なつみの身体がビクッと反応した。彼女はすぐに目を開け、手を伸ばして陽一を押しのけようとした。しかし、陽一は何も聞かなかったかのように、彼女の手首をしっかりと掴み、そのまま壁に押し付けた。その動きはいつも通りの強引さだった。なつみは思わず小さく声を上げそうになったが、すぐに何かを思い出すように、その声を無理やり飲み込んだ。浴室にはシャワーの水音が絶え間なく響いている。扉越しの真央には、何も気づかれていないようだった。「義兄さん?」扉の外から真央の声がした。なつみは陽一を睨みつけた。怒りからなのか、それとも別の感情からなのか、彼女の顔は赤く染まり、その瞳は大きく見開かれていた。普段の静かで塞ぎ込んだ様子とはまるで違い、彼女は驚くほど生気にあふれていた。陽一はそんな彼女をじっと見つめると、その動きはさらに激しさを増していった。まるで何かの鬱憤を晴らすかのように。二人の身体はぴったりと噛み合い、なつみはあっという間にいかれてしまった。扉の外では真央が何かを言い続けていたが、なつみにはその言葉が一切耳に入らなかった。陽一がさらに彼女を深く抱き寄せたとき、なつみはついに抑えきれず、小さな声を漏らしてしまった。その瞬間、扉の外は静まり返った。なつみは何かに気づき、両手を思わずぎゅっと握りしめた。そのとき、陽一は彼女を軽々と抱き上げた。彼の腰がわずかに曲がり、肩がなつみの唇の近くにきた。なつみは迷うことなく口を開き、彼の肩に噛みついた。なつみの心には、当然ながら悔しさや恨みが渦巻いていた。しかしその感情とは裏腹に、彼女は強く噛みつくことなく、軽く一口噛んだだけですぐに力を緩めた。そして彼女は目を上げた。すると、陽一の深い瞳がまっすぐに彼女を見つめ返していた。なつみは何も言わず、視線をそらした。だが次の瞬間、陽一は彼女の顎をつかみ、再び唇を重ねた。夜はあっという間に過ぎ去った。なつみはどうやって自分の部屋に戻ったのか、全く記憶に残っていなかった。ベッドに倒れ込むと、そのまま深い眠りに落ちた。翌朝、和江が彼女を起こしに来た。「今日はお屋敷に戻る日ですよ」なつみはすぐに目を覚ました。和江は続けて言った。「真央お嬢様は朝早く起きて、旦那様のために朝食を作ったん
真央は幼い頃から陽一と一緒に育ってきた。だから速水家の本邸には、なつみよりもずっと慣れ親しんでいる。屋敷に入ると、真央は早速愛嬌たっぷりに祖母の方へ駆け寄り、親しげに声を上げた。「おばあさま!」「まあ!真央ちゃんが来たのね?」祖母はとても嬉しそうな様子で顔をほころばせた。「ちょっと見せてごらん、また痩せちゃったんじゃないの?」「痩せてませんよ」真央はにっこり笑って答えた。「ほら、おばあさま、お好きな蟹しんじょうを作って持ってきました!」「あらまあ、真央ちゃんは本当に気が利く子ね!」二人は親しげに会話を弾ませていて、祖母の顔からは笑顔が消えることがなかった。しかし、なつみが近づいた途端、その笑顔は急に曇りがちになった。なつみはその様子に気づいていないふりをし、礼儀正しく「おばあさま」と挨拶した。祖母は彼女を見ると何か言いたげだったが、なつみはすぐに視線を逸らし、階段の上にいる人物に向かって声をかけた。「お母さま」「伯母さま!」真央は階段から降りてきた速水夫人を見つけると、肩を寄せていた祖母から慌てて身体を離し、どこか怯えたような表情で振り向いた。「二番目のお嬢様がいらしたのね。いらっしゃい」速水夫人は真央に軽く頷いて挨拶を返した。その態度はそっけなく感じられるが、礼儀に則ったものであり、非の打ち所がなかった。そして夫人は祖母に向かって「お母さま」と一言言った。それに対し、祖母は「ええ」と短く返事をしただけで、その声には明らかな冷淡さがにじんでいた。だが、速水夫人はその態度を気にも留めることなく、真央が持ってきた蟹しんじょうを一瞥して言った。「お医者様がおっしゃるには、大奥様の血管が最近あまり良くないそうです。蟹は高コレステロールので、この時期には適さないわね。鈴木執事、これを厨房に下げておいてください」この一連のやり取りで、祖母の意見を尋ねることは一切なかった。また、真央に対しても、速水夫人は視線さえ一度も向けなかった。真央は人を惹きつける魅力を持つことにかけて天賦の才があったが、速水夫人の前ではその効果は全く通用しなかった。速水夫人は常に冷静沈着で洗練された態度を保ち、その振舞いには優雅さと品位が備わっていた。だが、それはあくまで表面上のことだった。か
