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第850話

Author: 楽恩
林也は、最後の二段に差し掛かったところで手を放した。

海人は、捻られた手首を軽く回し、再び階段を上がろうとした。

しかし、林也が階段を塞ぐように立ちはだかる。相変わらず、穏やかな笑みを浮かべたままだった。

「若様、お見合いのお相手がすでにお待ちです。もし私が無理やり連れて行けば、若様の面子が潰れてしまいますよ?」

「……」

海人は数秒黙った後、無言で最後の二段を降り、リビングへと足を向けた。

父の姿はなかった。祖父母が並んでソファに座り、母は中央の長いソファに座っていた。

その隣には三人の人影。海人は、それを流し見しただけで、誰かを特定することもしなかった。

一人掛けのソファには座る気になれず、階段にもたれるように立った。

海人の母は気まずそうに笑いながら立ち上がり、彼の腕を引いて、若い女性の隣へと座らせた。

「こちらは西園寺雪菜。あんたのお祖父様の戦友のお孫さんよ。小さい頃、一緒に花火をしたこともあるでしょう?」

海人は、彼女に一瞥もくれず、冷淡に答えた。

「子供の頃、花火は旧宅の子供たち全員でやったものだ。学生のときは、みんな同じ制服を着ていた。それが何?全員がカップルになるべきだと?」

海人の母は彼の腕を軽く叩いた。

「雪菜ちゃんは留学していて、最近帰国したの。昼食が終わったら、旧宅を案内してあげなさい。昔を懐かしみながらね」

海人の表情は変わらなかった。

「母さん。俺を外に出すなら、もう戻らない」

彼と来依のことは、海人の母も知っていた。だが、少なくとも西園寺家の前でその話を持ち出すつもりはなかった。

たとえ将来、親戚関係になる可能性があったとしても、菊池家の体面が最優先だった。

「帰らないって、どこへ行くつもり?冗談はやめなさい」

海人は何も言わず、立ち上がって二階へ向かった。

「食事くらいしなさい!」海人の母が彼を引き止めた。

海人は、さっと手を振りほどいた。

「腹は減っていない」

海人の母は奥歯を噛み締めた。

昨夜から何も食べず、朝食も昼食も拒否している。明らかに、無言の抗議だった。

「食べなくてもいいけど、せめて席にはつきなさい」

だが、海人は聞こえなかったかのように、そのまま階段を上がっていった。

海人の母はまだ何か言おうとしたが、雪菜が立ち上がった。

「伯母さん、私が部屋に持って行きますね
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  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第849話

    「おばあちゃんは大丈夫だよ。隣の佐々木さんが面倒を見てくれてるから。それに、こっちでオーディションがあったんだ。まさか姉さんに会えるなんて思わなかったけど」吉木は嬉しそうに微笑んでいたが、来依は笑えなかった。「吉木……南ちゃんが話したこと、ちゃんと――」「言わなくていい」吉木は彼女の言葉を遮った。「これからは、ただの姉さんでいい。何かあれば声をかけて。俺には権力なんてないけど、それでも命がけで守る」来依は、複雑な思いで彼を見つめた。「……命がけはやめて」「それより、どうして奈良に?出張?」吉木は話を逸らそうとした。しかし、来依はここで話を曖昧にするつもりはなかった。「吉木、私たちは距離を置くべきだと思う。あんたが私を好きになった瞬間から、その気持ちに応えられない以上――私たちは友達にもなれない。長崎に一緒に行ったのは、沖縄の夜の真相を知るため。ついでに気分転換したかったから。「それ以上の意味は、何もないわ」吉木の笑みが、苦しげに歪んだ。彼は、一生来依に会えないかもしれないと思っていた。だから、ただ彼女の幸せを願っていた。もし将来、自分が成功し、彼女が不幸だったら――そのときこそ、命をかけても彼女を連れ去るつもりでいた。だが――神は、再び彼女と会わせてくれた。それは、運命と呼べるのかもしれない。しかし、それもまた、自分を慰めるための言い訳に過ぎない。彼女の心は、どこにもないのだから。「姉さん……」来依は、それ以上言わせまいと遮った。「ここにはいられない。私に会ったことは、忘れて」そう言い残し、足早に立ち去った。宿の女将が慌てて彼女を引き留めた。「どうしたの、急に?」「急用ができました」女将は、彼女に預かっていた宿代を返した。「お嬢ちゃん、どうか無事でね」「ありがとうございます」来依は、そのまま歩き続けた。そして、ようやく一軒の伝統家屋を見つけた。個人経営で、一部屋のみ貸し出していた。宿泊記録をデータに残さず、契約書にサインするだけで済んだ。来依は、少し多めにお金を払った。外に出るのを極力避けたかったため、食事の準備も頼んだ。SNSの使用も控えた。幸い、会社はすでに軌道に乗っており、南ひとりでもなんとかなるはずだった。それが

