Share

第8話

Author: 錦松
藤堂なつみは依然として助手席に座ったままだった。

自分はもう十分に感情が麻痺していると思っていたが、この瞬間、再び胸の奥が鋭く痛むのを感じた。

まるで心の奥深くを何かが少しずつかじり続けているようだった。

なつみはふと、ずっと昔のある出来事を思い出した。

それは、彼女が藤堂家に戻って間もない頃のことだった。

あの日、雨が降っていたことを、今でもはっきりと覚えている。

母親が学校から彼女と真央を迎えに来て、一緒に車で家に向かっていた。

だがその途中で、車は交通事故に遭った。

事故自体はそれほど深刻ではなかったが、後方の車を避けようとした運転手がハンドルを切り損ね、道路脇の植え込みに突っ込んでしまった。

その時、なつみは頭を窓ガラスにぶつけて意識を失った。

だが、意識が遠のいていくその瞬間でさえ、彼女ははっきりと見た。

母親が自分を避けて、泣きながら真央を抱きしめる姿を。

その瞬間、なつみは初めて気づいた。

彼らが自分を「見つけ出した」理由は、ただ彼女が彼らの血を引いているからに過ぎないということを。

だが、彼らにとって本当に大切なのは、真央だけだったのだ。

その事実を理解したなつみは、自分に無理を言い聞かせて、その出来事を忘れるように努めた。

そのことを思い出すたびに、彼女はただ傷つくだけだから。

しかし、今またその記憶が蘇ってくる。

ただし今回、真央を抱きしめているのは母親ではなく、自分の夫だった。

どれだけ時間が経ったのかわからないが、なつみはようやく車を降りた。

その時、空には雷鳴が轟いていた。

——土砂降りの雨が一気に降り始めた。

なつみは足を早めたが、陽一が車を停めた場所から屋敷の玄関までは少し距離があり、結局全身がずぶ濡れになった。

屋敷の上階には灯りが点いているのが見える。

一つは真央の部屋、もう一つは陽一の書斎だろう。

彼は、彼女がまだ屋内に入っていないことすら気づいていないのだろう。

なつみはしばらくその場に立ち尽くし、それを確信してからようやく足を動かし始めた。

ずぶ濡れの身体を引きずるようにして、階段を上っていく。

その途上で、彼女の携帯電話が突然光を放った。

画面には知らない番号が表示されている。

なつみはその番号をじっと見つめながら、ふとある人物を思い浮かべた。

そして、その番号に出るべきかどうか迷っていたが、結局、相手側から通話が切れてしまった。

なぜか、画面が再び暗くなる瞬間、なつみはほっと胸を撫でおろす自分に気づいた。

だが、すぐに同じ番号から再び電話がかかってきた。

なつみはその相手が誰かを知っていた。

だから、今回は迷わず電話を取った。

「なっちゃん」

その声と呼び名を聞いたのは、本当に久しぶりだった。

そのせいか、一瞬、彼女は意識がぼんやりと揺れるような感覚を覚えた。

「俺だよ」

彼は言った。

「西川悠人だ」

「そっか」

なつみは静かに答えた。

「西川さん、帰国したの?」

「いや、まだだよ」

彼は向こうで軽く笑った。

「でも、もうすぐだ。明後日のフライトを予約したんだけど、時間ある?迎えに来てくれる?」

なつみは黙り込んだ。

「無理か?」

悠人はすぐに彼女の反応を察した。

「大丈夫だよ。自分で帰れるから。

ただ......こんなに長い間会えなかったし、やっと帰国する決心をしたから、最初に会いたいのは君なんだ」

「私、結婚したの」

なつみは突然そう言った。

「知ってるよ」

悠人は驚いた様子もなく、穏やかに答えた。

「速水家の坊ちゃんだろう?

速水グループは有名だからね。社長が結婚したなんて......海外にいても噂くらい耳にするさ」

なつみはそれ以上何も言わなかった。

悠人も少しの間沈黙し、それから静かに尋ねた。

「なっちゃん、君は今幸せなのかい?」

Related chapters

  • 揺らめく陽炎   第9話

    「君は今幸せなのかい?」なつみは、こんな問いかけを最後に聞いたのがいつだったか、全く思い出せなかった。いや、それどころか、自分自身に「幸せか」と問いかけたことすら、もうとっくに忘れてしまっていた。答えは明白だった。だが、彼女は迷いもなくこう答えた。「ええ、とても」「そうか......それならよかった」悠人は静かにそう言った。だが、それからしばらく、会話は途切れたままだった。「特に用がないなら、そろそろ切るわよ?」なつみが言った。「わかった」悠人は快く同意したように聞こえた。だが、なつみが電話を切ろうとしたその瞬間、彼が急に言い足した。「当時、何も言わずに去ってしまって、本当にすまなかった。でも、この数年、海外でずっと君のことを思ってたんだ。......もう遅いから、早く休んでね」それだけ言うと、彼は電話を切った。なつみはしばらく携帯を握りしめたまま、階段の上で立ち尽くしていた。そしてようやく重い足を動かし、自分の部屋へと戻った。その夜、陽一が彼女を訪ねることは一度もなかった。だが、それでもなつみはほとんど眠れなかった。きっと、悠人からの電話が原因だろう。その夜、彼女は長い夢を見た。夢の中で、彼女は藤堂家に戻ったばかりの頃にまた戻っていた。藤堂家の両親は、彼女を迎えるために盛大な歓迎会を開いた。だが、宴会に集まった人々の中で、本当に彼女を歓迎している者はほとんどいなかった。社交界の同世代たちは、彼女が田舎から来たと笑い者にしていた。「キャビアが何かも知らない」という嘲笑が、まるで耳に突き刺さるようだった。宴会場の最上階には、大きなプールがあった。田舎者の彼女が泳げるのか試すと言い出した数人が、彼女をプールのそばまで連れて行き、無理やり突き落とした。水が鼻や口、そして胸に流れ込んでくる時の窒息感を、なつみは今でも鮮明に覚えている。その瞬間、彼女は目を覚ました。見慣れているようで、どこか異質な環境に、彼女は一瞬困惑した。しばらくして、ここが雪見別荘——陽一と住んでいる家だと思い出した。夢の中の全ては消え去り、現実に戻った。時計を見ると、普段起きる時間までまだ1時間以上あったが、もう眠れそうにはなかった。ベッドに横たわりながらぼんやりと

