談で、親房甲虎の態度は異常なほど強硬だった。会談の前、天方許夫と斉藤鹿之佑は、ビクターの前で影森玄武の名を出すなと強く諫めていた。しかし親房は、彼らが北冥親王の元部下だったことから、単に玄武を庇おうとしているだけだと考え、表向きは同意しながらも、胸の内では別の思惑を巡らせていた。これまでの会談では、七瀬四郎と引き換えに金や米、絹織物などを提示してきたが、ビクターはいずれも拒否し続け、交渉は膠着状態が続いていた。今回、親房の忍耐は限界に達していた。七瀬四郎のためにすでに多くの譲歩を重ねてきた。銀五千両から一万両へ、米三千石、絹織物二千反と破格の条件を提示しても合意に至らないのは、相手の強欲以外の何物でもない。薩摩城の譲渡など論外だった。北冥親王の手で奪還した城を手放せば、世間の指弾は免れまい。この日の会談でも、米の量を五千石まで増やしたが、ビクターの返答は変わらなかった。「誠意が見えんな」親房は怒りに任せて机を叩きつけた。「これほどの譲歩をしているというのに、法外な要求ばかり。全く道理が通じん。そうまでいうなら、もはや話し合う余地もない」通訳を介してその言葉を聞いたビクターは、冷笑を浮かべた。「本当に交渉を打ち切るおつもりか?貴様らの密偵を見捨てるというのか?」「誠意がないのはそちらだ」親房は言い放った。「話し合う意思がないのなら、もう構わん。好きにするがいい。これは北冥親王の意向だ」天方許夫と斉藤鹿之佑は青ざめた。親王様の名を出すなと約束したはずではなかったか。「北冥親王?」その名は通訳を必要としなかった。ビクターの全身が緊張に震えた。「北冥親王が来ているのか?どこにいる?なぜ直接交渉に来ない?」ビクターの通訳がその言葉を伝えると、親房が口を開きかけたところで、斉藤鹿之佑が横から口を挟んだ。「実はこういうことでして。我らが北冥親王様より命を受けておりますが、ご本人は新婚間もないため、今は都を離れることができないのです」斉藤鹿之佑は羅刹国の言葉で話したため、通訳は必要なかった。その言葉の意味が分からない親房は、不審そうに鹿之佑を見つめた。「北冥親王は来ているな?」ビクターは疑わしげな目で斉藤鹿之佑を見据えた。斉藤鹿之佑は微笑みを浮かべながら答えた。「もし親王様がここにいらっしゃれば、
親房甲虎は二人の異様な様子に疑念を抱いた。交渉の采配は自分にある。もう話し合いは不要と宣言したのに、なぜ二人はビクターを必死に引き止めようとするのか。邪馬台奪還後に統帥を任された親房は、部下の将校たちからまだ十分な信頼を得られていない。この交渉でも采配を奪われれば、威厳に関わる。そんな事態は決して許せなかった。「お前たち二人、戻れ!」甲虎は厳しい声で命じた。そして通訳に言い付けた。「ビクターに伝えろ。誠意がないなら交渉は終わりだ。続けるというなら、私の提示した条件で話をしろ」通訳が伝え終わると、ビクターは親房甲虎の方を振り返った。その表情には苛立ちが見え、余裕があるようには見えなかった。しかし油断はできない。「城に戻る!」と命じた。斉藤鹿之佑と天方許夫は後を追い、必死でビクターを引き止めようとした。斉藤鹿之佑は深々と頭を下げながら懇願した。「ビクター元帥、親房元帥は七瀬四郎のことをご存じない。何の感情的な繋がりもないから、薩摩城と引き換えにする気がないのです。しかし我々にとって七瀬四郎は、共に戦った大切な戦友。どうか今しばらくお待ちください。親房元帥を説得してみます」「説得できるなら、とうの昔にしているはずだ」ビクターは冷ややかな目で睨みつけた。「それに、お前たちの影北冥親王も言っているではないか。