陽一は夕食前に帰宅した。孫の顔を見た祖母は嬉しそうに笑みを浮かべ、陽一の手を取りながら、あれこれと尋ね始めた。「ほら見なさい、また痩せてしまっているじゃないの」祖母は少し不満げに言った。「結婚する前よりもこんなに痩せるなんて、どういう生活を送っているの?奥さんは一体どうやって陽一の面倒を見ているの?」その言葉は、明らかになつみに向けられたものだった。なつみが口を開く前に、真央が口を挟んだ。「おばあさま、そんなふうに誤解しないでください。お姉ちゃんは毎日とても忙しいんです。聞いたところによると、また新しい漫画が出版されるそうですよ。お姉ちゃんもずいぶん痩せたと思いませんか?昨日痩せた姿を見て、私はとても心配になりました」真央は一見、なつみを庇っているように見えた。しかし、その言葉にはどこか引っかかるものがあり、微妙な違和感を覚えた。もちろん、この中の嫌味な部分を本当に聞き取ったのは、おそらくなつみだけだった。真央の話を聞いた祖母は、さらに不機嫌そうになりながら言った。「漫画?またそんなくだらないものか。あんた......」祖母が説教を始めようとしたところで、陽一が話を割った。「もう夕食の準備ができているでしょうか?」「陽一......」そこで速水夫人が口を挟んだ。「お母さま、陽一ももう大人ですし、自分の面倒くらい自分で見られますよ」彼女がそこまで言うと、祖母はそれ以上話を続けることができず、仕方なく言葉を飲み込んだ。そして、彼女は真央の方を見て話題を変えた。「やっぱり真央ちゃんはいい子ね。気が利くし、人の世話もできる。あの時、もし......」自分の言葉に気づいたのか、祖母の声は徐々に小さくなっていった。その場を和らげるかのように、速水夫人が話を切り出した。「なつみ、ご両親はまだ帰ってきていないの?」「はい」「真央が長期間そちらで過ごすのは、きっと不便だろう。この機会に、真央さんはここに住んだらいいじゃない。それに、さっき言っていたように、おばあさまと一緒に過ごしたいとね?」速水夫人の提案に、真央の顔色が一瞬曇った。「あの......」だが速水夫人は真央に反論の機会を与えなかった。「それに、私もいくつか素敵な青年を見つけておいた。
「義兄さん、さっきは助けてくれてありがとう」帰り道、真央は後部座席に座りながら、途切れることなく話し続けていた。「まさかママが伯母さんにあんなことまで言ってたなんて、もう本当にびっくりしたわ。義兄さんが助けてくれなかったら、私、どうしていいかわからなかったもの。まだ結婚なんて考えたくないのに」陽一は車を運転しながら、軽く「うん」とだけ返事をした。その態度は少しそっけなく見えたが、真央は彼の性格がもともとこうだと分かっているため、特に気にする様子はなかった。ただ、助手席に座るなつみの方を振り返ると、話題を変えた。「ねえ、お姉ちゃん。さっき伯母さんがあなたを連れて行ったけど、何を話してたの?」「特に何も」なつみはそっけなく答えた。その様子は、もはや適当に流すことすら面倒だと言いたげだった。真央は少し不満げに唇を尖らせたが、すぐにまた話を続けた。「そうだ、お姉ちゃん、知ってる?悠人(ゆうと)お兄ちゃんが帰国するんだって」その言葉に、なつみの表情がわずかにこわばった。ちょうどその時、信号が赤に変わり、陽一は車をゆっくりと停めた。ブレーキは急ではなかったが、悠人の話を聞いて驚いていたなつみの体は一瞬前のめりに揺れた。すぐにシートベルトに引き戻されて体勢を立て直したが、その様子を陽一はちらっと横目で見た。「お母さんが言ってたけど、悠人お兄ちゃん、今は海外でとても成功しているんだって!お姉ちゃん、ずっと連絡を取ってなかったの?」「取ってないわ」なつみは目を伏せたまま平静を装って答えたが、膝の上に置かれた手は気づかぬうちにぎゅっと握りしめられていた。「もったいないなあ。昔、お姉ちゃんと悠人お兄ちゃん、すごく仲が良かったのに!」真央はそう呟くと、今度は陽一の方を振り向いた。「義兄さん、覚えてないでしょ?悠人お兄ちゃんって......」「もちろん知ってる。西川家の私生児、西川悠人だろ」陽一の返事は驚くほど早かった。「私生児」という言葉には一切の遠慮もなく、まるで事実を淡々と述べるだけのようだった。なつみの眉間がピクリと動き、その言葉に対する不快感が表情に一瞬現れた。真央も一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。「そう、西川家の......あの息子よね。昔はお姉ちゃ