  • 揺らめく陽炎   第10話

    なつみの性格は、外から見るといつも堅苦しくて無口だと思われがちだった。多くの場合、彼女が感情を表に出すことはほとんどなかった。だが今、彼女はまるで崖っぷちに追い詰められた一匹の小さな野獣のようだった。従順な毛を伏せていた彼女が、今は鋭い爪を見せて威嚇しているように見えた。しかし、そんな彼女の抵抗など、陽一には全く通じなかった。彼は一言も返すことなく、彼女をベッドから引き上げた。そのまま、手際よく服を着替えさせ始めた。なつみは彼を押しのけようとしたが、二人の力の差は歴然としていた。結局、彼に引きずられる形で階下へと連れ出された。「若旦那様、若奥様......」階下にいた和江が驚いた様子で声を掛けた。この光景を目にした彼女は、一瞬動きを止めた。なつみは、和江の姿を目にすると、すぐに感情を押し殺し、抵抗することをやめた。ただ、陽一に連れられ、そのまま屋敷の外へと連れ出されていった。車が走り出し、しばらくしてから、なつみはようやく冷静さを取り戻した。深く息を吸い込んでから、隣に座る陽一を見た。「病院には行かなくてもいいわ。お母さんには私が直接説明するから。あなた、仕事が忙しいんでしょう?私を送り返る必要もない。途中のどこかで降ろしてちょうだい」車内は静まり返っていた。二人きりの空間で、陽一が耳が聞こえないはずはない。だが彼は何の返答もせず、車を走らせ続けた。結婚して2年以上が経つが、なつみは目の前のこの男の性格をよく理解しているつもりだった。彼の態度から察するに、これは相談ではない。まぎれもなく命令だ。陽一はすべてを分かっているはずだ。なつみが妊娠に対してなぜこんなにも拒絶反応を示すのか。なぜ、子どもの話題になると性格が変わるのか。だが、分かっていても関係ない。彼はそれを全く気にしていなかったのだ。彼にとって、結婚して子どもを持つことは当然の義務でしかない。妻である彼女は、その義務を果たすべき存在なのだ。かつて、なつみは期待を抱いたこともあった。陽一が彼女を愛していないことは分かっていたが、それでも子どもがいれば何かが変わるのではないかと思った。子どもがいれば、自分にも「家族」と呼べるものができるのではないかと。だが、そのささやかな願いすらも叶わな

  • 揺らめく陽炎   第11話

    さすがに経験豊富な漢方医も、彼女の言葉を聞いた瞬間、少し驚いた表情を浮かべた。というのも、彼のもとを訪れる人々は、ほとんどが子どもを授かりたいと願う者ばかりだった。ところが、なつみは避妊薬を飲んでいると言ったのだ。医師は思わず陽一の方へ視線を向けた。陽一も明らかにこのことを知らなかったようで、額に皺を寄せて不快感を露わにしていた。それでも医師はすぐに冷静さを取り戻し、一呼吸おいてから言葉を続けた。「では、これからはその薬をおやめください。まずは体調を整えるための薬を処方しますので、それを続けて飲んでください」なつみはそれ以上何も言わなかったが、医師が薬の処方箋を手渡した時には、すぐに手を伸ばして受け取った。「ありがとうございます」そう一言だけ残し、なつみは一度も振り返らずに診察室を出て行った。陽一も黙ったまま、彼女の後について診察室を後にした。なつみは、陽一が自分のことになど関心を持っていないと思い込んでおり、病院を出た後は自分でタクシーを捕まえるつもりでいた。だが、陽一はすぐに彼女の腕を軽くつかんだ。「車に乗れ」その声は冷たく、視線も同様だった。「いいえ、自分でタクシーを捕まえる」「なつみ、俺は車に乗れと言ったのだ」陽一の顔色はますます険しくなり、病院の入り口で押し問答を続けるのは公共の場としては適切ではないと、なつみもようやく気づいた。周囲を少し見渡した後、彼女はしぶしぶ車のドアを開けた。だが、まだシートベルトを締め終わらないうちに、陽一は突然アクセルを踏み込んだ。その急な動きに、なつみの体が前方に投げ出されそうになった。なつみは唇をきつく結び、なんとかシートベルトを締め終えると、険しい表情で陽一を見つめた。「送る気がないなら、今ここで降りてもいいわ」「どうして避妊薬を飲んでいる?」陽一は彼女の言葉を無視し、ストレートに問いかけた。その質問はまるで小学生でも分かるような単純なものだった。だが、なつみは冷静に答えた。「妊娠したくないからよ」陽一はようやく彼女の方を向いた。今回は、なつみも視線を逸らさずに彼をじっと見返した。ちょうど信号が赤に変わり、陽一は車を止めた。時間が一秒一秒と過ぎていく中で、陽一は何も言わなかったが、その握りしめたハ