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第848話

    窓も厳重に補強され、毎日巡回する見張りまでつけられていた。正面玄関も裏庭も、逃げ出す隙は一切ない。海人はベッドに横たわり、片手を頭の後ろに置いたまま、天井をぼんやりと見つめていた。晴美は、この機会に逃げるつもりだった。だが、失敗した。もっとも、彼女は海人ほど厳しく監視されているわけではなかった。とはいえ、この屋敷の厳戒態勢を突破するのは、彼女の能力では到底無理な話だった。さらに、警備員には菊池家から特別な指示が下されており、裏手の塀も完全に封鎖されていた。菊池家は本気だった。海人と来依を二度と接触させないために。海人が言い放った言葉を思い出すと、晴美は思わず鼻で笑った。――来依しかいない?幼い頃から一緒に育った自分ですら、彼をそんなに夢中にさせることはできなかったのに。来依と出会って、まだどれほどの時間が経ったというのか。何より許せないのは――海人は、冷静沈着な男だったはずなのに、来依のことで完全に理性を失っていることだった。それに、吉木も――結局、大したことのない男だった。せっかくチャンスを与えたのに、何もできなかった。だったら、彼女だけが不幸なのは納得できない。誰もかれも、道連れにしてやる。晴美は普段使っているスマホで適当な電話をかけ、周囲に誤解させるように見せかけた後、ベッドの下から古い携帯を取り出した。そして、真に重要な一本の電話をかけた。来依は、南の言葉を聞き、改めて決意した。――今回は、誰にも頼れない。誰かに助けを求めれば、必ず足がつく。海人なら、時間の問題で自分を見つけ出すだろう。パスポートで交通手段を利用するのも危険だった。飛行機も、新幹線も、列車も――どれも監視の目がある。だから、彼女は長距離バスを選んだ。目立たないように、スーツケースも持たず、黒いリュックひとつだけ。午男は、彼女が屋敷を出るのを確認すると、すぐに鷹へ報告した。鷹はそのメッセージを見て、隣にいた南に尋ねた。「来依のこと、何か知ってる?」「知らない」南は即座に遮った。鷹は笑った。「まだ何も聞いてないんだけど?」「何を聞かれても、私は知らない」鷹は頭を抱えた。彼は、南の隣に座り、肩を抱き寄せながら言った。「そのうち海人が解放される。来依が見つからなかったら