藤堂なつみは依然として助手席に座ったままだった。自分はもう十分に感情が麻痺していると思っていたが、この瞬間、再び胸の奥が鋭く痛むのを感じた。まるで心の奥深くを何かが少しずつかじり続けているようだった。なつみはふと、ずっと昔のある出来事を思い出した。それは、彼女が藤堂家に戻って間もない頃のことだった。あの日、雨が降っていたことを、今でもはっきりと覚えている。母親が学校から彼女と真央を迎えに来て、一緒に車で家に向かっていた。だがその途中で、車は交通事故に遭った。事故自体はそれほど深刻ではなかったが、後方の車を避けようとした運転手がハンドルを切り損ね、道路脇の植え込みに突っ込んでしまった。その時、なつみは頭を窓ガラスにぶつけて意識を失った。だが、意識が遠のいていくその瞬間でさえ、彼女ははっきりと見た。母親が自分を避けて、泣きながら真央を抱きしめる姿を。その瞬間、なつみは初めて気づいた。彼らが自分を「見つけ出した」理由は、ただ彼女が彼らの血を引いているからに過ぎないということを。だが、彼らにとって本当に大切なのは、真央だけだったのだ。その事実を理解したなつみは、自分に無理を言い聞かせて、その出来事を忘れるように努めた。そのことを思い出すたびに、彼女はただ傷つくだけだから。しかし、今またその記憶が蘇ってくる。ただし今回、真央を抱きしめているのは母親ではなく、自分の夫だった。どれだけ時間が経ったのかわからないが、なつみはようやく車を降りた。その時、空には雷鳴が轟いていた。——土砂降りの雨が一気に降り始めた。なつみは足を早めたが、陽一が車を停めた場所から屋敷の玄関までは少し距離があり、結局全身がずぶ濡れになった。屋敷の上階には灯りが点いているのが見える。一つは真央の部屋、もう一つは陽一の書斎だろう。彼は、彼女がまだ屋内に入っていないことすら気づいていないのだろう。なつみはしばらくその場に立ち尽くし、それを確信してからようやく足を動かし始めた。ずぶ濡れの身体を引きずるようにして、階段を上っていく。その途上で、彼女の携帯電話が突然光を放った。画面には知らない番号が表示されている。なつみはその番号をじっと見つめながら、ふとある人物を思い浮かべた。そして、その番号に
「君は今幸せなのかい?」なつみは、こんな問いかけを最後に聞いたのがいつだったか、全く思い出せなかった。いや、それどころか、自分自身に「幸せか」と問いかけたことすら、もうとっくに忘れてしまっていた。答えは明白だった。だが、彼女は迷いもなくこう答えた。「ええ、とても」「そうか......それならよかった」悠人は静かにそう言った。だが、それからしばらく、会話は途切れたままだった。「特に用がないなら、そろそろ切るわよ?」なつみが言った。「わかった」悠人は快く同意したように聞こえた。だが、なつみが電話を切ろうとしたその瞬間、彼が急に言い足した。「当時、何も言わずに去ってしまって、本当にすまなかった。でも、この数年、海外でずっと君のことを思ってたんだ。......もう遅いから、早く休んでね」それだけ言うと、彼は電話を切った。なつみはしばらく携帯を握りしめたまま、階段の上で立ち尽くしていた。そしてようやく重い足を動かし、自分の部屋へと戻った。その夜、陽一が彼女を訪ねることは一度もなかった。だが、それでもなつみはほとんど眠れなかった。きっと、悠人からの電話が原因だろう。その夜、彼女は長い夢を見た。夢の中で、彼女は藤堂家に戻ったばかりの頃にまた戻っていた。藤堂家の両親は、彼女を迎えるために盛大な歓迎会を開いた。だが、宴会に集まった人々の中で、本当に彼女を歓迎している者はほとんどいなかった。社交界の同世代たちは、彼女が田舎から来たと笑い者にしていた。「キャビアが何かも知らない」という嘲笑が、まるで耳に突き刺さるようだった。宴会場の最上階には、大きなプールがあった。田舎者の彼女が泳げるのか試すと言い出した数人が、彼女をプールのそばまで連れて行き、無理やり突き落とした。水が鼻や口、そして胸に流れ込んでくる時の窒息感を、なつみは今でも鮮明に覚えている。その瞬間、彼女は目を覚ました。見慣れているようで、どこか異質な環境に、彼女は一瞬困惑した。しばらくして、ここが雪見別荘——陽一と住んでいる家だと思い出した。夢の中の全ては消え去り、現実に戻った。時計を見ると、普段起きる時間までまだ1時間以上あったが、もう眠れそうにはなかった。ベッドに横たわりながらぼんやりと
なつみの性格は、外から見るといつも堅苦しくて無口だと思われがちだった。多くの場合、彼女が感情を表に出すことはほとんどなかった。だが今、彼女はまるで崖っぷちに追い詰められた一匹の小さな野獣のようだった。従順な毛を伏せていた彼女が、今は鋭い爪を見せて威嚇しているように見えた。しかし、そんな彼女の抵抗など、陽一には全く通じなかった。彼は一言も返すことなく、彼女をベッドから引き上げた。そのまま、手際よく服を着替えさせ始めた。なつみは彼を押しのけようとしたが、二人の力の差は歴然としていた。結局、彼に引きずられる形で階下へと連れ出された。「若旦那様、若奥様......」階下にいた和江が驚いた様子で声を掛けた。この光景を目にした彼女は、一瞬動きを止めた。なつみは、和江の姿を目にすると、すぐに感情を押し殺し、抵抗することをやめた。