  • 揺らめく陽炎   第12話

    陽一は結局、なつみを雪見別荘まで送り届けることはしなかった。自分の言いたいことを全て伝え終えると、適当な交差点で車を止め、なつみを降ろした。なつみがまだ足元をしっかりと整える前に、陽一はアクセルを踏み込み、黒いポルシェは彼女の横を疾走していった。一切の躊躇もなく。なつみはもう慣れていた。だが、手は自然と拳を作り、指先が掌に食い込んだ。その感覚は軽い痛みを伴わせた。——それは、彼女自身への警告。もう彼に対して、どんな幻想も抱くな、と。外に出たついでに、なつみは気晴らしに街をぶらぶらと歩くことにした。だが、彼女の運はあまり良くなかった。商業施設に入った途端、彼女は向こうからやってきた人物とぶつかってしまった。「まあ、これはこれは。速水社長の奥様じゃないですか?」結城麻由がにこやかに笑いながら話しかけてきた。「珍しいですね。あなたって、まるで人間味がない人みたいだから、街なんて歩かないと思ってましたよ」真央の親友第一号として知られる麻由は、この界隈でなつみと事あるごとに張り合うことを楽しんでいる人物だった。他の人々がなつみと陽一が結婚した後、少なからず彼女に対して慎重な態度を取るようになった一方で、麻由だけは嫌がらせをエスカレートさせていた。というのも、彼女にとって速水社長の「奥様」というポジションは、本来であれば親友の真央が手にするものだと信じていたからだ。その時も、なつみは麻由に構う気はなく、無言で前を通り過ぎようとした。しかし、麻由がまた彼女の行く手を遮った。「どこへ行くんですか?一人みたいだし、一緒にどうですか?」なつみは無表情のまま彼女を見た。「ごめんなさい、都合が悪いです」「どうして都合が悪いんですか?もしかして誰かと約束していて、私に知られると困りますか?......浮気相手?」なつみはふと問いかけた。「結城さん、学校に通ったことはありますか?」「何ですって?当然あるに決まっているでしょう!」「だったら、デマを流すにはコストと代償が必要だってことくらい知ってるはずよね。何の根拠もなく他人のことをでっち上げるなんて、ご両親や先生からそう教育されたんですか?」なつみの言葉は淡々としていたが、その視線は終始麻由をまっすぐに見据えていた。その態

  • 揺らめく陽炎   第13話

    結城麻由が言い終わると、なつみは不意に軽く笑った。その反応を見て、麻由の笑顔は一瞬で消え、眉間に皺を寄せた。「何がおかしいの?」「結城さん、暇があればもっと本を読んだ方がいいですよ」 なつみは淡々と言い放った。「そうしないと、教養がないだけならまだしも、言うことすべてが笑いものになってしまいます。ほんとうに......馬鹿で性格も悪いなんて、残念ですね」 先ほどまでのなつみは少し皮肉を隠していたかもしれないが、今回の発言は完全に麻由を正面から非難するものだった。麻由の顔色は一瞬で険しくなり、怒りがその表情に溢れた。なつみが彼女の横を通り抜けようとしたその時、麻由は突然なつみの髪を掴んだ。「田舎者のくせに、よくも私に説教なんてできるわね! 自分の立場を考えなさいよ! 速水社長の奥様になったからって、偉くなったとでも思っているの!?」麻由が話している途中で、なつみは振り返り、彼女の頬に平手打ちを見舞った。その動きは潔く、躊躇が全くなかった。麻由は最初驚いたように固まったが、すぐに叫び声を上げてなつみに向かって飛びかかった。その間に何が起こったのかは、はっきりとは分からない。おそらく、真央が麻由を止めようとした際、逆に麻由に押されてしまったのかもしれない。あるいは、真央自身がタイミングを見計らって、意図的に近くのガラスケースにぶつかったのか。いずれにせよ、周囲から悲鳴が上がったときには、真央はすでに地面に倒れていた。彼女は腕を上げ、その腕から鮮血が流れ落ちていた。真央はなつみを見上げ、涙を浮かべて言った。「お姉ちゃん......痛いよ......」......「なつみ!」焦り切った声が廊下の端から響いてきた時、なつみは一瞬動きを止めた。彼女が立ち上がる間もなく、藤堂夫人が彼女の前に駆け寄ってきた。「真央はどうなっているの?大丈夫なの?」「ママ......」真央の声がすぐ後ろから聞こえたため、藤堂夫人はなつみに返事を求めることもなく振り返った。そして真央の腕に巻かれた包帯や、服に染み込んだ血を見た瞬間、藤堂夫人の顔色は一変した。「どうしてこんなことになったの?痛まないの?」「先生がもう縫合してくれたから、大丈夫だよ。あんまり痛くないの」