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第847話

    来依は、大きな門を出た瞬間、ようやく息を吐き出した。鼻先に滲んだ冷や汗を拭い、足早に大通りへ向かう。海人の家の背景については、以前から耳にしていた。だが――実際に目の当たりにすると、想像以上の衝撃だった。今になって改めて思う。――この別れは、正しかった。そして、決断が早かったことも、幸運だった。もし、海人との関係を続けていたら――いずれ、菊池家は彼女の命を奪いに来たはずだ。――ブーッ!突然のクラクションに、来依はビクリと肩を跳ねさせた。反射的に顔を向けると、運転席に座る午男の姿が目に入る。彼の顔を見た瞬間、乱れていた鼓動が少しずつ落ち着いた。「あんた、仕事で来たの?」「いいえ。迎えに来ました」来依は助手席に乗り込み、シートベルトを締めながら尋ねた。「服部社長の指示?」午男は頷いた。「河崎さん、しばらくご自宅には戻れません。荷物をまとめたら、私が麗景マンションまでお送りします」麗景マンション――来依の脳裏に、先ほどの菊池家での出来事がよぎる。「菊池家の動きを警戒して?」「ええ。あなたに何か仕掛けるにしても、鷹さんの縄張りでは慎重にならざるを得ないでしょう。「菊池社長は止められませんが……少なくとも、今は彼も身動きが取れません」午男の言葉に、来依は微かに眉を寄せた。麗景マンションに身を隠したところで、本当に安全なのか?海人が決意を変えない限り、菊池家が簡単に手を引くとは思えない。午男は、来依の沈んだ表情を横目で見て、慰めるように言った。「河崎さん、私もしばらく麗景マンションに滞在します。ご安心を」来依は、午男の言葉が気になったわけではなかった。だが、何をどう説明すればいいのか分からず、ただ頷いた。自宅に戻った来依は、簡単に荷物をまとめ、麗景マンションへ向かった。「部屋の準備は整っています」午男はスマートフォンを差し出しながら言った。「私の番号です。何かあれば、連絡を」来依は頷き、午男を見送ると、部屋のドアを閉めた。その瞬間、南からビデオ通話がかかってきた。「南ちゃん」「もう麗景マンションに着いた?」来依はベッドに身を投げ出し、スマホを枕元に立てた。「うん」南は、来依の顔色を見て、問いかけた。「……怖かった?」来依

  • 慌てて元旦那を高嶺の花に譲った後彼が狂った   第846話

    海人はすぐに反論した。「俺が何もしてないとでも?お前が神崎の祖母と親しいからこそ、わざわざ晴美を生かして、神崎と口裏を合わせる機会を作ってやったんだ。法律的にも、証言がなければ立件すらできない」晴美は驚かなかった。海人のやり方は、彼女もよく知っていた。それに、今さら驚いても仕方がない。彼女がすべきことはただ一つ。――機会を待つこと。そして、隙を見つけて国外へ逃げること。海人に捕まらなければ、命を取られなければ、まだ道はある。「河崎さん……海人くんを嫌いなのは分かるけど、だからって私を矢面に立たせるのはやめてくれませんか?同じ女性同士、もう少しフレンドリーにいきましょうよ?」来依は冷たく笑った。――私を陥れたとき、女性同士なんて言葉、思い出しもしなかったくせに。「吉木から全部聞いたわ。今さら演技なんて、無駄よ」海人も続けた。「晴美の顔を見たくないなら、いいだろう。神崎を呼べばいい。二人の証言が揃えば、罪に問える」来依は、晴美が刑務所に入ることを望んでいた。だが、吉木もまた、共犯者として扱われる可能性があった。晴美のことだから、自分だけが捕まる状況は絶対に作らない。彼は彼女に利用されただけかもしれないが、それでも、罪は罪だ。もし裁判になれば、彼も刑務所行きになってしまうかもしれない。そうなれば、吉木の祖母を誰が世話する?そして、何より――吉木の将来を潰したくなかった。「来依」海人はゆっくりとした口調で言った。「お前が俺と同じ側に立てば、そんな心配は不要だ。だが、そうでないなら……どうなるか、分かってるな?」――そうでないならつまり、彼女が海人と敵対するなら、吉木は確実に刑務所へ送られる。来依は、またしても自分の言葉のせいで墓穴を掘ったことを痛感した。本当は、晴美のことだけで話を終わらせたかったのに――うっかり、吉木まで巻き込んでしまった。「……権力を振りかざして、弱い者を脅すのがそんなに楽しい?」海人の顔が、さらに冷たくなった。「来依、俺を挑発するな」「それは、こっちのセリフよ」険悪な空気が張り詰める中、菊池の大旦那が立ち上がった。「海人、望むものを手に入れようとするのは構わん。が、人には心がある。力ずくでは、最後にはすべてを失うだけだ

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