ただ、陽一に連れられ、そのまま屋敷の外へと連れ出されていった。車が走り出し、しばらくしてから、なつみはようやく冷静さを取り戻した。深く息を吸い込んでから、隣に座る陽一を見た。「病院には行かなくてもいいわ。お母さんには私が直接説明するから。あなた、仕事が忙しいんでしょう?私を送り返る必要もない。途中のどこかで降ろしてちょうだい」車内は静まり返っていた。二人きりの空間で、陽一が耳が聞こえないはずはない。だが彼は何の返答もせず、車を走らせ続けた。結婚して2年以上が経つが、なつみは目の前のこの男の性格をよく理解しているつもりだった。彼の態度から察するに、これは相談ではない。まぎれもなく命令だ。陽一はすべてを分かっているはずだ。なつみが妊娠に対してなぜこんなにも拒絶反応を示すのか。なぜ、子どもの話題になると性格が変わるのか。だが、分かっていても関係ない。彼はそれを全く気にしていなかったのだ。彼にとって、結婚して子どもを持つことは当然の義務でしかない。妻である彼女は、その義務を果たすべき存在なのだ。かつて、なつみは期待を抱いたこともあった。陽一が彼女を愛していないことは分かっていたが、それでも子どもがいれば何かが変わるのではないかと思った。子どもがいれば、自分にも「家族」と呼べるものができるのではないかと。だが、そのささやかな願いすらも叶わな
さすがに経験豊富な漢方医も、彼女の言葉を聞いた瞬間、少し驚いた表情を浮かべた。というのも、彼のもとを訪れる人々は、ほとんどが子どもを授かりたいと願う者ばかりだった。ところが、なつみは避妊薬を飲んでいると言ったのだ。医師は思わず陽一の方へ視線を向けた。陽一も明らかにこのことを知らなかったようで、額に皺を寄せて不快感を露わにしていた。それでも医師はすぐに冷静さを取り戻し、一呼吸おいてから言葉を続けた。「では、これからはその薬をおやめください。まずは体調を整えるための薬を処方しますので、それを続けて飲んでください」なつみはそれ以上何も言わなかったが、医師が薬の処方箋を手渡した時には、すぐに手を伸ばして受け取った。「ありがとうございます」そう一言だけ残し、なつみは一度も振り返らずに診察室を出て行った。陽一も黙ったまま、彼女の後について診察室を後にした。なつみは、陽一が自分のことになど関心を持っていないと思い込んでおり、病院を出た後は自分でタクシーを捕まえるつもりでいた。だが、陽一はすぐに彼女の腕を軽くつかんだ。「車に乗れ」その声は冷たく、視線も同様だった。「いいえ、自分でタクシーを捕まえる」「なつみ、俺は車に乗れと言ったのだ」陽一の顔色はますます険しくなり、病院の入り口で押し問答を続けるのは公共の場としては適切ではないと、なつみもようやく気づいた。周囲を少し見渡した後、彼女はしぶしぶ車のドアを開けた。だが、まだシートベルトを締め終わらないうちに、陽一は突然アクセルを踏み込んだ。その急な動きに、なつみの体が前方に投げ出されそうになった。なつみは唇をきつく結び、なんとかシートベルトを締め終えると、険しい表情で陽一を見つめた。「送る気がないなら、今ここで降りてもいいわ」「どうして避妊薬を飲んでいる?」陽一は彼女の言葉を無視し、ストレートに問いかけた。その質問はまるで小学生でも分かるような単純なものだった。だが、なつみは冷静に答えた。「妊娠したくないからよ」陽一はようやく彼女の方を向いた。今回は、なつみも視線を逸らさずに彼をじっと見返した。ちょうど信号が赤に変わり、陽一は車を止めた。時間が一秒一秒と過ぎていく中で、陽一は何も言わなかったが、その握りしめたハ
藤堂夫人の言葉が終わると、なつみは突然何も言わなくなった。もともと狭い空間が、彼女の突然の沈黙によってさらに重苦しい雰囲気に包まれた。 特に、なつみの冷静な瞳が藤堂夫人に向けられると、彼女の心臓は思わず跳ね上がった。藤堂夫人の眉はきつく寄せられ、「なつみ......」と声を出した。「お帰りください」なつみは突然そう言った。そのたった一言に、藤堂夫人はその場で驚き、呆然と立ち尽くした。しばらくしてから、彼女は信じられないという表情で聞き返した。 「今、なんて言ったの?」「どうかお帰りください。これからも二度と来ないでください」藤堂なつみははっきりと告げた。「前回の私の言葉が不十分だと思うのなら、メディアの記者に伝えて、新聞に掲載して、私と藤堂家とはもう何の関係もないと全ての人に知らせることもできます。ですから、私が藤堂家の恥になることを心配する必要はありません」藤堂なつみの言葉が終わるや否や、藤堂夫人はすぐに立ち上がり、彼女に平手打ちをした。その手には、数日前に施したばかりの美しいネイルが輝いていた。