薩摩城との交換に応じないのなら、話し合うことなどない」「いいえ、違います。わが親王様はすでに薩摩に向かっております。数日中には到着するはず。親王様は七瀬四郎を重んじておられます。親王様が来れば、必ず事態は好転するはずです」「北冥親王が来る、だと?」ビクターは斉藤鹿之佑の表情を逃すまいと見据えた。斉藤鹿之佑は日に焼けた顔に誠意を込めて頷いた。「はい、数日のうちには」一方、天方許夫は親房甲虎の元に戻り、謝罪の言葉を述べた。「元帥、どうかお静かに。確かに交渉打ち切りを決めましたが、あまりに性急な決定は後々批判を招きかねません。もう少し慎重に進めるべきではないでしょうか」親房甲虎は二人の様子に疑念を抱き、天方許夫を脇に呼んだ。「本当のことを話せ。北冥親王は今どこにいる?」天方許夫は真実を語れなかった。親王様の救出作戦は斉藤鹿之佑と自分にしか知らされておらず、親房元帥には伏せられていたのだ。恨みを買うわけにもいかず、天方許夫は慎重
さくらが立ち去ると、虎鉄も後に続いた。虎鉄は口が軽い男だった。今日、上原さくらと北條守の間で交わされた葉月琴音による民間人虐殺の件は、既に公になっていた事実ではあったが。しかし、この事件には佐藤大将が関わっていた。虎鉄は佐藤大将の無実を知っていた。当時、佐藤大将は致命的な重傷を負い、死の淵をさまよっていたのだ。和約に署名したのが葉月琴音だったのも、なるほど納得がいった。佐藤大将の無念を感じた虎鉄は、衛士の衛所に戻るやいなや、この件について話し始めた。衛士で上原洋平大将と佐藤大将を敬慕していない者などいるはずもない。虎鉄の話を聞いた者たちの間で、佐藤大将への同情の声が広がっていった。もちろん、衛士が正式に異議を申し立てることはできなかったが、噂は自然と外へと広がっていった。これこそがさくらの第一手だった。まずは外祖父への民衆の信頼と尊敬を固め、さらには都の武官たちからの支持を得る。物事を徐々に進めていく上で、これらは不可欠な要素だった。幸いなことに、かつての関ヶ原での大勝利の際、陛下は北條守と葉月琴音を重用し、若い武将たちの忠誠心を育もうとしていた。そのため、葉月琴音に大功を与え、外祖父や叔父たちへの褒賞は控えめなものに留められていた。元帥を飛び越えて配下の武将を抜擢するという前例がなかったわけではない。さくらの父もそうして出世したのだが、父の場合は確かな軍功があってのことで、葉月琴音のような偽りの功績とは全く異なるものだった。葉月琴音が投獄されると、刑部での審問が始まった。これは当然ながら密かに行われたが、陛下は北條守と樋口信也を立ち会わせることを命じた。樋口信也は皇太子の侍衛長として、清和天皇が皇太子であった頃から仕えており、密かに配下も育てていた。しかし陛下は、それらの配下を表に出すことは決して許さなかった。一度表に出れば、手駒がすべて露見することになるからだ。清和天皇が皇太子であった頃は、先帝の意向に忠実に従って行動していた。樋口もまた目立った行動は控えていたため、陛下の即位後、多くの者が樋口の存在すら忘れていた。しかし最近、彼の動きが活発化している。陛下は彼を御前侍衛輔に任命し、北條守の配下に置いた。これは絶妙な采配で、北條守を樋口の盾として利用する陛下の保護策であった。今回の刑部での審問に北條守と樋口を立