  • 揺らめく陽炎   第14話

    「お姉ちゃん!」真央は駆け寄ると、なつみの手をぎゅっと掴んだ。「お姉ちゃん、怒ってるよね?ママは悪気があったわけじゃないの。全部私が悪いの。私が不注意だっただけで......」「でも大丈夫。私、ちゃんとお姉ちゃんの家を出ていくから。もう迷惑はかけないし、義兄さんの邪魔もしないから......」「うん、それがいいわ」なつみはあっさりと答えた。その瞬間、隣で見ていた藤堂夫人の眉がピクリと動き、真央の瞳には明らかに驚きの色が浮かんだ。「じゃあ、私はもう行くね」なつみは二人の反応を全く気にすることなく、掴まれた手をするりと振りほどいて、その場を立ち去った。その背中を見送りながら、真央は泣きそうな声で叫んだ。「ママ、どうしよう......お姉ちゃん、きっと私のことが大嫌いなんだ......」その言葉を聞いた瞬間、なつみは心の中で一瞬振り返り、「その通り、私はあんたが嫌いだ」と言い放ちたい衝動に駆られた。しかし、その思いをすぐに断ち切った。というのも、そんなことを言えば、藤堂夫人から平手打ちを食らう未来が目に見えていたからだ。実際、過去にも同じようなことは何度も経験している。なつみはかつて疑問に思ったことがある。自分こそが実の娘なのに、なぜ両親は真央ばかりを贔屓にするのか、と。だが、今ではその理由に気づいていた。自分が田舎で過ごした過去は、両親にとって恥ずべきものだったのだ。あの黒ずんだ肌と野暮ったい見た目は、彼らにとって到底受け入れられるものではなく、そんな自分が彼らの娘であるという事実が苦痛だった。彼らにとって「娘」とは、真央のように上品で、教養があり、誰からも好かれる存在でなければならなかったのだ。一方で、自分は完全に「失敗作」とみなされていた。なつみが家に戻ると、まだ和江に指示を出す前に、藤堂家から人が来て、真央の荷物を持ち帰りたいと言ってきた。なつみはもちろん、止めることはなかった。一方で、和江は何度も驚いた声を上げた。「どうしたんですか?真央お嬢様はここでちゃんと暮らしていたのに、どうして急に引っ越すことになったんですか?」だが、その問いかけに対して、荷物を運ぶ者たちからの返答は一切なかった。結局、彼女はなつみの方を見たが、なつみはすでに自分の部屋に戻って

  • 揺らめく陽炎   第15話

    なつみは突然の侵入に驚き、反射的に手を伸ばして服を引き寄せ、身にまとった。そして、眉をひそめながら入ってきた人物を睨むように見た。陽一の表情もまた険しく、決して穏やかではなかった。二人はそのまま沈黙のまま視線を交わし続けた。その光景は夫婦というよりも、まるで敵対する者同士のようだった。「用がないなら出て行って。寝るつもりだから」最終的に先に口を開いたのはなつみだった。しかし意外にも、陽一は彼女に怒りを爆発させることなく、すぐに背を向け、あっさりと言った。「明日のお昼、時間を空けておけ」なつみは思わず尋ね返した。「何をするの?」だが、陽一は彼女の問いには答えなかった。なつみは彼の背中をじっと見つめた。「もし真央に謝れって言うなら、私は行かない」その言葉に、今度は陽一の足音がピタリと止まった。彼のその反応は、なつみの推測が正しいことをはっきりと示していた。なつみは手をぎゅっと握りしめた。「真央はお前の妹だ」陽一は無表情のまま淡々と言った。「妹なんかじゃない。それに、彼女は自分で転んだのよ。私は何も悪くないのに、どうして謝らなきゃならないの?」「じゃあ、なつみは何か正しいことをしたのか?」陽一は冷たく笑った。「人前で喧嘩をすることか?自分の立場を少しはわきまえたらどうだ?」「私の立場?」なつみも笑い返した。「どうせ田舎から引き取られた野良みたいな存在でしょ? 確かにその通りよ。私は田舎で10年も暮らして、粗野で教養のない人間になった。あなたたちが望むような、上品でおしとやかな女性にはなれないわ」「だから速水社長、後悔してるんでしょ? だって、あなたの子どもに、こんな粗野な母親はふさわしくないもの」その言葉を聞いた瞬間、陽一の目には冷たい光が宿った。「どういう意味だ?」「そのままの意味よ」なつみはまっすぐ陽一を見つめた。「とにかく、謝るつもりはない。もし私が恥ずかしい存在だと思うなら、どうぞ......」「藤堂なつみ、よく考えてから話せ」陽一は彼女の言葉を遮るように言い放った。彼女を見るその目はさらに冷たさを増していた。なつみは一瞬、自分の言葉の選び方を間違えたことに気付いたが、それでも手をぎゅっと握りしめたままだった。陽一

  • 揺らめく陽炎   第16話

    その離婚協議書は、結局なつみによって再び引き出しに戻された。翌日、彼女は陽一を待つことなく、自ら車を運転して藤堂家へ向かった。藤堂家は桐山市の市街地と郊外の境界に位置する高級住宅地で、まさに一等地だった。なつみが車を停めた瞬間、すぐに一人の使用人が彼女に気づいた。だが、その使用人は彼女を出迎えることなく、急いで屋敷の中へと戻っていった。なつみはそれを気にする素振りも見せず、静かに車から降りた。出発する前に、謝罪のためにといくつかの贈り物を用意してきていた。謝罪には、それなりの形が必要だと考えていたからだ。「なつみ様がお越しです!」なつみが屋敷に入った瞬間、先ほど通報に駆け込んでいた使用人が笑顔で迎え入れた。なつみは軽く頷き、そのまま中に入った。「お姉ちゃん!」藤堂真央が階段を降りてきた。白いワンピースに身を包み、肩に落ちる黒髪とその清純な顔立ちが相まって、思わず目を引く美しさだった。真央は「お姉ちゃん」と呼びかけながらも、その視線はなつみの背後を探しているようだった。なつみが一人だけだと分かると、真央の瞳には一瞬驚きの色が浮かんだ。「あれ、お姉ちゃん、一人で運転してここに来たの?」「そうよ」なつみは静かに頷くと、真央の手元に視線を移した。「怪我の具合はどう?」「もう大丈夫......」真央は表情を抑えながら答え、すぐに話題を変えた。「ママは二階にいるわ。まだちょっと怒ってるみたいだけど、お姉ちゃん、会いに行く?」「分かった」なつみは驚くほどあっさりと答えた。その反応に真央は少し面食らった表情を浮かべたが、何も言う間もなく、なつみは彼女の横を通り過ぎて二階へ向かった。藤堂夫人は二階のフラワールームで生け花をしていた。なつみが「お母さん」と声をかけると、夫人は軽く鼻を鳴らすだけだった。「ちょっとしたものを持ってきました。下に置いてあります」なつみは夫人の冷たい態度に動じることなく、淡々と言葉を続けた。「昨日の件は私が感情的になりすぎました。ただ、実際に何が起きたのかはっきり分からなかったので、ショッピングセンターに監視カメラの映像を依頼しておきました」ちょうどなつみの後ろについて部屋に入ってきた真央は、その言葉を聞いた途端、顔色を変えた。「お姉