ネイルに埋め込まれたダイヤモンドが光り、その長い爪が藤堂なつみの頬を激しく引っかいた。裂けた皮膚から血がじわじわと滲み出してきた。しかし、なつみは少しも痛みを感じていないかのようだった。彼女は眉一つ動かさず、その冷静な瞳で藤堂夫人をじっと見つめていた。「あなた、もう私たちの言うことを聞かなくてもいいと思っているのね?藤堂なつみ、あなたは私の娘なのよ!私......」「私を高橋家と結婚させるのは、あなたたちの利益のためでしょう?」なつみは彼女の言葉を遮った。「さもなければ、あなたたちがどれほど急いでいようと、こんな風に私を探しに来ることなんてなかったはずです。会社に何か問題が起きたんですか?まあ、知りたくもありませんけど。どうせ藤堂家のものなんて......私にとっては何の意味もありませんから」「意味がないですって?」 藤堂夫人は声を荒げた。「私たちが何年もかけてあなたを育ててきて、それが無駄だったというのか?それに、病院にいるあの人だって!藤堂家がいなければ、とっくに死んでいたわ。今も命を繋いでいるのは、誰のおかげだと思っているの?分かってるわ
「いえいえ、とんでもないです。それにしても、最近は忙しいようですね。何をしてたんですか?もう何ヶ月もお会いしていなかったと思います」 「特に忙しいことはなかったんです。これからは頻繁に来るつもりです」 藤堂なつみは看護師に向かってにっこりと微笑んだ。看護師も自然に彼女と世間話を始め、昼頃まで話し込んでしまった。その後、なつみはようやく席を立ち、その場を後にした。病院に通いやすいように、なつみはこの近くの物件を探して選んだ。距離が近いので、タクシーを使わずに傘をさして歩いて帰ることにした。しかし、彼女は自分の家の前に藤堂夫人が来ているとは思ってもみなかった。目の前の環境に対して彼女は明らかに嫌悪感を示し、眉をひそめながら手にハンカチを持ち、鼻と口をしっかりと覆っていた。藤堂夫人はなつみを見るなり、すぐに言った。「やっと帰ってきたのね」以前、なつみはもう彼らと関係を持たないと言っていたが、実際に彼女を見て、「どうして来たのですか?」と尋ねた。「あなたが家に帰ることを拒否したから、ここに来るしかなかったのよ」藤堂夫人は言いながら、隣の錆びた門に目をやった。「だから離婚後、ここに引っ越してきたのね。藤堂なつみ、本当にどうかしてるの?」「これは私自身の選択ですので、ご心配には及びません」なつみは彼女がこの場所を嫌っているのを知っていたので、ドアを開けるつもりもなく、彼女を中に入れるつもりもなかった。藤堂夫人は深く息を吸いた。「病院から来たの?あの人に会ってきたのね?」 「ええ」 「藤堂なつみ、よく考えなさい。藤堂家がなければ、あの人の医療費も負担できないのよ!」 「知ってます」「知ってるなら......」「要件があるなら率直に言ってください」なつみは、彼女が自分を心配してここに来たとは思わなかった。 執事からの電話で、何か用があることは分かっていた。彼女はその場でやり取りをする気がなく、直接尋ねた。藤堂夫人が口を開こうとした時、階下から誰かが上がってきた。なつみの部屋は3階で、ちょうど階段の入口にある。その人は階段を上がりながら、彼女たちに何度か視線を向けてきた。悪意はなかったが、その視線に藤堂夫人は非常に不快感を覚え、顔色をさらに悪くした。
藤堂なつみはすぐに自分のマンションに戻った。 ちょうど化粧を落とそうとした時、ウェブサイトの編集長から直接電話がかかってきた。彼は、なつみの作品がサイトの規定に合わないため、一方的に彼女との契約を終了すると告げてきた。なつみの眉間に皺が寄る。「どこが規定に合わないんですか?」 「弊社の法務部に連絡がありました。あなたが描いた作品の主人公のイメージが......他人の肖像権を侵害しているとのことです」その一言で、なつみはすぐに理解した――速水陽一のことだ。普段、彼は彼女が何をしていようと無関心だったが、何も知らないわけではなかった。 今日、松本あかりが言ったあの言葉......彼にも聞こえていたに違いない。そして、たった一本の軽い電話で、なつみは仕事を失った。「分かりました」なつみは深く息を吸って電話を切った。彼女は本来、直接陽一に電話して問い詰めるつもりだった。しかし、電話をかける直前に、彼女はゆっくりと携帯を置いた。彼女自身に非があるわけではないが、この町で彼と正面からぶつかっても、自分にとって有利なことは何もないとなつみはわかっていたからだ。例えば今、漫画のキャラクターが彼の肖像権を侵害したというのか?そんな馬鹿げたことを、彼は堂々とやってのけたのだ。その時、病院から電話がかかってきた。「先ほど藤堂社長に連絡したところ、今後の中島千景さんの医療費をあなたが負担されると伺いましたが、よろしいでしょうか?」