北條守は回想に浸りながら話し始めた。「鹿背田城の穀倉を焼く計画は、私が提案しました。当時、平安京軍は連戦連敗で、撤退の気配を見せていました。佐藤六郎殿は言いました。平安京との戦いは長年こうだった、小規模な衝突は絶えないが、大規模戦になれば互いに抑制的になる。だから平安京が退くと、我々も警戒を緩める。しかし平安京は突如、猛烈な攻勢に出た。佐藤大将が負傷したのも、その戦いでした......」「違うわ」さくらは再び彼の言葉を遮った。「あなたが関ヶ原に着任した直後、私の叔父は戦乱で片腕を失った。当時から戦況は激しかったはず。それに、もし両軍が抑制的な戦いを続けていたのなら、援軍など必要なかったはずよ」「確かに、通常は抑制的な戦いでした」北條守は説明を続けた。「突如として戦況が激化したのは、スーランジーが前線から退き、弟のスーランキーが戦場指揮を執ったからです。彼は兄とは違い、凶暴で勇猛な将でした。兄の戦術を一変させ、一気に我々を押し返して新たな境界線を引こうとしたのです」「当時、邪馬台での戦いが緊迫し、関ヶ原から兵を抽出せざるを得なかった。スーランキーはその隙を突いた。だからこそ陛下は私に援軍を率いるよう命じられた。これらは記録で確認できます」さくらはそれらの事実を承知していた。北條守を見据えながら問う。「では、平安京軍が退くと思われた時、スーランジーが戦場指揮に戻っていたのかしら?」「はい」北條守は、大将軍らと共に陣営で協議した記憶を辿った。「当時、叔父......佐藤六郎将軍は、スーランジーの戦術はいつもこうだと言いました。大規模な戦闘は避け、多くの死傷者も出したくない。我々も一歩も譲らない姿勢でしたから、互いに損失もなく、このまま対峙していれば良いと。しかし、後にスーランジーが突如としてスーランキーと交代し、彼らは猛攻を仕掛けてきた。我々は完全に不意を突かれました」さくらは彼の話を聞きながら分析を進めていた。スーランキーが戦場を仕切っていた時期は、おそらくスーランジーが平安京の皇太子の出陣を止めるため戻ったのだろう。当時、平安京の皇帝は重病に臥していた。そんな時期に皇太子が朝廷の安定を図らず戦場に赴くのは、極めて危険だった。だがスーランジーが離れると、臨時元帥となったスーランキーは猛烈な進撃を開始した。その後、スーランジーが戻り、平
さくらの前でこのような侮辱を受け、夕美は顔を赤らめながら激怒した。「その口の利き方を改めなさい。衛士統領になったからって調子に乗らないで。その統領の座だって、結局は女に従うしかないんでしょう?」夕美は虎鉄の高慢な性格を知っていた。以前、上原さくらに従うことを潔しとしなかったことも知っている。故意にさくらの前で二人の不和を掻き立て、虎鉄を辱めようとしたのだ。しかし、夕美の理解は表面的なものに過ぎなかった。沢村紫乃を師と仰いでから、虎鉄は師の武術を目の当たりにしていた。さらに、師が梅月山での出来事を何度も語るのを聞き、さくらに全く太刀打ちできなかった話を聞かされていた。それに加えて、自身もさくらと手合わせをしたことで、かつての傲慢さがいかに滑稽なものだったかを知っていた。虎鉄はせせら笑い、皮肉めいた口調で言った。「衛士統領になれば、それは偉いさ。お前に務まるものなら、やってみろよ。女性には無理だなんて言うな。ほら、上原殿だってお前の夫を指揮していたじゃないか。今じゃ俺の上官だ。俺の実力は大したことないから、従うのは当然だ。だがお前はどうだ?女性に従うのが何か恥ずかしいとでも?どの家だって奥方の采配の下にあるもんだ。それとも、お前には北條守すら束ねられないってことか?」夕美は顔を青ざめさせた。虎鉄との言い争いには勝てないと悟りながらも、まだ放心状態の北條守に向かって怒鳴った。「何をぼんやりしているの?告げ口されているのに、一言も弁解しないつもり?」北條守はさくらを見つめ、「私は......」「少し、お話してもよろしいでしょうか」さくらが彼の言葉を遮って尋ねた。