Latest chapter

  • 揺らめく陽炎   第40話

    藤堂夫人の言葉が終わると、なつみは突然何も言わなくなった。もともと狭い空間が、彼女の突然の沈黙によってさらに重苦しい雰囲気に包まれた。 特に、なつみの冷静な瞳が藤堂夫人に向けられると、彼女の心臓は思わず跳ね上がった。藤堂夫人の眉はきつく寄せられ、「なつみ......」と声を出した。「お帰りください」なつみは突然そう言った。そのたった一言に、藤堂夫人はその場で驚き、呆然と立ち尽くした。しばらくしてから、彼女は信じられないという表情で聞き返した。 「今、なんて言ったの?」「どうかお帰りください。これからも二度と来ないでください」藤堂なつみははっきりと告げた。「前回の私の言葉が不十分だと思うのなら、メディアの記者に伝えて、新聞に掲載して、私と藤堂家とはもう何の関係もないと全ての人に知らせることもできます。ですから、私が藤堂家の恥になることを心配する必要はありません」藤堂なつみの言葉が終わるや否や、藤堂夫人はすぐに立ち上がり、彼女に平手打ちをした。その手には、数日前に施したばかりの美しいネイルが輝いていた。ネイルに埋め込まれたダイヤモンドが光り、その長い爪が藤堂なつみの頬を激しく引っかいた。裂けた皮膚から血がじわじわと滲み出してきた。しかし、なつみは少しも痛みを感じていないかのようだった。彼女は眉一つ動かさず、その冷静な瞳で藤堂夫人をじっと見つめていた。「あなた、もう私たちの言うことを聞かなくてもいいと思っているのね?藤堂なつみ、あなたは私の娘なのよ!私......」「私を高橋家と結婚させるのは、あなたたちの利益のためでしょう?」なつみは彼女の言葉を遮った。「さもなければ、あなたたちがどれほど急いでいようと、こんな風に私を探しに来ることなんてなかったはずです。会社に何か問題が起きたんですか?まあ、知りたくもありませんけど。どうせ藤堂家のものなんて......私にとっては何の意味もありませんから」「意味がないですって?」 藤堂夫人は声を荒げた。「私たちが何年もかけてあなたを育ててきて、それが無駄だったというのか?それに、病院にいるあの人だって!藤堂家がいなければ、とっくに死んでいたわ。今も命を繋いでいるのは、誰のおかげだと思っているの?分かってるわ

  • 揺らめく陽炎   第39話

    「いえいえ、とんでもないです。それにしても、最近は忙しいようですね。何をしてたんですか?もう何ヶ月もお会いしていなかったと思います」 「特に忙しいことはなかったんです。これからは頻繁に来るつもりです」 藤堂なつみは看護師に向かってにっこりと微笑んだ。看護師も自然に彼女と世間話を始め、昼頃まで話し込んでしまった。その後、なつみはようやく席を立ち、その場を後にした。病院に通いやすいように、なつみはこの近くの物件を探して選んだ。距離が近いので、タクシーを使わずに傘をさして歩いて帰ることにした。しかし、彼女は自分の家の前に藤堂夫人が来ているとは思ってもみなかった。目の前の環境に対して彼女は明らかに嫌悪感を示し、眉をひそめながら手にハンカチを持ち、鼻と口をしっかりと覆っていた。藤堂夫人はなつみを見るなり、すぐに言った。「やっと帰ってきたのね」以前、なつみはもう彼らと関係を持たないと言っていたが、実際に彼女を見て、「どうして来たのですか?」と尋ねた。「あなたが家に帰ることを拒否したから、ここに来るしかなかったのよ」藤堂夫人は言いながら、隣の錆びた門に目をやった。「だから離婚後、ここに引っ越してきたのね。藤堂なつみ、本当にどうかしてるの?」「これは私自身の選択ですので、ご心配には及びません」なつみは彼女がこの場所を嫌っているのを知っていたので、ドアを開けるつもりもなく、彼女を中に入れるつもりもなかった。藤堂夫人は深く息を吸いた。「病院から来たの?あの人に会ってきたのね?」 「ええ」 「藤堂なつみ、よく考えなさい。藤堂家がなければ、あの人の医療費も負担できないのよ!」 「知ってます」「知ってるなら......」「要件があるなら率直に言ってください」なつみは、彼女が自分を心配してここに来たとは思わなかった。 執事からの電話で、何か用があることは分かっていた。彼女はその場でやり取りをする気がなく、直接尋ねた。藤堂夫人が口を開こうとした時、階下から誰かが上がってきた。なつみの部屋は3階で、ちょうど階段の入口にある。その人は階段を上がりながら、彼女たちに何度か視線を向けてきた。悪意はなかったが、その視線に藤堂夫人は非常に不快感を覚え、顔色をさらに悪くした。