「分かりました。明日病院に行きます」なつみの答えは静かだったが、電話を切った後、その手は無意識に握りしめられていた。 そして、彼女は自分の銀行口座の情報を確認した。ここ数年、彼女はずっと働いていたが、普段は速水陽一から受け取ったカードを使わず、貯金はそれほど多くなかった。 そして、現在の残高は......ちょうど一回分の医療費を支払える程度だった。なつみは携帯を閉じ、ソファに寄りかかって目を閉じた。ふと、自分が崖っぷちに立たされているような気がした。誰もが彼女を崖から突き落として、粉々に砕きたいと思っているかのようだった。藤堂家は、まさにタイミングを見計らったかのようだった。翌日、なつみが病院に行ってお金を支払った直後に、執事から電話があり、藤堂
しかし、陽一の視線は彼女に留まることはなかった。明らかに、彼女がここにいる理由には何の興味もなく、そこに立つのはただ真央を待っていただけだった。一瞥しただけで、なつみは視線を戻し、真央に尋ねた。「何か用?」真央は懇願するように言った。「お姉ちゃん、一緒に帰ろう?もうパパとママと喧嘩するのはやめようよ」「ごめんね、帰りたくないの」なつみは迷いのない口調で答えた。真央は諦めることなく、隣にいたもう一人の女性に振り向いた。「あなたはお姉ちゃんの友達ですよね?お願いですから、お姉ちゃんに一緒に帰るように言ってもらえませんか?」「彼女はもう立派な大人でしょう?大人の決断を他人にとやかく言われる筋合いはないよ」松本あかりは軽く笑いながら答えた。真央は一瞬言葉に詰まったが、すぐに反論した。「でも、パパもママもすごく心配してるの!お姉ちゃん、あなたは彼らが心配でご飯も喉を通らないのを平気で見ていられるの?どうしてそんなに冷たいの?」そう言いながら、藤堂真央の目からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。その姿にあかりは感心したような表情を浮かべた。「妹さん、演技が上手すぎるね。芸能界に入ってみる気はない?」 突然の一言に、真央は驚き、動揺した表情を見せた。彼女が何かを言う前に、藤堂なつみはあかりの腕を引っ張りながら言った。「行こう」「お姉ちゃん!」真央はこの機会を逃さず、手を伸ばして再びなつみを掴もうとした。なつみはその動きを避けたが、次の瞬間、真央はそのままバランスを崩して地面に倒れ込んでしまった!その時、陽一はついに黙って見ているだけではいられなくなった。彼はすぐに数歩進み、一気に真央を引き起こした。「大丈夫だよ、陽一お兄さん」 真央はまずそう言った。「お姉ちゃんを責めないで......」「陽一......速水陽一?」あかりはすぐに状況を理解し、目を速水陽一に向けた。「あなたがなつみの元夫なのね?」「行こう」なつみは彼らとこれ以上関わりたくなく、すぐにあかりの手を引いてその場を立ち去ろうとした。だが、あかりは動かず、その視線は陽一が真央の手を掴んでいるところに注がれていた。 「これって何?倫理ドラマ?義理の妹と義兄の関係?」「
誰も藤堂真央の質問に答えなかった。そして、さっき西川悠人の話を出した男も、すぐに話題を変えた。「そんなの誰にもわからないよ。でもそんなことはどうでもいいさ。所詮取るに足らない連中の話だ。それより、速水社長、ご一献させていただきます」男のこの言葉は、実際には先ほどの失言に対する謝罪だった。 たとえ速水陽一がどれほど藤堂なつみを嫌っていたとしても、離婚の原因に西川悠人の名前が絡んでいるとなれば、話の性質が全く異なってしまうからだ。幸いにも、陽一はそのことを気にせず、グラスを手に取って軽くぶつけた。一杯飲み干した後、隣の人が何か話そうとしたその時、速水陽一は突然立ち上がった。「すみません、俺はまだ用事がありますので、先に失礼させていただきます。皆さん、ごゆっくりお楽しみください。会計は俺が持ちます」「え?ちょっと......」反応する間もなく、陽一はすでにその場を後にしていた。真央はすぐに彼の後を追いかけた。「陽一お兄さん!」「何か用か?」陽一は振り返り、その声は穏やかだが、冷たさを含んでいた。真央は唇を噛みしめながら、勇気を振り絞って言った。「あの......タクシーで来たから、家まで送ってくれない?」「わかった」陽一はあっさりと承諾した。彼女に対する態度もいつもと変わらないままだった。真央はほっと胸を撫で下ろし、彼ににっこりと笑顔を向け、その隣を歩いた。二人はすぐに会所を出た。ハナズオウの成功により、この通り全体が活気づき、周囲には十数軒のバーや会員制クラブが軒を連ねていた。夜の帳の中、色とりどりのライトがまるでカクテルのように輝き、空気中にすら華やかな享楽の気配が漂っていた。しかし、この全てが陽一にとっては無意味だった。彼は一切足を止めることなく、前を進み続けた。真央は彼の後を一歩一歩追いかけていた。彼女が何か話すきっかけを探していたその時、陽一は突然立ち止まった。真央は、急に止まった彼に対し何かを尋ねようとしたが、目の端に一つの人影が映った。――青いシャツに黒いロングスカートを身にまとった女性。 いつもと異なるのは、彼女が今夜濃いメイクをしており、目尻を引き立てるアイラインが印象的で、生き生きとした目元が際立っていたことだ。口元には微笑