北條守は顔を僅かに蒼白にしながら頷いた。「はい、別室へご案内いたします」「二人きりで?」夕美は身構えた。「ここで話せない理由でも?私に聞かせられないことでも?」さくらは夕美を見据えた。「あなたには聞かせられませんが、親房虎鉄には同席してもらいます」二人きりではないと聞いて、夕美はやや安堵した。少なくとも私的な話ではないという証だった。将軍家の別室は、もはやさくらが知っていた頃の面影はなかった。かつてここには彼女の持参した調度品が置かれ、高価な木材で精巧な彫刻が施されていた。今では普通の家具ばかりで、屏風にさえ亀裂が入っていた。別室に入ると、虎鉄はなおも言い立てた
両手を後ろに組まれて立ち上がらされた琴音の顔には、地面の小石で擦り傷がつき、血が滲んでいた。まず北條守に一瞥を投げかけ、その目には深い失望の色が宿っていた。それからさくらを恨めしげに睨みつけた。さくらの着ている官服は、琴音が夢見続けたものだった。しかし、それに触れる機会すら与えられなかったのだ。さくらは鞭を巻き取り、琴音の前に立った。二つの目が向き合う。一方には怨毒が、もう一方には露骨な憎しみが宿っていた。ついにさくらは琴音への憎しみを隠すことをやめた。両親の位牌の前でさえ、その感情を抑え込んでいた。両親や兄夫婦の御霊に、憎しみで歪んだ自分の姿を見せたくなかったのだ。しかし今日、ついに清算の時が来た。心の中の憎しみはもはや抑えられない。琴音は彼女の家族を殺し、祖父までも巻き込んだ。この仇は決して許せない。そのような深い憎しみの前では、琴音の嫉妬や無念さは余りにも薄っぺらく、一瞬の睨み合いで、その気迫は完全に押しつぶされた。琴音は目を逸らし、北條守を見つめた。今度こそ、純粋な救いを求める眼差しだった。守の胸中は言いようのない複雑さに満ちていた。先ほど、意図的に親房虎鉄の制止を受け入れたのは、実は虎鉄を制していたのだ。琴音が守を人質に取っても意味はない。しかし、刑部大輔を人質にすれば、刑部の役人たちは全員退かざるを得なくなる。彼は琴音の意図を読み取っていた。二人の間には今でも阿吽の呼吸が残っている。関ヶ原での一年間、二人は鹿背田城の任務だけでなく、それ以前から共に戦ってきた。この暗黙の了解は、当時の心の通い合いから生まれたものだ。鹿背田城の穀倉を焼く任務の前、琴音は彼に尋ねた。もし彼女が危険な目に遭い、命の危機に瀕したら、どうするのかと。その時、彼は答えた。自分の命を犠牲にしてでも、どんな代価を払ってでも彼女を救うと。先ほど琴音に問われた時、彼の心は揺れた。それでも、その約束は守るつもりだった。たとえ官位を失い、罪に問われることになろうとも。さくらの出現に、北條守は顔向けできない思いに駆られた。琴音との約束は、今でも守ろうとしている。だが、なぜ当時、さくらとの約束は守れなかったのか。一瞬にして、様々な感情が胸中を渦巻いた。足の痛みで我に返り、彼を強く踏みつけた親房虎鉄をじっと見つめた。虎鉄は怒りに満ちた表情
北條守は慌ただしく将軍家に戻った。周防からの使者の報せを聞いた時から、胸が締め付けられる思いだった。葉月琴音の性格をあまりにも知り尽くしている。矛盾した性格の持ち主で、強がりながらも死を恐れ、行き詰まっても必ず抗おうとする。今回も、おとなしく投降するとは思えなかった。そして今や、二人の間に情は残っていない。生き延びるため、琴音が何をするか、予測もつかない。この時期、彼女は都を離れたがっていた。しかし、安寧館を出れば暗殺者が待ち構えているのではと恐れていた。あの暗殺未遂は、彼女を本当に震え上がらせたのだ。おそらく、事が起きた時の対処法を何度も考えていたのだろう。