  • 揺らめく陽炎   第38話

    藤堂なつみはすぐに自分のマンションに戻った。 ちょうど化粧を落とそうとした時、ウェブサイトの編集長から直接電話がかかってきた。彼は、なつみの作品がサイトの規定に合わないため、一方的に彼女との契約を終了すると告げてきた。なつみの眉間に皺が寄る。「どこが規定に合わないんですか?」 「弊社の法務部に連絡がありました。あなたが描いた作品の主人公のイメージが......他人の肖像権を侵害しているとのことです」その一言で、なつみはすぐに理解した――速水陽一のことだ。普段、彼は彼女が何をしていようと無関心だったが、何も知らないわけではなかった。 今日、松本あかりが言ったあの言葉......彼にも聞こえていたに違いない。そして、たった一本の軽い電話で、なつみは仕事を失った。「分かりました」なつみは深く息を吸って電話を切った。彼女は本来、直接陽一に電話して問い詰めるつもりだった。しかし、電話をかける直前に、彼女はゆっくりと携帯を置いた。彼女自身に非があるわけではないが、この町で彼と正面からぶつかっても、自分にとって有利なことは何もないとなつみはわかっていたからだ。例えば今、漫画のキャラクターが彼の肖像権を侵害したというのか?そんな馬鹿げたことを、彼は堂々とやってのけたのだ。その時、病院から電話がかかってきた。「先ほど藤堂社長に連絡したところ、今後の中島千景さんの医療費をあなたが負担されると伺いましたが、よろしいでしょうか?」「分かりました。明日病院に行きます」なつみの答えは静かだったが、電話を切った後、その手は無意識に握りしめられていた。 そして、彼女は自分の銀行口座の情報を確認した。ここ数年、彼女はずっと働いていたが、普段は速水陽一から受け取ったカードを使わず、貯金はそれほど多くなかった。 そして、現在の残高は......ちょうど一回分の医療費を支払える程度だった。なつみは携帯を閉じ、ソファに寄りかかって目を閉じた。ふと、自分が崖っぷちに立たされているような気がした。誰もが彼女を崖から突き落として、粉々に砕きたいと思っているかのようだった。藤堂家は、まさにタイミングを見計らったかのようだった。翌日、なつみが病院に行ってお金を支払った直後に、執事から電話があり、藤堂

  • 揺らめく陽炎   第37話

    しかし、陽一の視線は彼女に留まることはなかった。明らかに、彼女がここにいる理由には何の興味もなく、そこに立つのはただ真央を待っていただけだった。一瞥しただけで、なつみは視線を戻し、真央に尋ねた。「何か用?」真央は懇願するように言った。「お姉ちゃん、一緒に帰ろう?もうパパとママと喧嘩するのはやめようよ」「ごめんね、帰りたくないの」なつみは迷いのない口調で答えた。真央は諦めることなく、隣にいたもう一人の女性に振り向いた。「あなたはお姉ちゃんの友達ですよね?お願いですから、お姉ちゃんに一緒に帰るように言ってもらえませんか?」「彼女はもう立派な大人でしょう?大人の決断を他人にとやかく言われる筋合いはないよ」松本あかりは軽く笑いながら答えた。真央は一瞬言葉に詰まったが、すぐに反論した。「でも、パパもママもすごく心配してるの!お姉ちゃん、あなたは彼らが心配でご飯も喉を通らないのを平気で見ていられるの?どうしてそんなに冷たいの?」そう言いながら、藤堂真央の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。その姿にあかりは感心したような表情を浮かべた。「妹さん、演技が上手すぎるね。芸能界に入ってみる気はない?」 突然の一言に、真央は驚き、動揺した表情を見せた。彼女が何かを言う前に、藤堂なつみはあかりの腕を引っ張りながら言った。「行こう」「お姉ちゃん!」真央はこの機会を逃さず、手を伸ばして再びなつみを掴もうとした。なつみはその動きを避けたが、次の瞬間、真央はそのままバランスを崩して地面に倒れ込んでしまった!その時、陽一はついに黙って見ているだけではいられなくなった。彼はすぐに数歩進み、一気に真央を引き起こした。「大丈夫だよ、陽一お兄さん」 真央はまずそう言った。「お姉ちゃんを責めないで......」「陽一......速水陽一?」あかりはすぐに状況を理解し、目を速水陽一に向けた。「あなたがなつみの元夫なのね?」「行こう」なつみは彼らとこれ以上関わりたくなく、すぐにあかりの手を引いてその場を立ち去ろうとした。だが、あかりは動かず、その視線は陽一が真央の手を掴んでいるところに注がれていた。 「これって何?倫理ドラマ?義理の妹と義兄の関係?」「