「何言ってんのよ!」松本あかりは目を丸くして言った。「これはラブコメ漫画なのよ!甘くて癒し系のやつ!こんなの公開したら、サイト全体が炎上するわよ!もしストレスで参ってるなら、少し休んで気分をリフレッシュしたら?2週間の休暇をあげるから、気持ちが落ち着いたらまた描き直してね」あかりの態度を見て、なつみは特に反論せず、静かに受け入れた。しばらく沈黙が続いた後、あかりが彼女をじっと見てからこう尋ねた。「それでさ、どうして旦那さんと離婚したの? あんなに恵まれた生活をしてたのに?毎日ちゃんと食事が用意されてて、無制限のクレジットカードもあって、しかも旦那さんはあなたに干渉しない。これ以上理想的な生活なんてないでしょ?」なつみは彼女の言葉には答えず、手にしていた本を棚に置いた。そして振り返りながらこう言った。「まだご飯食べてないでしょ?私がご馳走するよ」......『ハナズオウ』ここは桐山市で有名な会員制高級クラブだ。業界でも名の知れた人々が出入りし、入場には会員カードが必要とされる。藤堂真央は普段、こういった場所に足を踏み入れることはない。彼女の清楚で控えめなイメージにはあまりにもそぐわないからだ。しかし今夜、彼女はここに現れた。その理由は......ソファの中央に座っている男のためだった。業界の中心人物である速水陽一と藤堂なつみが離婚したというニュースは、すぐに広まった。そして今夜のこのパーティーは、陽一の独身復帰を「祝う」ために開かれたものだった。 陽一は物静かな性格ではあるが、高慢なところはなく、誰かが彼のためにこのパーティーを企画した時、彼はそれを拒否しなかった。真央が部屋に入ると、すぐに誰かが話しかけてきた。「真央ちゃん、お姉さん、本当に速水社長と離婚しちゃったの?」彼女たちは陽一に直接話しかけることはできないので、代わりに真央に詰め寄った。真央はゆっくりと頷いた。「へえ......彼女、あんなに必死になって速水社長と結婚したのに、こんなにもあっさり離婚するなんて!」「私もびっくりしたよ」真央は無邪気な表情で答えた。「つい最近までは何の兆しもなかったのに.......」「なつみさん、きっと自分でも状況を収拾しきれなくなっちゃったんじゃないか
藤堂なつみは、速水陽一と結婚した時のことを思い出していた。藤堂家で好かれていなかった彼女だったが、それでも藤堂家のお嬢様という立場上、結婚式は盛大に行われた。半年も前に婚約を交わし、ウェディングドレスを選び、写真を撮り、日取りを決めて婚姻届を提出し、結婚式を挙げた。その間、なつみは他の全てのことを中断して、結婚という一つの大イベントにすべてを捧げていた。しかし今では、離婚なんてたった二言三言のやり取りで、手続きも30分もかからずに済んでしまった。陽一の弁護士は手際よく処理を進め、あっという間に二冊の離婚証明書が2人の前に置かれた。陽一はどうやら忙しいらしいようだ。証書を受け取った瞬間から、彼は片手で電話をかけながら、何も言わずその場を立ち去った。なつみは、「さようなら」を言おうと思っていたのだが、市役所から外に出た時には、彼の姿はすでになかった。彼からの別れの挨拶すらなかった。なつみはしばらくその場に立ち尽くし、ゆっくりとうつむいて手に持った離婚証明書を見つめた。これが、私の......2年間の結婚生活。不安の中で始まり、慌ただしく終わった。最初から最後まで、ただ彼女一人だけが混乱の中を駆け回っていたのだ。突然、スマホの着信音が彼女の思考を遮った。「どういうことなの!?」電話を取ると、向こうから怒り声が飛び込んできた。「冗談でしょ?朝送られてきた原稿って何なの?なんで主人公が急に死んだの!?」「ちゃんと描いたじゃない。交通事故よ」「正気?主人公がプロポーズの日に車に轢かれて死ぬなんて、そんな展開にしたら、ファンが直接会いに来て怒鳴り込むかもしれないよ!」 編集者の言葉に、なつみは思わず微笑んだ。「大丈夫よ、彼らは私が誰か知らないから」「私は知ってる!頼むから、ふざけないでよ。この原稿そのまま公開したら、絶対に炎上するわ!」「平気よ。あとでちゃんとまとめるから」「本当に?主人公が生き返るとか、時間が巻き戻るとか?」「違うわ。ヒロインが生まれ変わるの」なつみは空を見上げて言った。「男を切り捨てて、新しい人生を歩むのって素敵じゃない?」なつみの説明に、編集者は納得する気配がなかった。同じ都市に住んでいたため、編集者の松本あかり(まつもと あかり)はすぐに彼