だからこそ、平安京の使者が来ることを告げなかった。彼女が準備を整えることを警戒してのことだ。吉祥居に着くと、琴音が自らの喉元に剣を当てているのが目に入った。胸が沈んだ。「葉月琴音、剣を下ろせ!」琴音の目が凍てついたように冷たく光り、その視線が剣のように彼を射抜いた。歯を噛みしめるように言う。「北條守!」親房虎鉄も二名の衛士を連れて到着し、すぐさま北條守を制止した。「近づき過ぎないように」北條守は複雑な眼差しで虎鉄を見た。何を懸念しているのか、分かっていた。「葉月、周防殿と共に刑部へ行くんだ」虎鉄を挟んで北條守は諭すように言った。「余計なことはするな。調べるべきことは協力して明らかにすれば良い。刑部も無理な取り調べはしない」「馬鹿な!」琴音の目が炎のように燃えた。「無理な取り調べをしないなら、なぜ将軍家に置いておけないの?北條守、一つだけ聞かせて。今のあなたには、私への情など微塵も残っていないということ?」北條守は居心地の悪そうな表情を浮かべた。「それは俺たち二人の問題だ。まずは刑部の職務に従ってくれ」琴音は冷笑を浮かべた。「従う?いいでしょう。こちらへ来て、あなたの手で私を捕らえて。御前侍衛副将なんでしょう?」北條守は動かない。琴音の目の中の怒りが徐々に消え、深い悲しみだけが残った。声も虚ろだ。「北條守、私たち一緒に関ヶ原の戦場を駆けて、生死を共にしたわね。鹿背田城に向かう時、あなたが私に何を言ったか、覚えてる?」その言葉に、守の瞳孔が収縮した。思わず頷く。「覚えている」「覚えていてくれて良かった」琴音の目に涙が光った。「刑部についていくわ。将
刑部大輔が自ら将軍邸に赴き、葉月琴音の逃亡を防ぐため、まず屋敷を包囲した。この事態に親房夕美は震え上がり、文月館に身を隠して外に出られなかった。葉月の逮捕が目的と知って、やっと姿を見せた。騒ぎが起きた時点で、琴音は察していた。安寧館の廊下に立ち、剣を構える。冷たい風が彼女の半ば毀れた顔を撫でていく。死のような静寂が漂っていた。安寧館に踏み込んできた役人たちを見つめ、剣を優雅に舞わせ、先頭の役人に向けた。「葉月琴音、おとなしく投降しろ!」安寧館の外から、刑部大輔の周防光長が怒鳴った。「北條守は?」琴音は冷ややかに問うた。北條守の復職は知っていた。天皇の側近として、すべてを知っていたはずなのに、一度も戻って来て教えてはくれなかった。周防は彼女の問いには答えず、厳しい声で言った。「抵抗しない方がいい。しても無駄だ。将軍邸は完全に包囲されている」しかし琴音は自らの喉元に剣を当て、不気味な冷笑を浮かべた。「北條守を呼べ!」夕美は彼女が投降を拒むのを見て、将軍家に累が及ぶことを懸念し、慌てて叫んだ。「葉月、馬鹿なことはやめて!」琴音は夕美など眼中にない様子で、相変わらず冷たい声で周防に言い放った。「北條守を呼べと言っている。聞きたいことがある。どのみち死ぬのなら、早く死んだ方が苦しまずに済む」周防は眉をひそめた。今、葉月琴音を死なせるわけにはいかない。平安京使者の怒りを受け止めさせねばならない。死ぬにしても、使者の目の前でなければ。「葉月、お前は死んで楽になれるかもしれんが、両親や親族を巻き込むことになるぞ。軽挙妄動は慎むがいい」「両親?親族?」琴音は嘲笑的に冷笑した。「私のことなど、彼らは一度でも気にかけてくれましたか?世間の噂を気にして、さっさと都を離れた。私という娘の存在すら認めない彼らの生死など、どうでもいい」「それでも将軍家に累を及ぼすことはできないでしょう!」夕美は怒りを露わにした。琴音は夕美を、まるで泥を見るような目で睨んだ。「将軍家なんて、私の道連れになればいい」夕美は怒りで指先を震わせながらも、安寧館に踏み込む勇気はなかった。「なんて悪意に満ちた......」琴音は横たえた剣が既に喉元の皮膚を破り、血が滲んでいるのもかまわず、冷たく声を上げた。「くだらない。北條守を連れて来い」周防は眉