  • 揺らめく陽炎   第36話

    誰も藤堂真央の質問に答えなかった。そして、さっき西川悠人の話を出した男も、すぐに話題を変えた。「そんなの誰にもわからないよ。でもそんなことはどうでもいいさ。所詮取るに足らない連中の話だ。それより、速水社長、ご一献させていただきます」男のこの言葉は、実際には先ほどの失言に対する謝罪だった。 たとえ速水陽一がどれほど藤堂なつみを嫌っていたとしても、離婚の原因に西川悠人の名前が絡んでいるとなれば、話の性質が全く異なってしまうからだ。幸いにも、陽一はそのことを気にせず、グラスを手に取って軽くぶつけた。一杯飲み干した後、隣の人が何か話そうとしたその時、速水陽一は突然立ち上がった。「すみません、俺はまだ用事がありますので、先に失礼させていただきます。皆さん、ごゆっくりお楽しみください。会計は俺が持ちます」「え?ちょっと......」反応する間もなく、陽一はすでにその場を後にしていた。真央はすぐに彼の後を追いかけた。「陽一お兄さん!」「何か用か?」陽一は振り返り、その声は穏やかだが、冷たさを含んでいた。真央は唇を噛みしめながら、勇気を振り絞って言った。「あの......タクシーで来たから、家まで送ってくれない?」「わかった」陽一はあっさりと承諾した。彼女に対する態度もいつもと変わらないままだった。真央はほっと胸を撫で下ろし、彼ににっこりと笑顔を向け、その隣を歩いた。二人はすぐに会所を出た。ハナズオウの成功により、この通り全体が活気づき、周囲には十数軒のバーや会員制クラブが軒を連ねていた。夜の帳の中、色とりどりのライトがまるでカクテルのように輝き、空気中にすら華やかな享楽の気配が漂っていた。しかし、この全てが陽一にとっては無意味だった。彼は一切足を止めることなく、前を進み続けた。真央は彼の後を一歩一歩追いかけていた。彼女が何か話すきっかけを探していたその時、陽一は突然立ち止まった。真央は、急に止まった彼に対し何かを尋ねようとしたが、目の端に一つの人影が映った。――青いシャツに黒いロングスカートを身にまとった女性。 いつもと異なるのは、彼女が今夜濃いメイクをしており、目尻を引き立てるアイラインが印象的で、生き生きとした目元が際立っていたことだ。口元には微笑

  • 揺らめく陽炎   第35話

    「何言ってんのよ!」松本あかりは目を丸くして言った。「これはラブコメ漫画なのよ!甘くて癒し系のやつ!こんなの公開したら、サイト全体が炎上するわよ!もしストレスで参ってるなら、少し休んで気分をリフレッシュしたら?2週間の休暇をあげるから、気持ちが落ち着いたらまた描き直してね」あかりの態度を見て、なつみは特に反論せず、静かに受け入れた。しばらく沈黙が続いた後、あかりが彼女をじっと見てからこう尋ねた。「それでさ、どうして旦那さんと離婚したの? あんなに恵まれた生活をしてたのに?毎日ちゃんと食事が用意されてて、無制限のクレジットカードもあって、しかも旦那さんはあなたに干渉しない。これ以上理想的な生活なんてないでしょ?」なつみは彼女の言葉には答えず、手にしていた本を棚に置いた。そして振り返りながらこう言った。「まだご飯食べてないでしょ?私がご馳走するよ」......『ハナズオウ』ここは桐山市で有名な会員制高級クラブだ。業界でも名の知れた人々が出入りし、入場には会員カードが必要とされる。藤堂真央は普段、こういった場所に足を踏み入れることはない。彼女の清楚で控えめなイメージにはあまりにもそぐわないからだ。しかし今夜、彼女はここに現れた。その理由は......ソファの中央に座っている男のためだった。業界の中心人物である速水陽一と藤堂なつみが離婚したというニュースは、すぐに広まった。そして今夜のこのパーティーは、陽一の独身復帰を「祝う」ために開かれたものだった。 陽一は物静かな性格ではあるが、高慢なところはなく、誰かが彼のためにこのパーティーを企画した時、彼はそれを拒否しなかった。真央が部屋に入ると、すぐに誰かが話しかけてきた。「真央ちゃん、お姉さん、本当に速水社長と離婚しちゃったの?」彼女たちは陽一に直接話しかけることはできないので、代わりに真央に詰め寄った。真央はゆっくりと頷いた。「へえ......彼女、あんなに必死になって速水社長と結婚したのに、こんなにもあっさり離婚するなんて!」「私もびっくりしたよ」真央は無邪気な表情で答えた。「つい最近までは何の兆しもなかったのに.......」「なつみさん、きっと自分でも状況を収拾しきれなくなっちゃったんじゃないか

  • 揺らめく陽炎   第34話

    藤堂なつみは、速水陽一と結婚した時のことを思い出していた。藤堂家で好かれていなかった彼女だったが、それでも藤堂家のお嬢様という立場上、結婚式は盛大に行われた。半年も前に婚約を交わし、ウェディングドレスを選び、写真を撮り、日取りを決めて婚姻届を提出し、結婚式を挙げた。その間、なつみは他の全てのことを中断して、結婚という一つの大イベントにすべてを捧げていた。しかし今では、離婚なんてたった二言三言のやり取りで、手続きも30分もかからずに済んでしまった。陽一の弁護士は手際よく処理を進め、あっという間に二冊の離婚証明書が2人の前に置かれた。陽一はどうやら忙しいらしいようだ。証書を受け取った瞬間から、彼は片手で電話をかけながら、何も言わずその場を立ち去った。なつみは、「さようなら」を言おうと思っていたのだが、市役所から外に出た時には、彼の姿はすでになかった。彼からの別れの挨拶すらなかった。なつみはしばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりとうつむいて手に持った離婚証明書を見つめた。これが、私の......2年間の結婚生活。不安の中で始まり、慌ただしく終わった。最初から最後まで、ただ彼女一人だけが混乱の中を駆け回っていたのだ。突然、スマホの着信音が彼女の思考を遮った。「どういうことなの!?」電話を取ると、向こうから怒り声が飛び込んできた。「冗談でしょ?朝送られてきた原稿って何なの?なんで主人公が急に死んだの!?」「ちゃんと描いたじゃない。交通事故よ」「正気?主人公がプロポーズの日に車に轢かれて死ぬなんて、そんな展開にしたら、ファンが直接会いに来て怒鳴り込むかもしれないよ!」 編集者の言葉に、なつみは思わず微笑んだ。「大丈夫よ、彼らは私が誰か知らないから」「私は知ってる!頼むから、ふざけないでよ。この原稿そのまま公開したら、絶対に炎上するわ!」「平気よ。あとでちゃんとまとめるから」「本当に?主人公が生き返るとか、時間が巻き戻るとか?」「違うわ。ヒロインが生まれ変わるの」なつみは空を見上げて言った。「男を切り捨てて、新しい人生を歩むのって素敵じゃない?」なつみの説明に、編集者は納得する気配がなかった。同じ都市に住んでいたため、編集者の松本あかり(まつもと あかり)はすぐに彼