和江が彼女を止めようとしたその時、外から車のエンジン音が聞こえた。和江はすぐに階下へ駆け降りた。 「若旦那様、大変です。若奥様がまた何かやらかしてます。荷物をまとめて、どうやら家出しようとしてるみたいです!」 彼女の言葉に対して、陽一は特に驚いた様子もなく、ゆっくりと目を上げた。 ちょうどその時、なつみが荷物を持って階段を下りてきた。 陽一はまず彼女の荷物に目をやり、それからゆっくりと彼女の顔に視線を移した。 その顔には、はっきりとした手形がくっきりと残っていた。 なつみはその視線を避けることなく、直接問いかけた。「いつ手続きをしに行くの?」「弁護士にはもう呼んである」陽一は目をそらしながら、前へと歩き出した。しかし、なつみはすぐに答えた。「必要ないわ、何も要らない」陽一はちょうど階段を上がろうとしていたが、その言葉を聞いて足を止めた。そして振り返り、静かに言った。「財産分与がなくても、協議書はきちんとまとめなければならない」なつみは彼の言葉の意味を理解し、それ以上何も言わずに従った。そばにいた和江もようやく事態を飲み込んだようで、「若旦那様、本当に離婚されるのですか!?」と声を上げたが、誰も答えなかった。陽一はそのまま階段を上がり、なつみは荷物を玄関先に置いたまま、スーツケースの上に腰掛けてスマートフォンを手に取った。和江はその後、慌てて速水夫人に電話をかけた。速水夫人が電話口で何を言ったのかはわからないが、和江は小さく頷き、電話を切った。なつみは速水夫人の言葉を直接聞いてはいなかったが、和江の態度から察するに、速水夫人は同意したのだろう。予想通りの反応だったが、それでもなつみはほんの少しだけほっと息をついた。その後、陽一の弁護士がすぐに到着した。弁護士は離婚協議書を持参しており、その内容はなつみの要望通り、財産分与が一切ないものであった。もちろん、なつみが陽一のものを欲しいと思うことは一度もなかった。彼女は迷うことなく、協議書に自分の名前を書き込んだ。「速水社長、役所の方は明日午前10時に予約を取ってあります」弁護士が言った。なつみもその言葉を聞いて軽く頷くと、陽一に向かって言った。「もう行っていいですか?」 陽一は自分が持
どうしてみんなが真央を好きで、自分のことを好きにならないの?子ども時代のなつみがこの家に戻ったばかりの頃、彼女はこの問いの答えを知りたかった。 当時、真央が家族に気に入られるためにしていたことを、彼女も同じように一生懸命頑張ってみた。けれど、どうしても彼らは彼女を好きになってくれなかった。ある日、なつみは母親のためにお茶を淹れて差し出したことがあった。藤堂夫人はその場では「ありがとう」と言ったものの、振り返るとそのお茶を鉢植えに捨ててしまった。その日の夜、なつみは偶然にも両親の会話を耳にしてしまった。藤堂夫人が、「なつみをHIV検査に連れて行った方がいいのかしら」と父に尋ねていたのだ。当時のなつみはHIVという言葉の意味を知らなかった。しかし、少し成長してから、それが「エイズ」を指す言葉だと知った。彼女がそんなことを言われたのには理由があった。それは、かつて継父に襲われかけた過去があったからだ。たとえその時、実際には何も起こらなかったとしても、彼女のその過去は彼らにとって「恥」であり、一生消えない「烙印」として映っていた。彼らの目には、彼女はもう「汚れた」存在でしかなく、娘として認めることなどできない存在だった。そのことを思い出すと、なつみは目をぎゅっと閉じた。そして、再び目を開けたとき、その瞳には一片の感情もなかった。「それが本当かどうかなんて、もうどうでもいい。今の私は......あなたたちの愛情なんていりません」「それ、どういう意味?」「今までずっと、私を家に連れ戻したことを後悔してきたのでしょう?もう後悔する必要はありませんわ」なつみは微笑みながら、静かに言った。「安心して。私は出て行きますから。これからは、あなたたちには自慢できて愛される娘、真央だけが残るでしょう」「なつみ......あなた、自分が何を言っているか分かっているの?」 藤堂夫人の声は震えていた。それが怒りによるものか、驚きによるものかは分からない。 けれど、それがどちらであろうと藤堂なつみにとっては関係のないことだった。彼女はただ静かに笑い、そして言った。「もちろんよ。本当のところ、後悔しているのは私の方かもしれない。 もしかしたら、あの村で死んでいた方がよかったのかもしれません。その方がせ