清和天皇と朝廷の面々に残された選択肢は二つ。一つは、虐殺の事実を完全に否認すること。もう一つは、これまで事態を知らなかったと装い、国書受領後に平安京の調査に協力し、然るべき者を処罰する。後の祭りとはいえ、国の名誉を挽回する機会にはなる。国書には境界線の問題には触れられていなかった。この件は熟慮の上での行動を要する。天皇は大臣たちと三日間に渡って協議を重ねた。第一の選択肢は論外だった。平安京は正式な国書で告発してきた以上、十分な証拠を握っているはずだ。加えて、平安京国内での世論工作も長期に及び、両国の国境では既に騒動が広がっている。責任逃れをすれば、即座に開戦となるだろう。となれば第二の選択肢しかない。責めを負うべき者には、相応の処分を下さねばならない。決断を下した後、清和天皇は穂村宰相と暫し目を交わした。他の者たちは沈黙を保ち、誰も口を開こうとしない。この事態に対処するには、佐藤大将を召還して責任を問わねばならないからだ。しかし、佐藤大将は生涯を戦場で過ごしてきた。文利天皇の治世から反乱の平定や盗賊の討伐に従事し、邪馬台の戦場を踏み、野心的な遊牧民族を撃退し、最後は関ヶ原の守備についた。これほどの年月、佐藤家の息子たちも戦場を転々とし、幾人が命を落としたことか。二月十九日は、この老将の古稀の祝いの日だ。この年齢にして未だ辺境を守る武将は、大和国の建国以来、彼一人のみである。誰が召還を言い出せようか。清和天皇は最後に玄武に視線を向けた。「北冥親王よ、かつて邪馬台の元帥であった汝は、この件をどう処理すべきと考える?」一同は驚きを隠せなかった。なぜ北冥親王に問うのか?北冥親王妃は佐藤大将の孫娘である。彼から召還と問責の進言があれば、夫婦の不和を招くではないか。清家本宗は背筋が凍る思いがした。夫人の逆鱗に触れた際の様々な結末が脳裏をよぎり、同情心が溢れ出て、一歩前に進み出た。「陛下、臣は佐藤大将を召還して事態の調査を行い、関ヶ原の指揮権は一時的に養子の佐藤八郎に委ねることを提案いたします」兵部大臣である彼への諮問は、本来なら宰相の後であるべきだった。両者からの提案が最も適切なはずなのだ。天皇は清家本宗を一瞥した後、「他に異論はあるか?」と問うた。しばしの沈黙の後、次々と大臣たちが「臣も同意見でございます」と声を
二日後、深水青葉が水無月清湖からの伝書鳩の便りを携えて玄武を訪ねた。表情は険しい。「平安京の皇帝が使者を大和国に派遣すると。国書も間もなく到着するそうです」玄武の表情が暗くなった。来るべきものが、ついに来たか。正月も明けぬうちに、清和天皇は御前侍衛を玄甲軍から独立させ、上原さくらの管轄外とすることを宣言した。御前侍衛副将には相変わらず北條守が任命された。北條守には信じられない思いだった。あの日、淡嶋親王家の萬木執事との出会いを思い返し、まさか本当に親王家の助力があったのではと胸中で思案を巡らせた。しかし、もし本当に淡嶋親王家の手が働いているのなら、この復職には危険が潜んでいるはずだ。相談できる相手もなく、帰宅して親房夕美に話すと、彼女は言った。「相手が何を企んでいようと、元の職に戻れるなら良いじゃありませんか?しかも今は上原さくらの指揮下にもない。これ以上の好条件はないでしょう」北條守は眉間に深い皺を寄せた。「いや、駄目だ。