  • 揺らめく陽炎   第33話

    和江が彼女を止めようとしたその時、外から車のエンジン音が聞こえた。和江はすぐに階下へ駆け降りた。 「若旦那様、大変です。若奥様がまた何かやらかしてます。荷物をまとめて、どうやら家出しようとしてるみたいです!」 彼女の言葉に対して、陽一は特に驚いた様子もなく、ゆっくりと目を上げた。 ちょうどその時、なつみが荷物を持って階段を下りてきた。 陽一はまず彼女の荷物に目をやり、それからゆっくりと彼女の顔に視線を移した。 その顔には、はっきりとした手形がくっきりと残っていた。 なつみはその視線を避けることなく、直接問いかけた。「いつ手続きをしに行くの?」「弁護士にはもう呼んである」陽一は目をそらしながら、前へと歩き出した。しかし、なつみはすぐに答えた。「必要ないわ、何も要らない」陽一はちょうど階段を上がろうとしていたが、その言葉を聞いて足を止めた。そして振り返り、静かに言った。「財産分与がなくても、協議書はきちんとまとめなければならない」なつみは彼の言葉の意味を理解し、それ以上何も言わずに従った。そばにいた和江もようやく事態を飲み込んだようで、「若旦那様、本当に離婚されるのですか!?」と声を上げたが、誰も答えなかった。陽一はそのまま階段を上がり、なつみは荷物を玄関先に置いたまま、スーツケースの上に腰掛けてスマートフォンを手に取った。和江はその後、慌てて速水夫人に電話をかけた。速水夫人が電話口で何を言ったのかはわからないが、和江は小さく頷き、電話を切った。なつみは速水夫人の言葉を直接聞いてはいなかったが、和江の態度から察するに、速水夫人は同意したのだろう。予想通りの反応だったが、それでもなつみはほんの少しだけほっと息をついた。その後、陽一の弁護士がすぐに到着した。弁護士は離婚協議書を持参しており、その内容はなつみの要望通り、財産分与が一切ないものであった。もちろん、なつみが陽一のものを欲しいと思うことは一度もなかった。彼女は迷うことなく、協議書に自分の名前を書き込んだ。「速水社長、役所の方は明日午前10時に予約を取ってあります」弁護士が言った。なつみもその言葉を聞いて軽く頷くと、陽一に向かって言った。「もう行っていいですか?」 陽一は自分が持

  • 揺らめく陽炎   第32話

    どうしてみんなが真央を好きで、自分のことを好きにならないの?子ども時代のなつみがこの家に戻ったばかりの頃、彼女はこの問いの答えを知りたかった。 当時、真央が家族に気に入られるためにしていたことを、彼女も同じように一生懸命頑張ってみた。けれど、どうしても彼らは彼女を好きになってくれなかった。ある日、なつみは母親のためにお茶を淹れて差し出したことがあった。藤堂夫人はその場では「ありがとう」と言ったものの、振り返るとそのお茶を鉢植えに捨ててしまった。その日の夜、なつみは偶然にも両親の会話を耳にしてしまった。藤堂夫人が、「なつみをHIV検査に連れて行った方がいいのかしら」と父に尋ねていたのだ。当時のなつみはHIVという言葉の意味を知らなかった。しかし、少し成長してから、それが「エイズ」を指す言葉だと知った。彼女がそんなことを言われたのには理由があった。それは、かつて継父に襲われかけた過去があったからだ。たとえその時、実際には何も起こらなかったとしても、彼女のその過去は彼らにとって「恥」であり、一生消えない「烙印」として映っていた。彼らの目には、彼女はもう「汚れた」存在でしかなく、娘として認めることなどできない存在だった。そのことを思い出すと、なつみは目をぎゅっと閉じた。そして、再び目を開けたとき、その瞳には一片の感情もなかった。「それが本当かどうかなんて、もうどうでもいい。今の私は......あなたたちの愛情なんていりません」「それ、どういう意味?」「今までずっと、私を家に連れ戻したことを後悔してきたのでしょう?もう後悔する必要はありませんわ」なつみは微笑みながら、静かに言った。「安心して。私は出て行きますから。これからは、あなたたちには自慢できて愛される娘、真央だけが残るでしょう」「なつみ......あなた、自分が何を言っているか分かっているの?」 藤堂夫人の声は震えていた。それが怒りによるものか、驚きによるものかは分からない。 けれど、それがどちらであろうと藤堂なつみにとっては関係のないことだった。彼女はただ静かに笑い、そして言った。「もちろんよ。本当のところ、後悔しているのは私の方かもしれない。 もしかしたら、あの村で死んでいた方がよかったのかもしれません。その方がせ

Scan code to read on App
DMCA.com Protection Status