何か陰謀がある可能性が高い。陛下にお話ししなければ」夕美は信じられないという表情で夫を見つめた。「正気ですか?そんなことを陛下にお話しして、お怒りを買えば職を失うことになります。そうなれば、一生出世の道は断たれる。御前侍衛副将どころか、普通の禁衛にさえなれなくなってしまいます」北條守は黙り込んだ。同じ不安を抱いていた。「言わないで。私の言う通りにして。淡嶋親王家があなたを助けるのは、あの時上原さくらとの離縁を止められなかった後ろめたさから......」北條守は首を振り、妻の言葉を遮った。「それはおかしい。仮に淡嶋親王妃に後ろめたさがあるとしても、それは上原さくらに対してであって、俺に対してのはずがない。俺こそ、上原さくらに対して申し訳が立たないのだ」「あなたって本当に......」夕美は目を丸くして怒りを爆発させた。「もういいわ。彼らがどんな思惑を持っているにせよ、淡嶋親王には野心がないのは確かです。謀反など考えてもいない。あなたを復職させたのは、何かあった時にあなたの力を借りたいからでしょう」「それもおかしい。私の職を守れるほどの力があるということは、これまでの臆病で控えめな態度が演技だったということになる」「そんなことを気にする必要があるの?自分のことだけ考えなさい。御前侍衛副将の職を望んで
守は無相の深い瞳に潜む陰謀の色を見て、背筋が凍った。大長公主の謀反事件さえ決着していないというのに、もう天皇の側近を手駒にしようというのか?淡嶋親王は本当に臆病なのか?一体何を企んでいるのか?自分の器量は分かっている。二枚舌を使うような真似は到底できない。特に天皇の側近として......そんなことをすれば、首が十個あっても足りまい。ほとんど反射的に立ち上がり、深々と一礼する。「萬木殿、申し訳ございませんが、家に用事が......これで失礼させていただきます」言い終わるや否や、踵を返して足早に立ち去った。無相は北條守の背を呆然と見送りながら、次第に表情を引き締めていった。自分の目を疑わずにはいられなかった。まさか、この男には少しの大志もないというのか?御前侍衛副将という地位が何を意味するか、本当に分かっているのだろうか?天皇の腹心として、朝廷の二位大臣よりも強い影響力を持ち得る立場なのだ。野心がないはずはない。接触する前に徹底的に調査したはずだ。将軍家の名を輝かせることは、彼の悲願のはずだった。一族の執念とも言えるものだ。三年もの服喪期間を甘んじて受け入れるなど、あり得ないはずだ。それとも......既に誰かが先手を打ったのか?服喪の上申書が留め置かれていることは、ある程度知れ渡っている。先回りされていても不思議ではない。だが、ここ最近も監視は続けていた。年が明けてからは、禁衛府の武術場以外にほとんど足を運んでいない。喪中という事情もあり、人との付き合いもなく、西平大名家を除けば訪問者もいなかったはずだ。西平大名家か?しかし、それも考えにくい。親房甲虎は邪馬台にいる。親房鉄将は役立たず。残りは婦女子ばかり。どうやって北條守を助けられるというのか?無相は考え込んだ。おそらく、北條守は淡嶋親王家の力量を信用していないのだろう。無理もない。この数年、淡嶋親王は縮こまった亀以下の有様だったのだから。とはいえ、燕良親王家の身分を表に出すわけにもいかない。大長公主が手なずけていた大臣たちも、今となっては一人として頼りにならない。全員が尻込みしている状態だ。ため息が漏れる。以前から燕良親王に進言していたのだ。大長公主の人脈は徐々に吸収し、彼女だけに握らせるべきではないと。しかし燕良親王は、大長公主が疑われることはないと過信し続けた。そ